傅大士
大士の姓は傅、名は翕、字は玄風。婺州義烏県の人。父の名は宣慈、字は広愛。母は王氏。代々農家であった。斉の建武四年丁丑歳、五月八日に生まれる。端正で穏やか、素朴で温和、何にも執着することがなかった。幼い頃から学問せず、しばしば里人と漁に出た。魚を得るたびに、常に竹籠に入れ、深い水の中に沈めて言った。「行く者は行け、留まる者は留まれ」。当時の人は愚かだと思った。
梁の天監十一年、十六歳の時、劉氏を娶り、名を妙光といった。子をもうけ、一人は普建、二人目は普成。普通元年、二十四歳の時、稽停塘の下で、一人の梵僧(インドの僧)に出会う。号を嵩頭陀という。その僧は大士に言った。「私は昔、あなたとともに毘婆尸仏の前で願を発した。あなたは今、兜率天宮で受用しているが、いつ還ってくるのか」。そこで水辺に臨んで影を見るよう命じると、円光と宝蓋が現れた。大士は笑って言った。「鞴(ふいご)のあるところには鈍鉄が多い。良医の門には病人が足りる。衆生を度すことが急務である。どうして天の楽しみを思う暇があろうか」。そこで松山の下、双檮樹の間に庵を結んだ。これが今の双林寺である。自ら「双樹下当来解脱善慧大士」と号した。昼は妙光と共に働き、夜は行道した。その時、釈迦・金粟・定光の三仏が光を放ち、大士の身に集まった。それ以来、身からは常に妙香が発せられた。また七仏が相随うのを感じ、釈迦が前を引き、維摩が後ろを接した。毎朝、鐘が鳴ると、仙人が空を飛び降りて来て、行道を随喜した。
かつて弟子に言った。「私は首楞厳三昧を得た」。また言った。「私は無漏智を得た」。弟子たちは皆言った。「首楞厳三昧は、十地の菩薩にのみ得られるものだ。故に大士は十地に住する菩薩であり、凡夫と同じ姿を示しているに過ぎないのだ」。大衆に告げて言った。「学道する者、もし無生の師に遇わなければ、ついに道を得ることはできない。私は現前に無生を得た者である。かつてこの事を隠していたが、今は覆い隠さず、汝らに示す」。また弟子が礼拝すると、大士は言った。「汝らが私を礼するのは、ただ殿中の仏を礼せよ。それが即ち私の形像である」。また言った。「私は夢の中で、過去の師を思い出した。名を善明世尊という」。ある者が問うた。「善明世尊は、得道時の師ですか、それとも発心時の師ですか」。答えて言った。「発心時の師ではない。その仏が出世した時、私は国王であった。その仏を供養した。その仏の寿命は八万歳。私が仏となる時、寿命もまたそのようであろう」。
大通六年、大士は宮廷に赴いた。武帝が大士に問うた。「師は誰に従って事えるのか」。答えて言った。「従うところなく従い、師とするところなく師とし、事えるところなく事える」。これ以来、天下の名僧が雲のごとく集まった。この場所には常に甘露が降った。大士は自ら経律を書き写し、千巻余りに及んだ。すべての衆生が苦を離れ、解脱することを願って。
大士は三度都に赴き、度した僧俗は数え切れなかった。弟子に言った。「私は賢劫千仏の中の一仏に過ぎない。もし千仏の中に生まれたいと願えば、即ち私に会えるであろう」。また大衆に告げて言った。「私がこの身を捨てる時、嵩頭陀と期して、暫く忉利天に行き、やがて兜率天に還る。汝らがそこに生まれたいと願えば、即ち私に会えるであろう」。
大同八年、上齋(断食)を誓って行い、願文を作った。「弟子善慧、今釈迦世尊、十方三世の諸仏、尽虚空遍法界の常住三宝に啓す。弟子、自ら念うに、今生において心のままに布施し、苦しむ衆生を抜き救うことはできない。今より誓って三年、上齋を行い、毎月六日は飲食を断つ。この飢えと渇きの苦しみをもって、一切衆生に代わって罪業の報いを償い、速やかに解脱を得させたい。また、食さない分の糧をもって、広く布施を行い、すべての衆生が世々に財と法に満ち足り、永遠に愛染を離れ、三業を作らず、大総持を得て、諸魔を摧伏し、無上道を成じることを願う。身命財を捨てて誓い、普く一切のために諸仏を供養する。謹んで不食の上齋を持し、滅度を取る。志を執りて身を焼き、大いなる明燈となり、一切のために三宝を供養する」。そこで先に大衆に告げて言った。「憂い悩むなかれ。物には生あり死あり、事には成りあり敗れあり。天下の恩愛は、皆離別するものである。今この穢濁の身を捨てて、無上の清浄法身を得る。ただ願わくは、徒衆よ、悲しみ恋しむなかれ。生生世世、互いに捨て離れず、永遠に眷属となり、仏道を成じるまで。ただ自ら率い合い、共に薪を調え、双林山頂に火龕を作る。この因縁をもって、未来の世界において必ず仏事となり、一切を普く度し、共に解脱することを願う」。
四月八日、弟子の留堅意、范難陀ら十九人が、それぞれ師主に代わって、不食の上齋を行い、及び身を焼いて三宝を供養することを請うた。また四部の弟子たちが、心を刺し、指を焼き、耳を切り、大士が久しく世間にとどまることを願った。大士はまた言った。「私は悟道してすでに四十劫になる。釈迦世尊はようやく発心したばかりである。身を捨てて苦行を行うことができるから、私より先に仏となったのであろう」。
嵩頭陀が入滅すると、大士は心の中で自らそれを知った。そこで諸弟子を集めて言った。「嵩公はすでに兜率天宮に還って私を待っている。私と共に衆生を度す者は、すでに尽きてしまった。私は決して久しく世に住むことはない」。そこで還源詩十二章を作った。
時は太建元年、歳次己丑、夏四月、丙申朔、大士は病に臥した。その子の普建・普成の二法師に告げて言った。「私は第四天より来たり、衆生を度すためである。汝らは慎んで三業を護り、精勤して六度を行い、懺悔の法を行い、三塗に堕ちることを免れよ」。二師が問うた。「もし世に住まなければ、衆はあるいは離散し、仏殿も完成しないかもしれません。どうすればよいでしょうか」。大士は言った。「私が世を去った後、あるいは相を現すであろう」。
二十四日乙卯、大士は涅槃に入った。時に七十三歳。肉色は変わらず、三日後、全身が再び温かくなり、形相は端正で清潔、手は柔らかく動いた。さらに七日後、烏傷県令の陳鍾耆が香火を求め、結縁の因として来た。香を取り、四衆が次第に伝えた。次に大士に及ぶと、大士はなおも手を返して香を受けた。沙門の法璿らは言った。「私たちは幸いにも、菩薩が還源の相を示されるのに預かり、自ら手を下さって香を伝えられた。これは異ならざることを表し、後世に聖なる教化の余芳を知らしめるためである」。
初め、大士が未だ亡くならない時、弟子に言った。「私が滅度した後、私の臥牀を動かしてはならない。後七日、法猛上人が織成の弥勒仏像を送ってくるであろう。長く私の牀上を鎮め、形相を標すためである」。七日になると、果たして弥勒仏像と一つの小銅鐘を持ってきて、大士の牀上に安置した。猛はその時礼をして涙を流し、たちまち忽然として見えなくなった(詳しくは本伝に載せられている。これは大士が首楞厳三昧を証し、このような示現をしたのである。首楞厳三昧経に明らかである)。