ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 大乗阿毘達磨雑集論 (大乘阿毘達磨雜集論)
  2. 第六 (第六)
  3. 2 決擇分
  4. 1 諦品
  5. 1 (1)
←と→
矢印キーでページをめくれます

大乗阿毘達磨雑集論 (大乘阿毘達磨雜集論)


決擇分中諦品第一之一

決択分の中の諦品 第一の一

復次略說決擇有四種,謂諦決擇、法決擇、得決擇、論議決擇。諦決擇復有四種,謂依苦集滅道四聖諦說。

さらに略して説けば、決択には四種があります。すなわち、諦決択、法決択、得決択、論議決択です。諦決択にもまた四種があり、苦・集・滅・道の四聖諦に基づいて説かれます。

苦諦云何?謂有情生及生所依處,即有情世間、器世間,如其次第。若生若生處,俱說名苦諦。有情生者,謂諸有情生在地獄、畜生、餓鬼、人、天趣中。人謂東毘提訶、西瞿陀尼、南贍部洲、北俱盧洲。天謂四大王眾天、三十三天、夜摩天、覩史多天、樂變化天、他化自在天,梵眾天、梵輔天、大梵天、少光天、無量光天、極光淨天、少淨天、無量淨天、遍淨天、無雲天、福生天、廣果天、無想有情天、無煩天、無熱天、善現天、善見天、色究竟天,無邊空處天、無邊識處天、無所有處天、非想非非想處天。生所依處即器世界,謂水輪依風輪、地輪依水輪。依此地輪,有蘇迷盧山、七金山、四大洲、八小洲、內海外海。蘇迷盧山四外層級四大王眾天,三十三天所居處別。外輪圍山虛空宮殿,若夜摩天、覩史多天、樂變化天、他化自在天,及色界天所居處別,諸阿素洛所居處別。及諸那落迦所居處別,謂熱那落迦、寒那落迦、孤獨那落迦,及一分傍生餓鬼所居處別。乃至一日一月周遍流光所照方處名一世界。如是千世界中有千日千月、千蘇迷盧山王、千四大洲、千四大王眾天、千三十三天、千夜摩天、千覩史多天、千樂變化天、千他化自在天、千梵世天,如是總名小千世界。千小千界總名第二中千世界。千中千世界總名第三大千世界。如此三千大千世界,總有大輪圍山周匝圍繞。又此三千大千世界同壞同成,譬如天雨滴如車軸無間無斷從空下注。如是東方無間無斷無量世界,或有將壞、或有將成、或有正壞、或壞已住、或有正成、或成已住。如於東方乃至一切十方亦爾。如是若有情世間若器世間,業煩惱力所生故、業煩惱增上所起故,總名苦諦。業煩惱力所生、業煩惱增上所起者,此二句如其次第,顯有情世間及器世間俱是苦性。復有清淨世界非苦諦攝,非業煩惱力所生故、非業煩惱增上所起故,然由大願清淨善根增上所引。此所生處不可思議,唯佛所覺,尚非得靜慮者靜慮境界,況尋思者。

苦諦とは何でしょうか。有情の生と、生の拠り所となる処、すなわち有情世間と器世間を、その順に説いたものです。生そのものも生の処も、ともに苦諦と名づけます。

有情の生とは、諸々の有情が地獄・畜生・餓鬼・人・天の趣に生まれることをいいます。人とは、東の毘提訶、西の瞿陀尼、南の贍部洲、北の俱盧洲です。天とは、四大王衆天・三十三天・夜摩天・覩史多天・楽変化天・他化自在天、梵衆天・梵輔天・大梵天、少光天・無量光天・極光浄天、少浄天・無量浄天・遍浄天、無雲天・福生天・広果天・無想有情天、無煩天・無熱天・善現天・善見天・色究竟天、無辺空処天・無辺識処天・無所有処天・非想非非想処天です。

生の拠り所となる処とは、すなわち器世間です。水輪は風輪に依り、地輪は水輪に依ります。この地輪に依って、蘇迷盧山、七金山、四大洲、八小洲、内海と外海があります。蘇迷盧山の四方の外の層には四大王衆天があり、三十三天の住む処もそれぞれ別です。外の輪囲山と虚空の宮殿には、夜摩天・覩史多天・楽変化天・他化自在天、および色界の天の住む処がそれぞれ別にあり、諸々の阿素洛の住む処もそれぞれ別です。また諸々の那落迦の住む処もそれぞれ別で、熱那落迦・寒那落迦・孤独那落迦があり、一部の傍生や餓鬼の住む処もそれぞれ別です。

さらに、一日と一月が周遍して光を放ち照らす方処を、一世界と名づけます。このように千世界のうちには千の日と千の月、千の蘇迷盧山王、千の四大洲、千の四大王衆天、千の三十三天、千の夜摩天、千の覩史多天、千の楽変化天、千の他化自在天、千の梵世天があり、これらを総じて小千世界と名づけます。千の小千世界を総じて第二の中千世界と名づけます。千の中千世界を総じて第三の大千世界と名づけます。このような三千大千世界には、総じて大きな輪囲山が周りを取り囲んでいます。

また、この三千大千世界はともに壊れ、ともに成ります。ちょうど天から車軸のような雨滴が間断なく虚空から注ぎ下るようなものです。このように東方にも間断なく無量の世界があり、あるものはまさに壊れようとし、あるものはまさに成ろうとし、あるものはまさに壊れつつあり、あるものは壊れ終わって存続し、あるものはまさに成りつつあり、あるものは成り終わって存続しています。東方においても、また一切の十方においても同じです。

このように、有情世間であれ器世間であれ、業と煩悩の力によって生じたものであり、業と煩悩の増上によって起こったものであるから、総じて苦諦と名づけます。業と煩悩の力によって生じたもの、業と煩悩の増上によって起こったもの、この二句はその順に、有情世間と器世間がともに苦の性質であることを示しています。

また、清浄な世界があり、これは苦諦に含まれません。業と煩悩の力によって生じたものではないからであり、業と煩悩の増上によって起こったものではないからです。しかし、大きな願と清浄な善根の増上によって引き出されたものです。この生じる処は不可思議であり、ただ仏だけが覚知されるもので、静慮を得た人にとってもまだ静慮の境界ではないのですから、まして尋思する者にとってはなおさらです。

復次已略辯苦諦相,今當廣顯諸經所說苦相差別,所謂生苦、老苦、病苦、死苦、怨憎會苦、愛別離苦、求不得苦,略攝一切五取蘊苦。生何因苦?眾苦所逼故、餘苦所依故。眾苦所逼者,謂曾於母胎生熟藏間具受種種極不淨物所逼迫苦,正出胎時復受支體逼切大苦。餘苦所依者,謂有生故老病死等眾苦隨逐。老何因苦?時分變壞苦故。病何因苦?大種變異苦故。死何因苦?壽命變壞苦故。怨憎會何因苦?合會生苦故。愛別離何因苦?別離生苦故。求不得何因苦?所希不果生苦故。略攝一切五取蘊何因苦?麁重苦故。如是八種略攝為六,謂逼迫苦、轉變苦、合會苦、別離苦、所希不果苦、麁重苦。如是六種廣開為八,轉變苦中分三種故。若六若八平等平等。問:如說三苦,此中八苦為三攝八、八攝三耶?答:展轉相攝。所謂生苦乃至怨憎會苦能顯苦苦,順苦受法苦自相義故。愛別離苦、求不得苦能顯壞苦,已得未得順樂受法壞自相義故。略攝一切五取蘊苦能顯行苦,不解脫二無常所隨不安隱義故。問:如說二苦,謂世俗諦苦、勝義諦苦。何者世俗苦?何者勝義苦?答:生苦乃至求不得苦,是世俗諦苦,世間智境界故。略攝一切五取蘊苦,是勝義諦苦,由安立真如門出世智境界故。

次に、苦諦の相についてはすでに概略を述べましたので、ここでは諸経に説かれる苦の相の違いを広く明らかにしましょう。すなわち生苦、老苦、病苦、死苦、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦であり、略して一切の五取蘊の苦を摂します。

生は何によって苦なのでしょうか。衆苦に逼められるからであり、他の苦の依り所となるからです。衆苦に逼められるとは、かつて母胎の生熟蔵の間で種々の極めて不浄な物に逼められる苦を具に受け、まさに出胎する時にはさらに肢体を逼切される大きな苦を受けるということです。他の苦の依り所となるとは、生があるがゆえに老・病・死などの衆苦が随い従うということです。

老は何によって苦なのでしょうか。時分が変壊する苦であるからです。病は何によって苦なのでしょうか。大種が変異する苦であるからです。死は何によって苦なのでしょうか。寿命が変壊する苦であるからです。怨憎会は何によって苦なのでしょうか。合会することから苦が生じるからです。愛別離は何によって苦なのでしょうか。別離することから苦が生じるからです。求不得は何によって苦なのでしょうか。希求するものが果たされないことから苦が生じるからです。略して一切の五取蘊を摂するとは何によって苦なのでしょうか。麁重の苦であるからです。

このように八種は略して六種に摂められます。すなわち逼迫苦、転変苦、合会苦、別離苦、所希不果苦、麁重苦です。このように六種は広げて八種に開かれます。転変苦の中を三種に分けるからです。六であれ八であれ、平等に平等です。

問:三苦が説かれる通り、ここでの八苦は、三苦が八苦を摂するのでしょうか、八苦が三苦を摂するのでしょうか。 答:互いに相摂します。いわゆる生苦から怨憎会苦に至るまでは苦苦を顕すことができます。苦受に順ずる法は苦の自相の義であるからです。愛別離苦と求不得苦は壊苦を顕すことができます。すでに得たもの、いまだ得ないものの、楽受に順ずる法は壊の自相の義であるからです。略して一切の五取蘊の苦を摂するとは行苦を顕すことができます。二つの無常から解脱せず、随逐されて安隠でない義であるからです。

問:二苦が説かれる通り、すなわち世俗諦の苦と勝義諦の苦です。どれが世俗の苦で、どれが勝義の苦でしょうか。 答:生苦から求不得苦に至るまでは、これが世俗諦の苦です。世間の智の境界であるからです。略して一切の五取蘊の苦を摂するとは、これが勝義諦の苦です。真如を安立する門による出世間の智の境界であるからです。

復次諸觀行者於苦聖諦以四種行觀察共相,謂無常相、苦相、空相、無我相。

さらに、諸々の観行者の方々は、苦聖諦について四種の行をもって共相を観察します。すなわち、無常相・苦相・空相・無我相です。

無常相者略有十二,謂非有相、壞滅相、變異相、別離相、現前相、法爾相、剎那相、相續相、病等相、種種心行轉相、資產興衰相、器世成壞相。非有相者,謂蘊界處於一切時我我所性常非有故。言無常者,是非有義,由苦聖諦恒無有我我所自性。無者,是除遣義。常者,是一切時義。以常無故,名曰無常。壞滅相者,謂諸行生已即滅、暫有還無故。變異相者,謂諸行異異生,由不相似相續轉故。別離相者,謂於諸行失增上力,或他所攝執為己有,以於資具等事或時自在失壞、或他陵奪為己有故。現前相者,謂正處無常,由因隨逐今受無常故。法爾相者,謂當來無常,由因隨逐定當受故,死無常性決定當受。剎那相者,謂諸行剎那後必不住,諸行念念劣得自體無間必壞故。相續相者,謂無始時來諸行生滅相續不斷,由無始生死展轉相乘輪迴不絕故。病等相者,謂四大時分壽命變異,由四大乖違齒髮疎落等,住時勢盡故。種種心行轉相者,謂於一時起有貪心、或於一時起離貪心,如是有瞋離瞋、有癡離癡,若合若散、若下若舉、若掉離掉、若不寂靜若寂靜、若定不定,如是等心行流轉,由住能治所治位差別故。資產興衰相者,謂諸興盛終歸衰變,由諸世間富貴榮盛不可愛樂非究竟故。器世成壞相者,謂火水風三種成壞,由火水風災令大地等數成壞故,能燒浸燥,如其次第。又有三災頂,謂第二第三第四靜慮,由火水風能壞世界安立處所,乃至第一第二第三靜慮邊際。次上所餘,名三災頂,如其次第第二第三第四靜慮處所差別。第四靜慮外宮殿等,雖無外災成壞,然彼諸天與宮殿等俱生俱滅,說有成壞。由彼有情初生時與宮殿等俱生、終沒時與彼俱滅,即說此為成壞故。又有三種中劫,所謂飢饉、疫病、刀兵,此小三災劫究竟滿方乃出現。謂世界成已一中劫初唯減,一中劫後唯增,十八中劫亦增亦減。一中劫初唯減者,謂劫成時第二十一劫。一中劫後唯增者,謂最後劫。十八中劫亦增亦減者,謂於中間十八。二十中劫世界正壞,二十中劫世界壞已住,二十中劫世界正成,二十中劫世界成已住,合此八十中劫為一大劫。由此劫數顯色無色界諸天壽量,如說以壽盡故、福盡故、業盡故,彼彼有情從彼彼處沒。云何壽盡?謂時死,此約時沒說,由所引壽時分究竟應時死故。云何福盡?謂非時死,即非福死,此約非時沒說。以彼有情貪著定味,福力減盡因此命終,由愛定味損害所修引壽業力非時死故。云何業盡?謂順生受業、順後受業俱盡故死,此約相續沒說,由於此處順生後受業受用斯盡,以無業故不復生此。

無常の相には、大きく分けて十二種があります。すなわち、非有相・壊滅相・変異相・別離相・現前相・法爾相・刹那相・相続相・病等相・種々の心行の転相・資産の興衰相・器世の成壊相です。

非有相とは、蘊・界・処がいついかなる時にも、我や我に属するものという性質を常に持たないことです。無常と言う場合、それは「非有」の意味です。苦聖諦には常に我や我に属するものという自性がないからです。「無」とは除き去るという意味です。「常」とは一切の時という意味です。常なるものが無いので、無常と名づけます。

壊滅相とは、諸行は生じたその場でただちに滅し、しばらくは有ってもすぐに無に還ることです。

変異相とは、諸行が異なる異なるあり方で生じ、似ていない相が続いて移り変わっていくことです。

別離相とは、諸行に対して増上力が失われること、あるいは他に属するものを自分のものと執着することです。資具などの事柄について、ある時は自在に使えたものが失われ壊れ、ある時は他人に奪われて他人のものとなるからです。

現前相とは、まさに今、無常の只中にあることです。因がつき従ってきた結果、今、無常を受けているからです。

法爾相とは、未来の無常のことです。因がつき従ってきた結果、必ず受けることになるからです。死という無常の性質は、必ず受けることが定まっています。

刹那相とは、諸行は刹那の後には必ずとどまらず、念念に劣った自体を得て、間断なく必ず壊れることです。

相続相とは、無始の昔から諸行の生滅が相続して断えないことです。無始の生死が展転して乗り合い、輪廻が絶えないからです。

病等相とは、四大と時分と寿命が変異することです。四大の調和が乱れて歯が抜け髪が落ちるなど、とどまる力が尽きるからです。

種々の心行の転相とは、ある時は貪りの心が起こり、ある時は貪りを離れた心が起こるということです。同じように、瞋りがあるか瞋りを離れるか、痴があるか痴を離れるか、合するか散じるか、下がるか挙がるか、掉挙があるか掉挙を離れるか、寂静でないか寂静であるか、定であるか定でないか、このような心行が流転することです。対治される側と対治する側の位の違いによるからです。

資産の興衰相とは、もろもろの興盛もついには衰変に帰することです。世間の富貴栄盛は愛楽すべきものではなく、究竟しないからです。

器世の成壊相とは、火・水・風の三種による成壊のことです。火・水・風の災いが大地などを繰り返し成し壊すからです。焼き、浸し、乾かすという順に働きます。

また三災の頂があります。第二・第三・第四静慮です。火・水・風が世界の安立する場所を壊すことが、第一・第二・第三静慮の辺際にまで及ぶからです。その上に残るものを三災の頂と名づけ、順に第二・第三・第四静慮の処所の違いとします。第四静慮の外の宮殿などは、外からの災いによる成壊はありませんが、そこの諸天は宮殿などとともに生まれともに滅するので、成壊があると説きます。それらの有情は初めに生まれる時、宮殿などとともに生まれ、終わりに没する時、それらとともに滅するからです。これを成壊と説くのです。

また三種の中劫があります。すなわち飢饉と疫病と刀兵です。この小三災は劫が究竟して満ちてから現れます。世界が成ってから、一の中劫の初めはただ減るだけで、一の中劫の後はただ増えるだけで、十八の中劫は増えも減りもします。一の中劫の初めにただ減るだけとは、劫が成る時の第二十一劫のことです。一の中劫の後にただ増えるだけとは、最後の劫のことです。十八の中劫が増えも減りもするとは、中間の十八のことです。二十の中劫で世界はまさに壊れ、二十の中劫で世界は壊れたままにとどまり、二十の中劫で世界はまさに成り、二十の中劫で世界は成ったままにとどまります。この八十の中劫を合わせて一大劫とします。

この劫の数によって、色界・無色界の諸天の寿量が示されます。寿が尽きたから、福が尽きたから、業が尽きたから、それぞれの有情はそれぞれの場所から没すると説かれるとおりです。

寿が尽きるとは何でしょうか。時死のことです。これは時に没するについて説いたもので、引かれた寿の時分が究竟し、時が来て死ぬべきだからです。

福が尽きるとは何でしょうか。非時死のこと、すなわち福でない死のことです。これは時にあらずして没するについて説いたものです。それらの有情は定の味に貪着し、福の力が減り尽きて、それによって命終します。定の味を愛することによって、修めた引寿の業力が損なわれ、時にあらずして死ぬからです。

業が尽きるとは何でしょうか。順生受業と順後受業がともに尽きて死ぬことです。これは相続について没することを説いたものです。この場所で順生受業・順後受業の業を使い果たし尽くし、業がないので再びここに生まれないからです。

苦相者,或三或八或六,廣說如前。何故經說若無常者即是苦耶?由三分無常為緣,苦相可了知故。謂生分無常、滅分無常、俱分無常。生分無常為緣故,苦苦性可了知。生分無常者,謂本無今有,苦品諸行體是逼迫,由此無常為緣,苦苦性可了知。滅分無常為緣,壞苦性可了知。滅分無常者,謂已有還無,樂品諸行不可愛樂,由此無常為緣,壞苦性可了知。俱分無常為緣,行苦性可了知。俱分無常者,謂麁重諸行相續流轉,若生若滅俱不可樂。由此俱分無常為緣,行苦性可了知。即依此義,薄伽梵說:諸行無常,諸行變壞。又依此義,言:諸所有受我說皆苦。當知此中於不苦不樂受及樂受,密意故說苦苦。受苦性,世間共了故,不復密意說。又於生滅二法所隨諸行中有生等八苦,性可了知故,佛說言:若無常者即是苦。又於無常諸行中有生等苦可了者,如來依此密意說言:由無常故苦,非一切行。若不爾,聖道無常故亦應是苦。

苦の相とは、三つ、あるいは八つ、あるいは六つであり、詳しい説明は前述のとおりです。なぜ経典に「無常であればそれは苦である」と説かれているのでしょうか。三つの無常が縁となって、苦の相が理解できるからです。すなわち、生分の無常、滅分の無常、倶分の無常です。

生分の無常が縁となるので、苦苦の性質が理解できます。生分の無常とは、もともと存在しなかったものが今ここに存在することであり、苦に属する諸行の本体は逼迫であることです。この無常が縁となることで、苦苦の性質が理解できるのです。

滅分の無常が縁となるので、壊苦の性質が理解できます。滅分の無常とは、すでに存在していたものが再び無に帰することであり、楽に属する諸行は愛楽すべきものではないということです。この無常が縁となることで、壊苦の性質が理解できるのです。

倶分の無常が縁となるので、行苦の性質が理解できます。倶分の無常とは、麁重なる諸行が相続して流転し、生じることも滅することもともに楽しむべきではないということです。この倶分の無常が縁となることで、行苦の性質が理解できるのです。

まさにこの意味に基づいて、薄伽梵(世尊)は「諸行は無常であり、諸行は変壊する」と説かれました。またこの意味に基づいて、「およそすべての受は、私はみな苦であると説く」と言われました。ここで知っておくべきことは、不苦不楽受および楽受については、密意によって苦苦と説かれたということです。受苦の性質は世間が共通に理解していることなので、改めて密意をもって説かれることはありません。

また、生と滅の二法に随う諸行の中には、生などの八苦があり、その性質が理解できるからこそ、仏は「無常であればそれは苦である」と説かれたのです。また、無常なる諸行の中に生などの苦として理解できるものがあるので、如来はこれに基づく密意によって「無常であるがゆえに苦である」と説かれましたが、すべての行がそうであるわけではありません。そうでなければ、聖道も無常であるがゆえに苦であるはずです。

空相者,謂若於是處此非有,由此理正觀為空;若於是處餘是有,由此理如實知有。是名善入空性。如實知者,不顛倒義。問:於何處誰非有?答於蘊界處常恒凝住不變壞法我我所等非有,由此理彼皆是空。問:於是處誰餘有?答:即此處無我性。此我無性、無我有性,是謂空性。由彼諸行常等相我此中無故。諸行恒時離我性相,無我真性此中有故,非一向無,此俱名空性。故薄伽梵密意說言:有如實知有,無如實知無。又有三種空性,謂自性空性、如性空性、真性空性。初依遍計所執自性觀,由此自相定非有故。第二依依他起自性觀,由此如所計度皆非有故。第三依圓成實自性觀,由此即空真性故。

空性の相とは、あるところでこれが存在しない場合、その理によって正しく観察して空とします。あるところで他のものが存在する場合、その理によってありのままに存在すると知ります。これを空性に善く入ることと名づけます。ありのままに知るとは、顛倒のないという意味です。

問い:どこで、何が存在しないのでしょうか。答え:蘊・界・処において、常に恒に凝り住して変壊しない法、すなわち我や我所などが存在しません。その理によって、それらはみな空です。

問い:そこで、何が他のものとして存在するのでしょうか。答え:まさにそのところに無我の性があります。この我の無性、無我の有性、これを空性といいます。それらの諸行には常などの相という我がここにないからです。諸行は常に我の性の相を離れており、無我の真性がここに存在するからです。まったく無というわけではなく、これらをともに空性と名づけます。それゆえ薄伽梵は密意をもって「有はありのままに有ると知り、無はありのままに無いと知る」と説かれました。

また三種の空性があります。自性空性、如性空性、真性空性です。第一は遍計所執の自性に基づいて観察します。その自相が定めて存在しないからです。第二は依他起の自性に基づいて観察します。計度されたとおりのものはみな存在しないからです。第三は円成実の自性に基づいて観察します。すなわち空の真性であるからです。

無我相者,謂如我論者所立我相蘊界處非此相,由蘊界處我相無故,名無我相。我論外道計度諸行為我,彼諸行非此相故名無我。故薄伽梵密意說言:一切法皆無我。如世尊說:此一切非我所,此非我處、此非我我。於如是義,應以正慧如實觀察。此言何義?謂於外事密意說此一切非我所,於內事密意說此非我處、此非我我所。所以者何?以於外事唯計我所相,是故但遣我所。於內事通計我我所相,是故雙遣我我所。

無我相とは、我論を唱える者たちが立てる我相が蘊・界・処にあるのに対し、この相ではないことをいいます。蘊・界・処に我相がないからこそ、無我相というのです。我論の外道は諸行を我と計度しますが、それらの諸行はこの相ではないので、無我といいます。それゆえ薄伽梵は密意をもって「一切法は皆、無我である」と説かれました。世尊が説かれた通りです。「これらすべては我の所有ではない、これは我の処ではない、これは我でも我の所有でもない」と。このような意味について、正しい慧をもって如実に観察すべきです。

この言葉は何を意味するのでしょうか。外の事については密意をもって「これらすべては我の所有ではない」と説き、内の事については密意をもって「これは我の処ではない、これは我でも我の所有でもない」と説かれています。なぜでしょうか。外の事についてはただ我所の相のみを計るので、それゆえただ我所を除くのです。内の事については我と我所の相を併せて計るので、それゆえ我と我所の両方を除くのです。

問:前說無常皆剎那相。此云何知?答:如心心法是剎那相,當知色等亦剎那相,由心執受故、等心安危故、隨心轉變故、是心所依故、心增上生故、心自在轉故。又於最後位變壞可得故、生已不待緣自然壞滅故,當觀色等亦念念滅。諸無常行壞滅等相、心心法剎那相,世間共了,更不重辯。諸色等法剎那滅相,世不共了,故今成立。由心執受者,謂色等身,由剎那心念念執受故剎那滅。等心安危者,謂色等身恒與識俱,識若捨離即便爛壞,由身與心安危等故,決定如心念念生滅。隨心轉變者,謂世間現見,心在苦樂貪瞋等位身隨轉變,隨剎那心而轉變故身念念滅。是心所依者,謂世間共知,心依止有根身。若法依此生,非此自無壞。能依有可見,如火芽等依薪種等。是故此身是剎那心所依止故,亦剎那滅。心增上生者,謂一切內外色皆心增上所生,能生因剎那滅故,所生果亦剎那滅。如世尊說:諸因諸緣能生於色,彼亦無常,無常因緣力所生故,色云何常?隨此經句義,身定剎那滅。心自在轉者,謂若證得勝威德心,於一切色如其所欲自在轉變,由隨剎那能變勝解轉變生故,色等剎那道理成就。於最後位變壞可得者,謂諸色等初離自性念念變壞,於最後位欻爾變壞不應道理;然此可得,故知色等從初已來念念變壞,自類相續漸增為因,能引最後麁相變壞,是故色等念念生滅。生已不待緣自然壞滅者,謂一切法從緣生已,不待壞緣自然壞滅,以不待餘緣自然壞滅故,最初生已決定壞滅。若言生已初無滅壞、後方有者,不然,無差別故。故知一切可滅壞法,初纔生已即便壞滅,是故諸法剎那義成。

問:先に説かれた無常はすべて刹那の相であるといいますが、これはどうして知ることができるのでしょうか。答:心と心所の法が刹那の相であるように、色などの法もまた刹那の相であると知るべきです。心に執受されるからであり、心と安危を等しくするからであり、心に随って転変するからであり、心の所依であるからであり、心を増上縁として生じるからであり、心の自在の転変に随うからです。また、最後の位において変壊することが認められるからであり、生じた後は縁を待たずして自然に壊滅するからであり、色などもまた念念に滅すると観察すべきです。諸々の無常の行の壊滅などの相、および心と心所の法の刹那の相は、世間が共に了知しているので、改めて論じる必要はありません。諸々の色などの法の刹那滅の相は、世間が共に了知していないので、ここで成立させるのです。

心に執受されるからとは、色などの身体は、刹那の心が念念に執受するがゆえに刹那に滅するということです。心と安危を等しくするからとは、色などの身体は常に識と俱にあり、識がもし捨離すればたちまち爛壊するということです。身体と心が安危を等しくするがゆえに、決定して心のように念念に生滅すると知るのです。心に随って転変するからとは、世間において現に見られることとして、心が苦・楽・貪・瞋などの位にあるとき身体が随って転変するということです。刹那の心に随って転変するがゆえに、身体も念念に滅するのです。心の所依であるからとは、世間が共に知っていることとして、心は有根の身体に依止するということです。もし法がこれに依って生じるならば、これが自ら無くなることはありません。能依のものに壊れることが見られるからです。ちょうど火や芽などが薪や種などに依るようなものです。したがってこの身体は刹那の心の所依であるがゆえに、また刹那に滅するのです。心を増上縁として生じるからとは、すべての内外の色はみな心を増上縁として生じるものであり、能生の因が刹那に滅するがゆえに、所生の果もまた刹那に滅するということです。世尊が説かれたとおりです。「諸々の因と諸々の縁が色を生じることができ、それらもまた無常であり、無常の因縁の力によって生じたものであるから、色がどうして常でありえましょうか」と。この経句の義に随えば、身体は必ず刹那に滅するのです。心の自在の転変に随うからとは、もし殊勝な威徳の心を証得すれば、すべての色に対して欲するままに自在に転変するということです。刹那ごとに能変の勝解の転変に随って生じるがゆえに、色などが刹那である道理が成就するのです。

最後の位において変壊することが認められるからとは、諸々の色などが初めから自性を離れて念念に変壊し、最後の位においてにわかに変壊するというのは道理に合いません。しかしこの変壊が認められるがゆえに、色などは初めからすでに念念に変壊し、自類の相続が漸増することを因として、最後の粗い相の変壊を引き起こすことができると知るのです。したがって色などは念念に生滅するのです。生じた後は縁を待たずして自然に壊滅するからとは、すべての法は縁から生じた後、壊滅の縁を待たずして自然に壊滅するということです。他の縁を待たずして自然に壊滅するがゆえに、最初に生じた後は決定して壊滅します。もし「生じた後、初めには滅壊がなく、後に方(まさ)に有る」と言うならば、そうではありません。差別がないからです。したがってすべての滅壊しうる法は、初めに生じたばかりですでに壊滅すると知るべきです。このゆえに諸法の刹那の義が成立するのです。

問:如世尊說,諸所有色,彼一切若四大種若四大種所造。此依何意說?答:依容有意,說同在一處。依此而有,是造義。由所造色離大種處別自建立無功能故,若於此聚此大種可得,當知此聚唯有此大種非餘。或有聚唯一大種,如乾泥團等。或有二大種,謂即此濕。或有三大種,謂即此煖。或有一切大種,謂即此濕煖泥團等。於移轉位所造色亦爾。若於此聚此所造色可得,當知此聚唯此非餘。或有聚唯一所造色,如光等。或有二所造色,如有聲香風等。或有三所造色,如香煙等。由此香煙有色香觸差別所顯故。觸差別者,謂此中輕性。或有四所造色,如沙糖團等。或有五所造色,謂即此有聲時。又若於此聚大種造色隨分可得,當知此中有此非餘。此依麁物說非種子,一一聚中有一切種子故。

問:世尊が説かれたように、すべての色は、四大種であるか、四大種によって造られたものであるか、そのいずれかです。これはどのような意味で説かれたのでしょうか。答:同一の場所に共にあるという、容有の意味によって説かれたのです。これによって存在するのが、造られたものという意味です。所造色は、大種の場所を離れて別に自らを建立する働きがないからです。ですから、この集まりの中にこの大種が認められるなら、その集まりにはただこの大種だけがあって、他のものはないと知るべきです。ある集まりにはただ一種の大種だけがあります。乾いた泥の団子などがそれです。あるものには二種の大種があります。すなわち、この湿った泥団子などです。あるものには三種の大種があります。すなわち、この温かい泥団子などです。あるものにはすべての大種があります。すなわち、この湿り・温かさ・泥団子などです。移り変わる段階にある所造色についても同じです。この集まりの中にこの所造色が認められるなら、その集まりにはただこれだけがあって、他のものはないと知るべきです。ある集まりにはただ一種の所造色だけがあります。光などがそれです。あるものには二種の所造色があります。声や香のある風などがそれです。あるものには三種の所造色があります。香の煙などがそれです。この香の煙は、色・香・触の区別によって示されるからです。触の区別とは、ここでは軽やかさという性質のことです。あるものには四種の所造色があります。砂糖の塊などがそれです。あるものには五種の所造色があります。すなわち、これに声がある場合です。また、この集まりの中に大種と所造色がそれぞれの分だけ認められるなら、その中にはこれだけがあって他のものはないと知るべきです。これは粗い物質について説いたものであって、種子についてではありません。一つ一つの集まりの中にすべての種子があるからです。

又說麁聚色極微集所成者,當知此中極微無體無實無性,唯假建立,展轉分析無限量故。但由覺慧漸漸分析,細分損減乃至可析邊際,即約此際建立極微。問:若諸極微無實體性,何故建立?答:為遣一合想故。若以覺慧分分分析所有諸色,爾時妄執一切諸色為一合想即便捨離,由此順入數取趣無我性故。又為悟入諸所有色非真實故。若以覺慧如是分析所有諸色至無所有,爾時便能悟入諸色皆非真實,因此悟入唯識道理,由此順入諸法無我性故。

また、粗大な集合色は極微が集まって成るものであると説かれています。ここで知っておくべきは、極微には実体がなく、実在せず、固有の性質もなく、ただ仮に立てられたものにすぎないということです。どこまでも分析を重ねていけば限量がないからです。ただ覚慧によって少しずつ分析し、細分を減らしていって、ついに分析しうる限界に至ります。そこでこの限界に即して極微を立てるのです。

問い:もし諸々の極微に実体としての性質がないのであれば、なぜこれを立てるのでしょうか。

答え:一合の想いを除き去るためです。もし覚慧によってすべての色を細かく細かく分析していくなら、そのとき、すべての色を一つのまとまりと見なす虚妄の執着はただちに捨て去られます。これによって順次、数取趣すなわち人には無我の性質があることへと入っていくからです。また、すべての色が真実ではないことを悟り入るためでもあります。もし覚慧によってこのようにすべての色を分析し、無所有にまで至るなら、そのときすべての色はみな真実ではないと悟り入ることができます。これによって唯識の道理を悟り入り、これによって順次、諸法に無我の性質があることへと入っていくからです。

復次苦法略有八種差別,謂有廣大不寂靜苦、有寂靜苦、有寂靜不寂靜苦、有中不寂靜苦、有微薄不寂靜苦、有微薄寂靜苦、有極微薄寂靜苦、有非苦似苦住大寂靜。云何廣大不寂靜苦?謂生欲界未曾積集諸善根者,由欲界一切生趣苦具足所顯故、未集善根不能遮止往諸趣故,如其次第名廣大不寂靜苦。云何寂靜苦?謂即此已生順解脫分善根者,決定趣向般涅槃故。云何寂靜不寂靜苦?謂即此為世間道離欲已種善根者,由即此欲界苦為世間道離欲已種善根者決定超越苦苦等故,然非畢竟故,如其次第。如是中不寂靜苦等隨所應當釋。云何中不寂靜苦?謂生色界遠離順解脫分者。云何微薄不寂靜苦?謂生無色界遠離順解脫分者。云何微薄寂靜苦?謂諸有學。云何極微薄寂靜苦?謂諸無學命根住緣六處。云何非苦似苦住大寂靜?謂已得究竟菩薩摩訶薩等,乘大悲願力故生諸有中,由能除滅無量眾生相續大苦故,名住大寂靜。

次に、苦の法には概して八種の区別があります。すなわち、広大にして不寂静なる苦があり、寂静なる苦があり、寂静にして不寂静なる苦があり、中なる不寂静の苦があり、微薄なる不寂静の苦があり、微薄なる寂静の苦があり、極めて微薄なる寂静の苦があり、苦ではないが苦に似て大寂静に住するものがあります。

広大にして不寂静なる苦とは何でしょうか。欲界に生まれ、いまだ諸々の善根を積み集めたことのない者をいいます。欲界のあらゆる生趣の苦が具足していることによって示され、善根を集めていないために諸趣へ赴くことを遮止できないからです。その次第のとおりに、広大にして不寂静なる苦と名づけます。

寂静なる苦とは何でしょうか。まさにこの者がすでに解脱に順ずる分の善根を生じた者であり、決定して般涅槃へと趣向するからです。

寂静にして不寂静なる苦とは何でしょうか。まさにこの者が、世間の道によってすでに欲を離れ、善根を種えた者であることをいいます。この欲界の苦が、世間の道によって欲を離れ善根を種えた者にとって、決定して苦苦などを超越するからであり、しかし畢竟ではないからです。その次第のとおりです。このように、中なる不寂静の苦なども、しかるべきに応じて解釈します。

中なる不寂静の苦とは何でしょうか。色界に生まれ、解脱に順ずる分から遠く離れた者をいいます。

微薄なる不寂静の苦とは何でしょうか。無色界に生まれ、解脱に順ずる分から遠く離れた者をいいます。

微薄なる寂静の苦とは何でしょうか。諸々の有学をいいます。

極めて微薄なる寂静の苦とは何でしょうか。諸々の無学にして、命根が六処を縁として住する者をいいます。

苦ではなく苦に似て大寂静に住するものとは何でしょうか。すでに究竟を得た菩薩摩訶薩などをいいます。大悲の願力に乗じて諸々の有の中に生まれ、無量の衆生の相続する大いなる苦を除滅することができるからです。大寂静に住すると名づけます。

復次前說死苦。死有三種,謂或善心死、或不善心死、或無記心死。善心死者,謂於明利心現行位,或由自善根力所持故、或由他所引攝故,發起善心趣命終位。不善心死者,謂亦於明利心現行位,或由自不善根力所持故、或由他所引攝故,起不善心趣命終位。無記心死者,謂若於明利心現行位、若於不明利心現行位,或由闕二緣故、或由加行無功能故,起無記心趣命終位。此中所言善等心死者,當知依我愛相應將命終心位前說。修淨行者臨命終位,於身下分先起冷觸。不淨行者臨命終位,於身上分先起冷觸。又不淨行者中有生時,其相顯現如黑羊羔光,或如陰闇夜分。修淨行者中有生時,其相顯現如白練光,或如晴明夜分。又此中有,在欲色界正受生位,亦從無色界命終後位,亦名意生健達縛等,極住七日,或有中夭,或時移轉。言意生者,謂受化生身,唯心為因故。香所引故,名健達縛,是隨逐於香往受生處義。極住七日或有中夭者,此約速得生緣者說。若過七日不得生緣,必定命終還生中有。如是展轉乃至七返,更不得過。或時移轉者,謂於此位往餘生處,強緣現前,如得第四靜慮起阿羅漢增上慢比丘,彼地中有生時,由謗解脫邪見故,轉生地獄中有。又住中有中亦能集諸業,先串習力所引善等思現行故。又能覩見同類有情,謂先所共行善不善者,如於夢中見己與彼現同遊戲。又中有形,似當生處如當生處前時有形而起故。又此中有所趣無礙,如具神通往來迅速,仍於生處有所拘礙。又此中有於所生處,如稱兩頭低昂道理,終沒結生時分亦爾。又住中有中,於所生處發起貪愛,亦用餘煩惱為緣助。此中有身與貪俱滅、羯邏藍身與識俱生,此唯是異熟。自此已後根漸生長,如緣起中說於四生類,或受卵生、或受胎生、或受濕生、或受化生。如緣起中說者,謂名色等前後次第,如說:

次に、先に説いた死の苦しみについて述べます。死には三種があります。すなわち、あるいは善心で死ぬこと、あるいは不善心で死ぬこと、あるいは無記心で死ぬことです。

善心で死ぬとは、明利な心が現行している位において、あるいは自らの善根の力に支えられるゆえに、あるいは他によって引き摂められるゆえに、善心を発起して命終の位に向かうことです。不善心で死ぬとは、同じく明利な心が現行している位において、あるいは自らの不善根の力に支えられるゆえに、あるいは他によって引き摂められるゆえに、不善心を起こして命終の位に向かうことです。無記心で死ぬとは、明利な心が現行している位であれ、明利でない心が現行している位であれ、あるいは二つの縁を欠くゆえに、あるいは加行に功能がないゆえに、無記心を起こして命終の位に向かうことです。

ここで善心などで死ぬと言うのは、我愛と相応してまさに命終しようとする心の位について、先に説いたとおりに理解すべきです。

浄行を修める者は臨命終の位に、身体の下の部分にまず冷たい触れを生じます。不浄行の者は臨命終の位に、身体の上の部分にまず冷たい触れを生じます。

また不浄行の者が中有に生まれるとき、その相が現れます。黒い子羊の光のようであり、あるいは陰暗な夜のようであります。浄行を修める者が中有に生まれるとき、その相が現れます。白い練り絹の光のようであり、あるいは晴れ明るい夜のようであります。

またこの中有は、欲界・色界において正しく受生する位にあり、また無色界から命終した後の位にもあります。また意生・健達縛などとも名づけられ、極めて七日間とどまり、あるいは中夭することもあり、あるいは時に移転することもあります。

意生と言うのは、化生の身を受けることをいい、ただ心のみを因とするゆえです。香に引かれるゆえに健達縛と名づけます。これは香を追い求めて受生の処へ往くという意味です。極めて七日間とどまり、あるいは中夭するとは、速やかに生縁を得る者について説いたものです。もし七日を過ぎても生縁を得なければ、必ず命終して還って中有に生まれます。このように展転して乃至七返に及び、さらにそれを過ぎることはありません。あるいは時に移転するとは、この位において他の生処へ往くことをいい、強い縁が現前するゆえです。たとえば第四静慮を得て阿羅漢と増上慢した比丘は、彼の地の中有に生まれるとき、解脱を謗る邪見のゆえに、転じて地獄の中有に生まれます。

また中有にとどまる中でも、もろもろの業を集めることができます。先に串習した力に引かれた善などの思が現行するゆえです。また同じ類の有情を見ることもできます。先に共に善不善を行った者であり、夢の中で自分と彼とが現に同じく遊んでいるのを見るようなものです。

また中有の形は、まさに生まれる処に似ています。まさに生まれる処の先の時の形に似て起こるゆえです。またこの中有の趣くところには障碍がなく、神通を具えた者が往来して迅速なようなものです。しかしなお生処においては拘碍があります。またこの中有は所生の処において、秤の両の端が低く高くなる道理のように、終没と結生の時分もまたそのとおりです。

また中有にとどまる中で、所生の処に対して貪愛を発起し、また他の煩悩を縁として助けとします。この中有の身は貪とともに滅し、羯邏藍の身は識とともに生じます。これはただ異熟のみです。これより以後、根が次第に生長します。縁起の中で説かれるように、四生の類において、あるいは卵生を受け、あるいは胎生を受け、あるいは湿生を受け、あるいは化生を受けます。縁起の中で説かれるようにとは、名色などの前後の次第のことであり、説かれるとおりです。

最初羯邏藍, 次生頞部曇,
從此生閉尸, 閉尸生鍵南,
次鉢羅奢佉, 後髮毛爪等,
及色根形相, 漸漸而生長。

最初に羯邏藍が生じ、次に頞部曇が生じます。 これから閉尸が生じ、閉尸から鍵南が生じます。 次に鉢羅奢佉が生じ、その後には髪・毛・爪などや、 色根や形相が、しだいに生じて成長していきます。

云何集諦?謂諸煩惱及煩惱增上所生諸業,俱說名集諦,由此集起生死苦故。煩惱增上所生業者,謂有漏業。若爾,何故世尊唯說愛為集諦?由最勝故。謂薄伽梵隨勝而說,若愛、若後有愛、若貪喜俱行愛、若彼彼希樂愛,是名集諦。言最勝者,是遍行義,由愛具有六遍行義,是故最勝。何等為六?一、事遍行,謂於一切已得未得自身境界事遍行故。於已得自身起愛,於未得自身起後有愛,於已得境界起貪喜俱行愛,於未得境界起彼彼希樂愛。二、位遍行,謂於苦苦性等三位諸行中遍隨行故。於已得苦苦性位起別離愛,於未得苦苦性位起不和合愛,於壞苦性位起不別離愛及和合愛,已得未得差別故。於行苦性位起愚癡愛,由煩惱麁重所顯故,及不苦不樂受所顯故。唯阿賴耶識是最勝行苦位,依止此位因我癡門貪愛轉故。三、世遍行,謂於三世中遍隨行故。於過去世起追憶行遍隨行愛,於未來世起希樂行遍隨行愛,於現在世起耽著行遍隨行愛。四、界遍行,謂欲色無色三愛次第遍三界故。五、求遍行,謂由貪愛遍求欲有邪梵行故。由欲求力,不脫欲界,招欲界苦。由有求力,不脫二界,招色無色界苦。由邪梵行求力,不脫生死,彼彼流轉故。六種遍行,謂有無有愛遍行,斷常一切種故。

集諦とは何でしょうか。諸々の煩悩、および煩悩が増上して生み出す諸々の業を、ともに集諦と名づけます。これによって生死の苦が集まり起こるからです。煩悩が増上して生み出す業とは、有漏の業のことです。それならば、なぜ世尊はただ愛だけを集諦とお説きになったのでしょうか。最も勝れているからです。世尊は最も勝れたものに随ってお説きになったのであり、愛、後有の愛、貪喜とともに行ずる愛、そうした種々の希求と楽しみの愛を、集諦と名づけます。最も勝れていると言うのは、遍行の意味です。愛には六つの遍行の意味が備わっているので、最も勝れているのです。六つとは何でしょうか。第一に事遍行です。すでに得たものにも得ていないものにも、自身と境界の事に遍く行ずるからです。すでに得た自身に対しては愛を起こし、まだ得ていない自身に対しては後有の愛を起こし、すでに得た境界に対しては貪喜とともに行ずる愛を起こし、まだ得ていない境界に対してはそうした種々の希求と楽しみの愛を起こします。第二に位遍行です。苦苦性などの三つの位にある諸行のうちに遍く随って行ずるからです。すでに得た苦苦性の位では別離の愛を起こし、まだ得ていない苦苦性の位では不和合の愛を起こし、壊苦性の位では不別離の愛と和合の愛を起こします。すでに得たか得ていないかの違いによるからです。行苦性の位では愚癡の愛を起こします。煩悩の麁重によって示されるからであり、また不苦不楽受によって示されるからです。ただ阿頼耶識だけが最も勝れた行苦の位であり、この位に依止して我癡の門から貪愛が働くからです。第三に世遍行です。三世のうちに遍く随って行ずるからです。過去世には追憶の行を起こして遍く随い行く愛、未来世には希求と楽しみの行を起こして遍く随い行く愛、現在世には耽著の行を起こして遍く随い行く愛です。第四に界遍行です。欲・色・無色の三つの愛が次第に三界に遍く行ずるからです。第五に求遍行です。貪愛によって遍く欲・有・邪梵行を求めるからです。欲求の力によって欲界を脱することができず、欲界の苦を招きます。有求の力によって二つの界を脱することができず、色界・無色界の苦を招きます。邪梵行求の力によって生死を脱することができず、あれこれと流転するからです。第六に無有愛の遍行です。有と無有への愛が遍く行じ、断・常の一切の種類に及ぶからです。

煩惱者,謂由數故、相故、緣起故、境界故、相應故、差別故、邪行故、界故、眾故、斷故,觀諸煩惱。數者,謂或六或十。六謂貪、瞋、慢、無明、疑、見。十謂前五見又分五,謂薩迦耶見、邊執見、邪見、見取、戒禁取。

煩悩とは、数によるから、相によるから、縁起によるから、境界によるから、相応によるから、差別によるから、邪行によるから、界によるから、衆によるから、断によるから、諸々の煩悩を観察します。数とは、あるいは六であり、あるいは十です。六とは、貪・瞋・慢・無明・疑・見です。十とは、前の五つの見をさらに五つに分けたもので、薩迦耶見・辺執見・邪見・見取・戒禁取です。

相者,若法生時相不寂靜,由此生故身心相續不寂靜轉,是煩惱相。不寂靜性是諸煩惱共相,此復有六,謂散亂不寂靜性、顛倒不寂靜性、掉舉不寂靜性、惛沈不寂靜性、放逸不寂靜性、無恥不寂靜性。

相とは、ある法が生じるときにその相が寂静でなく、これが生じるために身心の相続が寂静でなく転じていくことです。これが煩悩の相です。寂静でないという性質は、もろもろの煩悩に共通する相です。これにはさらに六つあります。すなわち、散乱という寂静でない性質、顛倒という寂静でない性質、掉挙という寂静でない性質、惛沈という寂静でない性質、放逸という寂静でない性質、無恥という寂静でない性質です。

緣起者,謂煩惱隨眠未永斷故、順煩惱法現在前故、不正思惟現前起故,如是煩惱方乃得生。煩惱隨眠未永斷者,彼品麁重未永拔故。順煩惱法現在前者,現前會遇可愛等境故。不正思惟現前起者,於彼境界取淨等相,能隨順生貪瞋等故。
境界者,謂一切煩惱還用一切煩惱為所緣境,及緣諸煩惱事。又欲界煩惱,除無明、見、疑,餘不能緣上地為境。此無明等雖亦有能緣上地者,然彼不能親緣上地如緣自地。由依彼門起分別故,立彼為所緣。所言無明緣上地者,謂與見等相應見者,除薩迦耶見,不見世間,緣他地諸行執為我故。上地諸煩惱不緣下地為境,已離彼地欲故。又緣滅道諦諸煩惱,不能親緣滅道為境,由滅道諦出世間智及後得智內所證故。唯由依彼妄起分別說為所緣,分別所計境不離分別故。又煩惱有二種,謂緣無事及緣有事。緣無事者,謂見及見相應法,見謂薩迦耶見及邊執見。所餘煩惱,名緣有事。
相應者,謂貪不與瞋相應,如瞋疑亦爾,餘皆得相應。何故貪不與瞋相應?一向相違法,必不俱轉故。又貪不與疑相應者,由慧於境不決定必無染著故。餘得相應者,與餘慢等不相違故。如貪瞋亦爾,謂瞋不與貪慢見相應。若於此事起憎恚,即不於此生於高舉及能推求。與餘相應,如理應知,慢不與瞋疑相應。無明有二:一一切煩惱相應無明、二不共無明。不共無明者,謂於諦無智。見不與瞋疑相應。疑不與貪慢見相應。忿等隨煩惱更互不相應,展轉相違法必不相應故。如貪分與瞋分若不相違,猶如煩惱展轉相應。無慚無愧於一切不善品中恒共相應,若離不顧自他不善現行無是處故。惛沈、掉舉、不信、懈怠、放逸,於一切染污品中恒共相應,若離無堪任性等染污性成無是處故。
差別者,謂諸煩惱依種種義立種種門差別。所謂結、縛、隨眠、隨煩惱、纏、瀑流、軛、取、繫、蓋、株杌、垢、燒害、箭、所有、惡行、漏、匱、熱、惱、諍、熾然、稠林、拘礙等。
問:結有幾種?云何結?何處結耶?答:結有九種,謂愛結、恚結、慢結、無明結、見結、取結、疑結、嫉結、慳結。
愛結者,謂三界貪愛,結所繫故不厭三界,由不厭故廣行不善、不行諸善,由此能招未來世苦與苦相應。當知此中宣說諸結若相若用若位,辯結差別。且如愛結,何等是結?謂三界貪是結自性。云何為結?謂有此者不厭三界,由此展轉不善現行、善不現行。於何位結?謂於後世苦果生位。如是恚結等並如理應知。
恚結者,謂於有情苦及順苦法心有損害,恚結所繫故。於恚境相心不棄捨,不棄捨故廣行不善、不行諸善,由此能招未來世苦與苦相應。
慢結者,即七慢,謂慢、過慢、慢過慢、我慢、增上慢、下劣慢、邪慢。慢者,謂於下劣計己為勝、或於相似計己相似,心舉為性。過慢者,謂於相似計己為勝、或復於勝計己相似,心舉為性。慢過慢者,謂於勝己計己為勝,心舉為性。我慢者,於五取蘊觀我我所,心舉為性。增上慢者,謂於未得上勝證法計己已得上勝證法,心舉為性。下劣慢者,謂於多分勝計己少分劣,心舉為性。邪慢者,謂實無德計己有德,心舉為性。慢結所繫故,於我我所不能了知,不了知故執我我所,廣行不善、不行諸善,由此能招未來世苦與苦相應。
無明結者,謂三界無智。無明結所繫故,於苦法集法不能解了,不解了故廣行不善、不行諸善,由此能招未來世苦與苦相應。於苦集法不解了者,謂於果性因性有漏諸行所有過患不了知故。
見結者,即三見,謂薩迦耶見、邊執見、邪見。見結所繫故,於邪出離妄計追求,謂我當解脫我所解脫,既解脫已我當常住、或當斷滅,又謂佛法中定無解脫。如是執著邪出離已,廣行不善、不行諸善,由此能招未來世苦與苦相應。
取結者,謂見取、戒禁取。取結所繫故,於邪出離方便妄計執著,棄捨八聖支道,妄執薩迦耶見等,及彼為先若戒若禁為清淨道。以妄執著邪出離方便故,廣行不善、不行諸善,由此能招未來世苦與苦相應。
疑結者,謂於諦猶豫。疑結所繫故,於佛法僧寶妄生疑惑,以疑惑故於三寶所不修正行。以於三寶所不修正行故,廣行不善、不行諸善,由此能招未來世苦與苦相應。
嫉結者,謂耽著利養,不耐他榮,發起心妬。嫉結所繫故,愛重利養、不尊敬法。重利養故,廣行不善、不行諸善,由此能招未來世苦與苦相應。
慳結者,耽著利養,於資生具其心悋惜。慳結所繫故,愛重畜積不尊遠離。重畜積故,廣行不善、不行諸善,由此能招未來世苦與苦相應。
縛有三種,謂貪縛、瞋縛、癡縛。由貪縛故,縛諸眾生令處壞苦。由瞋縛故,縛諸眾生令處苦苦。由癡縛故,縛諸眾生令處行苦。由貪等縛縛處壞苦等者,以貪瞋癡於樂等受常隨眠故。又依貪瞋癡故,於善方便不得自在,故名為縛。猶如外縛縛諸眾生,令於二事不得自在:一者不得隨意遊行、二者於所住處不得隨意所作。當知內法貪瞋癡縛亦復如是。
隨眠有七種,謂欲愛隨眠、瞋恚隨眠、有愛隨眠、慢隨眠、無明隨眠、見隨眠、疑隨眠。欲愛隨眠者,謂欲貪品麁重。瞋恚隨眠者,謂瞋恚品麁重。有愛隨眠者,謂色無色貪品麁重。慢隨眠者,謂慢品麁重。無明隨眠者,謂無明品麁重。見隨眠者,謂見品麁重。疑隨眠者,謂疑品麁重。若未離欲求者,由欲愛瞋恚隨眠之所隨眠,由依彼門此二增長故。未離有求者,由有愛隨眠之所隨眠。未離邪梵行求者,由慢無明見疑隨眠之所隨眠。由彼眾生得少對治,便生憍慢、愚於聖諦、虛妄計度外邪解脫解脫方便,隨其次第。三見二取,如結中說,於佛聖教正法毘柰耶中猶豫疑惑。
大乘阿毘達磨雜集論卷第六

1 諦品
2

CBETA コード: T1606

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません