華嚴經探玄記卷第五(是第三會盡)
華厳経探玄記 巻第五(これは第三会の終わりである)
魏國西寺沙門法藏述
魏国西寺沙門法藏 述
佛昇須彌頂品第九
第九品 仏、須弥の頂に昇る
將釋此文,四門同上。
ここにこの文を解釈しますが、その方法は先ほどと同じ四つの門によって行います。
一釋名,有二:初會名者,約法名十住會,約處名忉利天會,准釋可知。二品名者,佛是化主,動靜無礙,不去而進故云昇。昇至何處?謂須彌頂。須彌,此云妙高山,謂以四寶所成故云妙,謂東面黃金、西白銀、南頗梨、北馬瑙;餘山唯金故非妙。獨出九山故云高,高八萬四千由旬,縱廣正等。亦名安明山。頂者山巔也,謂此山頂中央有帝釋宮,四面各有八埵如臺,去釋三由旬,中別有宮城,三十二天輔弼帝釋,并釋有三十三也。今趣釋宮,故云頂也。約處表法,明十住成位,不退勝故,居山頂也。即從人、用及處三義立名。問:何不在人間說耶?答:為顯行位漸昇進故。又表成位離染,故居天也。問:何不至四天王天?答:有三意,一以彼是雜鬼神天,顯法非勝,故超過也;二為寄法,以十信是外凡退位,十住是內凡不退,欲表進退懸殊,故越四天王處也;三若未至山頂容有進退,到山頂上即安住不退,是故越彼山腹處天至此頂處以表法也。
まず、名称の解釈について述べる。そこに二つの区分がある。第一に、会の名称について。法に基づけば「十住会」、場所に基づけば「忉利天会」と呼ぶ。先の解釈に従って理解すべきである。第二に、品の名称について。仏は教化の主であり、動靜に障りがなく、去ることなくして進むから「昇」という。では、どこへ昇るのか。須弥山の頂上である。須弥とは、ここでは「妙高山」と訳される。四種の宝によって構成されているから「妙」という。すなわち、東面は黄金、西面は白銀、南面は頗梨、北面は瑪瑙である。他の山はただ金だけで構成されているから「妙」ではない。九つの山の中で特に抜きん出ているから「高」という。その高さは八万四千由旬で、縦も横も等しい。また「安明山」とも呼ばれる。「頂」とは山の頂上のことである。この山の頂上の中央には帝釈天の宮殿があり、四方にそれぞれ八つの峰が台のようになっており、帝釈天から三由旬の距離にある。その中に別の宮城があり、三十二天が帝釈天を補佐している。帝釈天を合わせて三十三となる。今、帝釈天の宮殿に向かうから「頂」というのである。場所によって法を表し、十住が位を成し、退かない勝れたものであることを明らかにするため、山の頂上に居るのである。すなわち、「人」「用途」「場所」の三つの意味から名を立てる。
問う:なぜ人間の世界で説かないのか。 答える:修行の位が徐々に高まることを示すためである。また、位を成し、煩悩から離れることを表すから、天に居るのである。
問う:なぜ四天王天に行かないのか。 答える:三つの意味がある。第一に、そこは雑な鬼神の天であり、法が勝れたものでないことを示すから、そこを超えるのである。第二に、法を寄託するためである。十信は外の凡夫で退く位であり、十住は内の凡夫で退かない位である。進退が大きく異なることを表したいから、四天王天の場所を越えるのである。第三に、もし山の頂上に至らなければ、進退があるかもしれないが、頂上に到着すれば安住して退かない。だから、山の中腹の天を越えて、この頂上の場所に至って、法を表すのである。
二來意,亦二:初會來者,一答前十住問故;二前已明信,今顯依信起解,故次來也;三前信但是位前方便,方便既滿,正位顯彰,故次來也。二品來者,前品辨信究竟,今將赴後位故來也。
ここに来る理由にも二つの意味がある。第一に、この会が来ることには二つの意味がある。一つは、前に十住の問いに答えるためである。二つには、すでに信を明らかにしたので、今度はその信に基づいて理解(解)が生じることを示すためである。したがって、次にこの会が来るのである。三つには、先ほどの信は修行の前段階に過ぎなかったが、その準備がすでに満ちたので、正しい位が明らかに現れることになる。したがって、次に来るのである。第二に、この品が来る理由にも二つの意味がある。前の品で信の究極が明らかにされたが、今度は次の位へ進むために、この品が来るのである。
三宗趣,亦二:初會宗,亦二:先約人,謂化主及助化各有體相用,約住準之;二約法,謂十住教義,義中以平等法界為體、十住行位為相、應教所詮為用,教中以六決定為體、十住不同為相、益機為用,相即無礙,準上思之。二品宗者,以嚴處請佛,如來赴感為宗。
四釋文者,就此會中有六品,分二:初二明方便發起,即序分;餘四品是當會正宗。
この経典釈の文について、この会の中には六つの品がある。これを二つに分ける:最初の二品は方便としての発起を明らかにするもので、すなわち序分である。残りの四品がこの会の正宗分である。
前中二:初品是如來應感序,明果德備;後品明集眾光讚序,明因德圓,即顯十住位中具因果宗圓備故也。前中三:初辨化緣、二「爾時帝釋」下嚴根欲、三「爾時世尊」下明根緣契合。初中二:先體融遍周法界;後明用融,謂不動而進。前中初一句明體融所由,謂佛力也。下明融遍之相,於中十方各一一閻浮等者,是上〈光明覺品〉所辨,十方各乃至不可說不可說虛空法界等世界中,皆有菩提樹下盧舍那佛,各與海會菩薩眾并與文殊師利乃至賢首等悉各說法。以諸會眾各不雜故,云自謂在也。今並同時集眾,各昇本界天上而不離本處也。若約小乘三乘等中說經施化,但論在某處等,無此一說一切說等。今欲明一乘法,即主伴圓明,故法如此也。於中,一三世間融;二依正二融;三於正報中有三寶相融,謂說種種為法寶,菩薩為僧,對如來故;四於諸菩薩有三業融,謂顯現是身、說法為語、自謂為意。問:何須集此者?答:欲明具主伴,凡一法起必具一切故。問:何故皆以菩提樹為本?答:以是得法初處故,又是覺門故。
まず、前半の二つの部分について説明します。最初の品は、如来が衆生の感応に応じて現れることを示す序分であり、果徳(修行の結果として得られる完全な徳)が備わっていることを明らかにします。後の品は、大衆が集まり光を讃えることを示す序分であり、因徳(修行の原因となる徳)が円満であることを明らかにします。これは、十住の位の中に因と果の宗旨が共に円満に備わっていることを示すものです。
最初の部分には三つの段階があります。第一に教化の縁を明かし、第二に「爾の時帝釋」より下は、衆生の根機と欲求を整えることを示し、第三に「爾の時世尊」より下は、根機と縁がしっかりと合致することを明らかにします。
第一の段階には二つの側面があります。まず、その本体が法界全体に融け渡っていることを示し、その後、その働きが融け合っていることを示します。すなわち、動かずして進むということを指します。
最初の部分で「仏力」という一句は、本体が融け渡る所以を示しています。その後の部分では、融け渡る様相を示しており、そこでは十方のそれぞれの閻浮提などは、先の『光明覚品』で説かれた通り、十方それぞれに、説くことのできないほど広大な虚空法界の世界があり、そのすべての世界の菩提樹の下に盧舎那仏がおられ、それぞれが海のように集まった菩薩衆や文殊師利、賢首などの菩薩と共に説法しておられます。
それぞれの法会の参加者は混ざり合うことがないので、「自らそこにいると思う」と言われます。しかし今は、すべてが同時に集まり、それぞれが自分の世界の天上に昇りながらも、もとの場所を離れることはありません。
もし小乗や三乗の教えで経典を説き教化する場合には、ただ「ある場所で説かれた」などと言うだけで、このように「一つの説法がすべての説法である」というような考え方はありません。今、一乗の法を明らかにしようとするので、主と伴が円満に輝き合うということであり、法はこのようなものなのです。
この中で、第一に三つの世間が融け合い、第二に依報と正報が融け合い、第三に正報の中では三宝が融け合う様相があります。すなわち、様々に説くことを法宝とし、菩薩を僧とし、如来と対になるということです。第四に、諸菩薩には三業が融け合う様相があります。すなわち、顕現することは身業であり、説法することは語業であり、自ら思うことは意業です。
問い:なぜこのように集める必要があるのですか? 答え:主と伴を備えることを明らかにしたいからです。およそ一つの法が生じる時は、必ずすべての法を備えるからです。
問い:なぜすべて菩提樹を根本とするのですか? 答え:それが法を得た最初の場所だからであり、また悟りへの門だからです。
第二用融中,初一句用融所由;次不起等,正明用相。此中不起此而昇彼者,古人三釋。一云:本釋迦身不起道樹,別起應化以昇天上。若依此釋,昇天之身是重化身,既非深妙,恐乖文意。一云:不起是法身,昇天是化用。此恐非理,豈可法身坐道樹耶?一云:此昇天是不往而至,以往即不往故,所以不起也;不往即往故,所以昇天也。如不來相而來名善來等。若依此釋,但是無昇相而昇天,非是樹下有不起之身,故亦難用。今解此文,略有八義:一約處即入門,謂以一處中有一切處故,是故此天宮等即本來在彼樹王下中,故云不起也。然先未用此天宮處,今欲於中說法用故,說為昇也。又相即故不起也,門別故有昇也。二約佛,謂此坐樹王下之佛身,即遍法界一切處故。是故佛身本來在彼忉利等處故不待起也,今欲用此忉利門中之佛,故曰昇也,是故若起即不成昇也。三約時,謂由此樹下座上佛身,即遍前後際、等九世十世一切時故,是故此佛坐樹下時昇天,去時到天處時,一一時皆遍法界攝前後際盡,即知坐樹下時永無起時法,云不起也。若正去時亦如此,故唯有去無餘也。皆念念不相至,各各收法界,如是緣起門,無礙恒不雜。四約法界門,謂此昇去無自性故,即攝真如法界,以彼樹下坐等,亦不異真故,同真如在去門顯,顯故不起而昇也。五約緣起門,謂坐由行故坐,坐在於行中,行由坐故行,行在於坐中。是故由行中坐,故昇天即不起也;由坐中行,故不起而昇天也。行坐無礙故,即昇常坐、即坐恒昇故也。六約佛不思議德,謂即不起此坐,即是行、即是臥、即是住,即是到一切處、即是作一切事,並非下地所知。七約所表,謂表前位行成究竟堅固不壞,故云不起前座;而有赴機用,故云昇也。八約成會,謂後會必具前,故不捨前而成後。若捨則壞緣起,是故不起前而昇後也。
第二に「用の中に融ず」を明かす。初めの一句は融ずる所以を示し、次に「不起」等は、正に用の相を明かす。ここに「此を不起して彼に昇る」とは、古人に三つの解釈がある。
一に云う、本師釈迦の身は道樹を起たず、別に応化の身を起こして天に昇る。もしこの解釈に依れば、天に昇る身は重ねて化身したものであり、深妙ではないから、文の意に乖くことを恐れる。
一に云う、「不起」は法身であり、「昇天」は化用である。これは理に非ず、どうして法身が道樹に坐することを得ようか。
一に云う、この天に昇るのは往かずして至ることであり、往くことは即ち往かないことだから、起たないのである。往かないことが即ち往くことだから、天に昇るのである。例えば「来たる相にあらずして来たるを善来と名づく」等の如し。もしこの解釈に依れば、ただ昇る相なくして天に昇るのであり、樹の下に起たざる身があるというのではないから、また用い難い。
今、この文を解するに、略して八つの義がある。
一には処についていう即入の門であり、一つの処の中に一切の処があるが故に、この天宮等が本来かの樹王の下の中にあることを意味し、「不起」という。しかし未だこの天宮の処を用いず、今まさにその中で法を説く用を顕そうとするので、「昇る」という。また相即の故に「不起」であり、門別の故に「昇る」がある。
二には仏についていう。樹王の下に坐するこの仏身は、法界の一切の処に遍するが故に、仏身は本来かの忉利等の処にあるから、起つを待たない。今この忉利の門の中の仏を用いようとするので「昇る」という。もし起てば昇ることを成さない。
三には時についていう。樹下の座上の仏身が前後の際に遍し、九世十世の一切の時に等しいが故に、この仏が樹下に坐する時、天に昇る時、去る時、天の処に到る時、一一の時が皆法界に遍して前後の際を摂盡する。すなわち樹下に坐する時には永遠に起つ時の法がないことを知り、「不起」という。まさに去る時も亦たこの如く、ただ去るのみで余りがない。皆念念相い至らず、各々法界を収め、かくの如き縁起の門は、無礙にして恒に雑わらない。
四には法界門についていう。この昇去が自性なしということで、すなわち真如の法界を摂し、かの樹下に坐する等も真と異ならないから、真と同じく去る門の中に於いて顯れ、顯れるが故に「不起而昇」である。
五には縁起門についていう。坐は行に由って坐し、坐は行の中に在り、行は坐に由って行じ、行は坐の中に在る。この故に行の中の坐に由って、天に昇ることは即ち「不起」であり、坐の中の行に由って、「不起」にして天に昇る。行と坐が無礙であるから、即ち昇ることは常に坐り、即ち坐ることは恒に昇る。
六には仏の不思議の徳についていう。即ちこの坐を起たずして、即ち是れ行、即ち是れ臥、即ち是れ住、即ち是れ一切処に到り、即ち是れ一切事を作すことであり、皆下地の所知にあらず。
七には所表についていう。前位の行が究竟して堅固不壞に成ることを表すので、「前座を不起」という。しかして機に赴く用があるので「昇」という。
八には成会についていう。後の会は必ず前を具えるので、前を捨てずして後に成る。もし捨てれば縁起を壊す。この故に前を起たずして後に昇るのである。
第二嚴根欲中遙見佛來者,約佛用從體起,約機境從心現故也。於中二:先嚴座表相,於中先總、後別。別中,初外報、後內報。二「合掌」下辨欲。第三根緣契合中亦二:先昇殿益、後昇座益。前中二:先赴感、二成益。此二各二,謂此界及結通。益中二:初寂然等,示得定益;後偈讚發慧益,於中二:初憶本行、二頌德。頌中,理實過去一切諸佛體同用融,法爾無二,皆於此殿說十住法;而今却次但說十佛者,為顯無盡故、為說十住故。迦葉是姓,此云飲光。拘那含牟尼,此云金仙人。拘樓孫,此云所應斷已斷,謂生死煩惱等也。隨葉,亦名毘舍符,此云一切勝,亦云遍現,謂諸處皆身現故。尸棄,此云有髻。毘婆尸,此云種種見,新名淨觀。弗沙,此云增盛,以無闕減故,亦是星名。提舍,此云說,謂常說法也,亦名光也。波頭摩,此云赤蓮華。錠光,是燃燈佛,此佛為太子初生時,一切身邊如燃燈,故名燃燈太子,太子成佛亦立此名。問:此中後七佛是過去莊嚴劫中佛,何因得於此賢劫中忉利天宮而說法耶?答:此天宮等有麁有細,麁者前劫燒滅、細者常存故也。如經「天人見劫盡,我此土常安穩」等。又三乘所說者滅,一乘所辨者常存故。第二昇座益中二:初此土、後結通。前中二:初昇座、後辨益。謂廣其殿者,改常所見故破情也。同天處者,顯同理故也。前昇殿益人,此昇座益處者,為顯依正俱勝故也。
第二に、根と欲を厳(おごそ)かにし、遥かに仏の来たるを見ることは、仏の働きが体より起こることに基づき、機(機根)の境が心より現れることによる。ここに二つの区分がある。先に座を厳かにして相を表すことを示し、その中で先に総説、後に別説がある。別説の中では、初めに外報、後に内報を示す。二つ目に「合掌」以下の部分で欲を明らかにする。第三に、根と縁が契合する中にも二つの区分がある。先に殿堂に昇る利益、後に座に昇る利益である。前の部分には二つあり、先に感に赴くこと、次に益を成すことである。この二つにはそれぞれ、この世界と結通(他の世界に通じる)という区分がある。益の中には二つあり、初めに「寂然」などは定の益を得ることを示し、後に偈頌が慧の益を発することを讚える。この中にも二つあり、初めに本行を憶念し、次に徳を頌する。頌の中では、理実として過去の一切の諸仏は体が同じく用が融通し、法爾として無二であり、すべてこの殿堂で十住の法を説く。しかし今、あえて次第に十仏だけを説くのは、無尽を示すためであり、十住を説くためである。
迦葉は姓であり、これは「飲光」と訳す。拘那含牟尼は「金仙人」と訳す。拘楼孫は「所応断已断」と訳し、生死や煩悩などを断じたことを意味する。随葉は毘舎符とも呼ばれ、「一切勝」と訳し、また「遍現」ともいい、あらゆる場所に身を現すことを意味する。尸棄は「有髻」と訳す。毘婆尸は「種種見」と訳し、新しい名前では「浄観」という。弗沙は「増盛」と訳し、欠け減ることがないからであり、また星の名前でもある。提舍は「説」と訳し、常に法を説くことを意味し、また「光」ともいう。波頭摩は「赤蓮華」と訳す。錠光は燃灯仏であり、この仏が太子として初めて生まれた時、その身体のすべての側面が灯火を燃やすかのようであったため、燃灯太子と名付けられ、太子が成仏してからもこの名を立てたのである。
問う:この中の後の七仏は過去荘厳劫の仏であるのに、どうしてこの賢劫の中で忉利天の宮殿において法を説くことがあるのか。答える:この天宮などには麁と細があり、麁なるものは前の劫が焼け滅ぶ時に壊れるが、細なるものは常に存するからである。経典に「天人に劫の尽きるのを見せても、我がこの土は常に安穏である」とあるのと同じである。また三乗の説くところは滅するが、一乗の弁ずるところは常に存するからである。第二の座に昇る益の中には二つあり、初めにこの土、後に結通である。前の中にも二つあり、初めに座に昇り、後に益を明らかにする。殿堂を広くするのは、常に見る所を改めることで情を破るからである。天の処と同じくするのは、同じ理を示すからである。前の殿堂に昇ることは人に益し、この座に昇ることは処に益する。これは依報と正報がともに優れていることを示すためである。