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title: "菩薩善戒經 · 18 三十七助道品"
description: "菩薩善戒經由劉宋時期天竺高僧求那跋摩漢譯。本經屬瑜伽行派重要典籍，詳述菩薩從發心至成佛所需修持的戒律與善法，系統闡明菩薩道的修行次第與心性要求。經中強調戒定慧三學並重，具體規範菩薩的行為準則與菩提心養護方法，為漢傳佛教菩薩戒體系提供了核心理論依據。該經不僅是大乘佛教戒律的權威經典，更對後世菩薩道實踐產生了深遠影響，在佛教典籍中佔有不可或缺的地位。"
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### 菩薩地三十七助道品第十八

> 菩薩地三十七助道品 第十八

「云何名為菩薩摩訶薩慚愧？慚愧有二種：一者性；二者因緣。性者，菩薩摩訶薩自知所作非法，怖畏惡報而生慚愧。因緣者，菩薩若於自所作惡，恐人知故而生慚愧。性慚愧者，非因緣得，如菩薩性。菩薩修慚愧者從因緣得，如八正道因緣。慚愧有四種：一者不應作而作生於慚愧；二者應作不作生於慚愧；三者心自生疑而生慚愧；四者於覆藏罪恐他知故而生慚愧。云何名為菩提薩埵？薩埵者，名為勇健無所畏懼。菩薩之性性有健力，以性健故能調煩惱不隨其心，能忍眾苦種種恐怖，雖有恐怖不能傾動菩薩所有善法莊嚴，是名性勇健力，是故名為菩提薩埵。菩薩性勇健力有五因緣：一者種種生死苦；二者眾生種種行諸惡業；三者於無量世利益眾生受無量苦；四者至心堅持菩薩禁戒；五者至心聽受深法。菩薩摩訶薩有五因緣，為諸眾生受大苦切心無愁惱。一者有大勇健力故；二者修集無愁故；三者懃善方便健精進故；四者智慧力健故；五者專念修悲心故。云何菩薩解世書籍？菩薩善知世間方術，知字知句知辭知義，心口和合專念受持，是名菩薩知法知義；知法知義故能為他說，以說因緣故法智義智而得增長，是名聞慧思慧；以是聞思慧因緣故，助菩提法而得增長。云何名為菩薩知世？世有二種：一者眾生世；二者器世。菩薩摩訶薩觀眾生世，是故經說：『世間苦行受於生死，不知生死不得解脫。』如來善知眾生世間，是故經說：『眾生有五濁：一者命濁；二者眾生濁；三者煩惱濁；四者見濁；五者劫濁。』如今人壽不滿百年，是名命濁。如今眾生不能孝養父母師長和上沙門婆羅門等，不隨義行，不畏現在及未來世，不樂惠施，不喜福德，不樂受齋持戒精進，是名眾生濁。如今眾生因煩惱故殺害父母，於母姊妹及餘親屬強作非法，為與眾生作惡因緣，受畜弓箭刀杖牟槊，多有眾生妄語兩舌惡口無義語，有如是等無量諸惡不善煩惱起時，是名煩惱濁。如今眾生非法見法法見非法、非法說法法說非法，以見說故破壞正法增長邪法，無量眾生修集邪見，是名見濁。如惡時惡眾生有三種內惡劫起：一者飢饉內劫；二者疫病內劫；三者刀兵內劫，是名劫濁。是名菩薩知眾生世間。復次菩薩知器世間，菩薩善知器世成壞因緣，是故經說：『迦栴延！如來善知世間，知世間因、知世間滅、知世間道、知世間味、知世間苦、知世間解脫。迦栴延！六入、五陰及四大等，名為人身。以人身故，隨世作相，名之為我、名為眾生、名為壽命、名為士夫、名為某甲。如是名字性無真實，因煩惱故眾生說言我見我聞我知，見聞知者亦無真實。流布如是名姓飲食受苦受樂長壽短壽，是名流布。流布者名為相，不名真實。如來善知眾生世間器世間故，名如來善知世間。』菩薩若見於已年長福德勝者，應起奉迎禮拜問訊安施床座；若見年德與己等者，先意問訊謙下軟語執手共坐，不生憍慢我勝於彼；若見年德於己少者，先意軟語勸以福德，教行善法心不輕慢，設其有罪終不譏刺，隨所須物任以給施。菩薩悉於上中下眾生，先意軟語善法教化，以食以法而攝取之，身口意業善思惟等悉向眾生。常作是念：『願我莫與一切眾生作惡因緣。』於諸眾生不作怨想，常生親想無瞋恚心。設有瞋者不以在意，若他瞋打當觀法界。身口意業常自凝重，具足十四事，所謂六方便、四惡知識、四善知識，如《善生經》說。常能利益今世後世，能求財物，得已能護，營生富足，能作福德不貪不慳，不作幻術誑惑世人，持戒慚愧，有人寄附不令生疑，眾生見者如見真實。常近善友，治國理民勸以十善，見則言見、聞則言聞、覺則言覺、知則言知。是故菩薩名知世間。云何名為菩薩學四依？菩薩依義不依於字，菩薩聽法不為依字唯為依義。菩薩摩訶薩依法不依人，知法非法，知如是法是佛所說、是長老說、是眾僧說。若是非法，雖聞佛說心不生信。復有是法非佛所說、非長老說、非眾僧說，雖非佛說長老僧說，是法相者聞則信受。菩薩摩訶薩依了義經不依不了義經。依了義者，不可動不可移，了義經者不生疑心。菩薩若於了義經中生疑心者則可移動。菩薩依智不依識。何以故？修智慧者名淨智故。是故菩薩解甚深義，雖於深義未得解了終不生謗。是名菩薩成就四依。菩薩成就如是四依，了了能知世道出世道。菩薩復有四道，以四道故知一切法界得無礙智。四道者即是四無礙智。知一切法界，名法無礙智。若知一切法性無礙智、無顛倒智，名義無礙智。菩薩若知一切諸法種種名字，名辭無礙智。菩薩若知一切法界、一切法名、一切法義，說不可盡，名樂說無礙智。菩薩具足四無礙智，知陰入界方便、十二因緣方便、是處非處方便。菩薩具足四無礙智，了了自知菩提之道，復能為人分別廣說。云何名為莊嚴菩提？莊嚴菩提有二種：一者功德莊嚴；二者智慧莊嚴，如〈自利利他品〉中說。菩薩若在初阿僧祇劫，修集如是二莊嚴者，名下莊嚴；在第二阿僧祇劫修，名中莊嚴；在第三阿僧祇劫修，名上莊嚴。云何菩薩修集三十七品，菩薩具足四無礙智得方便智，以方便智故修集三十七品，亦未得證阿耨多羅三藐三菩提，亦知二乘所修道品。知二乘者如初品說。云何名〈知菩薩所修三十七品〉？菩薩觀身循身觀，作是觀時不著身相、不作空相，亦知是身不可宣說，是名觀身第一義。為流布故說名為身；如身，餘三十六品亦如是。菩薩摩訶薩觀是身時，不作苦、不作集、不作滅、不作滅因緣道。何以故？法界不可說故。菩薩若能如是知苦集滅道，是名第一義修集三十七品，為流布故說苦集滅道。菩薩若知不以覺觀觀三十七品，是名舍摩他。菩薩若知法界真實不可宣說，是名毘婆舍那。菩薩舍摩他有四種：一者第一義舍摩他；二者期舍摩他；三者真實舍摩他；四者離煩惱怨舍摩他。菩薩具足四舍摩他，知一切法界，為阿耨多羅三藐三菩提故。菩薩毘婆舍那有四種：一者共四種舍摩他行；二者遠離顛倒；三者分別無量法界；四者知法界無礙。菩薩修集是四種毘婆舍那，為阿耨多羅三藐三菩提故。云何名為菩薩摩訶薩善方便？善方便者有十二種，內六種、外六種。內六種者，菩薩常於一切眾生起大悲心，真實了知一切諸行，常樂繫念阿耨多羅三藐三菩提，樂為眾生轉於生死，真知煩惱不壞煩惱，為阿耨多羅三藐三菩提懃修精進，是名內方便。外六種者，能令少施得無量福，有功德者能令增長，壞佛法者能令生信，已有信者能令增長，未淳熟者能令淳熟，已淳熟者能令解脫，是名外方便。云何少施得無量福？若有眾生於菩薩所聞說法已，以一把食施於餓狗，施物既少福田又薄，以能迴向菩提道故，所得福報不可稱量。有德增長者，若有眾生先受八齋，菩薩復為分別解說，教令迴向無上菩提。若有眾生深著邪見，一月不食晝斷夜食，菩薩即為講宣正法破其邪心，教令受持八戒齋法。菩薩為破苦不善齋，教令受持善法齋戒。若有眾生欲求解脫不知方便，菩薩為說中道實義離於二邊。若有眾生欲得天身投淵赴火，菩薩為破如是現苦，為說持戒現世受樂、後受天身。若有眾生為寂靜故，讀誦解說四毘陀典，菩薩即以十二部經教令分別思惟其義。復次菩薩以世所有上妙香華供養三寶，亦教眾生復令供養。自向十方無量諸佛發願供養，亦教眾生向十方佛發願供養。復次菩薩常修念佛乃至念天，亦教眾生令修六念。復次菩薩身口善業，若多若少悉施眾生，亦以是法教化眾生。復次菩薩常作是願：『一切眾生所有苦事，悉集我身，莫令他受。』亦以此法轉教眾生。復次菩薩若有過去現在世罪，悉向十方諸佛懺悔，亦以此法教眾生行。復次菩薩自能修集四無量心，亦教眾生行四無量。有功德者能令增長，壞佛法人能令生信，已生信者能令增長，未淳熟者能令淳熟，已淳熟者令得解脫。菩薩摩訶薩為是四法修集六事：一者隨他；二者無障；三者不動；四者心相似；五者報恩；六者清淨。隨他者，菩薩若為眾生說法，先以軟語隨彼心語，隨身口意任力惠施，令彼恭敬生歡喜之心、樂法之心然後為說，隨諸眾生上中下根說易解法，時節說、次第說、不顛倒說、利益說、憐愍說。若須神通應感化度，為示神足。略能說廣、廣能說略，能破疑網，施其憶念，能廣分別出入定處。若有眾生不解如來甚深空義，即為開示分別演說。若有眾生誹謗方等大乘經典，即為說法令其調伏。若有眾生作如是言：『如來所說無一切法無一切物，一切諸法無生無滅，猶如虛空、如幻如夢、如熱時焰、乾闥婆城、如水中月、如呼聲響。』以是不解法性因緣故生於怖畏，生怖畏故而生誹謗，言非佛經是邪見說。菩薩摩訶薩善巧方便，漸漸為開修多羅義，隨意而言非一切法無，以一切法不可說故名為無法，以不可說性無所有故名為無物。若初無不可說無不可說性，云何可說有生有滅？是故說名無生無滅。若無生滅即名虛空。如虛空中有無量色有無量業，諸色諸業無有障礙，所謂行住屈申俯仰。若無如是諸色諸業名虛空者，是則虛空不可宣說。若因虛空有諸色諸業可宣說者，不得說言虛空之性不可宣說。若彼虛空不可說者，諸色諸業云何可說？菩薩摩訶薩得聖智已，乃知法界不可宣說。爾時菩薩破壞邪相，言一切法有、一切法可說。菩薩初以如是聖智教於眾生，眾生得已自見法性不可宣說猶如虛空，是故如來說一切法同於虛空，如幻性相非有非無，聖人亦說非有非無。幻若定有，以何因緣有時可見、有時不可見？若定無者，云何令人見種種相？實無之法不應生相，一切法界亦復如是。於諸凡夫說有名相，有名相故不得言無，第一義性不可說故不得言有，是故法界如幻無二。是故菩薩於諸法界，不取不捨不增不減，實則知實亦說是實，是名菩薩善隨方便。無障者，菩薩摩訶薩見來求者，作如是言：『善男子！汝今若能供養三寶父母師長沙門婆羅門者，所須之物，若衣若食床臥病藥、花香瓔珞幡蓋伎樂、田宅屋舍僕使乘用資生之物，悉當與汝。』若有眾生恐畏憂懼，菩薩語言：『汝今若能供養三寶乃至婆羅門者，我當給汝衣食所須乃至一切資生之具，亦當救汝憂懼之事。』若有病者，亦復語言：『汝今若能供養三寶乃至婆羅門者，我當為汝求覓良醫瞻病好藥衣食乃至資生之具，令汝病愈。』如是眾生若能信受菩薩語者，菩薩當作種種方便必令如意。若不受者，菩薩爾時則修捨心。若有信受，菩薩不為稱意作者得罪。菩薩先教供養三寶父母師長持戒精進，為調令得阿耨多羅三藐三菩提。若先受語後不受者，以憐愍故則現瞋呵非實惡心，若不施物、不為作使，非實嫌恨，為調伏故。是名無障不動。心相似者，菩薩若得自在之身，若王大臣多有眷屬先唱是言：『若我境內及家中人，其有不能供養三寶父母師長沙門婆羅門毀戒懈怠，我當斷其衣服飲食，打罵繫縛閉之牢獄、若殺若擯。囑付大臣使令鑒察，知誰持戒、知誰毀戒，誰能供養父母三寶、誰不供養父母三寶。』爾時眾生以怖畏故，遠離諸惡修集善法似菩薩心，是名相似方便。報恩者，菩薩若受檀越衣服飲食臥具病藥房舍，若多若少，或遭恐怖有人救解，或遭病苦有療治者，或聞說法破壞疑心，菩薩摩訶薩以念恩故，悉教是等行於善法，是名報恩。菩薩說法眾生聞已，即能供養三寶父母師長沙門婆羅門等，持戒精進，是名報恩。寂靜者，菩薩摩訶薩安住畢竟菩提地中，修集寂靜菩提之道生兜術天，當知不久下閻浮提得阿耨多羅三藐三菩提。眾生聞已悉發願言：『如是菩薩成佛之時，我等當於是佛法中出家學道。』爾時菩薩下閻浮提，託生剎利婆羅門家，為眾生故捨五欲樂。出家學道修行苦行，為苦行者生於恭敬，破苦心故。修苦行已，得阿耨多羅三藐三菩提，壞聲聞緣覺菩提心故。既成道已默然而住，釋梵天王來勸請故。梵天啟請，為令眾生於正法中生尊重故。爾時世尊即以佛眼觀諸眾生然後說法。佛眼觀者，為破惡名故。所謂眾生說言：『如來但為梵王勸請，非為憐愍。』若以佛眼觀於眾生轉法輪者，為破眾生邪惡輪故。轉法輪已集眾制戒，為令眾生得解脫故。是名菩薩寂靜方便。為令眾生得信心故，未入佛法者令得入故，未熟眾生令得熟故，已熟眾生得解脫故。」

> 菩薩摩訶薩の慚愧とは何か。慚愧には二種ある。一つは性、二つは因縁である。性とは、菩薩摩訶薩が自らの行いの非法なるを知り、悪報を恐れて慚愧を生ずるをいう。因縁とは、菩薩が自らの悪行を人に知られることを恐れて慚愧を生ずるをいう。性の慚愧は因縁によらずして得る、菩薩の性のごとし。菩薩が慚愧を修めるは因縁より得る、八正道が因縁によるがごとし。慚愧に四種あり。一つは、なすべきでないことをなして慚愧を生ず。二つは、なすべきことをなさずして慚愧を生ず。三つは、心に自ら疑いを生じて慚愧を生ず。四つは、覆い隠した罪を他人に知られることを恐れて慚愧を生ず。 菩提薩埵とは何か。薩埵とは勇健にして畏れるところなきをいう。菩薩の性には健やかな力が備わっている。性が健やかなるがゆえに、煩悩を調伏してその心に随わず、もろもろの苦しみや種々の恐怖を忍ぶことができる。たとえ恐怖があっても、菩薩の善法の荘厳を揺るがすことはできない。これを性の勇健の力となづけ、ゆえに菩提薩埵と名づける。菩薩の性の勇健の力には五つの因縁がある。一つは種々の生死の苦しみ。二つは衆生が種々の悪業を行うこと。三つは無量の世において衆生を利益するために無量の苦しみを受けること。四つは至心に菩薩の禁戒を堅持すること。五つは至心に深法を聴受することである。菩薩摩訶薩には五つの因縁があり、衆生のために大きな苦しみを受けても心に愁悩がない。一つは大きな勇健の力があるゆえ。二つは愁いなきを修め集めるゆえ。三つは勤めて善き方便と健やかな精進をなすゆえ。四つは智慧の力が健やかなるゆえ。五つは専ら悲心を念じて修めるゆえである。 菩薩が世の書籍を解するとは何か。菩薩は世間の方術をよく知り、字を知り句を知り辞を知り義を知り、心と口を和合させて専念に受持する。これを菩薩が法を知り義を知るという。法を知り義を知るがゆえに、他者のために説くことができる。説く因縁によって法智と義智が増長する。これを聞慧・思慧となづける。この聞思の慧の因縁によって、菩提を助ける法が増長する。 菩薩が世を知るとは何か。世に二種ある。一つは衆生世、二つは器世である。菩薩摩訶薩は衆生世を観ずる。ゆえに経に説く『世間の苦行は生死を受けて、生死を知らずして解脱を得ず』と。如来はよく衆生世間を知る。ゆえに経に説く『衆生には五濁あり。一つは命濁、二つは衆生濁、三つは煩悩濁、四つは見濁、五つは劫濁』と。今、人の寿命は百年に満たない、これを命濁となづける。今、衆生は父母・師長・和上・沙門・婆羅門等を孝養せず、義に随って行わず、現在および未来世を畏れず、恵施を楽しまず、福徳を喜ばず、斎を受けて戒を持ち精進するを楽しまない、これを衆生濁となづける。今、衆生は煩悩のゆえに父母を殺害し、母や姉妹および他の親族に強いて非法を行い、衆生に悪の因縁を作らんがために弓・箭・刀・杖・牟槊を蓄え受け、多くの衆生が妄語・両舌・悪口・無義語をなし、かくのごとき無量の諸悪不善の煩悩が起こるとき、これを煩悩濁となづける。今、衆生は非法を法と見、法を非法と見、非法を法と説き、法を非法と説き、見と説のゆえに正法を破壊し邪法を増長し、無量の衆生が邪見を修め集める、これを見濁となづける。悪しき時に悪しき衆生に三種の内悪の劫が起こる。一つは飢饉の内劫、二つは疫病の内劫、三つは刀兵の内劫、これを劫濁となづける。これを菩薩が衆生世間を知るとなづける。 また菩薩は器世間を知る。菩薩は器世の成壊の因縁をよく知る。ゆえに経に説く『迦栴延よ、如来はよく世間を知り、世間の因を知り、世間の滅を知り、世間の道を知り、世間の味を知り、世間の苦を知り、世間の解脱を知る。迦栴延よ、六入・五陰および四大等を人身と名づける。人身のゆえに世に随って相を作し、これを我と名づけ、衆生と名づけ、寿命と名づけ、士夫と名づけ、某甲と名づける。かくのごとき名字は性として真実なし。煩悩のゆえに衆生は我見たり我聞けり我知れりと言う。見・聞・知もまた真実なし。かくのごとき名姓・飲食・受苦・受楽・長寿・短寿を流布す、これを流布と名づける。流布とは相と名づけ、真実とは名づけない。如来はよく衆生世間・器世間を知るがゆえに、如来はよく世間を知ると名づける』と。 菩薩はもし自らより年長にして福徳の勝れたる者を見れば、奉迎し礼拝し問訊し、床座を安施すべきである。もし年徳が自らと等しき者を見れば、先んじて意を問い、謙下にして軟語し、手を執りともに坐し、憍慢を生じて我彼に勝れりと思わない。もし年徳が自らより少なき者を見れば、先んじて軟語し、福徳を勧め、善法を行うを教え、心に軽慢せず、たとえ罪あれども終に譏刺せず、須いる所の物に随って任せて施す。菩薩はすべて上中下の衆生に対して、先んじて軟語し善法をもって教化し、食と法をもってこれを摂取し、身口意業・善思惟等をことごとく衆生に回向する。常にかく念ず『願わくは我、一切の衆生と悪の因縁を作らじ』と。もろもろの衆生に対して怨想をなさず、常に親想を生じ瞋恚の心なし。たとえ瞋る者あれども意に介せず、他が瞋り打つときはまさに法界を観ずべし。身口意業は常に自ら凝重にし、十四事を具足す。いわゆる六方便・四悪知識・四善知識、『善生経』に説くがごとし。常に今世後世を利益し、よく財物を求め、得已ればよく護り、生業を営み富足し、よく福徳を作り、貪らず慳まらず、幻術をもって世人を誑惑せず、戒を持ち慚愧あり、人に寄附せられても疑いを生ぜしめず、衆生の見る者は真実を見るがごとし。常に善友に近づき、国を治め民を理め十善を勧め、見れば則ち見たりと言い、聞けば則ち聞けりと言い、覚れば則ち覚えたりと言い、知れば則ち知れりと言う。ゆえに菩薩は世間を知ると名づける。 菩薩が四依を学ぶとは何か。菩薩は義に依りて字に依らず、菩薩は法を聴くに字に依るがためでなく唯義に依るがためである。菩薩摩訶薩は法に依りて人に依らず、法と非法とを知り、かくのごとき法は仏の説なり、長老の説なり、衆僧の説なりと知る。もし非法ならば、たとえ仏の説と聞けども心に信を生ぜず。また、かくのごとき法は仏の説にあらず、長老の説にあらず、衆僧の説にあらずとも、この法相なるものは聞けば則ち信受する。菩薩摩訶薩は了義経に依りて不了義経に依らず。了義に依るとは、動かすべからず移すべからず、了義経とは疑心を生ぜざるなり。菩薩もし了義経に疑心を生ずれば則ち動すべし。菩薩は智に依りて識に依らず。なぜならば、智慧を修める者は浄智と名づくるがゆえである。ゆえに菩薩は甚深の義を解し、たとえ深義をいまだ解了し得ずとも終に謗を生ぜず。これを菩薩が四依を成就するとなづける。菩薩がかくのごとき四依を成就すれば、了了としてよく世道と出世道とを知る。 菩薩にはまた四道あり、四道のゆえに一切法界を知り無礙智を得る。四道とはすなわち四無礙智である。一切法界を知るを法無礙智と名づける。一切の法性を知る無礙智・無顛倒智を義無礙智と名づける。菩薩もし一切諸法の種々の名字を知るを辞無礙智と名づける。菩薩もし一切法界・一切法名・一切法義を知り、説いて尽くすべからざるを楽説無礙智と名づける。菩薩は四無礙智を具足し、陰入界の方便・十二因縁の方便・是処非処の方便を知る。菩薩は四無礙智を具足し、了了として自ら菩提の道を知り、またよく人のために分別広説する。 菩提を荘厳するとは何か。菩提の荘厳に二種あり。一つは功徳荘厳、二つは智慧荘厳、〈自利利他品〉に説くがごとし。菩薩もし初阿僧祇劫においてかくのごとき二荘厳を修め集むるを下荘厳と名づけ、第二阿僧祇劫において修むるを中荘厳と名づけ、第三阿僧祇劫において修むるを上荘厳と名づける。 菩薩が三十七品を修め集むるとは何か。菩薩は四無礙智を具足し方便智を得、方便智のゆえに三十七品を修め集む。いまだ阿耨多羅三藐三菩提を証せずとも、また二乗の修道品を知る。二乗を知るとは初品に説くがごとし。菩薩の修むる三十七品を知るとは何か。菩薩は身を観じ身に循って観ず。かく観ずるとき、身相に著せず、空相を作さず、またこの身は宣説すべからざるを知る。これを観身の第一義と名づける。流布のゆえに身と名づけて説く。身のごとく、余の三十六品もまたかくのごとし。菩薩摩訶薩はこの身を観ずるとき、苦を作さず、集を作さず、滅を作さず、滅の因縁の道を作さず。なぜならば、法界は説くべからざるがゆえである。菩薩もしよくかくのごとく苦集滅道を知るならば、これを第一義の三十七品を修め集むるとなづけ、流布のゆえに苦集滅道を説く。菩薩もし覚観によらずして三十七品を観ずるを知るを、舍摩他と名づける。菩薩もし法界の真実は宣説すべからざるを知るを、毘婆舍那と名づける。菩薩の舍摩他に四種あり。一つは第一義舍摩他、二つは期舍摩他、三つは真実舍摩他、四つは離煩悩怨舍摩他である。菩薩は四舍摩他を具足し、一切法界を知る、阿耨多羅三藐三菩提のためである。菩薩の毘婆舍那に四種あり。一つは四種の舍摩他の行と共なる、二つは顛倒を遠離する、三つは無量の法界を分別する、四つは法界の無礙を知るである。菩薩はこの四種の毘婆舍那を修め集む、阿耨多羅三藐三菩提のためである。 菩薩摩訶薩の善方便とは何か。善方便に十二種あり、内六種と外六種である。内六種とは、菩薩は常に一切の衆生に対して大悲心を起こし、真実に一切の諸行を了知し、常に阿耨多羅三藐三菩提に繫念するを楽しみ、衆生のために生死を転ずるを楽しみ、真に煩悩を知りて煩悩を壊さず、阿耨多羅三藐三菩提のために勤めて精進を修む。これを内方便と名づける。外六種とは、よく少き施しに無量の福を得せしめ、功徳ある者をして増長せしめ、仏法を壊る者をして信を生ぜしめ、すでに信ある者をして増長せしめ、いまだ淳熟せざる者をして淳熟せしめ、すでに淳熟せる者をして解脱せしむ。これを外方便と名づける。 少き施しに無量の福を得るとは何か。もし衆生ありて菩薩の所にて法を聞き終わりて、一把の食を餓狗に施さば、施物はすでに少く福田また薄しといえども、よく菩提道に回向するがゆえに、得る福報は称量すべからず。有徳の者を増長せしむとは、もし衆生ありて先に八斎を受け、菩薩またために分別解説し、教えて無上菩提に回向せしむ。もし衆生ありて深く邪見に著し、一月食せず昼断ち夜食す、菩薩すなわちために正法を講宣してその邪心を破り、教えて八戒斎法を受持せしむ。菩薩は苦なる不善の斎を破るために、教えて善法の斎戒を受持せしむ。もし衆生ありて解脱を求めて方便を知らざれば、菩薩はために中道の実義を説きて二辺を離れしむ。もし衆生ありて天身を得んと欲して淵に投じ火に赴けば、菩薩はかくのごとき現苦を破るために、ために戒を持ちて現世に楽を受け後には天身を受くると説く。もし衆生ありて寂静のため四毘陀典を読誦解説せば、菩薩はすなわち十二部経をもって教えてその義を分別思惟せしむ。また菩薩は世の所有の上妙の香華をもって三宝を供養し、また衆生を教えてまた供養せしむ。自ら十方無量の諸仏に回向して供養を発願し、また衆生を教えて十方の仏に発願供養せしむ。また菩薩は常に念仏乃至念天を修し、また衆生を教えて六念を修めしむ。また菩薩は身口の善業を、多きも少なきもことごとく衆生に施し、またこの法をもって衆生を教化す。また菩薩は常にかく願う『一切衆生の所有の苦事を、ことごとく我が身に集めて、他に受けしめじ』と。またこの法をもって転じて衆生に教う。また菩薩はもし過去現在の罪あれば、ことごとく十方の諸仏に向かいて懺悔し、またこの法をもって衆生に教えて行ぜしむ。また菩薩は自らよく四無量心を修め集め、また衆生を教えて四無量を行ぜしむ。功徳ある者をして増長せしめ、仏法を壊る者をして信を生ぜしめ、すでに信を生ずる者をして増長せしめ、いまだ淳熟せざる者をして淳熟せしめ、すでに淳熟せる者をして解脱を得せしむ。 菩薩摩訶薩はこの四法のために六事を修め集む。一つは随他、二つは無障、三つは不動、四つは心相似、五つは報恩、六つは清浄である。随他とは、菩薩もし衆生のために法を説くとき、まず軟語をもって彼の心に随い、身口意に随い力に任せて恵施し、彼をして恭敬し歓喜の心・楽法の心を生ぜしめ、しかるのちにために説く。諸衆生の上中下の根に随いて解き易き法を説き、時節に説き、次第に説き、顛倒せずして説き、利益をもって説き、憐愍をもって説く。もし神通を須いれば、まさに感化して度すべく、ために神足を示す。略をもって広を説き、広をもって略を説き、よく疑網を破り、その憶念を施し、よく出入定の処を広く分別す。もし衆生ありて如来の甚深の空義を解せざれば、すなわちために開示分別演説す。もし衆生ありて方等大乗経典を誹謗せば、すなわちために法を説いてこれを調伏す。もし衆生ありてかくのごとく言わば『如来の説くところに一切法なく一切物なし、一切諸法は生もなく滅もなく、猶し虚空のごとく、幻のごとく夢のごとく、熱時の焰・乾闥婆城・水中の月・呼び声の響きのごとし』と。この不を以て法性を解せざる因縁のゆえに怖畏を生じ、怖畏を生ずるゆえに誹謗を生じ、仏経に非ずと説き邪見の説なりと言う。菩薩摩訶薩は善巧方便をもって漸々に修多羅の義を開き、意に随いて言わく一切法は無にあらず、一切法は説くべからざるがゆえに無法と名づけ、説くべからざる性は所有なきがゆえに無物と名づく。もし初めに不可説・無不可説性なくば、云何がよく有生有滅を説くべき。ゆえに無生無滅と説名す。もし無生滅ならばすなわち虚空と名づく。虚空の中に無量の色あり無量の業あり、諸色・諸業に障碍なし、いわゆる行住屈申俯仰なり。もしもかくのごとき諸色・諸業なくして虚空と名づくれば、すなわち虚空は宣説すべからざるなり。もし虚空のゆえに諸色・諸業あって宣説すべくば、虚空の性は宣説すべからざると言うを得ず。もしかの虚空説くべからざれば、諸色・諸業は云何が説くべけん。菩薩摩訶薩は聖智を得已りて、すなわち法界は宣説すべからざるを知る。そのとき菩薩は邪相を壊し、一切法は有り、一切法は説くべしと言う。菩薩は初めにかくのごとき聖智をもって衆生を教え、衆生は得已りて自ら法性の宣説すべからざるを見ること猶し虚空のごとし。ゆえに如来は一切法は虚空に同じと説き、幻の性相のごとく非有非無なり、聖人もまた非有非無と説く。幻もし定んで有らば、何の因縁をもってか時に見るべく時に見るべからざる。もし定んで無くば、云何が人をして種々の相を見せしむ。実に無きの法はまさに相を生ずべからず、一切法界もまたかくのごとし。諸凡夫に対しては名相ありと説き、名相あるがゆえに無と言うを得ず。第一義の性は説くべからざるがゆえに有と言うを得ず。ゆえに法界は幻のごとく無二なり。ゆえに菩薩は諸法界において取らず捨てず増さず減らさず、実には実を知りまた実を説く、これを菩薩の善随方便と名づける。 無障とは、菩薩摩訶薩は来たり求むる者を見て、かくのごとく言う『善男子よ、汝今もし三宝・父母・師長・沙門・婆羅門を供養せば、須いる所の物、衣・食・床臥・病薬・花香瓔珞・幡蓋伎楽・田宅屋舎・僕使・乗用・資生の物、ことごとくまさに汝に与えん』と。もし衆生ありて恐怖憂惧すれば、菩薩は言う『汝今もし三宝乃至婆羅門を供養せば、我まさに汝に衣食の須いる所乃至一切資生の具を給せん、またまさに汝の憂惧の事を救わん』と。もし病ある者あれば、また言う『汝今もし三宝乃至婆羅門を供養せば、我まさに汝のために良医を求め病を瞻み好薬・衣食乃至資生の具を給し、汝の病を愈せしめん』と。かくのごとき衆生もしよく菩薩の語を信受せば、菩薩はまさに種々の方便を作して必ず意のごとくせしむ。もし受けざれば、菩薩はそのときすなわち捨心を修む。もし信受すれば、菩薩は意に称うるがために作さざれば罪を得ず。菩薩はまず三宝・父母・師長を供養し戒を持ち精進するを教え、調えて阿耨多羅三藐三菩提を得せしむ。もし先に語を受け後には受けざれば、憐愍のゆえにすなわち瞋り呵するを現ずれども実の悪心にあらず、もし物を施さず使わざれば、実の嫌恨にあらず、調伏のためである。これを無障不動と名づける。 心相似とは、菩薩もし自在の身を得、王・大臣として多くの眷属あらば、まずかくのごとき言を唱う『もし我が境内および家中の人にして、三宝・父母・師長・沙門・婆羅門を供養すること能わず、戒を毀り懈怠ならば、我まさにその衣服飲食を断ち、打ち罵り繫縛し牢獄に閉じ、もしは殺しもしは擯ずべし。大臣に囑付して鑑察せしめ、誰か戒を持つを知り、誰か戒を毀るを知り、誰かよく父母三宝を供養し、誰か父母三宝を供養せざるを知らん』と。そのとき衆生は怖畏のゆえに諸悪を遠離し善法を修め集む、菩薩の心に似たり、これを相似方便と名づける。 報恩とは、菩薩もし檀越の衣服・飲食・臥具・病薬・房舎を受け、多きも少なきも、あるいは恐怖に遭いて人に救解せられ、あるいは病苦に遭いて療治する者あり、あるいは法を聞きて疑心を壊るあれば、菩薩摩訶薩は恩を念ずるゆえに、ことごとくこれらを教えて善法を行ぜしむ、これを報恩と名づける。菩薩の説法を衆生聞き已りて、すなわちよく三宝・父母・師長・沙門・婆羅門等を供養し戒を持ち精進すれば、これを報恩と名づける。 寂静とは、菩薩摩訶薩は畢竟菩提の地中に安住し、寂静菩提の道を修め集めて兜術天に生ず。まさに知るべし、久しからずして閻浮提に下り阿耨多羅三藐三菩提を得ん。衆生は聞き已りてことごとく発願して言わん『かくのごとき菩薩の成仏のとき、我らまさにこの仏法の中において出家学道せん』と。そのとき菩薩は閻浮提に下り、刹利・婆羅門の家に託生し、衆生のために五欲の楽を捨てる。出家学道し苦行を修し、苦行者として恭敬を生じ、苦の心を破らんがためである。苦行を修め已りて、阿耨多羅三藐三菩提を得、声聞縁覚の菩提心を壊らんがためである。すでに成道し已りて黙然として住し、釈梵天王来たりて勧請するがゆえである。梵天の啓請は、衆生をして正法の中に尊重を生ぜしめんがためである。そのとき世尊はすなわち仏眼をもって諸衆生を観じ、しかるのちに法を説く。仏眼をもって観ずるとは、悪名を破らんがためである。いわゆる衆生の言わく『如来はただ梵王の勧請のためなり、憐愍のためにはあらず』と。もし仏眼をもって衆生を観じて法輪を転ずれば、衆生の邪悪の輪を破らんがためである。法輪を転じ已りて衆を集めて戒を制す、衆生をして解脱を得せしめんがためである。これを菩薩の寂静方便と名づける。衆生をして信心を得せしめんがため、いまだ仏法に入らざる者をして入らしめんがため、いまだ熟せざる衆生をして熟せしめんがため、すでに熟せる衆生をして解脱を得せしめんがためである。

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