攝大乘論釋卷第一
摂大乗論釈 巻第一
世親菩薩造
世親菩薩による
三藏法師玄奘奉 詔譯
三蔵法師玄奘奉詔訳
總標綱要分第一
総標綱要 第一
諸破所知障翳暗, 盡其所有如所有,
諸法真俗理影中, 妄執競興於異見。
斯由永離諸分別, 無垢清淨智光明,
獲得最勝三菩提, 惑障并習斷常住,
能無功用於十方, 隨諸有情意所樂,
開示殊勝極廣大, 三種解脫等方便。
由無分別有大悲, 生死涅槃俱不住,
由攝妙慧巧方便, 究竟至極自他利。
如是世尊等所覺, 等所開示微妙法,
若能於此善修行, 必獲寂然甘露迹。
誹謗決定沒無底, 甚久無能大苦海,
學無學僧居道果, 普勝一切所餘僧。
善逝無垢功德河, 真實於中而沐浴,
為世無上良福田, 雖復投於微少善,
而便廣大如地空, 慧者由斯得解脫,
故我至誠身語思, 頻修無倒歸命禮。
軌範諸師今減少, 真法正理多渾濁,
皆由聰叡邪慢人, 依自尋思失教證。
我師於此非前後, 逢事聖者大慈尊,
依止無動出世間, 放大法光三摩地,
闡揚妙法流清譽, 如日舒光遍十方,
文光無垢最甚深, 諸了義經所隨順。
廣大句義皆微妙, 悉以綺飾自莊嚴,
能令聰敏者融心, 無諂無憍生愛敬,
極難通法慧無滯, 不住利養稱譽中,
於樂常無染著心, 故名決定稱自德。
諸賢聖者常親近, 一切世間無不知,
無著名稱普皆聞, 功德顯然同所讚。
無盡辯者等所雨, 甘露文義微妙法,
多從彼聞自力微, 少受猶如乞雨鳥。
從廣決擇集少分, 以言略釋攝大乘,
願此所作遍饒益, 怖於極大文海者。
すべての知の障りを破り、闇を払い、 あるがままのすべてを尽くし、あるべきすべてを悟る。 諸法の真実と世俗の理の影のなかで、 妄執は異なる見解を競い起こす。
これらはすべての分別を永遠に離れ、 垢なき清浄なる智慧の光によって、 最勝の三菩提を得、 煩悩の障りとその習気を断ち、常住となる。 十方において無造作に働き、 あらゆる有情の心の望むままに、 殊勝で極めて広大なる、 三種の解脱などの方便を開示する。
無分別によって大悲を起こし、 生死にも涅槃にも住することなく、 妙なる智慧と巧みな方便を摂し、 究極の自利利他を成就する。
かくのごとく世尊の等しく覚られ、 等しく開示された微妙なる法を、 もしここに善く修行するならば、 必ずや寂然たる甘露の境地を得る。
誹謗すれば必ず底なき、 久遠の大いなる苦の海に沈み、 学び無学の僧は道果に住し、 すべての他の僧に勝る。
善逝の無垢なる功徳の河に、 真実のうちに沐浴し、 世の無上の良き福田となり、 たとえわずかな善を投じても、 大地や虚空のように広大となり、 智慧ある者はこれによって解脱を得る。 故に私は至誠の身・語・意をもって、 たゆみなく倒れざる帰命礼を修する。
今や規範となる師は少なくなり、 真の法と正しい理は多く濁る。 すべては聡明なる慢心の者たちが、 自らの思惟に依り、教えと証しを失うため。
わが師はこの世において前後なく、 聖なる大慈尊に逢い仕え、 動かざる出世間を依りどころとし、 大いなる法の光を放つ三昧に入り、 妙なる法を闡揚して清らかな誉れを流し、 日の光が十方に広がるがごとし。 文の光は無垢で最も深く、 すべての了義経に随順する。
広大なる句義は皆微妙で、 すべてを美しく飾り自らを荘厳し、 聡明な者の心を融和させ、 偽りなく、驕りなく、敬愛を生ぜしめる。 極めて難解なる法も智慧に滞ることなく、 利養や称誉にとどまることなく、 楽しみにも常に染着する心なく、 故に自らの徳を決定して称えられる。
諸々の賢聖は常に親近し、 すべての世間に知られざるなく、 名に執着せず広く聞こえ、 功徳は明らかにすべての賛嘆と同じ。
尽きることなき弁才の雨のごとく、 甘露の文義と微妙なる法を、 多くは彼より聞くも自力は微かで、 わずかに受けるは雨乞いの鳥のごとし。
広く決択して集めたる少分を、 言葉をもって略し、大乗を摂めん。 願わくはこの所作が広く饒益し、 極大なる文の海を怖れる者をも救わんことを。
論曰:阿毘達磨大乘經中,薄伽梵前,已能善入大乘菩薩,為顯大乘體大故說。謂依大乘,諸佛世尊有十相殊勝殊勝語。
論に曰く、『阿毘達磨大乗経』において、薄伽梵(仏陀)の御前にあって、すでに大乗へと善く入った菩薩が、大乗の本体の偉大さを明らかにするために説いた。すなわち、大乗に依って、諸仏世尊には十種の相において殊勝なる殊勝なる言葉がある。
釋曰:依止何義?從何所因而作是說?廣博所知深大法性,若離諸佛菩薩威力,誰於此中能造釋論?復由何義於此論初說如是事由?若離舉阿毘達磨大乘經言,則不了知論是聖教,為此義故。又為顯經名,如言十地經,故說如是阿毘達磨大乘經言。復有餘義,為顯彼經是聖教故,初說如是阿毘達磨大乘經言。今造此論有所用者,為欲開曉無知者故。為顯法門別名故舉阿毘達磨,為顯通名故舉經言,為簡聲聞阿毘達磨復舉大乘。由今亦有非聖所說阿毘達磨,如現有人自尋思慧,謂是佛說阿毘達磨、或聲聞說、或世智造。又言大乘素怛纜者,為欲顯示異聲聞等,為欲顯示菩薩藏攝故,復舉其阿毘達磨。又藏攝者,謂入自宗素怛纜藏,現滅自惑。毘奈耶藏,即大乘中菩薩煩惱,以諸菩薩種種分別為煩惱故。不違最勝阿毘達磨,廣大甚深為其相故。
釈します:何の意味に依拠しているのか?どのような理由からこのように説いているのか?広大で深遠なる法の性質は、もし諸仏や菩薩の威力がなければ、誰がこれについて注釈書を著すことができようか?また、どのような理由でこの論の冒頭にこのような事柄を述べているのか?もし『阿毘達磨大乗経』の言葉を挙げなければ、この論が聖なる教えであると理解できないため、この意味で述べているのである。また、経典の名称を明らかにするため、例えば『十地経』のように、このように『阿毘達磨大乗経』の言葉を説いているのである。さらに別の意味として、その経典が聖なる教えであることを示すために、冒頭でこのように『阿毘達磨大乗経』の言葉を述べているのである。
今、この論を著すことに意味があるのは、無知な者を啓発するためである。法門の別名を示すために『阿毘達磨』を挙げ、通称を示すために『経』の言葉を挙げ、声聞の阿毘達磨と区別するために『大乗』を挙げている。現在も聖者でない者が説いた阿毘達磨があるからである。例えば、自ら思索した智慧を仏が説いた阿毘達磨だとか、声聞が説いたものだとか、世間の智者が作ったものだと思い込む者がいる。また『大乗素怛纜』と言うのは、声聞などの教えと異なることを示し、菩薩の教蔵に含まれることを示すためである。そのため、再び『阿毘達磨』を挙げているのである。
また、蔵に含まれるとは、自宗の素怛纜蔵に入り、自らの煩悩を滅することである。毘奈耶蔵とは、つまり大乗における菩薩の煩悩であり、菩薩たちの様々な分別が煩悩となるからである。最勝の阿毘達磨に背かず、広大で甚深なることをその特徴とするのである。
此中三藏者,一素怛纜藏、二毘奈耶藏、三阿毘達磨藏。如是三藏,下乘上乘有差別故,則成二藏:一聲聞藏、二菩薩藏。此三及二,何緣名藏?由能攝故,謂攝一切所應知義。
復由何緣建立三藏?由九種緣,謂為對治疑惑立素怛纜藏,若於彼彼義中有疑惑者,即為決定宣說彼彼義故;為對治二邊受用立毘奈耶藏,謂遮有罪著欲樂邊受用故,及開無罪不自苦邊受用故;為對治自見取執立阿毘達磨藏,顯照諸法無倒相故。又能說三學故立素怛纜藏;能成辦增上戒、增上心故立毘奈耶藏,謂具尸羅即無悔等,漸次能得三摩地故;能成辦增上慧故立阿毘達磨藏,謂能決擇無倒義故。又能說法義故立素怛纜藏;能成滿法義故立毘奈耶藏,謂為調伏煩惱勤修行者便於此二能通達故;能於法義決擇善巧故立阿毘達磨藏。由此九緣許立三藏。又此皆為解脫生死。此復云何能得解脫?熏、覺、寂、通,故得解脫。謂由聞熏習心故、由思覺悟故、由修奢摩他寂靜故、由證毘鉢舍那通達故,能得解脫。又若略說,此素怛纜、毘奈耶、阿毘達磨藏各有四義,菩薩於此若具了知,則能證得一切智性;聲聞於此雖但解了一伽他義,亦得漏盡。云何此三各有四義?謂能貫穿,依故、相故、法故、義故,名素怛纜。此中依者,謂於是處由此為此而有所說。相者,謂世俗諦相、勝義諦相。法者,謂蘊、界、處、緣起、諦、食、靜慮、無量、無色、解脫、勝處、遍處、菩提分、無礙解、無諍等。義者,謂隨密意。對故、數故、伏故、通故,應知名阿毘達磨。謂阿毘達磨亦名對法,此法對向無住涅槃,能說諦、菩提分、解脫門等故。阿毘達磨亦名數法,於一一法數數宣說訓釋言詞、自相共相等無量差別故。阿毘達磨亦名伏法,由此具足論處所等,能勝伏他論故。阿毘達磨亦名通法,由此能釋通素怛纜義故。犯罪故、等起故、還淨故、出離故,應知名毘奈耶。此中犯罪者,謂五眾罪。等起者,謂無知故、放逸故、煩惱盛故、不尊敬故而犯諸罪。還淨者,謂由意樂不由治罰,如受律儀。出離者,有七種:一各各相對說悔所犯;二誓受治罰,謂授學等;三等有妨害,先制學處,後由異門還復開許;四別更止息,謂僧和合還捨所制;五轉依,謂苾芻苾芻尼轉男女形故捨不共罪;六由真實觀,謂作殊勝法嗢柁南諸行相觀;七由法爾得,謂由見諦法爾,得無小隨小罪。應知毘奈耶復有四義:一補特伽羅故:世尊依彼制所學處。二制立故,謂告曰:彼補特伽羅所犯過已,大師集僧制所學處。三分別故,謂制學處已,更廣解釋先所略說。四決擇故,謂於此中決判所犯,云何有罪、云何無罪。
また、何の縁によって三蔵が立てられるのでしょうか。九つの縁によってです。すなわち、疑惑を対治するためにスートラ蔵(経蔵)が立てられます。もしあれこれの義について疑惑があるならば、そのあれこれの義を決定して説くからです。二辺の受用を対治するためにヴィナヤ蔵(律蔵)が立てられます。すなわち、罪のある欲楽の辺に執着する受用を遮り、罪のない自ら苦しむ辺の受用を開くからです。自らの見解に執着することを対治するためにアビダルマ蔵(論蔵)が立てられます。諸法の倒れない相を明らかに照らすからです。
また、三学を説くことができるからスートラ蔵が立てられます。増上戒と増上心を成し遂げることができるからヴィナヤ蔵が立てられます。すなわち、戒律を具えれば悔いがなくなり、次第に三昧を得ることができるからです。増上慧を成し遂げることができるからアビダルマ蔵が立てられます。すなわち、倒れない義を決択することができるからです。
また、法と義を説くことができるからスートラ蔵が立てられます。法と義を成満することができるからヴィナヤ蔵が立てられます。すなわち、煩悩を調伏するために勤しく修行する者は、この二つについて通達することができるからです。法と義について決択し善巧であることができるからアビダルマ蔵が立てられます。この九つの縁によって三蔵の建立が認められます。
また、これらはすべて生死からの解脱のためです。では、どうして解脱を得ることができるのでしょうか。薫・覚・寂・通によって解脱を得るのです。すなわち、聞くことによる薫習心によって、思うことによる覚悟によって、修することによる奢摩他(止)の寂静によって、証することによる毘鉢舎那(観)の通達によって、解脱を得ることができるのです。
また、もし略して言えば、このスートラ、ヴィナヤ、アビダルマの蔵にはそれぞれ四つの意義があり、菩薩がこれについて完全に知れば、一切智性を証得することができます。声聞はこれについてたとえ一つの偈の意義だけを理解しても、漏尽を得ることができます。
この三つがそれぞれ四つの意義を持つとはどういうことでしょうか。貫くことができるから、依・相・法・義によって、スートラと呼ばれます。ここで依とは、あるところでこれによってこれのために説かれることをいいます。相とは、世俗諦の相と勝義諦の相をいいます。法とは、蘊・界・処・縁起・諦・食・静慮・無量・無色・解脱・勝処・遍処・菩提分・無礙解・無諍などをいいます。義とは、密意に随うことをいいます。
対・数・伏・通によって、アビダルマと知るべきです。すなわち、アビダルマはまた対法とも呼ばれ、この法は無住涅槃に向かい、諦・菩提分・解脱門などを説くことができるからです。アビダルマはまた数法とも呼ばれ、一つ一つの法について数数に宣説し訓釈の言葉、自相・共相などの無量の差別を説くからです。アビダルマはまた伏法とも呼ばれ、これによって論処所などを具足し、他論に勝伏することができるからです。アビダルマはまた通法とも呼ばれ、これによってスートラの義を通じさせることができるからです。
犯罪・等起・還浄・出離によって、ヴィナヤと知るべきです。ここで犯罪とは、五衆の罪をいいます。等起とは、無知・放逸・煩悩の盛んなこと・尊敬しないことによって諸々の罪を犯すことをいいます。還浄とは、意楽によってであって治罰によるのでなく、律儀を受けるようにすることをいいます。出離とは七つあります。一、各々相対して犯したことを悔い説くこと。二、治罰を受けることを誓うこと、すなわち授学など。三、妨害がある場合、先に学処を制した後、異なる門によって再び開許すること。四、別に止息すること、すなわち僧が和合して制したことを捨てること。五、転依すること、すなわち比丘・比丘尼が男女の形を転ずることで不共の罪を捨てること。六、真実観によること、すなわち殊勝な法のウダーナ(自説)の諸行相を観ずること。七、法爾によって得ること、すなわち諦を見ることによって法爾として小随小の罪さえもなくなること。
ヴィナヤにはさらに四つの意義があることを知るべきです。一、補特伽羅(個人)のためです。世尊はそれに依って学処を制されました。二、制立のためです。すなわち、その補特伽羅が過ちを犯したことを告げ、大師が僧を集めて学処を制されました。三、分別のためです。すなわち、学処を制した後、さらに先に略説したことを広く解釈します。四、決択のためです。すなわち、ここにおいて犯したことを判決し、どういう場合に罪があり、どういう場合に罪がないかを決するのです。
今當釋本文。薄伽梵前者,顯有所敬,故無異言。善入大乘者,是由已得陀羅尼等勝功德義,顯已得此諸功德故,於義於文能正任持、能正開示,如是名菩薩。為何義故說?為顯大乘體大故說。所言顯者,開發大乘實有大體。依大乘者,依止大乘而起所說。有十相殊勝殊勝語者,謂即由彼十種殊勝所殊勝語,名十相殊勝殊勝語。此殊勝言是差別義,兩互相待,如言此義殊勝於彼。又最上義是殊勝義。或是異類謂義,因殊勝故,語果是殊勝。今當說此十種別相。
ここに本文を解釈します。
「薄伽梵前」とは、尊敬すべき対象を明らかにし、異なる言葉はないことを示しています。
「善入大乗」とは、すでに陀羅尼などの優れた功徳を得たことによる意味であり、これらの功徳を得たことを明らかにするので、意味においても文においても正しく保持し、正しく開示することができる。このような者を菩薩といいます。
何のために説くのか。大乗の本体が大きいことを明らかにするために説くのです。
「顕」というのは、大乗の実在する大きな本体を開発することです。
「依大乗」とは、大乗に依りどって説き起こされることを指します。
「十相殊勝殊勝語」とは、すなわちその十種の殊勝によって殊勝された言葉をいい、十相殊勝殊勝語と名づけます。
この「殊勝」という言葉は差別の意味であり、互いに相対する関係にあります。たとえば「この義はあれよりも殊勝である」というように。
また、最上の義が殊勝の義です。あるいは異なる類の義であり、原因が殊勝であるから、結果として言葉も殊勝となるのです。
ここにこの十種の別相を説きましょう。
論曰:一者所知依殊勝殊勝語、二者所知相殊勝殊勝語、三者入所知相殊勝殊勝語、四者彼入因果殊勝殊勝語、五者彼因果修差別殊勝殊勝語、六者即於如是修差別中增上戒殊勝殊勝語、七者即於此中增上心殊勝殊勝語、八者即於此中增上慧殊勝殊勝語、九者彼果斷殊勝殊勝語、十者彼果智殊勝殊勝語。由此所說諸佛世尊契經諸句,顯於大乘真是佛語。
論に曰く、第一に、知るべきよりどころのすぐれた教え。第二に、知るべき相のすぐれた教え。第三に、知るべき相に入るすぐれた教え。第四に、その入る因果のすぐれた教え。第五に、その因果の修行の差別のすぐれた教え。第六に、その修行の差別における戒のすぐれた教え。第七に、その中における心のすぐれた教え。第八に、その中における慧のすぐれた教え。第九に、その果としての断のすぐれた教え。第十に、その果としての智のすぐれた教え。これらによって説かれる諸仏世尊の経典の言葉は、大乗がまことの仏の教えであることを明らかにしている。
釋曰:此中所知依殊勝殊勝語者,所應可知故名所知,所謂雜染清淨諸法即三自性。依是因義,此所知依即是殊勝,故名所知依殊勝,由此殊勝故語殊勝。此依即是阿賴耶識,如是持業釋,乃至彼果智殊勝亦爾,謂彼果智即是殊勝,故名彼果智殊勝等。所知相者,是所知自性義。所知即是相,故名所知相,謂三自性。入所知相者,謂於所知相若能入若正入,即唯識性。彼入因果者,謂能入彼,故名彼入,即是悟入唯識理性。因,謂加行時世間施等波羅蜜多。果,謂通達時出世施等波羅蜜多。彼因果修差別者,即彼因果,故名彼因果,即於此中修之差別。修謂數習,即此數習於諸地中展轉殊勝,故名差別,即是十地。即於如是修差別中增上戒者,謂十地中依戒而學,故名增上戒,即諸菩薩所有律儀,於諸不善無復作心。增上心者,謂在內心或即依心而學,故名增上心,即諸三摩地。增上慧者,謂趣證慧故名增上慧,或依慧而學故名增上慧,即是無分別智。斷殊勝者,謂最勝品別,自內棄捨煩惱及所知障,即是無住涅槃。智殊勝殊勝語者,謂無障智名智殊勝,彼無分別智有所對治;今此佛智已離一切障及隨眠,是名於彼無分別智佛智殊勝。
論曰:復次云何能顯?由此所說十處,於聲聞乘曾不見說,唯大乘中處處見說,謂阿賴耶識,說名所知依體。三種自性:一依他起自性、二遍計所執自性、三圓成實自性,說名所知相體。唯識性,說名入所知相體。六波羅蜜多,說名彼入因果體。菩薩十地,說名彼因果修差別體。菩薩律儀,說名此中增上戒體。首楞伽摩、虛空藏等諸三摩地,說名此中增上心體。無分別智,說名此中增上慧體。無住涅槃,說名彼果斷體。三種佛身,一自性身、二受用身、三變化身,說名彼果智體。由此所說十處,顯於大乘異聲聞乘,又顯最勝世尊但為菩薩宣說,是故應知但依大乘,諸佛世尊有十行相殊勝殊勝語。
釋曰:云何能顯者,是問何緣義。六波羅蜜多說名彼入因果體者,謂由唯識性入三自性時,世間施等波羅蜜多名清淨因,由能引發出世間故。入地已去,即彼施等波羅蜜多成出世間,名清淨果。菩薩十地說名彼因果修差別體者,謂菩薩十地,是前所說波羅蜜多因果二位修差別性。無分別智說名此中增上慧體者,若諸聲聞離四顛倒分別,名無分別;若諸菩薩離一切法分別,名無分別,二無分別差別如是。無住涅槃說名彼果斷體者,謂三學果,故名彼果。彼果即斷,名彼果斷。此性名為彼果斷體,即是煩惱、所知二障斷義。三種佛身說名彼果智體者,彼三學果故名彼果,彼果即智名彼果智,此性名為彼果智體。此中若無自性身應無法身,譬如眼根;若無法身應無受用身,譬如眼識。應知此中所依能依為同法喻。若無受用身,已入大地諸菩薩眾應無受用法樂;若無受用法樂,菩提資糧應不圓滿;譬如見色。若無化身,勝解行地諸菩薩眾、諸聲聞等劣勝解者,最初發趣皆不應有,是故決定應有三身。顯於大乘異聲聞乘者,聲聞乘中不說此故。又顯最勝者,顯大乘中此亦最勝。
論曰:復次云何由此十相殊勝殊勝如來語故,顯於大乘真是佛語,遮聲聞乘是大乘性?由此十處於聲聞乘曾不見說,唯大乘中處處見說。謂此十處,是最能引大菩提性、是善成立、隨順無違,為能證得一切智智。此中二頌:
所知依及所知相, 彼入因果彼修異,
三學彼果斷及智, 最上乘攝是殊勝。
此說此餘見不見, 由此最勝菩提因,
故許大乘真佛語, 由說十處故殊勝。
釋曰:此復云何?謂復顯此所說十處,是最能引大菩提性,是善成立隨順無違。是最能引大菩提性者,是大菩提能引因義。是善成立者,謂由正理等量思擇,如見導師所說道相。言隨順者,謂為證得,勤修行時隨順住故,如隨導師所說正道隨順而住。言無違者,謂諸地中無障礙因,如隨導師所說道中無劫賊等所有障難。或復生死、涅槃二種互不相違。復有異門,是最能引大菩提性者,謂此能引無戲論無分別智故。是善成立者,謂與四理不相違故。言隨順者,謂與三量不相違故。言無違者,非先隨順後相違故。如有頌言:
初任持愛悲, 後隨順不善,
非黑白我見, 有益亦有損。
為能證得一切智智者,謂於一切法中發生無上無間一切行相智故。善成立等復有餘義,謂善成立隨順無違展轉標釋。云何善成立?謂能隨順故。云何能隨順?謂無違轉故。
論曰:復次云何如是次第說此十處?謂諸菩薩於諸法因要先善已,方於緣起應得善巧。次後於緣所生諸法應善其相,善能遠離增益損減二邊過故。次後如是善修菩薩應正通達,善所取相,令從諸障心得解脫。次後通達所知相已,先加行位六波羅蜜多,由證得故應更成滿,增上意樂得清淨故。次後清淨意樂所攝六波羅蜜多,於十地中分分差別應勤修習,謂要經三無數大劫。次後於三菩薩所學,應令圓滿。既圓滿已,彼果涅槃及與無上正等菩提,應現等證。故說十處如是次第。
釋曰:云何如是次第說者,問謂諸菩薩於諸法因要先善已,廣說乃至彼果涅槃及與無上正等菩提應現等證故者。答要先了知諸法因已,後於緣起方得善巧,必有因故果得生起非自在等,由此能得因果兩智。次後於因所生諸法應了其相。何等為相?謂實無有遍計所執定執為有,名為增益。增益無故,損減實有圓成實性。遠離如是二邊過失,故名善巧。次於如是所取諸相,由唯識性應正通達得無障礙。次於隨順入唯識性,世俗所證世間六種波羅蜜多,由勝義故應更證得。是應修作,清淨增上意樂攝義。次於十地分分差別應勤修習,謂要經三無數大劫,非如聲聞極疾三生勤修對治便證解脫。次後即於如是修中增上戒等,菩薩三學應令圓滿。最後於彼學果涅槃,煩惱永斷及與無上正等菩提、三種佛身應現等證故,說十處如是次第。
論曰:又此說中一切大乘皆得究竟。
釋曰:一切大乘齊此究竟。何以故?若欲說緣起,即入阿賴耶識攝。若欲說諸相,即入三自性攝。若欲說證得,即入唯識性攝。若欲說波羅蜜多,即入波羅蜜多攝。若欲說諸地,即入諸地攝。若欲說諸學,即入諸學攝。若欲說斷及智,即入無住涅槃及三種佛身攝。齊是名為一切佛語,是故但說如此次第。