大乘阿毘達磨雜集論卷第七
大乗阿毘達磨雑集論 第七巻
安慧菩薩糅
大乗阿毘達磨雑集論 第七巻
安慧菩薩による編纂
大唐三藏法師玄奘奉 詔譯
大乗阿毘達磨雑集論 第七巻 安慧菩薩による編纂
決擇分中諦品第一之二
決択分中諦品第一之二
問:何をもって「出世」と名づけるのでしょうか。 答:世間の有漏の法を超越しているからです。
問:いくつが出世なのでしょうか。 答:二つあります。一つは「出世の善法」であり、もう一つは「出世の善」です。
問:出世の善法とは何でしょうか。 答:世間の有漏の法を超越した、すべての善なる有為の法のことです。
問:出世の善とは何でしょうか。 答:世間の有漏の法を超越した、すべての無漏の法のことです。
問:何のために出世を観察するのでしょうか。 答:世間の法に過患があることを知り、それを厭い離れるためです。また、出世の法に功徳があることを知り、それを修め、証得するためです。
問:修めるべき法とは何でしょうか。 答:すべての善なる有為の法です。
問:どのように修めるべき法とは何でしょうか。 答:世間の法を厭い離れるために、出世の法を修めることです。
問:出世の法を修めるとは、どのようなことでしょうか。 答:世間の法を厭い離れることによって、出世の法を証得することです。
隨煩惱者,謂所有諸煩惱皆是隨煩惱。有隨煩惱非煩惱,謂除煩惱,所餘染污行蘊所攝一切心法。此復云何?謂除貪等六煩惱,所餘染污行蘊所攝忿等諸心法。又貪瞋癡名隨煩惱心法,由此隨煩惱隨惱於心,令不離染、令不解脫、令不斷障故,名隨煩惱。如世尊說:汝等長夜為貪瞋癡隨所惱亂心恒染污。
随煩悩とは、すべての煩悩が随煩悩であることを指します。随煩悩であって煩悩ではないものがあります。それは、煩悩を除いた、残りの染汚の行蘊に摂される一切の心法のことです。これについては、どういうことでしょうか。貪などの六煩悩を除いた、残りの染汚の行蘊に摂される忿などの諸々の心法のことです。また、貪・瞋・癡も随煩悩の心法と呼ばれます。これら随煩悩は、心に随って悩乱させ、染汚から離れさせず、解脱させず、障りを断たせないため、随煩悩と名づけられます。世尊が説かれたように、「汝ら、長夜にわたり貪・瞋・癡のために随って悩乱せられ、心は恒に染汚されている」のです。
纏有八種,謂惛沈、睡眠、掉舉、惡作、嫉、慳、無慚、無愧,數數增盛纏繞於心,故名纏。由此諸纏數數增盛纏繞一切觀行者心,於修善品為障礙故。修善品者,謂隨修習止舉捨相及彼所依梵行等所攝淨尸羅時。此復云何?謂修止時惛沈、睡眠為障,於內引沈沒故。修舉時掉舉、惡作為障,於外引散亂故。修捨時嫉慳為障,由成就此於自他利悋妬門中數數搖動心故。修淨尸羅時無慚、無愧為障,由具此二犯諸學處無羞恥故。
纏には八つの種類があります。すなわち惛沈、睡眠、掉挙、悪作、嫉、慳、無慚、無愧です。これらは繰り返し増盛して心を纏い縛るため、纏と名づけられます。これらの纏は、あらゆる観行者の心を繰り返し増盛して纏い縛り、善品を修めることに対して障りとなるからです。善品を修めるとは、止・挙・捨の相を修習し、またそれらが依りどころとする梵行などに含まれる清浄な尸羅を修めることを指します。
これらは、どのような障りとなるのでしょうか。止を修めるときには、惛沈と睡眠が障りとなります。内面において沈没を引き起こすからです。挙を修めるときには、掉挙と悪作が障りとなります。外面において散乱を引き起こすからです。捨を修めるときには、嫉と慳が障りとなります。これらを成就することによって、自利と他利を惜しみ妬む門において、繰り返し心を揺り動かすからです。清浄な尸羅を修めるときには、無慚と無愧が障りとなります。これら二つを具えることによって、諸々の学処を犯しても羞恥心がないからです。
暴流有四,謂欲暴流、有暴流、見暴流、無明暴流。隨流漂鼓是暴流義,隨順雜染故。初是習欲求者,第二是習有求者,後二是習邪梵行求者,能依所依相應道理故。見暴流是能依,無明暴流為所依,由有愚癡顛倒推求解脫及方便故。
暴流には四つあります。欲暴流、有暴流、見暴流、無明暴流です。流れに従って漂い、打ち寄せられることが暴流の意味であり、雑染に従順であるからです。最初のものは欲求を習う者であり、第二のものは有求を習う者であり、後の二つは邪なる梵行を求めることを習う者です。能依と所依が相応する道理によるからです。見暴流は能依であり、無明暴流は所依となります。愚痴と顛倒があることによって、解脱および方便を推求するからです。
軛有四種,謂欲軛、有軛、見軛、無明軛。障礙離繫是軛義,違背清淨故。此亦隨其次第習三求者相應現行。
軛には四つの種類があります。欲軛、有軛、見軛、無明軛です。離繫を障礙することが軛の意味であり、清浄に背くからです。これらもまた、その次第に従って三求を習う者と相応して現行します。
取有四種,謂欲取、見取、戒禁取、我語取。執取諍根、執取後有,是取義。所以者何?由貪著欲繫縛耽染為因,諸在家者更相鬪諍,此諍根本是第一取。由貪著見繫縛耽染為因,諸出家者更相鬪諍,此諍根本是後三取。六十二見趣是見取。各別禁戒多分苦行是戒禁取。彼所依止薩迦耶見是我語取。由見取、戒禁取,諸外道輩更相諍論,以於是處見不一故。由我語取,諸外道輩互無諍論,於我有性皆同見故。然由此取,諸外道等與正法者互有諍論,由彼不信有無我故。如是執著諍論根本,復能引取後有苦異熟,故名為取。
取には四つの種類があります。すなわち、欲取、見取、戒禁取、我語取です。諍いの根源を執取し、後有を執取することが、取の意味です。なぜでしょうか。欲に貪着し、縛られ、耽染することを因として、在家の者たちは互いに闘諍します。この諍いの根本が第一の欲取です。見に貪着し、縛られ、耽染することを因として、出家の者たちは互いに闘諍します。この諍いの根本が後の三つの取です。六十二見趣が見取です。個別の禁戒や多くの苦行が戒禁取です。それらが依止する薩迦耶見が我語取です。見取と戒禁取によって、諸々の外道たちは互いに諍論します。これらについて見解が一つではないからです。我語取によって、諸々の外道たちは互いに諍論することはありません。我に有性があるという点において、皆同じ見解を抱いているからです。しかし、この取によって、諸々の外道たちは正法を修める者と互いに諍論します。彼らが無我であることを信じないからです。このように執着し、諍論の根本となり、さらに後有の苦の異熟を引き起こすため、取と名づけるのです。
繫有四種,謂貪欲身繫、瞋恚身繫、戒禁取身繫、此實執取身繫。以能障礙定意性身,故名為繫。所以者何?由此能障定心自性之身故名繫,非障色身。何以故?能為四種心亂因故。謂由貪愛財物等因令心散亂,於鬪諍事不正行為因令心散亂,於難行戒禁苦惱為因令心散亂,不如正理推求境界為因令心散亂。由彼依止各別見故,於所知境不如正理種種推度妄生執著,謂唯此真餘並愚妄,由此為因令心散動。於何散動?謂於定心如實智見。
「繫」には四つの種類があります。すなわち、貪欲身繫、瞋恚身繫、戒禁取身繫、そして此実執取身繫です。これらは定(Samādhi)の意性身を障礙することができるため、「繫」と名づけられます。
なぜでしょうか。これらは定心の自性身を障礙することができるために「繫」と名づけられるのであり、色身を障礙するからではありません。なぜでしょうか。これらは四種類の心の乱れの原因となるからです。すなわち、財物などを貪り愛する因によって心を散乱させ、闘争や不正な行為を因として心を散乱させ、困難な戒禁や苦悩を因として心を散乱させ、正理にかなわない推求によって境界を捉えることを因として心を散乱させるのです。
それら(の繫)は、それぞれ別々の見解に依止しているため、所知の境界に対して正理にかなわない様々な推度を行い、誤って執着を生じさせます。「これのみが真実であり、他はすべて愚かで虚妄である」と考えるのです。これを因として心を散動させます。何に対して散動させるのでしょうか。それは、定心における如実の智見に対してです。
蓋有五種,謂貪欲蓋、瞋恚蓋、惛沈睡眠蓋、掉舉惡作蓋、疑蓋。能令善品不得顯了是蓋義,覆蔽其心障諸善品令不轉故。問:於何等位障諸善法?答:於樂出家位、覺正行位、止舉捨位。於樂出家時貪欲蓋為障,希求受用外境界門,於彼不欣樂故。於覺正行時瞋恚蓋為障,於所犯學處同梵行者正發覺時,由心瞋恚不正學故。於止舉兩位,惛沈睡眠掉舉惡作蓋為障,如前所說能引沈沒及散亂故。於捨位,疑蓋為障,遠離決定不能捨故。
蓋には五つの種類があります。すなわち、貪欲蓋、瞋恚蓋、惛沈睡眠蓋、掉挙悪作蓋、疑蓋です。善なる法を現れさせないことが「蓋」の意味であり、心を覆い隠して諸々の善法を妨げ、働かせないからです。
問:どのような段階において諸々の善法を妨げるのでしょうか。
答:出家を喜ぶ段階、正しい修行を自覚する段階、止・挙・捨の段階においてです。出家を喜ぶときには、貪欲蓋が妨げとなります。外的な境界を受用することを希求し、出家に対して喜ばないからです。正しい修行を自覚するときには、瞋恚蓋が妨げとなります。犯した学処について、共に梵行を修める者が正しく注意を促すとき、心に瞋恚が生じて正しく学ばないからです。止と挙の二つの段階においては、惛沈睡眠蓋と掉挙悪作蓋が妨げとなります。前述のように、沈没や散乱を引き起こすからです。捨の段階においては、疑蓋が妨げとなります。決定した心から遠ざかり、捨の境地を保つことができないからです。
株杌有三,謂貪、瞋、癡。由依止貪瞋癡先所串習為方便故,成貪等行,心不調順、無所堪能、難可解脫。令諸眾生難斷此行,故名株杌。所以者何?對治道犁難可破壞,約此義故立為株杌。於無量生串習貪等以成其行,堅固難拔猶株杌故。
株杌には三つあります。すなわち貪・瞋・癡です。貪・瞋・癡に依止し、以前から慣れ親しんできたことを方便とするがゆえに、貪などの行が形成されます。心は調順ではなく、堪能な力もなく、解脱することが困難です。諸々の衆生がこの行を断ち切ることを困難にさせるため、株杌と名づけます。なぜでしょうか。対治の道の犁(すき)をもってしても破壊することが困難だからです。この意味において株杌と立てるのです。無量の生において貪などを慣れ親しんでその行を成し、堅固で抜きがたいことが、あたかも株杌のようであるからです。
垢有三種,謂貪、瞋、癡。由依止貪瞋癡故,毀犯如是尸羅學處。由此有智同梵行者,或於聚落或閑靜處見已,作如是言:此長老作如是事、行如是行,為聚落刺。點染不淨,說名為垢,以貪瞋癡能現犯戒不淨相故。
垢には三つの種類があります。すなわち貪・瞋・癡です。この貪・瞋・癡に依止することによって、このような尸羅の学処を毀犯します。これによって、智ある同梵行の者たちが、聚落において、あるいは閑静な場所において(その姿を)見て、このように言います。「この長老はこのような事を行い、このような行いをして、聚落の刺となっている」。点染して不浄であることを垢と名づけます。なぜなら、貪・瞋・癡は、戒を犯す不浄な相を現すことができるからです。
燒害有三,謂貪、瞋、癡。由依止貪瞋癡故,長時數受生死燒惱,故名燒害。由於無始生死流轉,因貪瞋癡數被生死苦燒害故。
焼き害することに三つあります。すなわち貪・瞋・癡です。貪・瞋・癡に依止することによって、長い間、繰り返し生死の焼き悩む苦しみを受けるため、焼き害と名づけます。無始より生死を流転し、貪・瞋・癡が原因となって、繰り返し生死の苦しみによって焼き害されるからです。
箭有三種,謂貪、瞋、癡。由依止貪瞋癡故,於有有具深起追求相續不絕,於佛法僧苦集滅道常生疑惑,故名為箭。於諸有財三寶四諦,隨愛疑門能射傷故。
箭には三種類あります。すなわち貪・瞋・癡です。貪・瞋・癡に依止しているため、有(存在)や有の具(存在の条件)に対して、深く追求する心が絶え間なく起こり、仏・法・僧や苦・集・滅・道の四諦に対して常に疑惑が生じるため、箭と名づけます。諸々の財産や三宝、四諦に対して、愛や疑いの門にしたがって射傷することができるからです。
所有有三,謂貪、瞋、癡。由依止貪瞋癡故,積畜財物有怖有怨,多住散亂,故名所有。由多積集所有資具,恒與怖等共相應故。
所有には三つあります。すなわち貪・瞋・癡です。貪・瞋・癡に依止しているため、財物を積蓄すれば恐怖や怨みが生じ、多く散乱した状態にとどまることになります。ゆえに「所有」と名づけます。多くの資具を積集することによって、常に恐怖などと共相応しているからです。
惡行有三,謂貪、瞋、癡。由依止貪瞋癡故,恒行身語意惡行,故名惡行,由貪瞋癡能引殺生等諸不善行故。又即依此貪瞋癡門,廣生無量惡不善行故,建立三不善根。所以者何?以諸有情,愛味世間,所有為因,行諸惡行,貪求財利行惡行故。分別世間,怨相為因,行諸惡行。由懷瞋恚不忍他過,多行惡故。執著世間,邪法為因,行諸惡行。由懷愚癡起顛倒見,因祠祀等行諸惡故。是故此貪瞋癡亦名惡行,亦名不善根。
悪行には三つあり、貪・瞋・癡をいいます。貪・瞋・癡に依止することによって、常に身・語・意の悪行を行うため、悪行と名づけます。貪・瞋・癡は殺生などの諸々の不善行を引き起こすことができるからです。また、この貪・瞋・癡の門に依って、無量の悪不善行が広く生じるため、三不善根を建立します。
なぜでしょうか。諸々の有情は世間を愛味し、所有を因として諸々の悪行を行うからです。財利を貪り求めて悪行を行うからです。世間を分別し、怨相を因として諸々の悪行を行います。瞋恚を懐き、他人の過ちを忍ぶことができず、多く悪行を行うからです。世間に執着し、邪法を因として諸々の悪行を行います。愚癡を懐いて顛倒見を起こし、祠祀などを因として諸々の悪行を行うからです。
このゆえに、この貪・瞋・癡は悪行とも名づけられ、また不善根とも名づけられます。
漏有三種,謂欲漏、有漏、無明漏。令心連注流散不絕,故名為漏。此復云何?依外門流注故立欲漏,依內門流注故立有漏,依彼二所依門流注故立無明漏。令心連注流散不絕,是漏義。
漏には三つの種類があります。すなわち欲漏、有漏、無明漏です。心を絶え間なく流転させ、散乱させて止まないため、漏と名づけます。これらについては、どのような意味でしょうか。外門へと流転することに依るため欲漏と立て、内門へと流転することに依るため有漏と立て、それら二つの依りどころとなる門へと流転することに依るため無明漏と立てます。心を絶え間なく流転させ、散乱させて止まないこと、それが漏の意味です。
匱有三種,謂貪、瞋、癡。由依止貪瞋癡故,於有及資生具恒起追求無有厭足,常為貧乏眾苦所惱故,故名匱。以貪瞋癡能令身心恒乏短故。
匱には三つの種類があります。すなわち貪、瞋、癡です。貪・瞋・癡に依止することによって、有および資生具に対して恒に追求を起こして厭足することがなく、常に貧乏という衆苦に悩まされるため、匱と名づけます。貪・瞋・癡は、身心を恒に乏しく短くさせるからです。
熱有三種,謂貪、瞋、癡。由依止貪瞋癡故,不如正理執著諸相、執著隨好,由執著相及隨好故燒惱身心,故名為熱。不如正理妄執相好,燒身心故。
熱には三種あります。貪・瞋・癡です。貪・瞋・癡に依止することによって、正理にかなわず諸相に執着し、随好に執着します。相および随好に執着することによって身心を焼き悩ますため、熱と名づけます。正理にかなわず妄りに相好に執着し、身心を焼くからです。
惱有三種,謂貪、瞋、癡。由依止貪瞋癡故,隨彼彼處愛樂耽著,彼若變壞便增愁嘆,種種憂苦熱惱所觸,故名為惱。由於色等諸可樂事深愛著已,彼若變壞,是諸有情便為種種愁嘆等苦所惱亂故。
悩には三つの種類があります。すなわち貪・瞋・癡です。貪・瞋・癡に依止することによって、その時々の対象を愛し楽しみ耽着し、それらが変壊すればすぐに愁嘆が増し、種々の憂苦や熱悩に触れられるため、悩と名づけます。色などの諸々の愛楽すべき事柄に深く愛着したのち、それらが変壊すれば、これら有情は種々の愁嘆などの苦しみによって悩乱されるからです。
諍有三種,謂貪、瞋、癡。由依止貪瞋癡故,執持刀杖興諸戰諍種種鬪訟,是故貪等說名為諍。
諍には三つの種類があります。すなわち貪・瞋・癡です。貪・瞋・癡に依止することによって、刀や杖を執り、諸々の戦いや諍い、種々の争訟を起こすため、貪などは諍と名づけられます。
熾然有三,謂貪、瞋、癡。由依止貪瞋癡故,為非法貪大火所燒。非法貪者,謂隨貪著不善業道。又為不平等貪大火所燒。不平等貪者,謂非法非理貪求境界。又為邪法大火所燒。邪法者,謂諸外道惡說法律。以非法貪等能發身心熾然大火,如火熾然故名熾然。
熾然には三つあります。すなわち貪・瞋・癡です。貪・瞋・癡に依止することによって、非法な貪という大火に焼かれます。非法な貪とは、不善業道に随って貪り執着することをいいます。また、不平等な貪という大火に焼かれます。不平等な貪とは、非法かつ非理に境界を貪り求めることをいいます。また、邪法という大火に焼かれます。邪法とは、諸々の外道の悪しき説く法律のことです。非法な貪などが身心に熾然たる大火を発することができるため、火が燃え盛るがごとく、ゆえに熾然と名づけます。
稠林有三,謂貪、瞋、癡。由依止貪瞋癡故,於諸生死根本行中廣興染著,令諸有情感種種身流轉五趣,令諸有情處生死本,行大樹稠林難可出離,是故貪等說名稠林。
稠林には三つあります。すなわち貪、瞋、癡です。貪・瞋・癡に依止することによって、諸々の生死の根本である行において広く染著を興し、諸々の有情をして種々の身を受けさせ、五趣を流転させます。また諸々の有情を生死の根本の地に処せしめ、大樹の稠林のごとく難くして出離しがたからしめます。このゆえに貪などは稠林と名づけるのです。
拘礙有三,謂貪,瞋,癡。由依止貪瞋癡故,顧戀身財無所覺了樂處憒閙,得少善法便生厭足,由此不能修諸善法,故名拘礙。依貪瞋癡顧身財等,拘礙有情不得自在修諸善故。又此顧戀身等,即依五種心拘礙說。何等為五?謂顧戀身、顧戀諸欲樂相雜住、闕於隨順教誡教授、於諸善品得少為足,拘礙心故名心拘礙。諸如是等煩惱義門差別無量。
拘礙には三つあります。すなわち貪、瞋、癡です。貪・瞋・癡に依止しているがゆえに、身や財に顧恋して、憒閙の楽しみの場所を覚了することがなく、少しの善法を得ただけで厭足の心を生じます。これによって諸々の善法を修めることができないため、拘礙と名づけます。貪・瞋・癡に依って身や財などを顧恋し、有情を拘礙して、諸々の善を自在に修めることができないようにするのです。
また、この身などを顧恋することは、五種の心拘礙に依って説かれます。何が五つでしょうか。すなわち、身を顧恋すること、諸々の欲楽と相雑して住すること、随順の教誡や教授を欠くこと、諸々の善品において少しを得て足れりとすることであり、心を拘礙するがゆえに心拘礙と名づけます。このような諸々の煩悩の義門には、無量の差別があります。
邪行者,謂貪瞋二煩惱,迷境界及見起邪行。修道所斷、見道所斷,隨其次第。貪瞋二種緣少淨相及相違相為境界故,名迷境界。雖亦緣有情起於貪瞋,然依境界門起故,亦名迷境界。慢,迷有情及見起邪行,以於下劣等起計己勝等,行於有情門邪解轉故。薩迦耶見、邊執見、邪見,迷所知境起邪行,依增益損減門,如其所應。見取、戒禁取、迷諸見起邪行、由於諸見過失取為第一及戒禁清淨故。疑,迷對治起邪行,於諸諦中成二解故。無明,迷一切起邪行。又十煩惱皆迷苦集起諸邪行,是彼因緣所依處故。所以者何?苦集二諦皆是十種煩惱因緣,又為依處,是故一切迷此因緣依處起諸邪行。又十煩惱皆迷滅道起諸邪行,由此能生彼怖畏故。所以者何?由煩惱力樂著生死,於清淨法起懸崖想生大怖畏。又諸外道於滅道諦,妄起種種顛倒分別。是故十惑皆迷滅道起諸邪行。
邪行とは、貪と瞋の二つの煩悩が、境界に迷い、また見解に基づいて邪行を起こすことをいいます。これらは修道によって断たれるもの、見道によって断たれるものと、その次第に従います。貪と瞋の二種は、清らかな相が少ないものや、それに相違する相を境界とするがゆえに、境界に迷うといいます。有情に対しても貪や瞋は起こりますが、境界の門に依って起こるため、やはり境界に迷うといいます。慢は、有情に迷い、また見解に基づいて邪行を起こします。自分より劣っている者などに対して自分の方が勝っていると計らい、有情という門において邪な理解が働くからです。薩迦耶見、辺執見、邪見は、知るべき対象に迷って邪行を起こし、増益や損減の門に依って、それぞれに応じた働きをします。見取、戒禁取は、諸々の見解に迷って邪行を起こします。諸々の見解の過失を、第一のものや戒禁による清浄であると執着するからです。疑は、対治に迷って邪行を起こします。諸々の諦において二つの解釈を生じさせるからです。無明は、すべてに対して迷い、邪行を起こします。
また、十の煩悩はすべて、苦諦と集諦に迷って諸々の邪行を起こします。それらが煩悩の因縁であり、依り所となる場所だからです。なぜでしょうか。苦諦と集諦の二諦は、十種の煩悩の因縁であり、また依り所となる場所であるため、すべてがこの因縁と依り所に迷って諸々の邪行を起こすのです。また、十の煩悩はすべて、滅諦と道諦に迷って諸々の邪行を起こします。これらによって、滅諦と道諦に対する怖畏が生じるからです。なぜでしょうか。煩悩の力によって生死に執着し、清浄な法に対して懸崖のような恐ろしさを感じ、大きな怖畏を生じるからです。また、諸々の外道は、滅諦と道諦に対して、妄りに種々の顛倒した分別を起こします。それゆえに、十の煩悩はすべて、滅諦と道諦に迷って諸々の邪行を起こすのです。
界云何?謂除瞋,餘一切通三界繫。瞋唯欲界繫,緣違損境生故。又貪,於欲界與樂喜捨相應。如於欲界,於初二靜慮亦爾。於第三靜慮與樂捨相應,已上唯與捨相應。貪於欲界與樂相應者,謂在五識身。與喜相應者,在意識身。與捨相應者,在一切處。於相續末位所以不與憂苦相應者,由此欣行轉故。瞋與苦憂捨相應。苦相應者,在五識身。憂相應者,在第六識。所以不與喜樂相應者,由此慼行轉故。瞋能逼惱,自相續故名慼行。與捨相應者,於一切處。如前說,慢於欲界與喜捨相應,於初二靜慮與樂喜捨相應,於第三靜慮與樂捨相應,已上唯捨相應。慢於欲界樂不相應者,以五識無故。若爾,於初二靜慮,云何與樂相應?與意地樂相應,故無過。云何於彼有意地樂?由說彼地有喜樂故。如經言:云何為喜?謂已轉依者依於轉識,心悅心踊心適心調心安適受受所攝。依於轉識者,即依意識,於三摩呬多位餘識無故。云何為樂?謂已轉依者依阿賴耶識攝受所依,所依怡悅安適受受所攝。此經意說樂受依初二靜慮生時,與如是心心法聚相應,由欣踊行還令此聚皆得踊悅,又令所依阿賴耶識自體安樂怡適。由此樂受作二事故,體雖是一,建立二種若喜若樂,是故說此相應。慢與樂喜相應。如慢,薩迦耶見、邊執見、見取、戒禁取亦爾。邪見於欲界與憂喜捨相應,於色無色界隨所有受皆與相應。云何邪見於欲界與憂喜相應?謂先造妙行惡行者,見此無果生欣慼故。所以不與苦樂相應者,由一切見皆在意地故。疑於欲界與憂捨相應,於色無色界隨所有受皆與相應。所以欲界非喜相應者,不決定心若未息滅,喜不生故。色界中疑疑上靜慮者,由喜樂定力所引持故亦得隨轉,是故於彼亦與喜樂相應。無明有二種,謂相應、不共。相應無明,一切煩惱相應故,若於是處隨所有受皆得相應。不共無明,於欲界與憂捨相應,於上界隨所有受皆得相應。喜樂相應不相應,理應如疑說。何故諸煩惱皆與捨相應?以一切煩惱墮中庸位方息沒故。所以者何?煩惱生起展轉相續漸漸微薄,勢力將盡墮處中位,於此位中必與捨受相應。
界とは何でしょうか。瞋を除いた残りの一切は、三界に繋縛されています。瞋は欲界のみに繋縛されます。なぜなら、意に沿わない損なう境縁に対して生じるからです。また貪は、欲界において楽・喜・捨と相応します。欲界と同様に、初静慮・第二静慮においても同様です。第三静慮においては楽・捨と相応し、それより上界では捨とのみ相応します。貪が欲界で楽と相応するとは、五識身にある場合をいいます。喜と相応するとは、意識身にある場合をいいます。捨と相応するとは、一切の処にある場合をいいます。相続の末位において憂・苦と相応しない理由は、これが欣行(喜びの働き)によって転ずるからです。
瞋は苦・憂・捨と相応します。苦と相応するとは、五識身にある場合をいいます。憂と相応するとは、第六識にある場合をいいます。喜・楽と相応しない理由は、これが慼行(憂いの働き)によって転ずるからです。瞋は自らの相続を逼悩するがゆえに、慼行と名づけます。捨と相応するとは、一切の処にある場合をいいます。
前述の通り、慢は欲界において喜・捨と相応し、初静慮・第二静慮において楽・喜・捨と相応し、第三静慮において楽・捨と相応し、それより上界では捨とのみ相応します。慢が欲界で楽と相応しないのは、五識には慢がないからです。もしそうであれば、初静慮・第二静慮において、なぜ楽と相応するのでしょうか。意地の楽と相応するため、過失はありません。なぜその地において意地の楽があるのでしょうか。その地には喜と楽があると説かれているからです。経に言われる通りです。「何が喜でしょうか。すでに転依した者が転識に依り、心が悦び、心が踊り、心が適い、心が調い、心が安適し、受・受所摂であるものです」。転識に依るとは、すなわち意識に依ることであり、三摩呬多の位においては他の識がないからです。何が楽でしょうか。すでに転依した者が阿頼耶識に依り、所依を摂受し、所依が怡悦し安適し、受・受所摂であるものです。この経の意図するところは、楽受が初静慮・第二静慮に依って生じるとき、このような心・心法聚と相応し、欣踊の行によってこの聚をすべて踊悦させ、また所依である阿頼耶識の自体を安楽・怡適させるということです。この楽受が二つの事を作すことによって、体は一つであっても喜と楽という二種を建立するため、相応すると説くのです。
慢は楽・喜と相応します。慢と同様に、薩迦耶見・辺執見・見取・戒禁取もまた同様です。邪見は欲界において憂・喜・捨と相応し、色界・無色界においては、随ってある受のすべてと相応します。なぜ邪見は欲界において憂・喜と相応するのでしょうか。先に妙行・悪行を造った者が、これに果報がないと見て、欣・慼を生じるからです。苦・楽と相応しない理由は、一切の見はすべて意地にあるからです。
疑は欲界において憂・捨と相応し、色界・無色界においては、随ってある受のすべてと相応します。欲界において喜と相応しない理由は、不決定な心がもし未だ息滅していなければ、喜は生じないからです。色界中の疑において、上界の静慮を疑う場合は、喜・楽の定力によって引持されるため、随って転ずることができ、それゆえにそこでも喜・楽と相応します。
無明には二種あります。相応無明と不共無明です。相応無明は、一切の煩悩と相応するため、もしその処において随ってある受があれば、すべて相応します。不共無明は、欲界において憂・捨と相応し、上界においては随ってある受のすべてと相応します。喜・楽と相応するか否かは、理として疑の説くところに従うべきです。
なぜ諸々の煩悩はすべて捨と相応するのでしょうか。一切の煩悩は中庸の位に堕して初めて息没するからです。その理由は、煩悩が生起して展転し相続するうちに、次第に微薄となり、勢力が尽きようとして中位に堕し、この位において必ず捨受と相応するからです。
又貪於欲界在六識身。如貪,瞋、無明亦爾。貪於色界在四識身,彼無鼻舌識故。於無色界唯在意識身。如貪,無明亦爾。慢、見疑於一切處唯在意識身,由彼於稱量等門轉故。又貪瞋慢於欲界緣一分事轉。如於欲界,於色無色界亦爾。慢緣一分事轉者,隨於一分高舉生故。所餘煩惱於一切處遍緣一切事轉。
また、欲界における貪は六識身に存在します。瞋や無明も同様です。色界における貪は四識身に存在します。なぜなら、そこには鼻識と舌識が存在しないからです。無色界においては、貪はただ意識身のみに存在します。無明も同様です。慢・見・疑は、あらゆる場所においてただ意識身のみに存在します。それらは、対象を比較検討するなどの働きによって生じるからです。また、欲界における貪・瞋・慢は、事象の一分を縁じて生じます。欲界と同様に、色界・無色界においても同様です。慢が事象の一分を縁じて生じるとは、ある特定の一分に対して高慢な心が起こるからです。その他の煩悩は、あらゆる場所において、あらゆる事象を遍く縁じて生じます。
眾云何?謂二眾煩惱,見道所斷眾、修道所斷眾。欲界見苦所斷具十煩惱。如見苦所斷,見集滅道所斷亦爾。若迷此起邪行,即見此所斷。問:若緣此為境,即迷此起邪行耶?答:不必爾,緣無漏為境,煩惱唯於有漏事隨增故。若是處是彼因緣及所依處,彼迷此起邪行,是見苦所斷。如見苦所斷,見集滅道所斷亦爾,隨其所應。色界見四種所斷,各有九煩惱,除瞋。如色界,無色界亦爾。如是見道所斷煩惱眾,總有一百一十二。欲界修所斷有六煩惱,謂俱生薩迦耶見、邊執見,及貪、瞋、慢、無明。何等名為修所斷俱生薩迦耶見?謂聖弟子雖見道已生,而依止此故我慢現行。如經言:長老駄索迦當知,我於五取蘊不見我我所,然於五取蘊有我慢我欲我隨眠,未永斷、未遍知、未滅、未吐。猶如乳母有垢膩衣,雖以鹵土等水浣濯極令離垢,若未香熏,臭氣隨轉。復以種種香物熏坌,臭氣方盡。如是佛聖弟子,雖以見道永斷分別身見之垢,若未以修道熏習相續,無始串習虛妄執著習氣所引不分別事我見隨轉。復以隨道熏習相續,彼方永滅。俱生邊執見者,謂斷見所攝。由此見故於涅槃界其心退轉生大怖畏,謂我我今者何所在耶?貪等煩惱修道所斷者,謂除見品所攝。色界修道所斷有五,除瞋。如色界,無色界亦爾。如是修道所斷煩惱總有十六。
煩悩の衆とは何でしょうか。それは二つの煩悩の衆、すなわち見道において断たれる衆と、修道において断たれる衆のことです。欲界において見苦諦によって断たれる煩悩には、十の煩悩が具わっています。見苦諦によって断たれる煩悩と同様に、見集諦、見滅諦、見道諦によって断たれる煩悩もまた同様です。もしこれらに迷って邪行を起こすならば、すなわちこれらによって断たれる煩悩となります。
問:もしこれらを境として縁じるならば、すなわちこれらに迷って邪行を起こすのでしょうか。 答:必ずしもそうではありません。無漏を境として縁じるとき、煩悩はただ有漏の事象に対してのみ随増するからです。もしある場所がその因縁であり、かつ所依の場所であるならば、その場所においてこれらに迷って邪行を起こすことが、見苦諦によって断たれる煩悩となります。見苦諦によって断たれる煩悩と同様に、見集諦、見滅諦、見道諦によって断たれる煩悩もまた、それぞれ応じるところに従って同様です。色界においては四種の見道所断があり、それぞれに九つの煩悩がありますが、瞋は除かれます。色界と同様に、無色界もまた同様です。このように見道において断たれる煩悩の衆は、合計で百十二あります。
欲界の修道所断には六つの煩悩があります。すなわち、俱生の薩迦耶見、辺執見、そして貪、瞋、慢、無明です。何をもって修道所断の俱生薩迦耶見と名づけるのでしょうか。それは、聖弟子が見道を得た後であっても、これに依止することによって我慢が現行するものです。経に説かれている通りです。「長老駄索迦よ、知るべきである。私は五取蘊に対して我や我所を見ない。しかし五取蘊に対して我慢、我欲、我随眠があり、いまだ永断されず、遍知されず、滅せられず、吐き捨てられていない。ちょうど乳母の垢のついた衣が、鹵土や水などで洗われて極めて垢が離れたとしても、もし香で薫じられなければ、臭気がそのまま残るようなものである。さらに種々の香物で薫じられて、はじめて臭気が尽きる。このように仏の聖弟子は、見道によって分別身見の垢を永断したとしても、もし修道によって相続を薫習しなければ、無始より串習してきた虚妄執着の習気によって引き起こされる、分別を伴わない事象への我見が随転する。さらに修道によって相続を薫習して、はじめてそれらが永滅する。」
俱生の辺執見とは、断見に摂されるものです。この見解によって、涅槃界に対してその心は退転し、大きな怖畏を生じます。すなわち、「我は、我は今、どこに存在するのか」と考えるのです。貪などの煩悩で修道所断のものは、見品に摂されるものを除いたものです。色界の修道所断には五つあり、瞋は除かれます。色界と同様に、無色界もまた同様です。このように修道において断たれる煩悩は、合計で十六あります。
斷云何?謂如此差別斷、由此作意斷、從此而得斷。如此差別斷者,謂遍知故、遠離故、得對治故。遍知者,謂彼因緣事遍智、自體遍智、過患遍智。彼因緣事遍智者,謂知煩惱隨眠未永斷故,如是等如前說。自體遍智者,謂知此煩惱生已極惱亂心性。過患遍智者,謂知此煩惱能引自害、能引害他、能引俱害,能生現法過、能生後法過、能生現法後法過,能令有情受此所生身心憂苦。遠離者,雖彼暫生而不堅執。由彼因緣事遍智等三種遍智,於彼已生一切煩惱,心不堅執方便遠離。得對治者,謂未生者令不生故、已生者令斷故。得對治道,為令未生已生煩惱不生永斷,修治道故。問:何等作意能斷耶?答:總緣作意,觀一切法皆無我性,能斷煩惱。總緣作意者,謂合緣一切法共相行作意。問:若唯總緣諸法無我智能斷煩惱者,何故顯示無常等行?答:非為斷煩惱故修習彼行,但為修治無我行故。由依無常行引得苦行,依止苦行引無我行。如經言:無常故苦,苦故無我。是故建立此無我行為無上。無上有三種,謂智無上、行無上、解脫無上。智無上者,謂無我智,得此智已更無所求故。行無上者,謂樂速通行,一切行中最第一故。解脫無上者,謂無學不動解脫,於一切解脫最為勝故。此三無上,如其次第依止見修無學道說。問:從何而得斷耶?答:不從過去已滅故、不從未來未生故、不從現在道不俱故,然從諸煩惱麁重而得斷。為斷如是如是品麁重,生如是如是品對治。若此品對治生,即此品麁重滅。平等平等,猶如世間明生暗滅。由此品離繫故,令未來煩惱住不生法中,是名為斷。
断とは何でしょうか。それは、このような差別断、これによる作意断、これより得られる断のことです。
このような差別断とは、遍知すること、遠離すること、対治を得ることです。遍知とは、その因縁事の遍智、自体の遍智、過患の遍智のことです。その因縁事の遍智とは、煩悩の随眠が永く断たれていないことを知ることであり、これらについては前述の通りです。自体の遍智とは、この煩悩が生じれば、極めて心を悩乱させる性質があることを知ることです。過患の遍智とは、この煩悩は自らを害し、他を害し、自他ともに害することを引き起こし、現世の過ちを生じさせ、後世の過ちを生じさせ、現世と後世の過ちを生じさせ、有情をしてこれより生じる身心の憂苦を受けさせることを知ることです。
遠離とは、煩悩がたとえ一時的に生じても、堅く執着しないことです。その因縁事の遍智など三種の遍智によって、すでに生じたあらゆる煩悩に対して、心に堅く執着しないという方便で遠離するのです。
対治を得るとは、未だ生じていないものは生じさせないため、すでに生じたものは断つためです。対治の道を得るとは、未だ生じていない煩悩を生じさせず、すでに生じた煩悩を永く断つために、修治の道を修めることです。
問:どのような作意が断じることができるのでしょうか。 答:総縁作意であり、一切の法は皆、無我の性質であると観察することが、煩悩を断つことができます。総縁作意とは、一切の法の共相を合わせて縁じる行の作意のことです。
問:もし諸法の無我を総縁する智のみが煩悩を断つのであれば、なぜ無常などの行を示すのでしょうか。 答:煩悩を断つためにその行を修習するのではなく、ただ無我の行を修治するために修習するのです。無常の行に依って苦の行を得るように導き、苦の行に依止して無我の行を導くからです。経に言われる通り、「無常であるから苦であり、苦であるから無我である」のです。それゆえ、この無我の行を無上として建立します。
無上には三種あります。智の無上、行の無上、解脱の無上です。智の無上とは無我の智であり、この智を得れば、もはや求めるべきものは何もないからです。行の無上とは楽速通行であり、あらゆる行の中で最も第一であるからです。解脱の無上とは無学の不動解脱であり、あらゆる解脱の中で最も勝れているからです。これら三つの無上は、順次に、見道・修道・無学道に依止して説かれます。
問:何から得て断つのでしょうか。 答:過去はすでに滅しているからではなく、未来は未だ生じていないからではなく、現在は道と俱ではないからではありません。しかし、諸々の煩悩の麁重(粗重)から得て断つのです。このような品々の麁重を断つために、このような品々の対治が生じます。もしこの品の対治が生じれば、すなわちこの品の麁重は滅します。平等平等であり、ちょうど世間で明かりが生じれば闇が滅するようなものです。この品から離繫(離系)することによって、未来の煩悩をして不生法の中に住せしめること、これを断と名づけます。
復次煩惱增上所生業云何?謂若思業、若思已業,總名業相。又業有五種,謂取受業、作用業、加行業、轉變業、證得業。取受業者,謂眼等能見色等。作用業者,謂地等能任持等。或復諸法自相所作,謂所有色質礙變壞如是等。加行業者,謂意解為先起身業等。轉變業者,謂金師等造莊嚴具等。證得業者,謂聖道等證涅槃等。今此義中意多分別加行業,頗亦兼有證得、作用二業。思業云何?謂福業、非福業、不動業。思已業云何?謂身業、語業、意業。又此身語意三業或善、或不善。不善者即十不善業道,謂殺生、不與取、欲邪行、妄語、離間語、麁惡語、綺語、貪欲、瞋恚、邪見。善者即十善業道,謂離殺生乃至離雜穢語、無貪、無瞋、正見。今於此中唯以業道顯身等業者,為隨順經就勝而說,彼方便等亦身等業所攝故。前三中四後三業道,隨其次第是身語意業相。又殺生等應以五門分別其相,謂事故、意樂故、方便故、煩惱故、究竟故殺生等。事者,謂有情數、非有情數,如其所應依此處所起殺生等。意樂者,謂於此事起此想意樂,及起當作此業道意樂。方便者,謂此作用,或自或他發身語意。煩惱者,謂貪瞋癡,如其所應或總或別。究竟者,由彼彼方便,如是如是業道圓滿,或於爾時或於後時。於此義中殺生事者,謂有情數。意樂者,謂此想及必害意。方便者,謂為害故,加刀杖等。煩惱者,謂貪等。究竟者,謂彼眾生由方便故,或無間死或後時死。不與取等,事及究竟,當廣分別,餘如理應思。不與取事者,謂他所攝,若有情數、非有情數。究竟者,謂取為己有。欲邪行事者,謂非所行女;或雖所行,非分、非處、非時、非量。及不應理一切男及不男。究竟者,謂兩兩交會。虛誑語事者,謂見聞覺知、不見不聞不覺不知。意樂者,謂別異想,欲別異說。究竟者,謂時眾,及對言者領解。離間語事者,謂諸有情若和合、若不和合。意樂者,謂即於彼起乖離及不和合意。究竟者,謂所破領解。麁惡語事者,謂諸有情能為損害。究竟者,謂發麁惡言。綺語事者,謂能引攝不饒益義。究竟者,謂正發此言。貪欲事者,謂他所攝資財。意樂者,謂起此想及愛樂。方便者,謂思量籌度欲為己有。究竟者,決定執為己有。瞋恚事者,謂諸有情能為損害。究竟者,謂決定加害等。邪見事者,謂實有義。意樂者,謂於實有起非有想及彼欲樂。究竟者,謂決定誹謗。如經言:故思造業。云何名為故思造業?略有五種,謂他所教勅故思造業、他所勸請故思造業、無所了知故思造業、根本執著故思造業、顛倒分別故思造業。他所教勅故思造業者,猶如有一雖不欲樂,因他強力之所教勅,發起故思行不善業。他所勸請故思造業者,猶如有一雖不欲樂,因他勸請、因他引導,執為利益,發起故思行不善業。無所了知故思造業者,猶如有一不了德失,無所執著隨欲所作,發起故思行不善業。根本執著故思造業者,猶如有一為貪瞋等諸不善根纏蔽其心,猛利執著,發起故思行不善業。顛倒分別故思造業者,猶如有一依不平等因見愛樂邪法,為求當來可愛異熟,發起故思行不善業。於此五中,根本執著故思造業、顛倒分別故思造業,此二種若作若增長非不受異熟。所以者何?前三故思作業,雖作不增長,輕故不必受異熟。後二故思作業,若作若增長,重故必定受異熟。作者,謂起造諸業令其現行。增長者,謂令習氣增益,於阿賴耶識中長養異熟種子故。如經言決定受業者,云何決定?謂作業決定、受異熟決定、分位決定。作業決定者,由宿業力感得決定異熟相續,於此生中必造此業。何以故應造此業?期限決定故,終不越限必造此業。乃至諸佛世尊大神通力,亦不能為障令其不造,隨因決定力果相續轉變故。受異熟決定者,如先所說故思造業。分位決定者,謂現法受等分位決定業。如由此業於現法中必定受異熟,由此業必受生異熟、由此業必受後異熟。又十不善業道異熟果者,於三惡趣中隨下中上品,受傍生、餓鬼、那落迦異熟。等流果者,各隨其相於人趣中感得自身眾具衰損。謂從惡趣沒後生人中,由殺盜等,各隨其相感得自身眾具衰損,所謂壽命短促、常貧窮等,如其所應。增上果者,各隨其相感得所有外事衰損。謂殺生等各隨其相,感稼穡等外事衰損。所謂外具乏少光澤,是殺生增上果,如是等。如經言:於一切十不善業道修習多修習故,生於那落迦、傍生、餓鬼,是彼異熟果。若得來此人同分中,由殺生故今得短壽,不與取故乏少財物,欲邪行故妻不貞良,由虛誑語故多被誹謗,離間語故親友乖離,麁惡語故恒聞不如意聲,由綺語故言不威肅,由貪欲故貪轉猛盛,由瞋恚故瞋轉猛盛,由邪見故癡轉猛盛,諸邪見者癡增上故,是彼等流果。由極修習殺生業故,一切外事乏少光澤,不與取故多遭霜雹,欲邪行故多諸塵坌,妄語故多諸臭穢,離間語故高下險阻,麁惡語故其地醎鹵磽确穢惡,綺語故時候乖變,貪欲故果實尠少,瞋恚故果味辛苦,邪見故果味辛苦或全無果,是彼增上果。又十善業道異熟果者,謂於人天趣中受人天異熟。等流果者,謂即於彼處各隨其相感得自身眾具興盛。增上果者,謂即於彼處各隨其相感得外事興盛。如不善業道建立異熟果等三種差別,如是有漏善業道於人天中三果差別,如其所應亦當建立。又善不善業於善趣惡趣中感生異熟時,有二種差別,謂招引業、圓滿業。招引業者,謂由此業能牽異熟果。圓滿業者,謂由此業生已領受愛不愛果。復次或有業由一業力牽得一身,謂由一業力長養一生異熟種子故。或有業由一業力牽得多身,謂由一業力長養多生異熟種子故。或有業由多業力牽得一身,謂由多業剎那數數長養一生異熟種子故。或有業由多業力牽得多身,謂多剎那業更相資待展轉長養多生異熟種子故。問:若一有情成就多業,云何次第受異熟果耶?答:於彼身中重者先熟,或將死時現在前者、或先所數習者、或最初所行者,彼異熟先熟。如經言:有三種業,謂福業、非福業、不動業。福業者,謂欲界繫善業。非福業者,謂不善業。不動業者,謂色無色界繫善業。問:何故色無色繫善業名不動耶?答:如欲界中餘趣圓滿善不善業,遇緣轉得餘趣異熟。非色無色繫業有如是事,所受異熟界地決定故。是故約與異熟不可移轉,名為不動。又定地攝故說為不動。問:如經中說無明緣行。若福非福及與不動:云何福及不動行緣無明生耶?答:有二種愚,一異熟愚、二真實義愚。由異熟愚故發非福行,由真實義愚故發福及不動行。由異熟愚發非福行者,由彼一向是染污性,無明合時必不容受信解,異熟行相正見故。由真實義愚發福不動行者,真實義即四聖諦,於彼愚癡名真實義愚。未見諦者雖起善心,由彼隨眠所隨縛故亦名愚癡。由彼勢力,於三界苦不如實知,便能發起後有因性福、不動行。非已見諦者能發此業,無真實義愚故。是故彼業說因此生。復次殺生業道,貪瞋癡為方便,由瞋究竟。如殺生,麁惡語、瞋恚業道亦爾。殺生貪為方便者,為皮肉等故。瞋為方便者,為除怨等故。癡為方便者,為祠祀等故。由瞋究竟者,離無慈悲必不殺害他有情故。麁惡語等如理應知。不與取業道,貪瞋癡為方便,由貪究竟。如不與取,欲邪行、貪欲亦爾。問:貪欲等云何用貪等為方便?答:前說貪欲業道於他資財決定執為己有為性,若即於此資財先起餘貪,加行追求欲為己有,即立此為貪方便。若先起瞋,餘勿有此,是瞋方便。若先起癡,謂於他物取為己有無有過失,是癡方便。如是所餘,如理應知。虛誑語業道,貪瞋癡為方便,於三種中隨由一究竟。如妄語,離間語、綺語亦爾。邪見業道,貪瞋癡為方便,由癡究竟。
次に、煩悩の増上によって生じる業とはどのようなものでしょうか。意図的な業(思業)、および意図に基づいて行われる業(思已業)を、あわせて「業相」と呼びます。また、業には五つの種類があります。すなわち、取受業、作用業、加行業、転変業、證得業です。
取受業とは、眼などが色などを能く見ることです。作用業とは、地などが能く任持することです。あるいは、諸法の自相によってなされることで、色という物質が形を持ち、変壊することなどがこれにあたります。加行業とは、意解を先立てて身の業などを起こすことです。転変業とは、金工などが装身具を作り出すことなどです。證得業とは、聖道などが涅槃を證得することなどです。今回の論義の中では、意図として「加行業」を多く分別しますが、なかには「證得業」と「作用業」の二つを兼ね備えるものもあります。
意図的な業(思業)とはどのようなものでしょうか。それは福業、非福業、不動業のことです。意図に基づいて行われる業(思已業)とはどのようなものでしょうか。それは身業、語業、意業のことです。
また、この身・語・意の三業は、善であることもあれば、不善であることもあります。不善とは、十不善業道のことです。すなわち、殺生、不与取、欲邪行、妄語、離間語、麁悪語、綺語、貪欲、瞋恚、邪見です。善とは、十善業道のことです。すなわち、殺生の離脱から始まり、離間語の離脱、無貪、無瞋、正見に至るまでです。ここで、十善業道によって身業などを明らかにしたのは、経典に従い、すぐれたものを基準として説いたからです。彼ら方便などもまた、身業などの中に含まれるからです。前の三つ(身)と中の四つ(語)と後の三つ(意)の業道は、その順序に従って身・語・意業の相となります。
また、殺生などは五つの門(事・意楽・方便・煩悩・究竟)によってその相を分別すべきです。殺生などの五門とは、事、意楽、方便、煩悩、究竟のことです。事とは、有情に属するもの、および非有情に属するものであり、それぞれ相応する場所において殺生などが起こることを指します。意楽とは、この事においてそのような考えと意欲を起こし、さらにこの業道をなそうとする意欲を起こすことです。方便とは、この作用であり、自らまたは他者によって身・語・意を発動させることです。煩悩とは、貪・瞋・癡であり、それぞれ相応に応じて、総体的または個別に働きます。究竟とは、それぞれの方便によって、その業道が円満することであり、その時になされることもあれば、後になってなされることもあります。
この論義の中で、殺生の事とは「有情であること」です。意楽とは「そのような考えと、必ず害そうとする意欲」です。方便とは「害するために、刀や杖などを加えること」です。煩悩とは「貪など」です。究竟とは「その衆生が方便によって、間をおかずに死ぬこと、あるいは後の時に死ぬこと」です。不与取なども、事と究竟については詳細に分別すべきであり、残りは道理に従って考察すべきです。不与取の事とは「他者の所有物であり、有情または非有情であること」です。究竟とは「自分のものとして取り込むこと」です。欲邪行の事とは「行いとしてはならない相手の女性、あるいは行いであっても、分に合わない場所、場所、時、分量であること」です。および「道理に合わない一切の男性や、両性具有の者」です。究竟とは「男女の交会」です。
虚誑語(妄語)の事とは「見て、聞いて、覚り、知ったことについて、見ておらず、聞いておらず、覚っておらず、知らないと言うこと」です。意楽とは「別の考えを持ち、別のことを語ろうと欲すること」です。究竟とは「その場にいる人々、および相手が理解すること」です。離間語の事とは「諸々の有情が、和合しているか、あるいは和合していないか」です。意楽とは「その有情たちに対して、乖離させ、和合を失わせようとする意」です。究竟とは「仲違いさせられた側が(その意図を)理解すること」です。麁悪語の事とは「諸々の有情に損害を与えることのできるもの」です。究竟とは「麁悪な言葉を発すること」です。綺語の事とは「利益にならない事柄を引き寄せるもの」です。究竟とは「まさにその言葉を発すること」です。貪欲の事とは「他者の所有する財宝」です。意楽とは「その事に対する思いを起こし、愛着を楽しむこと」です。方便とは「自分のものにしようと計画し、推し量ること」です。究竟とは「自分のものだと決定的に執着すること」です。瞋恚の事とは「諸々の有情に損害を与えることのできるもの」です。究竟とは「決定的に害を加えようとすることなど」です。邪見の事とは「実在する道理」です。意楽とは「実在するものに対して、存在しないという考えを起こし、それを喜ぶこと」です。究竟とは「決定的に誹謗すること」です。
経典にある「故思造業(意図的に造られた業)」とはどのようなものでしょうか。簡潔にいえば五種類あります。すなわち、他者から教勅されて意図的に造る業、他者から勧請されて意図的に造る業、何も知らないまま意図的に造る業、根本的な執着により意図的に造る業、顛倒した分別により意図的に造る業です。
他者から教勅されて意図的に造る業とは、ある者が自分では欲していないにもかかわらず、他者の強力な教勅によって、意図的に不善の業をなすようなものです。他者から勧請されて意図的に造る業とは、ある者が自分では欲していないにもかかわらず、他者の勧請や導きによって、それを利益だと考えて意図的に不善の業をなすようなものです。何も知らないまま意図的に造る業とは、ある者が善悪の得失を理解せず、何の執着もなく、欲するままに意図的に不善の業をなすようなものです。根本的な執着により意図的に造る業とは、ある者が貪・瞋などの不善根に心を覆われ、猛烈に執着して意図的に不善の業をなすようなものです。顛倒した分別により意図的に造る業とは、ある者が不平等な因に基づき、邪法を愛して、未来の好ましい異熟を求めて意図的に不善の業をなすようなものです。
この五つのうち、根本的な執着による業と顛倒した分別による業は、これら二つに関しては、なしたとしても、あるいは増長させたとしても、異熟を受けないことはありません。なぜでしょうか。最初の三つの意図的な業は、なしたとしても増長させなければ軽いため、必ずしも異熟を受けるとは限りません。後の二つの意図的な業は、なしたとしても、増長させたとしても、重いため必ず異熟を受けます。「造る」とは、諸々の業を発動させて現行させることです。「増長させる」とは、習気を増大させ、阿頼耶識の中で異熟の種子を養い育てることです。
経典にいう「決定的に業を受ける」とはどのようなことでしょうか。すなわち、業の決定、異熟を受けることの決定、分位の決定です。業の決定とは、過去の業の力によって決定的な異熟の相続を得ることにより、この生において必ずこの業を造るということです。なぜ必ずこの業を造るのでしょうか。期限が決定しているからであり、その限界を超えることなく必ずこの業を造ります。諸仏世尊の大神通力をもってしても、造らないように障ることはできません。因の決定力に従って果の相続が転変するからです。異熟を受けることの決定とは、先に説いた意図的に造る業の通りです。分位の決定とは、現法で受けるなどの分位が決定した業のことです。例えば、この業によって現世において必ず異熟を受け、この業によって必ず生異熟を受け、この業によって必ず後異熟を受けるといったものです。
また、十不善業道の異熟果とは、三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)において、その下・中・上の程度に従い、畜生、餓鬼、地獄の異熟を受けることです。等流果とは、それぞれその業の相に従い、人趣において自身の衆具(肉体や所有物)が衰損することです。すなわち、悪趣から没した後に人に生まれて、殺生や盗みなどの相に従い、自身の寿命が短かったり、常に貧窮であったりすることなど、それぞれ相応する結果を受けることです。増上果とは、それぞれその業の相に従い、外的な事柄が衰損することです。すなわち、殺生などの相に従い、農作物が実らないなど、外的な事柄が衰損することです。例えば、外的な資具が乏しく光沢を失うことは、殺生の増上果であり、そのような類のことです。
経典にある通り、十不善業道を修習し、多く修習することによって地獄・畜生・餓鬼に生まれ、それがその異熟果となります。もし、この人間界に生まれ変わったとしても、殺生によって短命であり、不与取によって財物が乏しく、欲邪行によって妻が不貞であり、妄語によって多くの誹謗を受け、離間語によって親友と引き離され、麁悪語によって常に不快な声を聞き、綺語によって言葉に威厳がなく、貪欲によって貪りが増し、瞋恚によって瞋りが増し、邪見によって痴が増す。諸々の邪見者は痴が強いからであり、これらがその等流果です。極めて殺生の業を修習することによって、すべて外的な事柄が光沢を失い、不与取によって霜や雹の被害が多く、欲邪行によって塵や埃が多く、妄語によって臭く汚れたものが多く、離間語によって高低や険しい道が多く、麁悪語によって土地が塩気を含み、硬く汚れており、綺語によって季節の移ろいが狂い、貪欲によって果実が少なく、瞋恚によって果実の味が苦く、邪見によって果実の味が苦い、あるいは全く実らない。これらがその増上果です。
また、十善業道の異熟果とは、人・天の趣において人・天の異熟を受けることです。等流果とは、まさにその場所において、それぞれ相応する相に従い、自身の衆具が興盛を得ることです。増上果とは、まさにその場所において、それぞれ相応する相に従い、外的な事柄が興盛を得ることです。不善業道において異熟果などの三種類の差別を立てたように、有漏の善業道もまた、人・天において三果の差別があることを相応に立てるべきです。
また、善・不善の業が善趣・悪趣において生を得て異熟を感ずる時、二つの差別があります。すなわち招引業と円満業です。招引業とは、この業によって能く異熟果を牽引することです。円満業とは、この業によって生を受けた後に、愛あるいは不愛の果報を領受することです。
さらに、一つの業の力によって一つの生を牽引する場合もあります。一つの業の力が、一つの生の異熟種子を養うからです。あるいは、一つの業の力によって多くの生を牽引する場合もあります。一つの業の力が、多くの生の異熟種子を養うからです。あるいは、多くの業の力によって一つの生を牽引する場合もあります。多くの業の刹那が、繰り返し一つの生の異熟種子を養うからです。あるいは、多くの業の力によって多くの生を牽引する場合もあります。多くの刹那の業が、互いに資け合って、転々として多くの生の異熟種子を養うからです。
問い:もし一人の有情が多くの業を成就している場合、どのような順序で異熟果を受けるのでしょうか。 答え:その身において、重いものが先に熟し、あるいは死ぬ時に心に現前しているもの、あるいは以前から繰り返し慣れ親しんだもの、あるいは最初になしたものが、その異熟として先に熟します。
経典にある通り、業には福業、非福業、不動業の三種があります。福業とは、欲界に繋がる善業です。非福業とは、不善業のことです。不動業とは、色界・無色界に繋がる善業です。
問い:なぜ色界・無色界に繋がる善業を「不動」と呼ぶのでしょうか。 答え:欲界においては、他の趣を円満させる善・不善の業は、縁に遇えば転じて他の趣の異熟を得ることがあります。しかし、色界・無色界に繋がる業にはそのようなことはなく、受ける異熟の界地が決定しているからです。そのため、異熟に移動することがないという意味で「不動」と呼びます。また、定地(禅定の境地)に摂められているため、「不動」といいます。
問い:経典の中に「無明を縁として行が生ずる」と説かれています。福業、非福業、不動業について、どのように福業や不動行が「無明」を縁として生まれるのでしょうか。 答え:愚かさには二種類あります。一つは異熟についての愚かさ、二つは真実義についての愚かさです。異熟についての愚かさによって非福行を発し、真実義についての愚かさによって福行および不動行を発します。異熟についての愚かさによって非福行を発するとは、それが一向に染汚性であるため、無明と合するときには、異熟の行相を正見することを受け容れず、信じ解することができないからです。真実義についての愚かさによって福行・不動行を発するとは、真実義すなわち四聖諦に対して愚かであることを「真実義についての愚かさ」と言います。諦をまだ見ていない者は善心をも起こしますが、それ(無明)の随眠によって縛られているため、これもまた愚かさと呼びます。その勢力によって、三界の苦をありのままに知ることができず、後有(後の世の存在)の原因となる福行や不動行を発動させることができるのです。すでに諦を見た者は、この業を発することができません。真実義についての愚かさが存在しないからです。それゆえ、その業はこれ(無明)に縁して生まれると説かれるのです。
さらに、殺生の業道は、貪・瞋・癡を方便とし、瞋によって究竟します。殺生と同様に、麁悪語と瞋恚の業道もまた同様です。殺生の貪を方便とするとは、皮や肉などのためであり、瞋を方便とするとは、怨みを晴らすなどのためであり、癡を方便とするとは、祭祀などのためです。瞋によって究竟するとは、慈悲を離れれば、必ず他者を殺害するからです。麁悪語なども道理に従って知るべきです。不与取の業道は、貪・瞋・癡を方便とし、貪によって究竟します。不与取と同様に、欲邪行と貪欲の業道もまた同様です。
問い:貪欲などが、なぜ貪などを方便とするのでしょうか。 答え:先に説いたように、貪欲の業道は、他者の財宝を決定して自分のものだと執着することを性としています。もしその財宝に対して先に他の貪りが起こり、加行として追求して自分のものにしようとするなら、これを貪の「方便」と立てます。もし先に瞋りが起こり、「他に持たせたくない」と思うならば、これが瞋の「方便」です。もし先に癡が起こり、「他人の物を取って自分のものにしても過失はない」と思うならば、これが癡の「方便」です。残りの業についても、同様に道理に従って知るべきです。虚誑語の業道は、貪・瞋・癡を方便とし、その三つのうちのどれかによって究竟します。妄語と同様に、離間語と綺語もまた同様です。邪見の業道は、貪・瞋・癡を方便とし、癡によって究竟します。
復次如經言:有共業、有不共業,有強力業、有劣力業。云何共業?若業能令諸器世間種種差別。云何不共業,若業能令有情世間種種差別。或復有業令諸有情展轉增上,由此業力說諸有情更互相望為增上緣,以彼互有增上力故,亦名共業。由此勢力,諸有情類展轉互為諸心心法變異生因。是故經言:如是有情與餘有情互相見等,而不受用、不易可得。云何強力業?謂對治力強補特伽羅,故思所造諸不善業,由對治力所攝伏故,令當受那落迦業轉成現法受,應現法受業轉令不受。所以此業名強力者,由能對治業力強故。此能治業望所治業其力強勝,令彼所感諸苦異熟轉變滅故。又故思所造一切善業望不善業,對治力強皆名強力。依此業故,薄伽梵說:我聖弟子能以無量廣大之業善熏其心,諸所造作有量之業,此業不能牽引、不能留住,亦不能令墮在彼數。又對治力劣補特伽羅,故思所造諸不善業,望諸善業皆名強力。又故思造業異熟決定,不斷不知,名強力業。此中意說,一切善不善業無有差別,但異熟決定,諸聖道力所不斷者,皆名強力業。又欲界繫諸不善業性皆是強,眾多煩惱隨煩惱等為助伴故。又先所串習名強力業,以數熏習於相續故。又依強位名強力業,由處盛年所造諸業猛利執著淨信所發故。又不可治者所造諸業名強力業,由無涅槃法者所有諸業,非對治力所能伏故。又由田故發強力業,謂害母等業。又由心加行故發強力業,謂於無上菩提發強大願等。此所生業其力猛盛,名強力業。復次由九種因發強力業,謂田故、事故、自體故、所依故、作意故、意樂故、助伴故、多修習故、與多眾生共所行故,由此九因發強力業。田者,謂具大功德,堪為福田。事者,謂所施物多而精妙。自體者,謂戒勝於施、修勝於戒,如是等。所依者,謂已離欲者作諸福業。作意者,謂猛利淨信俱行作意。意樂者,謂希求涅槃所有意樂。助伴者,謂更廣修習餘福業事共相攝受。多修習者,謂數數修習或數數尋思。與多眾生共所行者,謂自作教他見作隨喜。與此相違,是劣力業。
次に、経典に次のように説かれています。共業があり、不共業があり、強力業があり、劣力業があります。
共業とは何でしょうか。その業が、さまざまな器世間の多様な違いを生み出す場合です。不共業とは何でしょうか。その業が、有情世間の多様な違いを生み出す場合です。また、ある業が有情たちを互いに高め合うように働くことがあります。この業の力によって、有情たちは互いに増上縁となると説かれます。彼らが互いに増上力を持っているからこそ、これもまた共業と呼ばれます。この力によって、有情たちは互いに、さまざまな心と心の働きが変化して生じる因となります。それゆえ経典に、「このように有情が他の有情と互いに見るなどの関係を持ちながらも、それを享受し合うことはなく、また互いに得ることも容易ではない」と説かれているのです。
強力業とは何でしょうか。対治の力が強い人(補特伽羅)が、意図して行ったもろもろの不善の業は、対治の力に制せられるために、本来なら地獄(那落迦)で受けるはずの業が現世で受ける業へと変わり、現世で受けるはずの業は受けずに済むようになります。この業が強力と呼ばれるのは、対治する業の力が強いからです。この対治する業は、対治される業に比べてその力が強く勝っているため、相手がもたらすはずのさまざまな苦しみの異熟を変化させ、滅ぼしてしまうのです。
また、意図して行ったすべての善業は、不善業に比べて対治の力が強いので、みな強力業と呼ばれます。この業に基づいて、世尊(薄伽梵)は次のように説かれました。「わが聖なる弟子たちは、無量で広大な業によってよくその心を薫習することができる。そのため、彼らが行う量りある業は、彼らを引き寄せることも、引き留めることもできず、また彼らをその数に入れることもできない」と。
また、対治の力が劣った人(補特伽羅)が意図して行ったもろもろの不善の業は、もろもろの善業に比べてみな強力業と呼ばれます。
また、意図して行った業で、その異熟が決定しており、断つことも知ることもできないものは、強力業と呼ばれます。ここで意味しているのは、すべての善業・不善業に区別はなく、ただ異熟が決定していて、聖道の力によっても断つことのできないものは、みな強力業と呼ばれるということです。
また、欲界に属するもろもろの不善業は、その性質がみな強いものです。多くの煩悩や随煩悩などが助伴となっているからです。
また、以前から繰り返し慣れ親しんできた業は、強力業と呼ばれます。たびたび薫習して心の連続(相続)に染みついているからです。
また、強い状態に基づいて行う業は、強力業と呼ばれます。盛んな年齢のときに、鋭く激しい執着や清らかな信仰によって発した業だからです。
また、対治できない者(無涅槃法の者)が行うもろもろの業は、強力業と呼ばれます。涅槃に至る法を持たない者のすべての業は、対治の力では制することができないからです。
また、対象となる田(福田)によって強力業が生じます。母を害するなどの業がそれです。
また、心の働き(加行)によって強力業が生じます。無上の菩提に対して強い大願を起こすことなどがそれです。これによって生じた業はその力が激しく盛んなので、強力業と呼ばれます。
次に、九つの因によって強力業が生じます。すなわち、田によるから、事によるから、自体によるから、所依によるから、作意によるから、意楽によるから、助伴によるから、多く修習するから、多くの衆生と共に行うからです。この九つの因によって強力業が生じます。
田とは、大きな功徳を備え、福田となるにふさわしいものをいいます。事とは、施し与える物が多く、しかも精巧で優れていることをいいます。自体とは、戒が施しに勝り、修行が戒に勝るといったことをいいます。所依とは、すでに欲を離れた者がもろもろの福業を行うことをいいます。作意とは、鋭く激しい清らかな信仰とともに働く作意をいいます。意楽とは、涅槃を希求する意楽をいいます。助伴とは、さらに広く他の福業を修習し、互いに摂め受け合うことをいいます。多く修習するとは、たびたび修習し、あるいはたびたび思い巡らすことをいいます。多くの衆生と共に行うとは、自ら行い、他に教え、他が行うのを見て随喜することをいいます。
これらと反対のものは、劣力業です。
如世尊說:若有說言彼彼丈夫補特伽羅,隨如是如是業,若作若增長,還受如是如是異熟。若有是事,便不應修清淨梵行,亦不可知正盡諸苦作苦邊際。若有說言彼彼丈夫補特伽羅,隨如是如是順所受業,若作若增長,還受如是如是順所受異熟。若有是事,便應修習清淨梵行,又亦可知正盡諸苦作苦邊際。如是經言有何密意?此中佛意為欲遮止如是邪說,謂樂俱行業還能感得樂俱行異熟、苦俱行業還能感得苦俱行異熟、不苦不樂俱行業還能感得不苦不樂俱行異熟,故作是說。若有說言彼彼丈夫補特伽羅,隨如是如是業若作若增長,還受如是如是異熟。若有是事,便不應修清淨梵行,亦不可知正盡諸苦作苦邊際。何故便不應修清淨梵行?以諸煩惱極猛利者,要由智慧自勵自策,與憂苦俱護持禁戒。若於當來受彼異熟時,還與憂苦俱者護持禁戒,應無義利。又於他妻等與喜樂俱毀犯禁戒,若於當來受彼異熟時,還與喜樂俱者精勤遠離,即為唐捐。是故說言:若有是事,便不應修清淨梵行。何故亦不可知正盡諸苦作苦邊際?即由如是修習梵行招苦異熟故。是故世尊為遮如是外道邪說,樂俱行業還受樂異熟、苦俱行業還受苦異熟、不苦不樂俱行業還受不苦不樂異熟,異熟因異熟果決定相似,故說是經。又為開許如是正說,謂樂俱行業順樂受者還受樂異熟順、苦受者還受苦異熟、順不苦不樂受者還受不苦不樂異熟。苦俱行業順樂受者還受樂異熟、順苦受者還受苦異熟、順不苦不樂受者還受不苦不樂異熟。不苦不樂受俱行業順樂受者還受樂異熟、順苦受者還受苦異熟、順不苦不樂受者還受不苦不樂異熟。樂俱行業有二種,謂善、不善。隨其所應順當來世苦受、樂受、不苦不樂受,還能感得樂等異熟。如是苦俱行業、不苦不樂俱行業,各有二種隨順樂等感樂等異熟,隨其所應。如是名為此經密意。
世尊が説かれた通りです。もし「あの者、この者という人には、その人が行った通り、また増し広げた通りの業に応じて、それに応じた異熟が返ってくる」と説くならば、もしそのようなことが成り立つなら、清らかな梵行を修める必要はなくなり、また、正しく諸々の苦を尽くして苦の果てに至ることも知り得ないことになります。もし「あの者、この者という人には、その人が受けるべき業に順じて行い、また増し広げた通りに応じて、それに順じた異熟が返ってくる」と説くならば、もしそのようなことが成り立つなら、清らかな梵行を修習すべきであり、また、正しく諸々の苦を尽くして苦の果てに至ることも知り得ることになります。このような経の言葉には、どのような密意があるのでしょうか。
ここでの仏の御心は、次のような邪説を遮止しようとされることにあります。すなわち「楽と共に行う業は、楽と共に行う異熟を感得し、苦と共に行う業は、苦と共に行う異熟を感得し、不苦不楽と共に行う業は、不苦不楽と共に行う異熟を感得する」という説です。そこでこのように説かれたのです。
「あの者、この者という人には、その人が行った通り、また増し広げた通りの業に応じて、それに応じた異熟が返ってくる。もしそのようなことが成り立つなら、清らかな梵行を修める必要はなくなり、また、正しく諸々の苦を尽くして苦の果てに至ることも知り得ない」と。なぜ清らかな梵行を修める必要がなくなるのでしょうか。諸々の煩悩が極めて猛利な者は、智慧によって自ら励まし自ら策し、憂いや苦しみと共に戒を護り持たなければなりません。もし将来、その異熟を受けるときに、やはり憂いや苦しみと共に戒を護り持つのであれば、意味も利益もないことになります。また、他人の妻などに対して喜びや楽しみと共に戒を破る者が、もし将来、その異熟を受けるときに、やはり喜びや楽しみと共に精勤して遠ざかるのであれば、それは無駄になってしまいます。それゆえ「もしそのようなことが成り立つなら、清らかな梵行を修める必要はない」と説かれるのです。
なぜまた、正しく諸々の苦を尽くして苦の果てに至ることも知り得ないのでしょうか。それは、このように梵行を修習することが苦の異熟を招くからです。それゆえ世尊は、このような外道の邪説、すなわち「楽と共に行う業は楽の異熟を受け、苦と共に行う業は苦の異熟を受け、不苦不楽と共に行う業は不苦不楽の異熟を受ける。異熟の因と異熟の果は必ず似通う」という説を遮止するために、この経を説かれたのです。
また、次のような正しい説を開許するためでもあります。すなわち「楽と共に行う業で楽受に順じる者は楽の異熟を受け、苦受に順じる者は苦の異熟を受け、不苦不楽受に順じる者は不苦不楽の異熟を受ける。苦と共に行う業で楽受に順じる者は楽の異熟を受け、苦受に順じる者は苦の異熟を受け、不苦不楽受に順じる者は不苦不楽の異熟を受ける。不苦不楽受と共に行う業で楽受に順じる者は楽の異熟を受け、苦受に順じる者は苦の異熟を受け、不苦不楽受に順じる者は不苦不楽の異熟を受ける」という説です。
楽と共に行う業には二種あります。すなわち善と不善です。それぞれ相応に応じて、当来世の苦受・楽受・不苦不楽受に順じ、また楽などの異熟を感得します。このように、苦と共に行う業、不苦不楽と共に行う業にもそれぞれ二種があり、楽などに順じて楽などの異熟を感得し、それぞれ相応に応じるのです。このことを、この経の密意と名づけます。
大乘阿毘達磨雜集論卷第七
大乗阿毘達磨雑集論 第七巻