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  1. 大乗止観法門釈要 (大乘止觀法門釋要)
  2. 第1巻 (第一)
  3. 二廣作分別
  4. 一明止觀依止
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大乗止観法門釈要 (大乘止觀法門釋要)


△三解釋。即為五。初明止觀依止(至)五明止觀作用。初中二。初分科。二各釋。今初。

「三」の解説は、五つの部分に分かれます。 まず初めに、止観のよりどころを明かし、(…に至るまで)第五に止観のはたらきを明かします。 初めの部分はさらに二つに分かれます。 初めに項目を分け、次にそれぞれを解説します。 今、これより初めの項目を述べます。

就第一依止中復作三門分別。一明何所依止。二明何故依止。三明以何依止。

第一の「依止」については、さらに三つの観点から説明します。第一に、何に依止するのかを明らかにします。第二に、なぜ依止するのかを明らかにします。第三に、どのように依止するのかを明らかにします。

△二各釋。即為三。初明何所依止(至)三明以何依止。初中二。初標列。二釋成。今初。

△二 各々の釈。すなわち三つとなる。最初に何に依止するかを明かし、次に何のために依止するかを明かし、三番目に何をもって依止するかを明かす。初めの章は二つに分かれる。初めに標列し、次に釈成する。今、初めである。

初明何所依止者。謂依止一心以修止觀也。就中復有三種差別。一出眾名。二釋名義。三辨體狀。

最初に、何によって止観を修するのかというと、ただ一つの心によって修する。この中にも、さらに三つの違いがある。第一に、様々な呼び名を示し、第二に、その意味を解き明かし、第三に、その本質と形を明らかにする。

先標一心。次列三別也。一心即指吾人現前一念介爾之心。其性元與諸佛及眾生等。所謂三無差別。蓋既全真成妄。即復全妄是真。故名一心。非於妄心之外別立一真心也。譬如指即波之水性即漚之海性耳。

まず「一心」を示し、次に「三別」を列挙します。一心とは、私たち一人ひとりが今この瞬間に抱く、ほんのわずかな一念の心を指します。その本質は、本来、すべての仏や众生と等しく、いわゆる「三つの差別がない」状態です。つまり、真実がすべて迷いへと変わることで、その迷いこそが真実であるとも言えるのです。このため「一心」と呼ばれ、迷いの心の外に別に真実の心を立てるのではありません。たとえば、波の本性が水そのものであり、泡の本性が海そのものであるのと同じです。

△二釋成。即為三。初出眾名。二釋名義。三辨體狀。今初。

2.説明を完成する。そのために、三つの段階に分ける。 第一に、様々な名前を挙げる。 第二に、名前の意味を説明する。 第三に、その本質と形を示す。 今、第一の段階について述べる。

初出眾名者。此心即是自性清淨心。又名真如。亦名佛性。復名法身。又稱如來藏。亦號法界。復名法性。如是等名無量無邊。故言眾名。

最初に「衆名」と説かれているのは、この心がすなわち自性清浄心であり、また真如とも呼ばれ、仏性とも名づけられ、さらに法身とも称され、如来蔵とも呼ばれ、また法界とも号し、さらに法性とも名づけられるからです。このようにその名は無量無辺であるため、「衆名」と言うのです。

此略列七種名以為釋義之本也。

ここでは、簡単に七つの名前を挙げて、その意味を説明するための基本とします。

△二釋名義三。初標章。二廣釋。三結成。今初。

**第一に、名称の意味を説明する。この部分は三節からなる。第一節で項目を掲げ、第二節で詳しく解説し、第三節でまとめる。今、第一節を述べる。**

次辨釋名義。

次に、その名前の意味を解説します。

△二廣釋為七。初釋自性清淨心(至)七釋法性。今初。

△二、広く説明して七つとする。初めに自性清浄心を釈し、最後に七つ目で法性を釈く。今、初めを示す。

問曰。云何名為自性清淨心耶。答曰。此心無始以來雖為無明染法所覆。而性淨無改。故名為淨。何以故。無明染法本來與心相離故。云何為離。謂以無明體是無法。有即非有。以非有故。無可與心相應。故言離也。既無無明染法與之相應。故名性淨。中實本覺。故名為心。故言自性清淨心也。

問うて曰く、何をか自性清浄心と名づくるや。

答えて曰く、この心は無始以来、無明の染法に覆われているといえども、その性は清浄にして変わることなし。ゆえに清浄と名づく。何以故。無明の染法は、もとより心と相離れているがゆえなり。

「離れる」とは何をかいう。すなわち、無明の体は無なる法にして、有と言えども非有なり。非有なるがゆえに、心と相応すべきものなし。故に「離れる」というなり。

すでに無明の染法、これと相応するものなし。故に性清浄と名づく。その中に実に本覚あり。故に心と名づく。ゆえに自性清浄心というなり。

言此現前一念心之自性。自從無始以來雖被無明染法所覆。而清淨如故。性不可改。譬如虗空雖被狂華於中起滅。而空性無改。以彼狂華體非有故。不得言其與空相應。是名離也。非如兩物異處而名離也。言中實本覺者。性非有無。名之為中。不同空之對有得名。理非虗謬。名之為實。不同空之因色顯發。元無不覺。名為本覺。不同空之晦昧無知。故但可以空為喻。不可認空為心。

ここに説く「現在の一瞬の心の自性」について、無始の昔から無明という汚れに覆われてきたとはいえ、その清らかさは元のままであり、その性質が変わることはない。たとえば虚空が、風に舞う花々の中に現れては消えていくとしても、虚空そのものの性質は変わらない。その花々は実体がないからであり、虚空と「相応する」とは言えない。これを「離れる」と名づけるのである。だが、これは二つの物が別々の場所にあるから「離れる」と言うのではない。

ここで「中実本覚」とは、本性が有無のいずれでもないことを「中」と名づける。これは虚空が「有」に対するものとして「空」と名づけられるのとは異なる。その理が虚偽でないことを「実」と名づける。虚空が形あるものによって現れるのとは異なる。本来、無明がないことを「本覚」と名づける。虚空が曖昧で無知であるのとは異なる。したがって、虚空をたとえとすることはできても、虚空をそのまま心と見なしてはならない。

△二釋真如。

「真如」について解説します。

問曰。云何名為真如。答曰。一切諸法依此心有。以心為體望於諸法。法悉虗妄。有即非有。對此虗偽法故目之為真。又復諸法雖實非有。但以虗妄因緣而為生滅之相。然彼虗法生時此心不生。諸法滅時此心不滅。不生故不增。不滅故不減。以不生不滅不增不減故名之為真。三世諸佛及以眾生。同以此一淨心為體。凡聖諸法自有差別異相。而此真心無異無相。故名之為如。又真如者。以一切法真實如是。唯是一心。故名此一心以為真如。若心外有法者。即非真實。亦不如是。即為偽異相也。是故起信論言。一切諸法從本已來。離言說相。離名字相。離心緣相。畢竟平等。無有變異。不可破壞。唯是一心。故名真如。以此義故。自性清淨心復名真如也。

問うていわく、いかなるものを真如と名づくるや。

答えていわく、一切の諸法はこの心によって有り。心を体として諸法に望むに、法はことごとく虚妄にして、有といえども非有なり。この虚偽の法に対して、これを真と名づく。また、もろもろの法は実に非有なれども、ただ虚妄の因縁によって生滅の相をなす。しかれども、その虚の法の生ずる時、この心は生ぜず、諸法の滅する時、この心は滅せず。生ぜざるゆえに増さず、滅せざるゆえに減ぜず。生ぜず滅せず、増さず減ぜざるをもって、これを真と名づく。

三世の諸仏および衆生、みなこの一つの浄き心を体とす。凡聖の諸法はおのずから差別の異相ありといえども、この真心には異もなく相もなし。ゆえにこれを如と名づく。

また、真如とは、一切の法が真実にしてかくのごとく、ただ一心のみなり。ゆえにこの一心を真如と名づく。もし心の外に法あらば、すなわち真実に非ず、またかくのごとくにも非ず。すなわち偽にして異相なり。

このゆえに起信論に言わく、「一切の諸法は、本よりこのかた、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして変異なく、壊すべからず。ただ一心のみなり。これを真如と名づく」と。この義をもって、自性清浄心をまた真如と名づく。

初兩番釋真。次一番釋如。次一番合釋真如也。真者不妄。如者不異。初釋真者。一切諸法種種差別悉是虗妄偽相。心則即差別而非差別。如金即器。器有差別。金性無差。器相是偽。金體是真也。又釋真者。諸法虗妄因緣生滅。心則即生滅而不生滅。如金即器。器有成壞。金無成壞。成壞即是生滅增減之妄。無成壞者名為真也。次一番釋如者。舉凡聖之萬殊。同真心之一體。體非有二。故言無異。相惟實相。故言無相。次合釋真如者。心外無法。法惟是心。真實如是故名真如。引論證成在文易見。

まず最初に「真」を解き明かし、次に「如」を説き、最後に両者を合わせて「真如」を明らかにします。「真」とは偽りのないこと、「如」とは異ならないことです。

初めに「真」を解き明かすと、あらゆる現象は様々に異なって見えますが、全て虚偽の仮の姿に過ぎません。心(真如)は、その違いを帯びつつも、本来は違いのないものなのです。例えば、金から様々な器物が作られても、金そのものに違いはなく、器の形は仮のものであり、金の本質こそが真実です。

さらに「真」を解き明かすと、すべての現象は因縁によって生じたり滅したりする虚妄なものですが、心は生滅の只中にあっても、本来は生滅しないものなのです。先の例のように、器物はできたり壊れたりしますが、金そのものに壊れることはありません。この「できたり壊れたりする」というのが、生滅・増減という虚妄であり、壊れることのないものを「真」と呼びます。

次に「如」を解き明かすと、凡夫から聖者に至るまで無数の違いがありますが、それらは全て真実の心という一つの体に帰します。体は二つではないので「異ならない」と言い、その姿は真実の姿そのものであるから「姿がない」と言います。

最後に「真如」を合わせて解き明かすと、心の外に現象はなく、現象は全て心にほかなりません。真実がそのままの姿であるから、これを「真如」と名付けます。論書の引用による証明は本文を見れば明らかです。

△三釋佛性二。初略釋。二廣辨。今初。

三、仏性の解釈。まず初めに簡略に説明し、次に広く詳しく論じる。今はその初めの部分である。

問曰。云何復名此心以為佛性。答曰。佛名為覺。性名為心。以此淨心之體非是不覺。故說為覺心也。

問うて曰く、何をもってまたこの心を仏性と名づくるや。答えていわく、仏は覚と名づけ、性は心と名づく。この清らかな心の本体は、不覚にあらざるがゆえに、覚心と説くなり。

△二廣辨三。初約不覺辨。二約覺辨。三釋餘疑。初中二。初直明心非不覺。二雙顯。二佛性義。今初。

まず、迷いについて詳しく説明します。大きく三つの部分に分けられます。第一に「迷いの状態」について、第二に「目覚めの状態」について、第三に残された疑問についてです。

第一の「迷いの状態」の説明は、さらに二つに分けられます。まず、心そのものは本来迷いではないことを直接明らかにします。次に、二つの側面から「仏性」の意味を明らかにします。

ここからが、その最初の部分です。

問曰。云何知此真心非是不覺。答曰。不覺即是無明住地。若此淨心是無明者。眾生成佛無明滅時應無真心。何以故。以心是無明故。既是無明自滅。淨心自在。故知淨心非是不覺。又復不覺滅故方證淨心。將知心非不覺也。

問うていわく、いかんしてこの真心は不覚にあらざることを知るや。 答うていわく、不覚すなわち無明住地なり。もしこの浄心が無明ならば、衆生成仏して無明の滅するとき、真心あるべからず。なんとなれば、心は無明なるがゆえなり。すでに無みずから滅すれば、浄心はおのずからあり。ゆえに知る、浄心は不覚にあらざることを。また不覚の滅するがゆえに、かたじけなくも浄心を証す。まさに知る、心は不覚にあらざることを。

無明自滅淨心自在。乃約在纏真如以明非是不覺。不覺滅故方證淨心。乃約出纏真如以明非是不覺。此心雖有在纏出纏之異。而元非不覺則同也。

無明がおのずから滅し、清らかな心が自在となる。これは、煩惱に束縛されたままの真如について説き、それが「無明(気づきのなさ)」ではないことを明かしている。「無明」が滅したからこそ清らかな心を証得する。これは、煩惱を脱した真如について説き、それが「無明」ではないことを明かしている。この心には、煩惱に束縛された状態と脱した状態の違いがあるが、もともと無明ではないという点では同じである。

△二雙顯。二佛性義。

二つの側面を明確に示します。それが仏性の意味です。

問曰。何不以自體是覺名之為覺。而以非不覺故說為覺耶。答曰。心體平等非覺非不覺。但為明如如佛故擬對說為覺也。是故經言。一切無涅槃。無有涅槃佛。無有佛涅槃。遠離覺所覺。若有若無有。是二悉俱離。此即偏就心體平等說也。若就心體法界用義以明覺者。此心體具三種大智。所謂無師智。自然智。無礙智。是覺心體本具此三智性。故以此心為覺性也。是故須知同異之義。云何同。謂心體平等即是智覺。智覺即是心體平等。故言同也。復云何異。謂本覺之義是用。在凡名佛性。亦名三種智性。出障名智慧佛也。心體平等之義是體。故凡聖無二唯名如如佛也。是故言異。應如是知。

問うていわく、なぜ自らの体がそのまま覚であることをもって覚と名づけず、不覚にあらざることをもって覚と説くのですか。

答えていわく、心の体は平等にして、覚にあらず不覚にあらず。ただし、如如の仏を明らかにするがゆえに、対して覚と説くのである。このゆえに経に言う、「一切に涅槃なし、涅槃ある仏なし、仏ある涅槃なし、覚と所覚とを遠離す。有もしくは無有、この二つはともに離る」と。これはひとえに心の体の平等について説くものである。

もし心の体の法界の用の義に即して覚を明らかになすならば、この心の体には三種の大智を具える。いわゆる無師智、自然智、無礙智である。この心の体はもとよりこの三智の性を具えるがゆえに、この心をもって覚性となすのである。このゆえに、同異の義を知るべし。

いかにして同なるか。心の体の平等すなわち智覚であり、智覚すなわち心の体の平等である。ゆえに同と説く。

またいかにして異なるか。本覚の義は用であり、凡夫に在っては仏性と名づけ、また三種の智性と名づく。障りを出でては智慧仏と名づく。心の体の平等の義は体であり、ゆえに凡聖の差なく唯一、如如仏と名づく。ゆえに異と説く。かくのごとく知るべきである。

問意單取覺義。答則雙非二邊。然心體實非覺與不覺。亦得說為覺者。以具如如佛及智慧佛二義故也。約如如佛則非覺非不覺。然既稱佛亦可強名為覺矣。約智慧佛既具三智之用。便可直稱為覺也。無師智即一切智。了達十界一相不繇他悟故。自然智即道種智。了達三千性相無量差別不繇作意故。無礙智即一切種智。了達一相無相無相無不相。一一相中具見一切諸法真實之相。究盡邊底無障蔽故。又無師智者謂一切智等三智一心中得不從他授故。自然智者謂一心法爾具足三智故。無礙智者謂一切智三諦俱空。道種智三諦皆假。一切種智三諦並中。無隔礙故。夫如如佛與智慧佛。全體即用全用即體。安得非同。但智慧佛凡夫但有其性未彰其用。而如如佛在凡不減在聖不增。安得非異。又復應知智慧佛性。凡夫用雖不彰而性元無減。如如佛性。凡夫體雖無減而迷不自覺。則異仍非異。直是非同非異。說有同異之義耳。

意味を問うときは、覚(さとり)の概念だけを取り上げて説明するが、答えは「覚」と「不覚」という二つの対立する立場を同時に否定するものである。しかしながら、心の本体は実際には「覚」でも「不覚」でもない。それにもかかわらず、「覚」であると説くことができるのは、心が「如如仏(にょにょぶつ)」と「智慧仏(ちえぶつ)」という二つの性質をそなえているからである。 「如如仏」の立場から見れば、「覚」でも「不覚」でもない。しかし、「仏」と称されるからには、無理に「覚」と名づけることもできる。 「智慧仏」の立場から見れば、すでに三種の智慧(一切智・道種智・一切種智)の働きをそなえているので、そのまま「覚」と呼ぶことができるのである。 「無師智(むしち)」とは、すなわち「一切智(いっさいち)」であり、十界が一つの相であることを、他からの悟りによらずに自ら了達する智慧である。 「自然智(じねんち)」とは、すなわち「道種智(どうしゅち)」であり、三千の性相(性質と姿)に無量の差異があることを、作意(わざとらしい努力)によらずに了達する智慧である。 「無礙智(むげち)」とは、すなわち「一切種智(いっさいしゅち)」であり、一相は無相であり、無相は無不相であることを了達し、一つ一つの相の中に、あらゆる諸法の真実の相をことごとく見通し、その極みにまで達して、障りや蔽いがまったくない智慧である。 また、「無師智」とは、一切智などの三智を一つの心のうちに得て、他から授けられることがない智慧という意味である。 「自然智」とは、心が法爾(おのずから)として三智をそなえている智慧という意味である。 「無礙智」とは、一切智が三諦(空・仮・中)すべてを空と見、道種智が三諦すべてを仮と見、一切種智が三諦すべてを中と見ることに、何の隔たりもない智慧という意味である。 さて、「如如仏」と「智慧仏」とは、その全体が即ち用であり、その用が即ち体である。どうして同一でないことがあろうか。しかしながら、「智慧仏」については、凡夫はただその性質をそなえているだけで、その働きを現していない。一方、「如如仏」は、凡夫の状態においても減ぜず、聖者の状態においても増さない。どうして異ならないことがあろうか。 さらに、次のようにも理解すべきである。「智慧仏」の性質は、凡夫においてその働きは顕れていないが、その性質は元来少しも減じていない。「如如仏」の性質は、凡夫においてその体は少しも減じていないが、迷っているために自ら覚ることがない。そうであれば、その「異」はなお「異」ではない。 まさに、同一でもなく、異なるのでもない。ただ、あえて同一や異なるという義を説いているにすぎないのである。

△二約覺辨四。初辨智慧佛性。二辨報應佛性。三辨出障佛性。四辨平等佛性。智慧佛即自受用報身。報佛即他受用報身。應佛即勝劣二應及隨類應身。出障即果頭法身。平等即在纏法身。如此單複三身。諸佛咸以淨心為性。故皆得名為覺也。初中三。初雙許二義。二約修廣釋。三舉喻結成。今初。

智慧の仏については、これは自受用報身のことを指します。 報仏は他受用報身のことです。 応仏とは、勝応身・劣応身、およびそれに随って現れる応身のことを言います。 「出障」とは、煩悩を離れた果上の法身のことです。 「平等」とは、煩悩の中にある本性としての法身を指します。 このように単独または複合の三身について言うならば、すべての仏は清らかな心をその本性としています。 そのため、それらはすべて「覚り」と呼ばれるのです。 (このうち智慧の仏についての説明は三段に分かれます。第一に、二つの意味を同時に認めること。第二に、修行の観点から詳しく説明すること。第三に、たとえ話を用いて結論づけること。これが最初の段階です。)

問曰。智慧佛者。為能覺淨心故名為佛。為淨心自覺故名為佛。答曰。具有二義。一者覺於淨心。二者淨心自覺。雖言二義體無別也。

問う:智慧の仏とは、清らかな心を覚るから仏というのでしょうか。それとも、清らかな心が自ら覚るから仏というのでしょうか。 答え:この二つの意味を共に備えています。第一に、清らかな心を覚ること。第二に、清らかな心が自ら覚ること。二つの意味を挙げましたが、その本質に違いはありません。

△二約修廣釋二。初約迷真起妄成不覺義。次約返妄歸真具二覺義。初中四。初明二熏。二出名相。三明互依。四結流轉。今初。

修行の観点から広くこれを解き明かすことについて、二つの段階がある。第一に、真実に迷い妄想を起こして、さとりのない状態となる意味を述べる。第二に、妄想から真実に帰って、二通りのさとりの意味を備えることを述べる。

第一の段階には四つの部分がある。 第一に、二つの熏習(働きかけ)を明らかにする。 第二に、名前や形を示す。 第三に、互いに依存し合うことを明らかにする。 第四に、迷いの流れ続けることをまとめる。

今、第一の部分を述べる。

此義云何。謂一切諸佛本在凡時。心依熏變不覺自動顯現虗狀。虗狀者即是凡夫五陰及以六塵。亦名似識.似色.似塵也。似識者即六七識也。由此似識念念起時即不了知似色等法。但是心作虗相無實。以不了故妄執虗相以為實事。妄執之時即還熏淨心也。

この意味は、どのようなものなのでしょうか。

それは、すべての諸仏が、もともと凡夫であった時、心が熏習(くんじゅう)によって変わり、無自覚のうちに動き出し、虚ろな状態を現し示したのです。この虚ろな状態こそが、凡夫の五陰(ごおん)と六塵(ろくじん)です。また、これを似識(にしき)・似色(にじき)・似塵(にじん)とも呼びます。似識とは、第六意識と第七末那識のことです。この似識が瞬間ごとに生じる時、人は似色などの諸法をありのままに知ることができません。ただ心が作り出した虚ろな相であり、実体がないことを知らないのです。知らないがゆえに、妄りに虚ろな相を執着して、実在の事柄だと思い込みます。妄りに執着する時、それはまた清らかな心を熏習するのです。

初言心依熏變等者。謂一真如心雖復體嘗不變。然法爾有隨緣之能。繇其從未悟故。不免依熏而變。繇其但有性德未有修德。不覺念起妄為明覺。此明覺者即是無明。無明一動三細六粗遂具。名為顯現虗狀。所謂五陰六塵是也。受想行識名似識。色陰名似色。六塵名似塵。皆言似者。一心所現虗妄影狀無實體故。塵即是色不言可知。識即前六識及第七識。此七皆無別體。依心而起如水起波故也。此明根本無明熏變力也。次言由此似識念念等者。妄執秖是見思。亦名枝末無明。繇此無明增上熏力。令本淨心錮蔽五濁變作住地無明。此明枝末無明熏變力也。

初めに「心は熏習と変化に依る」等と言うのは、一真如心はその体は常に変わらないものの、法爾として縁に随う力があることを意味する。未だ悟っていない状態であるため、どうしても熏習によって変化を免れない。また、性徳のみあって修徳がないため、無意識に念が起こり、誤って明覚と為す。この明覚こそ無明である。無明が一度動けば、三細と六粗が具わり、虚ろな姿として現れる。いわゆる五陰と六塵である。受・想・行・識は似識と呼ばれ、色陰は似色、六塵は似塵と呼ばれる。「似」と言うのは、一心から現れた虚妄な影に過ぎず、実体がないからである。塵は色であるから言うまでもなく、識とは前六識と第七識を指す。これら七識には別体がなく、心に依って起こり、水に波が立つようなものである。これは根本無明の熏習による変化の力を明かしている。

次に「これにより似識が念念と…」等と言うのは、妄執は見思に過ぎず、枝末無明とも呼ばれる。この無明の増上の熏習力によって、本来清らかな心が五濁に閉ざされ、住地無明へと変わる。これは枝末無明の熏習による変化の力を明かしている。

△二出名相。

次に、二つの名相(名称とその意味するところ)を示します。

然似識不了之義。即是果時無明。亦名迷境無明。是故經言。於緣中癡故。似識妄執之義即是妄想。所執之境即成妄境界也。以果時無明熏心故令心不覺。即是子時無明。亦名住地無明也。妄想熏心故令心變動。即是業識。妄境熏心故令心成似塵種子。似識熏心故令心成似識種子。此似塵.似識二種種子。總名為虗狀種子也。

「しかし、「似識(しき)」が対象を認識できないというのは、果報の時における無明であり、また「迷いの対象としての無明」とも呼ばれます。そのため経典には「縁(えん)に対して愚かであるから」と説かれています。

「似識」が対象を誤って執着するというのは、妄想(もうそう)です。執着される対象が、すなわち妄境界(もうきょうかい)となります。

果報の時における無明が心を熏習(くんじゅう)するために、心をして覚醒させないようにする。これが「子時(しじ)の無明」であり、また「住地(じゅうじ)の無明」とも呼ばれます。

妄想が心を熏習するために、心をして動揺・変化させる。これが業識(ごうしき)です。

妄境界が心を熏習するために、心をして塵(じん)に似た種子を生じさせます。「似識」が心を熏習するために、心をして「似識」の種子を生じさせます。この「塵に似た種子」と「似識の種子」という二種の種子を、総じて「虚状(こじょう)の種子」と呼びます。」

先明似識不了之義。名為果時迷境。無明即界內十二因緣中無明支也。亦名為癡。以不了境虗故。於三漏中即無明漏。其餘見惑及三界思惑名為欲漏.有漏。次明似識妄執之義即是妄想。所謂三界見思惑也。次明所執之境成妄境界。心若不執。境界本虗也。次明迷境無明還熏淨心。令彼淨心成不覺義。此以枝末無明轉熏根本無明成現行也。次明見思妄想還熏淨心。令彼淨心舉體變動。名為業識。此以六七識現行轉熏阿梨耶識成現行也。又以妄境熏心即成似塵種子。謂阿梨耶中具有十一色法之種子故。以似識熏心即成似識種子。謂阿梨耶中具有前七識及諸心所之種子故。雖有二種種子。同一虗狀別無實體。不過全攬一心以為體耳。

まず、「似識」が「了(了知)」できないという「境」を迷うことを「果時の迷境」と呼ぶ。 「無明」とは、十二因縁のうちの「無明支」のことである。また、「癡」とも呼ばれる。境が虚(むな)しいことを了知できないからである。三漏のうちでは「無明漏」に当たる。その他の見惑や三界の思惑は「欲漏」「有漏」と呼ばれる。

次に、「似識」による誤った執着の意味は「妄想」である。これは、いわゆる三界の見惑・思惑を指す。

次に、執着される対象である「境」が成立して「妄境界」となる。心が執着しなければ、境はもともと虚しいものである。

次に、境を迷う「無明」がさらに「浄心」を熏習(くんじゅう)し、その浄心をして「不覚」の意味を成すようになる。これは、枝末の無明が根本無明を転じて熏習し、現行となったものである。

次に、見惑・思惑の「妄想」がさらに浄心を熏習し、その浄心の全体を変動させることを「業識」と呼ぶ。これは、第六識・第七識の現行が転じて阿頼耶識を熏習し、現行となったものである。

また、妄境界が心を熏習すれば、似塵(似ている塵境)の種子が成立する。すなわち、阿頼耶識の中に十一の色法の種子が備わるからである。似識が心を熏習すれば、似識の種子が成立する。すなわち、阿頼耶識の中に前七識および諸々の心所の種子が備わるからである。

この二種の種子があるとはいえ、同じく虚(むな)しい形であって、別に実体があるわけではない。すべて一心を全体としてその体となしているにすぎない。

△三明互依。

3つの明らかな智慧は互いに支え合っています。

然此果時無明等。雖云各別。熏起一法要俱時和合。故能熏也。何以故。以不相離相藉有故。若無似識即無果時無明。若無無明即無妄想。若無妄想即不成妄境。是故四種俱時和合方能現於虗狀之果。何以故。以不相離故。又復虗狀種子依彼子時無明住故。又復虗狀種子不能獨現果故。若無子時無明即無業識。若無業識即虗狀種子不能顯現成果。亦即自體不立。是故和合方現虗狀果也。是故虗狀果中還具似識似塵虗妄無明妄執。

しかし、この果報の段階における無明などは、それぞれ別個のものと言えども、一つの法を薫習して生じさせるには、必ず同時に和合する必要がある。それゆえ薫習できるのである。なぜなら、互いに離れず、互いに依り合って存在するからである。もし似た認識(似識)がなければ、果報の段階の無明は存在しない。もし無明がなければ、妄想は存在しない。もし妄想がなければ、虚妄な境は成立しない。ゆえに、この四つが同時に和合して初めて、虚ろな形の果報を現出できるのである。なぜなら、互いに離れないからである。また、虚ろな形の種子は、その子(因)の段階の無明に依ってとどまるからである。さらに、虚ろな形の種子は、単独では果報を現せないからである。もし子の段階の無明がなければ、業識は存在しない。もし業識がなければ、虚ろな形の種子は果報を顕現できず、自らの体も成立しない。ゆえに、和合して初めて虚ろな形の果報を現すのである。したがって、虚ろな形の果報の中にも、やはり似た認識や似た塵、虚妄な無明や妄執が備わっているのである。

此明枝末根本二種無明及前七第八。若現若種皆必互依而互熏也。前云果時無明熏心以為子時無明。妄想熏心以為業識。似乎各別熏起。實必俱時和合方成熏義。以似識等四相藉而有。不相離故。當知現行熏起非各別矣。又色心虗狀種子必依根本無明而住。必依業識而成現行之果。既成果已還具六七之似識。可以熏心再成似識種子。還具十一色法之似塵。可以熏心冥成似塵種子。還具虗妄果時無明。可以轉熏子時無明。還具妄執之妄想可以轉熏業識。當知現種更互相熏。亦必俱時和合。非各別矣。

これは、枝末無明と根本無明という二種の無明、ならびに前七識と第八識について明らかにするものである。それらの現行(げんぎょう)と種子(しゅうじ)は、いずれも必ず互いに依存し合い、互いに薫習(くんじゅう)し合っている。先に「果時の無明が心を薫して、子時の無明となる」「妄想が心を薫して、業識(ごうしき)となる」と述べたが、一見するとそれぞれ別々に薫じ起こすように思われる。しかし実際には、必ず同時に和合して初めて薫習の義が成立するのである。なぜなら、似識(にしき)などの四相(しそう)は、互いに依り合って存在しており、互いに離れることがないからである。知るべきである、現行が薫じ起こすのは、決して各々別々のものではないと。

また、色心(しきしん)の虚仮なる状(すがた)や種子は、必ず根本無明に依って存在し、必ず業識に依って現行の果を成す。その果が既に成れば、さらに六七識(ろくしちしき)の似識を具え、心を薫して再び似識の種子を成すことができる。また、十一色法の似塵(にじん)を具え、心を薫して密かに似塵の種子を成すことができる。また、虚妄なる果時の無明を具え、転じて子時の無明を薫することができる。また、妄執の妄想を具え、転じて業識を薫することができる。知るべきである、現行と種子は互いに薫じ合い、また必ず同時に和合して存在するのであり、決して各々別々のものではないと。

△四結流轉。

四つの結びにより、輪廻の流れが生じます。

由此義故略而說之。云不覺故動。顯現虗狀也。如是果子相生無始流轉名為眾生。

このような意味から、簡潔に説明します。「覚りがないために動きが生じ、虚ろな姿が現れる」ということです。このように果(結果)が次々と生じ、無始の昔から流れ続けることを「衆生」と呼びます。

本來無非不覺。無非妄動。無非虗狀。果既生子子復生果。無始流轉。豈於心外有少許實法哉。約迷真起妄成不覺義竟。

もともと、迷いの「覚らない」ということはなく、むやみに動くこと(妄動)もなく、虚ろな姿(虚状)もありませんでした。しかし、果実が種を生み、その種がまた果実を生むかのように、始まりのない迷いの流れが続いています。心の外に、少しでも実在するものなどあるでしょうか。このようにして、真実に迷い、虚妄が生じ、「覚らない」状態が成立するという教えはここまでです。

△次約返妄歸真具二覺義二。初明能覺淨心義。二明淨心自覺義。初中五。初名字覺。二觀行覺。三相似覺。四分真覺。五究竟覺。今初。

△次に、虚妄を離れて真実に帰することを、覚りの二つの意味にそって説く。 第一に、覚りうる清らかな心の意義を明かし、 第二に、清らかな心が自らを覚る意義を明かす。

第一の章は五つに分かれる。 第一に、名と文字による覚り(名字覚) 第二に、観と行による覚り(観行覚) 第三に、真に似た覚り(相似覚) 第四に、真実の一分を覚る覚り(分真覚) 第五に、究極の覚り(究竟覚)

今、第一を説く。

後遇善友為說諸法皆一心作。似有無實。聞此法已。

その後、善き友に出会い、「あらゆる現象はすべて心ひとつが作り出すものであり、存在しているようでいて実体はない」と教えられ、その教えを聞いてから、

△二觀行覺。

まず、観察と実践によって目覚めること。

隨順修行。漸知諸法皆從心作。唯虗無實。

修行を続け、徐々にすべての現象は心から生じるものであり、虚ろであって実体がないことを悟る。

△三相似覺又二。初正明覺於通惑。二兼明漸除別惑。今初。

△三つの相似たる覚悟について、さらに二つに分けられる。初めに、通惑に対する覚悟を正しく明かす。次に、別惑を徐々に除くことを兼ねて明かす。今、初めの部分を述べる。

若此解成時。是果時無明滅也。無明滅故不執虗狀為實。即是妄想及妄境滅也。爾時意識轉名無塵智。以知無實塵故。

この理解が完成した時、それは「果」の段階で無明が滅した状態です。無明が滅したので、虚ろな形を実在と捉えることがなくなります。つまり、妄想とその対象である妄境が消えるのです。その時、意識は「無塵智」と名を変えます。実在する対象(塵)がないと知るからです。

果時無明滅。即圓初信。妄想妄境滅。通至十信。蓋界內妄想妄境有正有習故也。無塵智即妙觀察智。

その時、無明が滅することを、初めての信心が円満に成就した状態と言います。妄想と誤った認識の世界が滅するのは、十番目の信心の段階に至るまでのことを言います。なぜなら、この世界内での妄想と誤った認識の世界には、正しいものと習慣的なものの両方があるからです。無塵智とは、すなわち妙観察智のことです。

△二兼明漸除別惑又二。初出別惑之相。二明漸除之繇。今初。

**二つ目の「兼ねて明かす」の節では、「漸く別惑を除く」を説明する。これも二つに分かれる。** **第一に「別惑の相」を示す。** **第二に「漸除の理由」を明かす。** **今、その第一を述べる。**

雖然知境虗故說果時無明滅。猶見虗相之有。有即非有。本性不生今即不滅。唯是一心。以不知此理故亦名子時無明。亦名迷理無明。但細於前迷事無明也。以彼麤滅故說果時無明滅也。又不執虗狀為實故說妄想滅。猶見有虗相謂有異心。此執亦是妄想。亦名虗相。但細於前。以彼麤滅故言妄想滅也。又此虗境以有細無明妄想所執故。似與心異。相相不一。即是妄境。但細於前。以其細故名為虗境。又彼粗相實執滅故。說妄境滅也。

たとえ「境は虚である」と知っても、果時の無明が滅したからといって、なお虚の相が存在するかのように見える。その存在は実に非存在である。本性は不生であり、今もまた不滅である。ただ一心のみである。この理を知らないがゆえに、これを「子時の無明」ともいい、「理に迷う無明」ともいう。ただし、それは前の「事に迷う無明」よりも微細である。あの粗いものが滅したから、果時の無明が滅したというのである。また、虚の姿を実であると執着しないから、妄想が滅したという。しかし、なお虚の相があるのを見て、心とは異なるものがあると捉える。この執着もまた妄想であり、「虚相」ともいう。ただし、それは前のものよりも微細である。あの粗いものが滅したから、妄想が滅したというのである。また、この虚の境は、微細な無明と妄想によって執着されるがゆえに、心とは異なるかのように見え、一つひとつの相が一致しない。すなわちこれが妄境である。ただし、それは前のものよりも微細である。その微細さゆえに「虚境」という。また、あの粗い相に対する実有的な執着が滅したから、妄境が滅したというのである。

猶見虗相之有。即界內見惑習氣及界外見惑。故亦名子時無明。亦名迷理無明也。猶見虗相謂有異心。不知心無異相。及執虗境似與心異。不知心外無境。此皆界內思惑習氣及界外思惑。故亦是妄想妄境也。

なお、虚相(うつろな姿)の「有」を見るのは、すなわち三界内の見惑の習気と三界外の見惑である。故にまた「子時の無明」ともいい、「理に迷う無明」ともいう。 なお、虚相を見て「心と異なるものがある」と捉えるのは、心に異なる相がないことを知らず、さらに虚の境を執して心と異なるかのように思うことである。心の外に境がないことを知らない。これらは皆、三界内の思惑の習気と三界外の思惑である。故にまた、妄想であり妄境である。

△二明漸除之繇又三。初因末驗本。二正明滅繇。三例後結前。今初。

二、少しずつ取り除く理由について説明します。これはさらに三つに分けられます。第一に、末端から根本を検証すること。第二に、正しく取り除く理由を明らかにすること。第三に、後の例を挙げて前をまとめること。今は第一の部分です。

以此論之。非直果時迷事無明滅息。無明住地亦少分除也。若不分分漸除者。果時無明不得分分漸滅。但相微難彰。是故不說住地分滅也。今且約迷事無明滅後以說住地漸滅因由。即知一念發修已來亦能漸滅也。

この観点から論じれば、単に結果の段階で事相に迷う無明が消え去るだけでなく、無明の住地も一部分が除かれるのである。もし一部分ずつ徐々に除かれないのであれば、結果の段階における無明は一部分ずつ徐々に消え去ることはない。ただし、その相は微細で現れにくいため、住地の部分的な消滅については説かれていないのである。ここではひとまず、事相に迷う無明が消えた後の段階に即して、住地が徐々に消滅する因由を説く。これにより、一念発心して修行を始めてからも、すでに徐々に消滅し得ることが分かるのである。

此明十信位中界外見思雖未永斷亦既圓伏。故云無明住地亦少分除。倘無明不分分除。則見思何繇得滅。譬如樹根不搖則枝葉必不零落。但相微難彰故不說耳。實則一念發修圓觀之始。便已圓伏無明。何況十信位耶。

これは、十信位における「界外の見思(けんし)」について明らかにしたものです。まだ永遠に断ち切ってはいないものの、すでに円満に調伏(ちょうぶく)されています。そのため、「無明住地(むみょうじゅうじ)もまた少しは除かれた」と言われているのです。もし無明が一分ごとに除かれなければ、見思がどうして滅するはずがありましょうか。ちょうど、木の根が揺れなければ、枝葉が必ず落ちないのと同じです。ただし、その相(すがた)が微細で現れにくいため、特に説かれていないだけなのです。実際には、一念発起して円観(えんがん)を修行し始めた時から、すでに無明を円満に調伏しています。ましてや、十信位においてはなおさらのことです。

△二正明滅繇。

では、その迷いをどのように滅ぼすのか、その理由を明確に示します。

此義云何。謂以二義因緣故。住地無明業識等漸已微薄。二義者何。一者知境虗智熏心故。令舊無明住地習氣及業識等漸除也。何以故。智是明法。性能治無明故。二者細無明虗執及虗境熏心故。雖更起無明住地等。即復輕弱。不同前迷境等所熏起者。何以故。以能熏微細故。所起不覺亦即薄也。以此義故。住地無明業識等漸已損滅也。

この意味は何か。すなわち、二つの理由によって、住地の無明や業識などが次第に薄らぐのである。その二つの理由とは何か。第一に、境が虚であると知る智慧が心を薫習するからである。これによって、古い無明住地の習気や業識などが徐々に除かれるのである。なぜか。智慧は明らかな法であり、その性質として無明を治めるからである。第二に、微細な無明の虚の執着と虚の境が心を薫習するからである。これによって、新たに無明住地などが生じても、すぐに軽く弱くなる。以前に迷いの境などに薫習されて生じたものとは異なるのである。なぜか。薫習するものが微細であるため、生じる無覚もまた薄くなるからである。このような理由により、住地の無明や業識などが次第に減滅していくのである。

知境虗智即無塵智也。智治無明。令無明薄。是漸滅之緣。細無明熏所起輕弱。是漸滅之因。餘可知。

知るべき境地が虚ろであれば、智慧は塵(煩悩)のない智慧そのものです。智慧が無明(無知)を対治することで、無明を薄くしていく——これが〈徐々に滅する縁〉です。微細な無明の熏習によって引き起こされる軽やかで弱い状態——これが〈徐々に滅する因〉です。その他は、想像できる通りです。

△三例後結前。

三つ目の例が終わり、前に述べたことをまとめます。

如迷事無明滅後既有此義。應知一念創始發修之時。無明住地即分滅也。以其分分滅故。所起智慧分分增明故。得果時迷事無別滅也。

迷いの事象を引き起こす無明(むみょう)が消えた後にも、このような意味が存在します。 知るべきです。最初の一念(いちねん)において修行を始めるその時、 無明の住地(じゅうじ)は、すでに部分的に消滅しているのです。 なぜなら、無明が少しずつ消えていくからこそ、 それによって生じる智慧(ちえ)も少しずつ増し、明らかになっていくからです。 そのため、悟りの成果を得る時には、 迷いの事象を別個に消し去るということはないのです。

一念創始發修之時。謂從名字初入觀行也。觀行位中亦即能知境虗即有知境虗智對治無明。又既知境虗則不執虗狀為實。爾時麤想麤境被制伏故。不復熏心。但有細無明虗執及虗境熏心而已。無明住地安得不分滅哉。又無明住地若不分滅。何繇果時無明任運先滅而登圓信也。

一念発起して修行を始める時、これを「名前」の位から初めて「観行」に入ると説く。 観行の位においては、すでに境が虚であることを知る智慧が生じ、その智慧によって無明を対治する。 また、境が虚であると知れば、虚の相を実だと執着することはない。 その時、粗い想いや粗い境は制伏されるため、もはや心を熏じることはない。 ただ、微細な無明による虚の執着と、虚の境が心を熏じるのみである。 無明住地が、どうして分断され滅除されないことがあろうか。 また、もし無明住地が分断され滅除されなければ、どうして果報において無明が自然に先に滅して、円満な信に登ることができようか。

△四分真覺。

四つの部分に分けて、真実の悟りを明らかにします。

自迷事無明滅後。業識及住地無明漸薄故。所起虗狀果報亦轉輕妙。不同前也。以是義故。似識轉轉明利。似色等法復不令意識生迷。以內識生外色塵等俱細利故。無塵之智倍明。無明妄想極薄。還復熏心復令住地無明業識習氣漸欲向盡。所現無塵之智為倍明了。如是念念轉轉熏習故。無明住地埀盡所起。無塵之智即能知彼虗狀果報體性非有。本自不生今即無滅。唯是一心體無分別。以唯心外無法故。此智即是金剛無礙智也。

自らの迷いにより無明が消えた後、業識と住地の無明は次第に薄まっていくため、生じる虚ろな果報もより軽妙なものへと変わっていき、以前の状態とは異なる。このため、似識は次第に明瞭となり、似色などの現象も意識に迷いを生じさせることがなくなる。内なる識が外の色塵などと共に微細で明瞭になるため、塵のない智慧はさらに明らかになる。無明の妄想は極めて薄くなり、さらに心を熏習して、住地の無明や業識の習気を徐々に尽くそうとする。現れる塵のない智慧はますます明瞭となる。このように、念念に次第に熏習を重ねることで、無明住地は尽きようとし、そこから生じる塵のない智慧は、その虚ろな果報の体性が本来存在しないことを知る。もともと生じることがなく、今も消え去ることはない。ただ一心のみであり、その体には分別がない。心の外に法は存在しないからである。この智慧こそが、金剛のように礙(さまた)げのない智慧である。

迷事無明滅。正指十信位中三界見思正習俱盡也。從此業識及住地無明漸薄。即圓十住廼至十地分分斷惑之相。所起虗狀果報亦轉輕妙。即實報國土所有變易生死之相。不同前三界中分段故也。漸欲向盡。即第十地相。垂盡即等覺相。金剛無礙智即金剛後心妙覺之無間道也。

迷いの事象を生む無明が滅びる。これは、十信の位において三界(欲界・色界・無色界)の見惑・思惑の正しいものとその習気が、ともに尽きることを指す。この時から、業識と住地の無明は徐々に薄れていく。すなわち、円教の十住から十地に至るまで、煩悩を断ち切る様子を分分に示している。そこから生じる虚ろな果報も、次第に軽やかで微妙なものとなる。すなわち、実報土における変易生死の相は、先の三界における分段生死とは異なるのである。徐々に尽きようとするのが第十地の相であり、まさに尽きようとするのが等覚の相である。金剛のように無礙の智慧とは、金剛心後の妙覚における無間道のことである。

△五究竟覺。

五つ目の究竟覚について。

此智成已即復熏心。心為明智熏故。即一念無明習氣於此即滅。無明盡故業識染法種子習氣即亦隨壞。是故經言其地壞者彼亦隨壞。即其義也。

この智慧が成就すると、その智慧が心を再び熏習(じゅんじゅう:影響を与え続けること)します。心が明るい智慧によって熏習されるため、一瞬の無明(むみょう:根本的な迷い)の習慣的な力は、ここに至って消え去ります。無明が尽きるので、業識(ごうしき:煩悩に染まった認識)をはじめとする、煩悩に染まった心の種子や習気(じっけ:潜在的な傾向)も、ともに壊れていきます。そのため経典に「その地が壊れるならば、それもまた共に壊れる」と説かれているのは、まさにこの意味です。

其地指無明習氣。彼指業識染法種子。習氣金剛道後異熟空。此之謂也。已上皆明能覺淨心之義。

その「地」とは無明の習気を指し、「彼」とは業識の染法の種子を指します。習気は金剛道の後に異熟が空となること、これがその意味です。以上はすべて、清らかな心を覚ることができる道理を明らかにしています。

△次明淨心自覺義。

次に、清らかな心が自らを悟るという意味について明らかにします。

種子習氣壞故虗狀永泯。虗狀泯故心體寂炤名為體證真如。何以故。以無異法為能證故即是寂炤。無能證所證之別名為無分別智。何以故。以此智外無別有真如可分別故。此即是心顯成智。智是心用心是智體。體用一法自性無二。故名自性體證也。

種子や習気が滅するから、虚妄の相は永遠に消え去ります。虚妄の相が消え去るから、心の本体は静かに照らし、これを「体証真如」と名づけます。なぜなら、それを証する別の方法がないからです。すなわち、静かな照らしそのものです。能証と所証の区別がないことを、「無分別智」と名づけます。なぜなら、この智慧の外に別に分別すべき真如が存在しないからです。これこそが心が顕れて智慧となるのです。智慧は心の働きであり、心は智慧の本体です。本体と働きは一つの法であり、自性に二つはありません。ゆえに「自性体証」と名づけるのです。

無分別智即大圓鏡智也。餘皆可知。已上約修廣釋竟。

無分別智とは、すなわち大円鏡智のことです。その他はすべて理解できるでしょう。以上で、修行の広い観点からの解釈を終わります。

△三舉喻結成。

三つの譬えを挙げて結論をまとめる。

如似水靜。內炤炤潤義殊而常湛一。何以故。炤潤潤炤故心亦如是。寂炤義分而體融無二。何以故。炤寂寂炤故。炤寂順體寂炤順用。炤自體名為覺於淨心。體自炤即名為淨心自覺。故言二義一體。此即以無分別智為覺也。淨心從本已來具此智性不增不減。故以淨心為佛性也。此就智慧佛以明淨心為佛性。

静かな水面のように、内側を照らし、潤すという働きは異なるが、常に澄んで一つである。なぜなら、照らすことが潤し、潤すことが照らすからである。心もまたこれと同じであり、静かに照らすという働きは分けられるが、その本質は融け合って二つではない。なぜなら、照らす静けさと静けさの照らしは同じだからである。照らす静けさは本質に従い、静けさの照らしは働きに従う。自らを照らす本質を「覚り(浄き心における)」と名付ける。本質が自らを照らすことを「浄き心の自覚」と名付ける。ゆえに、二つの働きは一つの本質であると言う。これをもって、無分別の智慧を覚りとするのである。浄き心は根本からこの智慧の性質を備えており、増えも減りもしない。ゆえに、浄き心を仏性とするのである。これは智慧の仏の観点から、浄き心を仏性と明らかにしたものである。

如似水靜下先舉喻心。亦如是下次法合。淨心從本下結成淨心名為佛性。從問曰智慧佛者至此是第二約覺辨中初辨智慧佛性竟。

水のように静かに落ち着く心のたとえを先に挙げ、心もまたそうであると次に法を合わせて説く。清らかな心は本来より(このようにあり)、清らかな心を結びつけて仏性と名づける。「問うて曰く、智慧の仏とは」からここまでが第二の、覚りについての弁別の中であり、初めに智慧の仏性を明かす部分が終わった。

△二辨報應佛性。

二つ目に、報身と応身における仏性について明らかにする。

又此淨心自體。具足福德之性及巧用之性。復為淨業所熏。出生報應二佛。故以此心為佛性也。

また、この清らかな心の本質そのものには、福徳の性質と巧みなはたらきの性質が十分に備わっています。そしてさらに、清らかな行いによって熏習されることで、報身と応身の二仏が生じます。そのため、この心を仏性というのです。

福德性出生報佛。通於自他受用。巧用性出生應佛。具足勝劣形儀。皆繇淨業所熏。此報應佛性不外於淨心也。

福徳性から報身仏が生まれます。これは自他受用に通じています。 巧用性から応身仏が生まれます。これは勝れた形と劣った形を具えています。 いずれも清らかな業によって熏じられたものです。 この報身仏と応身仏の本性は、清らかな心の外にあるものではありません。

△三辨出障佛性。

三、障りを離れた仏性について明かす

又復不覺滅故以心為覺。動義息故說心不動。虗相泯故言心無相。然此心體非覺非不覺。非動非不動。非相非無相。雖然以不覺滅故說心為覺。亦無所妨也。此就對治出障心體以論於覺。不據智用為覺。

また、迷いが消え去ったからこそ、心を「覚り」と見なすのです。動きの働きが静まったので、心は動かないと説きます。虚ろな表象が消え去ったので、心には形がないと言います。しかしながら、この心の本質は、「覚り」でも「覚りでない」のでもなく、「動く」でも「動かない」でもなく、「形がある」でも「形がない」でもありません。それでも、迷いが消えたからといって心を「覚り」と呼ぶことも、何ら差し支えありません。これはあくまで、煩悩を対治して障りを離れた心の本質について「覚り」を論じたものであり、智慧の働きを「覚り」と見なしたわけではありません。

雖復非覺非不覺等。而以不覺滅故不妨說覺。此果頭法身佛性不外於淨心也。

たとえそれが「気づき」でも「気づかないこと」でもなくとも、 「気づかないこと」が滅したという理由で、あえて「気づき」と言うのです。 この果てにある法身の仏性は、清らかな心の外にあるものではありません。

△四辨平等佛性。

4. 平等の仏性について

又復淨心本無不覺說心為本覺。本無動變說心為本寂。本無虗相說心本平等。然其心體非覺非不覺。非動非不動。非相非無相。雖然以本無不覺故說為本覺。亦無所失也。此就凡聖不二以明心體為如如佛。不論心體本具性覺之用也。

さらに、清らかな心の本質には「迷い」がないことから、この心を「本来の目覚め」と説きます。本来、動きや変化がないことから、この心を「本来の静けさ」と説きます。本来、虚妄な姿がないことから、この心を「本来の平等」と説きます。

しかし、その心の本体は、「覚り」でも「迷い」でもなく、動くのでも動かないのでもなく、姿があるのでもないのでもありません。 とはいえ、本来迷いがないという理由から「本来の目覚め」と説いても、誤りではありません。

これは、凡夫と聖者が元は一つであるという観点から、心の本体を「そのままの仏」と明かしたものであり、心の本体に元から備わっている覚りの働きについて論じたものではありません。

雖復非覺非不覺等。而以本無不覺故亦不妨說為本覺。此在纏法身佛性凡聖不二亦惟一淨心也。已上廣辨佛性中二約覺辨竟。

また、覚でもなく不覚でもないが、もともと不覚がないということで、元の覚と言うことも妨げない。これは煩悩に覆われた法身・仏性であり、凡夫と聖者の区別がなく、ただ一つの清らかな心である。以上、仏性について広く述べた中で、二番目の「覚」についての説明を終える。

△三釋餘疑四。初釋執性癈修疑。二釋本有不覺疑。三釋自然因緣疑。四釋無明心性疑。今初。

三、残された疑問を解く(四つ) 一、本性を執り修行を捨てるという疑問を解く 二、本来あるのに迷いがあるという疑問を解く 三、自然と因縁に関する疑問を解く 四、無明と心性に関する疑問を解く 今、まず最初の疑問を説く。

問曰。若就本無不覺名為佛者。凡夫即是佛。何用修道為。答曰。若就心體平等。無即修與不修。成與不成。亦無覺與不覺。但為明如如佛故。擬對說為覺也。又復若據心體平等。亦無眾生諸佛與此心體有異。故經偈云。心佛及眾生。是三無差別。然復心性緣起法界法門法爾不壞故常平等常差別。常平等故。心佛及眾生是三無差別。常差別故。流轉五道說名眾生。反流盡源說名為佛。以有此平等義故。無佛無眾生。為此緣起差別義故。眾生須修道。

問い:もし「もともと無知(無明)がない状態を仏と呼ぶ」のなら、凡夫もすでに仏であり、わざわざ修行する必要はないのでは?

答え:心の本質(心体)が平等であるという立場から言えば、修行する・しない、成就する・しない、さらには目覚めている・いないという区別すらもない。ただし、「如如仏」を明らかにするために、仮に「覚(目覚め)」という言葉で説明しているにすぎない。

また、心の本質が平等であるなら、衆生も諸仏も、この心の本質と異なるものではない。経典の偈にもある通り、「心と仏と衆生、この三つに差別はない」と。

しかしながら、心の本性は縁起によって生じる世界(法界)の真理(法門)そのものであり、自然のままに壊れることがない。そのため、常に平等でありながら常に差別がある。

常に平等であるからこそ、「心と仏と衆生、この三つに差別はない」と言える。また、常に差別があるからこそ、五道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を輪廻する者を「衆生」と呼び、その流れを逆転させて源にまで帰り尽くした者を「仏」と呼ぶのである。

この平等の理があるからこそ「仏もなく衆生もない」と言え、この縁起による差別の理があるからこそ「衆生は修行を要する」と言えるのだ。

此躡上平等法身義而起疑也。答中先明擬對說覺。則如如佛但是修之所顯。非是修之所成。次明平等不礙差別。繇有平等差別二義。方成心性緣起法界法門。平等則六而常即。差別則即而常六。知平等故不生退屈。知差別故不生上慢也。

これは、先に述べた平等な法身の意味について疑問を起こしたものである。答えの中では、まず対比して説く覚りについて明らかにする。すなわち、如如仏はただ修行によって現れるものであって、修行によって成し遂げられるものではない。次に、平等が差別を妨げないことを明らかにする。平等と差別という二つの意味があるからこそ、心性の縁起する法界の法門が成り立つのである。平等であれば、六即(六つの階位)は常に即(そのまま)であり、差別であれば、即(そのまま)でありながら常に六即である。平等を知るゆえに退屈(あきらめ)の心が生じず、差別を知るゆえに高慢の心が生じないのである。

△二釋本有不覺疑。

次に、本有の「不覚」について疑問を解き明かす。

問曰。云何得知心體本無不覺。答曰。若心體本有不覺者。聖人證淨心時應更不覺。凡夫未證得應為覺。既見證者無有不覺。未證者不名為覺。故定知心體本無不覺。問曰。聖人滅不覺故得自證淨心。若無不覺云何言滅。又若無不覺即無眾生。答曰。前已具釋心體平等無凡無聖。故說本無不覺。不無心性緣起。故有滅有證有凡有聖。又復緣起之有。有即非有。故言本無不覺。今亦無不覺。然非不有。故言有滅有證有凡有聖。但證以順用入體即無不覺。故得驗知心體本無不覺。但凡是違用一體謂異。是故不得證知平等之體也。

問い:心の本体にはもともと「無明(むみょう)」がないと、どうすればわかるのでしょうか?

答え:もし心の本体に初めから無明があるのなら、悟りを得た聖者の清らかな心にも、なお無明があるはずです。また、悟りを得ていない凡夫は、すでに悟っていることになります。しかし実際には、悟った人に無明はなく、悟っていない人を悟ったとは呼びません。したがって、心の本体にはもともと無明がないと確かにわかります。

問い:聖者は無明を滅ぼしたからこそ自らの清らかな心を証得したのです。もしもともと無明がないのなら、何を「滅ぼした」と言うのでしょうか?また、無明がなければ衆生も存在しないことになりませんか?

答え:先に詳しく説明した通り、心の本体は平等であり、凡夫も聖者もなく、もともと無明はないと説くのです。しかし、心の本性が縁起によってはたらくことは否定しません。ですから、「滅」や「証(さとり)」があり、「凡夫」や「聖者」もあるのです。さらに、縁起によって存在するものは、その存在が実体ではありません。だからこそ「もともと無明はない」と言い、今もなお無明はないのです。しかし、まったく無いわけではないので、「滅があり、証があり、凡夫と聖者がいる」とも言うのです。ただ、悟りにおいては、はたらきに従いながら本体に帰入するため、無明がなくなるのです。それによって、心の本体にはもともと無明がないと知ることができます。しかし凡夫は、はたらきに逆らって、本来一つであるものを異なったものと思い込むため、平等な本体を証得できないのです。

前問云何知此真心非是不覺。將謂真心全體不覺。故以無明滅時應無真心答之。此問云何得知心體本無不覺。將謂真心具有不覺。覺與不覺二體並存。故以聖應不覺凡夫應覺答之。次復躡起一問。意謂聖已滅不覺故應無更起不覺之理。然因中若無不覺。何須言滅。又既無不覺。何名眾生。答中共有三番釋疑。初一番約心體說平等。約緣起說差別。次一番單約緣起中即具平等差別二義。第三番明平等中差別之繇。繇於違順二用而體實平等也。

問い:どうすればこの真心が「不覚」ではないと知るのか。

ある人は考える──真心は全体として不覚であると。そこで、「無明が滅すれば真心はなくなるのか」と問うたのである。この問いは、「心の本体にはもともと不覚などない」と知るにはどうすればよいのか、というものだ。また、「真心はもともと不覚を備えているのか」と考える人もいる。すなわち、覚と不覚が二つの体として共存するというのである。そこで「聖者は不覚であり、凡夫は覚であるのか」と問うたのである。

さらに続けて、次のような疑問が生じる。すなわち、聖者はすでに不覚を滅しているのだから、再び不覚が生じるはずはない。しかし、もし因の段階に不覚がなかったならば、なぜ「滅する」と言う必要があるのか。また、不覚がなければ、なぜ「衆生」と呼ぶのか、と。

答えには三つの段階で疑問を解く説明がある。第一に、心体の側からは平等について説き、縁起の側からは差別について説く。第二に、縁起のうちにすでに平等と差別の二義が備わっていると説く。第三に、平等の中に差別が生じる理由を明かす。それは、違順という二つの働きによるものであり、体は実に平等なのである。

△三釋自然因緣疑。

●三、自然因緣の疑いを解く

問曰。心顯成智者。為無明盡故自然是智。為更別有因緣。答曰。此心在染之時本具福智二種之性。不少一法。與佛無異。但為無明染法所覆故。不得顯用。後得福智二種淨業所熏故。染法都盡。然此淨業除染之時。即能顯彼二性。令成事用。所謂相好依報一切智等。智體自是真心性照之能。智用由熏成也。

問う。心が顕れて智慧となるのは、無明が尽きたから自然に智慧となるのか、それとも別に因縁があるのか。

答える。この心は煩悩に染まっている時にも、本来、福と智の二つの性質を具えており、一つとして欠ける法はなく、仏と異なるところはない。ただ、無明の染めの法に覆われているために、顕れて用をなすことができないのである。後に、福と智の二つの清らかな業に熏じられることによって、染めの法はすべて尽きる。この清らかな業が染めを除く時、すなわちその二つの性質を顕し、事用を成させる。いわゆる相好・依報・一切智などである。智慧の体は、もとより真心の性が照らすはたらきであり、智慧の用は熏習によって成るのである。

問中具有雙計。自然是智即計自然。別有因緣即計因緣。答中二番雙破。初云本具福智二性。即非因緣。染覆不顯即非自然。次云二種淨業所熏。即非自然。顯彼二性令成事用。即非因緣也。體是性炤之能。用由熏成。可謂全性起修。全修在性。超諸戲論者矣。

問いの中には、二つの見方が含まれています。「自然」を智慧そのものと見なすのは、自然に基づく考え方です。一方で、別に原因と条件があると見なすのは、因縁に基づく考え方です。

答えの中では、二つの段階で両方を打ち破っています。最初に、「本来、福徳と智慧という二つの性質を備えている。これは因縁ではない。煩悩に覆われて顕れないから、自然でもない」と言います。次に、「二つの清らかな業によって熏習される。これは自然ではない。その二つの性質を顕かにして、実際の働きを成し遂げさせる。これは因縁ではない」と言います。

本体は、本性が照らす働きを持つ能力です。その働きは熏習によって成り立ちます。まさに「全き本性が修行を起し、全き修行が本性に留まる」と言えます。これにより、あらゆる戯論を超えているのです。

△四釋無明心性疑。

(四)無明と心性についての疑問を解く

無明とは、真理を迷い、心の本性が闇に覆われている状態です。しかし、この闇の本質は虚空(くう)のようなものであり、本来ならば実体を持つわけではありません。心の本性は本来、明るく清らかなものです。ただ、無明という一時的な迷いによって覆われているに過ぎないのです。

例えば、雲が空を覆うように、無明は心の清らかさを隠します。しかし雲は空そのものではなく、風が吹けば晴れ渡ります。同じように、煩悩が消え去れば、心の本性は自ずと現れます。この「迷いの闇」と「本来の明るさ」は別々のものではなく、心の一つの働きに過ぎないと理解すべきです。

したがって、無明と心性を疑うこと自体が迷いの一つの形なのです。

問曰。心顯成智。即以心為佛性。心起不覺。亦應以心為無明性。答曰。若就法性之義論之。亦得為無明性也。是故經言。明與無明其性無二。無二之性即是實性也。

問うて言わく、「心が顕れて智を成す。すなわち心をもって仏性となす。心が不覚を起こすも、また心をもって無明性となすべきか。」 答えていわく、「もし法性の義に就いて論ずれば、また無明性となることを得るなり。このゆえに経に言わく、『明と無明とのその性、二つなし。二つなきの性、すなわちこれ実性なり』と。」

智如水。無明如冰。水以濕為性。冰亦以濕為性。若知濕性無二。則水與氷徒有名字。惟濕為實性耳。然就取用義強。但云水濕可耳。何必言氷濕哉。又既知氷性元濕。則決不離冰覔水。亦決不執氷為水矣。已上釋佛性竟。

智慧は水のようなもの。無明(むみょう)は氷のようなもの。水の性質は「湿り気」であり、氷もその「湿り気」を性質としている。この湿り気という性質に、水と氷で違いがないと知れば、水と氷はただ名前だけのものとなり、本来の実質は「湿り気」であるとわかる。しかし、その働きや用(はたらき)を取る立場から言えば、「水は湿り気のあるもの」と言えば十分で、わざわざ「氷も湿り気がある」と言う必要はない。また、もし氷の性質がもともと湿り気だと知れば、決して氷を離れて水を求めることはなく、また氷をそのまま水だと捉えることもない。以上で、仏性(ぶっしょう)の解説を終える。

△四釋法身。

4. 法身の解釈

問曰。云何名此心以為法身。答曰。法以功能為義。身以依止為義。以此心體有隨染之用。故為一切染法之所熏習。即以此心隨染。故能攝持熏習之氣。復能依熏顯現染法。即此心性能持能現二種功能。及所持所現二種染法皆依此一心而立。與心不一不異。故名此心以為法身。此能持之功能。與所持之氣和合。故名為子時阿梨耶識也。依熏現法之能。與所現之相和合。故名為果報阿梨耶識。此二識體一用異也。然此阿梨耶中即有二分。一者染分。即是業與果報之相。二者淨分。即是心性及能熏淨法名為淨分。以其染性即是淨性更無別法故。由此心性為彼業果染事所依故。說言生死依如來藏。即是法身藏也。又此心體雖為無量染法所覆。即復具足過恒河沙數無漏性功德法。為無量淨業所熏故。此等淨性即能攝持熏習之氣。復能依熏顯現諸佛功德之用。即此恒沙性淨功德。及能持能現二種功能。并所持所現二種淨用。皆依此一心而立。與心不一不異。故名此心為法身也。

問う:なぜこの心を「法身」と名づけるのか。 答える:「法」とは「はたらき」のことを意味し、「身」とは「よりどころ」という意味である。 この心の本体は、煩悩にしたがうはたらきを持つため、あらゆる汚れた事柄に影響を受け(薫習され)、その影響を保持し、また、その影響に従って汚れた現象を現す。 すなわち、この心の本性は、「保持する」と「現す」という二つのはたらき、および、保持され現れる二つの汚れた事柄を、すべてこの一つの心に依って成り立たせているのである。 心(本体)とこれらのはたらきや現象とは、「同じでもなく、別でもない」関係にある。だから、この心を「法身」と呼ぶのである。 この「保持するはたらき」が、「保持される気(影響)」と和合した状態を、「因位の阿梨耶識」という。 また、「薫習に従って現象を現すはたらき」が、「現れる姿」と和合した状態を、「果報の阿梨耶識」という。 この二つの識は、本体は一つであり、はたらきが異なるのである。 この阿梨耶識には、二つの側面がある。 一つは「汚れた側面」であり、これは業とその結果の姿である。 もう一つは「清らかな側面」であり、これは心の本性や、清らかなものを薫習する力のことで、これを「清浄なるもの」と呼ぶ。 なぜなら、そもそも汚れた本性も、実は清らかな本性と別のものではないからである。 この心の本性が、あの業や結果といった汚れた事柄のよりどころとなることから、「生死(迷いの世界)は如来蔵(真理の胎蔵)に依って存在する」と言われる。これがすなわち「法身蔵」である。 また、この心の本体は、無量の汚れたものに覆われているけれども、同時に、数えきれないほどの完全で清らかな本質的なはたらき(無漏の性功徳)をそなえている。 無量の清らかな行いに薫習されることで、これらの清らかな本性は、その薫習の気を保持し、また、その薫習に従って諸仏の功徳のはたらきを現す。 つまり、この無限の清らかな本性の功徳と、「保持する」「現す」の二つのはたらき、さらに保持され現れる清らかなはたらきは、すべてこの一つの心に依って成り立ち、心(本体)とは「同じでもなく、別でもない」関係にある。だから、この心を「法身」と呼ぶのである。

答中先明隨染法身。後明隨淨法身中乃具明染淨二分性元非二。以結前起後也。染法淨法俱名為法。以俱有功能故俱名為身。以俱為依止故。以此心性能持能現二種功能。及所持所現染淨二法。與心不一不異故。能持即業識種子。能現即業識現行。所持即染法種子。所現即染法現行。種不是現。現不是種。能不是所。所不是能。故言不一。離心無種。離心無現。離心無能。離心無所。故言不異。既法法皆心。故心是法身也。能持持於所持之氣即是種子。故名子時阿梨耶識。氣者氣類也。能現現於所現之相即是現行。故名果報阿梨耶識。相者相狀也。現行亦熏種子。種子亦熏現行。約熏現義名為種子。約熏種義名為現行。故曰體一用異。已上但約隨染明法身也。然阿梨耶中不惟具足染分。亦復具足淨分。以染淨二性更無別法。染性即淨性故。但迷時則為業果染事所依。妄成二死。悟時顯發無漏性功德法。具足淨用耳。淨法種現互熏。例前可知。

まず、煩悩に染まった側面から見た法身を明らかにし、その後、清らかな側面から見た法身を明らかにします。その中で、染めと浄の二つの側面が、もともと二つではないという性質を詳しく示し、これによって前の説明をまとめ、後の説明への導入とします。

染めの法も浄めの法も、ともに「法」と呼ばれます。どちらもはたらきを持つからです。また、どちらも「身」と呼ばれます。どちらもよりどころとなるからです。

この心の本性は、二つの機能を保持し、かつ顕現させるからです。その二つの機能とは、保持されるものと顕現されるものである、染めと浄の二つの法です。そして、心と一つでもなく、別でもありません。

「保持するもの」とは業識の種子です。「顕現するもの」とは業識の現行です。「保持されるもの」とは染めの法の種子です。「顕現されるもの」とは染めの法の現行です。

種子は現行ではありません。現行は種子ではありません。「保持するもの」は「保持されるもの」ではありません。「保持されるもの」は「保持するもの」ではありません。だから「一つではない」と言います。

しかし、心を離れて種子はありません。心を離れて現行はありません。心を離れて「保持するもの」はありません。心を離れて「保持されるもの」はありません。だから「別ではない」とも言います。

すべての法が心である以上、心こそが法身なのです。

「保持するもの」が「保持されるもの」の気(種類)を保持する、これが種子です。だから「子時の阿梨耶識」と言います。 「気」とは種類のことです。

「顕現するもの」が「顕現されるもの」の相(すがた)を顕現する、これが現行です。だから「果報阿梨耶識」と言います。 「相」とは形や状態のことです。

現行もまた種子を熏習します。種子もまた現行を熏習します。現行を熏習するという意味では、これを種子と呼びます。種子を熏習するという意味では、これを現行と呼びます。だから「体は一つだが、用は異なる」と言うのです。

以上が、煩悩に染まった側面から法身を明らかにしたものです。

しかし、阿梨耶識の中には、染めの部分だけではなく、清らかな部分もまた完全に備わっています。なぜなら、染めと浄の二つの性質は、別々のものではないからです。染めの性質が、すなわち浄めの性質だからです。

迷っている時には、業と果の染めの事柄のよりどころとなり、誤って二種の死を生み出します。 悟った時には、無漏の性の功徳の法が顕れ発揮され、清らかなはたらきが完全に備わるのです。

清らかな法の種子と現行が互いに熏習し合うことは、前の例に準じて理解できます。

△五釋如來藏。

ここから、如来蔵(にょらいぞう)について、五つの観点から説明します。

問曰。云何復名此心為如來藏。答曰。有三義。一者能藏名藏。二者所藏名藏。三者能生名藏。所言能藏者復有二種。一者如來果德法身。二者眾生性德。淨心並能包含染淨二性及染淨二事無所妨礙。故言能藏名藏。藏體平等名之為如。平等緣起目之為來。此即是能藏名如來藏也。第二所藏名藏者。即此真心而為無明㲉藏所覆藏故。名為所藏也。藏體無異無相名之為如。體備染淨二用目之為來。故言所藏名藏也。第三能生名藏者。如女胎藏能生於子。此心亦爾。體具染淨二性之用故。依染淨二種熏力能生世間出世間法也。是故經云。如來藏者是善不善因。又復經言。心性是一。云何能生種種果報。又復經言。諸佛正徧知海從心想而生也。故染淨平等名之為如。能生染淨目之為來。故言能生名如來藏也。

問う。なぜこの心を如来蔵とも呼ぶのか。 答え。三つの意味がある。第一に、「能蔵」という名の蔵。第二に、「所蔵」という名の蔵。第三に、「能生」という名の蔵。

「能蔵」と言う意味には、さらに二つある。一つは如来の果徳としての法身。もう一つは衆生の性徳としての清浄心。この二つは、ともに染浄の二つの性質と、染浄の二つの現象を包み込み、妨げることがない。そのため「能蔵」という名の蔵という。この蔵の本体は平等であることを「如」と言い、平等に縁起することを「来」と言う。これが「能蔵」の意味での如来蔵である。

第二に「所蔵」という名の蔵とは、この真実の心が無明という卵の殻のような蔵に覆い隠されていることから、「所蔵」と呼ばれる。蔵の本体に違いや形がないことを「如」と言い、染浄の二つの働きを備えていることを「来」と言う。したがって「所蔵」という名の蔵というのである。

第三に「能生」という名の蔵とは、例えば母親の胎内が子を生むように、この心もまたそうである。その本体が染浄の二つの性質の働きを備えているため、染と浄の二つの薫習の力によって、世間と出世間の法を生み出すことができる。ゆえに経典には「如来蔵は善・不善の因である」と説かれている。また別の経典には「心の本性は一つであるのに、なぜ様々な果報を生み出すのか」と説かれている。さらに別の経典には「諸仏の正遍知の海は心の想いから生じる」と説かれている。このように、染も浄も平等であることを「如」と言い、染も浄も生み出すことを「来」と言う。ゆえに「能生」という名の如来蔵というのである。

能藏所藏能生並是藏義。能藏雙約在纏出纏言之。所藏單約在纏言之。能生直約現前一念言之。文並易知。

「能蔵」と「所蔵」、そして「能生」の三つが、すべて「蔵」の意味をなすものです。

「能蔵」は、煩悩に覆われた状態と、そこから解脱した状態の両方について述べています。

一方、「所蔵」は、煩悩に覆われた状態だけについて述べるものです。

また、「能生」は、ただ現在の一瞬の心の働きについてのみ述べています。

これらの文言はいずれも、比較的理解しやすいものです。

△六釋法界。

六釋の法界を説明します。

問曰。云何復名淨心以為法界。答曰。法者法爾故。界者性別故。以此心體法爾具足一切諸法。故言法界。

問います。では、この「清らかな心を法界と名づける」とは、どういう意味でしょうか。

答えます。「法」とは、自然にそうであることです。「界」とは、性質の区別があることです。この心の本体が、自然にすべての諸法をそなえていることから、「法界」と名づけるのです。

△七釋法性。

▲七、法性(法の本質)について解き明かす。

問曰。云何名此淨心以為法性。答曰。法者一切法。性者體別義。以此淨心有差別之性故。能與諸法作體也。又性者體實不改義。以一切法皆以此心為體。諸法之相自有生滅。故名虗妄。此心真實不改不滅。故名法性也。

問い:どうしてこの清らかな心を「法性」と名づけるのですか?

答え:「法」とはすべての現象を指し、「性」とはそれらの本質や特性を意味します。この清らかな心は、さまざまな現象と区別される独自の性質を持つため、あらゆる現象の基盤となりえます。

また「性」には、その本質が真実で変わることがないという意味もあります。なぜなら、すべての現象はこの心を基盤として成り立っており、現象の形は生まれたり消えたりするため「虚妄」と呼びますが、この心そのものは真実で、変化せず、消えることがありません。だからこそ「法性」と名づけるのです。

初一釋約不變隨緣差別性。次一釋約隨緣不變真實性也。

**第一に、変わらざる本質が縁にしたがって様々な姿を現すという、その違いについて説明します。 次に、縁にしたがって様々に現れながらも、変わらざる真実の性質を持つということについて説明します。**

△三結成。

三つの結び(三結)が完成する。

其餘實際實相等無量名字不可具釋。上來釋名義竟。

その他、真実の姿(実相)など数えきれないほどの名称がありますが、ここでは説明しきれません。以上で名称の意味についての解説を終わります。

實者真實。際者邊際。心外無法。法唯是心。無邊際故名為實際。無妄想故名為實相。等者等餘法住法位及中實理心一實境界等諸名字也。

真実とは「真の実相」、際とは「果て」のことです。心の外に法(ものごと)はなく、すべての法はただ心そのものです。果てしがないので「実際」といい、妄想がないので「実相」といいます。「等」とは、その他「法住法位」や「中実理心」「一実境界」などの名称と同じ意味です。

大乘止觀法門釋要卷第一

大乗止観法門釋要 巻第一


二廣作分別
第二

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