隱顯第二
隠顕第二
依文殊般涅槃經。佛去世後。四百五十年。文殊師利猶在世間。依智度論。諸大乘經。多是文殊師利之所結集。此經則是文殊所結。佛初去後賢聖隨隱。異道競興。乏大乘器攝此經。在海龍王宮。六百餘年未傳於世。龍樹菩薩入龍宮。日見此淵府。誦之在心。將出傳授。因茲流布。開皇三寶錄云。昔于闐東南二千餘里。有遮拘槃國。彼王歷葉敬重大乘。諸國名僧入其境者。竝皆試練。若小乘學則遣不留。摩訶衍人請停供養。王宮內自有華嚴摩訶般若大集等經。竝十萬偈。王躬受持。親執戶籥。轉讀則開。香華供養。又於道場內。種種莊嚴。眾寶備具。并懸諸雜幡。時非時果。誘諸小王令入禮拜。又此國東南。可二十餘里有山甚嶮。其內置華嚴.大集.方等.寶積.楞伽.方廣.舍利弗陀羅尼.華聚陀羅尼.都薩羅藏.摩訶般若大雲等。凡一十二部。皆十萬偈。國法相傳。防護守掌。有東晉沙門支法領者。風範慷慨。邈然懷拔萃之志。好樂大乘。忘寢與食。乃裹糧杖策。殉茲形命。於彼精求。得華嚴前分三萬六千偈。齎來至此。即晉朝所譯是也。今大周于闐所進。逾四萬頌。於第一會所說。華藏世界。舊譯闕略。講解無由。今文竝具爛然可領。其十定一會。舊經有問無答。今本照然備具。是以前有七處八會。今七處九會。雖望百千而未備。然四萬之理亦無遺。且龍樹誦具本以上昇。法領獲僅半以東度。雖凡聖不一。而弘法無二。但以域壤有中邊。慧解有深淺。遂使數萬里間。見聞懸隔。闕乎大半。可不傷哉。大智度論云。不思議經。有十萬偈。攝大乘論云。有百千偈。名百千經。釋論云。即華嚴經十萬偈。為百千也。又涅槃經。名此經為雜華。然百千舉數而標目。雜華即相以彰名。舉數者失其源。即相者遣其主。不思議則推宗有在。直造其庭。佛華嚴則以人標法。曲詳其致。四名之中。後二為得矣。
『文殊師利般涅槃経』によれば、仏陀が亡くなられてから450年後も、文殊師利はこの世にとどまっていたと言われています。『大智度論』によれば、多くの大乗経典は文殊師利によって結集されたものであり、この経典もまた文殊師利がまとめたものです。
仏陀が亡くなられた後、聖者たちもまた姿を隠し、異なる教えを説く者たちが盛んになりました。大乗の器となる者が乏しかったため、この経典は龍王の宮殿に納められ、600年以上もの間、世に伝わることはありませんでした。
龍樹菩薩が龍宮に入った時、この経典の宝庫を目の当たりにし、心に暗唱して持ち帰り、人々に伝え授けました。こうして世に広まることとなったのです。
『開皇三宝録』にはこうあります。「昔、于闐の東南二千余里の所に遮拘槃国という国があった。その国の王は代々大乗を敬い重んじ、諸国の名僧がその国に入ると、皆試練を受けた。もし小乗を学ぶ者であれば追い返され、大乗を学ぶ者であれば留まって供養を受けることができた。王宮の中には『華厳経』『摩訶般若経』『大集経』などの経典があり、いずれも十万偈あった。王は自らこれらを受け持ち、鍵を自ら管理し、転読する時には開け、香華を捧げて供養した。また道場の中には様々な荘厳が施され、多くの宝が備えられ、種々の幡が掲げられていた。季節の果物やそうでない果物を用意して、諸国の小王たちを招いて礼拝させたという。またこの国の東南二十余里の所に非常に険しい山があり、その中に『華厳経』『大集経』『方等経』『宝積経』『楞伽経』『方広経』『舎利弗陀羅尼』『華聚陀羅尼』『都薩羅蔵』『摩訶般若経』『大雲経』の十一部が安置されていた。いずれも十万偈である。国法として代々伝えられ、厳重に守られてきた。
東晋の沙門である支法領という僧がいた。風格は慷慨として、ひときわ秀でた志を抱き、大乗を好み、寝食を忘れるほどであった。彼は糧食を包み、杖を手に、自らの命を賭して、その地で熱心に求め、華厳経の前半部分三万六千偈を得て、ここへ持ち帰った。これが晋の時代に翻訳されたものである。
今、大周の于闐から献上されたものは四万偈を超えている。その第一会で説かれた華蔵世界については、古い翻訳では欠落や省略があり、講解するすべがなかった。しかし、現在の本文はすべてそろっており、はっきりと理解できる。その中の十定の一会については、古い経典では問いがあっても答えがなかったが、現在の本では明らかに完全に備わっている。それゆえ、以前は七処八会であったが、今は七処九会となっている。百千の会に及ばないとはいえ、四万偈の道理はもはや欠けていない。
そもそも龍樹は完全なテキストを暗誦して天に昇り、法領は半分だけを得て東へ渡った。凡夫と聖者の違いはあれど、法を弘めることに二つはない。ただ土地には中央と辺境があり、智慧の理解には深い浅いがあるため、数万里の間に見聞に隔たりが生じ、大部分が欠けてしまった。嘆かわしいことではないか。
『大智度論』には『不思議経』は十万偈あると説かれ、『摂大乗論』には百千偈ある経典があり、『百千経』と呼ばれると説かれている。釈論には、これが『華厳経』の十万偈であり、百千に当たるとある。また『涅槃経』では、この経典を『雑華経』と呼んでいる。
しかし、『百千経』は数を挙げて標題とし、『雑華経』は相(すがた)に基づいて名称を明らかにしている。数を挙げたものはその源を失い、相に基づいたものはその主を失っている。『不思議経』はその宗旨を推し量るものであり、『仏華厳経』は人によって法を標示し、その趣旨を詳細に明らかにしている。四つの名称のうち、後の二つが正しいと言えよう。」