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  1. 大乗阿毘達磨雑集論 (大乘阿毘達磨雜集論)
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大乗阿毘達磨雑集論 (大乘阿毘達磨雜集論)


決擇分中論品第四之一

決択分の中の論品 第四の一

云何論決擇?略說有七種,謂義決擇、釋決擇、分別顯示決擇、等論決擇、攝決擇、論軌決擇、祕密決擇。

論決択とは何でしょうか。概略を説けば七種があります。すなわち義決択、釈決択、分別表示決択、等論決択、摂決択、論軌決択、秘密決択です。

義決擇者,謂依六義而起決擇。何等六義?謂自性義、因義、果義、業義、相應義、轉義。

義の決択とは、六つの義に基づいて決択を起こすことをいいます。六つの義とは何でしょうか。自性の義、因の義、果の義、業の義、相応の義、転の義です。

自性義者,謂遍計所執等三自性。

自性の義とは、遍計所執などの三自性をいいます。

因義者,謂三因:一生因、二轉因、三成因。生因者,謂因等四緣,由此能生諸有為故。轉因者,謂由此次第彼法轉,如無明緣行等;乃至集滅,由此次第染淨轉故。成因者,謂現量可得不可得等,正說所攝,由此能成立先所未了所成義故。果義者,謂五果。何等為五?一異熟果、二等流果、三增上果、四士用果、五離繫果。異熟果者,謂阿賴耶識等。等流果者,謂前生諸善法所起自相續後諸善法。增上果者,謂一切有情共業增上力所感器世間。士用果者,謂稼穡等。離繫果者,謂由聖道,隨眠永滅。業義者,謂五種業:一取受業、二作用業、三加行業、四轉變業、五證得業。此五業義如前業染中釋。相應義者,謂五種相應。何等為五?一聚結相應、二隨逐相應、三連綴相應、四分位相應、五轉變相應。聚結相應者,謂於舍等有木石等。隨逐相應者,謂隨眠等因,由有此故,雖煩惱等不現行而說與彼相應。連綴相應者,謂親屬等展轉相應。分位相應者,謂攝受益等相續分位,由此分位,現前說名與樂相應,乃至與不苦不樂相應故。轉變相應者,謂客塵煩惱等現前,由有此故,說與貪等信等相應。轉義者,謂五種轉:一相轉、二安住轉、三顛倒轉、四不顛倒轉、五差別轉。相轉者,謂生等三有為相,由彼三相差別轉故。安住轉者,謂所持法住能持中而轉故。顛倒轉者,謂雜染法不如實轉故。不顛倒轉者,謂清淨法如實轉故。差別轉者,謂一切行過去未來現在內外等差別轉故。

因の義とは、三つの因をいいます。一に生因、二に転因、三に成因です。生因とは、因・等無間縁・所縁縁・増上縁の四縁をいい、これによって諸々の有為の法が生じるからです。転因とは、これによって次第にかの法が転じることをいい、無明を縁として行が生じるなどのごとく、さらには集と滅に至るまで、これによって次第に染と浄が転じるからです。成因とは、現量によって得られるもの・得られないものなど、正しい教説に含まれるものをいい、これによって先にまだ了解していなかった成立すべき義を成立させることができるからです。

果の義とは、五つの果をいいます。何が五つでしょうか。一に異熟果、二に等流果、三に増上果、四に士用果、五に離繋果です。異熟果とは、阿頼耶識などをいいます。等流果とは、前世に生じた諸々の善法から起こる、自らの相続における後の諸々の善法をいいます。増上果とは、すべての有情の共業の増上力によって感得された器世間をいいます。士用果とは、稲作などの農作業の結果をいいます。離繋果とは、聖道によって随眠が永遠に滅したことをいいます。

業の義とは、五種の業をいいます。一に取受業、二に作用業、三に加行業、四に転変業、五に証得業です。これら五種の業の義は、先の業染の項で説明したとおりです。

相応の義とは、五種の相応をいいます。何が五つでしょうか。一に聚結相応、二に随逐相応、三に連綴相応、四に分位相応、五に転変相応です。聚結相応とは、家屋などに木材や石などがあるような関係をいいます。随逐相応とは、随眠などの因をいい、これがあるために、煩悩などが現行しなくても、それと相応すると説かれることをいいます。連綴相応とは、親族などが互いに連なり合う関係をいいます。分位相応とは、楽などの感受を摂する相続の分位をいい、この分位によって、現前に楽と相応すると名づけ、さらには不苦不楽と相応すると名づけるからです。転変相応とは、客塵の煩悩などが現前することをいい、これがあるために、貪などや信などと相応すると説かれるからです。

転の義とは、五種の転をいいます。一に相転、二に安住転、三に顛倒転、四に不顛倒転、五に差別転です。相転とは、生・住・滅の三つの有為相をいい、それら三つの相の違いによって転じるからです。安住転とは、保持される法が、保持するものの中にあって転じることをいいます。顛倒転とは、雑染の法が真実のままに転じないことをいいます。不顛倒転とは、清浄の法が真実のままに転じることをいいます。差別転とは、すべての行が過去・未来・現在、内・外などの違いによって転じることをいいます。

釋決擇者,謂能解釋諸經宗要開發彼義故。此復云何?略有六種,謂所遍知事、所遍知義、遍知因緣、遍知自性、遍知果彼證受。由此六義,隨其所應遍釋諸經故,名釋決擇。所遍知事,謂蘊等。所遍知義,謂無常等。遍知因緣,謂淨尸羅守根門等。遍知自性,謂菩提分法。遍知果,謂解脫。彼證受,謂解脫智見。

決択を解釈するとは、諸経の宗要を説明し、その意義を開き明かすことができることをいいます。これはまたどのようなものでしょうか。おおよそ六種あります。すなわち、遍知される事、遍知される義、遍知の因縁、遍知の自性、遍知の果、そしてその証受です。この六つの義によって、それぞれに応じて諸経を広く解釈するので、「釈決択」といいます。遍知される事とは、蘊などです。遍知される義とは、無常などです。遍知の因縁とは、清らかな戒を守り、諸根を守ることなどです。遍知の自性とは、菩提分法です。遍知の果とは、解脱です。その証受とは、解脱の智見です。

又十四門辯釋決擇。何等十四?謂攝釋門、攝事門、總別分門、後後開引門、遮止門、轉變字門、壞不壞門、安立數取趣門、安立差別門、理趣門、遍知等門、力無力門、別別引門、引發門。

また十四の門によって弁釈し決択します。その十四とは何でしょうか。すなわち、摂釈門、摂事門、総別分門、後後開引門、遮止門、転変字門、壊不壊門、安立数取趣門、安立差別門、理趣門、遍知等門、力無力門、別別引門、引発門です。

攝釋門者,謂若於是處宣說諸經緣起所以,句義次第意趣釋難。

摂釈門を摂するとは、ある所において諸経の縁起の所以、句義の次第、意趣、および難問の解釈を宣説することをいいます。

攝事門者,謂若於是處約學事、聖諦事等辯釋諸經。如說諸惡者莫作、諸善者奉行、善調伏自心、是諸佛聖教,此伽他中依三學說如是等。

摂事門とは、あるところで学の事柄や聖諦の事柄などについて諸経を弁釈することをいいます。たとえば「もろもろの悪はなすことなかれ、もろもろの善は奉行せよ、よく自心を調伏せよ、これ諸仏の聖教なり」と説かれるこの伽他においては、三学に依ってこのように説かれています。

總別分門者,謂若處顯示先以一句總摽,後以餘句別釋。如《十二暇總集經》中,先說自圓淨、他圓淨二句,後如其次第五句五句別釋,如是等。

総別分門とは、ある箇所でまず一句をもって総じて標示し、後に残りの句をもって個別に説明することをいいます。たとえば『十二暇総集経』では、まず自円浄・他円浄の二句を説き、後にその順に従って第五句と五句とで個別に説明します。このようなものです。

後後開引門者,謂若處顯示能為後後開引所依故,此諸法如是次第說。如信等五根先後次第,必先信受乃發精進,發精進已然後念住,既念住已心得安定,心安定已方如實知,如是等。

次に「後後開引門」について述べます。ある箇所で、前のものが後の後の展開の拠り所となることを示しているからです。これらの法がこのように順を追って説かれるのです。たとえば信などの五根の前後の順序では、必ずまず信じて受け入れ、それから精進が起こります。精進が起こった後には念が安住し、念が安住した後には心が安定し、心が安定した後にはじめてありのままに知ることができます。このような次第です。

遮止門者,謂若處顯示依止此事、遮止此事。如《斤柯喻經》中依止漏盡遮止四種補特伽羅:一處正法外、二處正法中但得聞思便生喜足、三於修慧中心生怯弱、四資糧未滿。告諸比丘:我知我見我說漏盡,如是等一段經文遮止第一。不勤精進修習觀行者,遮止第二。說斤柯喻,遮止第三。說船筏喻,遮止第四。

遮止門とは、ある事柄に依止することを示し、その同じ事柄を遮止することを説く場合のことです。たとえば『斤柯喩経』では、漏尽に依止することを示して、四種の補特伽羅を遮止しています。第一は正法の外にある者、第二は正法の中にあってもただ聞と思とを得ただけで満足してしまう者、第三は修慧において心に怯弱を生じる者、第四は資糧がまだ満たされていない者です。「私は知り、私は見て、漏尽を説く」と諸々の比丘に告げられたこの一節の経文は、第一の者を遮止しています。精進に努めて観行を修習しない者については、第二の者を遮止しています。斤柯の喩えを説かれたのは、第三の者を遮止するためです。船筏の喩えを説かれたのは、第四の者を遮止するためです。

轉變字門者,謂若處顯示轉餘顯了字義變成餘義,如不信不知恩等伽他,後當說。

転変字門とは、ある箇所で、他の明瞭な字の意味を転じて他の意味に変えて示すことをいいます。たとえば「不信」「不知恩」などの伽他(偈)の類で、これについては後に説きます。

壞不壞門者,謂若處顯示失壞不失壞,彼二方便彼二差別。如《善生經》說:失壞者,謂染著內外依事。內依事五取蘊為相,外依事田宅妻子等為相。不失壞者,謂遠離此二種染著。失壞方便者,謂不出家,雖復出家而行放逸不得漏盡,與此相違是無失壞方便。佛告善生:族姓子!有二種事俱為美妙,若落鬚髮乃至趣於非家;若盡諸漏,乃至自稱不受後有者。此正顯不失壞及彼方便,兼顯失壞及彼方便,由與此相相違故。

壊れる・壊れないという門について述べます。ある場面で失壊と不失壊が示されるなら、それはこの二つの方便と、この二つの区別を指します。

『善生経』に説かれているとおりです。失壊とは、内と外の依り所となる事柄に染着することです。内の依り所となる事柄とは、五取蘊をその相とします。外の依り所となる事柄とは、田畑や家宅、妻子などをその相とします。不失壊とは、この二種の染着から遠ざかることです。

失壊の方便とは、出家しないことです。たとえ出家しても放逸にふるまい、漏を尽くすことができないことです。これと反対のことが、失壊しない方便です。

仏は善生に告げられました。「族姓子よ、二つの事はともにすばらしいものです。髪と鬚を剃り落として、ついには家を離れることに向かうこと、そして諸々の漏を尽くし、ついには自ら『もはや後有を受けることはない』と称することです。」

これは、不失壊とその方便を正しく示すとともに、失壊とその方便をも併せて示しています。この相と反対であるからです。

不失壞差別者,如伽他中顯,謂諸比丘美妙寂靜離諸漏。此顯出家及漏盡。為顯漏盡復說餘句,謂離欲離繫縛,無執受涅槃,任持最後身,摧伏魔所使者。此顯由世間道離欲,由出世道永斷順下分結、永斷順上分結、永斷內依事。此則略說因盡果盡,亦兼顯失壞差別。由與此相相違故。

不失壊の差別については、伽他の中に示されているとおりです。すなわち「諸々の比丘は美妙にして寂静であり、諸々の漏を離れている」とあります。これは出家と漏尽とを示しています。漏尽を示すために、さらに他の句を説いています。すなわち「欲を離れ、繋縛を離れ、執受なく涅槃し、最後の身を任持し、魔の所使を摧伏した」という句です。これは、世間道によって欲を離れ、出世道によって順下分結を永く断ち、順上分結を永く断ち、内依の事を永く断つことを示しています。これはすなわち、略して因尽と果尽とを説いたものであり、兼ねて失壊の差別をも示しています。この相と相違するからです。

安立數取趣門者,謂若處顯示依爾所補特伽羅說如是言。如《水喻經》中依二數取趣說三種四種差別言。何等為二?謂異生及見諦異生。差別有三,謂無白法、少白法、多白法。見諦差別有四,謂住四果,三有學、一無學。

数取趣の門を安立するとは、あるところで、これだけの補特伽羅に基づいてこのように語ることを示す場合をいいます。たとえば『水喩経』の中で、二種の数取趣に基づいて三種・四種の区別を説いているような場合です。二種とは何でしょうか。異生と、見諦の異生です。区別は三つあり、無白法と、少白法と、多白法です。見諦の区別は四つあり、四果に住する者、すなわち三種の有学と一種の無学です。

安立差別門者,謂若處顯示四句等所問義。如《無常經》說:若正觀者一切觀色耶?設觀色者一切正觀耶?應作四句。初句,謂於受等四蘊無有常淨樂我顛倒增益,又觀彼為應知應斷。第二句,謂於色蘊有常淨樂我顛倒增益,又觀彼為不應知不應斷。第三句,謂於色蘊無有常淨樂我顛倒增益,又觀彼為應知應斷。第四句,謂於受等四蘊有常淨樂我顛倒增益,又觀彼為不應知不應斷。如因色作四句,如是因受等一切處應廣說。乃至說言:若所作已辦者,一切自謂不受後有耶?設自謂不受後有者,一切所作已辦耶?此應作四句。初句,謂諸異生乃至命終恒行妙行。第二句,謂斷見者。第三句,謂無學。第四句,謂除上爾所相。

安立差別門とは、ある論点について四句(四つの場合分け)などによって問われた意味を明らかに示すことをいいます。

たとえば『無常経』に次のように説かれています。「正しく観察する者は、すべて色を観察するのでしょうか。また、色を観察する者は、すべて正しく観察しているのでしょうか。これについては四句を作るべきです。

第一句は、受などの四つの蘊について、常・浄・楽・我という四つの顛倒した増益はなく、またそれを観察して、知るべきもの・断ずべきものとします。

第二句は、色蘊について、常・浄・楽・我という四つの顛倒した増益があり、またそれを観察して、知るべきでないもの・断ずべきでないものとします。

第三句は、色蘊について、常・浄・楽・我という四つの顛倒した増益はなく、またそれを観察して、知るべきもの・断ずべきものとします。

第四句は、受などの四つの蘊について、常・浄・楽・我という四つの顛倒した増益があり、またそれを観察して、知るべきでないもの・断ずべきでないものとします。

色についてこのように四句を作るのと同じく、受などについても、あらゆる場合に広く説くべきです。

さらに次のように説かれています。「所作已辦(なすべきことをすでに成し遂げた)者は、すべて自ら『もはや後有を受けない』と言うのでしょうか。また、自ら『もはや後有を受けない』と言う者は、すべて所作已辦なのでしょうか。これについては四句を作るべきです。

第一句は、諸々の異生が命終に至るまで常に妙行を行う場合です。

第二句は、断見を持つ者です。

第三句は、無学です。

第四句は、以上に挙げた場合を除いたものです。」

理趣門者,謂若處顯示六理趣義。何等為六?一真義理趣、二證得理趣、三教導理趣、四離二邊理趣、五不思議理趣、六意樂理趣。如是六種,前三如其次第應隨後三決了。如《愛味經》中佛告諸比丘:於色有味乃至廣說。此中顯示由遠離增益損減二邊理趣,決了真義理趣。有味有患有出離者,顯離損減邊。於色乃至於識者,顯離增益邊。由顯示染污清淨唯依諸蘊不依我故。乃至告諸比丘:我自證知由此故,乃至已證覺無上正等菩提者。顯由不思議理趣決了證得理趣。此顯真證內自所受故。如是一切經皆是教導理趣,應隨意樂理趣決了。謂依所遍知事、所遍知義、遍知、遍知果,彼證受,意樂說此經。所遍知事者,謂色等。所遍知義者,謂有味等。由此差別義,遍知色等事故。遍知者,謂於五取蘊,由如是三轉如實遍知。遍知果者,謂從此諸天世間乃至并天人皆得解脫乃至極解脫。彼證受者,謂自證知我已證覺無上正等菩提。

理趣門とは、六つの理趣の意義を明らかにする箇所を指します。その六つとは何でしょうか。第一に真義理趣、第二に証得理趣、第三に教導理趣、第四に離二辺理趣、第五に不思議理趣、第六に意楽理趣です。この六種のうち、前三者はその順に従って、後の三者によって決了されるべきものです。

『愛味経』の中で、仏が諸々の比丘に告げられた通りです。「色には味があり……」と広く説かれています。ここでは、増益と損減という二つの極端を離れる理趣によって、真義理趣を決了することを示しています。「味があり、患いがあり、出離がある」とは、損減の極端を離れることを示します。「色において、ないし識において」とは、増益の極端を離れることを示します。染汚と清浄はただ諸々の蘊に依るものであって、我に依るものではないことを示しているからです。さらに諸々の比丘に告げて、「私は自ら証知した。これによって……ないし無上正等菩提をすでに証覚した」とあるのは、不思議理趣によって証得理趣を決了することを示しています。これは真の証が内なる自らの所受であることを示すからです。

このように、すべての経はみな教導理趣であり、意楽理趣に従って決了されるべきものです。すなわち、遍知される事と、遍知される義と、遍知と、遍知の果と、その証受とによって、意楽をもってこの経を説いているのです。

遍知される事とは、色などです。遍知される義とは、味があることなどです。この差別の義によって、色などの事を遍知するからです。遍知とは、五取蘊において、このような三つの転によって如実に遍知することです。遍知の果とは、これによって諸々の天や世間、ないし天と人とがみな解脱を得、ないし極めて解脱することです。その証受とは、自ら証知して「私はすでに無上正等菩提を証覚した」とあることです。

遍知等門者,謂若處顯示依真實相宣說遍知相義、永斷相義、作證相義、修習相義,即此真實相等品類差別相義、能依所依相屬相義、遍知等障礙法相義、遍知等隨順法相義、於不遍知等及遍知等過失功德相義,此亦如《愛味經》廣說。真實相者,謂取蘊所攝苦諦相。遍知相者,謂即於此有味等如實知。永斷相作證相者,謂從一切世間得解脫,由永斷諸障證得轉依故。修習相者,謂離顛倒心多修習住。品類差別相者,真實相有五種差別,謂色乃至識。遍知相有三種差別,謂味,由味故乃至出離,由出離故如實知。永斷相、作證相各有二種差別,謂煩惱解脫、苦解脫。從此諸天世間乃至并天人皆得解脫者,顯煩惱解脫。為顯此差別義故,次說出離言。何以故?由餘經言:出離云何?謂若於是處貪欲永滅、貪欲永斷,超過貪欲故。如是由能生未來苦煩惱得離繫故,苦亦解脫。為顯此差別義故,次說離繫縛極解脫。修習相有二種差別,謂見道、修道。離顛倒心者顯示見道,多修習住者顯示修道。能依所依相屬相者,謂顯示真實相等為後後所依性。遍知等障礙法相者,謂如是三轉不如實知。遍知等隨順法相者,謂觀察如所安立色等法中味等相。於不遍知等過失相者,謂不解脫乃至不證覺無上正等菩提。與此相違,名於遍知等功德相。

遍知などの門とは、あるところで真実の相に基づいて遍知の相の意義、永断の相の意義、作証の相の意義、修習の相の意義を宣説して示すことをいいます。すなわち、この真実の相などの品類の差別の相の意義、能依と所依の相属の相の意義、遍知などの障碍の法の相の意義、遍知などに随順する法の相の意義、不遍知などおよび遍知などの過失と功徳の相の意義であり、これもまた『愛味経』に広く説かれているとおりです。

真実の相とは、取蘊に摂められる苦諦の相をいいます。遍知の相とは、まさにこの味などについてありのままに知ることをいいます。永断の相と作証の相とは、すべての世間から解脱を得ることをいい、もろもろの障碍を永く断じて転依を証得するからです。修習の相とは、顛倒した心を離れて多く修習して住することをいいます。

品類の差別の相とは、真実の相には五種の差別があり、色から識までをいいます。遍知の相には三種の差別があり、味と、味のゆえに出離に至るまでと、出離のゆえにありのままに知ることです。永断の相と作証の相にはそれぞれ二種の差別があり、煩悩の解脱と苦の解脱です。「この諸天の世間から、さらに天人に及ぶまで、みな解脱を得る」とは、煩悩の解脱を示しています。この差別の意義を示すために、次に「出離」という言葉を説いています。なぜでしょうか。他の経に「出離とは何か。それは、あるところで貪欲が永く滅し、貪欲が永く断たれ、貪欲を超えていることである」と説かれているからです。このように、未来の苦を生じさせる煩悩から離繋されることによって、苦もまた解脱します。この差別の意義を示すために、次に「離繋縛極解脱」を説いています。

修習の相には二種の差別があり、見道と修道です。顛倒した心を離れるとは見道を示し、多く修習して住するとは修道を示しています。

能依と所依の相属の相とは、真実の相などが後の後の所依となる性質であることを示しています。遍知などの障碍の法の相とは、このように三転することをありのままに知らないことをいいます。遍知などに随順する法の相とは、安立されたとおりの色などの法のうちで味などの相を観察することをいいます。不遍知などの過失の相とは、解脱しないこと、さらには無上正等菩提を証覚しないことに至るまでをいいます。これと相違するものを、遍知などの功徳の相といいます。

力無力門者,謂若處顯示諸一一句皆有功能,若不說一句義即不了。如《緣起經》說:此有故彼有,此生故彼生,所謂無明緣行等。如是諸句一一皆有功能,如前緣起相中說。

力無力門とは、ある箇所では、一つ一つの句がすべて機能を持つことを示し、もし一句でも説かなければ、その意味を理解することができないということです。『縁起経』に説かれている通りです。「これがあるから、あれがある。これが生じるから、あれが生じる。すなわち、無明を縁として行があり……」などと。このように、それらの句は一つ一つがすべて機能を持っています。先に縁起の相について説いた中で述べた通りです。

別別引門者,謂若處顯示先摽經一句,後以無量義門廣釋。如經言:若比丘成就六法,尚能口風吹碎高廣大雪山王,況無明死屍。何等為六?若諸比丘心生善巧乃至方便善巧。云何比丘心生善巧?所謂比丘離欲惡不善法,乃至第四靜慮具足住,如是比丘心生善巧。云何比丘心住善巧?所謂比丘善修習故,所有順退分靜慮轉為順住分,如是比丘心住善巧。云何比丘心起善巧?所謂比丘善修習故,所有順住分靜慮轉為順勝進分,如是比丘心起善巧。云何比丘生長善巧?所謂比丘未生善法方便令生,乃至廣說二正斷,如是比丘生長善巧。云何比丘損減善巧?所謂比丘已生惡法方便令斷,乃至廣說二正斷,如是比丘損減善巧。云何比丘方便善巧?所謂比丘欲三摩地斷行成就修如意足,乃至廣說四如意足,如是比丘方便善巧。

別々に引く門とは、ある箇所でまず経の一句を掲げ、その後に無量義の門をもって広く解釈することを示す場合です。経に次のように言われています。「もし比丘が六つの法を成就すれば、なお口の風で高く広い大雪山王を吹き砕くことができる。ましてや無明という死屍においてはなおさらである。六つとは何か。それは、もろもろの比丘が心に善巧を生じることから、方便善巧に至るまでです。

比丘が心に善巧を生じるとはどういうことでしょうか。比丘が欲と悪不善の法を離れ、第四静慮に至るまで具足して住することをいいます。このようにして比丘は心に善巧を生じます。

比丘が心に善巧を住するとはどういうことでしょうか。比丘がよく修習するゆえに、もろもろの順退分の静慮が転じて順住分となることをいいます。このようにして比丘は心に善巧を住します。

比丘が心に善巧を起こすとはどういうことでしょうか。比丘がよく修習するゆえに、もろもろの順住分の静慮が転じて順勝進分となることをいいます。このようにして比丘は心に善巧を起こします。

比丘が善巧を生長するとはどういうことでしょうか。比丘がまだ生じていない善法を方便をもって生じさせることをいい、さらに広く説けば二つの正断に至ります。このようにして比丘は善巧を生長します。

比丘が善巧を損減するとはどういうことでしょうか。比丘がすでに生じた悪法を方便をもって断じさせることをいい、さらに広く説けば二つの正断に至ります。このようにして比丘は善巧を損減します。

比丘が方便善巧とはどういうことでしょうか。比丘が欲三摩地断行成就の如意足を修め、さらに広く説けば四如意足に至ることをいいます。このようにして比丘は方便善巧を得ます。」

引發門者,謂若處顯示一一句中宣說四句,是一一句復分四句,如是展轉無邊引發。如引佛經言:諸菩薩有四種淨修菩提法,一者善修空性、二者於諸眾生心無罣礙、三者常攝利益諸菩薩眾、四者以無染心廣開法施。如是四法於自利利他門淨修菩提,為欲對治四種所治障故。何等為四?一貪著定味、二瞋恚、三慢、四愛著利養。又有差別,初顯煩惱斷對治,餘顯遠離下劣乘。由諸菩薩三種因緣遠下劣乘:一攝受一切有情、二已入法者令成熟、三未入法者令入正法。又有差別,初顯智資糧,餘顯福資糧。此三差別者,攝受成熟令入三門,各能生長勝品福故。又由二緣差別:一由意樂,謂慈心俱;二由正行,謂說證教二行。又諸菩薩成就四法能修空性:一者於內心無動搖、二者信解擇力所持、三者於一切法如實通達、四者解脫一切障。如是四法顯修所依及修差別。以何為依?謂靜慮波羅蜜多。云何修差別?一由異生道,謂聞思力所持;二由學道,謂達諸法實性;三由無學道,謂脫一切障。又諸菩薩成就四法,於諸有情心無罣礙:一者修慈、二者不毀正行、三者不分別相、四者堪忍劬勞。如是四法顯所依及無罣礙心差別。誰為所依?謂過去生所修慈。云何無罣礙心差別?謂於住邪行所心無違毀、於怨家所不分別怨相,為利益他精勤無懈。又諸菩薩成就四法,常能攝益諸菩薩眾:一者不自稱量、二者正教誨轉、三者柔和易可共住、四者精勤承事供養。如是四法顯示所依及攝益差別。何等為依?謂摧伏憍慢。云何攝益差別?謂後所說三句。於劣等勝三種菩薩所,如其次第。又諸菩薩成就四法,能無染心廣開法施:一者善達障難、二者善能除遣愚癡沈沒、三者歡喜攝受、四者愛樂為依怙法。如是四法顯示所依及廣開法施差別。何等為依?謂善通達利養恭敬是障難法。云何廣開法施差別?謂示現教導讚勵慶喜。示現者於愚癡沈沒,教導讚勵者於著放逸自輕下劣,慶喜者於正行圓滿,由性愛樂法故。如是前四句中,一一句復引發四句差別,如是等名引發門。

引發門とは、一つの句の中に四つの句を説き示すことです。その一つの句のそれぞれが、さらに四つの句に分かれ、このようにして際限なく展開していくのが引發です。たとえば仏経に次のように説かれています。「諸菩薩には四種の清らかな菩提の修行法があります。一つには空性をよく修めること、二つにはすべての衆生に対して心に障りがないこと、三つには常に諸菩薩の集まりを利益し摂めること、四つには汚れのない心で広く法の施しを開くことです。」この四つの法は、自利と利他の門において菩提を清らかに修めるものであり、四種の対治されるべき障りを対治するためです。四つとは何でしょうか。一つには定の味に貪り執着すること、二つには瞋恚、三つには慢、四つには利養に愛着することです。

また区別があります。初めのものは煩悩の断を対治することを示し、残りのものは下劣な乗り物から遠ざかることを示します。諸菩薩は三つの因縁によって下劣な乗り物から遠ざかります。一つにはすべての有情を摂受すること、二つにはすでに法に入った者を成熟させること、三つにはまだ法に入っていない者を正法に入らせることです。また区別があります。初めのものは智慧の資糧を示し、残りのものは福徳の資糧を示します。この三つの区別は、摂受・成熟・令入の三つの門が、それぞれにすぐれた福を生長させるからです。また二つの縁によって区別があります。一つには意楽によるもので、慈しみの心とともにあることです。二つには正行によるもので、説く行と証す行の二つの行をいいます。

また諸菩薩は四つの法を成就して空性を修めることができます。一つには内心に動揺がないこと、二つには信解と択法の力に支えられること、三つにはすべての法をありのままに通達すること、四つにはすべての障りから解脱することです。この四つの法は、修行の拠り所と修行の区別を示します。何を拠り所とするのでしょうか。それは静慮波羅蜜多です。修行の区別はどのようなものでしょうか。一つには異生の道によるもので、聞と思の力に支えられること、二つには学道によるもので、諸法の実性に達すること、三つには無学道によるもので、すべての障りから脱することです。

また諸菩薩は四つの法を成就して、すべての有情に対して心に障りがありません。一つには慈しみを修めること、二つには正行を毀たないこと、三つには相を分別しないこと、四つには労苦に堪え忍ぶことです。この四つの法は、拠り所と障りのない心の区別を示します。誰を拠り所とするのでしょうか。それは過去生で修めた慈しみです。障りのない心の区別はどのようなものでしょうか。邪行にとどまる者に対して心に違背や毀りがなく、怨みのある者に対して怨みの相を分別せず、他を利益するために精勤して怠らないことです。

また諸菩薩は四つの法を成就して、常に諸菩薩の集まりを摂め益することができます。一つには自らを称して量らないこと、二つには正しく教え誨えて導くこと、三つには柔和でともに住みやすいこと、四つには精勤して仕え供養することです。この四つの法は、拠り所と摂益の区別を示します。何を拠り所とするのでしょうか。それは憍慢を打ち砕くことです。摂益の区別はどのようなものでしょうか。それは後に説く三つの句です。劣った者・等しい者・すぐれた者の三種の菩薩に対して、その順に応じるものです。

また諸菩薩は四つの法を成就して、汚れのない心で広く法の施しを開くことができます。一つには障難をよく通達すること、二つには愚癡と沈没をよく除き払うこと、三つには歓喜して摂受すること、四つには法を依り所とすることを愛し楽しむことです。この四つの法は、拠り所と広く法施を開くことの区別を示します。何を拠り所とするのでしょうか。それは利養と恭敬が障難の法であるとよく通達することです。広く法施を開くことの区別はどのようなものでしょうか。それは示現・教導・讚励・慶喜です。示現は愚癡と沈没の者に対してであり、教導と讚励は放逸に執着し自らを軽んじて下劣な者に対してであり、慶喜は正行が円満した者に対してであり、それは本性として法を愛し楽しむからです。このように先の四つの句のうち、一つの句のそれぞれがさらに四つの句の区別を引き起こします。このようなものを引發門といいます。

分別顯示決擇者,謂於如所說蘊等法中,隨其所應作一行順前句順後句,二句三句四句述可句遮止句等。一行者,即問論法,謂以一法與餘法一一互相問已,除此法更以第二法與餘法互相問,如是一一問一切法。如有問言:若成就眼處亦色處耶?設成就色處亦眼處耶?此應作順前句答。若成就眼處亦耳處耶?此應作四句答。如是乃至對意處,如理應說。若成就眼處亦法處耶?此亦應作順前句答。若成就色處亦眼處耶?設成就眼處亦色處耶?此應作順後句答。若成就色處亦耳處耶?此亦應作順後句答。如是乃至對法處,如理應說。若成就耳處亦眼處耶?此應作四句答。如是乃至對法處,如理應說。如是一一次第漸減,諸處更互如理應說。

分別・決択を明らかに示すとは、説かれた通りに蘊などの法において、そのしかるべきに従って一行・順前句・順後句・二句・三句・四句・述可句・遮止句などを作ることをいいます。

一行とは、すなわち問論の法であり、一つの法と他の法とを一つ一つ互いに問い終えてから、この法を除いてさらに第二の法と他の法とを互いに問い、このように一つ一つすべての法を問うことをいいます。たとえば「眼処を成就する者は色処をも成就するでしょうか。また色処を成就する者は眼処をも成就するでしょうか」と問うならば、これには順前句で答えるべきです。「眼処を成就する者は耳処をも成就するでしょうか」と問うならば、これには四句で答えるべきです。このように意処に対しても、道理に応じて説くべきです。「眼処を成就する者は法処をも成就するでしょうか」と問うならば、これにも順前句で答えるべきです。「色処を成就する者は眼処をも成就するでしょうか。また眼処を成就する者は色処をも成就するでしょうか」と問うならば、これには順後句で答えるべきです。「色処を成就する者は耳処をも成就するでしょうか」と問うならば、これにも順後句で答えるべきです。このように法処に対しても、道理に応じて説くべきです。「耳処を成就する者は眼処をも成就するでしょうか」と問うならば、これには四句で答えるべきです。このように法処に対しても、道理に応じて説くべきです。このように一つ一つ順に次第に減らしていき、諸処が互いに対しても、道理に応じて説くべきです。

順前句者,謂於諸法中隨取二法更互相問,依止前法以答所問。如有問言:若智亦所知耶?設所知亦智耶?此應作順前句答:諸智亦所知;有所知非智,謂餘法。

順前句とは、諸法のうちから任意に二つの法を取り、互いに問い合うとき、前の法に基づいて問われたことに答えることをいいます。たとえば「智は所知でもあるのでしょうか。また、所知は智でもあるのでしょうか」と問う人がいるとします。この場合は順前句で答えるべきです。「すべての智は所知でもあります。しかし、所知であっても智でないものがあります。それは他の法です」と。

順後句者,謂即二法展轉相問,依止後法以答所問。如有問言:若所取亦能取耶?設能取亦所取耶?此應作順後句答:諸能取亦所取;有所取非能取,謂色等五境及法處,除相應。二句者,謂於所問應二句答,不得有餘。如有依蘊建立、依界建立而發問言:若蘊數亦界數耶?設界數亦蘊數耶?此應作二句答:或蘊數非界數,謂色蘊識蘊。何以故?無有一界全攝色蘊相或全攝識蘊相故。或界數非蘊數,謂法界。

順後句とは、二つの法について互いに問いを重ね、後に立てた法に基づいて問われたことに答えることをいいます。たとえば、次のように問う者がいたとします。「所取であるものは、能取でもあるのでしょうか。あるいは、能取であるものは、所取でもあるのでしょうか。」これには順後句で答えるべきです。「能取であるものは、すべて所取でもあります。しかし、所取であっても能取でないものがあります。それは色などの五境と法処であり、ただし相応を除きます。」

二句とは、問いに対して二つの句で答えるべきものであり、それ以外の答えがあってはなりません。たとえば、蘊に基づく建立と界に基づく建立について、次のように問う者がいたとします。「蘊の数であるものは、界の数でもあるのでしょうか。あるいは、界の数であるものは、蘊の数でもあるのでしょうか。」これには二句で答えるべきです。「蘊の数であっても界の数でないものがあります。それは色蘊と識蘊です。なぜでしょうか。一つの界が色蘊の相を完全に含み、あるいは識蘊の相を完全に含むということはないからです。また、界の数であっても蘊の数でないものがあります。それは法界です。」

三句者,謂於所問唯三句答。如有問言:若蘊數亦處數耶?設處數亦蘊數耶。此應三句答:或蘊數非處數,謂色蘊;或處數非蘊數,謂法處;或蘊數亦處數,謂識蘊意處。俱非數者,於蘊處中決定不有。

三句とは、問われたことに対してただ三句で答えることをいいます。たとえば、次のように問う者がいるとします。「蘊の数に入るものは、また処の数にも入るのでしょうか。あるいは処の数に入るものは、また蘊の数にも入るのでしょうか。」これには三句で答えるべきです。「蘊の数に入るが処の数には入らないもの、それは色蘊です。」「処の数に入るが蘊の数には入らないもの、それは法処です。」「蘊の数にも入り処の数にも入るもの、それは識蘊と意処です。」どちらの数にも入らないものは、蘊や処の中には決して存在しません。

四句者,謂於所問作四句答。如有問言:若成就眼根亦耳根耶?設成就耳根亦眼根耶?應四句答。初句,謂聾者眼根已生不捨。第二句,謂盲者耳根已生不捨。第三句,謂眼耳根已生不捨。第四句,除上爾所相。

四句とは、問われたことに対して四句で答えることをいいます。たとえば、次のように問う者がいるとします。「眼根を成就している者は、耳根も成就しているのでしょうか。また、耳根を成就している者は、眼根も成就しているのでしょうか」と。このような問いには、四句で答えるべきです。第一句は、聾の者についてであり、その眼根はすでに生じて失われていません。第二句は、盲の者についてであり、その耳根はすでに生じて失われていません。第三句は、眼根と耳根の両方がすでに生じて失われていない者についてです。第四句は、以上の者を除いた、それだけの区分を除くものです。

述可句者,謂於所問順爾而答,以如是言述可所問。如有問言:諸無常者皆是行耶?設當是行皆無常耶?應述可答:所問如是。

「述可句」とは、問われたことに対してそのまま受け入れて答えることで、そのような言葉によって問われた内容を認めて述べることをいいます。たとえば、「無常であるものはすべて行ですか。また、行であるものはすべて無常ですか」と問われたなら、その問いのとおりであると認めて、「そのとおりです」と答えるべきです。

遮止句者,謂於所問不爾而答,以不爾言遮止所問。如有問言:蘊外諸行幾諦攝耶?應遮止答:蘊外無行。

遮止句とは、問われたことに対して「そうではない」と答えて、その「そうではない」という言葉によって問いを遮ることをいいます。たとえば、「蘊の外にある諸行は、いくつの諦に含まれるのでしょうか」と問う人があったなら、遮止して答えるべきです。「蘊の外に諸行はありません」と。

等論決擇者,謂依八何八若之詞,問答決擇一切真偽。八何詞者,且如問言:何誰無所得?謂已得般若波羅蜜多菩薩摩訶薩。何所無所得?謂所取相能取相。用何無所得?謂用般若波羅蜜多。為何無所得?謂為救脫一切有情令住無上正等菩提。由何無所得?謂由遇佛出世、聽聞正法、如理作意、法隨法行。何之無所得?謂一切法之無所得。於何無所得?謂於勝解行地乃至第十菩薩地。幾何無所得?謂十一種:一已生已滅、二未生、三現前、四因力所生、五善友力所生、六一切法無所得、七空性無所得、八有我慢、九無我慢、十未具資糧、十一已具資糧,如是十一無所得。隨所有過去未來現在、若內若外、若麁若細、若劣若勝、若遠若近次第應知。如何詞,若詞亦爾,謂若能無所得、若所無所得、若用無所得、若為無所得、若由無所得、若彼無所得、若於無所得、若爾所無所得,如是一切處盡當知。復有四種等論決擇道理,謂能破、能立、能斷、能覺。能破者,謂遮破他宗,言彼惡說非為善事。能立者,謂建立自宗,言此善說真為善事。能斷者,謂能決種種他所生疑。能覺者,謂開曉愚情令解妙義。

等論決択とは、八何・八若の言葉によって、すべての真と偽を問答をもって決択することをいいます。

八何の言葉とは、たとえば「何れの者が無所得なのでしょうか」と問うならば、「すでに般若波羅蜜多を得た菩薩摩訶薩です」と答えます。「何を無所得とするのでしょうか」とは、「所取の相と能取の相です」。「何を用いて無所得とするのでしょうか」とは、「般若波羅蜜多を用います」。「何のために無所得とするのでしょうか」とは、「すべての有情を救い脱して無上正等菩提に住まわせるためです」。「何によって無所得とするのでしょうか」とは、「仏の出世に遇い、正法を聴聞し、如理に作意し、法に随い法を行じることによってです」。「何の無所得なのでしょうか」とは、「すべての法の無所得です」。「何において無所得なのでしょうか」とは、「勝解行地から第十の菩薩地に至るまでにおいてです」。「幾つの無所得なのでしょうか」とは、「十一種です。一に已生已滅、二に未生、三に現前、四に因力所生、五に善友力所生、六に一切法無所得、七に空性無所得、八に有我慢、九に無我慢、十に未具資糧、十一に已具資糧、以上の十一の無所得です。過去・未来・現在のすべて、内なるものも外なるものも、粗いものも細かいものも、劣ったものも勝れたものも、遠いものも近いものも、その次第に応じて知るべきです」。

如何の言葉もまた同じで、「何が無所得となるのか、何が無所得とされるのか、何を用いて無所得とするのか、何のために無所得とするのか、何によって無所得とするのか、何の無所得なのか、何において無所得なのか、どれほどの無所得なのか」という、これらすべての点をことごとく知るべきです。

さらに等論決択には四種の道理があります。能破・能立・能断・能覚です。能破とは、他者の宗義を遮り破って、「その悪しき説は善いことではない」と言うことです。能立とは、自らの宗義を建立して、「この善き説は真に善いことである」と言うことです。能断とは、他者が生じた種々の疑いを決することができることです。能覚とは、愚かな心を開き明かして、妙なる義を理解させることです。

復有五種等論決擇道理,謂如頌言:

また五つの等論決択の道理があります。すなわち、頌に次のように言われています。

自性、所依、識、 清淨、方便等,
當知五各六, 觀所知諸法。

自性・所依・識、清浄・方便などについては、それぞれ六つあると知るべきです。観察される諸法を観じなさい。

自性等六者,一自性、二因、三境界、四行相、五等無間、六增上。所依等六者,一所依、二依、三攝、四相應、五成就、六雜染。識等六者,一識、二受、三想、四作意、五智、六遍知。清淨等六者,一清淨、二詞、三出離、四甚深、五解脫門、六入一切法。方便等六者,一方便、二通達、三修、四圓證、五究竟、六引發。

自性など六つとは、第一に自性、第二に因、第三に境界、第四に行相、第五に等無間、第六に増上です。所依など六つとは、第一に所依、第二に依、第三に摂、第四に相応、第五に成就、第六に雑染です。識など六つとは、第一に識、第二に受、第三に想、第四に作意、第五に智、第六に遍知です。清浄など六つとは、第一に清浄、第二に詞、第三に出離、第四に甚深、第五に解脱門、第六に一切法に入ることをいいます。方便など六つとは、第一に方便、第二に通達、第三に修、第四に円証、第五に究竟、第六に引發です。

自性有四種,謂實自性、假自性、世俗自性、勝義自性。因有四種,謂生因、成因、轉因、還因。境界有七種,謂有相境、有分別境、對治境、安住境、增益境、損減境、自在境。行相有五種,謂分析行相、差別行相、正解行相、觀察行相、作隨作行相。等無間有九種,謂自類等無間、異類等無間、三摩鉢底等無間、退等無間、生等無間、隣次等無間、隔越等無間、起等無間、滅等無間。增上有七種,謂取增上、生增上、住增上、受用雜染增上、清淨增上、田增上、執受增上。所依有八種,謂界所依、趣所依、洲渚所依、村田所依、補特伽羅所依、無病所依、尸羅所依、莊嚴所依。依有五種,謂眾具依、善友依、法依、作意依、三摩鉢底依。攝有十一種,謂界攝、相攝、種類攝、分位攝、助伴攝、時攝、方攝、具分攝、一分攝、更互攝、勝義攝。相應有十種,謂他性相應、不相違相應、遍行相應、不遍行相應、所治相應、能治相應、曾習相應、未曾習相應、下劣相應、廣大相應。成就有三種,謂種子成就、自在成就、現行成就。雜染有四種,謂煩惱雜染、業雜染、生雜染、障雜染。

自性には四種類があります。すなわち、実自性・仮自性・世俗自性・勝義自性です。因には四種類があります。すなわち、生因・成因・転因・還因です。境界には七種類があります。すなわち、有相境・有分別境・対治境・安住境・増益境・損減境・自在境です。行相には五種類があります。すなわち、分析行相・差別行相・正解行相・観察行相・作随作行相です。等無間には九種類があります。すなわち、自類等無間・異類等無間・三摩鉢底等無間・退等無間・生等無間・隣次等無間・隔越等無間・起等無間・滅等無間です。増上には七種類があります。すなわち、取増上・生増上・住増上・受用雑染増上・清浄増上・田増上・執受増上です。所依には八種類があります。すなわち、界所依・趣所依・洲渚所依・村田所依・補特伽羅所依・無病所依・尸羅所依・荘厳所依です。依には五種類があります。すなわち、衆具依・善友依・法依・作意依・三摩鉢底依です。摂には十一種類があります。すなわち、界摂・相摂・種類摂・分位摂・助伴摂・時摂・方摂・具分摂・一分摂・更互摂・勝義摂です。相応には十種類があります。すなわち、他性相応・不相違相応・遍行相応・不遍行相応・所治相応・能治相応・曾習相応・未曾習相応・下劣相応・広大相応です。成就には三種類があります。すなわち、種子成就・自在成就・現行成就です。雑染には四種類があります。すなわち、煩悩雑染・業雑染・生雑染・障雑染です。

識有六種,謂眼識耳鼻舌身意識。受有三種,謂苦、樂、不苦不樂。想有二十種,謂無常想、無常苦想、苦無我想、厭離食想、一切世間不可樂想、過患想、斷想、離欲想、滅想、死想、不淨想、青瘀想、膿爛想、破壞想、膖脹想、食噉想、血塗想、離散想、骨鎖想、空觀想。作意有七種,謂了相作意、勝解作意、遠離作意、攝樂作意、觀察作意、方便究竟作意、方便究竟果作意。智有十種,謂法智、類智、世俗智、他心智、苦智、集智、滅智、道智、盡智、無生智。遍知有九種,謂欲繫見苦集所斷斷遍知、色無色繫見苦集所斷斷遍知、欲繫見滅所斷斷遍知、色無色繫見滅所斷斷遍知、欲繫見道所斷斷遍知、色無色繫見道所斷斷遍知、順下分結斷遍知、色愛盡遍知、無色愛盡遍知。

識には六種があります。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識です。受には三種があります。苦・楽・不苦不楽です。想には二十種があります。無常想・無常苦想・苦無我想・厭離食想・一切世間不可楽想・過患想・断想・離欲想・滅想・死想・不浄想・青瘀想・膿爛想・破壊想・膖脹想・食噉想・血塗想・離散想・骨鎖想・空観想です。作意には七種があります。了相作意・勝解作意・遠離作意・摂楽作意・観察作意・方便究竟作意・方便究竟果作意です。智には十種があります。法智・類智・世俗智・他心智・苦智・集智・滅智・道智・尽智・無生智です。遍知には九種があります。欲繋の見苦集所断の断遍知・色無色繋の見苦集所断の断遍知・欲繋の見滅所断の断遍知・色無色繋の見滅所断の断遍知・欲繋の見道所断の断遍知・色無色繋の見道所断の断遍知・順下分結断遍知・色愛尽遍知・無色愛尽遍知です。

清淨有七種,謂戒清淨、心清淨、見清淨、度疑清淨、道非道智見清淨、行智見清淨、行斷智見清淨。詞有八種,謂八何詞、八若詞。出離有六種,謂世間出離、聲聞出離、獨覺出離、大乘出離、不畢竟出離、畢竟出離。甚深有十種,謂相甚深、雜染甚深、清淨甚深、緣起甚深、業甚深、智甚深、生甚深、菩提甚深、佛甚深、教甚深。解脫門有三種,謂空、無願、無相。入一切法有八種,謂一切法欲為根本,作意所生,觸所集起,受所引攝,定為上首,慧為最勝,解脫為堅固,出離為後邊。

清浄には七種あります。すなわち、戒清浄、心清浄、見清浄、度疑清浄、道非道智見清浄、行智見清浄、行断智見清浄です。詞には八種あります。すなわち、八何詞と八若詞です。出離には六種あります。すなわち、世間出離、声聞出離、独覚出離、大乗出離、不畢竟出離、畢竟出離です。甚深には十種あります。すなわち、相甚深、雑染甚深、清浄甚深、縁起甚深、業甚深、智甚深、生甚深、菩提甚深、仏甚深、教甚深です。解脱門には三種あります。すなわち、空、無願、無相です。一切法に入ることに八種あります。すなわち、一切法は欲を根本とし、作意によって生じ、触によって集起し、受によって引摂され、定を上首とし、慧を最勝とし、解脱を堅固とし、出離を後辺とするということです。

方便有七種,謂任持方便、瑜伽方便、相方便、決擇方便、隔越方便、隣次方便、隣次隔越方便。通達有五種,謂有相文字通達、所攝能攝通達、遲通達、速通達、法性通達。修有四種,謂得修、習修、除去修、對治修。圓證有四種,謂果圓證、離欲圓證、根滿足圓證、功德圓證。究竟有六種,謂智究竟、斷究竟、畢竟究竟、不畢竟究竟、下劣究竟、廣大究竟。引發有二十種,謂無量引發,乃至一切種妙智引發。

方便には七種があります。すなわち、任持方便、瑜伽方便、相方便、決択方便、隔越方便、隣次方便、隣次隔越方便です。通達には五種があります。すなわち、有相文字通達、所摂能摂通達、遅通達、速通達、法性通達です。修には四種があります。すなわち、得修、習修、除去修、対治修です。円証には四種があります。すなわち、果円証、離欲円証、根満足円証、功徳円証です。究竟には六種があります。すなわち、智究竟、断究竟、畢竟究竟、不畢竟究竟、下劣究竟、広大究竟です。引發には二十種があります。すなわち、無量引發から、一切種妙智引發に至るまでです。

大乘阿毘達磨雜集論卷第十五

大乗阿毘達磨雑集論 巻第十五


4 論品
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