慧永法師
慧永法師
西林法師慧永。河內潘氏。年十二出家。事沙門竺曇現。初習禪於恒山。與遠師同依安法師。期結宇羅浮。及遠師為安公所留。師乃欲先度五嶺。太元初至尋陽刺史陶範素挹道風。乃留憩廬山。舍宅為西林以奉師。布衣蔬食。精心克己。容甞含咲。語不傷物。峯頂別立茅室持往禪思。至其室者。常聞異香。因號香谷。一虎同居。人至輙驅去。遠師來之龍泉桓伊為立東林。三十年影不出山。師居西林。亦如之。甞因法事至近邑。還山薄暮烏橋營主醉騎馬當道遮師不聽去。師以杖指馬。馬驚走。營主仆地。師捧慰之遂還。營主病。往寺誨罪。師曰。非貧道意。為禱之。尋愈。鎮南將軍何無忌鎮尋陽。至虎溪。請遠公及師。遠公持名望。從徒百餘。高言華論。舉止可觀。師衲衣半脛。荷錫捉鉢。松下飄然而至。無忌謂眾曰。永公清散之風。乃多於遠師也。師標誠植願。動在安養。義熈十年在疾。忽斂衣求屣欲起。眾驚問。師曰。佛來也。言終而化。異香七日。方歇葬于寺之西南。春秋八十三。唐玄宗朝。詔重建塔亭。追諡覺寂大師實智之塔。
西林寺の法師・慧永は、河内郡潘氏の出身である。十二歳で出家し、沙門の竺曇現に師事した。初めは恒山で禅を学び、遠師(慧遠)と共に安法師(道安)に従った。二人は羅浮山に庵を結ぶことを約束していたが、遠師が安法師に引き留められたため、慧永師は一人でまず五嶺を越えようとした。
太元(376-396)の初め、尋陽に至ったとき、刺史の陶範はかねてよりその道風に敬服しており、師を留めて廬山に住まわせた。自らの邸宅を西林寺として師に捧げたのである。師は木綿の衣をまとい、粗食をとり、心を清めて克己し、常に笑みをたたえ、言葉は穏やかで人を傷つけることがなかった。
山頂には別に茅室を建て、そこにこもって禅の思惟に励んだ。その室を訪れる者は、常に異香を嗅いだという。そのため、その地は「香谷」と呼ばれるようになった。一頭の虎が共に住んでいたが、人が来るとすぐに追い払われた。
遠師が龍泉に来たとき、桓伊が東林寺を建立した。遠師は三十年間、山から一歩も出なかったが、慧永師も西林寺にあって同じようにした。
ある時、法事のため近くの町に出向き、夕暮れに山へ戻る途中、烏橋の営主が酔って馬に乗り、道を塞いで師の通行を妨げた。師が杖で馬を指すと、馬は驚いて逃げ出し、営主は地面に倒れた。師は彼を抱き起こして慰め、そのまま帰って行った。その後、営主は病に倒れ、寺に来て罪を悔いた。師は「それは私の意図したことではない」と言い、彼のために祈ったところ、すぐに病は癒えた。
鎮南将軍の何無忌が尋陽を鎮めていた時、虎溪まで来て、遠公と慧永師を招いた。遠公は名声と風格があり、百余りの弟子を従え、言葉は高邁で華やかであり、挙措も立派であった。一方、慧永師は衲衣を半ば脛までまとい、錫杖と鉢を手にして、松の下からひらりと風のように現れた。無忌は人々に言った。「永公の清らかで散るような風格は、遠師に勝るとも劣らない」
師は真心を尽くし願いを立て、常に安楽浄土に思いを馳せていた。義熙十年(414年)、病に臥したある時、突然衣を整え履物を求めて起き上がろうとした。驚いた弟子たちが問うと、師は言った。「仏が来られた」その言葉を最後に、師は入滅した。異香は七日間も漂い、ようやくやんだ。寺の西南に葬られた。春秋八十三であった。
唐の玄宗皇帝の朝、詔によって塔と亭が再建され、「覚寂大師実智之塔」と追諡された。