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中本起経 (中本起經)

「中本起經」について

後漢 · 底本の訳者:曇果共康孟詳

2.1 万字 · 約 72 分

『中本起経』は、後漢の訳経僧である曇果と康孟詳によって建安十二年(207年)に共訳された、初期中国仏教における重要な経典の一つです。この経は阿含部に属し、釈迦牟尼が成道後の中期における説法の事跡を記しており、迦葉三兄弟の教化や舎利弗・目犍連の帰依など、重要な出来事を含んでいます。現存する最も古い漢訳仏典の一つとして、質朴な後漢時代の語り口を保ち、仏教が中国に初めて伝来した時期の訳経史と思想の広がりを研究するうえで貴重な文献となっています。大乗仏教の経典体系においても、仏陀の行跡を伝える基礎的な著作として位置づけられています。


中本起經卷上(次名四部僧,出長阿含)

中本起経 巻上

後漢西域沙門曇果共康孟詳譯

後漢西域沙門 曇果・康孟詳 共訳

轉法輪品第一

転法輪品 第一

阿難曰:「吾昔從佛聞如是。」

阿難が言いました。「私はかつて仏様からこのように聞きました。」

一時佛在摩竭提界善勝道場元吉樹下,德力降魔,覺慧神靜,三達無礙,度二賈客,提謂波利,授三自歸,然許五戒,為清信士已。惟昔先佛,名曰定光,拜吾佛名:「汝於來世九十一劫,當得作佛,字釋迦文,號如來、至真、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師、眾祐,度人如我今也。」吾從是來,修治本心,六度無極,積功累行,四等不倦,高行殊異,忍苦無量,功報無遺,大願果成。

ある時、仏はマガダ国の善き勝利の道場、元吉の木の下にいらっしゃいました。その徳の力で悪魔を降伏させ、智慧は清らかで静かになり、過去・現在・未来にわたる三つの達観に障りはありませんでした。そして、二人の商人、提謂と波利に教えを説き、三自帰(仏・法・僧への帰依)を受けさせ、さらに五戒を許し、在家の信者とされました。

かつて、釈迦牟尼仏以前の仏である定光如来が、私(釈迦牟尼仏)にこう告げられました。「あなたは来世、九十一劫の後に、必ず仏となり、その名を釈迦文と称するであろう。その称号は如来、至真、等正覚、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師、衆祐であり、今の私がそうであるように、人々を救うであろう。」私はその時から、本来の心を修め、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を限りなく実践し、功徳と行いを積み重ね、四無量心(慈・悲・喜・捨)を倦むことなく修めました。その高潔な行いは並外れており、耐え難い苦しみを無量に受け入れましたが、その功徳に報いのないことはなく、大きな願いはついに実を結びました。

世尊念曰:「吾本發心,誓為群生梵釋請法,甘露當開,誰應先聞?昔吾出家,路由梵志阿蘭、迦蘭,待吾有禮,二人應先。」念已欲行,天承聖旨,空中白言:「彼二人者,亡來七日。」佛言:「苦哉!阿蘭、迦蘭,甘露當開,汝何不聞?」

世尊はお考えになった。 「私は本来、一切の衆生の救済を誓い、梵天や帝釈天の請いを受けて法を説くことを決意した。甘露の教えを今こそ開くにあたり、だれが最初に聞くべきだろうか。 かつて私が出家した際、修行者アーラーダとウドラカの道を通り、彼らは私に礼儀正しく接してくれた。この二人こそ先に聞くべきであろう。」

こうお考えになり、行動を起こそうとした時、天が聖なる意思を受け、虚空から告げた。 「あのお二人は、七日前に亡くなられました。」

仏は言われた。 「何と悲しいことか。アーラーダよ、ウドラカよ。甘露の教えを開こうという時に、あなたたちはそれを聞くことができなかった。」

佛復惟曰:「甘露當開,誰應次聞?欝頭藍弗,次應得聞。」方起欲行,天復白言:「此人者,昨暮命終。」佛言:「彼人長衰,甘露當開,不得受聞,生死往來,何緣得息?五道輪轉,痛矣奈何!」

仏は再びお考えになった。「甘露の教えを説く時が来た。次に誰がこの教えを聞くべきだろうか。鬱頭藍弗(ウッドラカ・ラーマプトラ)*が次に聞くべきであろう。」そして立ち上がり、出かけようとされたその時、天人が再び告げた。「その人は昨夜、命を終えました。」仏は言われた。「あの人は長きにわたり不運であった。甘露の教えが説かれようとしていたのに、それを聞くことができなかった。生まれ変わり死に変わりする輪廻の苦しみは、どうして終わりを得られようか。五つの道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)を巡り続けるとは、まことに嘆かわしく、どうしようもないことである。」

*「鬱頭藍弗」は音写。現代読者には難解なため、原文の固有名詞として扱い、補足注釈は不要。ただし、文脈から人物が特定できるよう、カタカナで表記することで流れを保つ。

佛復惟曰:「甘露法鼓,聞于三千大千世界,誰應得聞?父王昔遣五人:一名拘憐、二名頞陛、三名拔提、四名十力迦葉、五名摩南拘利。供給麻米,執侍勞苦,功報應敘。」

また仏は思われた。「甘露の法鼓(甘露のような教えの響き)は三千大千世界に届いている。誰がその音を聞くべきだろうか。父王が昔、五人の者を遣わした。その名は拘憐(くりん)、頞陛(あくび)、抜提(ばつだい)、十力迦葉(じゅうりきかしょう)、摩南拘利(まなんくる)である。彼らは麻や米を差し出し、苦労して仕え尽くした。その功績には報いるべきであろう。」

時五人者,皆在波羅奈國。於時如來始起樹下,相好嚴儀,明耀於世,威神震動,見者喜悅,徑詣波羅奈國。未至中間,道逢梵志,名曰優吁。瞻覩尊妙,驚喜交集,下在道側,舉聲歎曰:「威靈感人,儀雅挺特,本事何師,乃得斯容?」

その頃、五人の修行者たちは皆、バラナシ(波羅奈国)にいた。その時、如来(仏陀)は菩提樹の下から立ち上がられた。その姿は美しく整い、世界に輝き渡り、神々しいまでの威光が人々を震憾させた。見る者はみな喜びに満たされた。如来はそのままバラナシへと向かわれた。道中、まだ目的地に着かぬうちに、一人の修行者(梵志)に出会った。その名をウユウ(優吁)といった。彼は如来の尊く素晴らしいご様子を一目見て、驚きと喜びが入り混じった。道端にひざまずき、声をあげて称賛した。「その威光は人の心を打ち、姿は気高く際立っています。どのような師に師事されれば、そのようなお姿を得ることができるのですか?」

佛為優吁,而作頌曰:

仏は優吁(うく)に、この偈(げ)を説かれました。

「八正覺自得, 無離無所染,
愛盡破欲網, 自然無師受。
我行無師保, 志獨無伴侶,
積一行作佛, 從是通聖道。」

「八つの正しい覚りを自ら得て、執着もなく染まることもない。 愛欲を尽くし、欲望の網を打ち破った。それは自然に体得したもので、師から教えられたものではない。 私は師に守られることなく歩み、志はただ独りで、伴侶もない。 一つの行いを積んで仏と成り、ここから聖なる道に通じたのである。」

優吁問佛:「瞿曇如行?」

ウユウが仏に尋ねました。「ゴータマよ、あなたはどのように修行されるのですか?」

佛告梵志:「吾欲詣波羅奈國,擊甘露法皷,轉無上輪,三界眾聖,未曾有轉法輪,遷人入泥洹,如我今也!」

仏は梵志に告げられた。「私はバラナシ国へ行こうと思う。甘露の法の太鼓を打ち鳴らし、無上の法輪を回すつもりだ。この法輪は、三界の全ての聖者たちも、かつて回したことがない。それは人々を涅槃へと導く法輪だ。今の私がそうするように。」

優吁大喜曰:「善哉!善哉!如瞿曇言者,願開甘露,如應說法。」

優吁は大いに喜んで言いました。「素晴らしい、まことに素晴らしい。お師匠さまのおっしゃる通りです。どうか甘露の教えを施し、それに応じて説法してください。」

於時如來,便詣波羅奈國古仙人處鹿園樹下,趣彼五人。五人遙見佛來,便共議曰:「我等勤苦,室家離別,登山越嶺,困苦疲極,正坐此人,供給麻米,謂其叵堪。因魔來戰,是以委藏。今故復來,一麻一米,我等不堪,今起求食,奈何能辦?但為施坐,各莫跪起言語問訊也。得此不樂,必自去矣。」

その時、如来(仏陀)はバラナシ(波羅奈)の国へと向かい、古の仙人のいた鹿園(鹿野苑)の木の下にいる五人(五比丘)のもとへ赴いた。

五人は遠くに仏陀が来られるのを見て、互いに話し合った。「我々は苦労を重ね、家を離れ、山を越え、疲れ果ててきた。それもみな、この人のために麻や米を供給してきたからだ。かつて彼は耐え難い困難に遭い、悪魔が戦いを挑んできたため、隠れていた。今また戻ってきて、たった一つの麻や米さえも、我々にはもう耐えられない。今、立ち上がって食べ物を求めるとしても、どうやって賄えようか。ただ座る場所を用意してやり、それぞれ立ったりひざまずいたり、言葉を交わしたり挨拶をしたりしてはならない。このように不愉快にさせれば、彼は自ら去っていくだろう。」

是時世尊,為其五人,現道神足,五人身踊,不覺作禮,執侍如前。佛告五人:「共議勿起,今作禮何謂?」

そのとき、世尊は五人の修行者たちに神通の力を示されました。すると五人の身体が自然と浮かび上がり、知らず知らずのうちに礼拝していました。その後も以前と同じように仕えていました。そこで佛は五人の者たちに告げられました:「あなたがたは相談して起き上がろうとしない。今、礼拝するのはどういうわけか。」

五人悉對曰:「吾坐悉達,更歷勤苦,悅頭檀王,暴逆違道,皆由於卿。」

五人全員が口をそろえて言った。「私たちが苦しみ続けてきたのは、すべておまえ(悉達)のせいだ。さらに苦労を重ね、悦頭檀王が乱暴で道理に反する振る舞いをしたのも、すべておまえのせいだ。」

佛告五人:「汝莫卿無上正真、如來、平等覺也,無上正覺,不可以生死意待也。何得對吾面稱父字?」又告五人:「汝觀吾身,何如樹下?」

仏は五人の修行者に告げられました。「あなたがたは、私を『無上の正しい真実の悟りを得た如来、平等なる覚者』と見なしてはいけません。無上の正しい悟りは、生死の迷いの心で理解できるものではないのです。どうして私の前で父の名前を呼ぶことができるのですか?」さらにまた告げられました。「あなたがたは、私のこの姿を、あの菩提樹の下で修行していた時と比べて、どう思いますか?」

五人答佛:「爾時憔悴,今更光澤,爾時處樹,閉目端坐,日食麻米,猶謂非道;況入人間,身口自恣,何謂為道?」

五人が答えた。「あなたはあの時、やつれていました。今はふっくらとして、輝いています。あの時は木の下で目を閉じて坐禅していましたが、麻や米を食べていても道ではないと言っていました。まして、人間の社会に入り、身も口も好き勝手にしていたら、どうして道と言えるでしょうか?」

佛告五人:「世有二事,以自侵欺。何謂為二?殺生婬泆,恃豪貪欲;極身勞苦,內無道跡。無是二事,是真道人。不於九十六術,亦不捨遠,是為取中,無有兩際。何謂取中?得覺慧行,遠於眾智,六通悉覺,具八正行,是名取中,止宿泥洹。」

仏陀は五人の修行者たちに告げられた。 「世の中には、自らを欺き苦しめる二つの道がある。その二つとは何か。 一つは、殺生や淫らな行いにふけり、権力や欲望に執着すること。 もう一つは、身を極限まで苦しめながら、内面に悟りの道が無いことである。

この二つの道から離れた者が、真の修行者である。 九十六種の外道の教えに固執せず、かといってそれらを遠ざけもせず、その中道を取る。 そこには両極端はない。

では、中道を取るとは何か。 正しい覚りと智慧の行いを得て、様々な浅知恵を超え、六つの神通力を全て覚り、八つの正しい行いを具えること。これを中道を取ると言い、ここに留まり、平安の境地(涅槃)に至るのである。」

佛說是法,五人未解。三人分衛,二人供養,為說色苦:「一切眾禍,皆由色欲,眾好無常,人亦無住。譬如幻師,出意為化,愚者愛戀,貪而無厭,幻主觀化,無染無著。所以者何?偽非真故。」

ブッダがこの教えを説いたが、五人のうちまだ理解できない者がいた。三人は托鉢に出かけ、二人はブッダに仕えていた。ブッダは彼らに「色(物質的なもの)の苦しみ」について説かれた。 「すべての災いの原因は、色への執着にある。美しいものは全て無常であり、人もまた永く留まることはない。まるで幻術師が思いのままに幻を創り出すように、愚か者はそれを愛し執着し、貪って満足することを知らない。しかし、幻術を見ている師匠は、それに染まらず執着しない。なぜなら、それは偽りであり真実ではないからである。」

佛為二人,而作頌曰:

仏が二人のために、次のように偈を説かれました。

「志蕩在欲行, 嗜欲增根栽,
貪色怨禍長, 離欲則無患。」
三人供養,二人分衛,為說貪苦:「好利求榮,迷愚所專,害行毀德,壹由於貪。喜怒得失,欲者無厭,斯利危脆,若雲過庭,老病死來,靡不分散。譬如人夢,寤則無見,黠能捨貪,乃得大安。」

三人で供養をし、二人で托鉢に出かけ、貪りの苦しみについて説いた。 「利益を求め、栄光を追うことは、愚かさに迷う人々の専らとするところであり、善行を損ない、徳を壊すのは、すべて貪りの心による。喜びも怒りも、得ることも失うことも、欲に駆られる者には満足というものがない。この世の利得は危うく脆く、ちょうど雲が庭先を通り過ぎるようなものだ。老いや病い、死が訪れれば、すべては散り散りになってしまう。例えば、夢を見ている人が目覚めれば何も見えないのと同じである。賢い人は貪りを捨てることができ、そうして初めて真の安らぎを得るのである。」

佛為三人,而作頌曰:
「貪欲意為田, 無厭心為種,
斷貪捨利求, 無復往來憂。」

欲望という田んぼがあり、その種は満たされない心です。 欲望を断ち、執着を捨ててしまえば、もう迷いの世界を行き来する憂いはなくなります。

於是世尊,因廣說法,不斷分部,五人便解,願為弟子。佛言:「善來!比丘!」皆成沙門。

そこで世尊は、教えを広く説き、段階を追って説明されました。すると五人の者たちは悟りを開き、弟子となりたいと願いました。仏は言われました。「さあ来なさい、比丘よ。」彼らは皆、沙門となりました。

佛告比丘:「行有二事,為墮邊際:一者念在色欲,無清淨志;二者猗愛著貪,不能清志行。是二事,還墮邊行,生不值佛,違遠真道。若能斷貪,精進修明,可得泥洹。何謂泥洹?先知四諦。何謂為四?一曰為苦、二曰為習、三曰為盡、四曰入道。如是比丘,次持覺慧一心思禪,受道報應,法眼以朗。解彼四諦,稍入道迹。何謂為苦?生苦、老苦、病苦、死苦、憂悲惱苦、恩愛別苦、怨憎會苦、所求失苦,要因五陰受盛為苦。何謂為習?所愛著習,不愛亦習。何謂為盡?其所有愛,覺知有滅,不愛不念,而覺皆盡。何謂入道?八正為真。一曰正見、二曰正利、三曰正言、四曰正行、五曰正命、六曰正治、七曰正志、八曰正定。是為苦習,以盡入道。真諦是為無生,無生者無老,無老者無病,無病者無死,無死者無痛,無痛者無上吉祥,向於泥洹。」

仏は比丘たちに告げられた。「修行には、二つの極端に落ち込む行いがある。第一に、色欲に心を奪われ、清らかな志を持たないこと。第二に、愛着や貪りに頼り、清らかな行いを進められないこと。この二つの行いは、極端な道に落ち、仏に出会うことなく、真実の道から遠ざかる。もし貪りを断ち切り、精進して智慧を磨き明らかにすれば、涅槃(ねはん)に至ることができる。では、涅槃とは何か?まず四つの真理(四諦)を知ることである。四つの真理とは何か?第一に苦しみ、第二に苦しみの原因、第三に苦しみの消滅、第四に悟りへの道である。比丘たちよ、このようにして覚りと智慧を保ち、一心に禅定(ぜんじょう)を思修し、道の教えを受け入れて報いを得れば、法の眼が明らかになる。その四つの真理を理解して、徐々に悟りの道に入るのである。何を苦しみというのか?生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみ、憂い悲しみ悩む苦しみ、愛する者と別れる苦しみ、憎む者と出会う苦しみ、求めるものが得られない苦しみ、これらは総じて五蘊(ごうん:物質と心の構成要素)に執着することで生じる苦しみである。何を苦しみの原因というのか?好きなものに執着すること、また嫌いなものにも執着することが原因である。何を苦しみの消滅というのか?その執着する思いがすべてありながら、それが消えることを覚り、嫌いなものや思わないものも、すべて消え去ることを覚ることである。何を悟りへの道というのか?八つの正しい道(八正道)が真実である。第一に正しい見解、第二に正しい思惟、第三に正しい言葉、第四に正しい行い、第五に正しい生活、第六に正しい努力、第七に正しい念、第八に正しい定(心の統一)。これが苦しみとその原因を消滅させて悟りの道に入るという真理である。この真実は無生(生まれないこと)であり、無生には老いがなく、老いがなければ病もなく、病がなければ死もなく、死がなければ苦痛もなく、苦痛がなければこの上ない幸せがあり、それは涅槃へと向かうのである。」

於時如來而作頌曰:

そのとき、如来は次のように偈(うた)を詠まれました。

「至道無往返, 玄微清妙真,
不沒不復生, 是處為泥洹。
此要寂無上, 畢故不造新,
雖天有善處, 皆莫如泥洹。」

「至極の道に行き来はなく、 深く微かで清らかで真実である。

沈むことも、再び生まれることもない。 その境地こそが涅槃である。

この要義は、静寂でこの上なく、 過去を終わらせ、新たなものを造らない。

たとえ天界に素晴らしい場所があっても、 涅槃に勝るものは何もない。」

說是法已,拘憐等五人,逮得法眼。佛告拘憐:「解未?」拘憐退席對曰:「未悟。」

この法を説き終えると、コンダンナたち五人は法の眼を得た。仏はコンダンナに問うた。「理解したか?」コンダンナは席を立ち、答えて言った。「まだ悟りを得ておりません。」

世尊又告拘憐:「過去久遠時有國王,名曰惡生,將諸妓女,入山遊戲。王令官屬,住頓山下,唯從妓女,步涉山頂。王疲極臥,諸妓女輩,捨王取華,見一道人端坐樹下,諸女心悅,皆前作禮。道人呪願,諸妹那來,命令就坐,為說經法。王覺求諸妓女,而見坐彼道人之前。王性妬害,惡心內發,便問道人:『何故誘他妓女,著此坐為?卿是何人?』道人豫知王意必興暴害,答曰:『是忍辱人。』王拔佩劍,削其兩臂而問:『何人?』答曰:『實忍辱人。』又截其耳鼻。心堅不動,猶言忍辱人。王見道人顏色不移,便前悔過。道人告王:『汝今以女色故,刀截我形,吾忍如地,必得平等正覺,當以一切大智斷汝生死。』王惟罪深,必獲重殃,叩頭于地,願見矜恕。道人告王:『吾真忍辱者,血當為乳,所截平復。』尋如所言,乳出形復。王見忍證,冀必全濟,重宣情言:『若真道成,願先度我。』道人答:『可。』王解迷止,辭退還宮。」

世尊はさらに拘憐に告げられた。「遠い昔、ある国に悪生という名の王がいました。王は多くの女官を連れて山に遊びに行きました。王は家来たちを山のふもとに留め、女官たちだけを連れて山頂に歩いて登りました。王は疲れ果てて横になりました。女官たちは王を置いて花を摘みに行き、一人の修行者が木の下に座っているのを見つけました。女官たちは心を楽しませ、皆が前に進み出て礼をしました。修行者は彼女たちに祝福の言葉を述べ、『妹たちよ、どこから来たのか』と言い、座るよう招き、経典の教えを説きました。

王が目を覚まして女官たちを探すと、彼女たちがその修行者の前に座っているのを見ました。王は元来嫉妬深く残忍で、悪心が内より湧き起こり、修行者に問いました。『なぜ私の女官たちを誘惑して、ここに座らせたのか。お前は何者だ。』修行者は王の心に必ずや暴虐の害が起こることを予見し、答えて言いました。『私は忍辱の人です。』王は佩剣を抜き、その両腕を切り落として問いました。『何者だ。』答えました。『本当に忍辱の人です。』さらにその耳と鼻を切り落としました。しかし心は堅固に動かず、なおも忍辱の人と言いました。

王は修行者の顔色が少しも変わらないのを見て、前に進み出て過ちを悔いました。修行者は王に告げました。『あなたは今、女の色香のゆえに、刀で私の身体を切りました。しかし私は大地のように忍び、必ず平等な正覚を得るでしょう。その時、一切の大智をもってあなたの生死を断ち切ります。』王は自らの罪が深く、必ずや重い災いを受けるであろうと思い、地に頭を下げて、どうか憐れみ許してほしいと願いました。

修行者は王に告げました。『私が真の忍辱の者であるならば、血は乳と変わり、切り落とされた部分は元通りになるでしょう。』すぐにその言葉の通り、乳が出て身体は元通りになりました。王は忍辱の証を見て、必ずや救われることを願い、改めて心からの言葉を述べました。『もし本当に悟りを成し遂げられたならば、どうか私を最初に救ってください。』修行者は答えました。『よろしい。』王は迷いを解き、その心を止め、辞して宮殿に帰りました。」

佛告拘憐:「爾時忍辱道人者,我身是也;惡生王者,拘憐是也。解未?拘憐!」拘憐退席白佛:「甚解!世尊!」說是法時,拘憐等五人,漏盡意解,皆得羅漢;及上諸天八萬,逮得法眼。三千世界,為大震動。是為如來始於波羅奈國以無上法輪轉未轉者,大度一切,莫不樂受。

仏は拘隣に告げられた。「その時、忍辱を修行した道人は、我のことであり、悪生王は、拘隣のことである。解ったか、拘隣よ。」 拘隣は座を退いて仏に申し上げた。「よく解りました、世尊よ。」 この法が説かれた時、拘隣ら五人は煩悩が尽きて心が解け、全て阿羅漢となり、さらに天上の八万の者たちも法の眼を得た。三千世界は大いに震動した。これが如来が初めて波羅奈国において、未だ回らざる無上の法輪を転じ、あまねく一切を度し、喜んで受け入れない者はいなかったという故事である。


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