聰明品第三
第3章 智慧
於是賢者舍利弗白世尊曰:「至未曾有,天中天!此寶女身所問辯才,分別解說如所了慧聰明之慧,本豈達乎演暢要事?」
そこで賢者舎利弗が世尊に申し上げた。 「まことに未曾有でございます、天中天よ。 この宝女がお尋ねになったその弁才、その分別解説は、智慧の明らかな方がお持ちになるような見識によるものでございましょうか。 それとも、もとよりこのような要諦を説き示す力がおありだったのでしょうか。」
世尊問曰:「於舍利弗所念云何?斯寶女者,不以聰明慧演說法要。莫造斯觀。此寶女者,已得聰明無斷辯才。」
世尊がお尋ねになりました。「舎利弗よ、この宝女についてどのように考えているのか。この宝女は聡明な智慧によって法の要点を説いているのではない。そう思ってはならない。この宝女はすでに聡明さと絶えることのない弁才を得ているのだ。」
於時,耆年舍利弗問寶女曰:「女樂堪任分別聰慧解說緣便?」
そのとき、長老の舎利弗が宝女に尋ねました。 「お嬢さん、あなたは楽しんで分別の智慧を解説してくれますか?」
寶女報曰:「唯,舍利弗!一切諸法悉而應說,皆歸聰明所造之業。唯,舍利弗!菩薩意者分別解說為聰明慧。所以者何?攝取一切諸誼之要故發道心,是為於誼聰明之慧;等御法界故發道心,是則名曰辯才之慧;彼所說者皆歸滅除,是為滅盡辯才哲慧;一切順旨為聰明慧,發此心已至無礙頌無斷辯才,是為辯才聰明之慧。」
舎利弗さま、お答えいたします。 すべての事柄は、語るにふさわしく、そして賢明な行いによって生じるものなのです。
舎利弗さま、菩薩の心とは、一つひとつをわきまえて説き明かす、その智慧を「聰明慧」と呼びます。 なぜなら、あらゆる教えの要点を全て受け止め、悟りの心を起こすからです。これが「義に関する聰明の智慧」です。 また、法の世界を平らかに治めるために悟りの心を起こすこと、これを「弁才の智慧」と呼びます。 菩薩の説く教えは、すべてが滅びや悩みを取り除くことに帰します。これを「滅尽の弁才なる智慧」といいます。 さらに、すべての教えの意味に従い、限りない賛歌と絶えることのない弁才を得るために心を起こすこと、これを「弁才の聰明なる智慧」と呼ぶのです。
寶女復謂:「舍利弗!無所行誼無所著誼,心志大誼聰明了誼,而常善思法如幻誼。計其心者則為法事,聰達之心心了諸門,有所歸者歸於明哲,不倚六情心無所著,辯才無礙分別聰辯,所有誼者則為非誼。見法澹泊,所謂順趣假音聲耳!其辯才者託於言辭,所云佛者無不覺誼,由是法生,緣斯順應分別法矣!有辯才者,分別自恣法誼為誼。無恣之法乃為法矣!應順之法乃為順矣!法之辯才乃為辯才。無所有誼無為之誼,合會之誼為聰明誼,合會法者一法味誼,聖眾順滅乃為順滅,有所分別乃為辯才。是為,舍利弗!諸法講說章句,常觀此法則為聰明誼也。」
宝女がまた言った。「舎利弗よ、『行じることのない境地』は『執着しない境地』であり、心は大いなる境地を志し、明確に理解する境地である。そして常に善く、諸法が幻のようなものであると観じるのだ。その心を考えるならば、それは法そのものの働きである。聡明な心は様々な門を明らかにし、帰依するところは智慧に帰する。六根(六情)に依存せず、心は執着するところがない。弁才は滞りなく、分別は明らかで聡明である。すべての『境地』というものは、実は『境地ではない』のである。諸法が静かで淡白であると見て、『それに従う』というのも、ただ仮の音声に過ぎない。その弁才というものは言葉に託されたものであり、『仏(目覚めた者)』という言葉は、『すべてを覚っている境地』という意味ではない。これによって法が生じ、これに縁って応じ、法を分別するのである。弁才がある者とは、自らのままに法の境地をそのまま境地として分別する者である。『恣にしない法』こそが、まさに法である。『応じ、したがう法』こそが、まさにしたがうことである。法の弁才こそが、まさに弁才である。『所有なき境地』は『無為の境地』であり、『和合の境地』は『聡明の境地』である。和合する法は『一味の境地』であり、聖なる僧団(僧伽)が滅(涅槃)にしたがうことこそが、まさにしたがうことである。何かを分別することこそが、まさに弁才である。これが、舎利弗よ、諸法を説き示す章句である。常にこの法を観じるならば、それが『聡明の境地』である。」