大方廣佛華嚴經疏卷第一(并序)
大方広仏華厳経疏 巻第一(并序)
唐清涼山大華嚴寺沙門澄觀撰
唐の清涼山大華嚴寺の沙門、澄観による撰述
往復無際、動靜一源,含眾妙而有餘、超言思而逈出者,其唯法界歟。剖裂玄微、昭廓心境,窮理盡性、徹果該因,汪洋冲融、廣大悉備者,其唯《大方廣佛華嚴經》焉。故我世尊十身初滿、正覺始成,乘願行以彌綸、混虛空為體性,富有萬德、蕩無纖塵,湛智海之澄波,虛含萬象;皦性空之滿月,頓落百川;不起樹王,羅七處於法界;無違後際,暢九會於初成。盡宏廓之幽宗、被難思之海會,圓音落落,該十剎而頓周;主伴重重,極十方而齊唱。雖空空絕跡,而義天之星象燦然;湛湛亡言,而教海之波爛浩澣。若乃千門潛注,與眾典為洪源;萬德交歸,攝群經為眷屬。其為旨也,冥真體於萬化之域、顯德相於重玄之門,用繁興以恒如、智周鑑而常靜,真妄交徹,即凡心而見佛心;事理雙修,依本智而求佛智。理隨事變,則一多緣起之無邊;事得理融,則千差涉入而無礙。故得十身歷然而相作、六位不亂而更收,廣大即入於無間、塵毛包納而無外,炳然齊現猶彼芥瓶、具足同時方之海滴。一多無礙,等虛室之千燈;隱顯俱成,似秋空之片月;重重交映,若帝網之垂珠;念念圓融,類夕夢之經世;法門重疊,若雲起長空;萬行芬披,比華開錦上。若夫高不可仰,則積行菩薩曝腮鱗於龍門:深不可闚,則上德聲聞杜視聽於嘉會。見聞為種,八難超十地之階;解行在躬,一生圓曠劫之果。師子奮迅,眾海頓證於林中;象王迴旋、六千道成於言下。啟明東廟、智滿不異於初心;寄位南求,因圓不逾於毛孔。剖微塵之經卷則念念果成、盡眾生之願門則塵塵行滿,真可謂常恒之妙說、通方之洪規,稱性之極談、一乘之要軌也。尋斯玄旨,却覽餘經,其猶杲日麗天,奪眾景之耀;須彌橫海,落群峯之高。是以菩薩搜祕於龍宮、大賢闡揚於東夏。顧惟正法之代尚匿清輝、幸哉像季之時偶斯玄化,況逢
往復にとどまるところなく、動靜も一つの源にあり、あらゆる妙を内包しながらもなお余りあり、言葉や思考を超えてはるかに現れているもの――それが法界なのである。深遠な微細を分析し、心と境を明らかにし、理を極めて性を尽くし、因も果もすべて収め、広大で深遠、すべてを余すところなくそなえているもの――それが『大方広仏華厳経』なのである。
それゆえ、我が世尊は十身が初めて満ち、正覚が成就したばかりのとき、願行に乗って万法をめぐらし、虚空をその体性とし、あらゆる徳を豊かにそなえ、わずかな塵もなく澄みわたっていた。智海の澄んだ波は静まり、万象を虚空に映し出し、性空の満月は輝き、たちまち百の川に映る。「樹王」に座したままで、七つの処を法界にめぐらせ、未来際に背くことなく、九つの会を初成のときに開演された。広大で深遠な幽玄の教えを極め、思いもよらぬ海のような会衆を教化し、円満な音声ははっきりと響き、十方の仏国土を一瞬に覆い、主と伴は重なり合い、十方に至るまで一斉に説かれる。
虚しくも絶えて跡がないのに、真理の空に星のように教えはかがやき、静かに言葉を絶しているのに、教えの海には波が広がり豊かである。千の法門はひそかに流れ込み、あらゆる経典の源となり、万の徳はすべて帰し、あらゆる経典を眷属として収める。その要旨は、万物の世界に真実の体を冥合させ、重重の玄門に徳の相を顕すことにある。働きが盛んに起こっても常に変わらず、智慧はあまねく照らして常に静か、真と妄は互いに交わり、凡夫の心のままに仏の心を見る。事と理をともに修行し、本有の智慧に依って仏の智慧を求める。理は事に従って変化し、一と多の縁起は無限である。事は理によって融和され、千差万別のものが入り交じって障りがない。
そのため、十身は明らかに現れて互いに働き、六位は乱れることなくお互いを収め、広大なものは微細なものの中に入り、塵や毛もすべてを包み外がない。明らかに同時に現れることは芥子と瓶のようであり、すべてをそなえ同時であることは海の一滴のようである。一と多は障りがなく、虚空の室の千の灯明のようである。隠れたものと現れたものはともに成立し、秋の空の一片の月のようである。重なり合い映り合うことは、帝釈天の網にかかった宝石のようである。一念一念が円満に融和することは、夕べの夢が長い歳月を経るようである。法門は重なり、雲が長空に湧き上がるようであり、万行はあらわれること錦に花が咲くようである。
さて、高くて仰ぐことができないので、長く修行を積んだ菩薩も竜門で鱗をさらすことになる。深くて窺うことができないので、高徳の声聞もこの盛会で見聞を閉ざす。見聞は種となり、八難の者も十地の位を超える。理解と実践をわが身にそなえ、一生のうちに遠い劫の果を円満に得る。師子奮迅のごとく、多くの海会の者が林の中でたちまちに証得し、象王が回旋するように、六千の者が言葉のうちに道を成就する。東の廟で明らかにされ、智慧の満ちることは初めの心と異ならない。南に求めて位を託すも、因の円満は毛穴を超えない。微細な塵の経巻を開けば、一念一念に果が成就し、すべての衆生の願いの門を尽くせば、一塵一塵に行いが満ちる。まことに、これこそ常に変わらぬ不思議な説法、あまねく通じる大きな規範、本性にかなった究極の談義、一乗の大切な道すじなのである。
この深遠な教えを尋ねて、他の経典を顧みれば、それはあたかも輝く太陽が空にかがやき、すべての光の輝きを奪い、須弥山が海にそびえ、すべての峰の高さを凌ぐようなものである。それゆえ、菩薩は竜宮でこの秘蔵を探し求め、すぐれた賢者が東方の地でこれを広く説き明かした。考えてみれば、正法の時代ですらその清らかな光は隠れていた。幸いなことに、像法の時代である今、この不思議な教えに出会うことができたのである。ましてや、
聖主,得在靈山,竭思幽宗,豈無慶躍!
聖なる主よ、霊山において得るものあり、幽玄の教えを極めんと思考を尽くす。歓喜の舞い上がらぬことなどあろうか!
題稱大方廣佛華嚴經者,即無盡修多羅之總名。世主妙嚴品第一者,即眾篇義類之別目。大以曠兼無際,方以正法自持,廣則稱體而周,佛謂覺斯玄妙,華喻功德萬行,嚴謂飾法成人,經乃注無竭之涌泉、貫玄凝之妙義,攝無邊之海會、作終古之常規。佛及諸王並稱世主,法門依正俱曰妙嚴,分義類以彰品名、冠群篇而稱第一。斯經有三十九品,此品建初,故云大方廣佛華嚴經。
題して大方広仏華厳経と称するものは、すなわち尽きることのない経典の総称である。世主妙厳品第一とは、諸々の章の意味や種類を分類した別の名称である。「大」とは広大にして限りがないこと、「方」とは正しい法を自ら保つこと、「広」とは体にかなって遍く行き渡ること、「仏」とはこの玄妙なる真理を覚ること、「華」とは功徳と万行を譬え、「厳」とは法をもって人を飾り整えること、「経」とは尽きることのない源泉を注ぎ、玄妙で凝った意味を貫き、限りない海会を収め、永遠の規範となるものである。仏および諸王はみな世主と称され、法門と依報正報は共に妙厳と呼ばれる。意味の種類を分けて品の名を明らかにし、多くの篇章の先頭に立ち第一と称する。この経には三十九品あるが、この品が初めをなす。ゆえに大方広仏華厳経というのである。