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title: "光讚經 · 16 三昧品"
description: "光讚經由西晉高僧竺法護於公元3世紀末譯出，是大乘佛教早期重要經典《般若經》的漢譯本之一。此經依梵文原典《二萬五千頌般若經》譯成，主要闡述般若空性思想，強調諸法性空、緣起無自性的深奧義理，並論述菩薩修行六度萬行的實踐之道。在佛教史上，光讚經作為般若系經典的早期譯本，為中觀學派的發展奠定了文獻基礎，對中國佛教義學的興起具有啟蒙作用，與後出的放光般若經共同推動了魏晉南北朝般若學的研習熱潮。"
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### 摩訶般若波羅蜜三昧品第十六

> 第十六章 大般若波羅蜜の三昧

賢者須菩提白佛言：「唯，天中天！何謂菩薩摩訶薩摩訶衍僧那？何謂菩薩摩訶薩摩訶衍？學大乘者何所誓志於衍？衍何所住、從何生？衍中誰為成衍者？」

> 賢者の須菩提は仏に申し上げた。「唯、天中天よ。何をもって菩薩摩訶薩の大乗の誓い（僧那）というのでしょうか。何をもって菩薩摩訶薩の大乗というのでしょうか。大乗を学ぶ者は、どのような誓いを大乗に対して立てるのでしょうか。大乗はどこに住し、何から生じるのでしょうか。大乗の中において、誰が大乗を成し遂げるのでしょうか。」

佛告須菩提：「如須菩提之所問也：『何所菩薩摩訶薩衍者？』六波羅蜜則為菩薩摩訶薩摩訶衍也。何等六？檀波羅蜜、尸波羅蜜、羼波羅蜜、惟逮波羅蜜、禪波羅蜜、般若波羅蜜。彼何謂檀波羅蜜？於是，須菩提！菩薩摩訶薩遵崇發心存薩芸若而行布施，內外所有一切不惜，以給眾生，以為堅固，不備怨敵，則以勸助阿耨多羅三耶三菩；是為菩薩摩訶薩檀波羅蜜。何等菩薩摩訶薩尸波羅蜜？於是菩薩摩訶薩遵崇發心存薩芸若，身自奉行十善之事，復以十善勸助人不墮顛倒，亦無所得；是為菩薩摩訶薩於尸波羅蜜無所亡失，不墮顛倒，亦無所得。」

> 仏が須菩提に告げられた。「須菩提よ、汝が問うところの『何をもって菩薩摩訶薩の大乗（まさに乗るべき道）とするのか』について答えよう。六波羅蜜こそが、菩薩摩訶薩の大乗である。その六つとは何か。布施波羅蜜、持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜、智慧波羅蜜である。 では、布施波羅蜜とは何か。須菩提よ、菩薩摩訶薩は、一切知の智慧を求める心を起こし、その心に基づいて布施を行う。内外のすべてのものを惜しみなく施し、衆生のために捧げる。その心は揺るぎなく堅固であり、いかなる煩悩の敵にも打ち负けることはない。そして、この布施の功徳を、最高の悟り（阿耨多羅三藐三菩提）の成就へと向けて捧げる。これが菩薩摩訶薩の布施波羅蜜である。 では、菩薩摩訶薩の持戒波羅蜜とは何か。菩薩摩訶薩は、一切知の智慧を求める心を起こし、自身が十の善行を実践する。さらに、その十の善行を他の人々にも勧め、皆が誤った見解（顛倒）に陥ることのないように導く。しかし、そこには執着がなく、何かを得たという思いもない。これが菩薩摩訶薩の持戒波羅蜜であり、失うことなく、顛倒せず、得るものもないのである。」

須菩提白佛言：「唯，天中天！何謂菩薩摩訶薩羼波羅蜜？」

> 須菩提が仏に申し上げました。「尊き天中の天よ、菩薩大士の羼提波羅蜜（忍耐の完成）とは、どのようなものなのでしょうか？」

佛告須菩提：「於是菩薩摩訶薩己身能具足忍辱，教化他人立於忍辱，不墮顛倒，亦無所得；是為菩薩摩訶薩羼波羅蜜！」

> 仏は須菩提に告げられた。「この菩薩摩訶薩（大きな悟りを求める立派な修行者）は、まず自分自身が忍辱（にんにく、耐え忍ぶこと）を完全に身につけ、他の人々にも忍辱の心を立てるよう教え導く。そして、物事の道理を取り違えることなく、得るものがあるとも執着しない。これこそが、菩薩摩訶薩の羼波羅蜜（せんはらみつ、忍辱の波羅蜜）なのである。」

須菩提白佛言：「唯，天中天！何謂菩薩摩訶薩惟逮波羅蜜？」

> 須菩提は仏に申し上げた。「尊き方よ、天中の天よ。どのようなことを、大いなる菩薩の智慧の完成（智慧波羅蜜）というのでしょうか。」

佛告須菩提：「菩薩摩訶薩其心遵崇薩芸若慧，於五波羅蜜不以踈遠，以五波羅蜜教化眾生，不墮顛倒，亦無所得；是為菩薩摩訶薩惟逮波羅蜜！」

> 仏は須菩提に告げられた。「菩薩であり大いなる修行者である者は、その心を最高の智慧（般若）に向けて尊び、五つの波羅蜜（布施・持戒・忍辱・精進・禅定）から遠ざかることなく、五つの波羅蜜をもって人々を教え導く。しかし、それによって誤った見解に陥ることもなく、何かを得るという執着もない。これこそが、菩薩であり大いなる修行者である者の、惟逮波羅蜜（智慧の完成）である。」

須菩提又問世尊：「唯，天中天！何謂菩薩摩訶薩禪波羅蜜？」

> 須菩提が再び世尊に問うた：「唯、天中天よ。何を菩薩摩訶薩の禅波羅蜜というのですか？」

佛告須菩提：「菩薩摩訶薩遵崇發心存薩芸若慧，己身常以漚惒拘舍羅行禪三昧，不隨順從三昧而生也，亦教人令學禪定，不墮顛倒，亦無所得；是為菩薩摩訶薩禪波羅蜜！」

> 仏は須菩提に告げられた。「菩薩（大きな悟りを求める者）が、最高の智慧を求める心を起こし、自らは善巧方便を用いて禅定を修行しながらも、その禅定に執着してそこに安住することなく、また他の人々にも禅定を学ぶよう教え導く。しかし、誤った見解に陥ることなく、何ものにも執着して得ることもない。これこそが、菩薩の完成された禅定の修行である。」

須菩提白佛言：「唯，天中天！何等為菩薩摩訶薩般若波羅蜜？」

> 須菩提が仏に申し上げた。「天中天よ、菩薩大士の智慧の完成（般若波羅蜜）とは、いったいどのようなものなのでしょうか？」

佛告須菩提：「菩薩摩訶薩遵崇發心薩芸若慧，於一切法無依倚，觀於諸法一切本淨，不墮顛倒，亦無所得。於一切法以無所著，以觀諸法一切本淨，則以斯法教化眾生，不墮顛倒，亦無所得；是為菩薩摩訶薩般若波羅蜜，是為菩薩摩訶薩摩訶衍也。

> 仏は須菩提に告げた。「菩薩摩訶薩が、悟りを求める心（薩芸若慧）を尊び起こすとき、一切の法に執着せず、諸法はすべて本来清らかであると観じ、誤った見解に陥らず、得るものもないと知るのです。一切の法に執着せず、諸法がすべて本来清らかであると観じるならば、その教えをもって众生を導き、誤った見解に陥らず、得るものもないとすること——これこそが、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜であり、菩薩摩訶薩の大乗（摩訶衍）なのです。」

「復次，須菩提！菩薩摩訶薩摩訶衍者，諸內為空、外亦為空、內外悉空、空亦復空、至號大空、真妙之空、清淨之空、有為空、無為空、自然相空、一切法空、無所得空、無有空而自為空、而有所見無所有空。彼何謂為內空？謂內法者，眼、耳、鼻、舌、身、意。彼所謂眼、眼所見者，則亦為空，不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。其耳、耳所聽者，則亦為空，不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。其鼻、鼻所嗅者，則亦為空，不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。其舌、舌所甞味者，則亦為空，不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。其身、身所受者，亦復為空，不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。其心、心所念者，亦復為空，不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。是謂內空。彼何謂外空？外所云法、色、聲、香、味、細滑念也。其色、色者，亦復為空，不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。是色、聲、香、味、細滑、法空，不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。彼何謂內外法空？內六入、外六入是為內外法空。彼何謂外法空？不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。是內法、外法則悉空故，故不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。是為內外法空。彼何謂空亦空？謂一切法空、諸法空、亦此空空，是謂空空。彼何謂為大空？所謂東方亦空、南方、西方、北方、東南、西南、西北、東北方、上方、下方，皆亦悉空，不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。何謂真妙空者？曰無為者也。其無為者，無為亦空，不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。是謂真妙空。彼何謂所有空？所有空者，謂欲界、色界、無色界空，不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。彼何謂無為空？所謂無為空者，不起不滅、亦不自在、亦無所住，存在真諦，是為無為空。彼所謂無為空，其無為空者，不可毀傷、不可壞起。所以者何？本淨故也。彼何謂究竟空？究竟空者，謂不可得崖際。所以者何？本淨故也。是謂究竟空。彼何謂廣遠空？謂不見來，亦無所得。所以者何？本淨故也。是謂廣遠空。彼何謂不分別空？彼無能捨法，亦無所住。所以者何？本淨故也。是為不分別空。彼何謂本淨空？悉能解了一切諸法悉為本淨，有為、無為，非聲聞所作，非辟支佛所作。是謂本淨空。彼何謂一切法空？一切法者，謂色、痛痒、思想、生死、識，眼、耳、鼻、舌、身、意，色、聲、香、味、細滑之法，眼色識、耳聲識、鼻香識、舌味識、身細滑識、意法識，眼所更、耳、鼻、舌、身、意所更痛痒之事。有為法、無為法。是謂為一切法空。諸法法空，無所毀傷、不可壞起。所以者何？用本淨故。是謂一切法空。彼何謂自然相空？為色相故，色無所有相，受痛痒、思相、造生死相、知生死識相，痛痒、思想、生死、識，亦復如是。眼、耳、鼻、舌、身、意，色、聲、香、味、細滑、法，及十八種一切所更有為法相、無為法相，是一切法自然相空。彼何謂不可得無所有空？一切諸法亦不可得，無所毀害、不可壞起。所以者何？本淨故也。是謂不可得無所有空。彼何謂無所有空？索所有形貌而不可得。是謂無所有空。彼何謂自然空？無有合會為自然。是為自然空。彼何謂其無所有自然空者？其自然者，無有合會。是謂其無所有自然空也。

> また、須菩提よ。菩薩大士の大いなる乗り物とは、内も空、外も空、内外ともに空、空そのものもまた空であり、さらに大空、真妙の空、清浄の空、有為の空、無為の空、自然の相の空、すべての法の空、得るものなき空、空なるものもなくして自ずから空、そして見るところあるもすべて無所有の空である。 では、何を内の空というのか。内の法とは、眼・耳・鼻・舌・身・意のことである。その眼も、眼に見えるものも、また空であって、壊すことも傷つけることもなく、生じも消えもしない。なぜなら、もともと清らかだからである。耳も、耳に聞こえるものも、また空であって、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。鼻も、鼻に嗅ぐものも、また空であって、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。舌も、舌に味わうものも、また空であって、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。身も、身に感じるものも、また空であって、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。心も、心に念じるものも、また空であって、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。これを内の空という。 では、何を外の空というのか。外の法といわれるもの、すなわち色・声・香・味・触れ・念いである。その色も、また空であって、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。この色・声・香・味・触れ・法も空であり、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。 では、何を内外の法の空というのか。内の六つの入るものと、外の六つの入るもの、これを内外の法の空という。では、何を外の法の空というのか。壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。この内の法も外の法も、すべて空であるがゆえに、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。これを内外の法の空という。 では、何を空もまた空というのか。すべての法が空であり、諸々の法が空であり、この空そのものもまた空である。これを空の空という。 では、何を大空というのか。東の方も空、南・西・北の方も、南東・南西・西北・北東の方も、上も下も、すべてみな空であり、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。 何を真妙の空というのか。それは無為のことである。その無為も、無為なるものも空であり、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。これを真妙の空という。 では、何を所有の空というのか。所有の空とは、欲界・色界・無色界が空であることをいい、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。 では、何を無為の空というのか。無為の空とは、生じることもなく滅することもなく、自らに任せることもなく、住するところもなく、真実の道理に存在する。これを無為の空という。その無為の空も、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。 では、何を究竟の空というのか。究竟の空とは、その果てを見極めることができないことをいう。なぜなら、もともと清らかだからである。これを究竟の空という。 では、何を広遠の空というのか。来たるところを見ることなく、得るところもないことをいう。なぜなら、もともと清らかだからである。これを広遠の空という。 では、何を分別せざる空というのか。それには捨てるべき法もなく、住するところもない。なぜなら、もともと清らかだからである。これを分別せざる空という。 では、何を本浄の空というのか。すべての諸法がことごとくもともと清らかであると解了し、有為も無為も、声聞のなすところにあらず、辟支仏のなすところにあらざることを知る。これを本浄の空という。 では、何をすべての法の空というのか。すべての法とは、色・痛痒・思想・生死・識、眼・耳・鼻・舌・身・意、色・声・香・味・触れ・法、眼と色との識、耳と声との識、鼻と香との識、舌と味との識、身と触れとの識、意と法との識、眼にふれること、耳・鼻・舌・身・意にふれる痛痒の事柄、有為の法、無為の法である。これをすべての法の空という。諸々の法は法のままに空であり、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。これをすべての法の空という。 では、何を自然の相の空というのか。色の相のゆえに、色には所有する相がない。受・痛痒、想・思の相、生死を造る相、生死の識を知る相、痛痒・思想・生死・識も、また同じである。眼・耳・鼻・舌・身・意、色・声・香・味・触れ・法、および十八種のすべてのよりどころとなる有為の法の相、無為の法の相、これらの一切の法は自然の相のままに空である。 では、何を得ることもなく所有もない空というのか。すべての諸法は得ることもできず、壊すことも傷つけることもない。なぜなら、もともと清らかだからである。これを得ることもなく所有もない空という。 では、何を無所有の空というのか。所有という形や姿を求めるけれども、得ることができない。これを無所有の空という。 では、何を自然の空というのか。合わさって一つになることがないのを自然という。これを自然の空という。 では、何を無所有の自然の空というのか。その自然なるものは、合わさって一つになることがない。これを無所有の自然の空というのである。

「復次，須菩提！其所有者，所有空。無所有者，無所有空。自然者，自然空。為他故者，他故亦空。彼何謂所有所有空？謂五陰也。彼五陰者，所有所有空。是謂所有所有空。何謂無所有無所有空？謂無為也。彼無為者，無為故空。是謂無所有無所有空。何謂自然自然空？其為空者，則無有相、亦無所作、亦無所見。是謂自然空！彼何謂為他故空？假使怛薩阿竭興出現者，若怛薩阿竭不興出現，其法常住，其法界亦寂滅故無本，無本斯則本際，其於此者為他空，是謂為他故空。是謂，須菩提！菩薩摩訶薩摩訶衍也。

> 「また、須菩提よ。存在するものは、存在するものとして空である。存在しないものは、存在しないものとして空である。自然なるものは、自然なるものとして空である。他を原因とするものは、他を原因とするものとして空である。 では、『存在するものの空』とは何か。それは五蘊（色・受・想・行・識）のことである。この五蘊は、存在するものとして空である。これを『存在するものの空』と呼ぶ。 では、『存在しないものの空』とは何か。それは無為（つくられざるもの）のことである。この無為は、無為であるがゆえに空である。これを『存在しないものの空』と呼ぶ。 では、『自然の空』とは何か。空そのものには、形相もなく、はたらきもなく、見るべきものもない。これを『自然の空』と呼ぶ。 では、『他を原因とする空』とは何か。たとえ如来がこの世に現れようとも、現れなかろうとも、その法は常にあり、法の世界は本来寂静であり、根源を超えたものである。その根源なきことが、まさに究極の真理である。このように他に依って成立するものとして空であることを、『他を原因とする空』と呼ぶ。 須菩提よ。これこそが、菩薩大士の大いなる乗り物（大乗）なのである。」

「復次，須菩提！菩薩摩訶薩摩訶衍者，謂首楞嚴三昧！復有三昧名曰實印、復有三昧名師子娛樂、有三昧名善月、有三昧名月幢英、有三昧名一切法超上、有三昧名觀頂、有三昧名分別一切法、有三昧名了幢英、有三昧名金剛喻、有三昧名入法印、丹本云有三昧名善住王有三昧名放光無所奪、有三昧名定意王、有三昧名善住、有三昧名放光、有三昧名力精進、有三昧名等超、有三昧名分別隨順、有三昧名入諸語、有三昧名照諸方面、有三昧名總持印、有三昧名無所奪、有三昧名等御諸法海印、有三昧名普遍虛空、有三昧名金剛道場、有三昧名勝諸寶、有三昧名照明、有三昧名不眴、有三昧名住不究竟、有三昧名決了、有三昧名離垢燈明、有三昧名無量光、有三昧名光造、有三昧名普照、有三昧名淨御定、有三昧名離垢明、有三昧名為娛樂故、有三昧名慧燈、有三昧名無盡、有三昧名威神具、有三昧名除盡、有三昧名無特、有三昧名開通、有三昧名日燈明、有三昧名月離垢、有三昧名淨照明、有三昧名有所照曜、有三昧名作當所作、有三昧名慧英、有三昧名譬金剛、有三昧名善建志、有三昧名寶積、有三昧名超法印、有三昧名法普、有三昧名勝娛樂、有三昧名度法頂、有三昧名有所破壞、有三昧名分別諸句、有三昧名等造字、有三昧名離文字、有三昧名除斷緣、有三昧名離所作、有三昧名無所作、有三昧名行不使了、有三昧名除冥、有三昧名行跡、有三昧名無動、有三昧名度境界、有三昧名決一切德、有三昧名決所住、有三昧名清淨嚴華、有三昧名覺意句、有三昧名無量燈明、有三昧名等無等、有三昧名度一切法、有三昧名斷絕故、有三昧名離所作、有三昧名離所住、有三昧名一嚴淨、有三昧名御行事、有三昧名一事故、有三昧名制諸事、有三昧名除厭一切所作、有三昧名入緣合像音、有三昧名脫音教文字言、有三昧名光㷿熾盛、有三昧名相嚴淨、有三昧名無相、有三昧名造一切諸具、有三昧名不悅一切苦樂、有三昧名無盡故、有三昧名總持句、有三昧名愛護一切正邪、有三昧名入一切諸色無色、有三昧名無音斷音、有三昧名離垢曜、有三昧名御固要、有三昧名離垢滿月、有三昧名大嚴淨、有三昧名一切光世明故、有三昧名普明、有三昧名御空、有三昧名等御、有三昧名無青究竟無所娛樂、有三昧名究竟無本住、有三昧名身時安詳、有三昧名口言時蠲除虛空念、有三昧名脫虛無色；無所著百一十定！

> また、須菩提よ、菩薩大士の大乗とは、すなわち首楞嚴三昧である。また三昧があって、名を実印という。また三昧があって、名を師子娛樂という。三昧があって、名を善月という。三昧があって、名を月幢英という。三昧があって、名を一切法超上という。三昧があって、名を観頂という。三昧があって、名を分別一切法という。三昧があって、名を了幢英という。三昧があって、名を金剛喩という。三昧があって、名を入法印という。<note>丹本には「三昧あり、名を善住王と曰う」とある</note>三昧があって、名を放光無所奪という。三昧があって、名を定意王という。三昧があって、名を善住という。三昧があって、名を放光という。三昧があって、名を力精進という。三昧があって、名を等超という。三昧があって、名を分別随順という。三昧があって、名を入諸語という。三昧があって、名を照諸方面という。三昧があって、名を総持印という。三昧があって、名を無所奪という。三昧があって、名を等御諸法海印という。三昧があって、名を普遍虚空という。三昧があって、名を金剛道場という。三昧があって、名を勝諸宝という。三昧があって、名を照明という。三昧があって、名を不眴という。三昧があって、名を住不究竟という。三昧があって、名を決了という。三昧があって、名を離垢燈明という。三昧があって、名を無量光という。三昧があって、名を光造という。三昧があって、名を普照という。三昧があって、名を淨御定という。三昧があって、名を離垢明という。三昧があって、名を為娛樂故という。三昧があって、名を慧燈という。三昧があって、名を無尽という。三昧があって、名を威神具という。三昧があって、名を除尽という。三昧があって、名を無特という。三昧があって、名を開通という。三昧があって、名を日燈明という。三昧があって、名を月離垢という。三昧があって、名を淨照明という。三昧があって、名を有所照曜という。三昧があって、名を作当所作という。三昧があって、名を慧英という。三昧があって、名を譬金剛という。三昧があって、名を善建志という。三昧があって、名を宝積という。三昧があって、名を超法印という。三昧があって、名を法普という。三昧があって、名を勝娛樂という。三昧があって、名を度法頂という。三昧があって、名を有所破壞という。三昧があって、名を分別諸句という。三昧があって、名を等造字という。三昧があって、名を離文字という。三昧があって、名を除断縁という。三昧があって、名を離所作という。三昧があって、名を無所作という。三昧があって、名を行不使了という。三昧があって、名を除冥という。三昧があって、名を行跡という。三昧があって、名を無動という。三昧があって、名を度境界という。三昧があって、名を決一切徳という。三昧があって、名を決所住という。三昧があって、名を清淨厳華という。三昧があって、名を覚意句という。三昧があって、名を無量燈明という。三昧があって、名を等無等という。三昧があって、名を度一切法という。三昧があって、名を断絶故という。三昧があって、名を離所作という。三昧があって、名を離所住という。三昧があって、名を一厳淨という。三昧があって、名を御行事という。三昧があって、名を一事故という。三昧があって、名を制諸事という。三昧があって、名を除厭一切所作という。三昧があって、名を入縁合像音という。三昧があって、名を脱音教文字言という。三昧があって、名を光㷿熾盛という。三昧があって、名を相厳淨という。三昧があって、名を無相という。三昧があって、名を造一切諸具という。三昧があって、名を不悦一切苦楽という。三昧があって、名を無尽故という。三昧があって、名を総持句という。三昧があって、名を愛護一切正邪という。三昧があって、名を入一切諸色無色という。三昧があって、名を無音断音という。三昧があって、名を離垢曜という。三昧があって、名を御固要という。三昧があって、名を離垢満月という。三昧があって、名を大厳淨という。三昧があって、名を一切光世明故という。三昧があって、名を普明という。三昧があって、名を御空という。三昧があって、名を等御という。三昧があって、名を無青究竟無所娛樂という。三昧があって、名を究竟無本住という。三昧があって、名を身時安詳という。三昧があって、名を口言時蠲除虚空念という。三昧があって、名を脱虚無色という。かくのごとく、執着なき百十の定がある。

「彼何謂名曰首楞嚴三昧？其定意者，皆入一切諸三昧行，是謂首楞嚴三昧。彼何謂實印三昧？時以斯定意印一切三昧，是謂實印三昧。彼何謂師子娛樂三昧？住此定意時，皆娛樂一切定意，是謂師子娛樂三昧。彼何謂善月三昧？住是定意時，一切平等而無所有，是謂善月三昧。彼何謂月幢英三昧？住是定意三昧，以此定意普執一切諸三昧幢，是謂月幢英三昧。彼何謂超一切法上三昧？住是定意時，一切悉至於平等事，是謂一切法超上三昧。彼何謂觀頂三昧？住是定意時，則便觀覩一切三昧諸定意頂，是謂觀頂三昧。彼何謂分別法界三昧？住是定意時，則能分別諸有法界，是謂分別法界三昧。彼何謂決了幢英三昧？住是定意時，一切定意究竟執幢，是謂決了幢英三昧。彼何謂金剛三昧？住是定意時，一切平等無能破壞，是謂金剛三昧。彼何謂入法印三昧？住是定意時，尋則得入一切法印，是謂法印三昧。彼何謂善住王三昧？住是定意時，一切諸法王三昧之所建立，是謂善住王三昧。彼何謂放光明三昧？住是定意時，一切三昧皆演光明，是謂放光明三昧。彼何謂精進力三昧？住是定意時，一切三昧精進力所發起，是謂精進力三昧。彼何謂等度三昧？住是定意時，一切三昧皆至平等，是謂等度三昧。彼何謂順入言教三昧？住是定意時，皆得普入順應意聲，是謂順言教三昧。彼何謂入諸言教三昧？住是定意時，一切皆從三昧言教，是謂入言教三昧。彼何謂照諸方面三昧？住是定意時，皆照一切諸方面定意，是謂照諸方面三昧。彼何謂總持印三昧？住是定意時，總持一切諸三昧印，是謂總持印三昧。彼何謂無所奪三昧？住是定意時，尋即不忘一切定意，是謂無所奪三昧。彼何謂等御諸法海印三昧？住是定意時，行平等事思攝等御，是謂等御海印三昧。彼何謂普遍虛空三昧？住是定意時，一切三昧普遍虛空無所不周，是謂普遍虛空三昧。彼何謂金剛道場三昧？住是定意三昧時，總持一切定意道場，是謂金剛道場三昧。彼何謂勝諸寶三昧？住是定意時，蠲除一切塵垢，諸欲不可瑕疵，是謂勝諸寶三昧。彼何謂照明三昧？住是定意三昧時，致一切等，則無所照曜諸道，是謂照明三昧。彼何謂不眴三昧？住是定意時，於諸三昧不求諸法，是謂不眴三昧。彼何謂不究竟住三昧？住是定意時，不見諸法三界所住，是謂不究竟住三昧。彼何謂決了三昧？住是定意時，無心無念法所趣，是謂決了三昧。彼何謂離垢明三昧？住是定意時，一切三昧轉相照曜，是謂離垢明三昧。彼何謂無量光三昧？住是定意時，其光明者無所不照，是謂無量光三昧。彼何謂造所為光三昧？住是定意時，若得三昧一切定意皆放光明，是謂造所為光三昧。彼何謂普照三昧？這獲此定，一切諸三昧門自然演光，是謂普照三昧。彼何謂御諸淨三昧？住是定意時，則便逮得一切三昧清淨普等，是謂御諸淨三昧。彼何謂離垢光三昧？住是定意時，於諸三昧除一切垢悉令灰盡，是謂離垢光三昧。彼何謂所娛樂三昧？住是定意時，則便娛樂一切三昧，是謂所娛樂三昧。彼何謂慧燈明三昧？住是定意時，照明一切諸所三昧，是謂慧燈明三昧。彼何謂無盡三昧？住是定意時，於一切三昧亦無有盡、亦無不盡、亦復不見盡與不盡，是謂無盡三昧。彼何謂威神句三昧？住是定意時，一切平等威神巍巍光曜遠照，是謂威神句三昧。彼何謂除諸盡三昧？住是定意時，見諸三昧一切無盡，見而無本而無所見，是謂除諸盡三昧。彼何謂無特異三昧？住是定意時，一切平等不著、不念，無所患苦、亦無因緣，是謂無特異三昧。彼何謂開通三昧？住是定意時，不見諸法有所通達、亦無顛倒，是謂開通三昧。彼何謂日燈明三昧？住是定意時，開發一切諸三昧門而奮光明，是謂日燈明三昧。彼何謂離月垢三昧？住是定意時，於諸三昧以光除冥，是謂離月垢三昧。彼何謂清淨燈明三昧？住是定意時，於諸三昧普護一切四分別辯，是謂清淨燈明三昧。彼何謂有所照曜三昧？住是定意時，則皆照明諸三昧門，是謂有所照曜三昧。彼何謂所造作三昧？住是定意時，趣一切三昧成辦所當，又復所造作三昧所立定時，普見一切諸三昧慧英，是謂所造作三昧。彼何謂金剛喻三昧？住是定意時，滅除一切所作諸法，不復覩見諸苦惱患，是謂金剛喻三昧。彼何謂心住三昧？住是定意時，心不動搖、亦不開閉、亦不照明、亦不見所起、亦不念言：『有此心也。』是謂心住三昧。彼何謂普世三昧？住是定意時，普見一切諸三昧定，靡所不照，是謂普世三昧。彼何謂善志住三昧？住是定意時，一切普安立諸三昧。彼何謂寶積三昧？住是定意時，普見一切諸三昧者悉為積寶，是謂寶積三昧。彼何謂勝法印三昧？住是定意時，等印諸法，未遭印者皆見印印，悉能究竟，是謂勝法印三昧。彼何謂法平等三昧？住是定意時，不見諸法平等若嶮岨，是謂法平等三昧。彼何謂勝娛樂三昧？住是定意時，降伏一切諸所樂法，是謂勝娛樂三昧。彼何謂度諸法頂三昧？住是定意時，調定一切諸法之上，皆復越度諸所三昧，是謂度諸法頂三昧。彼何謂壞除三昧？住是定意時，除諸三昧壞一切法，是謂壞除三昧。彼何謂分別諸法三昧？住是定意時，皆能分別於諸三昧，曉了一切諸法之句，是謂分別諸法三昧。彼何謂等造文字三昧？住是定意時，分別曉了三昧致等文字，是謂等造文字三昧。彼何謂除諸文字三昧？住是定意時，於諸三昧無一文字亦無所得，是謂除諸文字三昧。彼何謂除斷因緣三昧？住是定意時，斷諸三昧緣，無有眾亂，是謂除斷因緣三昧。彼何謂無所作三昧？住是定意時，不得諸法有所作為，亦無所造，是謂無所作三昧。彼何謂離所作三昧？住是定意時，不得諸法因緣所造，是謂離所作三昧。彼何謂不究竟行三昧？住是定意時，不得一切諸三昧行究竟邊際，是謂不究竟行三昧。彼何謂除諸冥三昧？住是定意時，一切三昧除諸闇冥，滅盡諸亂令致清淨，是謂除諸冥三昧。彼何謂行諸句三昧？住是定意時，普見一切諸三昧行，是謂行諸句三昧。彼何謂無動三昧？住是定意時，不見一切諸三昧有震動者，是謂不動三昧。彼何謂度諸界三昧？住是定意時，一切三昧度諸邪反亦無差錯，順其正誼，是謂度諸界三昧。彼何謂分別諸德三昧？住是定意時，決一切諸法了眾生三昧，是謂分別諸德三昧。彼何謂所住究竟三昧？住是定意時，於一切定求於心本而不可得，是謂所住究竟三昧。彼何謂淨華嚴飾三昧？住是定意時，得諸三昧一切清淨普嚴諸華，是謂淨華嚴飾三昧。彼何謂覺意句三昧？住是定意時，一切三昧疾逮覺意，是謂覺意句三昧。彼何謂無量辯三昧？住是定意時，尋即逮得無量辯才隨行分別，是謂無量辯三昧。彼何謂等無等三昧？住是定意時，一切定逮得等無等三昧，能令諸邪皆至平等，是謂等無等三昧。彼何謂度一切諸法三昧？住是定意時，皆能越度一切三界，是謂度一切諸法三昧。彼何謂斷諸作三昧？住是定意時，見一切法諸三昧定，悉為斷絕之，是謂斷諸所作三昧。彼何謂無意無毀三昧？住是定意時，已逮諸定，得致諸法皆歸壞敗，是謂無意無毀三昧。彼何謂無所住三昧？住是定意時，不見諸法有所住處，是謂無所住三昧。彼何謂一清淨三昧？住是定意時，不見諸法而有二事，是謂一清淨三昧。彼何謂御諸事行三昧？住是定意時，不見諸法有因緣趣，是謂御諸事行三昧。彼何謂勝諸事三昧？住是定意時，一切三昧不覩二事，亦無所見，是謂勝諸事三昧。彼何謂除滅一切所有斷諸根三昧？住是定意時，於一切三昧滅除諸事而逮得慧，所入之處無所遭遇，是謂除滅一切所有斷諸根三昧。彼何謂入合隨音三昧？住是定意時，不隨三昧諸音聲，是謂入合隨音三昧。彼何謂度諸言字音聲三昧？住是定意時，則悉度脫一切諸行文字之事，亦無所見，是謂度諸言字音聲三昧。彼何謂熾盛光曜三昧？住是定意時，普照降伏光明惟曜，是謂熾盛光曜三昧。彼何謂諸相嚴淨三昧？住是定意時，莊嚴一切諸相功德，是謂諸相嚴淨三昧。彼何謂無相三昧？住是定意時，一切三昧永不覩一切相，是謂無相三昧。彼何謂一切具足三昧？住是定意時，一切所求普悉具足，是謂一切具足三昧。彼何謂不悅苦安三昧？住是定意時，不覩三昧一切苦安，是謂不悅苦安三昧。彼何謂無盡故三昧？住是定意時，於一切三昧，亦無有盡，亦無所見，是謂無盡故三昧。彼何謂總持句三昧？住是定意時，總持一切諸三昧事，是謂總持句三昧。彼何謂護諸正邪三昧？住是定意時，於諸三昧永不覩見正等與邪，是謂護諸正邪三昧。彼何謂滅除諸聲色無聲色三昧？住是定意時，於諸三昧一切不見有聲色，永無聲色，是謂滅除諸聲色無聲色三昧。彼何謂無音斷音三昧？住是定意時，見一切法無聲無音，是謂無音三昧。彼何謂離垢明三昧？住是定意時，不得一切三昧光明諸垢，是謂離垢明三昧。彼何謂要御三昧？住是定意時，不見諸三昧有要無要、有御無御，是謂要御三昧。彼何謂滿月離垢明三昧？住是定意時，一切平等具足成滿功德之福，譬如月盛滿十五日時，是謂滿月離垢明三昧。彼何謂大嚴淨三昧？住是定意時，皆悉平等無極清淨莊嚴普備，是謂大嚴淨三昧。彼何謂普照世間三昧？住是定意時，一切平等皆能光照一切諸法，是謂普照世間三昧。彼何謂普定意三昧？住是定意時，一切定亦無所亂、不得一心，是謂普定意三昧。彼何謂御空三昧？住是定意時，等御一切不樂法者而令得樂，是謂御空三昧。彼何謂御薩芸若空等御三昧？住是定意時，於一切御平等之事，亦無所御，是謂御薩芸若空等御三昧。彼何謂無青究竟無樂三昧？住是定意時，不得名號亦無所獲，是謂無青究竟無樂三昧。彼何謂住於無本無心三昧？住是定意時，住於諸三昧，普入無本，無所轉求，是謂住於無本無心三昧。彼何謂身時安詳三昧？住是定意時，於諸三昧永無所得亦無見身，是謂身時安詳三昧。彼何謂口言時壞除虛空念三昧？住是定意時，一切三昧不得口言之所歸趣，是謂口言時壞除虛空念三昧。彼何謂脫虛無無色三昧？住是定意時，逮得虛空，無為無數一切法寂，是謂脫虛無無色三昧。是為須菩提菩薩摩訶薩般若波羅蜜摩訶衍也。」

> 「では、何を『首楞嚴三昧（しゅりょうごんざんまい）』と呼ぶのか。その定意（じょうい）とは、あらゆる三昧（さんまい）の行（ぎょう）に入るものである。これを首楞嚴三昧という。何を『実印三昧（じついんざんまい）』と呼ぶのか。その時、この定意をもってすべての三昧に印を押す。これを実印三昧という。何を『師子娛樂三昧（ししごらくざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての定意を楽しみ味わう。これを師子娛樂三昧という。何を『善月三昧（ぜんがつざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、一切は平等にして何ものもない。これを善月三昧という。何を『月幢英三昧（がつどうえいざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、この定意をもってあらゆる三昧の幢（はた）をすべて掌握する。これを月幢英三昧という。何を『超一切法上三昧（ちょういっさいほうじょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべてが平等の境地に至る。これを一切法超上三昧という。何を『観頂三昧（かんじょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧の頂（いただき）を観じ見る。これを観頂三昧という。何を『分別法界三昧（ふんべつほっかいざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、あらゆる存在の法界を分別することができる。これを分別法界三昧という。何を『決了幢英三昧（けつりょうどうえいざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての定意が究極に達し、幢を掲げる。これを決了幢英三昧という。何を『金剛三昧（こんごうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、一切は平等にして破壊することができない。これを金剛三昧という。何を『入法印三昧（にゅうほういんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、たちまちすべての法印に入ることを得る。これを法印三昧という。何を『善住王三昧（ぜんじゅうおうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、一切の諸法は王三昧のうちに建立される。これを善住王三昧という。何を『放光明三昧（ほうこうみょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧が光明を放つ。これを放光明三昧という。何を『精進力三昧（しょうじんりきざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧は精進力によって発起される。これを精進力三昧という。何を『等度三昧（とうどざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧は平等に至る。これを等度三昧という。何を『順入言教三昧（じゅんにゅうごんきょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての声に応じて順に入ることを得る。これを順言教三昧という。何を『入諸言教三昧（にゅうしょごんきょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべては三昧の言教に従う。これを入言教三昧という。何を『照諸方面三昧（しょうしょほうめんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、あらゆる方面の定意を照らす。これを照諸方面三昧という。何を『総持印三昧（そうじいんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧の印を総持する。これを総持印三昧という。何を『無所奪三昧（むしょだつざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、たちまちすべての定意を忘れることがない。これを無所奪三昧という。何を『等御諸法海印三昧（とうぎょしょほうかいいんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、平等の働きを行い、よく摂め持ち、平等に御する。これを等御海印三昧という。何を『普遍虚空三昧（ふへんこくうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧は虚空に普遍し、至らない所がない。これを普遍虚空三昧という。何を『金剛道場三昧（こんごうどうじょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意三昧に安住する時、すべての定意の道場を総持する。これを金剛道場三昧という。何を『勝諸宝三昧（しょうしょほうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての塵や垢を除き去り、諸々の欲望は欠点となり得ない。これを勝諸宝三昧という。何を『照明三昧（しょうみょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意三昧に安住する時、すべての平等を成し遂げ、諸々の道を照らし出すことがなくなる。これを照明三昧という。何を『不眴三昧（ふじゅんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧において諸法を求めない。これを不眴三昧という。何を『不究竟住三昧（ふくきょうじゅうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、三界に住する諸法を見ない。これを不究竟住三昧という。何を『決了三昧（けつりょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、心もなく念もなく、法の趣く所もない。これを決了三昧という。何を『離垢明三昧（りくみょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧が互いに照らし合う。これを離垢明三昧という。何を『無量光三昧（むりょうこうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、その光明は照らさない所がない。これを無量光三昧という。何を『造所為光三昧（ぞうしょういこうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、もし三昧を得れば、すべての定意が光明を放つ。これを造所為光三昧という。何を『普照三昧（ふしょうざんまい）』と呼ぶのか。この定を得れば、すべての三昧の門が自然に光を放つ。これを普照三昧という。何を『御諸浄三昧（ぎょしょじょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、たちまちすべての三昧の清らかな平等を得る。これを御諸浄三昧という。何を『離垢光三昧（りくこうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧においてすべての垢を除き、灰のごとく尽きさせる。これを離垢光三昧という。何を『所娯楽三昧（しょごらくざんまい)』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧を楽しみ味わう。これを所娯楽三昧という。何を『慧燈明三昧（えとうみょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧を照らし明らかにする。これを慧燈明三昧という。何を『無尽三昧（むじんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧において尽きることもなく、尽きないのでもなく、尽きるとも尽きないとも見ない。これを無尽三昧という。何を『威神句三昧（いじんくざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、一切は平等にして、その威神は高く広大で、光が遠くを照らす。これを威神句三昧という。何を『除諸尽三昧（じょしょじんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧はすべて尽きることがないと見る。しかし本（もと）がないのを見て、見るものもない。これを除諸尽三昧という。何を『無特異三昧（むとくいざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、一切は平等にして執着せず、念じず、苦しみもなく、因縁もない。これを無特異三昧という。何を『開通三昧（かいつうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸法に通達するところがあるとも、また顛倒があるとも見ない。これを開通三昧という。何を『日燈明三昧（にちとうみょうざんまい)』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧の門を開き放ち、光明を奮い起こす。これを日燈明三昧という。何を『離月垢三昧（りがっくざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧において光をもって闇を除く。これを離月垢三昧という。何を『清浄燈明三昧（しょうじょうとうみょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧において、すべての四つの分別の弁を普く護る。これを清浄燈明三昧という。何を『有所照曜三昧（うしょしょうようざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧の門を照らし明らかにする。これを有所照曜三昧という。何を『所造作三昧（しょぞうさざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧に向かってなすべきことを成し遂げる。また、この所造作三昧の定が立てられる時、すべての三昧の慧の精髄を普く見る。これを所造作三昧という。何を『金剛喩三昧（こんごうゆざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての作られた諸法を滅し除き、もはや諸々の苦しみや悩みの患いを見ない。これを金剛喩三昧という。何を『心住三昧（しんじゅうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、心は動かず、開かず閉じず、照らさず、生じる所を見ず、『この心がある』とも言わない。これを心住三昧という。何を『普世三昧（ふせざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧の定を普く見て、照らさない所がない。これを普世三昧という。何を『善志住三昧（ぜんしじゅうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべてを普く安んじ、諸々の三昧を安立する。何を『宝積三昧（ほうしゃくざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧は宝を積んだものであると普く見る。これを宝積三昧という。何を『勝法印三昧（しょうほういんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸法を平等に印し、まだ印を得ないものも、すべて印が印されるのを見て、ことごとく究尽することができる。これを勝法印三昧という。何を『法平等三昧（ほうびょうどうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸法が平等であるとも、険しい道であるとも見ない。これを法平等三昧という。何を『勝娯楽三昧（しょうごらくざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての楽しまれる法を降伏する。これを勝娯楽三昧という。何を『度諸法頂三昧（どしょほうちょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての法の上を調え定め、さらに諸々の三昧をすべて越え渡る。これを度諸法頂三昧という。何を『壊除三昧（えじょざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧を除き、すべての法を壊す。これを壊除三昧という。何を『分別諸法三昧（ふんべつしょほうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧をすべて分別し、すべての法の句を了解する。これを分別諸法三昧という。何を『等造文字三昧（とうぞうもんじざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、三昧を分別了解して、平等な文字を作り出す。これを等造文字三昧という。何を『除諸文字三昧（じょしょもんじざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧において、一つとして文字もなく、得る所もない。これを除諸文字三昧という。何を『除断因縁三昧（じょだんいんねんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧の縁を断ち、もろもろの乱れがない。これを除断因縁三昧という。何を『無所作三昧（むしょさざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸法に作為するところがあることを得ず、また造る所もない。これを無所作三昧という。何を『離所作三昧（りしょさざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸法の因縁によって造られた所を得ない。これを離所作三昧という。何を『不究竟行三昧（ふくきょうぎょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧の行の究極の辺際を得ない。これを不究竟行三昧という。何を『除諸冥三昧（じょしょみょうざんまい)』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧は諸々の闇を除き、諸々の乱れを滅尽して清浄にする。これを除諸冥三昧という。何を『行諸句三昧（ぎょうしょくざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧の行を普く見る。これを行諸句三昧という。何を『無動三昧（むどうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧に震動するものがあることを見ない。これを不動三昧という。何を『度諸界三昧（どしょかいざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧は諸々の誤った反逆を渡し越え、過ちがなく、その正しい義に従う。これを度諸界三昧という。何を『分別諸徳三昧（ふんべつしょとくざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての法を判定し、衆生の三昧を了解する。これを分別諸徳三昧という。何を『所住究竟三昧（しょじゅうくきょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての定において心の本を求めても、得ることができない。これを所住究竟三昧という。何を『浄華厳飾三昧（じょうけごんしょくざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧を得て、すべて清浄になり、普く諸々の華を厳しく飾る。これを浄華厳飾三昧という。何を『覚意句三昧（かくいくざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧は速やかに覚意に到達する。これを覚意句三昧という。何を『無量弁三昧（むりょうべんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、たちまち無量の弁才を得て、行いに随って分別する。これを無量弁三昧という。何を『等無等三昧（とうむとうざんまい)』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての定は等無等の三昧を得て、諸々の邪をすべて平等に至らせることができる。これを等無等三昧という。何を『度一切諸法三昧（どいっさいしょほうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三界を越え渡ることができる。これを度一切諸法三昧という。何を『断諸作三昧（だんしょさざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての法と諸々の三昧の定を見て、ことごとくそれを断ち絶つ。これを断諸所作三昧という。何を『无意無毀三昧（むいむきざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すでに諸々の定に到達し、諸法をすべて壊れ敗れるものとすることを得る。これを无意無毀三昧という。何を『無所住三昧（むしょじゅうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸法に住する所があることを見ない。これを無所住三昧という。何を『一清浄三昧（いちしょうじょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸法に二つのことがあるのを見ない。これを一清浄三昧という。何を『御諸事行三昧（ぎょしょじぎょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸法に因縁の趣く所があることを見ない。これを御諸事行三昧という。何を『勝諸事三昧（しょうしょじざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧において二つのことを見ず、また見る所もない。これを勝諸事三昧という。何を『除滅一切所有断諸根三昧（じょめついっさいしょいうだんしょこんざんまい)』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧において諸々の事を滅除して慧を得る。入るところの境遇もない。これを除滅一切所有断諸根三昧という。何を『入合随音三昧（にゅうごうずいおんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、三昧の諸々の音声に従わない。これを入合随音三昧という。何を『度諸言字音声三昧（どしょごんじおんじょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての行われる文字の事をことごとく解脱させ、また見る所もない。これを度諸言字音声三昧という。何を『熾盛光曜三昧（しじょうこうようざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、普く照らし、光明が盛んに輝くことを降伏する。これを熾盛光曜三昧という。何を『諸相厳浄三昧（しょそうごんじょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての相の功徳を荘厳する。これを諸相厳浄三昧という。何を『無相三昧（むそうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧は永遠に一切の相を見ない。これを無相三昧という。何を『一切具足三昧（いっさいぐそくざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての求めるものは普くことごとく満たされる。これを一切具足三昧という。何を『不悦苦安三昧（ふえつくあんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、三昧の一切の苦しみや安らぎを見ない。これを不悦苦安三昧という。何を『無尽故三昧（むじんこざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧において、尽きることもなく、見る所もない。これを無尽故三昧という。何を『総持句三昧（そうじくざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧の事を総持する。これを総持句三昧という。何を『護諸正邪三昧（ごしょしょうじゃざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧において永遠に正と邪を見ない。これを護諸正邪三昧という。何を『滅除諸声色無声色三昧（めつじょしょしょうしきむしょうしきざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧において、声や色があることを一切見ず、永遠に声や色がない。これを滅除諸声色無声色三昧という。何を『無音断音三昧（むおんだんおんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての法に声がなく音がないと見る。これを無音三昧という。何を『離垢明三昧（りくみょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、一切の三昧の光明や垢を得ない。これを離垢明三昧という。何を『要御三昧（ようぎょざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧に要があるともないとも、御があるともないとも見ない。これを要御三昧という。何を『満月離垢明三昧（まんげつりくみょうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、一切は平等に、功徳の福を満たし成し遂げる。たとえば十五日の満月が盛んに満ちるようなものである。これを満月離垢明三昧という。何を『大厳浄三昧（だいごんじょうざんまい)』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべては平等にして、極めて清らかで、荘厳が普く備わる。これを大厳浄三昧という。何を『普照世間三昧（ふしょうせけんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、一切は平等にして、すべての法を光照することができる。これを普照世間三昧という。何を『普定意三昧（ふじょういざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての定も乱れるところがなく、一心を得ることもない。これを普定意三昧という。何を『御空三昧（ぎょくうざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、法を楽しまない者を等しく御して、楽しみを得させる。これを御空三昧という。何を『御薩芸若空等御三昧（ぎょさうんじゃくうとうぎょざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての御する平等の事において、御する所もない。これを御薩芸若空等御三昧という。何を『無青究竟無楽三昧（むしょうくきょうむらくざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、名号を得ることなく、得る所もない。これを無青究竟無楽三昧という。何を『住於無本無心三昧（じゅうおむほんむしんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧に住し、無本に普く入り、転じて求める所もない。これを住於無本無心三昧という。何を『身時安詳三昧（しんじあんじょうざんまい)』と呼ぶのか。この定意に安住する時、諸々の三昧において永遠に得る所がなく、身を見ることもない。これを身時安詳三昧という。何を『口言時壊除虚空念三昧（くごんじえじょこくうねんざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、すべての三昧は口の言葉の帰趣するところを得ない。これを口言時壊除虚空念三昧という。何を『脱虚無無色三昧（だつこむむしきざんまい）』と呼ぶのか。この定意に安住する時、虚空を得て、作られることがなく、数えることもなく、すべての法は寂滅している。これを脱虚無無色三昧という。これが、須菩提よ、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜の摩訶衍である。」

## 光讚經卷第六