その時、金剛蔵菩薩摩訶薩は、螺髻梵に告げて言った。
「天よ、知るべきである。 八種・九種の心は、常に無明と共に転じ、 あらゆる世を生み出す。すべては心と心のはたらきの顕れである。 それらが流転するからこそ、諸々の識や根が存在する。 無明によって変異しても、本来の心は堅固に動かない。 世間や根・境は、すべて十二支(十二因縁)から生じる。 生じるものも生じられるものも、刹那のうちに壊れ去る。 梵天から非想非非想処に至るまで、すべて因縁による。 ただ、天中の天(仏)のみが、作ると作られるもの(能作・所作)を離れる。 有情も無情も、動くものも動かないものも、 すべて瓶などのように、壊れゆくことが本性である。 天よ、知るべきである。諸々の識は極めて微細で、 移り変わり速やかである。これは仏の境界である。 仙人たちや外道は、みずから牟尼(聖者)と称しながら、 言葉で互いに縛り合い、様々な色に貪着する。 この生滅する識について、彼らはまったく知ることができない。 仮に千年の間、四つのヴェーダを思惟し、 布施を行って梵天に生まれても、やがて退落する。 あるいは四月の苦行や、祭祀によって得る果報、 あるいは異なる壇を修め、火を祀って求める福、 あるいは三趣の法を修め、羊を屠り祈っても、 得た果報はやがて退く。梵王よ、なぜ悟らないのか? 三徳(サーンキヤ哲学の三つのグナ)の果報は束縛に属し、芭蕉のように堅固ではない。 ただ智慧によって解脱し、密厳土に生まれるのである。 禅定を修める者はこの境を証して、初めてかの宮殿に至る。 ゆえに大梵天よ、よく修習すべきである。 密厳の中の人には、生死の眷属はない。 一切の有情の識は、断たれもせず、壊れもしない。 諸々の業に染着することなく、また染汚の熏習もない。 蓮華が水に着かず、虚空が塵に染まらないように、 日月に雲翳がないように、瑜伽行者もまたそうである。 速やかにこの観行を修めよ。如来が摂持し、 浄戒の流れに沐し、智慧の液を飲ませる。 優れた戒と智慧を修めることで、生死から解脱する。 天よ、知るべきである。有情の蘊・処・界は、 様々な法が集まって成り、すべて無所有である。 眼と色などの因縁によって、識が生じる。 火が薪によって燃え盛るように、識の生起もまた同じである。 境は妄心に随って転じ、鉄が磁石に従うようである。 乾闥婆城や陽炎のように、愚かで渇した者が取るもの。 その中に作り主はなく、ただ心に随って変異する。 また乾闥婆城の人のように、往来もみな実ではない。 衆生の身もまた同じ、進み止まりもすべて真実ではない。 夢の中で見たものが、覚めた後には無いように、 妄見の蘊などの法も、覚れば本来寂然である。 四大の微塵の集まりは、心を離れては得られない。 世間で持つことのできる物で、四大でないものがあろうか。 例えば、風病の縁によって、様々な境が見えるように、 屍が動くのに作者がないように、世間の法もまたそうである。 あなたがた仏子よ、よく観察すべきである。 世間の動くもの・植わるものは、水の泡の集まりのよう。 瓶や衣などの妄想は、陽炎のように実ではない。 苦楽などの諸々の受は、水の上の泡にたとえられる。 様々な行(心のはたらき)は芭蕉のようで、中には堅固なものがない。 その識は幻事のようで、虚偽でありすべて真実ではない。 三界の中の、動くものも動かないものも、 すべては夢の境と同じで、迷心が顕すものである。 また幻化の事や、乾闥婆城のように、 愚か者を欺くばかりで、初めから真実はない。 仏子よ、この法を覚れば、その心に恐れることはない。 智慧の火が諸々の患いを焼き尽くし、即座に密厳国に生まれる。 世間はすべて無相である。相は束縛されるものである。 無相こそ吉祥である。相と心の境界、 心の境界は真実ではない。真実は智慧の境界である。 衆相を遠く離れ、慈悲の行ない、 無相はすべてに遍く、三界はことごとく清浄である。 色や声などの衆相を、三界の法と名づける。 すべての根と境は、有情を縛る因である。 智慧によって解脱し、安楽にして自在となる。」
その時、宝髻菩薩は、殊妙なる座に坐り、 金剛蔵に向かって、こう言った。
「無数の刹土に遍く、尊者は上首である。 最勝の妙智を成就し、知られるべき法を了達し、 無量の悉檀(論義)を、すべて明らかに見ている。 今、修行の衆の中で、彼らの疑いを清めることができる。 有情の身を覚察し、一切の根本の生起を、 妙音で演説すれば、窮劫尽きることがない。 どうか、会衆のために、逆順を離れた、 似たもの・似ざるものなどの因、および真実の法を説き、 これらの智者たちの心を清め、疑いなからしめ、 諸蘊の因を捨て、遠からず解脱を得させてほしい。 蘊の因となる法と非法が、この身と後の身を生む。 智慧は苦を脱することができ、受は堅固な束縛となる。 有情の心が生じるのは、色および明、 作意などの多くの縁によって、諸境に馳散する。 その速やかさは奔電のようで、覚知し難い。 無明と愛と業によって、濁乱される。 諸法は意を先導とし、意は速く、意は殊勝である。 法は意と相応し、すべて意を本性とする。 例えば摩尼宝が、様々な彩りを顕すように。 このような妙義を、仏子よ、なぜ説かないのか? 様々な色の摩尼が、色に随って顕れるように、 尊者は瑜伽の者の中で、照らし輝くこともまた同じである。 如来の像を具足し、常に自在の宮殿に住み、 仏子たちに囲まれて、機に応じて説かれるべきである。」
その時、金剛蔵菩薩摩訶薩、 法に自在なる者は、再び大衆に告げて言った。
「密厳の微妙な土は、最も勝れた寂静である。 またこれこそ大涅槃、解脱、清浄なる法界であり、 また妙智の境、および大神通であり、 諸々の観行を修める者の、依りどころとなる妙なる刹土である。 断たれることも境となることもなく、常住にして変易がない。 水も濡らすことができず、風も乾かすことができない。 瓶などの体のように、勤勇によって成り壊れるものではない。 似たる・似ざる因の、二種によって成立したものではない。 立宗や諸分(因明の命題や構成要素)は、いずれも不定の法である。 宗と因とによって、それぞれが異なって執着するからである。 密厳の微妙な刹土は、その体は転依した識であり、 分別心を超え、妄情の境界ではない。 如来の密厳刹土は、終わりもなく始まりもない。 微塵の自性によるのでもなく、楽欲によるのでもなく、 大自在天の作るのでもなく、無明や愛・業によるのでもない。 ただ、無功用の妙智によって生じる。 欲界・色界・無色界を出離し、無想の暗い網を超える。 密厳の微妙な土は、阿若悉檀(最初の真理)である。 諸々の因明(論理学)の者が量る境界ではなく、 勝性(プラクリティ)や自在天、声論、 およびヴェーダなどの宗派によって開顕できるものではない。 さらには資糧位の智慧でも了知できない。 ただ、如来および十地の智慧の境である。 尊者よ、今、よく聞け。愚夫は世間に迷う。 業と非業のために、私は今、この義を演説する。 勝れた禅定を修める者に、安楽を得させんがためである。 内外の一切の物は、見えるものは唯だ自心である。 有情の心には二つの性があり、能取と所取である。 心の体には二つの門があり、心そのものが様々な物を見る。 凡夫の性は迷っており、自己を了知できない。 瓶が色相を現すように、体はなく唯だ自心である。 羸弱な定や仙人たちは、この義に惑乱し、 真理を捨てて、分別の道を歩む。 この心には二つの性があり、鏡像や月影のようである。 目に翳りがあるように、妄りに毛輪(毛の輪)を見る。 空中に毛輪はなく、珠や瓔珞もないはずである。 ただ病んだ翳りのある眼から、そのように顕れる。 虚妄に計着する者は、覚らずして常に執取し、 様々な荘厳、種々の梵天などの相を広く現す。 一切の有情、および瓶や衣など、 内外の様々な事柄は、すべて心から起こる。 この密厳の妙なる定は、他の者にはないものである。 もし修行する者があれば、衆福の地に生まれる。 あるいは欲界の自在天に生まれ、あるいは色界の天に、 さらには無想の宮殿、色究竟天の処に、 空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処に、 様々な宮殿に、徐々に貪欲を除き、 遠からずして、密厳の観行の宮殿に生まれる。 多くの仏子に囲まれ、自在に遊戯する。 あなたはこの定を修めるべきである。どうして親族に執着するのか? 親族は常に束縛であり、輪廻生死の因である。 男女の意は惑乱し、精血が和合する。 虫が泥から生まれるように、この中に生まれるのも同じである。 九月あるいは十月、その体は徐々に成長する。 時至りて胎を出れば、例えば虫が蠕くようである。 これより成長して、ついには心が了知するようになる。 私は諸々の有情を見る。生生(生まれるたび)にすべてこのようである。 父母は無数であり、妻子もまた同じ。 諸々の世間において、至らないところはない。 例えば、あの石女が、夢に忽ち子を産み、 産んですぐに喜び、やがてその子が死ぬのを見て、 悲しみに堪えない。しかし忽然と夢から覚めれば、 その子は見えず、初めの生も後の終わりもない。 また、山川、城邑、園苑を夢に見、 すべての境界を、世間と共に受用し、 互いに見合い、馳せ巡り往来し、 運転・屈伸の、無量の境界がある。 そして夢から覚めれば、すべては非有である。 また多欲の者が、女を夢に見る。 顔貌は極めて端麗で、服や玩物はすべて珍しい綺羅。 様々に楽しみ戯れ、覚めればすべて無い。 一切の諸々の世間も、また同じと知るべきである。 王位や従者、父母などの親族は、 ただ愚か者を欺くだけで、その体性はすべて実ではない。 あなたは三摩地において、なぜ勤修しないのか? 無量の声聞、独覚、および菩薩は、 山間や樹下に住み、寂静の地で禅を修める。 摩羅耶山・乳海、頻陀・婆利師、 摩醯因陀羅山、鶏羅雪山などに住し、 あるいは円生樹に止まり、あるいは嬌微那に住し、 須弥山の半腹に処し、あるいは如意樹に休息し、 絆住(とどまり)、剣摩羅に於いて静かに坐し、 あるいは贍部果(樹上の果実)を食べ、甘露の味を飲み、 諸々の神通を具足し、常にこの観を修める。 過去・未来の世に、蓮華の台に坐し、 結跏趺坐して等引に入り、このように常に観察する。 諸根をよく摂するゆえに、一切の境に散乱しない。 鉤で象を制するように、禅定に住することもまた同じである。 世間、あるいは出世の、一切の諸々の他の定がある。 仏の定は清浄にして垢がなく、貪愛をことごとく除き去る。 遍愛・無色定・無想などの禅の中では、 月日の形、蓮花と深い險難、 虚空や火の種々の色を見る。邪定は究竟ではない。 そのような相を払い除け、清浄にして無分別を得れば、 すると無数の刹土の、諸仏が等引に住するのを見る。 同時に手を差し伸べ、水を頂上に注ぎ、 即座に仏地に入り、多くの色形を現す。 種々の身を得れば、さらに薩婆若(一切智)を具える。 力・神通・自在、正定・陀羅尼、 これらの功徳を、ことごとく成就する。 諸々の色を分析し、極微に至るまで観ずれば、 自性は無所有で、例えば兎の角のようである。 部分なく分別なく、蘊も蘊があることも同じ。 幻の所作と同じく、すべてこのようである。 この中に業果はなく、また業を行う人もない。 世間を作る能作者もない。もし作られるものと作るものがあるならば、 「作るもの」は「作られるもの」を待つ。何をもって「作るもの」と呼べようか? この言葉は過患を成す。「作者は清浄である」と言い、 「我」は諸々の境を成す。地輪は水輪に依り、 また有情の世間も、次第に安布される。 諸趣は各々差別があり、互いに往来する。 事において諸根を起こし、境を取ることができる。 これらは「我」によるものではなく、すべては分別による。 展転して変異し、乳・酪・酥と同じである。 このように生・住・滅し、業と非業とを計る。 定者は常にこれを観よ。乾闥婆城や夢のようである。 無始以来の戲論が、有情を熏習し、 種々の過ちによって、分別の業を生じる。 諸根は幻のようで、境界は夢と同じ。 能作と所作の業を、定者は遠く離れる。 悪しき覚観(考え)の微劣な者は、迷って妄計を生じ、 能作者を分別し、一切の世間とする。 あるいは摩尼の珠、金銀などの鉱石、 鳥獣の色の差別、針先の鋭さなど、 これらはみな異なる。作者が無いと知るべきである。 世間の相の差別は、すべて分別から生じる。 勝性や微塵、無因や自然などは、 悪しき覚観の者が妄計するもので、その体性を知らない。 業のためか非業のためか、このように分別を起こす。 毒が乳の中にあるように、変化に随って相応する。 あらゆる所で分別される。諸法もまた同じである。 この性は生まれもせず、この性は滅しもしない。 迷う者は了知できず、種々に異なって分別する。 世間はただの積集である。定者だけがそれを観ることができる。 あなたがたは勤修すべきである。無思にして業・非業である。 有情は互いに往来する。日月が巡るように、 虚空に依る所なく、風に随って運転する。 業の本性は極めて微かに隠れている。密厳の者はそれを見る。 諸々の勝れた観行を修めれば、業に繋縛されることはない。 火が長く燃え続けて薪を灰燼とするように、 智慧の火が業の薪を焼き尽くす。これもまた同じと知るべきである。 また灯が闇を破るように、一念のうちに余す所なく尽きる。 諸々の業の習気の暗闇、無始以来の熏習の集まりも、 牟尼の智慧の灯が起これば、刹那に一挙に滅する。」