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  1. 大乗阿毘達磨雑集論 (大乘阿毘達磨雜集論)
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大乗阿毘達磨雑集論 (大乘阿毘達磨雜集論)


大乘阿毘達磨雜集論卷第十六

大乗阿毘達磨雑集論 巻第十六

安慧菩薩糅釋上集論

安慧菩薩が『集論』の上巻に対する釈をまとめたものです。

大唐三藏法師玄奘奉 詔譯

大唐三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す

決擇分中論品第四之二

決択分中論品第四の二

實自性者,謂諸法實有性。假自性者,謂諸法假有性。世俗自性者,謂諸法世俗有性。勝義自性者,謂諸法勝義有性。生因者,謂因等四緣。成因者,謂三量:一現量、二比量、三聲量。轉因者,謂順緣起。還因者,謂逆緣起。有相境者,謂眼等五識所緣色等五境,由緣此所生唯有無分別相故。有分別境者,謂意識所緣境,由緣此境有分別生故。對治境者,謂緣此境棄捨雜染,由能對治故。安住境者,謂緣此境能生聖天梵住,由眾聖所住故。增益境者,謂緣此境能轉勝進,是增勝因故。損減境者,謂緣此境能入無想定滅盡定,是損減心心法因故。自在境者,謂緣此境發神通等勝品功德,是自在因故。分析行相者,謂種種品類分析諸法,如有色無色、有見無見,如是等。差別行相者,謂諸法差別義,如一信相,或名心淨、或名憙樂、或名忍可,如是等。正解行相者,謂以種種行相正解所緣境,如了別行相名識、取像行相名想、領納行相名受,如是等。觀察行相者,謂十六行,即無常等四、因等四、滅等四、道等四。或世俗六行,謂麁行、障行、苦行、靜行、妙行、離行。作隨作行相者,謂作所作已復更隨作,如由此行善守護已,復更起餘隨守護行。自類等無間者,謂貪無間還復生貪,瞋等亦爾,各別種類等無間生故。異類等無間者,謂貪無間瞋等生、欲界無間色界生、色界無間無色界生,如是等。三摩鉢底等無間者,謂三摩鉢底無間相生,如欲界善無間入初靜慮,初靜慮無間還生欲界。如是於第二靜慮等及無色定,如理應知。退等無間者,謂從靜慮等退時無間所生起。生等無間者,謂受生時無間所生,如從欲界無間生色界等。隣次等無間者,謂諸心心法無間次第生,於其中間心無斷絕故。隔越等無間者,謂起滅定等時,前生心心法望後生心心法中間隔越故。起等無間者,謂若此法無間彼法次第生。滅等無間者,謂此法無間彼法次第滅,如心心法無間滅已,或入滅盡定、或入無想定等、或入無餘涅槃界。取增上者,謂眼等根望能取境界有增上力故。生增上者,謂男女根望生胎孕有增上力故。住增上者,謂命根望身等住有增上力故。受用雜染增上者,謂五受根望所受用有增上力故。又為貪等所隨眠故,謂樂貪所隨眠、苦瞋所隨眠、不苦不樂癡所隨眠。清淨增上者,謂信等五根、未知欲知等三根,望世出世清淨法有增上力故。田增上者,謂共業望器世間生有增上力故。執受增上者,謂四大種望所造色。

実自性とは、諸法が実に有する性をいいます。仮自性とは、諸法が仮に有する性をいいます。世俗自性とは、諸法が世俗的に有する性をいいます。勝義自性とは、諸法が勝義的に有する性をいいます。

生因とは、因などの四縁をいいます。成因とは、三量をいいます。すなわち一に現量、二に比量、三に声量です。転因とは、順の縁起をいいます。還因とは、逆の縁起をいいます。

有相境とは、眼などの五識が縁とする色などの五境をいいます。この境を縁として生じるものは、ただ無分別の相だけだからです。有分別境とは、意識が縁とする境をいいます。この境を縁として分別が生じるからです。対治境とは、この境を縁として雑染を捨て去ることをいい、対治することができるからです。安住境とは、この境を縁として聖天梵住を生じることができ、多くの聖者が住むところだからです。増益境とは、この境を縁として勝れた進歩を転じることができ、増勝の因だからです。損減境とは、この境を縁として無想定や滅尽定に入ることができ、心心法を損減する因だからです。自在境とは、この境を縁として神通などの勝れた品の功徳を発することができ、自在の因だからです。

分析行相とは、種々の品類に諸法を分析することをいい、有色・無色、有見・無見などのようなものです。差別行相とは、諸法の差別の義をいい、たとえば一つの信の相が、あるいは心浄と呼ばれ、あるいは喜楽と呼ばれ、あるいは忍可と呼ばれるようなものです。正解行相とは、種々の行相によって所縁の境を正しく解することをいい、たとえば了別の行相を識と名づけ、取像の行相を想と名づけ、領納の行相を受と名づけるようなものです。観察行相とは、十六行をいい、すなわち無常などの四、因などの四、滅などの四、道などの四です。あるいは世俗の六行、すなわち麁行・障行・苦行・静行・妙行・離行です。

作随作行相とは、作すべきことを作し終えて、さらにまた随って作すことをいい、たとえばこの行によってよく守護したのち、さらにまた他の随守護の行を起こすようなものです。

自類等無間とは、貪の無間になおまた貪が生じ、瞋などもまた同様で、それぞれ別の種類が等無間として生じるからです。異類等無間とは、貪の無間に瞋などが生じ、欲界の無間に色界が生じ、色界の無間に無色界が生じるようなものです。三摩鉢底等無間とは、三摩鉢底の無間に相生じることをいい、たとえば欲界の善の無間に初静慮に入り、初静慮の無間になお欲界を生じるようなものです。第二静慮などおよび無色定についても、道理にしたがって知るべきです。退等無間とは、静慮などから退くときに無間として生起するものをいいます。生等無間とは、受生するときに無間として生じるものをいい、たとえば欲界から無間に色界などに生じるようなものです。隣次等無間とは、諸心心法が無間・次第に生じ、その中間に心の断絶がないからです。隔越等無間とは、滅定などを起こすときに、前に生じた心心法と後に生じる心心法との間に隔越があるからです。起等無間とは、もしこの法の無間にかの法が次第に生じることをいいます。滅等無間とは、この法の無間にかの法が次第に滅することをいい、たとえば心心法が無間に滅したのち、あるいは滅尽定に入り、あるいは無想定などに入り、あるいは無余涅槃界に入るようなものです。

取増上とは、眼などの根が境界を取ることについて増上の力があるからです。生増上とは、男女の根が胎孕を生じることについて増上の力があるからです。住増上とは、命根が身などの住することについて増上の力があるからです。受用雑染増上とは、五受根が受用することについて増上の力があるからです。また貪などに随眠されるからで、すなわち楽は貪に随眠され、苦は瞋に随眠され、不苦不楽は癡に随眠されます。清浄増上とは、信などの五根、未知欲知などの三根が、世間・出世間の清浄法について増上の力があるからです。田増上とは、共業が器世間の生じることについて増上の力があるからです。執受増上とは、四大種が所造色についてのことをいいます。

界所依者,謂欲界等所攝身。趣所依者,謂五趣所攝身。洲渚所依者,謂贍部洲等。村田所依者,謂若依此村田而有,即用此為所依。補特伽羅所依者,謂若依此補特伽羅而有,即用此為所依。無病所依者,謂若依無病而有,即用此為所依。尸羅所依者,謂若依尸羅而有,即用此為所依。莊嚴所依者,謂若依彼彼沙門莊嚴諸功德生,即用彼為所依。眾具依者,謂四依,即衣服等。善友依者,謂若依此善等生起。法依者,謂契經等十二分教。作意依者,謂七種作意,即了相作意等。三摩鉢底依者,謂七依定。如經言:我說依初靜慮能盡諸漏,乃至依無所有處亦爾。界攝者,謂諸界種子,由此能攝種所生法。相攝者,謂諸法自相還能自攝。種類攝者,謂約色種類有十色處色蘊所攝,如是等。分位攝者,謂順樂受等分位所攝。助伴攝者,謂色五蘊所攝,彼眷屬故,如是等。時攝者,謂過去等攝過去等。方攝者,謂於此方所有蘊等即此方攝。具分攝者,謂欲色無色無漏諸色攝一切色。一分攝者,謂眼根攝色蘊,如是等。更互攝者,謂蘊界處更互相攝。勝義攝者,謂諸法無常、苦、不淨、空、無我,真如所攝。他性相應者,謂與他性相應非己性。不相違相應者,謂雖與他性相應,然不相違非相違,如貪與瞋、樂與苦,如是等。遍行相應者,謂觸、受、想、思作意於一切心,無明、我慢、我愛、薩迦耶見此四煩惱於染污意。不遍行相應者,謂除遍行,所餘貪等信等。所治相應者,謂諸煩惱更互相應。能治相應者,謂對治道所攝善法更互相應。曾習相應者,謂除出世間及出世後所得法,餘相應法。未曾習相應者,謂前所除諸相應法。下劣相應者,謂聲聞獨覺乘所攝諸相應法。廣大相應者,謂諸佛菩薩所有相應法。成就雜染識等乃至七種清淨,已說其相,不復重釋。

界に依るものとは、欲界などに属する身体をいいます。趣に依るものとは、五趣に属する身体をいいます。洲渚に依るものとは、贍部洲などです。村田に依るものとは、この村や田に依って生じるものがあるなら、それを所依とするということです。補特伽羅に依るものとは、この補特伽羅に依って生じるものがあるなら、それを所依とするということです。無病に依るものとは、無病に依って生じるものがあるなら、それを所依とするということです。尸羅に依るものとは、尸羅に依って生じるものがあるなら、それを所依とするということです。荘厳に依るものとは、あれこれの沙門の荘厳という諸功徳に依って生じるなら、それを所依とするということです。衆具に依るものとは、四依、すなわち衣服などです。善友に依るものとは、この善などに依って生起するものです。法に依るものとは、契経など十二分教です。作意に依るものとは、七種の作意、すなわち了相作意などです。三摩鉢底に依るものとは、七依定です。経に説かれているとおりです。「私は初静慮に依って諸々の漏を尽くすことができると説きました。無所有処に依る場合もまた同様です。」

界摂とは、諸界の種子のことで、これによって種子から生じた法を摂します。相摂とは、諸法がそれぞれ自らの相によって自らを摂することをいいます。種類摂とは、色の種類について十の色処の色が色蘊に摂されるというようなことです。分位摂とは、順楽受などの分位に摂されることをいいます。助伴摂とは、色の五蘊に摂されるものは、その眷属であるからです、というようなことです。時摂とは、過去などが過去などを摂することをいいます。方摂とは、この方角にある蘊などはこの方角に摂されるということです。具分摂とは、欲・色・無色・無漏の諸色が一切の色を摂することをいいます。一分摂とは、眼根が色蘊を摂するというようなことです。更互摂とは、蘊・界・処が互いに摂し合うことをいいます。勝義摂とは、諸法の無常・苦・不浄・空・無我が真如に摂されることをいいます。

他性相応とは、自性ではなく他性と相応することをいいます。不相違相応とは、他性と相応していても、相違せず、相違するものではないということです。たとえば貪と瞋、楽と苦などのようなものです。遍行相応とは、触・受・想・思・作意が一切の心に遍行し、無明・我慢・我愛・薩迦耶見という四つの煩悩が染汚した意に遍行することをいいます。不遍行相応とは、遍行を除いた、残りの貪などや信などです。所治相応とは、諸々の煩悩が互いに相応することをいいます。能治相応とは、対治の道に摂される善法が互いに相応することをいいます。曾習相応とは、出世間および出世後の所得の法を除いた、残りの相応の法です。未曾習相応とは、先に除いた諸々の相応の法です。下劣相応とは、声聞・独覚の乗に摂される諸々の相応の法です。広大相応とは、諸仏・菩薩の有する相応の法です。

雑染の識などを成就することから七種の清浄に至るまで、すでにその相を説きましたので、重ねて解釈はしません。

八何詞者,謂何誰信、何所信、用何信、為何信、由何信、何之信、於何信、幾何信。八若詞者,謂若能信、若所信、若用信、若為信、若由信、若彼信、若於信、若爾所信。如是等無量法門皆有八種。不畢竟出離者,謂由世間道。畢竟出離者,謂由出世間道。前四易解,故不重釋。相甚深者,謂三自性。雜染甚深者,謂真如云何染而不染。清淨甚深者,謂即真如云何淨而不淨。緣起甚深者,謂無有法於所生起有實作用,然彼諸法種種生起,如是等。又實無我,似我顯現。業甚深者,謂有業有果報而作者不可得。智甚深者,謂無分別智。云何此智無有分別,而能分明觀真如性。生甚深者,謂諸菩薩不由業煩惱力而示現受生。菩提甚深者,謂於無漏界中諸佛菩提不可建立一性,無量相續所證故;不可建立種種性,所依無差別故。諸佛甚深者,謂於一大集會中有無量無邊諸佛世尊種種身、種種意樂,然不謂有自他差別。又化身佛不住佛相,而能造作種種佛事。教甚深者,謂於大乘教中有種種祕密意樂差別三解脫門及一切法。欲為根本等,已說其相,不復重釋。

八つの「何」の語とは、何を信じるのか、何を信じる対象とするのか、何によって信じるのか、何のために信じるのか、何に由って信じるのか、何への信なのか、何において信じるのか、どれほどの信なのか、ということです。八つの「若」の語とは、もし信じる者があるなら、もし信じる対象があるなら、もし信じる手段があるなら、もし信じる目的があるなら、もし信じる根拠があるなら、もしかの信があるなら、もし信においてそうであるなら、もしそれほどの信があるなら、ということです。このように無量の法門には、いずれも八つの種類があります。

究竟して出離しないものとは、世間の道によるものです。究竟して出離するものとは、出世間の道によるものです。前の四つは理解しやすいので、重ねて説明しません。

相の甚深とは、三自性のことです。雑染の甚深とは、真如がどのようにして染まりながら染まらないか、ということです。清浄の甚深とは、すなわち真如がどのようにして浄らかでありながら浄らかでないか、ということです。縁起の甚深とは、生じ起きたものに対して実際に作用する法は何もないのに、しかもそれらの諸法が種々に生じ起きるということなどです。また、実に無我でありながら、我に似た姿を現すということです。業の甚深とは、業があり果報があるけれども、作者は得られないということです。智の甚深とは、無分別智のことです。この智はどのようにして分別がなく、しかもはっきりと真如の性を観ることができるのでしょうか。生の甚深とは、諸菩薩が業や煩悩の力によらずに、受生を現すということです。菩提の甚深とは、無漏界の中で諸仏の菩提は一性として建立できないということです。無量の相続によって証されるからです。種々の性としても建立できません。所依に差別がないからです。諸仏の甚深とは、一つの大集会の中に無量無辺の諸仏世尊がおられ、種々の身、種々の意楽を持たれても、自他という差別があるとは言わないということです。また、化身の仏は仏の相にとどまらずに、種々の仏事を造作することができます。教の甚深とは、大乗の教えの中に種々の秘密の意楽の差別があり、三解脱門および一切の法があるということです。「欲を根本とする」などについては、すでにその相を説きましたので、重ねて説明しません。

任持方便者,謂於資糧所有方便。瑜伽方便者,謂奢摩他、毘鉢舍那。相方便者,謂於止舉捨相中所有方便。決擇方便者,謂於順決擇分中所有方便。隔越方便者,謂即任持方便。隣次方便者,謂即決擇方便。隣次隔越方便者,謂即瑜伽及相二種方便。於順決擇分中名隣次,於任持方便中名隔越,去聖道遠故。通達修圓證,餘處已說,故不重釋。智究竟者,謂盡、無生智。斷究竟者,謂一切煩惱無餘永斷。畢竟究竟者,謂由出世間道。不畢竟究竟者,謂由世間道。下劣究竟者,謂聲聞獨覺。廣大究竟者,謂諸佛菩薩。菩薩究竟者,謂於最後位。諸佛究竟者,謂無障智生時,猶如百千俱胝等日一時出現。二十種引發,前已廣說。

任持方便とは、資糧に関するすべての方便をいいます。瑜伽方便とは、奢摩他と毘鉢舍那をいいます。相方便とは、止・挙・捨の相におけるすべての方便をいいます。決択方便とは、順決択分におけるすべての方便をいいます。隔越方便とは、すなわち任持方便のことです。隣次方便とは、すなわち決択方便のことです。隣次隔越方便とは、すなわち瑜伽と相の二種の方便のことです。順決択分においては隣次といい、任持方便においては隔越といいます。聖道から遠く隔たっているからです。通達・修・円証については、すでに他の箇所で説いていますので、重ねて説明しません。智究竟とは、尽智と無生智をいいます。断究竟とは、一切の煩悩を残すことなく永遠に断じ尽くすことをいいます。畢竟究竟とは、出世間道によるものをいいます。不畢竟究竟とは、世間道によるものをいいます。下劣究竟とは、声聞と独覚をいいます。広大究竟とは、諸仏と菩薩をいいます。菩薩究竟とは、最後の位におけるものをいいます。諸仏究竟とは、障りのない智慧が生じる時、ちょうど百千俱胝もの太陽が一時に現れるようなものをいいます。二十種の引發については、すでに前に詳しく説きました。

攝決擇者,謂由十處攝諸決擇。何等十處?謂成所作決擇、趣入決擇、勝解決擇、道理決擇、論決擇、通達決擇、清淨決擇、引發決擇、句差別決擇、不由功用暫作意時一切義成決擇。成所作決擇者,謂能決擇成辦世間種種養命方便等。趣入決擇者,謂能觀察我於三乘當入何乘?云何令他亦得趣入?勝解決擇者,謂由聞慧如所聞教起勝信解。道理決擇者,謂由思慧稱量前後所說意趣。論決擇者,謂如所聞思建立問論道理,為令展轉受用法樂。通達決擇者,謂見道,能通達諦理故。清淨決擇者,謂修道,以能無餘淨諸煩惱故。引發決擇者,謂勝進道,以能引發勝功德故。句差別決擇者,謂以二三四句等差別引發門,演說無邊法義差別故。不由功用暫作意時一切義成決擇者,謂如來智,離先功用於一切義暫作意時,無著無礙智見轉故。

摂決択とは、十の処によって諸々の決択を摂め尽くすことをいいます。その十の処とは何でしょうか。すなわち、成所作決択、趣入決択、勝解決択、道理決択、論決択、通達決択、清浄決択、引發決択、句差別決択、功用によらずして暫く作意したときに一切の義が成就する決択です。

成所作決択とは、世間の種々の生活の手段などを成し遂げることを決択できることをいいます。趣入決択とは、私が三乗のうちいずれの乗に入るべきかを観察し、どのようにして他の人々をも趣入させることができるかを決択できることをいいます。勝解決択とは、聞慧によって、聞いた教えの通りにすぐれた信解を起こすことをいいます。道理決択とは、思慧によって、前後に説かれた意趣を秤量することをいいます。論決択とは、聞き思った通りに問論の道理を建立し、互いに法楽を受用させるためのものをいいます。通達決択とは、見道のことであり、諦の道理を通達できるからです。清浄決択とは、修道のことであり、余すところなく諸々の煩悩を清めることができるからです。引發決択とは、勝進道のことであり、すぐれた功徳を引き起こすことができるからです。句差別決択とは、二句・三句・四句などの差別の引發の門によって、無辺の法義の差別を演説することをいいます。功用によらずして暫く作意したときに一切の義が成就する決択とは、如来の智のことであり、あらかじめの功用を離れ、一切の義について暫く作意したとき、無著・無礙の智見が働くからです。

論軌決擇者,略有七種:一論體、二論處、三論依、四論莊嚴、五論負、六論出離、七論多所作法。於此七門方便善巧,名論軌決擇。

論軌決択とは、おおよそ七種あります。一に論体、二に論処、三に論依、四に論荘厳、五に論負、六に論出離、七に論多所作法です。この七つの門において方便と善巧を備えていることを、論軌決択と名づけます。

論體者,復有六種:一言論、二尚論、三諍論、四毀論、五順論、六教論。言論者,謂一切世間語言。尚論者,謂諸世間所隨聞論,世智所尚故。諍論者,謂互相違反所立言論。毀論者,謂更相憤怒發麁惡言。順論者,謂隨順清淨智見所有決擇言論。教論者,謂教導有情,心未定者令其心定、心已定者令得解脫所有言論。論處者,或於王家、或於執理家、或對淳質堪為量者、或對善伴、或對善解法義沙門婆羅門等而起論端。於王家者,謂若於是處王自降臨。執理家者,謂若是處處斷王事。淳質堪為量者,謂商人等。善伴者,謂於伴侶中立論者,敵論者不越其言。善解法義沙門婆羅門等者,謂於彼彼論中善通達文義。論依者,謂依此立論,略有二種:一所成立、二能成立。所成立有二:一自性、二差別。能成立有八種,一立宗、二立因、三立喻、四合、五結、六現量、七比量、八聖教量所成立。自性者,謂我自性、法自性若有若無所成立。

論体について、また六種があります。一に言論、二に尚論、三に諍論、四に毀論、五に順論、六に教論です。言論とは、すべての世間の言葉をいいます。尚論とは、世間の人々が聞き伝えて論じるもので、世間の知恵が尊ぶところだからです。諍論とは、互いに相反する主張を立てて論じ合うことをいいます。毀論とは、互いに怒りを発して粗悪な言葉を放つことをいいます。順論とは、清浄な智見に随順してなされる決択の言論をいいます。教論とは、有情を教え導く言論で、心がまだ定まっていない者には心を定めさせ、心がすでに定まった者には解脱を得させるものをいいます。

論処とは、あるいは王家において、あるいは執理家において、あるいは淳質で量とするに堪える者に対して、あるいは善き伴侶に対して、あるいは法義をよく解する沙門・婆羅門などに対して、論の端を起こすことをいいます。王家においてとは、その場所に王みずから臨む場合です。執理家とは、その場所で王の政務を裁断する者のことです。淳質で量とするに堪える者とは、商人などのことです。善き伴侶とは、伴侶のうちで論を立てる者と、それに対論する者とが、その言葉を越えない場合です。法義をよく解する沙門・婆羅門などとは、それそれぞれの論において文と義をよく通達している者のことです。

論依とは、これによって論を立てるよりどころのことで、大きく分けて二種あります。一に所成立、二に能成立です。所成立には二つあります。一に自性、二に差別です。能成立には八種あります。一に宗を立てること、二に因を立てること、三に喩を立てること、四に合、五に結、六に現量、七に比量、八に聖教量によって所成立を成り立たせることです。自性とは、我の自性、法の自性が有るか無いかという、所成立の内容をいいます。

差別者,謂我差別、法差別,若一切遍、若非一切遍,若常、若無常,若有色、若無色,如是等無量差別。

差別とは、我の差別、法の差別、一切遍であるか一切遍でないか、常であるか無常であるか、有色であるか無色であるか、このような無量の差別をいいます。

立宗者,謂以所應成自所許義,宣示於他令彼解了。所以者何?若不言以所應成者,自宗已成而說示他應名立宗。若不言自所許義者,說示他宗所應成義應名立宗。若不言他者,獨唱此言應名立宗。若不言宣示者,以身表示此義應名立宗。若不言令他解了者,聽者未解此義應名立宗。若如所安立無一切過量故,建立我法自性若有若無、我法差別遍不遍等,具足前相是名立宗。

立宗とは、成立させるべき自らの主張する義を、他者に示して理解させることをいいます。なぜでしょうか。もし「成立させるべきものをもって」と言わなければ、自らの宗がすでに成立しているのにそれを他に説き示すことは、立宗と名づけるべきです。もし「自らの主張する義」と言わなければ、他者の宗の成立させるべき義を説き示すことは、立宗と名づけるべきです。もし「他者に」と言わなければ、ただ独りでこの言葉を唱えることは、立宗と名づけるべきです。もし「示す」と言わなければ、身をもってこの義を表すことは、立宗と名づけるべきです。もし「他者に理解させる」と言わなければ、聞く者がまだこの義を理解していないことは、立宗と名づけるべきです。このように安立するところに一切の過失がないからです。我と法の自性が有るか無いか、我と法の区別が遍く及ぶか及ばないかなど、以上の特徴をすべて備えていることを、立宗と名づけます。

立因者,謂即於所成未顯了義,正說現量可得不可得等信解之相。信解相者,是信解因義。所以者何?由正宣說現量可得不可得等相故,於所應成未顯了義信解得生,是故正說彼相,名立因。現量可得不可得者,謂依自體及相貌說。

立因とは、すなわち、成立させようとするまだ明らかでない意味について、現量によって得られるもの・得られないものなどの信解の相を正しく説くことをいいます。信解の相とは、信解の因となる意味です。なぜでしょうか。現量によって得られるもの・得られないものなどの相を正しく説くことによって、成立させるべきまだ明らかでない意味について信解を生じることができるからです。それゆえ、その相を正しく説くことを立因と名づけます。現量によって得られるもの・得られないものとは、自体と相貌に基づいて説かれるものです。

立喻者,謂以所見邊與未所見邊和會正說。所見邊者,謂已顯了分。未所見邊者,謂未顯了分。以顯了分、顯未了分令義平等所有正說,名立喻。

喩えを立てるとは、すでに見られた側面と、まだ見られていない側面とを合わせて正しく説くことをいいます。すでに見られた側面とは、すでに明らかにされた部分のことです。まだ見られていない側面とは、まだ明らかにされていない部分のことです。明らかにされた部分によって、まだ明らかでない部分を明らかにし、その意味を平等ならしめる、そのような正しい説を、喩えを立てる(立喩)と名づけます。

合者,為引所餘此種類義,令就此法正說理趣。謂由三分成立如前所成義已,復為成立餘此種類所成義故,遂引彼義令就此法正說道理,是名合。

合(合わせる)とは、すでに述べた以外の、この種類に属する他の意味を引き出して、この法の上で正しく道理を説く趣旨を指します。すなわち、三つの部分によって先に成立した意味をすでに成り立たせたうえで、さらにこの種類に属する他の成立すべき意味を成り立たせるために、その意味を引き出してこの法の上で正しく道理を説く、これを合と名づけます。

結者,謂到究竟趣所有正說。由此道理極善成就,是故此事決定無異結會究竟,是名結。已說立宗等相,今當就事略顯。如無我論者,即於此事對我論者先說諸法無我。此言是立宗。次說若於蘊施設四過可得故。此言是立因。所以者何?若於諸蘊施設實我者,此所計我為即蘊相。為於蘊中?為於餘處?為不屬蘊而施設耶?若即蘊相而施設者,蘊不自在,從眾緣生,是生滅法。若即彼相,我不成就,是名初過。若於蘊中而施設者,所依諸蘊既是無常,能依之我亦應無常,是第二過。若離蘊於餘處施設者,我無所因,我亦無用,是第三過。若不屬蘊而施設者,我應獨存,自性解脫,更求解脫唐捐其功,是第四過。次說如於現在施設過去。此言是立喻。所以者何?若同現在相施設實有過去者,此所計過去為即現在相。為於現在中?為於餘處?為不待現在而施設耶?若即現在相而施設者,已生未滅是現在相,過去法體亦應已生未滅為相,是初過。若於現在中施設者,於未滅中施設,滅體不相應故,不應道理,是第二過。若離現在於餘處施設者,除現在外,餘實有為事少分亦不可得,云何於彼施設?是第三過。若不待現在而施設者,亦應施設無為為過去世,是第四過。然過去世相滅壞故,無相義成。若同現在施設即成四過,是故過去相不成就。諸法無我亦爾,若於蘊施設,即四過可得,故無我義成。次說如是遮破我顛倒已,即由此道理常等亦無。此言是合。後說由此道理,是故五蘊皆是無常乃至無我。此言是結。

結とは、究竟の趣に到るすべての正しい説をいいます。この道理によってきわめてよく成就されるので、この事は決定して異なることがなく、結び会して究竟する、これを結と名づけます。すでに立宗などの相を説きましたので、今から事に即して簡単に示しましょう。たとえば無我論者は、この事について我論者に対して、まず諸法は無我であると説きます。この言葉が立宗です。次に、蘊に対して四つの過失を設けることができるからであると説きます。この言葉が立因です。なぜでしょうか。もし諸蘊に対して実我を設けるならば、この計る我は蘊の相そのものなのでしょうか。蘊の中にあるのでしょうか。他の場所にあるのでしょうか。蘊に属さずに設けるのでしょうか。もし蘊の相そのものとして設けるならば、蘊は自在ではなく、多くの縁から生じ、生滅する法です。もしその相そのものであるならば、我は成立しません。これが第一の過失です。もし蘊の中に設けるならば、依り所となる諸蘊がすでに無常である以上、能依の我もまた無常であるはずです。これが第二の過失です。もし蘊を離れて他の場所に設けるならば、我には因がなく、我にも用がないことになります。これが第三の過失です。もし蘊に属さずに設けるならば、我は独り存して自性解脱しているはずで、さらに解脱を求めるのは無駄な骨折りとなります。これが第四の過失です。次に、現在に対して過去を設けるようなものであると説きます。この言葉が立喩です。なぜでしょうか。もし現在の相と同じように過去の実有を設けるならば、この計る過去は現在の相そのものなのでしょうか。現在の中にあるのでしょうか。他の場所にあるのでしょうか。現在を待たずに設けるのでしょうか。もし現在の相そのものとして設けるならば、已生未滅が現在の相であるのに、過去の法体もまた已生未滅を相とするはずです。これが第一の過失です。もし現在の中に設けるならば、未滅の中に設けることになり、滅した体とは相応しないからです。道理に合いません。これが第二の過失です。もし現在を離れて他の場所に設けるならば、現在のほかに、残りの実有の有為の事はわずか一分も得られません。どうしてそこに設けることができるでしょうか。これが第三の過失です。もし現在を待たずに設けるならば、無為を過去世として設けることにもなるはずです。これが第四の過失です。しかし過去世の相は滅壊しているので、相がないという義が成り立ちます。もし現在と同じように設けるならば、すなわち四つの過失が生じます。それゆえ過去の相は成就しません。諸法の無我もまた同じです。もし蘊に対して設けるならば、すなわち四つの過失が得られるので、無我の義が成り立ちます。次に、このように我の顛倒を遮破したならば、この道理によって常などのもまた無いと説きます。この言葉が合です。後に、この道理によって、それゆえ五蘊はみな無常であり、ないし無我であると説きます。この言葉が結です。

現量者,謂自正明了無迷亂義。自正義言,顯自正取義,如由眼正取色等。此言為簡世間現所得瓶等事,共許為現量所得性,由彼是假故,非現量所得。明了言,為簡由有障等不可得因故不現前境。無迷亂言,為簡旋火為輪幻陽焰等。

現量とは、自ら正しく明了であって迷乱のない意味をいいます。「自正」ということばは、自ら正しく取る意味を表すもので、たとえば眼によって色などを正しく取るようなものです。このことばは、世間で現に得られる瓶などの事柄が、一般に現量によって得られるものと認められているのを除くためです。それらは仮なるものであるから、現量によって得られるものではないのです。「明了」ということばは、障りなどがあって得られない原因があるために現前に現れない境を除くためです。「無迷乱」ということばは、回る火が輪に見えることや、幻や陽炎などを除くためです。

比量者,謂現餘信解。此云何?謂除現量所得,餘不現事決定俱轉。先見成就,今現見彼一分時,於所餘分正信解生。謂彼於此決定當有,由俱轉故。如遠見烟,知彼有火,是名現量為先比量。

比量とは、現量などにもとづく信解のことです。これはどういうことでしょうか。現量によって得られたものを除き、まだ現れていない事柄について、それと必ずともに行われることを決定することです。先に成就したものを見て、今その一分を現に見るとき、残りの部分について正しい信解が生じます。すなわち、そのものにはこれが必ずあるはずだと、ともに行われるからです。遠くに煙を見て、あそこには火があると知るようなもので、これを現量を先とした比量と名づけます。

聖教量者,謂不違二量之教。此云何?謂所有教,現量比量皆不相違,決無移轉,定可信受,故名聖教量。

聖教量とは、二つの量(現量と比量)に違わない教えをいいます。これはどういうことでしょうか。すべての教えは、現量にも比量にも違うことがなく、決して動くことがなく、確かに信受できるものであるから、これを聖教量と名づけます。

論莊嚴者,謂依論正理,而發論端深為善美,名論莊嚴。此復六種:一善自他宗、二言音圓滿、三無畏、四辯才、五敦肅、六應供。善自他宗者,謂於自宗他宗若文若義,前後無間淳熟明解。言音圓滿者,謂善解聲論方起論端,離當所說言音過失,所發言音無雜亂等。無畏者,謂處大眾,雖為無量僻執英俊結謀圍繞,所發言詞坦然無畏。辯才者,謂言詞無滯。敦肅者,謂言無卒暴,觀敵論者言詞究竟方乃發言。應供者,謂立性賢和發言溫善,方便隨順敵論者心。

論荘厳とは、論の正しい道理に基づいて論の端緒を起こし、深くすぐれた美しさを備えていることを、論荘厳と名づけます。これにはさらに六つの種類があります。一に善く自宗他宗を知ること、二に言音が円満であること、三に無畏であること、四に弁才があること、五に敦肅であること、六に応供であることです。

善く自宗他宗を知るとは、自宗と他宗について、その文においても義においても、前後を通じて間断なく、純熟して明らかに理解していることです。言音が円満であるとは、声論をよく理解したうえで論の端緒を起こし、これから説くところの言音の過失を離れ、発する言音に混雑や乱れなどがないことです。無畏であるとは、大衆の中にあって、たとえ無量の偏った執着を持つ俊英たちが謀を結んで取り囲んだとしても、発する言詞が平然として恐れがないことです。弁才があるとは、言詞に滞りがないことです。敦肅であるとは、言葉に急激さがなく、論敵の言詞が終わるのを見極めてから、そこで初めて発言することです。応供であるとは、生まれつき賢く和やかで、発言が温かく善く、方便をもって論敵の心に随順することです。

論負者,謂捨言、言屈、言過。由此三種,諸立論者墮在負處,受他屈伏。捨言者,謂自發言稱己論失、稱他論德,謂我不善、汝為善等。言屈者,謂假託餘事方便而退、或說外事而捨本宗、或現忿怒憍慢覆藏等,如經廣說。假託餘事方便退者,謂託餘事亂所說義。如經說:長老闡鐸迦與諸外道共論,或毀已立宗、或立宗已毀。言過者,略有九種:一雜亂、二麁獷、三不辯了、四無限量、五非義相應、六不應時、七不決定、八不顯了、九不相續。雜亂者,謂捨所論事,廣說異言。麁獷者,謂憤發卒暴言詞躁急。不辯了者,謂所說法義,眾及敵論所不領悟。無限量者,謂言詞重疊,所說義理或增或減。非義相應者,略有五種:一無義、二違義、三損理、四與所成等、五招集過難義,不可得故、義不相應故、不決定故、能成道理復須成故、一切言論非理非諦所隨逐故。不應時者,謂所應說前後不次。不決定者,謂立已復毀、毀而復立,速疾轉換難可了知。不顯了者,謂越闡陀論相不領而答,或典或俗言詞雜亂。不相續者,謂於中間言詞斷絕。

負けについて述べます。これは、言葉を捨てること、言葉が屈すること、言葉の過ちの三つをいいます。この三つによって、論を立てる者たちは負けの立場に陥り、相手に屈伏させられるのです。

言葉を捨てるとは、自分から発言して自分の論の失を認め、相手の論の徳を称えることです。すなわち「私はよくない、あなたがすぐれている」などと言うことです。

言葉が屈するとは、他の事柄にかこつけて都合よく退いたり、本題以外のことを説いて自分の宗旨を捨てたり、あるいは怒りや慢心、隠し立てなどを現すことです。これは経典に詳しく説かれている通りです。他の事柄にかこつけて都合よく退くとは、他の事柄に託して説いている意味を乱すことです。経典に説かれている通りです。長老闡鐸迦が諸々の外道と共に論じたとき、すでに立てた宗旨を壊したり、宗旨を立ててからまた壊したりした、ということです。

言葉の過ちには、おおよそ九種あります。一に雑乱、二に粗獷、三に不弁了、四に無限量、五に非義相応、六に不応時、七に不決定、八に不顕了、九に不相続です。

雑乱とは、論じている事柄を捨てて、広く別の言葉を説くことです。粗獷とは、憤り発してにわかに激しく、言葉が騒がしく急なことです。不弁了とは、説くところの法と義を、大衆も対論者も理解できないことです。無限量とは、言葉が重なり合い、説くところの義理が増えたり減ったりすることです。非義相応には、おおよそ五種あります。一に無義、二に違義、三に損理、四に与所成等、五に招集過難です。義が得られないからであり、義が相応しないからであり、決定しないからであり、成り立つ道理にさらに成立を要するからであり、すべての言論が理にも真実にも随わないからです。不応時とは、説くべきことの前後が順序通りでないことです。不決定とは、立ててからまた壊し、壊してからまた立て、すばやく転換して理解しがたいことです。不顕了とは、闡陀論の作法を越えて、相手を理解させずに答えること、あるいは典語や俗語の言葉が入り乱れることです。不相続とは、途中で言葉が途切れることです。

論出離者,謂觀察德失令論出離或復不作,恐墮負處故不興論,設復興起能善究竟。又若知敵論非法器、時眾無德、自無善巧,不應興論。若知敵論是法器、時眾有德、自有善巧,方可興論。敵論非法器者,謂彼不能出不善處安置善處。時眾無德者,謂不淳質,樂僻執、有偏黨等。自無善巧者,謂於論體乃至論莊嚴中不善通達。與此相違,名敵論者是法器等。

論を起こすべきかどうかを見極めることについて述べます。すなわち、徳と過失を観察して、論を起こすべきか、あるいは起こすべきでないかを判断します。負ける立場に陥ることを恐れて論を起こさない場合もあり、また、いったん論を起こせばよく最後まで論じきることができる場合もあります。

また、論敵が法を受ける器でないと知り、その場の聴衆に徳がなく、自分にも巧みな弁才がないとあれば、論を起こすべきではありません。論敵が法を受ける器であり、聴衆に徳があり、自分にも巧みな弁才があると知ってこそ、論を起こしてよいのです。

論敵が法を受ける器でないとは、その人が不善の境地から抜け出させて善の境地に安置することができないということです。聴衆に徳がないとは、素直で誠実でなく、偏った執着を好み、えこひいきがあるということなどです。自分に巧みな弁才がないとは、論の本体から論の荘厳に至るまで、よく通達していないということです。これと反対の場合は、論敵が法を受ける器である、などと呼ばれます。

論多所作法者,謂略有三種將興論端定所須法。何等為三?一善達自他宗,由此堪能遍興談論,遍於言事而興論故。二無畏,由此堪能處一切眾而興論端。三辯才,由此堪能於諸問難皆善辯答。

論を起こすのに必要な多くの作法とは、要するに三種の、論議を始めようとするときに必ず必要な法をいいます。三つとは何でしょうか。第一は、自らの宗と他者の宗によく通じていることです。これによって、あまねく談論を起こすことができ、言葉や事柄のすべてにわたって論を起こすからです。第二は、畏れがないことです。これによって、あらゆる大衆の中にあっても論議を始めることができるからです。第三は、弁才です。これによって、あらゆる問い難じに対してすべて巧みに弁じて答えることができるからです。

復次若欲自求利益安樂,於諸論軌應善通達,不應與他而興諍論。如薄伽梵於《大乘阿毘達磨經》中說如是言:若諸菩薩欲勤精進修諸善品、欲行貞實法隨法行、欲善攝益一切有情、欲得速證阿耨多羅三藐三菩提者,當正觀察十二處法,不應與他共興諍論。何等十二?一者宣說證無上義微妙法時,其信解者甚為難得。二者作受教心而請問者甚為難得。三者時眾賢善觀察德失甚為難得。四者凡所興論能離六失甚為難得。何等為六?謂執著邪宗失、矯亂語失、所作語言不應時失、言退屈失、麁惡語失、心恚怒失。五者凡興論時不懷獷毒甚為難得。六者凡興論時善護他心甚為難得。七者凡興論時善護定心甚為難得。八者凡興論時欲令己劣他得勝心甚為難得。九者己劣他勝心不煩惱甚為難得。十者心已煩惱得安隱住甚為難得。十一者既不安住常修善法甚為難得。十二者於諸善法既不恒修,心未得定能速得定、心已得定能速解脫,甚為難得。於此經中已說欲勤精進修諸善品,何故復言欲行貞實法隨法行?為顯意樂清淨故。所以者何?不為利養恭敬等事修聞思等諸善品故。欲善攝益有情者,為別聲聞等行,由諸菩薩以利他行為勝故。如是菩薩自利利他行具足已,速證無上正等菩提。又此經中諸句義意,謂興論時大乘法性無上甚深,若無諍心解尚為難,況為諍競。凡興諍論雖起請問,無心求解但求過失。又傍證者心不賢直,不善宗門樂著僻執。凡所言論多具六失。所以者何?凡興論時或有私心執著邪宗、或矯方便求他誤失、或不待言竟便興亂語、或敵論者言稱正理反相誹撥、或作麁言惱敵論者及時眾心、或復於彼自懷恚怒,多具如是六種過失。又興論時身心寂靜甚為難得,不寂靜故二事難成,謂善護他心、善護自心。由此令他心得淨信,於解脫處正勤方便令自心定。又興論時多起此心:云何令我得勝、他墮負處。若不遂心,即懷熱惱。由有此故,不安樂住,由此不能無間修善,是故於彼增上證法有未得退。

さらに、もし自らの利益と安楽を求めようとするならば、諸々の論の筋道によく通達していなければなりません。そして、他人と論争を起こしてはなりません。薄伽梵が『大乗阿毘達磨経』の中でこのように説いておられます。「もし菩薩たちが、精進に努めて諸々の善きものを修めようとし、真実の法に随って法に随順する行を実践しようとし、すべての有情をよく摂め益しようとし、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を証得しようとするならば、十二処の法を正しく観察すべきであり、他人とともに論争を起こしてはならない」と。

十二とは何でしょうか。第一に、無上の義を証する微妙な法を説くとき、それを信解する者はきわめて得がたいことです。第二に、教えを受ける心を起こして問いを求める者はきわめて得がたいことです。第三に、その場の大衆が賢く善く、徳と失とを観察する者はきわめて得がたいことです。第四に、論を起こすにあたって六つの失を離れることができる者はきわめて得がたいことです。六つとは何でしょうか。邪宗に執着する失、言葉を矯め乱す失、語る言葉が時宜に適わない失、言葉が退屈する失、粗悪な言葉の失、心に怒りを抱く失です。第五に、論を起こすときに獷い毒を懐かない者はきわめて得がたいことです。第六に、論を起こすときに他者の心をよく護る者はきわめて得がたいことです。第七に、論を起こすときに定心をよく護る者はきわめて得がたいことです。第八に、論を起こすときに自分が劣り他者が勝つことを願う心はきわめて得がたいことです。第九に、自分が劣り他者が勝つことに心が煩悩を起こさないことはきわめて得がたいことです。第十に、心にすでに煩悩を起こしても安隠に住することがきわめて得がたいことです。第十一に、安住しないまま常に善法を修めることはきわめて得がたいことです。第十二に、諸々の善法を恒に修めず、心がまだ定を得ていないのに速やかに定を得、心がすでに定を得ているのに速やかに解脱することは、きわめて得がたいことです。

この経の中で「精進に努めて諸々の善きものを修めようとし」とすでに説かれていますが、なぜさらに「真実の法に随って法に随順する行を実践しようとし」と言うのでしょうか。意楽が清浄であることを示すためです。なぜでしょうか。利養や恭敬などのために聞思などの諸々の善きものを修めるのではないからです。「有情をよく摂め益しようとし」とは、声聞などの行と区別するためです。菩薩は利他の行を殊勝とするからです。このように菩薩が自利利他の行を具足し終えると、速やかに無上正等菩提を証得します。

またこの経の諸句の意義はこうです。論を起こすとき、大乗の法性は無上にして甚深であり、争わない心でさえ理解することは難しいのですから、ましてや争い競う場合はなおさらです。論争を起こす者は、たとえ問いを発しても、解を求める心がなく、ただ過失を求めるだけです。また傍らで証言する者も心が賢く正直でなく、宗門をよくせず、偏った執着を好んで著します。およそ語る論は多く六つの失を具えます。なぜでしょうか。論を起こすとき、あるいは私心で邪宗に執着し、あるいは矯めの方便で相手の誤りを求め、あるいは言葉が終わるのを待たずに乱れた言葉を起こし、あるいは論敵が正理を称してもかえって誹謗し、あるいは粗い言葉を作って論敵とその場の大衆の心を悩ませ、あるいはまた相手に対して自ら怒りを懐きます。多くこのような六種の過失を具えるのです。

また論を起こすとき、身心が寂静であることはきわめて得がたいことです。寂静でないために二つのことが成し難くなります。善く他者の心を護ることと、善く自らの心を護ることです。これによって他者の心に清浄な信を得させ、解脱の処へ正しく勤め方便して自らの心を定めます。また論を起こすとき、多くこのような心が起こります。「どうすれば私が勝ち、相手が負けるところに堕ちるだろうか」と。もし心のままにならなければ、たちまち熱悩を懐きます。これがあるために安楽に住することができず、これによって間断なく善を修することができません。それゆえ、その増上の証法において、いまだ得ていないものから退くことがあるのです。

祕密決擇者,謂說餘義名句文身隱密轉變,更顯餘義。如經言:

秘密決択とは、他の意味を説いた名・句・文の身が密かに転変して、さらに他の意味を顕わすことをいいます。経に次のように言われています。

「逆害於父母, 王及二多聞,
誅國及隨行, 是人說清淨。」

「父母を害し、王および二人の多聞の者を害し、国と従う者たちを誅しても、この人は清浄であると説きます。」

今此頌中詮表世間共可極重罪惡文字,轉變密顯餘清淨義。何等世間共可極重罪惡?謂逆害尊人及大眾。尊人有二:一別、二共。共又二種:一護世間、二應供養。別亦二種,謂父及母。護世間者,謂王。應供養者,謂多聞梵志,世間共許最清淨故。若總殺害,名逆尊人。若誅國人及隨行畜生,名害大眾。顯此義者名詮表世間共可極重罪惡文字。云何轉此文字密顯淨義?謂逆害父母等言,轉變密顯永斷愛等餘義故。所以者何?若愛若業、若有取識、戒見二取、眼等六處及所行境,如其次第名母父等,法相似故。愛為發因,業為生因,由此能殖習氣種子,類世間父。由此二因,令有取識流轉不絕。於流轉時雖求解脫,然由二種非方便法障解脫得,謂妄計度清淨最勝。戒見二取猶如世間多聞梵志,恒妄計著最勝清淨。此有取識所依所緣六處境界,猶如世間國及隨行。若能永斷如是等法,當知是人最為清淨。又如經說:

この頌においては、世間が共に認める最も重い罪悪を表す文字が説かれていて、それが転変して、密かに清浄な意味を顕わしています。世間が共に認める最も重い罪悪とは何でしょうか。それは尊い人や大衆を害することです。尊い人には二つあります。一つは別の尊い人、二つは共通の尊い人です。共通の尊い人にもまた二種あります。一つは世間を護る者、二つは供養を受けるべき者です。別の尊い人にもまた二種あり、父と母です。世間を護る者とは、王です。供養を受けるべき者とは、多聞の梵志です。世間が共に認めて最も清浄とするからです。もしこれらをまとめて殺害するなら、尊い人に逆らうことになります。もし国の人々やそれに従う畜生を殺すなら、大衆を害することになります。この意味を顕わすものを、世間が共に認める最も重い罪悪を表す文字と名づけます。どのようにこの文字を転じて密かに清浄な意味を顕わすのでしょうか。父母などを害するという言葉が転変して、密かに愛などを永遠に断つという、その他の意味を顕わすからです。なぜでしょうか。愛と業、有取識、戒と見の二取、眼などの六処とその行われる境は、その順に母・父などと名づけられます。法が似ているからです。愛は発する因となり、業は生じる因となり、これによって習気の種子を植えつけることができ、それは世間の父に似ています。この二つの因によって、有取識は流転して絶えることがありません。流転するとき、解脱を求めても、二種の方便でない法が解脱を得ることを障みます。それは、清浄で最も勝れたものと妄りに計度することです。戒と見の二取は、世間の多聞の梵志のようです。常に最も勝れた清浄なものと妄りに計り執着します。この有取識の依り所となり縁となる六処の境界は、世間の国とそれに従うもののようです。もしこのような法を永遠に断つことができれば、その人は最も清浄であると知るべきです。また経に説かれているとおりです。

「不信不知恩, 斷密無容處,
恒食人所吐, 是最上丈夫。」

「信じる心がなく、恩を知ることもなく、 密やかに断ち、容れるところもない。 常に人が吐き出したものを食らう―― これが最上の丈夫です。」

今此頌中宣說世間極下劣義,所有文字轉變密顯餘最上義。世間下劣凡有四種,謂意業下劣、身業下劣、語業下劣、受用下劣。意業下劣復有二種:一者不信善生相違,不信有後世等、不行施等故。二不知恩順生不善,不顧往恩違越世理,起害母等所有惡行故。身業下劣者,謂行竊盜攻牆密處最可輕賤,活命業故。語業下劣者,謂妄語等最可輕賤,於善眾中所不容故。受用下劣者,謂鬼犬鳥等好食所吐故。顯此義者,名說世間極下劣義文字。云何轉此文字顯無上義?謂不信等言轉變密顯餘勝義故。不信者,謂解脫智見,自現證故。不知恩者,謂涅槃智。有為名恩,無為非恩。知非恩故,名不知恩。斷密者,謂永斷後有續因煩惱故。無容處者,謂於當來諸趣苦處不復生故。食吐者,謂於現法中雖假資具力暫持身,而於命財不生欣樂故。若能如是,是最上丈夫。又如經說:

この頌においては、世間のきわめて下劣な意味が説かれていますが、そのすべての文字が転じて、密かに他の最上の意味を顕しています。世間の下劣なものには四種類あります。すなわち、意業の下劣、身業の下劣、語業の下劣、受用の下劣です。

意業の下劣には、さらに二種類あります。第一は、善を信じないことで、善の生起に相違し、後世などがあることを信じず、施しなどを行わないからです。第二は、恩を知らないことで、不善の生起に従い、過去の恩を顧みず世の道理に背き、母を害するなどの悪行を起こすからです。

身業の下劣とは、盗みを行い、牆を攻め、密かな場所に忍び入ることで、もっとも軽蔑されるべきものです。生きるための業だからです。語業の下劣とは、妄語などでもっとも軽蔑されるべきものです。善き人々の集まりのうちに容れられないからです。受用の下劣とは、餓鬼や犬や鳥などが好んで食べる吐き出されたものを食することです。この意味を顕すものを、世間のきわめて下劣な意味を説く文字と名づけます。

どのようにこの文字を転じて無上の意味を顕すのでしょうか。不信などという言葉が転じて、密かに他の勝れた意味を顕すからです。不信とは、解脱の智見を自ら現証することです。知恩の知とは、涅槃の智です。有為を恩と名づけ、無為は恩ではありません。恩でないと知るゆえに、不知恩と名づけます。密を断つとは、後有の相続の因である煩悩を永遠に断つからです。容れる場所がないとは、未来の諸趣の苦の場所に再び生じないからです。吐いたものを食するとは、現実の法において仮に資具の力によってしばらく身を保っても、命と財とに欣楽を生じないからです。このようであることができるなら、それは最上の丈夫です。また経に説かれているとおりです。

「覺不堅為堅, 善住於顛倒,
極煩惱所惱, 得最上菩提。」

「堅固でないものを堅固と見なし、よく顛倒のうちに住み、極めて重い煩悩に悩まされながら、最上の菩提を得るのです。」

此如前說。然其體性,謂諸菩薩依三摩地,由見修二道證大菩提。

これは先に説いたとおりです。しかし、その本体と性質とは、諸々の菩薩が三摩地に依り、見道と修道の二道によって大いなる菩提を証することをいいます。

又餘經說:菩薩摩訶薩成就五法,施波羅蜜多速得圓滿。何等為五?一者增益慳悋法性、二者於施有倦、三者憎惡乞求、四者無暫少施、五者遠離於施。增益慳悋法性者,謂由永斷慳悋隨眠并彼習氣,證得彼法性真如轉依故。於施有倦者,謂為修施,誓受長時難行苦行故。憎惡乞求者,謂欲其自取,厭彼乞求故。無暫少施者,謂一切時一切物施故。遠離於施者,謂常遠離期報施等故。

また他の経典にはこう説かれています。菩薩摩訶薩が五つの法を成就すれば、施波羅蜜は速やかに円満に至ります。その五つとは何でしょうか。第一に、慳悋の法性を増益すること。第二に、施しに対して倦むこと。第三に、乞い求めることを憎み嫌うこと。第四に、わずかばかりの施しも一時も行わないこと。第五に、施しから遠ざかることです。

「慳悋の法性を増益する」とは、慳悋の随眠とその習気を永遠に断ち切り、その法性の真如の転依を証得するからです。「施しに対して倦む」とは、施しを修めるために、長い時の難行苦行を誓って受けるからです。「乞い求めることを憎み嫌う」とは、相手が自ら取ることを望み、その乞い求めることを厭うからです。「わずかばかりの施しも一時も行わない」とは、すべての時に、すべての物を施すからです。「施しから遠ざかる」とは、常に報いを期する施しなどから遠ざかるからです。

又餘經說:菩薩摩訶薩成就五法,名梵行者,成就第一清淨梵行。何等為五?一者常求以欲離欲、二者捨斷欲法、三者欲貪已生即便堅執、四者怖治欲法、五者二二數會。成就第一清淨梵行者,謂出世間道。常求以欲離欲者,謂即以此如實遍智永斷彼故。此如實遍智者,謂能通達此真如智。捨斷欲法者,謂恒觀察捨斷非梵行方便。欲貪已生即便堅執者,謂於內欲貪已生,即便堅執擯出於外。怖治欲法者,謂說欲過患怖諸有情,立對治道拔濟一切。二二數會者,謂於染淨因果差別四真諦中,以世出世二道,及奢摩他、毘鉢舍那二道,數數證會故。

また、他の経典にはこう説かれています。菩薩摩訶薩が五つの法を成就したものを「梵行を行う者」と呼び、第一の清浄な梵行を成就した者とします。その五つとは何でしょうか。第一に、常に欲によって欲を離れることを求めます。第二に、欲の法を捨て断ちます。第三に、欲貪がすでに生じたならば、ただちに堅く執持します。第四に、欲の法を怖れ、対治します。第五に、二つずつ数えて会します。第一の清浄な梵行を成就するとは、出世間の道をいいます。「常に欲によって欲を離れることを求める」とは、まさにこの如実遍智によってかの欲を永く断つからです。この如実遍智とは、この真如の智をよく通達できることをいいます。「欲の法を捨て断つ」とは、常に非梵行の方便を捨て断つことを観察するからです。「欲貪がすでに生じたならば、ただちに堅く執持する」とは、内に欲貪がすでに生じたならば、ただちに堅く執持して外へ擯出するからです。「欲の法を怖れ、対治する」とは、欲の過患を説いて諸々の有情を怖れさせ、対治の道を立てて一切を抜済するからです。「二つずつ数えて会する」とは、染浄の因果の差別である四真諦において、世間と出世間の二道、および奢摩他と毘鉢舍那の二道によって、しばしば証会するからです。

何故此論名為「大乘阿毘達磨集」?略有三義,謂等所集故、遍所集故、正所集故。由釋詞理以顯得名,故為此問。等所集者,謂證真現觀,諸大菩薩共結集故。遍所集者,謂遍攝一切大乘阿毘達磨經中諸思擇處故。正所集者,謂由無倒結集方便,乃至證得佛菩提故。

なぜこの論は「大乗阿毘達磨集」と名づけられるのでしょうか。これには大きく三つの意味があります。すなわち「等所集」であるから、「遍所集」であるから、「正所集」であるからです。言葉の解釈の道理によって名を得ることが明らかになるので、この問いを立てたのです。

「等所集」とは、真理を証し現観を得た諸々の大菩薩が共に結集したという意味です。「遍所集」とは、すべての大乗阿毘達磨経の中の諸々の思択の箇所を遍く摂め尽くしているという意味です。「正所集」とは、誤りのない結集の方便によって、ついには仏の菩提を証得するに至るという意味です。

大乘阿毘達磨雜集論卷第十六

大乗阿毘達磨雑集論 巻第十六


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