阿毘達磨法蘊足論卷第八
阿毘達磨法蘊足論 第八巻
尊者大目乾連造
尊者マハー・モッガラーナの編纂
三藏法師玄奘奉 詔譯
三蔵法師玄奘奉詔訳
無色品第十三
無色品第十三
一時薄伽梵在室羅筏,住逝多林給孤獨園。爾時世尊告苾芻眾:「有四無色。何等為四?謂有苾芻,超諸色想、滅有對想、不思惟種種想,入無邊空,空無邊處具足住,是名第一。復有苾芻,超一切種空無邊處入無邊識,識無邊處具足住,是名第二。復有苾芻,超一切種識無邊處入無所有,無所有處具足住,是名第三。復有苾芻,超一切種無所有處入非想非非想處具足住,是名第四。」
ある時、尊き仏陀は舎衛城の祇園精舎におられました。その時、世尊は比丘たちに告げられました。
「四つの無色の境地があります。どのような四つかというと、
第一に、ある比丘が一切の色の想いを超え、物質的な対立の想いを滅し、種々の想いを思わずして、無辺の空に入り、空無辺処を具足して住する。これを第一と名づけます。
第二に、ある比丘が一切の空無辺処を超え、無辺の識に入り、識無辺処を具足して住する。これを第二と名づけます。
第三に、ある比丘が一切の識無辺処を超え、無所有に入り、無所有処を具足して住する。これを第三と名づけます。
第四に、ある比丘が一切の無所有処を超え、非想非非想処に入り、これを具足して住する。これを第四と名づけます。」
超諸色想者,云何諸色想?謂眼識相應想、等想、現前等想、解了取像已想當想,總名色想。有作是說,與五識相應想等想乃至已想當想,總名色想。今此義中唯眼識相應想等想乃至已想當想,總名色想。如是色想,爾時超越等超越,故名超諸色想滅。有對想者,云何有對想?謂耳等四識相應想等想乃至已想當想,總名有對想。有作是說,瞋恚相應想等想乃至已想當想,總名有對想。今此義中耳等四識相應想等想乃至已想當想,總名有對想。如是有對想,爾時斷遍知、遠離極遠離、調伏極調伏、隱沒除滅,故名滅有對想。不思惟種種想者,云何種種想?謂有蓋纏者所有染污色聲香味觸想、所有不善想、所有非理所引想、所有障礙定想,總名種種想。彼想爾時不復引發、不復憶念、不復思惟、不復已思惟、不復當思惟,故名不思惟種種想。入無邊空空無邊處具足住者,云何空無邊處定加行、修何加行入空無邊處定?謂於此定初修業者,先應思惟第四靜慮為麁苦障,次應思惟空無邊處為靜妙離。彼於爾時若心散亂馳流餘境,不能一趣不能守念令住一緣修空無邊處定,齊此未名空無邊處定加行,亦未名入空無邊處定。彼若爾時攝錄自心,令不散亂馳流餘境,能令一趣住念一緣思惟修習空無邊處定相。如是思惟發勤精進,勇健勢猛熾盛難制勵意不息,是名空無邊處定加行,亦名入空無邊處定。彼於此道生已,修習多修習故,便令心住等住近住安住、一趣等持無二無退,齊此名為已入空無邊處定。又此定中諸心意識,名空無邊處定俱有心。諸思等思乃至造心意業,名空無邊處定俱有意業。諸心勝解、已勝解、當勝解,名空無邊處定俱有勝解。又此定中,若受若想乃至若慧等,名空無邊處定俱有諸法。如是諸法,亦名空無邊處定。
**「諸々の色想を超える」とは、どういうことか。** 「色想」とは何か。それは、眼識と相応する想、等想、現前等想、解了して像を取った後の想、これから起こるであろう想を総称したものである。 ある説では、五識(眼・耳・鼻・舌・身)と相応する想、等想、乃至、過去の想、未来の想を総称して「色想」としている。 しかし、ここでの意味では、眼識と相応する想、等想、乃至、過去の想、未来の想を総称して「色想」という。 このような色想を、その時、超越し、完全に超越する。それゆえに「諸々の色想を超える」という。
**「有対想を滅する」とは、どういうことか。** 「有対想」とは何か。それは、耳識など四識(耳・鼻・舌・身)と相応する想、等想、乃至、過去の想、未来の想を総称したものである。 ある説では、瞋恚(怒り)と相応する想、等想、乃至、過去の想、未来の想を総称して「有対想」としている。 しかし、ここでの意味では、耳識など四識と相応する想、等想、乃至、過去の想、未来の想を総称して「有対想」という。 このような有対想を、その時、断ち、完全に知り、遠離し、極めて遠離し、調伏し、極めて調伏し、隠没させ、除滅する。それゆえに「有対想を滅する」という。
**「種々の想を思惟しない」とは、どういうことか。** 「種々の想」とは何か。それは、煩悩に覆われた者が持つ、すべての染汚した色・声・香・味・触に関する想、すべての不善なる想、すべての道理に合わない想、すべての禅定を妨げる想を総称したものである。 そのような想を、その時、もはや引き起こさず、もはや思い出さず、もはや思惟せず、もはや思惟したことがなく、もはやこれから思惟しようとしない。それゆえに「種々の想を思惟しない」という。
**「無辺の空、空無辺処に満足して住する」とは、どういうことか。** 「空無辺処定」のための準備修行とは何か。どのような修行をして空無辺処定に入るのか。 この定を初めて修行する者は、まず第四禅が「粗い、苦しい、障害となる」と観想すべきである。次に、空無辺処が「静かで、妙で、離れている」と観想すべきである。 その時、もし心が散乱し、他の対象に流れていき、一つの対象に集中できず、一つの縁に心を留めて置くことができなければ、空無辺処定を修しているとは言えない。この段階では、まだ空無辺処定の準備修行とも言えず、また空無辺処定に入ったとも言えない。 もしその時、自らの心を収め、散乱して他の対象に流れないようにし、一つの対象に集中させ、一つの縁に心を留めて置き、空無辺処定の相を思惟し修習することができたならば、そのような思惟によって勤め励み、勇猛で勢いがあり、盛んで制し難く、意を励まして止まない。これを「空無辺処定の準備修行」といい、また「空無辺処定に入る」ともいう。 この道が生じた後、それを修習し、繰り返し修習することによって、心を住まわせ、等しく住まわせ、近くに住まわせ、安らかに住まわせ、一つの対象に集中させ、等しく保たせ、二つなく退かないようにする。ここまでを「すでに空無辺処定に入った」という。 また、この定の中の諸々の心・意・識を、「空無辺処定とともに有する心」という。 諸々の思、等しい思、乃至、意業を造ることを、「空無辺処定とともに有する意業」という。 諸々の心の勝解、すでに勝解したこと、これから勝解しようとすること(強い理解と確信)を、「空無辺処定とともに有する勝解」という。 また、この定の中の、受、想、乃至、慧などを、「空無辺処定とともに有する諸法」という。 このような諸法もまた、「空無辺処定」と名付けるのである。
超一切種空無邊處者,謂彼爾時於空無邊處想超越等超越,故名超一切種空無邊處。入無邊識識無邊處具足住者,云何識無邊處定加行、修何加行入識無邊處定?謂於此定初修業者,先應思惟空無邊處為麁苦障,次應思惟識無邊處為靜妙離,餘廣說如空無邊處。超一切識無邊處者,謂彼爾時於識無邊處想超越等超越,故名超一切種識無邊處。入無所有無所有處具足住者,云何無所有處定加行、修何加行入無所有處定?謂於此定初修業者,先應思惟識無邊處為麁苦障,次應思惟無所有處為靜妙離,餘廣說如空無邊處。超一切種無所有處者,謂彼爾時於無所有處想超越等超越,故名超一切種無所有處。入非想非非想處具足住者,云何非想非非想處定加行、修何加行入非想非非想處定?謂於此定初修業者,先應思惟無所有處為麁苦障,次應思惟非想非非想處為靜妙離,餘廣說如空無邊處。
一切種の空無辺処を超えるとは、その時、空無辺処の想いを超越し、さらにそれを超えていくことです。それゆえ、一切種の空無辺処を超えると言います。
無辺の識、識無辺処に具足して住するとは、どのようにして識無辺処定の加行を行い、どの加行を修めて識無辺処定に入るのでしょうか。この定を初めて修める者は、まず空無辺処を粗く、苦しく、障りあるものと観想すべきです。次に、識無辺処を静かで、妙であり、離れているものと観想すべきです。その他の詳細な説明は、空無辺処の場合と同様です。
一切種の識無辺処を超えるとは、その時、識無辺処の想いを超越し、さらにそれを超えていくことです。それゆえ、一切種の識無辺処を超えると言います。
無所有、無所有処に具足して住するとは、どのようにして無所有処定の加行を行い、どの加行を修めて無所有処定に入るのでしょうか。この定を初めて修める者は、まず識無辺処を粗く、苦しく、障りあるものと観想すべきです。次に、無所有処を静かで、妙であり、離れているものと観想すべきです。その他の詳細な説明は、空無辺処の場合と同様です。
一切種の無所有処を超えるとは、その時、無所有処の想いを超越し、さらにそれを超えていくことです。それゆえ、一切種の無所有処を超えると言います。
非想非非想処に具足して住するとは、どのようにして非想非非想処定の加行を行い、どの加行を修めて非想非非想処定に入るのでしょうか。この定を初めて修める者は、まず無所有処を粗く、苦しく、障りあるものと観想すべきです。次に、非想非非想処を静かで、妙であり、離れているものと観想すべきです。その他の詳細な説明は、空無辺処の場合と同様です。