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title: "法華經三大部補注 · 第六"
description: "宋代天台宗高僧從義所著的《法華經三大部補注》是對隋代智顗大師法華三大部的重要注釋性著作。該書基於宋代佛教義學發展的背景，對《法華玄義》《法華文句》《摩訶止觀》進行了深入系統的補充和闡發，內容涵蓋經義疏解、名相辨析以及觀行實踐。此作被視為天台宗解經史上的關鍵文獻，既繼承了智顗的學說精髓，又融匯宋代天台思想的新發展，對後世研究法華經及天台教觀具有極高的權威性和參考價值。"
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## 天台三大部補注卷第六

> 天台三大部補注 第六巻

妙經　文句　文句記

> 妙なる経典　文句　文句記

永嘉沙門釋　從義　撰記云：大種所起

> 永嘉沙門釈　従義　撰記に云う：大種より起こる

新譯諸論皆云大種，即四大種也。今之音聲即色大種，是故云也。亦如小乘發智論說：如來咽喉微妙大種，從此能生妙語音聲。婆沙：問曰：何名大種？答：大而是種，故名大種。如言大地及大王等，能減、能增、能損、能益，是為種義。體、相、形、量徧諸方域，能成大事，是為大義。金光明亦云：水、火、風種散滅壞時。難陀持戒。如止觀第四記

> 新しく翻訳された諸論では、すべて「大種」と言い、これはすなわち四大種のことです。今ここで言う音声はすなわち色大種であり、それゆえにこう言うのです。また、小乗の『発智論』にも説かれているように、如来の咽喉には微妙な大種があり、ここから妙なる語音声が生じます。『婆沙』には問うて言います：何を大種というのか？答え：大であり、しかも種であるから、大種というのです。例えば「大地」や「大王」などと言うように、減らすことも増やすこともでき、損なうことも益することもできる、これが種の意味です。その体・相・形・量が方々の領域に遍く行き渡り、大きな事を成し遂げることができる、これが大の意味です。『金光明経』にもまた説かれています：水・火・風の種が散り滅び壊れる時。難陀は戒を持する。『止観』第四の記のごとし。

前已指引，今更不云。經云：盡諸苦際

> 先に既に指し示したので、今更言うまでもない。経典にはこうある：「すべての苦しみの果てを尽くす」と。

婆沙問云：苦際為在苦中、為在苦外？若在苦中，不應言苦際。若在苦外，世間現喻云何通耶？猶如金籌，初中後等皆悉是金。苦亦如是，初中後等皆悉是苦，何名苦際耶？答曰：或有說者，阿羅漢最後陰是苦際。或云：滅盡涅槃是苦際。最後陰是苦際者，更不生苦故、不與苦相續故、不造苦因故。滅盡涅槃與現喻相違者，此不須通，以三藏中不云此故。記云：若例聲聞，須明行相

> 婆沙論で問うています：苦の果ては苦の中にあるのか、それとも苦の外にあるのか？もし苦の中にあるなら、苦の果てと言うべきではありません。もし苦の外にあるなら、世間の譬えはどう理解すればよいのでしょうか？ちょうど金の棒のように、初めも中も終わりもすべて金です。苦も同じで、初めも中も終わりもすべて苦であり、どうして苦の果てと呼べるのでしょうか？ 答え：ある説では、阿羅漢の最後の五蘊が苦の果てであるといいます。またある説では、滅尽涅槃が苦の果てであるといいます。最後の五蘊が苦の果てであるというのは、それ以降に苦が生じず、苦と続かず、苦の因を作らないからです。滅尽涅槃が現世の譬えと矛盾するという点については、これは解釈する必要はありません。三蔵の中にこのことは説かれていないからです。 記録によれば、もし声聞に例えるなら、その行いの様相を明らかにする必要があります。

逆順推見愛十二因緣，具如四念處中。以小乘中無十方佛

> 逆の順序で推し進めて愛を観察する十二因縁は、四念処の中に詳しく説かれている通りです。小乗の教えの中には十方の仏は存在しないとされています。

若準大論引阿含云：東方世界有無量等。是故小乘亦不言有，亦不言無。若言有者，眾生懈怠，不求度故。大論又說：聲聞但於一佛身心見十方佛，菩薩乃於無量佛土中念十方佛。若薩婆多云：無十方佛。若僧祇中說：有十方佛。若成實論云：一世界無，多世界有。當知此皆所計不同耳。今以大、小對辨，小乘中則無，大乘中則有。又見佛子，故云見

> もし大論が阿含経を引用して言うように、東方の世界には無量の仏がおられるとすれば、小乗仏教では「ある」とも「ない」とも言いません。「ある」と言えば、衆生が怠けて解脱を求めなくなるからです。大論はまた、声聞はただ一仏の心の中で十方の仏を見るが、菩薩は無量の仏国土の中で十方の仏を念じると説いています。もしサルヴァースティヴァーダ派が「十方の仏は存在しない」と言い、大衆部が「十方の仏は存在する」と言い、成実論が「一つの世界には存在しないが、多くの世界には存在する」と言うならば、これらはそれぞれの見解が異なるだけだと知るべきです。今、大乗と小乗を対比して見ると、小乗には存在せず、大乗には存在します。また仏弟子を見るからこそ、「見る」と言うのです。

準經合云於此悉見，又覩諸佛故云見矣。殑伽河

> 『準経』には、「ここにおいてすべてを見、また諸仏を観る」とあるので、「見」と言うのです。ガンジス川のように。

殑，其升切。經云恒沙，或云恒迦河，又云強伽河，此云天堂來。以西竺外書云：本入摩醯首羅天頂，從耳中流出地上，以此天化身在雪山頂，故作此云。以見從高處來，乃云天堂來也。今且順彼之說，是故云也。信度河

> 殑（ぎょう）は、その音は「升」に切る。経典に「恒沙（ごうしゃ）」とあるのは、あるいは「恒迦河（ごうかが）」とも言い、また「強伽河（ごうかが）」とも言う。これは「天より来る」という意味である。西インドの外典によれば、もとはマヘーシュヴァラ天の頂に入り、耳から流れ出て地上に至ったという。この天の化身が雪山の頂にあるため、このように言われたのである。高いところから来るのを見て、天より来ると言うのである。今はひとまずその説に従い、このように言うのである。シンドゥ川。

亦言辛頭河，此云驗河也。縛芻河

> また、シンドゥー河とも言い、これは験河とも云います。縛芻河。

亦言博叉河，此云生丹河也。徙多河

> また、博叉河とも言い、これは生丹河と呼ばれる川です。徙多河。

亦言私多，又言悉陀，或言私陀，此云冷河也。經云：金、銀、珊瑚

大論云：金出山沙石赤銅中，銀出燒石中。珊瑚。珠名也。說文云：生海中，其色赤。真珠。摩尼

> 大論には、金は山の砂石や赤銅の中から生じ、銀は焼石の中から生じると説かれています。珊瑚は珠の名であり、説文には海中に生じ、その色は赤いとあります。真珠は摩尼です。

大論云：真珠出魚腹中、竹中、蛇腦中。摩尼，亦云末尼，此翻離垢。硨磲，碼碯

> 大論に云う：真珠は魚の腹中、竹の中、蛇の脳中より出ず。摩尼は、また末尼とも云い、ここに離垢と翻訳す。硨磲、碼碯。

硨磲色青白，碼碯色或白或青，如馬之腦，故以為名。後人或加石或加玉而作耳。金剛諸珍

> 硨磲は青白い色をしており、瑪瑙は白かったり青かったりして、まるで馬の脳のような模様があることから、その名がつきました。後世の人が石偏や玉偏を加えて字を作ったのです。金剛石やその他の宝石も同様です。

天竺國金生剛中，百鍊不銷，可以切玉也。車乘

> 天竺の国には、金剛石というものが産出します。これは百回鍛えても砕けず、玉をも切り裂くことができるのです。

乘字去聲。此方乃夏后氏奚仲所作，即輿輪之都名也。車，齒邪切，舍也，行者所處舍也。又居，音言，以居人也。乘，駕也，載也。輦輿

> 乗（じょう）は去声（第四声）に読みます。この乗り物は夏后氏（かこうし）の奚仲（けいちゅう）が作り出したもので、車輪と車体の全体を指す総称です。 車（しゃ）は、「しゃ」と読み、乗り物という意味です。旅人が乗り、移動するための乗り物です。また、「居（きょ）」とも読み、人を乗せて運ぶという意味もあります。 乗（じょう）は、車に乗ること、また車に物を載せて運ぶことを意味します。輦輿（れんよ）は、人の手で引く車や輿（こし）のことを指します。

輦說文云輓車也，人在前引之也。古者卿大夫所乘，自漢已來天子乘之。天子皇后所乘車曰輦也。輿與庶、與諸二切。說文云車，輿也。有輪曰車，無輪曰輿。今車輿形別，制於古也。或謂玉篇云眾也，載也，舉也，多也。欄楯

> 『輦』について『説文解字』では、「輓車（ひきぐるま）である。人が前で引く車である」と説明しています。古くは卿や大夫が乗るものでしたが、漢代以降は天子が乗るようになりました。天子や皇后が乗る車を「輦」といいます。 『輿』は「よ」または「しょ」と読みます。『説文解字』では、「車、輿（くるま、こし）である。輪があるものを車といい、輪がないものを輿という」とあります。現代の車と輿は形が異なり、古代の制度とは違っています。あるいは『玉篇』では、「衆（おおい）、載（のせる）、挙（あげる）、多（おおい）」と説明しています。 欄楯（らんじゅん）とは、手すり

攔。釣攔也，遮也。楯。攔檻也。縱曰攔，橫曰楯。華蓋

> 欄。釣り欄である。遮るものである。楯。欄の檻である。縦のものを欄といい、横のものを楯という。華蓋。

華胡瓜切。黃帝與󱳸尤戰于涿鹿之野，有五色雲氣，金枝玉葉，止於帝上，有華葩之象，因而作於華蓋焉。華亦呼瓜切。西竺暑熱，人多持蓋，皆以華而飾之。諸經或云幢旛華蓋，斯之謂也。軒飾

> 華（か）は胡瓜（こか）と切る。黄帝が蚩尤と涿鹿の野で戦った時、五色の雲気が現れ、金の枝に玉の葉が、帝の頭上に止まった。華やかな花のようすがあり、それによって華蓋が作られた。華はまた瓜（か）とも呼ばれる。西竺は暑く、人々は多く傘を持ち、皆華で飾った。諸経典に幢旛華蓋とあるのは、これを指す。軒を飾るもの。

安車也。以皮物而莊飾之，即軒車也。記云具出其相，如止觀第二記

> 安車とは、皮の装飾で飾りつけた車、つまり軒車のことです。『記』には「その様子をありのままに示す」とあり、『止観』第二の記述と同じです。

諸大乘經及首楞嚴、大品、大論皆明六度。如大品相攝品云：樓那白佛：我今欲說菩薩之行。佛言：隨汝意說。樓那於是廣明六度，更互相攝，六六三十六度等。故云：或以施為名說諸波羅蜜，乃至或以般若為名說諸波羅蜜。又攝大乘論互顯章、大瓔珞無斷品並與首楞嚴意同。經云：而被法服

> 諸大乗経典、および『首楞厳経』『大品般若経』『大智度論』などは、すべて六波羅蜜を明らかにしています。たとえば『大品般若経』の相摂品には、次のようにあります。楼那が仏に申し上げました。「私は今、菩薩の行いを説きたいと思います。」仏は言われました。「お前の思うままに説け。」そこで楼那は、六波羅蜜を広く説き明かし、互いに摂し合って、六六三十六の波羅蜜などとなることを示しました。それゆえに、「あるいは布施を名として諸波羅蜜を説き、あるいは般若を名として諸波羅蜜を説く」などと記されているのです。また、『摂大乗論』の互顕章や『大瓔珞経』の無断品も、『首楞厳経』の趣旨と同じです。経典には、「法服をまといて」とあります。

被平義切。服也，覆也。記云：龍得一縷，牛角一觸

> 平らげて義を切り、服従させ、覆うことである。記録に云う：龍は一縷を得、牛は角で一触する。

海龍王經：龍王白佛：如此海中，無數種龍，有四金翅，常來食之。願佛擁護，令得安隱。於是世尊脫身皁衣，告龍王云：汝取是衣，分與諸龍，皆令周徧。於中有值一縷之者，金翅鳥王不能觸犯。持禁戒者，所願必得。法苑中引悲華經文：釋迦如來昔於寶藏佛所願云：成佛之時，袈裟所感五種功德。如今記中引者略同。文句云：初禪一品，乃至九品

> 海龍王経：龍王が仏に申し上げた。「この海の中には、数え切れないほどの種類の龍がおりますが、四種の金翅鳥が常に来て彼らを食らいます。どうか仏様にお守りいただき、安穏に過ごせますように。」そこで世尊はご自身の黒衣を脱がれ、龍王に告げられた。「この衣を持ち帰り、諸々の龍に分け与えなさい。すべてに行き渡らせるのだ。その中で、たとえ一筋でもこの衣に触れた者は、金翅鳥の王も害することができない。戒律を守る者は、願うことは必ず叶う。」 法苑珠林に引かれる悲華経の文：釈迦如来がかつて宝蔵仏のもとで誓願を立てられた。「成仏の時、袈裟によって五種の功徳がもたらされるように。」今、この記録に引かれている内容もほぼ同じである。 文句に云う：「初禅の一品から、九品に至るまで」

禪波羅蜜云：修諸禪時，有下、中、上三品，離三為九品淺深。若細論者，有無量品，禪禪皆然。修羅琴

> 禅波羅蜜では、禅定を修める際に、下・中・上という三つの品があり、それぞれをさらに三つに分けることで九段階の浅深があると説かれています。もし細かく論じるならば、その品は無数にあり、どの禅定も同様です。修羅琴のように。

大論云：法身菩薩化無量身度生說法，而菩薩心無所分別，如修羅琴常自出聲，隨意而作，無能彈者。又緊那羅所彈之琴，閻浮檀金華葉莊嚴，善淨業報之所造作，彈時聲徧三千世界，宣說無生寂滅之法。記云：四降魔相及八魔十魔等，如止觀第八記

> 大論に説かれています：法身の菩薩は無量の身を化して衆生を度し法を説くが、菩薩の心には一切の分別がなく、あたかも修羅琴が常に自ら音を出し、意のままに奏でられ、誰も弾く者がいないかのようです。また、緊那羅の弾く琴は、閻浮檀金の華と葉で飾られ、善き清浄な業報によって造られたもので、弾じる時にはその音声が三千世界に満ち、無生寂滅の法を宣説します。記には述べられています：四降魔の相や八魔・十魔などについては、止観第八記の通りです。

三藏初伏四魔，坐道場破煩惱魔，又得法性身破陰魔，此兩共破死魔，樹下得不動三昧破天子魔。通教初得無生忍至六地得菩提道，如前八地道觀雙流，是不動三昧破天子魔，兩處聲聞只破三魔。別教十住已破界內四魔，初地分得菩提破煩惱魔，分得法身破陰魔，分得赤色三昧破天子魔。圓教初住俱破八魔，得菩提道破煩惱魔，乃至妙覺永盡。言四魔者，煩惱魔、陰魔、死魔、天子魔，此約界內而說。若約界外者，分段諸魔悉過，唯有無常等四倒，此是界外煩惱魔，煩惱魔故即有無等等色，即是界外陰魔，陰魔故即有死魔。三賢十聖住果報而無第六天子魔，但以赤色三昧未究竟名天子魔耳。凡界內名至界外者並是義立，故赤色三昧觀於他化自在天有，破彼天有三惑未盡，故通為天子魔，此謂八魔也。十魔者，華嚴云：一、陰魔，生諸取故；二、煩惱魔，生雜染故；三、業魔，能障礙故；四、心魔，起高慢故；五、死魔，捨生處故；六、天魔，自憍縱故；七、善根魔，恒執取故；八、三昧魔，久耽味故；九、善知識魔，起著心故；十、菩提法智魔，常不捨故。經云：處林放光

> 三蔵は初めに四魔を伏し、道場に坐して煩悩魔を破り、また法性身を得て陰魔を破る。この二つが共に死魔を破り、樹下で不動三昧を得て天子魔を破る。通教では初めに無生忍を得て六地に至り菩提道を得る。前に述べた八地における道観双流は、不動三昧によって天子魔を破るものである。両方の声聞はただ三魔を破るのみである。別教では十住においてすでに界内の四魔を破り、初地において部分的に菩提を得て煩悩魔を破り、部分的に法身を得て陰魔を破り、部分的に赤色三昧を得て天子魔を破る。円教では初住において八魔を共に破り、菩提道を得て煩悩魔を破り、乃至妙覚に至って永く尽きる。四魔とは、煩悩魔・陰魔・死魔・天子魔であり、これは界内について述べたものである。界外について言えば、分段の諸魔はすべて超えているが、ただ無常などの四倒があり、これが界外の煩悩魔である。煩悩魔があるゆえに無等等の色があり、これが界外の陰魔である。陰魔があるゆえに死魔がある。三賢十聖は果報に住して第六の天子魔はないが、ただ赤色三昧が未だ究竟していないことを天子魔と呼ぶに過ぎない。凡そ界内の名が界外に及ぶものはすべて義によって立てられたものである。ゆえに赤色三昧は他化自在天を観じて存在し、その天にある三惑が未だ尽きていないため、通じて天子魔とされる。これが八魔である。十魔とは、『華厳経』に云う：一、陰魔、諸々の取を生ずるが故に；二、煩悩魔、雑染を生ずるが故に；三、業魔、能く障礙するが故に；四、心魔、高慢を起こすが故に；五、死魔、生処を捨てるが故に；六、天魔、自ら憍り放縦するが故に；七、善根魔、常に執取するが故に；八、三昧魔、久しく耽味するが故に；九、善知識魔、著心を起こすが故に；十、菩提法智魔、常に捨てざるが故に。経に云う：林に処して光を放つ。

處字上聲。前獨處閑靜，常處空閑，皆上聲。以至下文，準義思之。記云華嚴，如止觀第七記引

> 「処」の字は上声（じょうしょう）で読みます。前文の「独り処（い）で閑静にあり」「常に閑処（かんしょ）にあり」も、いずれも上声です。以下の文についても、意味に従って考えてください。注記に『華厳経』とあるのは、『止観』第七の注記に引用されている通りです。

舊譯華嚴經云：又放光明名無慳，彼光覺悟除貪惜。又放光明名清涼，彼光覺悟毀禁者。又放光名忍莊嚴，彼光覺悟嗔恚者。又放光明名轉勝，彼光覺悟懈怠者。又放光明名寂靜，彼光覺悟亂意者。又放光名慧莊嚴，彼光覺悟愚癡者。然止觀第七記，但引思益蒙光得益之相耳，未見引華嚴此文，後人請尋。輔行又云：地持六度各九者，六度皆云：一自性，二一切，三難，四一切門，五善人，六一切行，七除惱，八此世他世，九清淨。九名雖同，但以施等簡之，則成六度各九，却不見說蒙光得益。更請尋之。未甞睡眠，如止觀第四記

> 旧訳『華厳経』にはこう説かれています。「また無慳（むけん）という名の光明を放つ。その光は貪りと惜しみを除くことを覚らせる。また清涼という名の光明を放つ。その光は戒律を破る者を覚らせる。また忍荘厳という名の光明を放つ。その光は怒りと恨みを持つ者を覚らせる。また転勝という名の光明を放つ。その光は怠け心を覚らせる。また寂静という名の光明を放つ。その光は乱れた心を覚らせる。また慧荘厳という名の光明を放つ。その光は愚かさと迷いを持つ者を覚らせる。」しかし、『止観』第七の記述では、『思益経』に説かれる「光によって利益を得る相」だけを引用しており、この『華厳経』の文は引用されていません。後世の方は、どうか探し求めてください。 また『輔行』にはこうあります。「『地持経』に説かれる六波羅蜜それぞれに九つの相がある。六波羅蜜はすべて、一に自性、二に一切、三に難、四に一切門、五に善人、六に一切行、七に除悩、八に此世他世、九に清浄と説かれている。九つの名は同じだが、布施などで区別すれば、六波羅蜜それぞれに九つの相が成り立つ。しかし、光によって利益を得るという説き方は見当たらない。どうかさらに探し求めてください。」 また、『止観』第四の記述には、「決して眠りに沈むことがない」とあります。

經中既云未甞睡眠，此必須指棄五蓋中棄睡眠文也。心神昏昏為睡，六識闇塞四支倚放為眠。大論云：眠為大闇無所見，日日欺誑奪人明，亦如臨陣白刃間，如共毒蛇同室睡。故知不指調五事中調眠之事也。次文云那律等，如第四記者，前通序中已具引彼注之。經云：惡罵捶打

> 経典には「未だ嘗て睡眠せず」とありますが、これは必ずや五蓋を捨てる中の睡眠を捨てる文を指しているはずです。心がぼんやりするのを「睡」といい、六識が暗く塞がれて四肢がだらりと垂れるのを「眠」といいます。大論には「眠りは大いなる闇にして何も見えず、日々人を欺き明かりを奪い、また戦場の白刃の間に臨むがごとく、毒蛇と同室に寝るがごとし」とあります。ゆえに、五事を調える中の眠りを調えることを指しているのではないとわかります。次に「那律等」とある文は、第四の記述のごとく、前の通序の中で既にその注釈を引用して詳しく述べました。経典には「悪口を浴びせ、打ち叩く」とあります。

捶之藥切。打音頂，以杖而擊之謂也。記云：五蓋如止觀第四卷

> 打つ薬切。打つ音は頂、杖で打つことを言う。記に云う：五蓋は止観第四巻の如し。

一貪欲，二嗔恚，三睡眠，四掉悔，五疑。通稱蓋者，覆也。蓋覆纏緜，心神昏闇，使定慧不明者也。大乘頓制，何論楞伽前後制耶

> 一に貪欲、二に瞋恚、三に睡眠、四に掉悔、五に疑。これらを総じて「蓋」と呼びます。「蓋」とは覆うという意味です。これらの煩悩が心を覆い、絡みついて、心の働きを暗くし、禅定と智慧を明らかにすることを妨げるのです。大乗の教えは一気にこれを制するものであり、『楞伽経』の前後で制するかどうかを論じる必要はありません。

大乘頓制即梵網云：夫食肉者斷大慈悲性種子，若食肉者得無量罪。楞伽前制即鹿苑施小，但開三種淨肉耳，餘不得食也。楞伽後制即涅槃所禁也。釋籤第十引楞伽中大慧問佛：外道尚遮不許食肉，何況如來大悲含育，而許自他令食肉耶？若大乘中梵網已制猶作此說，當知楞伽四含之後為漸制之始。下佛答中乃云：菩薩不應食肉。故知仍存小教中開。今謂釋籤其文恐誤。何者？楞伽經中佛答大慧：經文具云：一切諸肉有無量緣，菩薩於中當生悲愍，不應食之。所謂眾生從無始來生死輪迴，曾作父母兄弟眷屬，云何於中而取食之？乃至云：我若聽許聲聞食肉，我則非是住慈心者。大慧！我於諸處說遮千種許三種者，是漸禁斷令其修學。今此經中自死他殺，凡是肉者一切悉斷。大慧！我不曾許弟子食肉，亦不現許亦不當許。大慧！凡是肉者於出家人悉是不淨，若有癡人謗言：如來聽許食肉亦自食。者，當知是人惡業所纏，必當永墮不饒益處。大慧！二乘菩薩尚唯法食，豈況如來？乃至偈中云：食肉無慚愧，生生常顛狂，諸佛及菩薩，二乘所嫌惡。象腋與大雲，涅槃勝鬘等，及此楞伽經，我皆制斷肉。先說見聞疑，已斷一切肉。十卷楞伽、四卷楞伽與此大同，但是其文有廣略耳。故知釋籤判於楞伽但制菩薩，仍存小教中開者，誤矣。大經第四四相品云：從今日始不聽聲聞弟子食肉，若受檀越信施之時，應觀是肉如子肉想。迦葉問云：如來何故先聽比丘食三淨肉？佛言：是三淨肉隨事漸制。迦葉又問：若不食肉者，五種牛味乳酪等亦不應受。佛言：佛所制戒各有異意，異意故聽食三種淨肉，異想故一切悉斷及自死者。是故我從今日制諸弟子不得復食一切肉也。若乞食時得雜肉食，當以水洗令與肉別，但使無味然後可食。由是而知但是大乘咸制三乘不應食肉，非謂楞伽但制藏通菩薩而許二乘之開也。然楞伽是方等所收，而文指於涅槃經者，此是後分之意耳。又大經云：佛先聽食五種牛味及以油蜜。又云：我唯聽食五種味等，聽著革屣憍奢耶衣，我說四大無有壽命。若有經律作此說者是名佛說，若不爾者則是魔說。又楞嚴中斷五牛味，故云：若諸比丘不服東方絲綿絹帛、靴履裘毳、乳酪醍醐，如是比丘於世真脫，不游三界。何以故？服其身分，皆為彼緣。又大經云：我滅度後，聲聞弟子愚癡破戒，乃云：如是大涅槃經非佛所說，是六師說。所以者何？一切諸佛悉說無常、無我等法。若言諸法常樂我淨，云何當是佛之所說？諸佛菩薩不制弟子斷五牛味及以食肉，六師不聽食五牛味及以脂血。若斷是者，云何當是佛之正典？由是而知涅槃、楞嚴諸大乘經，並皆不許食五牛味。然楞嚴經亦是方等之後分耳，如下具辨。此方南岳思大禪師、南山律師，並皆不服絲綿絹帛。南山歎云：唯有南岳慈行可歸。言三種淨肉者，小乘、毗尼並云：不見為我殺，不聞為我殺，不疑為我殺，皆得食也。若楞嚴云五種淨肉者，於前三上更加自死及以鳥殘，是為五也。若涅槃云九種淨肉者，於前三中各有根本，前後方便而為九也。況復經云：悉我神力之所化成。斯乃鹿苑諸比丘得三五淨肉，悉是如來神力化作，非的食于眾生身分矣。良以小根未任頓制，故以方便而接引耳。迦葉袈裟直十萬兩金

> 大乗の頓制とは、すなわち梵網経に云う：肉を食う者は大慈悲の性の種子を断つ。もし肉を食う者は無量の罪を得る。楞伽経の前の制とは、すなわち鹿野苑で小乗に施し、ただ三種の浄肉を開くのみで、それ以外は食してはならない。楞伽経の後の制とは、すなわち涅槃経で禁じられたものである。釈籤第十には楞伽経を引き、大慧が仏に問う：外道でさえも肉食を遮り許さないのに、まして如来の大悲は一切を包含し育むものであるのに、どうして自他に肉食を許すことがあろうか？もし大乗の中で梵網経ですでに制したのに、なおこのように説くならば、楞伽経が四阿含の後にあり、漸制の始めであることが知られる。下の仏の答えの中には、すなわち云う：菩薩は肉を食すべからず。故に知る、なお小乗の教えの中に開きを存する。今、釈籤のその文は恐らく誤りであろう。なぜか？楞伽経の中で仏が大慧に答える：経文に具に云う：一切の諸の肉には無量の縁があり、菩薩はその中において悲愍を生ずべく、食すべからず。所謂、衆生は無始より来たって生死輪廻し、かつて父母兄弟眷属となったことがある。どうしてその中において取り食することができようか？乃至云う：もし私が声聞に肉食を聴許したならば、私は慈心に住する者ではない。大慧よ！私は諸所において千種を遮り三種を許すと説くのは、これは漸次に禁断して彼らに修学せしめるためである。今この経の中では、自死・他殺を問わず、凡そ肉たるもの一切ことごとく断ずる。大慧よ！私はかつて弟子に肉食を許したことはなく、現に許すこともなく、また当に許すこともない。大慧よ！凡そ肉たるものは、出家の人にとって悉く不浄である。もし癡人が謗って言う：如来は肉食を聴許し、また自らも食す、と。当に知るべし、この人は悪業に纏われ、必ず永く不饒益の処に堕す。大慧よ！二乗・菩薩でさえもただ法食のみである。まして如来においておや？乃至偈の中に云う：肉食に慚愧なく、生生に常に顛狂す。諸仏及び菩薩、二乗の嫌悪する所。象腋経と大雲経、涅槃経と勝鬘経など、及びこの楞伽経において、私は皆肉を断ずることを制す。先に見聞疑を説き、すでに一切の肉を断ず。十巻楞伽・四巻楞伽もこれと大同小異であり、ただその文に広略があるのみである。故に知る、釈籤が楞伽経を判じてただ菩薩を制し、なお小乗の教えの中に開きを存するとするのは、誤りである。大般涅槃経第四の四相品に云う：今日より始めて声聞弟子に肉食を聴かず。もし檀越の信施を受ける時は、当にこの肉を観じて子の肉の想いの如くせよ。迦葉が問う：如来は何の故に先に比丘に三種の浄肉を食することを聴かれたのか？仏言う：この三種の浄肉は事に随って漸次に制したのである。迦葉また問う：もし肉を食さないならば、五種の牛味・乳酪などもまた受くべからず。仏言う：仏の制した戒にはそれぞれ異なる意があり、異なる意がある故に三種の浄肉を食することを聴き、異なる想いがある故に一切ことごとく断じ、及び自死者も断ずる。是の故に私は今日より諸の弟子を制して、復た一切の肉を食すことを得ざらしむ。もし乞食の時に雑肉の食を得たら、当に水で洗って肉と別けしめ、ただ味無からしめて然る後に食すべし。これによって知る、ただ大乗においてはことごとく三乗を制して肉を食すべからず。楞伽経がただ蔵教・通教の菩薩を制して二乗に開きを許すというのではない。然るに楞伽経は方等部に収められるが、その文が涅槃経を指すのは、これは後分の意である。また大般涅槃経に云う：仏は先に五種の牛味及び油蜜を食することを聴く。また云う：私はただ五種の味などを食することを聴き、革履・絹衣を着ることを聴く。私は四大に寿命無しと説く。もし経律がこのように説くならば、これは名づけて仏説とす。もし然らずんば、則ち是れ魔説なり。また楞厳経の中で五種の牛味を断ず。故に云う：もし諸の比丘が東方の絲綿絹帛・靴履裘毳・乳酪醍醐を用いなければ、かくの如き比丘は世において真に解脱し、三界を遊ばず。何を以っての故か？その身分を用うれば、皆彼の縁となる。また大般涅槃経に云う：我が滅度の後、声聞弟子は愚癡にして破戒し、すなわち云う：かくの如き大般涅槃経は仏の説きたる所に非ず、是れ六師の説なり。何を以っての故か？一切の諸仏は悉く無常・無我などの法を説く。もし諸法は常楽我浄なりと言わば、どうして当に仏の説きたる所であろうか？諸仏菩薩は弟子に五種の牛味及び肉食を断ずることを制せず。六師は五種の牛味及び脂血を食することを聴かず。もし是を断ずるならば、どうして当に仏の正典であろうか？これによって知る、涅槃経・楞厳経などの諸大乗経は、並びに皆五種の牛味を食することを許さない。然るに楞厳経もまた方等部の後分である。下に具に弁ずるが如し。この方では南岳の思大禅師・南山の律師、並びに皆絲綿絹帛を用いられなかった。南山は歎じて云う：ただ南岳の慈行に帰すべし、と。三種の浄肉というのは、小乗・毘尼に並びに云う：我が為に殺すを見ず、我が為に殺すを聞かず、我が為に殺すを疑わず、皆食すを得る。もし楞厳経に五種の浄肉と云うのは、前の三種の上にさらに自死及び鳥残を加えて、是を五と為す。もし涅槃経に九種の浄肉と云うのは、前の三種の中に各々根本・前後方便ありて、而して九と為す。況んやまた経に云う：悉く我が神力の化して成す所なり、と。これはすなわち鹿野苑の諸比丘が得た三五の浄肉は、悉く如来の神力の化作したるものであり、衆生の身分を確かに食したのではない。まことに小根は頓制に堪えず、故に方便をもって接引したのである。迦葉の袈裟は直に十万両の金なり。

阿含經云：摩訶迦葉欲出家時，選擇家中最下衣裳，得一獘衣，其價猶直十萬兩金，即便取之作僧伽梨。時彼王舍大地中間有羅羅揵陀，羅羅揵陀中間有多子塔，迦葉於此值佛世尊，乃求出家，即以此衣而為其座，持以奉佛，佛即授其𧶜那納衣。大論亦云：迦葉袈裟直十萬兩金。袈裟兩字既皆梵音，只應作加沙，而並加衣者，人而不思也。袈裟此云染，從色立名耳。復次應知䟦難陀死，衣物直四十萬兩金，國王大臣及諸親里各欲收取，佛言：王賜諸臣，比丘不得。又如陳如於空林中入般涅槃，時放牧人送衣上王，王乃評之，只直五錢。更有天須菩提、面王比丘等，因便須知。止觀補注具引天須菩提、面王比丘也。經云：種種教詔

> 阿含経にはこう記されています。摩訶迦葉が出家しようとした時、家の中で最も粗末な衣服を選び、一つの古びた衣を見つけました。その価値はなお十万両の金に相当するものでした。彼はすぐにそれを取り、僧伽梨（僧侶の衣）としました。当時、王舎城の大地の中間に羅羅揵陀があり、羅羅揵陀の中間に多子塔がありました。迦葉はそこで仏世尊に会い、出家を願い出て、この衣を座とし、仏に捧げました。仏はすぐに彼に𧶜那納衣（粗末な衣）を授けました。大論にもこうあります。迦葉の袈裟は十万両の金に値する。袈裟という二字はどちらも梵語の音訳で、本来は「加沙」とすべきところを、衣偏を加えたのは、人々が深く考えなかったからです。袈裟はここで「染め」を意味し、その色から名付けられたのです。さらに知るべきは、䟦難陀が亡くなった時、その衣服は四十万両の金に値し、国王や大臣、親族たちがそれぞれ受け取りたがりましたが、仏は言われました。「王が臣下に与えるものは、比丘は受け取ってはならない」。また、陳如が空の林で般涅槃に入った時、放牧人が衣を王に送りましたが、王はそれを評価し、わずか五銭の価値しかないとしました。さらに天須菩提や面王比丘などの例もありますので、ついでに知っておくべきです。止観補注には天須菩提や面王比丘のことが詳しく引用されています。経にはこうあります。さまざまな教えと導きを。

教詔兩字並去聲，呼訓也，誨也，告也，示也。云記離合不同，如止觀第七記

> 「教」と「詔」の二字はともに去声で、訓みは「教える」「告げる」「示す」という意味です。記述の仕方は離合によって異なります。例えば『止観』第七の記述のように。

如禪有願智力，開出泥滓波羅蜜；有神通力，開出婆羅波羅蜜。如般若有道種智，開出漚和俱舍羅波羅蜜；有一切種智，開出闍那波羅蜜。是故離則有十，合但六也。雖復雙泯，而說而照，故云說不可說等

> 禅に願智力があれば、泥滓波羅蜜を開き出す。神通力があれば、婆羅波羅蜜を開き出す。般若に道種智があれば、漚和俱舍羅波羅蜜を開き出す。一切種智があれば、闍那波羅蜜を開き出す。ゆえに、分ければ十となり、合せれば六となる。たとえ二つとも消え去っても、説きながら照らす。だから、説くべからざるものを説く、などと表現するのである。

此與文句少異，學者宜細詳之。以佛舍利

> これと『文句』の記述とは少し異なりますので、学ぶ者はよくよく詳しく検討すべきです。仏舎利をもって

此順長行，是故云耳。俱尸

> この順序は長い文章で述べられているため、このように言われているのです。クシナガラにおいて。

此云角城，城有三角故也。經云：縱廣正等

> これは角城と呼ばれ、城に三つの角があるからです。経典には、「縦と横が正しく等しい」とあります。

縱，即容切，長也。廣，去聲，橫也。南北曰縱，東西名廣。珠交露幔

> 縦は、南北の長さを指します。広は、東西の幅を指します。珠が交わり、露の如き帳が垂れています。

珠交，以珠而交之也。露，不覆也。幔，莫半切，幕也。在傍曰帷，在上曰幕。幕，覆也，交結珠珍，覆露其上也。諸經亦云，珠交露蓋，珠交露車，同其事也。寶鈴和鳴

> 珠交とは、珠をもって交わらせることです。露は、覆い隠さないことを意味します。幔は「莫半切」と読み、幕のことです。側面に垂れるものを帷、上に覆うものを幕といいます。幕は覆うことを指し、珠玉を交差させて編み、その上を覆い隠さずに飾るのです。諸経典にも「珠交露蓋」「珠交露車」とあり、同じ趣旨を表しています。宝の鈴が調和して鳴り響きます。

音樂調和也。蓋以寶為鈴，音聲和調而鳴者也。詩云和鈴央央是也。春秋桓公二年左傳云：錫鸞和鈴，昭其聲也。注云：和在衡，鈴在旂，動皆有聲焉。錫音羊。記云：具如釋籤引大經文

> 音楽は調和を意味します。これは鈴を宝として、音声が調和して鳴ることを指しています。詩経に「和鈴央央」とあるのはこのことです。春秋桓公二年の左伝には「錫鸞和鈴、昭其聲也」とあり、注釈では「和は衡にあり、鈴は旂にあり、動くごとに皆音声がある」と説明されています。錫は音読みで「羊」と読みます。記録には、釈籤が引用する大経文の通りであるとあります。

波利質多羅，此云圓生。其根入地深五由旬，高百由旬，枝葉四布五十由旬，香氣周徧五十由旬，光明遠照八十由旬三十三天，夏三月時在下受樂。文句云倉卒

倉，茫也，大遠不明之皃也。卒，暴也。李陵與蘇子卿書云：前書倉卒，未盡所懷。論語云：造次必於是。注云：造次謂急遽也。正義云：造次猶草木次。鄭玄云：倉卒也。皆急速迫促之義耳。踟蹰

> 倉は茫と同じで、はるか遠くてはっきりしない様子です。卒は突然という意味です。李陵が蘇子卿に送った手紙には「前回の手紙は急いで書いたので、思いを十分に伝えられなかった」とあります。論語には「どんなに急いでいる時でも、必ずそれ（仁）を守る」とあります。注釈には「造次とは急ぐことである」と書かれています。正義には「造次は草木が生い茂る様子に似ている」とあります。鄭玄は「倉卒と同じである」と言っています。これらはすべて、急いで慌ただしいという意味です。

行不進之皃也。若言躊躇者。即猶豫之皃也。猶豫之心

> 進まない様子を表しています。躊躇うというのは、つまりためらう心の様子です。

顏氏家訓云：禮記曰：定猶豫，決嫌疑。離騷曰：心猶豫而狐疑。先儒未有釋者。案尸子曰：五尺犬為猶。說文云：隴西謂犬子為猶。吾以為人將行，犬好豫在人前，待人不得，又來迎候，如此往還，至于終日，斯乃豫之所以為未定也。或以爾雅中猶如麂，善登木。猶，獸名也。既聞人聲，乃豫登木，如此上下，故云猶豫。或以為獸又多猜疑，故聽河水無流水聲，然後乃渡。今俗中云狐疑虎卜，則其義矣。猶平聲，亦去聲，亦作猷字，亦作冘。冘豫，不定耳。言謙光者，易謙卦云：天道下濟而光明，地道卑而上行。乃至云：謙尊而光，卑而不可踰，君子之終也。釗師

> 『顔氏家訓』に記されています： 『礼記』には「定猶豫、決嫌疑」とあり、 『離騷』には「心猶豫而狐疑」とあります。 先儒たちはこれについて解釈を加えていません。 『尸子』を調べてみると、「五尺の犬を猶という」とあります。 『説文解字』には「隴西では犬の子を猶という」とあります。 私はこう考えます。人が出かけようとすると、犬は喜んで人の前に出て行き、人がついてこないと、また迎えに戻ってくる。このような行き来を一日中繰り返す。これこそが「豫（ためらう）」という状態が定まらない所以です。 あるいは、『爾雅』に「猶は麂のようで、木登りが得意」とあります。 「猶」は獣の名です。人の声を聞くと、すぐに木に登って隠れ、また下りてくる。このような上下の動きから「猶豫」と言われるようになったとも考えられます。 また、この獣は猜疑心が強く、川を渡る際には水音がしないのを確かめてから渡るとも言われます。 今、俗に「狐疑虎卜」と言いますが、その意味はここにあります。 「猶」は平声でも去声でもあり、「猷」とも書き、「冘」とも書きます。 「冘豫」とは、定まらないという意味です。 「謙光」について言えば、『易経』の謙卦に「天道は下りて照らし光明となり、地道は卑しくして上に行く」とあります。 さらに「謙は尊くして光り、卑しくして越えられず、君子の終わりなり」と続きます。 釗師

梁南冥寺慧釗法師也。姓徐氏。次師光宅。如玄籤補注中委辨。記云支遁

> 梁の南冥寺の慧釗法師である。姓は徐氏。次に師である光宅に師事した。『玄籤補注』の中で詳しく弁じられている通りである。『記』には支遁とある。

字道林也。標幟

> 字は道林なり。標幟。

幟人志切。標頭上幟也。通俗文：徽號曰標。私記曰：幟謂以絳帛等書著背上曰徽。廣雅云：旛也。墨子云：長丈五，廣半幅。標正作幖，或云標識。識音志。五不男

> 人々の志を切に示すために、頭の上に旗を立てることを「幟」といいます。『通俗文』には、「徽号を標という」とあります。『私記』には、「幟とは、赤い絹布などに文字を書いて背中につけることを徽という」と説明されています。『広雅』では、「幟は旗の一種である」と記されています。『墨子』には、「長さは一丈五尺、幅は半幅である」とあります。「標」は正しくは「幖」と書き、あるいは「標識」とも言います。「識」は「志」と読みます。五不男とは、男性としての能力を欠いた五つの状態を指します。

生劇妬變半，解釋如下文。纔堪為受聲聞無作一緣等

> 生起の激しい嫉妬の変化は半分であり、以下のように解釈されます。わずかに声聞の無作の一縁などを感受することができるのみである。

將為殺小乘戒，先問十三難。此五不男，即其一矣。十三難者：一、邊罪；二、犯比丘尼；三、賊心；四、破內外道；五、非黃門，即五不男是；六、殺父；七、殺母；八、殺羅漢；九、破僧；十、出佛血；十一、非人；十二、畜生；十三、二形。有十三難，不得受小乘戒。若大乘戒，婬男、婬女、黃門，皆得受也。若有七遮逆罪，亦不得受大乘戒。七逆，即殺父、殺母、殺聖人、殺阿闍梨、出佛血、殺和尚、破羯磨、轉法輪。僧。經云：無量無邊

> 小乗戒を受ける前に、まず十三の難問を尋ねます。この五不男は、その一つです。十三の難問とは、第一に辺罪、第二に比丘尼を犯すこと、第三に賊心、第四に内外の道を破ること、第五に非黄門（これが五不男です）、第六に父を殺すこと、第七に母を殺すこと、第八に羅漢を殺すこと、第九に僧伽を破ること、第十に仏の血を流すこと、第十一に非人であること、第十二に畜生であること、第十三に二形であることです。これらの十三の難問がある者は、小乗戒を受けることができません。しかし、大乗戒においては、婬男、婬女、黄門も受けることができます。ただし、七つの遮逆罪がある場合は、大乗戒も受けることができません。七逆とは、父を殺すこと、母を殺すこと、聖人を殺すこと、阿闍梨を殺すこと、仏の血を流すこと、和尚を殺すこと、羯磨を破ること、法輪を転ずる僧伽を破ることです。経典には、「無量無辺」と説かれています。

偈中又云：無量無數劫。般若經中須菩提白佛：無量、無數、無邊，有何等異？佛言：無數者，名不墮數中，若有為性中、若無為性中。無量者，量不可得，若過去、若未來、若現在。無邊者，諸法邊不可得。故新譯四十卷、華嚴第十卷中，具說無量等數。須者，應尋經文。如來應供至世尊

> 偈の中にもまた言われています： 「無量無数の劫」 般若経の中で須菩提が仏に尋ねました： 「無量、無數、無辺には、どのような違いがあるのでしょうか？」 仏は答えられました： 「無數とは、数の中に落ちないことを言います。 それは有為の性質の中にも、無為の性質の中にもあります。 無量とは、量が得られないことを言います。 過去においても、未来においても、現在においても。 無辺とは、すべての法の辺際が得られないことを言います」 ですから、新訳の四十巻の華厳経、第十巻の中に、 無量などの数について詳しく説かれています。 必要であれば、経文を探ってみてください。 如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊

應字去聲，舊作平呼。然此十號下，第二，經文句自釋。光明文句引釋論云：佛是第九號。輔行云：大經解釋為十一句。大論合無上士與調御丈夫以為一句，乃至世尊為第十句。涅槃疏云：成論、阿含以無上士與調御丈夫合為一號，至世尊句十號方足。涅槃釋論以無上士與調御丈夫開為二號，至佛字則十號足耳。總結上十號足故，為世所尊，故云世尊。此與光明文句及輔行不同，恐章安誤耳。記云：然釋法號須從法立，如止觀第二記

> 「応」の字は去声で、以前は平声で読まれていました。しかし、この十号の下に第二として、経文の句が自ら解釈しています。『光明文句』は『釈論』を引用して「仏は第九の号である」と述べています。『輔行』には「大経の解釈は十一句からなる」とあります。『大論』では「無上士」と「調御丈夫」を合わせて一句とし、最終的に「世尊」を第十句としています。『涅槃疏』には「成論』と『阿含』では「無上士」と「調御丈夫」を合わせて一つの号とし、「世尊」の句に至って十号が満たされる」とあります。『涅槃釈論』では「無上士」と「調御丈夫」を二つの号に分け、「仏」の字で十号が満たされます。上の十号をまとめると、世の中で尊ばれる存在であるため、「世尊」と呼ばれます。これは『光明文句』や『輔行』の説とは異なり、章安の誤りかもしれません。記述には「法号を解釈するには法に基づくべきで、『止観』第二の記述の通りである」とあります。

乘無二智，來契正境，故曰如來。以無二理，徧入諸法，名為應供。了不二智，智體無偏，名正徧知。知無二法，互通法界，雖無來往，徧入三世，名明行足。無二之法，性冥三德，名為善逝。理徧一切，具三世間，解此理故，名世間解。能解此理，無復過上，名無上士。解此理故，能調難調，調十法界，名為調御。了法界法，名為丈夫。契此理故，一切宗仰，過於三教人天之上，名天人師。覺此理故，名之為佛。達此理故，而為三世之所宗敬，名為世尊。智契法身，具法界號，故能垂示應身十號，法應十號，一體無二。又引淨名云：若我分別此三句義，窮劫不盡。證十號中，初三號者，此恐訛略。以彼初號，名三藐三佛陀，即第三號也。次號名多陀阿伽度，第一號也。次號名佛陀，即第九號也。彼經但云：佛告阿難：若我廣說此三句義，汝以劫壽，不能盡受。十號功德。如育王經：香口比丘

> 二つなき智に乗り、正しい境に契うがゆえに、如来と申す。二つなき理をもって、諸法に遍く入るゆえに、応供と名づく。二つなき智を了知し、智の体に偏りのないゆえに、正遍知と名づく。二つなき法を知り、法界と互いに通ずるゆえに、来たり往くことなくとも、三世に遍く入るゆえに、明行足と名づく。二つなき法は、その性が三徳に冥合するゆえに、善逝と名づく。理は一切に遍く、三世間を具えるゆえに、この理を解するがゆえに、世間解と名づく。この理を解すること、これより上になきゆえに、無上士と名づく。この理を解するがゆえに、調え難きものを調え、十法界を調えるゆえに、調御丈夫と名づく。法界の法を了知するゆえに、丈夫と名づく。この理に契うがゆえに、一切の宗仰するところとなり、三教の人天を超えるゆえに、天人師と名づく。この理を覚るがゆえに、仏と名づく。この理を達するがゆえに、三世の宗敬するところとなり、世尊と名づく。智は法身に契い、法界の号を具えるがゆえに、応身の十号を垂示しうる。法の応ずる十号、一体にして二つなし。また『維摩経』に引いて云う、「もし我この三句の義を分別せば、劫を窮めても尽きず」と。十号の中、初三号を証するは、これ訛略なるを恐る。かの初号は三藐三佛陀と名づけ、すなわち第三号なり。次号は多陀阿伽度と名づけ、第一号なり。次号は佛陀と名づけ、すなわち第九号なり。かの経にはただ、「仏、阿難に告げて曰く、『もし我広くこの三句の義を説かば、汝、劫を寿としても、尽く受けること能わず』」と云う。十号の功德は、『阿育王経』のごとし。香口比丘。

育王請僧入宮供養，有一比丘名優鉢羅，年在盛壯，端正殊特，口中乃作優鉢羅華之香。育王自行水次，聞此比丘口香如是，乃作念言：而此比丘端正年少，口中含香，將無不欲動我宮人之心乎？王即語云：以水洗口。洗已倍香。王乃問之：久近含此香耶？答云：過去有佛，號曰迦葉，人壽二萬。我於爾時為高座法師，讚歎佛法故，四十九億歲生於天人，不墮八難，口中恒作如此之香。育王聞已，益加恭敬。涉法師云：日能破闇等

> 育王が僧侶を宮中に招いて供養を施したとき、一人の比丘がいました。名を優鉢羅といい、年は盛りで、容姿は端正で際立っており、口の中からは優鉢羅華の香りが漂っていました。育王が自ら水を配っていると、この比丘の口からそのような香りがするのを嗅ぎ、こう思いました。「この比丘は端正で若く、口に香を含んでいる。もしかして、我が宮中の人々の心を動かそうとしているのではないか？」王はすぐに言いました。「水で口をすすぎなさい。」すすいだ後、香りは倍増しました。王は尋ねました。「この香を口に含んでから、どれくらいになりますか？」比丘は答えました。「過去に迦葉という仏がおられました。人の寿命は二万歳でした。私はその時、高座の法師として、仏法を讃嘆しました。その功徳により、四十九億歳の間、天界や人間界に生まれ、八難に堕ちることなく、口の中には常にこのような香りが漂っています。」育王はこれを聞き、ますます恭敬の念を深めました。涉法師は言われます。「太陽は闇を破るように…」

慈恩亦云：日有二能：一、導明，二、成熟。月有二能：一、除熱，二、清涼。燈有二能：一、破闇，二、傳照。此顯佛能導迷至覺，成器根，除煩惱熱，得涅槃涼，永破愚癡，化生傳法。當知此說稍同涉師。有人云：初句總，六句別，離七為十

> 慈恩もまた言われています。日には二つの働きがある。一つは道を照らし明らかにすること、二つ目は物事を成熟させることである。月には二つの働きがある。一つは熱を除くこと、二つ目は清らかに涼しくすることである。灯りには二つの働きがある。一つは闇を破ること、二つ目はその光を伝え照らし渡すことである。これは、仏の働きが、迷える者を導いて覚りに至らせ、器となる根を成熟させ、煩悩の熱を除いて涅槃の涼を得させ、永遠に愚痴を破り、衆生を教化して法を伝えることを表しています。この説は、先の涉師の説とやや同じであると知るべきです。また、ある人は言います。最初の一句は総説であり、後の六句は別説である。七つを離れて十と

慈恩云：初、中、後為三。瑜伽論云：四、文巧，此云其語巧妙；五、義妙，此云其義深遠；六、純一，此云純一無雜；七、圓滿，此云具足；八、清淨；九、鮮白；十、梵行。又文句中引金光明前心如來不思議等，文出真諦，翻金光明，學者尋之。經云：說應四諦法

> 慈恩は言う：初め、中、終わりを三とする。瑜伽論では言う：四、文巧、これは言葉が巧妙であることを意味する；五、義妙、これは意味が深遠であることを意味する；六、純一、これは純粋で混じりけがないことを意味する；七、圓満、これは完全に備わっていることを意味する；八、清淨；九、鮮白；十、梵行。また文句の中で金光明経の前に「心如來不思議」などを引用しているが、その文は真諦訳から出ており、金光明経の翻訳である。学ぶ者はこれを探求せよ。経には言う：四諦の法に応じて説く。

應字平聲，當也，稱也，法與機相當相稱義也。次文準此。記中問云：問：前問中以菩薩為三藏，大乘三藏之後方云種種，即指二酥，今何以將菩薩六度答種種耶？答：凡諸問答，乃至三意。又下文中文句謂之後引一佛，但舉開漸同。記中乃云以中後指前初一佛等，請後學者子細將文句及記對詳經文，自見其訛略也，即文句及記有訛略耳。記中又引真諦翻頗羅墮，乃婆羅門之一姓者，若最後佛未出家，有八王子，豈非乃是剎利姓耶？更請思之。文句云從今得三菩提去

> 「応」の字は平声で、「当たる」「称する」の意味であり、法と機が相応し、相称するという意味です。次に続く文章もこれに準じます。 記の中に問いがあります。「問：前の問いでは菩薩を三蔵とし、大乗三蔵の後に初めて『種々』と述べて二酥（二種の酥）を指しているのに、今なぜ菩薩の六度をもって『種々』と答えているのか？」と。 答えて言います。およそ諸々の問答には、三つの意味があります。また、下の文の中の文句は、後に一仏を引き合いに出し、ただ漸く開くことの同じであることを挙げています。記の中では、中と後をもって前の初一仏などを指すと述べています。後の学ぶ者には、細心の注意をもって文句と記を経文と対照して詳しく調べ、自らその誤りや省略を見いだしてください。つまり、文句と記には誤りや省略があるのです。 記の中ではまた、真諦が「頗羅墮」を翻訳したことを引き合いに出し、それは婆羅門の一姓であるとしています。もし最後の仏が出家していないならば、八王子がいたはずですが、それはむしろ剎利の姓ではないでしょうか？さらに考えてみてください。 文句には「今、三菩提を得てより去る」とあります。

今字誤也，應云令得。記云：此八子名作四對釋，但得觀心，餘三全無

> 今の字は誤りで、正しくは「令得」とすべきです。注釈に云く：この八つの子の名は四対として解釈されるが、ただ観心を得るのみで、残りの三つはまったく無い。

慈恩云：一、大智大悲雙；二、了有了空雙；三、進善破惡雙；四、達偽知真雙。如其次第而配對之，故此四雙只是四對耳。以今家意，觀此四對義同觀心，若乃因緣、約教、本迹，三科則闕，故云全無。記中又引有云金輪必不值佛等者，若俱舍中乃云人壽八萬時，輪王出世已後則無者，由身壽減眾惡增故。華嚴十種不出四弘，如止觀第一卷

> 慈恩大師は言われます。第一は、大いなる智慧と大いなる慈悲の両立。第二は、有を悟り空を悟る両立。第三は、善を進め悪を破る両立。第四は、偽を達し真を知る両立。この順序で対応させているので、この四つの両立はただ四つの対となるものです。現代の解釈では、この四つの対の意味は心を観ることに同じであり、もし因縁、教えによる解釈、根本と迹（あと）の三つの観点から見れば欠けているので、まったくないと言われます。記録の中にはまた、金輪王は必ず仏に会えないなどと引かれていますが、『倶舎論』では人の寿命が八万歳の時に輪王が世に出て、その後は現れないと説かれています。それは身体と寿命が減り、多くの悪が増えるためです。『華厳経』の十種の願いは四弘誓願を超えるものではなく、『止観』の第一巻に説かれている通りです。

止觀云：或推理發心，或覩佛相發心，或覩神通發心，或聞法發心，或遊土發心，或覩眾發心，或見修行發心，或見法滅發心，或見種種過發心，或見他受苦發心。故此十種與彼華嚴其相略同。華嚴云：或見佛相好，或覩神變，或聞佛說法，或聽佛教誡等云云。文句云：從六十小下

> 『止観』には、理を推し求めて発心する者、仏の相好を拝見して発心する者、神通力を目撃して発心する者、法を聞いて発心する者、浄土を巡って発心する者、僧伽の姿を見て発心する者、修行の様子を見て発心する者、法の滅する様を見て発心する者、種々の過ちを見て発心する者、他者が苦を受けるのを見て発心する者、とあります。この十種は『華厳経』の説くところとほぼ同じです。『華厳経』には、仏の相好を見て、神通変化を目撃して、仏の説法を聞いて、仏の教誡を聴いて、など<note>とあります</note>。『文句』には、六十小劫より下より、

越州新板從字誤為後字也。經云多陀阿伽度等

> 越州の新版で、「従」の字が誤って「後」の字になっています。経文には「多陀阿伽度等」とあります。

多陀阿伽度，此云如來；阿羅訶，此云應供；三藐三佛陀，此云正徧知。然今經云燈明如來授德藏菩薩記，次當作佛，與下文云彌勒菩薩，釋迦牟尼佛之所授記，次後作佛，不亦同乎？況前明時節同，亦將下文五十小劫，謂如半日，例同六十小劫，謂如食頃。又舍利弗成佛，號華光如來，授堅滿菩薩記，次當作佛，號華足安行多陀阿伽度、阿羅訶、三藐三佛陀。故知燈明如來授德藏菩薩記，次當作佛，即是補處成道耳。今文句云昔事已成，故言授菩薩記等者，此由前文對告妙光，乃是菩薩一往相帶來此中耳。況龍樹釋經，每於一文存於眾解，敬請詳之。記云：後分雖有授記，事乖

> 多陀阿伽度、これは「如来」と訳します。阿羅訶は「応供」、三藐三佛陀は「正遍知」と訳されます。さて、この経文には「燈明如来が徳蔵菩薩に授記し、次に仏となるとき」とあり、後に「弥勒菩薩は釈迦牟尼仏から授記を受け、次に仏となる」とあるのは、同じことではありませんか。さらに、前に示された時節が同じであること、また後に「五十小劫が半日のようである」とあるのを、六十小劫が食事の間のようである例と同じと見なすこともできます。 また、舎利弗が仏となり、華光如来と号し、堅満菩薩に授記して次に仏となるとき、その名を華足安行多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三佛陀とするとあります。したがって、燈明如来が徳蔵菩薩に授記し、次に仏となるというのは、補処（次の仏となる者）が悟りを開くことを意味していると分かります。 今、文句に「かつての事はすでに成就したゆえ、菩薩に授記するなどと言う」とあるのは、これは前の文で妙光に告げたことが、菩薩として一つの縁によってここに引き継がれたためです。ましてや、龍樹が経を解釈するときは、一つの文に対して多くの解釈を残しています。どうか詳しくご検討ください。授記の部分には、後に分けても授記があるとはいえ、事柄が一致しないとあります。

舊譯華嚴第三十八入法界品列眾云五百聲聞，故曰後分雖有也。不曾與記，故曰事乖焉。清涼觀師謂華嚴經亦記二乘及明如來久成正覺，謂與法華本迹兩門其意無別，破此具如玄籤補注。楞伽乃密對菩薩

> 旧訳『華厳経』第三十八「入法界品」には、五百の声聞が列挙されているため、後半部分にも（声聞が）存在すると言われています。しかし、彼らには授記が与えられていないため、その扱いは（法華経とは）異なっています。清涼大師は、『華厳経』にも二乗への授記や如来が久遠に成仏したことが明かされていると述べ、法華経の本門と迹門の二つの教えとその趣旨は変わらないとされていますが、この見解に対する批判は、『玄義釈籤補注』に詳しく述べられています。『楞伽経』では、これは菩薩に対して密かに説かれたものです。

楞伽經第六變化品云：大慧菩薩白佛言：世尊！如來何故授阿羅漢三菩提記？何故復說無般涅槃法眾生得成佛道？佛告大慧：我為無餘涅槃界故，密勸令彼修菩薩行。此界他土有諸菩薩，心樂求於聲聞涅槃，令捨是心進修大行。又變化佛與化聲聞而授記莂，非法性佛。大慧當知！授聲聞記是秘密記。輔行判云：此有三意：一為入無餘界者，密勸令修菩薩行故；二為此界他土菩薩樂求聲聞涅槃之者，勸捨此心修大行故；三變化佛授聲聞記，非法性佛。初意自為已入滅者，次意乃是斥鈍菩薩對彼說記，非關二乘。第三判非法性佛者，此是以實而隔於權，況法性之佛尚不記菩薩，何獨聲聞？以此觀之，今文中云密對菩薩正屬第二，若據密字亦兼第一，故楞伽三意並異。法華顯露彰灼授聲聞記。方等為斥奪聲聞

> 『楞伽経』第六変化品に説かれています。大慧菩薩が仏に尋ねました。「世尊よ、如来はなぜ阿羅漢に三菩提の記別を授けられるのですか？また、なぜ涅槃に至らない法を持つ衆生が仏道を成就すると説かれるのですか？」仏は大慧に答えられました。「私は無余涅槃の境地のために、密かに彼らを励まして菩薩行を修めさせるためである。この世界や他の国土には、声聞の涅槃を心から願い求める菩薩たちがいる。彼らにその心を捨てさせ、大乗の行を進めさせるためである。また、変化仏が化現した声聞に記別を授けるのであって、法性仏ではない。大慧よ、知るがよい。声聞に記別を授けることは秘密の記別である。」 『輔行』には、このことについて三つの意味があると判断されています。第一に、無余涅槃の境地に入った者に対して、密かに菩薩行を修めるよう勧めるため。第二に、この世界や他の国土において声聞の涅槃を願い求める菩薩たちに対して、その心を捨てて大乗の行を修めるよう勧めるため。第三に、変化仏が声聞に記別を授けるのであって、法性仏ではないということです。 最初の意味は、すでに滅に入った者自身のためであり、次の意味は、鈍根の菩薩を戒めて彼らに対して記別を説くのであって、二乗に関わることではない。第三に、法性仏ではないと判断されるのは、これは実を以て権を隔てるためであり、まして法性の仏は菩薩にさえ記別を授けないのに、どうして声聞だけに授けることがあろうか。このように見ると、今の文に「密かに菩薩に対して」とあるのは、まさに第二の意味に属し、もし「密」という字に拠れば、第一の意味も兼ねている。ゆえに『楞伽経』の三つの意味は、それぞれ異なっているのである。 『法華経』は顕露に明らかに声聞に記別を授けることを示し、『方等経』は声聞を斥けて奪うために説かれるのです。

方等陀羅尼經授記品云：佛告五百大弟子：汝等各各作佛，俱同一號，號寶月王如來。文殊白佛言：昔於王舍大城授聲聞記，今復於舍衛國授聲聞記，昔於波羅奈授大弟子記。我今少疑，欲有所問，唯佛聽許。時舍利弗問文殊言：世尊授我等記，不久得三菩提，各於世界，如今世尊攝諸眾生。世尊不虗，所言至誠，故能第二、第三授我等記。文殊師利！於汝意云何？文殊語舍利弗言：於汝意云何？猶如枯樹更生枝不？猶如山水還本處不？折石還合不？焦種生芽不？舍利弗言：不也。文殊語言：若不可得，云何問我得菩提記，生歡喜心？是授記法，無形、無相、無我、無有言語，如水聚沫，無有實處。如是觀者，乃名得記。此之經文，乃是文殊破舍利弗得記之相，亦同彈訶。是故今云方等，乃斥奪聲聞也。然金光明文句及以妙玄，判是方等後分，如彼具示。此一段記文，學者雖多誦得，而解義頗疎，故今注之，請加詳悉。經云：名曰然燈

> 『方等陀羅尼経』授記品に説かれている。 仏が五百人の大弟子に告げられた。 「汝らそれぞれが仏となり、皆同じ宝月王如来という名号を持つであろう。」 文殊菩薩が仏に申し上げた。 「かつて王舎城で声聞に授記をなさいましたが、今また舎衛国で声聞に授記をなさいます。かつて波羅奈では大弟子たちに授記をなさいました。私は少し疑問があり、お尋ねしたいことがございます。どうかお許しください。」 その時、舎利弗が文殊に尋ねた。 「世尊は我らに授記をくださり、まもなく三菩提を得て、それぞれの世界において、今の世尊のように衆生を救い導かれると。世尊は虚言をなさらず、お言葉は真実ですから、二度も三度も我らに授記をくださるのです。文殊師利よ、あなたはどう思われますか。」 文殊は舎利弗に言った。 「あなたはどう思いますか。枯れた木が再び枝を生やすでしょうか。流れた水が元の場所に戻るでしょうか。割れた石が元通りにくっつくでしょうか。焼けた種から芽が出るでしょうか。」 舎利弗は言った。 「いいえ、ありません。」 文殊は言葉を続けた。 「もしそれが不可能ならば、どうして私に菩提の授記を得て喜ぶ心があるかと問うのですか。この授記の法は、形がなく、相がなく、我がなく、言葉もない。水の泡のように、実体がないところです。このように観る者こそ、授記を得たというのです。」 この経文は、文殊が舎利弗の授記を得たという相を破ったものであり、同様に批判したものです。それゆえ今、方等とは声聞を斥けることをいうのです。 しかし『金光明経文句』および『妙法蓮華経玄義』では、これを方等部の後分と判じています。詳細はそちらに示されています。 この一節の授記の文は、学ぶ者が多く誦するものの、その意味を理解することは甚だ疎かです。故にここに注釈を加え、詳しくご覧いただきたいと思います。 経に云く、「名づけて然燈という」と。

大論云：然燈，佛生時，一切身邊如燈，故曰然燈。太子作佛，亦名然燈也。舊云定光者，定應作錠。錠，都定切。豆有足曰錠，無足曰鐙，燈正作鐙錠。若作，徒徑切，錫屬耳，非也。然燈即定光，是。八百弟子

> 大論に云う：燃燈仏が生まれた時、全身が灯のように輝いていたので、燃燈と名づけられた。太子が仏となられた時も、同じく燃燈と称された。旧訳で定光とあるのは、定は錠とすべきである。錠（都定切）とは、足のある灯り台を指し、足のないものは鐙（燈の正字は鐙錠）という。もし徒徑切と読むなら、それは錫の類であって、ここでの意味ではない。燃燈即ち定光、これが正しい。八百人の弟子あり。

以父兄之禮而事於師，故曰弟子。又生在師後，名之曰弟。解從師生，名之曰子。記云：宿智頗忘

> 師を父や兄のように敬って仕えることから、弟子と言います。また、師より後に生まれた者を「弟」と呼び、師から教えを受けて育つ者を「子」と呼びます。古い記録には、前世の知恵を少し忘れてしまった、とあります。

頗字恐誤，應作叵字，不可也。請詳之。十住斷結經云：慈氏！菩薩積行恒沙數劫，先以誓願成就正覺，吾方習行而在其後。佛告彌勒：現佛光相，翼從多少？爾時彌勒隱菩薩身，還現佛形，剎土、國界、弟子、菩薩不可思議。眾會皆見，歎未曾有。菩薩處胎經云：文殊自言：本為能仁師，今乃為弟子。佛道極廣大，清淨無增減。我欲現佛身，二尊不並立。本迹難思議，其若如是也。經云：瑠璃頗梨色

> 「頗」の字は誤りかと思われます。「叵」の字とすべきでしょう。「不可」という意味です。よくお調べください。 『十住断結経』にはこうあります。 「慈氏よ、菩薩は恒河の砂の数ほどの劫を積み重ねて修行し、まず誓願によって正覚を成就する。私はその後に続いて修行を積むのである」 仏が弥勒に告げられた。 「今、仏の光明の相を現し、従う者はどれほどいるか」 その時、弥勒は菩薩の姿を隠し、再び仏の形を現した。その浄土、国土、弟子、菩薩は、思議しがたいほどであった。会衆は皆これを見て、未曾有のことを嘆じた。 『菩薩処胎経』にはこうあります。 文殊が自ら言う。 「私はかつて能仁（釈尊）の師であったが、今は弟子となった。仏道は極めて広大で、清浄であり増減はない。私も仏身を現そうと思ったが、二尊は並び立たない。本来の姿と現われの姿は、思議しがたいものである」 経典にはこうあります。 瑠璃の色は、頗梨（水晶）のようである。

具云吠瑠璃，此翻不遠山寶，以去波羅奈國不遠有山出此寶故也。頗梨，此云水玉，其色多紅也。記云尚滅至一生等

> 詳しくは「吠瑠璃」といい、これは「遠からざる山の宝」と訳します。波羅奈国の遠くない山にこの宝が産出するからです。頗梨は「水玉」といい、その色は多くは赤いものです。記録には、なお一生に至るまで滅するなどとあります。

滅字恐誤，應云減至。須約別、圓，故注云云

> 「滅」という字は誤りを恐れ、すなわち「減至」とすべきです。別教と円教に依って解釈すべきであるため、注釈にこのように記されています。

準此，應於現形字下而注云云。文句無者，或恐脫落，或恐指於前文之中注云云耳。波羅提木叉

> これに準じて、現在の形の文字の下に注記すべきである。文句がない場合は、脱落している恐れがあるか、あるいは前文の中に注記されていることを指している恐れがある。波羅提木叉

四分律鈔云：此翻處處解脫也。波羅奢華

> 『四分律鈔』にはこうあります。これは「あらゆる所で解脱する」と訳されます。波羅奢華

章安云：此是樹名，其葉青色，華有三色：日未出時，照則黑色；日正照時，其華赤色；日沒照時，其華黃色。今取赤色如血義耳。經音中云：赤華樹者，失於黑黃之色也。若我又住

> 章安は言う：これは樹木の名であり、その葉は青く、花には三色がある。日が昇る前、光が当たると黒色になり、日中に照らされると赤色になり、日没時に光が当たると黄色になる。今、血のように赤いという意味を取っているのである。経音の中に「赤華樹」とあるのは、黒と黄の色を失っているからだ。もし私がまた留まるならば。

又應作久釋迦牟尼種種訶責等文，出彌勒成佛經也。經云：多遊族姓家

> また、久しく釈迦牟尼が様々に叱責した文などを作るべきであり、これは『弥勒成仏経』から出ている。経にはこうある：「多く族姓の家に遊ぶ」と。

尚書云：方命圮族。族，類也。周禮：四閭為族。鄭玄云：百家也。族亦聚也。記云：故知上之五句

> 『尚書』には「方命圮族」とあります。族とは、類いのことです。『周礼』には「四閭を族と為す」とあり、鄭玄は「百家なり」と注釈しています。族とはまた、集まることでもあります。『礼記』には「故に上之の五句を知る」と記されています。

合云六句，宜細詳之。文句云：聯翩

> 六つの句を合わせて言うので、よくよく詳しく見るべきです。経文の句は言います：連なって続く様子。

上連音，下篇音。文選陸仕衡文賦云：浮藻聯翩，若翰鳥纓繳，而墜曾雲之峻。注云：藻，文也。聯翩，鳥飛皃也。謂文思將來，聯翩然若翰鳥纓繳，而墜自高。雲之峻，言速也。纓，纏也。繳，射也。曾，高也。今亦例然。數百年

> 上の句の音に連なり、下の句の音に連なる。『文選』の陸機「文賦」に言う：「浮藻聯翩、若翰鳥纓繳、而墜曾雲之峻」。注に言う：藻は文なり。聯翩は鳥の飛ぶ様なり。文思が湧き起こり、聯翩然として翰鳥が纓繳にからまり、高き雲の険しきところより墜ちるが如し、と言うは速やかなることを言うなり。纓はからまる、繳は射る、曾は高し。今もまた例の如し。数百年。

三百年也。論語云：子曰：加我數年學易，可以無大過矣。正義云：孔子年四十七時，讀易數年，即至五十者也。記云：當知法護

> 三百年です。『論語』にはこうあります。孔子が言われた：「もし私にあと数年、『易経』を学ぶ時間が与えられたなら、大きな過ちを犯さずに済むだろう」。『正義』（注釈書）には、孔子が四十七歳の時に『易経』を読み始め、数年学んで五十歳になったと説明されています。記録にはこうあります。法護（ダルマパーラ）のことを知るべきであると。

西晉時，月支國沙門曇摩羅剎，此云法護，本姓支，解三十六國語。次居燉煌，乃稱竺氏。後居長安青門之外，立寺行道，精勤異常。南山經序云燉煌菩薩者，蓋美其人云耳。僧祐錄及出藏記謂支菩薩及竺法護是二人者，斯乃迷其姓氏先後故也。長安城東出南頭名霸城門，俗以其色青，故謂之青門也。有阿黨耶

> 西晋の時代、月支国（クシャーナ）の僧・曇摩羅剎（どんまらさつ）がいました。中国名は法護といい、もとの姓は支でした。彼は三十六か国の言葉を理解していました。その後、敦煌に住み、姓を竺と改めました。さらに後年、長安の青門の外に寺を建てて修行に励み、その精進ぶりは並々ならぬものでした。南山経序に「敦煌の菩薩」とあるのは、彼の人徳を称えた表現です。僧祐の目録や出蔵記が支菩薩と竺法護を別人としているのは、彼の姓の変遷を誤解したためです。長安城の東側、南端にある門は正式には霸城門といいますが、俗にその色が青いことから青門と呼ばれていました。阿党耶（あとうや）という人物もここにいました。

論語云：子曰：君子周而不比，小人比而不周。注云：忠信為周，阿黨為比。比，毗至切。正義云：君子行其忠信，而不私相阿黨也。生公，天真獨秀

> 論語に言う：子曰く、君子は周にして比せず、小人は比して周せず。注に云う、忠信を周と為し、阿党を比と為す。比は、毗至の切なり。正義に云う、君子は其の忠信を行い、而して私に相阿党せざるなり。生公は、天真独秀なり。

竺道生法師與僧叡、慧嚴、慧觀同學齊名，時人為之語曰：生、叡發天真，嚴、觀窪流得。慧義彭亨進，宼淵于默塞。生、叡二公獨標天真獨秀之目者，良以悟自天真，秀出群士故也。此用攝論理量破之

> 竺道生法師は僧叡、慧厳、慧観と共に学び、その名は並び称されていた。当時の人々は彼らについてこう言った。「生と叡は天真を発し、厳と観は流れに窪みを得る。慧義は彭亨として進み、宼淵は黙して塞がる。」生と叡の両師が特に天真独秀と称されたのは、まさに悟りが自ずから天真であり、群士の中でも秀でていたからである。これは摂論の理量をもってこれを破る。

理即如理智，量即如量智。故攝論云：順理清淨名如理智。十八空論云：如理智即無分別智，如量智即無分別後智。又如理智是一切種智，如量智是一切智。唯是一智，通真通俗。通真即空義而名如理智，通俗即有義而名如量智。佛性論云：又此二智有二種相：一者無著，二者無礙。言無著者，見眾生界自性清淨，是如理智相也。言無礙者，能通達觀無量無邊諸世界故，是如量智相也。又如理智為因，如量智為果。言為因者，能作生死及涅槃因。言為果者，由此理故，知於如來真俗等法。文句云：乃至半滿四宗

> 理に即する智は如理智であり、量に即する智は如量智である。ゆえに『摂大乗論』には「理に順じて清浄なるを如理智と名づく」とある。『十八空論』には「如理智はすなわち無分別智であり、如量智はすなわち無分別後智である」と説く。また、如理智は一切種智であり、如量智は一切智である。これらはただ一つの智であり、真諦にも俗諦にも通じる。真諦に通じるとは空の義であり、これを如理智と名づけ、俗諦に通じるとは有の義であり、これを如量智と名づける。『仏性論』には「またこの二智には二種の相がある。一つは無著、もう一つは無碍である。無著というのは、衆生界の自性清浄を見ることであり、これが如理智の相である。無碍というのは、無量無辺の諸世界を観じて通達できることであり、これが如量智の相である」と述べている。また、如理智は因となり、如量智は果となる。因となるとは、生死と涅槃の因となることができることをいう。果となるとは、この理によって如来の真俗等の法を知ることをいう。『法華文句』には「半教・満教、四宗に至るまで」とある。

古立五時，今已敘畢。更有四時、三時之說，不能委引。略云：乃至菩提流支立半滿，從鹿苑明半，從般若去明滿。光統律師立四宗：一、因緣宗，指毗曇；二、假名宗，指成論；三、誑相宗，指大品；四、常宗，指涅槃。更有人立五宗，於前四加華嚴、法界宗。復有人立六宗，四如前。更加法華萬善同歸，名為真宗；大集染淨俱融，法界圓普，名為圓宗。言三時者，華嚴化菩薩為頓，三藏化小乘等為漸，勝鬘、金光明為偏方不定。或於漸自為，三十二年前為有，十二年後為空，最後涅槃為常住。言四時者，三時同前。更於無相之後、常住之前，指法華為萬善同歸。記云：亦如三種法輪，殊乖承稟

> 古来より五時が立てられてきたが、今やその説明を終えた。さらに四時や三時という説もあるが、詳しくは引かない。簡略に言えば、菩提流支は半満を立て、鹿苑からは半を明らかにし、般若経以後は満を明らかにした。光統律師は四宗を立てた：一、因縁宗は毘曇を指す；二、仮名宗は成実論を指す；三、誑相宗は大品を指す；四、常宗は涅槃経を指す。またある人は五宗を立て、前の四宗に華厳・法界宗を加えた。さらに六宗を立てる人もあり、四宗は前と同じで、それに法華経の万善同帰を加え、これを真宗と名づけ、大集経の染浄俱融、法界円普を加え、これを円宗と名づけた。三時というのは、華厳経が菩薩を教化するのを頓とし、三蔵が小乗などを教化するのを漸とし、勝鬘経・金光明経を偏方不定とする。あるいは漸の中でも、三十二年前を有とし、十二年后を空とし、最後の涅槃を常住とする。四時というのは、三時は前と同じで、さらに無相の後、常住の前に、法華経を万善同帰と指す。記には、また三種の法輪のようであり、承け継ぐところが大きく異なるとある。

嘉祥吉藏法師依法華經第五立三種法輪教：一、始見我身，聞我所說，即皆信入如來之慧，為根本法輪教，即華嚴經也。二、除先修習學小乘者，為枝末法輪教，即三乘等於所說也。三、我今亦令得聞是經，入如來慧，為攝末歸本法輪教，即法華經四十年後迴三入一也。嘉祥舊立此三法輪，後師天台須改先說，若不改者，甚乖稟承。清涼觀師華嚴鈔中亦許三種法輪之義，故清涼云：於一佛乘分別說三。言一佛乘者，即華嚴也。會三歸一，即攝末歸本也。始見我身，聞我所說，即皆信受，入如來慧，即指華嚴為根本也。除先修習學小乘者，我今亦令得聞是經，入於佛慧，即攝末歸本也。是經即法華也。法華攝於餘經，歸華嚴也。故天台指為乳教，乳是酪等諸味之本故也。若依難信解義，設將已說該於華嚴，若比法華亦為易信，始成正覺便說一極，上根所受不對昔權，故比法華成易信耳。已上並是清涼之說，若欲破之，請將記中斥嘉祥之文例破清涼則可知矣。今問清涼：法華若攝餘經歸華嚴者，何不攝餘經歸法華而卻歸華嚴耶？況法華部內實無會入華嚴之文，何得謬立耶？天台但判頓部在初，喻之乳味，何曾指初為根本邪？是經之言既云法華，何得謂之歸華嚴邪？言自矛盾，所立如何耶？若云華嚴便說一極者，圓教可爾，兼別如何？況復法華對於昔權既兼華嚴，如何卻云法華攝於餘經歸華嚴耶？是則最後醍醐上味還歸最初華嚴之乳，一何可笑也？況將易信立為根本，殊乖經旨。何者？以法華云難信難解最為第一故也。何故不將法華第一立為根本，卻以易信而非第一是根本耶？嗚呼！清涼謬之甚矣。伏膺之說靡施，頂戴之言奚寄

> 嘉祥吉蔵法師は『法華経』第五に基づいて三種の法輪の教えを立てられました。 一、初めて私の身を見て、私の説くことを聞き、即座に皆、如来の智慧に信じて入る。これが根本法輪の教えであり、すなわち『華厳経』です。 二、以前に小乗を学び習っていた者を除く。これが枝末法輪の教えであり、すなわち三乗などが説かれたものです。 三、私は今、彼らにもこの経を聞かせ、如来の智慧に入らせる。これが摂末帰本法輪の教えであり、すなわち『法華経』、四十年後に三乗を廃して一乗に帰するものです。 嘉祥は古くこの三法輪を立てられましたが、後の師である天台大師は、先の説を改める必要があり、改めなければ師承に大きく背くことになります。 清涼澄観大師の『華厳経疏鈔』の中でも、三種の法輪の意義を認めておられます。故に清涼大師は言われます。「一仏乗において、三つに分別して説く」と。「一仏乗」とは、すなわち『華厳経』です。「三つを会して一に帰する」とは、すなわち「摂末帰本」です。 「初めて私の身を見て、私の説くことを聞き、即座に皆、信受して如来の智慧に入る」とは、『華厳経』を根本と指しているのです。「以前に小乗を学び習っていた者を除く。私は今、彼らにもこの経を聞かせ、仏の智慧に入らせる」とは、すなわち「摂末帰本」です。「この経」とは、すなわち『法華経』です。『法華経』は他の経を摂し、『華厳経』に帰するのです。 故に天台大師はこれを乳教と指されます。乳は酪などの諸味の根本であるからです。もし難信難解の義に依るならば、仮に既に説かれたものを『華厳経』に含めるとしても、『法華経』と比べればやはり易信です。始成正覚してすぐに一極を説き、上根の者が受け、過去の権教に対しないからです。故に『法華経』と比べて易信となるのです。 以上は全て清涼大師の説です。もしこれを破ろうとするならば、『記』の中の嘉祥を斥ける文を例に取り、清涼を破れば分かるでしょう。 さて、清涼大師にお尋ねします。もし『法華経』が他の経を摂して『華厳経』に帰するのであれば、なぜ他の経を『法華経』に摂せず、かえって『華厳経』に帰するのでしょうか。ましてや『法華経』の経文の中に、実際に『華厳経』に会入するという文はありません。どうして誤って立てることができるでしょうか。 天台大師はただ頓教の部類を初めに判じ、それを乳味に譬えられただけで、何曾て初めを根本と指されたことがありましょうか。「この経」という言葉が既に『法華経』を指しているのに、どうして『華厳経』に帰すると言えるのでしょうか。言うことが自ら矛盾しており、立てられた説はどうなっているのでしょうか。 もし『華厳経』がすぐに一極を説くと言うならば、円教についてはそう言えましょうが、別教を兼ねる場合はどうでしょうか。ましてや『法華経』は過去の権教に対して説かれたものであり、既に『華厳経』をも兼ねているのに、どうしてかえって『法華経』が他の経を摂して『華厳経』に帰するなどと言えるのでしょうか。これはつまり、最後の醍醐の上味が、まだ最初の華厳の乳に帰するということで、なんと可笑しいことでしょう。 ましてや易信を以て根本と立てるのは、経の趣旨に殊の外背いています。なぜなら、『法華経』には「難信難解、最も第一である」と説かれているからです。なぜ『法華経』の第一を根本と立てず、かえって易信でありながら第一ではないものを根本とするのでしょうか。 ああ、清涼大師の誤りは甚だしい。敬服して従うという説は施すところなく、頂戴して仰ぐという言葉はどこに寄せればよいのでしょうか。

嘉祥上智者書云：常願伏膺甘露，頂戴法橋，自顧傭訥，不堪指授。但佛日將沉，群生眼滅，若非大師弘紉，何以克興？伏願廣布慈雲，啟發蒙滯。吉藏謹當竭愚，奉稟誨誘，窮此形命，遠至來劫。所以荊谿引之而詰也。又復嘉祥親自疏請智者大師講法華經，其疏辭曰：吳州會稽縣嘉祥寺吉藏稽首和南：伏聞山號㠑嵬，道安登而說法；峯名𭅕岫，慧遠栖以安禪。未若茲嶺宏麗，接漢連霞，濬壑飛流，衝天灌日。赤城丹水，仙宅隩區；佛隴香爐，聖果福地。復經擅美，孫賦稱奇。智者栖憑二十餘載，禪慧門徒，化流遐邇。昔童壽英彥，纔解通經；法淨後神，正傳禪業。若非道參窮學，德侔補處，豈能經論洞明，定慧兼照？至如周且沒後，孔丘命世，馬鳴化終，龍樹繼後，如內外不墜，信在人弘，光顯大乘，開發秘教，千年之興五百，實復在於今日。南岳叡聖，天台明哲，昔三業住持，今二尊紹係，豈止灑甘露於震旦，亦當󴗟法鼓於天竺。生知妙悟，魏晉以來，典籍風謠，實無連類。釋迦教主，童英發疑；盧舍法王，善財訪道。敢緣前迹，諦想崇誠，謹共禪眾一百餘僧，奉請智者大師演暢法華一部。此典眾聖之喉襟，諸經之關鍵，伏願開佛知見，耀此重昏，示真實道，朗茲玄夜。庶以三千國土，來稟未聞；百劫後生，奉遵大義。築場戒節，㭊木將臨；搖落山莊，玄黃均野。挂巖玉蘂，菊岸華榮，彌切聲聞之心，頗傷緣覺之抱。吉藏仰謝前達，俯愧詢求，兢懼唯深，但增戰悚。謹請。大乘方便經十種。方便未檢

> 嘉祥寺の上智者の書に云う：常に甘露に伏して膺（う）け、法橋を頂戴することを願い、自ら顧みれば傭訥（ようとつ）にして、指授に堪えず。しかし仏の日は沈まんとし、群生の眼は滅びんとす。もし大師の弘紉（こうじん）がなければ、どうして興すことができようか。伏して願わくは、広く慈雲を布き、蒙滞を啓発せられんことを。吉蔵は謹んで愚を竭（つ）くし、誨誘を奉稟し、この形命を窮め、遠く来劫に至らん。これゆえに荊谿（けいけい）はこれを引きて詰（きつ）す。また嘉祥は自ら疏をして智者大師に法華経を講ぜんことを請う。その疏の辞に曰く：呉州会稽県嘉祥寺の吉蔵、稽首和南す。伏して聞く、山号は㠑嵬（さいがい）にして、道安登りて説法し、峯名は𭅕岫（きゅうしゅう）にして、慧遠栖して安禅す。未だこの嶺の宏麗、漢に接し霞に連なり、濬壑（しゅんがく）飛流、天を衝き日を灌ぐが如くならず。赤城丹水、仙宅の隩区（おうく）、仏隴香爐、聖果の福地。また経に擅美し、孫の賦に奇を称す。智者栖憑すること二十余載、禅慧の門徒、化は遐邇（かじ）に流る。昔、童寿（どうじゅ）の英彦、纔（わず）かに経を通解し、法浄の後神、正に禅業を伝う。もし道、窮学に参せず、徳、補処に侔（ひと）しからずんば、豈に経論洞明し、定慧兼照せんや。周旦の没後、孔丘命世し、馬鳴の化終わりて、龍樹継後すが如し。もし内外墜ちずんば、信ずるに人弘むるに在り、大乗を光顕し、秘教を開発するは、千年の興五百、実にまた今日に在り。南岳の叡聖、天台の明哲、昔は三業住持し、今は二尊紹係す。豈に止むらんや、甘露を震旦に灑（そそ）ぐのみならず、また法鼓を天竺に󴗟（なら）すべし。生知の妙悟、魏晋以来、典籍風謠、実に連類無し。釈迦教主、童英発疑し、盧舎那法王、善財訪道す。敢えて前迹に縁り、崇誠を諦想し、謹んで禅衆一百余僧と共に、奉って智者大師に法華一部を演暢せんことを請う。この典は衆聖の喉襟、諸経の鍵鍵、伏して願わくは、仏知見を開き、この重昏を耀かし、真実の道を示し、この玄夜を朗らかにせられんことを。庶くは三千国土、来りて未聞を稟け、百劫後生、奉って大義を遵わん。場を築き戒節し、木を㭊（さ）きて将に臨まんとす。山荘に落ちて、玄黄均野す。巖に玉蘂を掛け、菊岸華栄え、声聞の心に弥切にし、頗る縁覚の抱を傷む。吉蔵、仰いで前達に謝し、俯して詢求に愧じ、兢懼唯深く、但だ戦悚を増すのみ。謹んで請う。大乗方便経十種。方便未だ検せず。

尋之未見。樔

> 探しても見つからず、巣は空っぽだった。

應作此巢。不同世人以教為因、佛智為果，亦不同他三、四等

> このように、集いの場を築くべきである。世間の人々のように、教えを因として仏の智慧を果とするのではなく、また他の三、四などの説のようにするのでもない。

如慈恩云：能詮智慧教門為因，所說諸佛智慧為果。方便有三或四：一、進趣方便，謂見道前七方便；二、施為方便，謂方便善巧；三、集成方便，謂諸法同體巧相集成；四、權巧方便，謂實無此事應物而說。又上文云三說所無其言何在者，止觀中以三周為三說也。所無者，即三周說中皆云無有餘乘，及無二亦無三等也。又云令釋本地者，釋字誤也，當為識字。初往成就

> 慈恩大師は次のように述べています。「智慧を説き明かす教えが因となり、説かれた諸仏の智慧が果となる」。方便には三つまたは四つの種類があります。第一は進趣方便で、見道以前の七方便を指します。第二は施為方便で、方便善巧を意味します。第三は集成方便で、諸法が同体であり巧みに集まり成ることを示します。第四は権巧方便で、実際にはそのような事柄がなくても、衆生に応じて説くことを指します。また、先の文で「三説所無其言何在」とあるのは、『止観』において三周を三説としているからです。「所無」とは、三周の説法の中でいずれも「余乗無く、二も無く、三も亦無し」と説かれていることを意味します。さらに「令釋本地」とあるのは、「釋」の字は誤りで、正しくは「識」の字であるべきです。初めに往きて成就する。

論云：一者往成就，謂從兜率沒乃至入涅槃。往字論文不同，或作住字，請詳其義焉。文句云：體同權實

> 論に云う：一つは往成就、すなわち兜率天より没し、乃至涅槃に入るまでをいう。往という字については論によって異なり、あるいは住という字を用いる。その意味をよく考えてみよ。文句に云う：体は権実と同じである。

同字誤也，應云體用。記云：今云悉檀，文恐誤也

> 同じ字の誤りです。正しくは「体用」とすべきです。注記に言う：今「悉檀」とあるのは、文字が誤っている恐れがあります。

文句之中應存舊本，今之文句已依記文改定而說，則令記文於今無用，此是挍勘者擅改也。上下諸文準斯可識。三、結成四句

> 文句の内容は古い写本に基づくべきであり、現在の文句はすでに記述に従って改訂されて説明されている。そうすると、記述が今となっては役に立たなくなり、これは校勘者が勝手に改変したことになります。上下の諸文もこれに準じて理解すべきです。三、四つの文をまとめます。

三應作二。乃至多少廣狹準知

> 三つは二つとして扱うべきである。多かれ少なかれ、広かれ狭かれ、これに準じて理解すべきである。

玄義中問：迹本相望千界塵則少，增道數則多，本迹法身淺深異耶？答：法身先滿無增無減，約化緣廣狹耳。問：若爾，初住二住化緣多少，法身亦應淺深？答：菩薩位未窮，約實證判淺深；佛位已滿，但約權化有四句廣狹。釋籤云：三千世界地踊菩薩是本眷屬。若望今時迹中眷屬，如分別功德品增道損生，初六百八十萬億那由他恒河沙眾生得無生法忍，復千倍得聞持，乃至一四天下及八界塵等，比於踊出踊出甚少。又本感廣迹感狹，迹感廣本感狹，俱廣俱狹應亦如是。被多世界為廣，少世界為狹，最初垂應及中間等亦有廣狹。今亦不從廣狹以判，但以久成為妙，中間今日為麤。故知但以久近而判本迹，終不以法身深淺、化緣廣狹等判也。有人問云：今方便品以何為體？他答：有人云：以後得智為體。引唯識說後五波羅蜜皆後得智，我今以根本智為體

> 玄義の中で問う：迹と本を比べると、千世界の塵は少なく、増えた道の数は多いが、本と迹の法身には浅深の違いがあるのか？答える：法身は最初から満ちており、増えることも減ることもない。ただ、教化の縁の広さと狭さによるものだ。問う：それならば、初住や二住の教化の縁の多少によって、法身にも浅深があるはずではないか？答える：菩薩の位はまだ究極に達しておらず、実際の証得によって浅深を判断する。仏の位はすでに満ちているので、方便による教化の広狭によって四つの場合がある。『釈籤』には、三千世界から踊り出た菩薩は本の眷属であるとある。もし今の迹の眷属と比べると、『分別功徳品』で道が増え、生が損なわれるように、初めに六百八十万億那由他恒河沙の衆生が無生法忍を得、さらに千倍の者が聞持を得、さらに一四天下や八界の塵などに至るが、踊り出た者と比べると非常に少ない。また、本の感応は広く、迹の感応は狭い場合もあれば、その逆もあり、ともに広い場合も狭い場合もある。多くの世界を覆うことを広とし、少ない世界を狭とする。最初の垂迹応現や中間の教化にも広狭がある。しかし、今は広狭によって判断せず、ただ久遠に成仏したことを妙とし、中間や今日のことを粗としている。したがって、本と迹は久近によって判断され、法身の浅深や教化の縁の広狭などによっては判断されないことがわかる。ある人が問う：今の『方便品』は何を体とするのか？他の答え：ある人は後得智を体とすると言う。『唯識』に説かれる後五波羅蜜は皆、後得智であると引く。私は今、根本智を体とする。

此是慈恩法華玄贊作是說也。故彼疏云：方便以智慧為性，無分別智內冥真境，後得智中利他說法，能起方便之妙用故，以後得智為性。唯識等說後五波羅蜜，皆後得智性故也。唯識論云：十波羅蜜：一、布施，二、持戒，三、忍辱，四、精進，五、靜慮，六、般若，七、方便，八、願，九、力，十、智。此十若論性者，施以無貪及彼所起三業為性，戒以受學菩薩戒時三業為性，忍以無嗔、精進、審慧及彼所起三業為性，靜慮但以等持為性，彼五皆以擇法為性，說是根本、後得故。此實有十，而說六者，應知後四第六所攝。開為十者，第六唯攝無分別智，後四皆是後得智攝，緣世俗故。應知根本、後得二智，亦是如理、如量二智，亦同今家所立自他權實情智二諦，學者應須辨其麤妙等相。又下文云準南岳意者，誤也，應云準南方也。廢會開覆等

> これは慈恩大師の『法華玄賛』による説です。故にその疏にはこうあります。「方便は智慧を性とし、無分別智は内に真如の境に冥合し、後得智においては他を利して説法し、方便の妙用を起こすことができるゆえに、後得智を性とする」。『唯識論』などでは、後の五つの波羅蜜（方便・願・力・智）は、すべて後得智を性とすると説いています。 『唯識論』にはこうあります。「十波羅蜜とは、一に布施、二に持戒、三に忍辱、四に精進、五に静慮、六に般若、七に方便、八に願、九に力、十に智である。これら十の性について論ずれば、布施は無貪とそれによって起こされる三業を性とし、戒は菩薩戒を受学する時の三業を性とし、忍は無瞋・精進・審慧とそれによって起こされる三業を性とし、静慮はただ等持を性とし、後の五つ（般若・方便・願・力・智）はすべて択法を性とする。これは根本智と後得智とを説くゆえである。実際には十あるが、六つと説くのは、後の四つ（方便・願・力・智）が第六の般若に含まれることを知るべきである。十に開くのは、第六の般若はただ無分別智のみを摂し、後の四つはすべて後得智に摂せられ、世俗を縁とするゆえである」。 知るべきは、根本智と後得智の二智は、すなわち如理智と如量智の二智であり、また今の宗派が立てる自他・権実・情智の二諦と同じである。学ぶ者は、その粗妙などの相を弁える必要があります。 また、下文に「準南岳意者」とあるのは誤りで、「準南方也」とすべきです。廃会開覆など。

玄文甚廣，今略引之。破三顯一，約破情顯智說。廢三顯一，約教說之。開三顯一，約理而說。住一顯一，約佛意說。住三顯一，約權智說。住非三非一顯一，此約理性，又約人天乘等說。覆三顯一，約逗後緣說。住三用一，約弟子本是法身，現為聲聞，示住於三，而常顯一說。住一用三，此約本願施三乘說。本中十義，準可思之。但以文多，卒非可具。又云：發三菩提心

> 玄文は非常に広大ですが、ここでは簡略に引用します。 「三を破って一を顕す」は、妄情を破り真智を顕すという観点から説かれています。 「三を廃して一を顕す」は、教えの面から説かれています。 「三を開いて一を顕す」は、真理の面から説かれています。 「一に住して一を顕す」は、仏の真意の面から説かれています。 「三に住して一を顕す」は、方便の智の面から説かれています。 「三でも一でもないものに住して一を顕す」は、真理の本性の面、また人天乗などの面から説かれています。 「三を覆って一を顕す」は、後の縁に応じるという面から説かれています。 「三に住して一を用いる」は、弟子たちは本来は法身でありながら、声聞として現れ、三に住しているように示しつつ、常に一を顕しているという面から説かれています。 「一に住して三を用いる」は、本願によって三乗を施すという面から説かれています。 本来は十の意義がありますが、これに準じて考えてください。ただ、文章が多く、すぐにはすべてを詳述できません。 また、こうも説かれています： 「三つの菩提心を発す」と。

彼婆沙云：聲聞、辟支佛、佛，名為三菩提也。文句云加趺

> 『彼婆沙』にはこう説かれています。声聞、辟支仏、仏、これらを三菩提と呼ぶのです。『文句』には結跏趺坐とあります。

趺，足上也。字書云：大坐也。當知此方未曉加趺，但云大坐。今佛法坐，其相如結，二趺相加，故云加趺也。新婆沙云：以兩足趺，加致兩䯗，如龍蟠結。又重疊兩足，左右交蟠，是故名為結加趺坐。又記中云：現量色者，作釋立量，出慈恩宗。瑜伽論云：現量、比量。現量有三：一者非不現見，二者非已思應思，三者非錯亂境界。如於陽焰而起水想，名為錯亂。比量有五：一相比量，二體比量，三業比量，四法比量，五因果比量。如見幢故，比知有車，是相比量。言作釋者，即六釋也：一依主，二持業，三有財，四相違，五帶數，六隣近。言依主者，謂所依為主，如說眼識。識依眼起，即眼之識，故名眼識。舉眼之主，以表於識，亦名依士釋云云。記云：真如究漏

> 趺とは、足の甲のことです。字書には「大坐（あぐらをかくこと）」とあります。ここでは、この国ではまだ「加趺」の意味がよく知られておらず、ただ「大坐」と言っているだけだと理解しておきましょう。今、仏法における坐り方の様子は、結んだように、両足の甲を重ね合わせるので、「加趺」と言います。新婆沙論には、「両足の甲を両腿に置き、龍が絡み合うように結ぶ」とあります。また、両足を重ね、左右に交差させて組むことから、「結加趺坐」と名付けられています。 また、記述の中には「現量色」について、解釈を立てて論じ、慈恩宗の教えを示しています。瑜伽論には「現量」と「比量」があります。現量には三つの種類があります：一、今まさに現前しているもの（非不現見）、二、過去に考えたことやこれから考えるべきことではないもの（非已思応思）、三、錯乱した境界ではないもの（非錯乱境界）。例えば、陽炎を見て水があると思うのは、錯乱した境界と言えます。比量には五つの種類があります：一、相による推量（相比量）、二、本質による推量（体比量）、三、作用による推量（業比量）、四、法による推量（法比量）、五、因果による推量（因果比量）。例えば、旗ざおを見て、車があると推し量るのは、相比量です。 「作釈」とは、六つの解釈方法（六釈）を指します：一、依主釈、二、持業釈、三、有財釈、四、相違釈、五、帯数釈、六、隣近釈。依主釈とは、よりどころとなるものを主とし、例えば「眼識」と言います。識は眼をよりどころとして起こるので、眼の識であり、だから眼識と呼びます。眼という主を挙げて、識を表しているので、依士釈とも言います。 記述には「真如は煩悩を究め尽くす」とあります。

漏字誤也，應云究滿。區區，屈曲皃

> 漏れ字は誤りで、究満とすべきです。区々とは、屈曲した様子のことです。

區，豈俱切。禮云：草木茂，區萌達。注云：屈生曰區也。若圓四門，具如止觀第五圓教觀門及教智行理

> 区（く）とは、草木が茂り、芽が伸びるという意味です。礼記には「草木茂り、区萌達す」とあり、注釈には「屈んで生えるものを区という」とあります。円教の四つの門については、止観第五巻の円教観門および教・智・行・理の項目に詳しく説明されています。

經論所說諸門不同，或文字為門，如大品四十二字是也；或觀行為門，如釋論明菩薩修三三昧，緣諸法實相是也；或智慧為門，如法華云其智慧門是也；或理為門，如大品明無生法忍，無來無去是也。依乎教門，通于觀門；依乎觀門，通于智門；依乎智門，通于理門。理門復何所通？雖無所通，而能徧通，是妙門也。餘門且置，今論教門。何者？止觀是行，無生門是教故也。令二乘人不得記等耶

> 経典や論書に説かれる様々な門はそれぞれ異なります。あるものは文字を門とし、例えば『大品般若経』の四十二字門がこれにあたります。あるものは観行を門とし、『大智度論』に菩薩が三三昧を修し、諸法の実相を縁とすることを明かすのがこれです。あるものは智慧を門とし、『法華経』に「その智慧門」と説かれるのがこれです。あるものは理を門とし、『大品般若経』に無生法忍を明かし、来ることなく去ることないと説くのがこれです。 教えの門に依って、観行の門に通じます。観行の門に依って、智慧の門に通じます。智慧の門に依って、理の門に通じます。理の門はさらに何に通じるのでしょうか。通じるところはありませんが、あまねく通じることができる、これが妙なる門です。他の門はひとまず置き、今は教えの門について論じます。なぜなら、止観は行であり、無生門は教えであるからです。二乗の人々が授記を得られないのは、このためなのです。

此斥北地所計定性，二乘不成佛也。令佛壽短促等耶

> これは、北方の地で計られる定性的な見解、つまり二乗は成仏しないという考えを斥けているのです。それによって仏の寿命を短くするようなことがあるでしょうか。

自古諸師謂今壽量品久成正覺，是神通延壽，故今斥之云爾。故四意趣中，平等意趣只云諸佛咸然，不可以他佛替此，亦不可以別時意趣釋記聲聞，意樂意趣釋迹本長遠等

> 古来の諸師は、『寿量品』における「久遠に成仏した」という教えを、神通力によって寿命を延ばしたものと解釈してきました。しかし、今ここではその見解を退けます。 四つの意趣のうち、平等意趣においては「諸仏は皆同じである」と説かれていますが、だからといって他の仏でこの仏を置き換えることはできません。また、別時意趣をもって声聞の授記を解釈したり、意楽意趣をもって迹門と本門の長遠の関係を解釈したりすることも、同様に適切ではありません。

此辨慈恩疏鈔及以古師釋義之失也。彼疏文云：莊嚴論、攝論、對法論等，皆說四意趣：一、平等意趣，二、別時意趣，三、別義意趣，四、補特伽羅意樂意趣。補特伽羅，此翻數取趣，以數取諸趣故，即是眾生之異號耳。詮明法師鈔解此云：思量名意，理趣為趣。思量理趣，故云意趣。一、平等意趣者，楞伽經云：一、字平等，過去及我同名佛故；二、語平等，謂三世佛皆有六十四種美妙音聲而說法故；三、身平等，我及諸佛法身相、好等無有異；四、法平等，我及諸佛皆得三十七種菩提分法，十力、四無所畏故。故依四種，爾乃唱云：我是拘留孫佛等。然勝觀、釋迦本非一體，經云：彼佛即是我身。道理有乖，故知秘密談佛意趣。據平等理，言彼是我，以會通其相違故也。二、別時意趣者，言雖說此，意在他時，言說與意時分有異，故曰別時。故無性云：謂觀懈怠不能於法精懃學者，故說是言：若稱多寶如來名，便得涅槃；若唯發願生西方等。此意乃是長養先時善根故也。三、別義意趣者，雖談於此，意在別義，以由言說與義不同，故名別義。攝論云：若以逢事爾所殑伽沙佛，於大乘法方能解義。無性釋云：謂證相大乘法義與教相大乘法義皆有差別。意云：解義有二不同：一證理之時方名解義，即證相大乘在初地已去菩薩；二聞思時亦名解義，即教相大乘在十信前凡夫所聞，聖凡階位而不同也。四補特伽羅意樂意趣者，雖於一法讚毀不同，為對所化意樂故爾。無性釋云：先為慳貪讚歎布施，後已樂施毀訾檀那，為欲具修勝品善故，故於一施讚而復毀，自語相違有似乖張，觀根授法理合如斯，故名意樂意趣者矣。所以他宗以四意趣釋法華者，亦如下文敘舊以西方無量壽佛以合長者等，是以他佛替此而談平等意趣也。今家破之，謂其閇眼穿鑿也。又謂然雖授記聲聞意在別時，今家之意既得開權，云何却在別時者哉？又復若謂發願一念作別時者，此定不可，故云若將臨終無間十念猛利善行是別時者，幾許誤哉？又謂迹本長遠是意樂意趣，所以或長及短促等，於今家意未之然也。下去記中有二三處云四意趣，故於此中委而引之，至下臨文勿迷此說。余患學者臨文多迷，所以博引諸文示之，惑者未知乃生譏誚，誠可悲矣。是故一家三大部文不易弘傳，安以淺識廢多學哉？廣如止觀四門料簡各立事譬

> これは慈恩の疏鈔および古師の釈義の誤りを弁じたものである。彼の疏文には、『荘厳論』『摂論』『対法論』などは、いずれも四つの意趣を説くとある。一に平等意趣、二に別時意趣、三に別義意趣、四に補特伽羅意楽意趣である。補特伽羅とは、これは数取趣と訳し、たびたび諸趣を取るゆえに、すなわち衆生の別称である。詮明法師の鈔はこれを解釈して、思量を意とし、理趣を趣とするとする。理趣を思量するゆえに、意趣というのである。 一、平等意趣とは、『楞伽経』にいう。一に字平等、過去の仏および我と同名の仏であるゆえに。二に語平等、三世の仏はいずれも六十四種の美妙な音声をもって説法するゆえに。三に身平等、我および諸仏の法身の相・好などに異なることがないゆえに。四に法平等、我および諸仏はいずれも三十七種の菩提分法、十力、四無所畏を得ているゆえに。ゆえにこの四種に依って、すなわち「私は拘留孫仏である」などと唱えるのである。しかし勝観と釈迦は本来一体ではない。経には「あの仏はすなわち我が身である」とある。道理に背くゆえに、秘密に仏の意趣を談じたものであると知るのである。平等の理に拠って、彼は我であると言い、その相違を通じ合わせるのである。 二、別時意趣とは、言葉ではこれを説くが、意は他の時にあることをいう。言説と意とで時分が異なるゆえに、別時というのである。ゆえに無性はいう。懈怠なる者を見て、法において精勤して学ぶことができないがゆえに、この言葉を説くのであると。「もし多宝如来の名を称えれば、すなわち涅槃を得る」と。「もしただ西方に生まれんと願う」などと。この意は、もとより先時の善根を長養するゆえである。 三、別義意趣とは、ここについて談じていても、意は別の義にあることをいう。言説と義とが同じでないゆえに、別義というのである。『摂論』にはいう。「もしこれだけのガンジス河の砂の数ほどの仏に遇い奉れば、大乗の法においてはじめて義を解することができる」と。無性の釈にはいう。証相の大乗法義と教相の大乗法義とには、いずれも差別があると。意は、解義には二つの違いがあるという。一に理を証する時にこそ解義と名づける。すなわち証相の大乗は初地以上の菩薩にある。二に聞思の時にも解義と名づける。すなわち教相の大乗は十信以前の凡夫が聞くところであり、聖と凡との階位が同じでないのである。 四、補特伽羅意楽意趣とは、一つの法についても讃嘆と誹謗とが異なるが、化すべき対象の意楽に対応するがゆえにそうするのである。無性の釈にはいう。先には慳貪なる者に対して布施を讃嘆し、後にはすでに施を喜ぶ者に対して檀那を毀訾する。勝れた品の善を具足して修めんがためである。ゆえに一つの施について讃嘆しまた誹謗するのである。自らの語が相違し、あたかも道理に背くかのようであるが、根機を観て法を授けることは理に合ってこのようである。ゆえに意楽意趣というのである。 ゆえに他宗が四意趣をもって『法華経』を解釈するのは、また下文に古い説を述べて西方の無量寿仏をもって長者などに合わせるように、他仏をもってこれに替えて平等意趣を談じるのである。今の家はこれを破り、その見る目が塞がれ穿鑿であるという。また、たとえ声聞に授記するといえども意は別時にあるというが、今の家の意はすでに権を開いたのである。どうしてかえって別時にあるというのか。また、もし願を発して一念を別時とするならば、これは決してならない。ゆえに「もし臨終の間もない十念の猛利な善行を別時とするならば、なんと誤り多いことか」というのである。また、迹と本との長遠は意楽意趣であるというので、あるいは長くあるいは短促であるなどとするが、今の家の意からすればそうではない。以下、記の中に二三か所で四意趣について述べているので、ここで詳しく引き示した。下の文に至ってもこの説に迷わないようにされたい。 私は学ぶ者が文に臨んで多く迷うことを憂い、ゆえに広く諸文を引いて示したのである。惑える者はこれを知らず、かえって誹謗の言葉を生ずる。まことに悲しむべきことである。ゆえに一家の三大部の文は容易に弘め伝えることはできない。どうして浅い識見をもって多くの学びを廃することができようか。広くは『止観』の四門料簡に各々事と譬とを立ててある通りである。

破法徧中，其文甚廣。舉其大略，三藏乃以龜毛兔角為譬，通教乃以如幻等譬，別教乃以幣帛裹金、土模內像等譬，圓教乃以一微塵中有大千經卷等譬。文句云：非但光宅不識實智等

> 破法を説くことは広範にわたっており、その内容は非常に膨大です。主な要点を挙げると、三蔵教では亀の毛や兎の角を譬えとし、通教では幻のようなものなどを譬えとし、別教では絹布で金を包むことや土型の中に像を納めることなどを譬えとし、円教では一つの微塵の中に大千経巻があることなどを譬えとしています。『文句』には、「ただ光宅が実智などを理解していないだけではない」とあります。

記云：四教實智皆無若干，豈圓實智更有若干？請有眼者熟讀斯文。而四明云：三千皆實，相相宛然。以至云：理體自有差別，法身寂光有胎獄華池等相。還合智者荊谿之意否？況止觀云：第一義中一法尚不可得，況有三千乎？世諦中尚有無量法，何但三千耶？輔行云：四眼二智，萬像森然；佛眼種智，真空冥寂。斯等格言，莫是外道斷見耶？豈是小乘頑空耶？且嘉祥云：一者、實相名為無量；二者、實相所生名為無量。荊谿破云：實相之言，應申能生；無量之說，應申所生。雖分能所，俱名無量，則未可也。而四明云：實相理體，法身寂光，相相宛然。豈非嘉祥謂之實相，名為無量？豈非光宅謂之實智，乃有若干？嗚呼！四明云何妄認智者荊谿所破之非，執之為是邪？悲哉！四等

> 『法華玄義』にはこう記されています。「四教の実智は、いずれも差別なく、ましてや円教の実智にさらに差別があるはずがない」。どうか慧眼ある方々には、この文をよくお読みいただきたい。ところが四明尊者は、「三千の法はすべて実在であり、その相はそれぞれにはっきりと現れている」と述べ、さらに「理体そのものに差別があり、法身や寂光土の中にも地獄や華池などの相がある」とまで説かれました。これは果たして智者大師や荊谿尊者のお考えに合致するものでしょうか。 さらに『摩訶止観』にはこうあります。「第一義諦においては、一つの法さえ得られないのに、ましてや三千の法があるだろうか。しかし世俗諦においては無量の法があるのであって、三千に限られるものではない」。また『止観輔行伝弘決』には、「四眼と二智によって、万象が森然と現れているが、仏眼と一切種智においては、真空が冥寂である」と記されています。これらの格言は、果たして外道の断見なのでしょうか。あるいは小乗の頑空なのでしょうか。 また嘉祥大師は、「一つには、実相そのものが無量であること。二つには、実相から生じるものが無量であること」と説かれました。これに対して荊谿尊者は、「『実相』という言葉は能生（生じる側）を表し、『無量』という言葉は所生（生じられる側）を表すべきである。能所を分けながら、ともに『無量』と呼ぶことはできない」と破折されました。 ところが四明尊者は、「実相の理体や法身・寂光土には、それぞれの相がはっきりと現れている」と説かれています。これはまさに嘉祥大師が「実相を無量と呼ぶ」と言い、光宅大師が「実智に若干の差別がある」と説かれたのと同じではありませんか。ああ、四明尊者はなぜ、智者大師や荊谿尊者が破折された誤りを、あえて正しいと主張されるのでしょうか。悲しいことです。四明尊者よ。

慈、悲、喜、捨，名四無量。華嚴中說，亦名四等。四等從心，無量從境。境既無量，慈亦無差。等心對四，故云四等。記云：八音、四辯、力、無所畏，如法界次第等

> 慈しみ、悲しみ、喜び、捨てる心、これらを四無量心といいます。『華厳経』の中では、四等心とも呼ばれています。四等心というのは、心のあり方に着目した呼び方で、四無量心というのは、その心が向けられる対象の広大さに着目した呼び方です。対象が限りなく広大であるからこそ、慈しみの心にも差別はありません。平等な心が四つの徳に向けられるので、四等心といわれるのです。注釈書には、八音、四弁、力、無所畏などについて、『法界次第』などの経典に説かれていると記されています。

一極好音，二柔輭音，三和適音，四尊慧音，五不女音，六不誤音，七深遠音，八不竭音。一義無礙辯，二法無礙辯，三辭無礙辯，四樂說無礙辯。一是處非處力，二業力，三定力，四根力，五欲力，六性力，七至處道力，八宿命力，九天眼力，十漏盡力。一一切智無所畏，二漏盡無所畏，三說障道無所畏，四說盡苦道無所畏。上略引其名目而已。若欲消名釋義，委在彼中。亦窮八脫之源

> 一に極めて良い音、二に柔らかで優しい音、三に調和した適切な音、四に尊く慧ある音、五に女々しくない音、六に誤りのない音、七に深く遠く響く音、八に尽きることのない音。 一に義に無礙な弁、二に法に無礙な弁、三に言葉に無礙な弁、四に楽しく説く無礙な弁。 一に是処非処の力、二に業の力、三に定の力、四に根の力、五に欲の力、六に性の力、七に至処道の力、八に宿命の力、九に天眼の力、十に漏尽の力。 一に一切智の無所畏、二に漏尽の無所畏、三に障道を説く無所畏、四に苦を尽くす道を説く無所畏。 上記は、その名称を簡単に挙げたに過ぎません。もし名称の意味を解き明かそうとするならば、詳しくはそれぞれの経典に委ねられています。また、八解脱の源も極め尽くされています。

因時名背捨，果上為解脫。所言八者：一、內有色相分觀色，二、內無色相外觀色，三、淨背捨身作證，四、虗空處背捨，五、識處背捨，六、無所有處背捨，七、非有想非無想背捨，八、滅受想背捨。若以根本三三昧等而釋，此中等

> 時節に応じて「背捨」と名付け、果位においては「解脱」となる。ここで言う八つとは以下の通りである： 一、内に色相あり、外の色を観ずる。 二、内に色相なく、外の色を観ずる。 三、清浄なる背捨、身をもって証する。 四、虚空処背捨。 五、識処背捨。 六、無所有処背捨。 七、非有想非無想背捨。 八、滅受想背捨。 もし根本の三三昧などによってこれを解釈するならば、この中には……

慈恩云：禪謂色界四靜慮，定謂四無色定，解脫謂八解脫等。言三三昧者：一、有覺有觀三昧，二、無覺有觀三昧，三、無覺無觀三昧。近代已來，此義全棄等

> 慈恩大師は言われます。禅とは、色界の四つの静慮を指し、定とは、四つの無色定を指し、解脱とは、八つの解脱などを指します。三三昧というのは、第一に有覚有観三昧、第二に無覚有観三昧、第三に無覚無観三昧のことです。近世になってから、この教えの意味はすっかり忘れ去られてしまいました。

唐朝已來慈恩等師，菩薩一乘不分小衍，是則五百應真所集，三祇四階菩薩須還天竺，以由近代不謂此是三藏故耳。又復所說開權顯實，但開二乘不開菩薩，於二乘中其定性者，一向趣寂元無大性。若其然者，經云：菩薩聞法疑網皆除，雖生滅想於彼得聞。如何解會耶？自得四聖

> 唐代以降、慈恩大師らは、菩薩の一乗を小乗と大乗に分けず、これこそが五百人の阿羅漢が集めたものであり、三阿僧祇劫と四階位の菩薩は天竺に還るべきであるとしました。それは、近代においてこれが三蔵であると認められなかったからです。また、説かれた「開権顕実」は、二乗に対してのみ開き、菩薩に対しては開きませんでした。二乗の中でも、定性の者はひたすら寂滅に向かい、もともと大乗の性質を持っていません。もしそうであるならば、経典に「菩薩は法を聞いて疑いの網がすべて除かれ、生滅の想いがあっても、そこで聞くことを得る」とあるのは、どのように解釈すればよいのでしょうか。自ら四聖を悟るのです。

得字誤也，應云自位，故下文云若照自位等也。達磨󳬂多羅

> 「得字」は誤りです。正しくは「自位」とあるべきです。ですから、後文にも「若し自位を照らす等」とあります。ダルマトラ。

此云法尚，是阿羅漢佛滅度後八百年出，今家諸文多引用之。文句云：婆沙第七云：地獄道成就他化天法

> これは法尚（ほうしょう）といい、阿羅漢であり、仏滅後八百年に現れた方です。わが宗の多くの文献で引用されています。『文句』にはこうあります：「婆沙第七に云く、地獄道は他化自在天の法を成就す」と。

彼婆沙云：地獄眾生則應成就他化自在天煩惱、業及善，他化自在天亦成就地獄眾生煩惱、業及不善。具在論中，亦如下文辨之。記云：是知談法界者，未窮斯妙，致使惑果事而迷因理

> 『彼婆沙』には次のように説かれています。 地獄の衆生は、他化自在天の煩悩・業・善を成就すべきであり、 他化自在天もまた、地獄の衆生の煩悩・業・不善を成就すべきである。 このことは論中に詳しく述べられており、また以下の文でも明らかにされます。 『記』にはこうあります。 「これにより知る、法界を論ずる者が、この妙理を究め尽くさないために、 果報の事象に惑い、因縁の道理を見失うに至ることを」

此斥弘華嚴師不善華嚴之法界也。以彼諸師不知眾生因理本具諸法，但說果上諸法相即而已。若不談具，何能相即？故知果上依正融通，並由眾生理本者矣。然則一家所談法門，一曰性體，此當正因；二曰性量，此當了因；三曰性具，此當緣因。具即是假，假即空中，只一法性有茲三義。雖有三義，會之彌分，派之恒合，雖一一徧，亦無所在。當知他宗談乎法性，亦同今家性體性量。以彼皆云法性真如與虗空等，但闕第三性具之義，是故今家諸文斥耳。學今家者，或只談具，或究空寂，此則於其圓宗三法偏計一隅。是故當知性體量具，三義俱陳，心性方顯，一義有隱，圓頓未彰。達斯義者，諍論息矣。文句云幰，蓋

> これは、華厳宗の師が華厳の法界をよく理解していないことを批判したものです。なぜなら、彼らは衆生の因の理が本来すべての法を具えていることを知らず、ただ果の上での諸法が互いに即していると説くだけだからです。もし「具」を説かなければ、どうして「相即」が成り立つでしょうか。したがって、果の上での依報と正報が融通無礙であるのは、すべて衆生の理が根本にあるからだとわかります。 さて、わが宗（天台宗）で説く法門は、第一に「性体」、これは正因に当たります。第二に「性量」、これは了因に当たります。第三に「性具」、これは縁因に当たります。「具」とは仮のことであり、仮は即ち空中にあります。ただ一つの法性にこの三つの意義があるのです。三つの意義があっても、まとめればさらに分かれ、分けても常に一つに合わさり、それぞれが遍在していながらも、どこにも存在しません。 他宗が法性について説く内容も、わが宗の性体や性量と同じです。彼らもまた、法性真如は虚空のようだと説きますが、ただ第三の「性具」の意義が欠けているため、わが宗の諸文献ではこれを批判しているのです。わが宗を学ぶ者の中には、ただ「具」だけを説いたり、空寂だけを追究したりする者もいますが、これは円宗の三法のうち一隅に偏っているのです。したがって、性体・性量・性具の三義をすべて明らかにしてこそ、心性が顕れるのであり、一義でも隠れていれば、円頓の教えは明らかになりません。この意義を理解すれば、争論は自然と収まるでしょう。 『文句』に「幰（おお）う」とあるのは、蓋（ふた）のことです。

幰虗偃切。以帛張車上，故云幰蓋也。眇目

> 幰とは、車の上に布を張った覆いのことです。眇目とは、片目が小さい、または見えにくい状態を指します。

一目小曰眇。眇，亡沼切。濛朧

> 片目が小さいことを眇（びょう）と言います。眇は、亡沼切（ぼうしょうせつ）と読みます。これは、ぼんやりとしてはっきりしない様子を表します。

濛，細雨也。亦作󳬿。秪為

> 濛は、細かい雨のことです。また、ただ～のために、とも表します。

秪，章移切，專辭也，亦可作只。記云重釋，究竟為二，謂釋、結

> 「秪」は章移切で、専ら言葉を表す。また「只」とも書ける。記述によれば、重ねて解釈し、最終的に二つに分ける、つまり解釈と結びつけである。

此文誤也。應云重釋究竟為三，即先重釋三德等三科是也。又次文云重釋究竟等又三者，此文亦誤也。應云重釋究竟等為二，謂釋、結、釋，又為三也。應以此文在前，移前文來此，乃無妨也。又下文云：豈智明發，仍存先暗，云常在邪？終須破盡，究竟永淨，方名常在。而四明云：以反本時，三障宛然，毒害無作，何能符合祖師之教？深願後德思之詳之。然文句中明暗喻文，出瓔珞經，學者知之。論云：五道各有自爾力

> この文章には誤りがあります。「重釋究竟為三」とあるべきで、つまり先に三つの徳などの三つの項目を重ねて解釈するということです。また、次に「重釋究竟等又三者」とある部分も誤りです。「重釋究竟等為二」とあるべきで、解釈、結び、解釈の三つに分けるということです。この文章を前に移し、前の文章をここに持ってくれば問題ありません。 また、後の文章に「智明が発しても、なお以前の暗さが残り、『常在』と言えるだろうか。最終的には完全に破り尽くし、究竟して永遠に清浄になって初めて『常在』と言える」とあります。しかし、四明大師は「本源に戻る時、三つの障りが依然として存在し、毒害が作用しないなら、どうして祖師の教えに合致できようか」と述べています。後の賢者たちには、よく考え、詳しく検討していただきたいものです。 なお、『文句』の中の明暗の喩えは『瓔珞経』に出ていますので、学ぶ者は知っておくべきです。論には「五道にはそれぞれ自ずからの力がある」とあります。

婆沙論云：五道生處，各有自爾之法。如地獄報色，斷便還續，生處自爾。畜生中能飛虗空，餓鬼施摶食則到。人中有勇健、念力、梵行。勇健者，不見果而能修因；念力者，久遠所作，久遠所說，而能憶念；梵行者，能得解脫分，達分善根，得正決定。天中有自然隨意所須之物等。淫祀

> 婆沙論には次のように説かれています。五道の生まれる世界には、それぞれに自然と備わった法則があります。たとえば、地獄の報いとしての身体は、たとえ切断されてもすぐに元通りになる。これは地獄という生まれの場に自然と備わった性質です。畜生道では、空を飛ぶことができる。餓鬼道では、施された食べ物が握り飯の形であれば、それが届く。人道には、勇健・念力・梵行という三つの特質があります。勇健とは、結果が見えなくても原因となる行いを修めることができること。念力とは、はるか昔に行ったこと、はるか昔に語ったことを、よく記憶していること。梵行とは、解脱分・達分の善根を得て、正しい決定に至ることができること。天道には、自然と、思いのままに必要なものが現れる、などです。淫祀

禮記云：非其所祭而祭之，名曰淫祀。婬祀無福。注云：妄祭，神不饗也。今亦例然。又云：諸土各有

> 『礼記』には、自分が祭るべきでないものを祭ることを「淫祀」と言うとあります。淫祀には福がありません。注釈には、むやみに祭っても神は受け取らないとあります。今も同じことが言えます。また、それぞれの土地にはそれぞれの神がいる、とも書かれています。

各有字下，合有自爾力三字，恐脫落耳。婆沙論云：方土亦有生處自爾之法。如罽賓土，秋時牛胭繫󳬂金華鬘，餘方貴勝所不能得。如那伽羅國，凡人飲蒲萄酒，東方貴人所不能得。如東方貴勝衣絹，凡人衣氈。如北方人貴勝衣氈，凡人衣絹。故云諸土各有者也。自爾力，如釋籤

> それぞれの土地には、それぞれの文字があり、合わせて「自爾力」の三文字がある。脱落したのではないかと心配している。『婆沙論』にはこうある：方土にもまた、生まれつきの法則がある。たとえば罽賓の地では、秋になると牛の首に金色の花の飾りをつけるが、他の土地の貴人たちにはそれができない。また、那伽羅国では、普通の人が葡萄の酒を飲むが、東方の貴人たちにはそれができない。東方の貴人は絹の衣を着るが、普通の人は毛氈を着る。北方の人々は貴人は毛氈を着て、普通の人は絹の衣を着る。だから、諸土にはそれぞれの法則があると言われるのである。「自爾力」については、『釈籤』を参照されたい。

玄義引婆沙云：六入殊勝，本自爾故。釋籤云：皆有通用，故云殊勝。自爾之名，通於大小。然小乘中，於一切法立因緣已，皆云自爾。如青葉紅華，非染使然，故云自爾。通亦如是，但是得禪自爾有通，雖是作意，即是諸禪自爾力也。非指權法名為化他

> 『玄義』が『婆沙論』を引用して言うには、「六入は殊勝である、もとより自ずからそうであるからだ」とあります。『釈籤』では、「すべてに通用する作用があるから、殊勝だと言うのである」と説明しています。「自爾」という名称は、大小乗に共通しています。しかし小乗においては、一切の法に因縁を立てた後、すべて「自ずからそうである」と言います。例えば青い葉や赤い花は、染められたからそうなったのではなく、自ずからそうであるがゆえに、「自爾」と言うのです。神通も同様で、ただ禅定を得れば自ずから神通が備わるのであり、たとえ意識的に行うものであっても、それは諸々の禅定の自ずからの力によるものです。権教の法を指して「化他」と言うわけではありません。

若據文句云正頌上種種因緣，而上文云四十餘年以三種化他權實逗會眾生，故言種種也。文句又云化他之權是實智餘助，經中又云更以異方便助顯第一義，又多僕從而侍衛之，餘深法中示教利喜，與今餘法不亦同乎？而今記云非指權法，恐是誤也。又前文云故諸佛中並二智各明歎釋結，此別仍合無歎等三，更請詳之。經云盡思共度量

> もし経文の解釈によれば、正しい頌文の上に種々の因縁があるとされるが、前文には「四十余年にわたり三種の化他権実をもって衆生を導き合わせる」とあるため、種々と説かれるのである。また解釈には「化他に用いる権巧は実智の余りを助けるものである」とあり、経文にも「さらに異なる方便をもって第一義を助け顕わす」とある。また多くの従者を侍らせて守り、深遠な法の余りにおいて教え示し利益と歓喜を与えるとあるが、これらは今の余法と同じではないだろうか。しかしながら注釈には「権法を指すのではない」とあるが、おそらく誤りであろう。また前文には「故に諸仏の中に二智を並べてそれぞれ明らかにし、歎き釈して結ぶ」とあり、この別の部分はなおも歎きなどの三つを合わせたものである。さらに詳しくお尋ねしたい。経文に「思慮を尽くして共に量りはかる」とある。

盡即忍切。思相吏切。任也，窮也。度徒落切。文句云毫󴆲

> 尽くすとは、耐え忍ぶこと。思うとは、心を働かせること。任せること、究め尽くすこと。度るとは、測り知ること。『文句』に云う、微細なるもの。

𣯛，正作󴆲，里之切。十毫曰󴆲。若作莫袍切者，󴆲牛尾耳。記云：如意珠如止觀

> 「𣯛」は、正しくは「𣯛」と書き、音は「里之切」です。十本の細い毛を「𣯛」といいます。もし「莫袍切」と読むならば、それは牛の尾の毛のことです。記録には、「如意珠は止観の如し」とあります。

如意珠者，天上勝寶，狀如芥粟，七寶琳瑯，非內畜，非外入，雨寶穰穰。大論中說：如意珠者，出佛舍利。若法滅時，是諸舍利皆為如意珠矣。色法尚爾，況心神靈妙而不具法耶？文句中云：實相不生，能生般若者，即方便般若之應用耳。世人若問，若三俱會等

> 如意珠とは、天上の勝れた宝であり、芥子粒ほどの大きさで、七宝が琳琅と輝く。内から生じるものでもなく、外から入るものでもなく、宝の雨を降らせて豊かにする。大論の中に説かれている：如意珠は、仏の舎利から出る。もし法が滅する時、これらの舎利はすべて如意珠となる。色法でさえこのようであるのに、ましてや心の神霊妙なるものが法を具えないことがあろうか。文句の中に云う：実相は生じないが、般若を生じさせることができるもの、それは方便般若の応用である。世の人々が問うならば、三つがともに会するなどと。

此亦慈恩有茲說也。彼之所談，如今所敘而破者也。又復古來亦有此說。由聞三偽一真是諸等

> これもまた慈恩大師がこのような説を立てられたものです。しかし、そのお話は、今ここで述べたように誤りであることが明らかになりました。さらに、古くからもこのような説がありましたが、それは「三つは偽りで一つだけが真実である」という誤った見解を聞き誤ったものなのです。

是字應作者字，語勢始便，請細詳之。文句云：若至下，除疑中

> この「是」の字は「作」の字とすべきであり、文の流れが初めから整っている。どうか細かく検討されたい。『文句』に云う：もし下に至れば、疑いを除く中に。

除字須作陳字，請尋下文。記云得益之者，乃至須辨待時

> 「除」の字は「陳」の字とすべきです。どうぞ下文をお尋ねください。記に云く、益を得る者は、時を待つことを弁えねばならぬ。

此中有三十七字，由文句中云佛知三周得益，前後不俱，故使記中有茲說耳。則不可云記中剩長三十七字，學者詳之。經云：瞻仰兩足尊

> ここに三十七文字あり。文句の中で「仏が三周の利益を知る」とあるが、前後が一致しないため、注記の中にこの説があるのである。したがって、注記の中に余分な三十七文字があるとは言えず、学ぶ者はよく理解すべきである。経文に云う：「両足尊を瞻仰す」と。

他云：佛於二足、多足、無足一切中尊，而云兩足尊者，前三類中兩足為貴，即人天之謂也。亦如大經釋天人師，諸佛雖為一切眾生無上大師，而天人中能發阿耨菩提之心，修十善道而證果等，是故稱佛為天人師。如我等比

> また、このように言われています。仏は二足（人間や鳥など）、多足（虫など）、無足（蛇など）のすべての中で最も尊い存在でありながら、特に「両足の尊い方」と称されるのは、この三つの分類の中でも両足のものが最も貴いからです。これはすなわち、人間と天界の衆生を指しています。 ちょうど、大経で「天人師」と釈されるように、諸仏はすべての衆生の無上の大師ではありますが、特に人間と天界の衆生において、阿耨多羅三藐三菩提の心を発し、十善の道を修めて果を証することができるからです。それゆえに、仏は天人師と称されるのです。

比，春秋音義作必利切，比，輩也。記云：無以經意。靁同

> 比は、春秋音義では必利と切る。比は、輩（ともがら）である。記に云う、経意を以てすべからず。靁は同じ。

禮記曲禮篇云：毋雷同。注云：雷之發聲，物無不同時應者。人之言各當由己，不當然也。孟子曰：人無是非之心，非人也。此由北宗堅執定性之人，永無成佛之理。恐他不了論有餘義，故今誡之，不可以經與論雷同。況復論中前二未熟，慈恩那忽改未為不而釋義耶？所言論涉有餘說者，謂彼論中更有餘義未說故也。餘義則是不在此會及彼土等論中未說，故涉有餘，未為究竟盡理故也。故大經中文殊問佛：如佛所說，一切江河必有迴曲，一切女人必懷諂曲。非一切河必有迴曲，非一切女必懷諂曲。佛所說偈，其義有餘。唯願世尊說有餘義，令諸菩薩深信解之。論亦例然，故云有餘也。身子一聞，如止觀第六記

> 『礼記』曲礼篇に言う：「雷同すなかれ」。注釈に言う：「雷が声を発する時、万物は同時に応じないものはない。人の言葉はそれぞれ自らから発すべきであり、当然のことではない」。孟子は言う：「是非の心なき者は人にあらず」。これは北宗が定性の者を固く執着し、永遠に成仏の理なきことを恐れ、他の者が論に未説の余義あることを了せざるを恐れて、今これを戒め、経と論を雷同すべからざる所以なり。ましてや論中、前の二つ未熟なるに、慈恩どうして忽ちに「未」を「不」と改めて義を釈せんや。論に余説あるに及ぶとは、彼の論中に更に余義未説あるを謂うなり。余義とは、この会に在らず及び彼の土など、論中に未説なるが故に、余説に及ぶのであり、未だ究竟尽理ならざるが故なり。故に大経中、文殊が仏に問う：「仏の説く所の如く、一切の江河は必ず回曲あり、一切の女人は必ず諂曲を懐く。一切の河必ずしも回曲あるに非ず、一切の女必ずしも諂曲を懐くに非ず。仏の説く偈、その義余りあり。唯願わくは世尊、余義を説きたまえ、諸の菩薩をして深く信解せしめよ」。論もまた例然、故に余りあると云うなり。舎利弗一聞、『止観』第六の記の如し。

身子初遇頞󳺎說云：諸法從緣生，是法說因緣，是法緣及盡，我師如是說。身子聞已便得初果，及為目連說如上法，目連再聞方得初果。初句苦諦也，第二句集諦也，第三句滅諦也，由身子根利故不說道諦。信法等相具如止觀六十四番

> 舎利弗が初めて阿説示に出会った時、阿説示は言いました。 「すべての現象は因縁によって生じる。この法は因縁を説く。この法は因縁によって生じ、因縁によって滅びる。わが師はこのように説かれた。」 舎利弗はこれを聞いてすぐに初果を得ました。そして目連に同じ法を説くと、目連はそれを聞いて初果を得ました。 最初の句は苦諦、第二の句は集諦、第三の句は滅諦です。舎利弗は根が利かったため、道諦は説かれませんでした。信・法などの相は、『止観』の六十四番に詳しく説かれています。

彼十乘中第三、安心，約信、法行各四悉檀，皆論止觀迴轉相資，自行、化他成六十四。如信行人以止安心有四悉檀，以觀安心有四悉檀，止觀四悉乃成八番。信行既然，法行亦爾，故信、法行有十六番。信行轉資法行之人亦有八番，法行轉資信行之人又有八番，二八復成一十六番，并前乃成三十二番。又以自行、化他合辨，是則乃有六十四番，準彼又有一百二十八番等。說。文句云：胡文或有，漢略不書

> 彼の十乗の中の第三は「安心」であり、信行人と法行人それぞれに四悉檀を配して、いずれも止観が互いに回転し合い、助け合うことを論じています。これによって自行と化他が成り立ち、六十四種となります。 例えば、信行人が止をもって安心する場合に四悉檀があり、観をもって安心する場合にも四悉檀があります。止と観それぞれに四悉檀があるので、合わせて八種類となります。信行人がそうであるように、法行人も同様であり、信行人と法行人を合わせて十六種類となります。 さらに、信行人が法行人を助ける場合に八種類、法行人が信行人を助ける場合にも八種類あり、合わせて十六種類となります。これを先の十六種類と合わせると三十二種類となります。 また、自行と化他を合わせて考えると、六十四種類となります。これを基準にさらに百二十八種類などと展開していくこともできます。 経文の解釈では、サンスクリット語の原文にはあるが、漢訳では簡略化されている場合があると述べられています。

應云梵文或有，秦略不書耳。今則且取佛法初至，及方言未通，故云胡文漢語也。具在玄籤止觀補注中。辨。記云：若將永滅權論，用釋開會實經

> 梵語の原典にはあるかもしれませんが、漢訳では簡略化されていることもあります。ここでは、仏法が初めて伝来した頃、まだ言葉が通じていなかった時代のことを考えて、「胡の文、漢の語」と言っているのです。詳しくは『玄籤』や『止観補注』に記されています。また、『記』にはこうあります：もし永遠の滅を権教として論じ、それをもって開会の実経を解釈するならば。

此責慈恩專用唯識等論定性滅種之文，以通法華而於彼土得聞之者。故成唯識第三引解深密經：阿陀那識甚深細，一切種子如暴流，我於凡愚不開演，恐彼分別執為我。以能執持諸法種子，及能執受色根依處，亦能執取結生相續，故說此識名阿陀那。無性有情不能窮底，故說甚深。趣寂種性不能通達，故名甚細。是一切法真實種子，緣繫便生轉識波浪，恒無間斷猶如暴流。凡即無性，愚即趣寂。恐彼於此起分別執，墮諸惡趣障生聖道，故我世尊不為開演。慈恩引用此文，具如上下委辨。三論師意

> この責任は慈恩大師が特に唯識などの論書を引用し、定性の二乗や滅種の声聞のための文を、法華経の教えを通して解釈し、その仏土で聞く者たちに示したものです。 そこで『成唯識論』第三巻では、『解深密経』を引用して次のように述べています。 「阿陀那識は甚だ深く細やかであり、一切の種子は激流のごとし。我は凡夫や愚者にはこれを説き示さず、彼らが分別を起こしてこれを我と執着することを恐れるからである」 この識は、諸法の種子を執持し、色身の根とその依処を執受し、また結生相続を執取する働きがあるため、阿陀那識と名付けられています。 無性の有情はその深さを極めることができず、だから「甚深」と言います。趣寂の種性はその細やかさを通達することができず、だから「甚細」と言います。これは一切の法の真実の種子であり、縁に触れると転識の波が生じ、絶え間なく続く様は激流のようです。 「凡」とは無性の者を指し、「愚」とは趣寂の者を指します。彼らがこの識について分別の執着を起こし、悪趣に堕ちて聖道への生を妨げることを恐れるため、世尊はこれを説き示されなかったのです。 慈恩大師がこの文を引用した意図は、上下に詳しく論じられているとおりです。これが三論師の見解です。

中論、百論、十二門論，弘此三論之師也。具如止觀第三文末，彼漫引之以為難辭

> 『中論』『百論』『十二門論』、この三論を広めた師である。詳細は『止観』第三の文末に記されているが、彼は軽々しく引用して難問の言葉とした。

勝鬘云：若不知常住，所有三歸皆不成就。此云何通？遠尋根本三乘初業，不愚於法。若取四念處聞慧為初者，此初知真諦常住，齊已知也。若古昔為初業者，先發菩提心，早知常住，畏怖生死，退大取小，具在彼文。矛盾具如止觀記

> 勝鬘経には、「もし常住を知らなければ、すべての三帰依は成就しない」とあります。これはどう理解すればよいのでしょうか。 そもそも三乗の初歩の修行においては、法について愚かではありません。もし四念処の聞慧を初歩とするなら、この段階で真諦の常住を知ることになります。これはすでに知っているのと同じです。 もし過去の修行を初歩とするなら、まず菩提心を発し、早くから常住を知り、生死を恐れて退転し、小乗を取ったことになります。詳細は同経文にあります。 矛盾点については、『止観記』に詳しく述べられています。

盾，文句作楯，誤也。楚有賣矛及盾者，有來買矛，語買者言：此矛壞千盾。有來買盾，語買者言：此盾壞千矛。買矛者猶在，買盾者復至，買矛者語賣者言：還與汝矛，而壞汝盾，為得幾盾？賣者無答，自語相違。故矛，戈矛也，建於兵車，長二丈。盾，干盾也。且順大經諍論之文，故大經皆云不解我意。然彼經中二十三雙

> 盾は、文句を盾とするのは誤りである。楚に矛と盾を売る者がいた。矛を買いに来た者には、「この矛は千の盾を貫く」と言い、盾を買いに来た者には、「この盾は千の矛を防ぐ」と言った。矛を買う者がまだそこにいるうちに、盾を買う者がまた来て、矛を買う者が売る者に言った。「お前の矛でお前の盾を突けば、いくつの盾が貫けるのか？」売る者は答えられず、自らの言葉が矛盾していることに気づいた。そもそも矛とは戈矛のことで、兵車に立てる長さ二丈の武器である。盾とは干盾のことである。また、大経の論争の文に従えば、大経は皆「我が意を解せず」と説いている。しかし、その経典の中には二十三双の対句がある。

涅槃經中，迦葉菩薩白世尊言：眾生於佛滅後作如是說：如來畢竟入於涅槃、或不畢竟入於涅槃，或說有我、或說無我，或說有中陰、或說無中陰，或說有退、或說無退，或言如來身是有為、或言如來身是無為，或有說言十二因緣是有為法、或說是無為法，或說心是有常、或說心是無常，或有說言受五欲樂能障聖道、或說不遮，或說世第一法唯是欲界、或說三界，或有說言施是意業、或有說言即是五陰，或有說言有三無為、或有說言無三無為，或有說言有於造色、或有說言無其造色，或有說言有無作色、或有說言無無作色，或有說言有心數法、或有說言無心數法，或有說言有五種有、或有說言有六種有，或有說言八戒齋法優婆塞戒具足受得、或有說言不具受得，或有說言比丘犯四重已比丘戒在、或說不在，或有說言須陀洹人至阿羅漢皆得佛道、或言不得，或有說言佛性即眾生有、或說佛性離眾生有，或有說言犯四重禁、作五逆罪、一闡提等皆有佛性，或說言無，或有說言有十方佛，或有說言無十方佛，如是問已佛皆答之，一一皆云不解我意。如云：我於經中告諸比丘：一乘一道一行一緣，如是一乘乃至一緣，能為眾生作大寂靜，永斷一切繫縛愁苦苦及苦因，令一切眾到於一有。我諸弟子不解我意，唱言：如來說須陀洹乃至羅漢皆得佛道。我於經中說須陀洹人間天上七返往來便般涅槃等，我諸弟子不解我意，唱言：如來說須陀洹至阿羅漢不得佛道。乃至結云：如是諍訟是佛境界，非諸聲聞緣覺所知。準此數之有二十一雙。言二十三雙者，開善云二十，冶城云二十一，章安云：佛赴緣異說，眾生不解致成諍論，凡二十一條。今云二十三者，誤也。開善云二十者，以第二十合第十九為一雙故，冶城開之成二十一耳。又下文云二十二雙，應改之云其二十雙。又云二十三內，應云二十一內也。若唯引不成以證定性，乃至人不見之，徒援權典用證實教

> 涅槃経の中で、迦葉菩薩が世尊に申し上げました。「世尊が入滅された後、衆生たちは次のようにさまざまな説を立てています。如来は畢竟涅槃に入られたのか、そうでないのか。あるいは『我』があると言い、あるいは『我』はないと言う。中陰があると言い、中陰はないと言う。退転があると言い、退転はないと言う。如来の身体は有為であると言い、無為であると言う。十二因縁は有為法であると言い、無為法であると言う。心は常住であると言い、無常であると言う。五欲の楽しみは聖道を妨げると言い、妨げないと言う。世第一法は欲界だけに限られると言い、三界に及ぶと言う。布施は意業であると言い、五陰そのものであると言う。三つの無為があると言い、三つの無為はないと言う。造色があると言い、造色はないと言う。無作色があると言い、無作色はないと言う。心数法があると言い、心数法はないと言う。五種の有があると言い、六種の有があると言う。八戒斎法と優婆塞戒は具足して受けることができると言い、具足して受けることはできないと言う。比丘が四重戒を犯しても比丘戒は保たれると言い、保たれないと言う。須陀洹から阿羅漢に至るまで皆、仏道を得ると言い、得られないと言う。仏性は衆生の中にあると言い、衆生を離れてあると言う。四重禁を犯し、五逆罪をなし、一闡提であっても皆、仏性があると言い、ないと言う。十方に仏がいると言い、十方に仏はいないと言う。」 このように問うた後、仏はそれらすべてに答え、一つひとつについて「私の意を理解していない」とおっしゃいました。例えば、「私は経の中で比丘たちに告げた。一乗、一道、一行、一縁である。このような一乗、さらには一縁が、衆生のために大いなる寂静をもたらし、一切の束縛、憂い、苦しみ、そして苦の原因を永遠に断ち切り、すべての人々を一つの存在に至らしめる、と。しかし、私の弟子たちは私の意を理解せず、『如来は、須陀洹から羅漢に至るまで皆、仏道を得ると説かれた』と唱えている。また、私は経の中で、須陀洹の人は人間界と天界を七回往来した後、涅槃に入ると説いた。しかし、私の弟子たちは私の意を理解せず、『如来は、須陀洹から阿羅漢に至るまで仏道を得られないと説かれた』と唱えている。」と。 そして、最後に結んで、「このような諍論は仏の境界であって、声聞や縁覚の知るところではない」とおっしゃいました。これに基づいて数えると、二十一対あります。二十三対と言うのは、開善大師は二十対とし、冶城大師は二十一対とされ、章安大師は「仏は縁に応じて異なる説き方をされたが、衆生が理解せず、諍論となった。全部で二十一条ある」と述べておられます。今、二十三対と言うのは誤りです。開善大師が二十対とされるのは、第二十番目を第十九番目と合わせて一対とされているからで、冶城大師はそれを分けて二十一対とされたのです。また、下文に二十二対とありますが、これは二十対と改めるべきです。また、二十三内とあるのは、二十一内とすべきです。もし、ただ引用して定性を証明できないなら、人々はそれを見ることができず、権教の経典を引き合いに出して実教を証明するだけに終わってしまうでしょう。

此辨慈恩偏計之失。故彼疏云：法華論說：決定上慢根未熟故，如來不記。菩薩與記者，方便令發心故，即常不輕菩薩也。言未熟者，上慢可爾，趣寂種性畢竟不熟，云何言未？準理應言：趣寂之人不愚於法，信根不熟，佛不與記；非趣寂者，當亦成佛。莊嚴論云：餘人善根涅槃時盡，菩薩善根不爾也。涅槃經中說：須陀洹等皆當成佛，名不解我意。故知趣寂定不作佛矣。縱二十三內，小部不同

> これは慈恩宗の偏った計らいの誤りを弁じたものである。故に彼の疏にはこうある。「法華論に説くところによれば、決定上慢の根が未熟であるがゆえに、如来は記別を与えず。菩薩に記別を与えるのは、方便をもって発心させんがためである。これが常不軽菩薩である」と。 「未熟」という言葉について、上慢の者についてはその通りであろう。しかし、寂滅に趣く種性の者は畢竟熟することはないのに、どうして「未」と言えるのか。道理に照らせば、こう言うべきである。「寂滅に趣く者は法に愚かではないが、信根が熟していないため、仏は記別を与えない。寂滅に趣く者でない者は、やがて仏となるであろう」と。 『荘厳論』にはこうある。「他の者の善根は涅槃の時に尽きるが、菩薩の善根はそうではない」と。 『涅槃経』の中にはこう説かれている。「須陀洹などは皆、成仏するであろうと言うのは、私の意を解していないのである」と。 故に知るべきである。寂滅に趣く者は決して仏とはならない、と。 仮に二十三の部派の中に、小部の異説があったとしても。

此辨小乘於前等法所計不同。如薩婆多據事而明畢竟涅槃，若曇無德及僧祇部約理而言不畢竟滅。數人宗於薩婆多部純明無我，破諸外道謂之邪我，無假名我。論人所計同曇無德明有假我，破諸外道即陰離陰。婆沙論引育多、提婆說色界生定有中陰，毗婆闍婆說無中陰，薩婆多亦言定有中陰。論家亦然，舉業利鈍，惡業強者直入地獄，善業強者徑生天人，並無中陰。數人所計無漏有退，如初果位一向無退，入思惟、中二果用於等智斷惑，即有退義。羅漢無漏，理應不退，前兩果退，牽羅漢退。舉沙井喻，上下有甎，中間有沙，中沙既頺，上去到下。論人所計無漏不退，但禪定退，修得欲界電光之定，此定難捉，有時退失，名之為退。無漏無退，薩婆多說佛身有為，僧祇所說佛身無為，成論所計亦有亦無。約絕言故乃是無為，約寄言故則是有為。應身有為，真身無為，薩婆多宗所計因緣則是有為，僧祇所說乃是無為。薩婆多云心無相續即是無常，僧祇所說心有相續即是常義，成論復用薩婆提義心有相續即是常也。薩婆多說五欲障道，僧祗所說五欲不障，成論所計有障不障。薩婆多云色界根本四禪能發世第一法，曇無德云色、欲兩界通能發於五種方便，無有論明無色界發五方便者，唯犢子部三界屏發。在凡夫時，等智斷惑，至無色界；而於後時，更修無漏，以斷於惑，至無色界。仍前所斷，即發方便，所以得云三界屏發。成論云：唯在意地，以捨財相應思為正體，亦以身、口暢之。毗曇用薩婆多云：施、定二業，但意地善，故身、口亦善。成論所計，無三無為，以三無為非異體故；數人所計，有三無為，以三無為有別體故。毗曇中計，定有造色；成論所說，造色則無。薩婆多計，無作有色；成論并及曇無德云：無作無色。僧祇所計，不可定言有色、無色。薩婆多云：異體心數，一時俱起。僧祇部中，說無心數。佛陀提婆計無異體，起亦相次，前起為心，後起為數。成論同此。餘部多說，有於五道；唯犢子部，說有六道。薩婆多具受乃得，成論不具亦得。四卷毗曇，有犯重，捨即是失。雜心毗曇，但是薉戒，除法滅盡及犯重禁，並言不捨。二根生時，不入僧數，又非尼攝。餘部多言不失。四卷毗曇，有五時捨：一、邪見增，二、法滅盡，三、命根斷，四、犯重，五、罷道。一乘、三乘，諸部之中，並無此計。何者？一、三皆是大乘所說，非其境界，所以無此。佛性即離，諸部亦無，並是近代所計耳。犯重之人，有性、無性，文略不云。薩婆多云：無十方佛。僧祇則云：有十方佛。成論所說：若一界中，無十方佛；若多世界，有十方佛。言小部者，除一乘、三乘，佛性即離二雙之外，餘即小宗，部執不同也。文句云：內心了了，久知

> この弁明は、小乗部派が前述の法について異なる見解を持っていることを示しています。 例えば、サルヴァースティヴァーダ（薩婆多）は事実に基づいて涅槃は畢竟（完全）であると説き、ダルマグプタ（曇無徳）やマハーサンギカ（僧祇）は理に基づいて涅槃は畢竟滅ではないと説きます。 サンクラーヤ（数人）の宗派はサルヴァースティヴァーダに属し、純粋に無我を明らかにし、諸外道の説く邪我を破り、仮名の我は存在しないとします。 論家（論者）の見解はダルマグプタと同じで、仮我が存在すると明らかにし、諸外道の説く五蘊即我や五蘊離我を破ります。 『大毘婆沙論』では、ヴァース（育多）とデーヴァ（提婆）は色界に生まれる際には必ず中有（中陰）があると説き、ヴィバーシャ（毘婆闍婆）は中有はないと説いています。サルヴァースティヴァーダも中有は必ずあると説きます。 論家も同様で、業の利鈍を挙げ、悪業が強い者は直ちに地獄に堕ち、善業が強い者は直接天界や人間界に生まれ、中有はないとします。 数人の見解では、無漏（煩悩の漏れがない状態）にも退転があります。例えば、預流果（初果）の位は一向に退転がなく、一来果（思惟）や不還果（中二果）では等智（世俗の智慧）を用いて煩悩を断じるため、退転の意味があります。阿羅漢の無漏は、理の上では退転すべきではありませんが、前の二果の退転が阿羅漢の退転を引き起こすとされます。沙井の譬えが挙げられ、上下に煉瓦があり、中間に砂があるように、中間の砂が崩れると、上から下へ落ちるとします。 論人の見解では、無漏には退転がなく、禅定に退転があるとします。欲界の電光の定を修得しても、この定は捉え難く、時に退失することがあり、それを退転と呼びます。無漏には退転がありません。 サルヴァースティヴァーダは仏身は有為であると説き、僧祇は仏身は無為であると説き、成実論は有為でもあり無為でもあると計ります。言葉を絶した観点からは無為であり、言葉に仮託した観点からは有為であるとします。応身は有為であり、真身は無為です。 サルヴァースティヴァーダの宗派は因縁を有為と計り、僧祇は無為であると説きます。 サルヴァースティヴァーダは心に相続がなければ無常であると説き、僧祇は心に相続があれば常の意味であると説き、成実論は再びサルヴァースティヴァーダの義を用いて、心に相続があれば常であるとします。 サルヴァースティヴァーダは五欲が道を障げると説き、僧祇は五欲は障げないと説き、成実論は障げることもあれば障げないこともあると計ります。 サルヴァースティヴァーダは色界の根本四禅が世第一法を発することができると説き、ダルマグプタは色界と欲界の両方が五種の方便を発することができると説きます。無色界が五方便を発することを明らかにした論はなく、ヴァーツィプートリヤ（犢子部）のみが三界で方便を発するとします。凡夫の時、等智で煩悩を断じ、無色界に至り、後に再び無漏を修して煩悩を断じ、無色界に至ります。以前に断じた煩悩が方便を発するので、三界で方便を発すると言えるのです。 成実論は、唯だ意地にあり、財を捨てる相応の思を正体とし、身と口でもそれを暢げると説きます。 毘曇（アビダルマ）はサルヴァースティヴァーダの説を用い、布施と禅定の二業はただ意地が善であるため、身と口も善であるとします。 成実論の計りでは、三無為（虚空無為・択滅無為・非択滅無為）はなく、三無為は異なる体ではないからです。数人の計りでは、三無為があり、三無為は別の体があるからです。 毘曇の中の計りでは、造色（四大種によって造られた色法）は必ず存在します。成実論の説では、造色は存在しません。 サルヴァースティヴァーダは、無作（無表色）は有色であると計ります。成実論とダルマグプタは、無作は無色であると説きます。僧祇の計りでは、有色か無色かは定めて言えません。 サルヴァースティヴァーダは、異なる体の心所（心数）が一時に俱起すると説きます。僧祇部の中には、心所はないと説くものがあります。ブッダデーヴァ（佛陀提婆）は異なる体はなく、起きるのも相次ぎ、先に起きるのが心、後に起きるのが心所であると計ります。成実論もこれと同じです。 他の部派の多くは五道（地獄・餓鬼・畜生・人間・天）があると説きますが、唯だ犢子部のみが六道（阿修羅を加える）があると説きます。 サルヴァースティヴァーダは具に受けて初めて得るとし、成実論は具にしなくても得るとします。 四巻毘曇では、重罪を犯せば捨てることで失います。雑心毘曇では、ただ薉戒（汚れた戒）であり、法滅尽と重禁を犯すことを除き、捨てないと言います。二根（男女両性）が生じた時は僧数に入らず、また比丘尼にも属しません。他の部派の多くは失わないと言います。 四巻毘曇では、五時に捨てるとします：一に邪見が増す時、二に法が滅尽する時、三に命根が断たれる時、四に重罪を犯す時、五に道を罷める時です。 一乗と三乗については、諸部派の中にこの計りはありません。なぜなら、一乗と三乗は皆大乗の説くところであり、彼らの境界ではないからです。仏性の即離についても、諸部派にはなく、皆近代の計りに過ぎません。 重罪を犯した人が仏性があるかないかについては、文が略されているので言及しません。 サルヴァースティヴァーダは十方仏はないと説き、僧祇は十方仏があると説きます。成実論の説では、一つの世界の中には十方仏はなく、多くの世界には十方仏があるとします。 小部というのは、一乗・三乗と仏性の即離の二双を除いた残りが小宗であり、部派の執着が異なるということです。 文句に云う：内心了々、久しく知る。

越州新板知字誤作如字。覺即捨身，不覺徙之，及彗星等

> 越州の新版では「知」の字を誤って「如」の字としてしまった。気づけばすぐに身を捨て、気づかなければ災いを移し、彗星なども同様である。

徙斯氏切。移也。彗祥歲切。星名也。亦謂之孛，言其形孛孛似掃彗也。華嚴四十三云：菩薩從兜率將下時，放光照三千大千世界，諸辟支佛覺斯光者即捨壽命，若不覺者光明力故徙置他方餘世界中。涅槃第九云：譬如黑月彗星夜現，其明炎熾暫出還沒，眾生見已生不祥想。諸辟支佛亦復如是，出無佛世，眾生見已皆謂如來真實滅度生憂悲想，而如來身實不滅度，如彼日月無有滅沒。記云：願尚牽來如眷屬妙

> 斯（し）は移るという意味です。彗（すい）は星の名前です。また「孛（ぼつ）」とも呼ばれ、その形がぼうっと掃き帚（ほうき）に似ていることからこう言われます。『華厳経』第四十三巻には次のようにあります。菩薩が兜率天から降りようとする時、その光が三千大千世界を照らし、諸々の辟支仏がこの光を感じれば寿命を捨て、感じなければ光明の力によって他の世界の余剰の世界に移される、と。『涅槃経』第九巻には次のようにあります。ちょうど闇月に彗星が夜現れ、その明るい炎がしばらく出てはまた消えるように、衆生はこれを見て不吉な思いを抱く。諸々の辟支仏もまた同じで、仏のいない世に現れ、衆生はこれを見て皆、如来が本当に滅度されたと思い、憂い悲しむ思いを抱く。しかし如来の身は実は滅度しておらず、あの日月が滅び失せないのと同じである、と。記にはこうあります。願いによって尚も引き寄せられるのは、まるで眷属の妙なるようである、と。

若先值佛，發真見諦，生猶未盡，或在上界，或在他方。今佛分段作佛，或以願力，或以通力，來生下界，輔佛行化，斷餘殘思，而出三界。若殘惑未盡，值佛入滅，亦自能斷，或待後佛。慈恩基師引仁王經，列獨覺眾。又云：釋迦出世，五百獨覺從山中來，至於佛所。如何通之？然婆沙云：問：支佛為如佛獨出世？為有俱者？答：或云獨出無俱者，以支佛根利勝身子故。如身子尚無並出，何況五百功德者俱出？問：若佛不並出，而五百功德一時出世，何耶？答：此皆本是聲聞，以緣悟菩提，故名支佛。若本種支佛行者獨出世，則如佛也。或二十八，如止觀第六記

> もし先に仏に値い、真実を見て真理に達したならば、生はまだ尽きておらず、あるいは上界に、あるいは他方にある。今、仏が分段として仏となり、あるいは願力によって、あるいは神通力によって、下界に来て生まれ、仏の教化を助け、残された煩悩を断ち、三界を出る。もし残された迷いがまだ尽きず、仏が入滅するに値しても、自ら断つことができ、あるいは後の仏を待つ。 慈恩基師は『仁王経』を引き、独覚の衆を列挙している。また言う：釈迦が世に出た時、五百の独覚が山より来たり、仏の所に至った。これをどう理解するのか？しかし『婆沙論』に云う：問う：縁覚は、仏のように独りで世に出るのか、それとも共に出る者があるのか？答える：あるいは独りで出て共に出る者なしと言う。縁覚の根は利で、舎利弗よりも勝れているからである。舎利弗でさえ並んで出ることはない、まして五百の功徳ある者が共に出ることはない。問う：もし仏が並んで出ず、五百の功徳が一時に世に出るならば、それはなぜか？答える：これらは皆、もとは声聞であり、縁によって菩提を悟ったので、縁覚と名づけるのである。もしもとより縁覚の行を種とした者は、独りで世に出るならば、仏のようである。あるいは二十八人、『止観』第六に記す。

楞伽第三云：下者至七，中者三五，上者即生。入般涅槃如親族法，限至七代如七步蛇，四大力故行至七步，蛇毒力故不至八步，惑力至七，道力非八。婆沙云：應有十四，何故云七？答：中有本有數不出七，故但云七。又總論生應云七人七天，十四中有合成二十八生也。如喜根等即遠益人，如止觀第八記

> 『楞伽経』第三巻に説かれるところによれば、下根の者は七生を経て、中根の者は三生または五生を経て、上根の者は即座に悟りを得て、涅槃に入るという。これは親族の法に例えられ、七代までに限られる。七歩蛇の譬えのように、四つの大いなる力によって七歩まで進むが、蛇の毒の力によって八歩には至らない。煩悩の力は七生まで及ぶが、悟りの道の力は八生には及ばないのである。『大毘婆沙論』には、十四生があるはずなのに、なぜ七生と説くのか、と問うている。これに対して答えて言う、中有と本有の数を合わせても七を超えることはないから、ただ七生と説くのである。また、生を総論すれば、七人の人間と七度の天界の生、合わせて十四の中有が合わさって二十八生となる、と説くべきである。喜根菩薩などのように遠くまで人々を利益する者もあれば、『摩訶止観』第八巻に記されるように、即座

大論云：文殊白佛言：昔我先世過無量劫，爾時有佛，名師子音王。時有二菩薩比丘：一名喜根，二名勝意。喜根但說諸法實相，一切諸法婬嗔癡相，皆是實相，無所罣礙。勝意持戒清淨，毀訾喜根言：是人說法，入邪見中。是時喜根念：此之人為惡業覆，當墮大罪。我今為說甚深之法，雖今無益，作後世因緣。乃說偈云：婬欲即是道，恚癡亦復然，如此三事中，無量諸佛道。說如是等七十餘偈時，三萬天子得無生忍。勝意是時身陷地獄。喜根今於東方作佛，號曰光踰日明王。勝意比丘，今我身是。十種大心

> 大論に云う：文殊菩薩が仏に申し上げた。「昔、私は過去世において無量劫を過ごしました。その時に師子音王という名の仏がおられました。その時、二人の菩薩比丘がおりました。一人は喜根、もう一人は勝意という者です。喜根はただ諸法の実相を説き、一切の諸法、すなわち淫欲・瞋恚・愚痴の相も、すべて実相であり、何の妨げもないと説きました。勝意は戒律を清らかに保ち、喜根を非難して言いました。『この人は邪見の中に陥るような説法をしている』と。その時、喜根は思いました。『この人は悪業に覆われており、やがて大罪に堕ちるであろう。私は今、深遠な法を説こう。今は益がなくとも、後の世の因縁となるであろう』と。そして偈を説きました。『淫欲もそのままが道であり、瞋恚も愚痴もまた同じである。この三つの事柄の中に、無量の諸仏の道がある』と。このような偈を七十余り説いた時、三万の天子が無生法忍を得ました。勝意はその時、身を地獄に陥ちました。喜根は今、東方で仏となり、光踰日明王と号しておられます。勝意比丘は、今の私の身です。十種の大心です。」

發廣大心，長養一切善根究竟不退，心無厭足；見一切佛恭敬供養，心無厭足；正求一切佛法，心無厭足；遍行菩薩波羅蜜，心無厭足；具足一切菩薩三昧，心無厭足；於一切三世流轉，心無厭足；嚴淨佛剎充滿十方，心無厭足；教化成就一切眾生，心無厭足；於一切剎一切劫中行菩薩行，心無厭足；修習諸波羅蜜度脫眾生，心無厭足。經云：唯然

> 広大な心を発して、あらゆる善根を育み、ついに退転することなく、心に飽き足りることはありません。 すべての仏を拝み供養しても、心に飽き足りることはありません。 すべての仏法を正しく求めても、心に飽き足りることはありません。 菩薩の波羅蜜を遍く行じても、心に飽き足りることはありません。 すべての菩薩の三昧を具えても、心に飽き足りることはありません。 すべての三世の流転においても、心に飽き足りることはありません。 仏国土を荘厳清浄にして十方に満たしても、心に飽き足りることはありません。 すべての衆生を教化して成就させても、心に飽き足りることはありません。 すべての国土、すべての劫において菩薩行を実践しても、心に飽き足りることはありません。 諸々の波羅蜜を修習して衆生を度脱しても、心に飽き足りることはありません。 経にはこう説かれています。「まことにその通りです」

禮記曲禮篇云：父召無諾，先生召無諾，唯而起。鄭玄注云：應辭唯恭於諾也。唯，以水切。記云：菩提流支

> 『礼記』曲礼篇には、父が呼べば「諾」と答えず、先生が呼べば「諾」と答えず、「唯」と答えて立ち上がるとあります。鄭玄の注釈によれば、応答の言葉は「唯」の方が「諾」よりも恭しいとされています。唯は、水の切れ目を意味します。記録によれば、菩提流支とあります。

流亦作留，此云道希，北天竺三藏也。當後魏時，至于此國。金輪王出，大海減少，金輪路現，此華乃生

> 流はまた留とも書き、これは道希と訳され、北天竺の三蔵法師である。後魏の時代にこの国に至った。金輪王が現れると、大海が減少し、金輪の道が現れ、この華が生じた。

施設論云：繞贍部洲有轉輪王路，廣一踰繕那。無輪王時，海水所覆，無能見者。若轉輪王出現于世，大海水減一踰繕那，此輪王路爾乃出現，金沙遍布，眾寶莊嚴，栴檀香水以灑其上。轉輪聖王巡幸洲渚，與四種軍俱游此路。泥洹經云：閻浮提內有尊樹王，名優曇鉢羅，有實無華。優曇鉢樹有金華者，世乃有佛。世云：勤學不如擇師

> 施設論に説かれています。贍部洲を取り囲むように、転輪王の道があります。その幅は一由旬です。転輪王のいない時代には、海水に覆われて、誰も見ることができません。もし転輪王が世に現れると、海水が一由旬引いて、この転輪王の道が現れます。そこには金沙が一面に広がり、さまざまな宝で飾られ、栴檀の香水が振りかけられています。転輪聖王は洲の島々を巡り、四種の軍勢を従えてこの道を進みます。 泥洹経に説かれています。閻浮提の中に尊い樹王があり、その名を優曇鉢羅といいます。実はありますが花はありません。優曇鉢樹に金色の花が咲くとき、世に仏が現れます。 世に言います。勤勉に学ぶよりも、師を選ぶことが大切です。

禮記云：是故擇師不可不慎也。楊子云：務學不如務求師。師者，人之模範也。模不模，範不範，為不少矣。但會二乘，何二乘等

> 礼記にはこう言われています。「だから師を選ぶには慎重でなければならない」。楊子は言います。「学問に励むよりも、師を求めることに励むべきである」。師とは、人の模範となる存在です。模範とならず、規範とならない者は少なくありません。ただ二乗を会得するだけでは、二乗など何の意味もありません。

此辨北宗不知二乘有兩教之異，不知菩薩有小衍之殊。章安云：三十心是初依五恒也，初地已去是第二依等

> この論は北宗が、二乗には二つの教えの違いがあることを知らず、菩薩には小乗と大乗の区別があることを理解していないことを指摘しています。章安は言います：「三十心は初依の五恒であり、初地以上は第二依などである」と。

涅槃釋文云：今明凞連至三恒為初依，一分、八分為二依，十二、十四為三依，十六為四依。又云：今約地前未斷別惑是初依，地上斷別惑作三依，是別義也。約十信是初依，三十心、十地斷別惑，是圓義也。就圓更作通、別而說，通則四十心共作四依，別乃十信為初依，初住至六住為第二依，七住至九住為第三依，十住是第四依。又云：四依通是師位，為世間作依止故；通是弟子位，弘宣佛法故；別則初依是弟子位，第四依是師位，中間二依亦師亦弟。凞連

> 涅槃釈文に云う：今、明かすに、凞連より三恒に至るまでを初依とし、一分、八分を二依とし、十二、十四を三依とし、十六を四依とする。また云う：今、地前に約して未だ別惑を断ぜざるを初依とし、地上にて別惑を断じて三依と為すは、別の義なり。十信に約して初依とし、三十心・十地にて別惑を断ずるは、円の義なり。円に就いて更に通・別を為して説く。通すれば四十心共に四依を為し、別なれば十信を初依とし、初住より六住までを第二依とし、七住より九住までを第三依とし、十住を第四依とする。また云う：四依は通じて師の位なり、世間の為に依止を為すが故に。通じて弟子の位なり、弘く佛法を宣べるが故に。別なれば初依は弟子の位、第四依は師の位、中間の二依は亦師亦弟なり。凞連。

章安云：相傳凞連只是䟦提，今言不爾。䟦提大，凞連小。或言廣四丈，或八丈，在城北。䟦提在城南，相去百里，佛居其間，凞連未見。翻言凞連？河未能信受者，恐誤也。經云：若有眾生於凞連？河沙諸如來所發菩提心，乃能於是惡世受持如是經典，不生誹謗。俱尸

> 章安は言う：伝承では、シレンはただバッティ（跋提）であるとされているが、今はそうではないと言う。バッティは大きく、シレンは小さい。あるいは広さ四丈、あるいは八丈とされ、城の北にある。バッティは城南にあり、百里離れている。仏はその間に住まわれ、シレンは見られない。シレン河と訳すのは、信じ受け入れることができない者には、恐らく誤りであろう。経には言う：もし衆生がシレン河の砂の数ほどの如来のもとで菩提心を発し、はじめてこの悪世においてこのような経典を受持し、誹謗を生じないと。クシナガラ。

此方翻為角城，城有三角也。更有諸說，具如涅槃疏。攝大乘等位，如釋籤引

> この場所は角城とも呼ばれ、城が三角形をしていることから名付けられました。他にもさまざまな説があり、詳しくは『涅槃疏』に記されています。また、『摂大乗』などにおける位置づけについては、『釈籤』に引用されている通りです。

攝大乘第七釋第四因果勝相中，亦但明歡喜等十地而已。十地論唯釋華嚴經十地品耳。文句云：十七地論五凡夫。記云：恐是十地論剩七字

> 『摂大乗論』第七の釈、第四の因果勝相の中でも、ただ歓喜などの十地を明らかにするのみです。『十地論』は、ただ『華厳経』の十地品を釈しただけです。『文句』には、「十七地論、五凡夫」とあります。『記』には、「おそらく『十地論』に『七』の字が余分に入ったのでしょう」とあります。

甞撿十地經論，未見具列五凡夫名，然他人引用，今不測之。後人更尋記文之中，乃云恐是十地論剩七字者。甞看群錄、開元錄云：真諦三藏，梁朝太清二年八月屆于都邑，後與沙門寶瓊等二十餘人譯十七地論，適得五卷，而國有難，於是遂輟。此與唐譯瑜伽師地論論本是同也。今恐文句云十七地論，即是此論矣。其十七地論，今闕本焉。瑜伽論云：一、五識身相應地，二、意地，三、有尋有伺地，四、無尋唯伺地，五、無尋無伺地，六、三摩呬多地，七、非三摩呬多地，八、有心地，九、無心地，十、聞所成地，十一、思所成地，十二、修所成地，十三、聲聞地，十四、獨覺地，十五、菩薩地，十六、有餘依地，十七、無餘依地。此十七地，如論具明。淨名疏引五凡夫論，十地名為聖慧凡夫，是則降佛已下皆是凡夫。若然，十信、十住、十行、十迴向、十地是五凡夫耶？大論四智因果總別

> かつて『十地経論』を調べましたが、五凡夫の名が詳しく列挙されている箇所は見当たりませんでした。しかし、他の方が引用されているので、今はその真偽を測りかねます。後世の人がさらに文献を探したところ、記述の中に「おそらく『十地論』に七字余分にあるものではないか」と述べられていました。 かつて多くの経録を閲覧した際、『開元録』に次のように記されていました。真諦三蔵は、梁の太清二年八月に都に到着し、その後、宝瓊などの僧侶二十余名と共に『十七地論』を翻訳し、五巻まで完成させました。しかし、国に難事が起こったため、そこで翻訳は中断されました。これは唐訳の『瑜伽師地論』の論本と同じものです。おそらく『文句』にいう『十七地論』とは、この論を指しているのでしょう。その『十七地論』は、現在では原本が失われています。 『瑜伽論』には次のように説かれています。 一、五識身相応地 二、意地 三、有尋有伺地 四、無尋唯伺地 五、無尋無伺地 六、三摩呬多地 七、非三摩呬多地 八、有心地 九、無心地 十、聞所成地 十一、思所成地 十二、修所成地 十三、声聞地 十四、独覚地 十五、菩薩地 十六、有餘依地 十七、無餘依地 この十七地については、論中に詳しく説明されています。 『浄名疏』が引用する『五凡夫論』によれば、十地を聖慧凡夫と呼びます。これは、仏以下のすべてを凡夫と見なす立場です。もしそうならば、十信・十住・十行・十廻向・十地の五つの位階が、五凡夫ということになるのでしょうか。 『大論』には四智の因果関係について、総説と別説が説かれています。

大論明四智有多解，或言因中總別，果上總別。言總別者，直語道慧及一切智，故名為總；因果之上各加種故，故名為別。又云盡智等者，毗曇云：我知苦，乃至我知道。無生智者，謂我知苦已，不復更知，乃至我知道已，不復更知。邐迆

> 大論において四智を明かすにはさまざまな解釈があります。ある説では、因位における総と別、果位における総と別とします。総と別というのは、直接に道の智慧と一切智を語るので、これを総と言います。因果の上にそれぞれ「種」を加えるので、これを別と言います。また、尽智などについて、毘曇では「我は苦を知る」から「我は道を知る」までと説かれます。無生智とは、我は苦を知り終えて、もはや再び知ることがない、というように、我は道を知り終えて、もはや再び知ることがない、ということです。このように順を追って説かれます。

相連接皃。記云：當非不，故不得云無

> 互いに結びついている様子を表す。注釈にはこうある：否定ではないから、無いとは言えない。

此由慈恩改法華論，決定上慢根未熟故，佛不與記，未應言不即根不熟也，故今斥之。疑通會別，理不應然，乃至而苦不許公違論文

> これは慈恩大師が『法華論』を改訂したことに由来するものです。慢心の根がまだ熟していないために、仏が授記を与えなかったことを決定づけ、未熟な根性だからといって即座に授記が与えられないとは言えないとしています。そこで今、これを退けているのです。 疑いを解き通じさせて区別することは、道理に適っていません。それどころか、苦しみを認めずに公然と論書に背くことになります。

此亦慈恩謂法華經俱會二乘，不開菩薩，故今斥之。余在此地，曾問彼宗人云：法華若不開菩薩，何以經云諸求三乘人，若有疑悔者等？彼乃答云：疑通三乘人，會別在二乘。余又問云：若會別在二乘，而菩薩不會者，經何故云聲聞若菩薩，皆成佛無疑？若不會之，豈曰成佛及無疑耶？若菩薩有疑不會，則菩薩之疑永不除耶？引證除位

> これもまた慈恩大師が『法華経』は二乗（声聞・縁覚）を会得させるが、菩薩は開示しないと説いたことを指し、今これを退けているのです。私がかつてその宗派の人に尋ねたことがあります。「法華経がもし菩薩を開示しないなら、なぜ経文に『三乗を求める人々が、もし疑いや後悔があるならば』などとあるのですか？」と。すると彼は答えました。「疑いは三乗の人々に共通ですが、特に会得されるのは二乗です」と。私はさらに尋ねました。「もし会得されるのが二乗だけで、菩薩は会得されないなら、なぜ経文に『声聞も菩薩も、皆疑いなく仏となる』とあるのですか？もし会得されないなら、どうして仏となることや疑いがないと言えるでしょう？もし菩薩に疑いがあり会得されないなら、菩薩の疑いは永遠に除かれないということになるのでは？」と。これにより、疑いが除かれる境地を証拠として示しているのです。

除字應作住字。如字平呼

> 「除」という字は「住」という字として読むべきです。「如」という字は平らに呼びます。

平字應作去字。李陵與蘇武書云：主客之形，既不相如。注中作而去切。今記主準此，以去聲呼之，而傳寫者誤改去字作平字耳。更請詳之。亦如下文云：故別知見信，經劫數頗到故也。頗字亦是後人妄改，應作叵字。如前序中宿智頗忘，頗字亦是後人妄改。未必全爾。如止觀第三記

> 「平字」は「去字」とすべきです。李陵が蘇武に送った手紙に「主客の形、既に相如ならず」とありますが、注釈では「而去切」としています。今、ここでの「主」はこれに準じ、去声で読むべきところを、書き写す人が誤って「去字」を「平字」に改めてしまったのです。どうか詳しくご検討ください。 また、次の文「故に別知見信、経劫数頗く到る故なり」の「頗」の字も、後人の勝手な改変で、「叵」の字とすべきです。前の序文にある「宿智頗く忘る」の「頗」の字も同様に後人の改変です。必ずしもすべてそうとは限りませんが、例えば『止観』第三の記述にも同様の例があります。

若通途說，智只是慧，俱通權實及以因果。如云般若翻為智慧，如大論云：因名般若，果名薩婆若。又復智慧俱在於因，如云止觀為因，眼智為果，如來智慧、諸佛智慧等，此則智慧俱在於果。若云方便智慧，此則俱在於權。如云智慧甚深，此則俱在於實。如大經中釋別五味，亦寄三乘判菩薩位

> 一般的に言えば、智慧は慧と同じで、どちらも方便と真実、原因と結果の両方を含みます。例えば、般若は智慧と訳されますが、『大智度論』には「因を般若といい、果を薩婆若という」とあります。また、智慧はどちらも原因にある場合もあり、「止観を因とし、眼智を果とする」と言われるように、如来の智慧や諸仏の智慧などは、どちらも果にあるとされます。もし方便の智慧と言えば、これはどちらも方便に属します。もし「智慧は甚深なり」と言えば、これはどちらも真実に属します。『大般涅槃経』の中で五味を解釈し、三乗に託して菩薩の位を判じる場合も同様です。

妙玄止觀皆引大經第九云：聲聞如乳，緣覺如酪，菩薩如生熟酥，佛如醍醐。即別教五味也。讀者皆云等

> 妙玄と止観は、ともに大経の第九に引用して言う：声聞は乳の如く、縁覚は酪の如く、菩薩は生熟酥の如く、仏は醍醐の如し。これが別教の五味である。読者は皆、等しいと云う。

此斥弘華嚴人不解華嚴經意。又上文云：華嚴更加三世說平等句，合為十句。十種三世等者，新舊華嚴皆云：有十種說三世，所謂過去世說過去世，過去世說未來世，過去世說現在世，未來世說過去世，未來世說現在世，未來世說無盡，現在世說過去世，現在世說未來世，現在世說平等，現在世說三世即一念，是為十也。非謂華嚴有十種三世矣。文句云：父具四一

> これは、華厳経を弘める者が華厳経の真意を理解していないことを批判したものである。また、先の文に「華厳はさらに三世を加えて平等の句とし、合わせて十句となる」とある。ここで「十種の三世」などとあるのは、新旧の華厳経にいずれも「三世を説くこと十種あり」と説かれていることを指す。すなわち、過去世が過去世を説き、過去世が未来世を説き、過去世が現在世を説き、未来世が過去世を説き、未来世が現在世を説き、未来世が無尽を説き、現在世が過去世を説き、現在世が未来世を説き、現在世が平等を説き、現在世が三世を説いて即ち一念となる。これが十種である。華厳経に十種の三世があるという意味ではない。文句に「父は四一を具す」とある。

父字誤也，應云文具。越州新本則云文具。記云：諸釋甚廣，於今非要

> 「父」という字は誤りで、正しくは「文」と「具」です。越州の新しい版本には「文」と「具」とあります。注記によれば、諸家の解釈は非常に広範ですが、今のところは必要ではありません。

如慈恩疏五門分別五濁之義：一、釋名，二、出體，三、對治，四、廢立，五、相攝。於是廣說，文有四五紙餘。隟

> 慈恩の疏釈では、五濁の意味を五つの項目に分けて説明しています。 第一に、名称の解釈。 第二に、本質の提示。 第三に、対処法。 第四に、廃立の理由。 第五に、相互の関係。 これについて詳しく述べられ、その文章は四、五枚の紙にわたっています。

正作隙。綺戟切。蟣

> 正しく隙をなす。綺戟切。蟣

居豈切。蝨

> 住まいが窮屈だと言うけれど、シラミにとってはどうだろうか。

所乙切。俱盧舍者

> 所乙切。俱盧舍者

即二里也。踰繕那者

> 即ち二里なり。踰繕那とは

亦言由旬。此云合也。應也。計合爾許之量也。同此方之驛耳。自古聖王一日行量也。然有大小。或八俱盧舍。或四俱盧舍。或四十里等。剎那怛剎那臘縛等者

> また「由旬」とも言います。これは「合」、つまり「応」と訳されます。およそそのくらいの距離を計る単位です。これはわが国の「駅」に相当します。古来、聖王が一日に進む距離とされています。ただし、大小があり、八俱盧舎、四俱盧舎、あるいは四十里などとされます。剎那、怛剎那、臘縛などは…

法苑中翻剎那為一念也，翻怛剎那為一瞬也。臘縛亦言羅婆，雖未見翻，準上乃是六十一瞬故也。攪

> 法苑の中では、剎那を一念と翻訳し、怛剎那を一瞬と翻訳しています。臘縛は羅婆とも言いますが、翻訳例は見当たりません。しかし、上記の定義に従えば、六十一瞬に相当することになります。

古巧切。撓

> 古くて巧みで、鋭い。

奴巧切。憀

> 彼は巧みに切りつけた。

力彫切。憀賴也。藤

> 力は彫刻するように切る。頼りになるものだ。藤。

徒登切。膚

> 皮膚を切る。

甫無切。記云：十六知見，如法界次第

> 十六の知見、法界の次第の如し。

一、我，二、眾生，三、壽者，四、命者，五、生者，六、養育，七、眾數，八、人，九、作者，十、使作者，十一、起者，十二、使起者，十三、受者，十四、使受者，十五、知者，十六、見者。若作三世五陰，各計四句，謂過去、如去等

> 一、我、二、衆生、三、寿者、四、命者、五、生者、六、養育、七、衆数、八、人、九、作者、十、使作者、十一、起者、十二、使起者、十三、受者、十四、使受者、十五、知者、十六、見者。もし三世五陰を立て、それぞれ四句を計るならば、過去、如去等という。

大論云：如去等者，如人來此間生，去至後世亦如是也。有云：先世無所從來，滅亦無所去。有云：身神和合為人，死後神去身不去，是名如去不如去。非如去非不如去者，見去不去有失，故說非去非不去，是人不能捨神而著非去非不去。有云：國土世間八方有邊，上下無邊，總上二法，是名有邊無邊。有人見有邊無邊俱有過，故不說有邊無邊，故云非有邊非無邊。神及世間常等者，外道說神有二種：一常，二無常。若計常者，常修福德後受果報故，或由行道故神得解脫。若計無常者，為今世名利故有所作。若計常無常者，有人謂神有二種：一者細微常住，二者現有所作。現有所作者，身死時無常，細神是常。若計非常非無常者，若常則無罪福，若無常亦無罪福。何者？若常則苦樂不異，譬如虗空雨不濕，風日不能乾。若無常則苦樂變異，譬如風雨在牛皮中則爛壞。以我心故說必有神，但非常非無常。佛言：四種皆是邪見。若本劫本見等六十二

> 大論には次のように説かれている。「如去」とは、人がこの世に生まれ、来世へと去っていくことを指す。また、ある説では、前世から来たものはなく、滅してもどこへも去らないとされる。また、ある説では、身体と霊魂が和合して人となり、死後は霊魂が去り、身体は去らないとされる。これが「如去」であり、「不如去」である。「非如去非不如去」とは、去ることも去らないことも過ちであると見て、去るでもなく去らないでもないと説くものであるが、このような人は霊魂を捨てられず、「非去非不去」に執着する。また、ある説では、国土世間は八方に限りがあるが、上下には限りがないとされる。これら二つの法を総じて「有辺無辺」という。ある人は、有辺にも無辺にも過ちがあると見て、有辺でも無辺でもないと説くため、「非有辺非無辺」と言われる。神及び世間が常住であるとするなど、外道は神について二種を説く。一つは常住、もう一つは無常である。常住を計る者は、常に福徳を修めて後に果報を受けるため、あるいは行道によって神が解脱を得るとする。無常を計る者は、今世の名利のために何かを行う。常住でも無常でもないと計る者は、神には二種あると考える。一つは微細で常住するもの、もう一つは現に作用するものである。現に作用するものは、身が死ぬ時に無常となり、微細な神は常住である。非常でも非無常でもないと計る者は、もし常住なら罪福はなく、もし無常でも罪福はないと考える。なぜなら、もし常住なら苦楽は変わらず、例えば虚空は雨に濡れず、風や日で乾くこともない。もし無常なら苦楽は変異し、例えば風雨が牛皮の中にあれば腐って壊れる。我が心があるゆえに、必ず神があると説くが、それは常住でも無常でもない。仏は言われる、これら四種はすべて邪見である。もし本劫本見など六十二の見解があれば、

長阿含十三云：佛告善念梵志：此本末見不出六十二，本劫本見一十八，末劫末見四十四，合六十二也。言十八者，有四四句，并根本二成十八也。初四句者：一、見二十劫成敗；二、見四十劫；三、見八十劫；四、以捷疾智說。一一句皆云神及世間常也。第二四句者：一、我及世間半常半無常；二、計由戲笑；三、計失意生；四、以捷疾智說。第三四句者：一、神及世間有邊；二、無邊；三、上下方有邊；四、方無邊；四、以捷疾智說。第四四句者：一、我不知不見善惡、有報無報耶；二、我不知不見有他世無他世耶；三、我不知不見何者善何者惡耶；四、愚癡闇鈍，隨他問答。根本二句者：一、定意知眾生未來無因緣而有；二、以捷疾智說。其次末劫末見四十四句者，於中第一有四四句。初四句者：一、有想四句也：一、我此終後生有色有想；二、生無色有想；三、生有色無色有想；四、非有色非無色有想。二四句者，以有邊無邊對有想作四句。三四句者，以有樂無樂對有想作四句。四四句者：一、有想；二、若干想；三、少想；四、無量想。第二有二四句：初四句者，以有色無色對無想作四句。次四句者，以有邊無邊對無想作四句。第三有二四句：初四句者，以有色無色對非有想非無想為四句。次四句者，以有邊無邊對非有想非無想為四句。此兩二四，并前四四，合三十二。復有斷見七句：一、若沙門、婆羅門作如是論：我身從父母而生，終歸磨滅。二、欲界諸天生，具足斷滅。三、色界諸天生，具足斷滅。四、空處；五、識處；六、不用處；七、非想非非想處。次常見有五句：一、計現在五欲自恣得涅槃；二、初禪；三、二禪；四、三禪；五、四禪，並計得涅槃。斷常有十二句：并前三十二句，合四十四句；并前十八句，合六十二句也。具釋如經。文句云：稠林

> 長阿含経第十三に説かれているように、仏が善念梵志に告げられた。これらの根本的・末期的な見解は六十二種を超えず、根本劫における根本見は十八種、末期劫における末見は四十四種、合わせて六十二種である。 十八種というのは、四つの四句があり、それに根本の二句を加えて十八となる。 第一の四句は： 一、二十劫の成敗を見る。 二、四十劫を見る。 三、八十劫を見る。 四、迅速な智慧によって説く。 いずれも「神と世間は常住である」と説く。 第二の四句は： 一、我と世間は半ば常住で半ば無常である。 二、戯れによって計る。 三、失意によって生じると計る。 四、迅速な智慧によって説く。 第三の四句は： 一、神と世間には限りがある。 二、限りがない。 三、上下の方角には限りがある。 四、方角には限りがない。 四、迅速な智慧によって説く。 第四の四句は： 一、私は善悪や報いの有無を知らず見ない。 二、私は他世の有無を知らず見ない。 三、私は何が善で何が悪かを知らず見ない。 四、愚かで暗く鈍く、他者の問いに従って答える。 根本の二句は： 一、定意によって衆生の未来は因縁なくしてあると知る。 二、迅速な智慧によって説く。 次に、末期劫における末見四十四種については、その中に第一として四つの四句がある。 第一の四句は： 一、有想に関する四句である： 一、我はこの終わり後に色有想として生まれる。 二、無色有想として生まれる。 三、有色無色有想として生まれる。 四、非有色非無色有想として生まれる。 第二の四句は、有辺と無辺を有想に対させて四句とする。 第三の四句は、有楽と無楽を有想に対させて四句とする。 第四の四句は： 一、有想。 二、若干想。 三、少想。 四、無量想。 第二に二つの四句がある： 第一の四句は、有色と無色を無想に対させて四句とする。 次の四句は、有辺と無辺を無想に対させて四句とする。 第三に二つの四句がある： 第一の四句は、有色と無色を非有想非無想に対させて四句とする。 次の四句は、有辺と無辺を非有想非無想に対させて四句とする。 この二つの二四句に、先の四つの四句を合わせて三十二種となる。 さらに断見に関する七句がある： 一、もし沙門や婆羅門がこのように論ずる：我が身は父母から生まれ、ついに磨滅に帰する。 二、欲界の諸天の生は、具足して断滅する。 三、色界の諸天の生は、具足して断滅する。 四、空処。 五、識処。 六、不用処。 七、非想非非想処。 次に常見に関する五句がある： 一、現在の五欲を恣にして涅槃を得ると計る。 二、初禅。 三、第二禅。 四、第三禅。 五、第四禅。いずれも涅槃を得ると計る。 断常に関する十二句があり、先の三十二句と合わせて四十四句となる。さらに先の十八句と合わせて六十二句となる。詳しい解釈は経の通りである。 文句に云う：稠林。

觀法師云：難知曰稠多，故名林。宕

> 観法師は言われた。「知り難きを稠多と言い、それ故に林と名付けるのです。」

徒浪切。過也。殞

> 徒浪切。過ちなり。殞つ。

為閔切。沒也。記云：先斷

> ああ、悲しいことです。ついに亡くなられました。記録にはこうあります：まず断たれた。

斷，都管切。兩醫如止觀第三記

> 断、都管の切。両医は止観第三記のごとし。

大經云：譬如舊醫純用乳藥，如彼外道唯說邪常。客醫如來初令制乳，如說無常以破邪常。成無常已，還用真常以破無常。新舊二乳，乳名雖同，邪正義別。應云四法一時

> 大経にはこう説かれています。たとえば古い医者は乳薬だけを使い、あの外道がただ邪な常を説くようなものだ。客医たる如来は初めに乳を断つよう命じ、無常を説いて邪な常を破る。無常が成じたならば、さらに真の常をもって無常を破る。新旧の二つの乳は、乳という名は同じでも、邪と正の意味は異なる。四つの法は一時に説かれるべきであると言えるでしょう。

今文句中已依記文改定而說，據理應須存舊文句，方見記文而有用也。舊本文句但云一時，闕於四法，但是略耳。委釋具如止觀第五記

> この文章では、すでに記述に基づいて文言を改訂して説明していますが、理に従えば、従来の文言を残しておくべきです。そうすることで、記述の有用性が明らかになります。旧来の本文では「一時」とだけ記され、四法については欠けていますが、これは単に省略されているだけです。詳細な解釈は、『止観』第五の記述にすべて示されています。

論云：三假施設。止觀云：法假如因成，受假如相續，名假如相待。五眾和合是法假，既云和合，與因成同也。如根、莖、枝、葉，故有樹名，是受假。受謂領納，由根、莖故，樹可領納，領納樹故，有樹始終，即相續假也。用是名字，取二法相，說是二種，是名假。用於樹名及枝、葉名，取二名下二種之法：樹名之下，枝、葉為法；枝、葉名下，四大為法。二名、二法，若待非樹，有樹名生，即相待假也。初禪劫命等，二禪已去，劫短命長等

> 論に云う：三つの仮の施設がある。止観に云う：法仮は因成の如く、受仮は相続の如く、名仮は相待の如し。五蘊の和合はこれ法仮なり、既に和合と云うは、因成と同じである。例えば、根、茎、枝、葉があるゆえに樹木という名がある、これを受仮という。受とは領納することを意味し、根や茎があるゆえに、樹木は領納することができ、樹木を領納するゆえに、樹木の始めと終わりがある、これが相続仮である。この名を用いて、二つの法の相を取り、この二種を説く、これが名仮である。樹木の名および枝や葉の名を用いて、二つの名の下にある二種の法を取る：樹木の名の下には、枝や葉が法であり；枝や葉の名の下には、四大が法である。二つの名と二つの法、もし樹木でないものと待ち合わせれば、樹木の名が生じる、これが相待仮である。初禅では劫と命など、二禅以上では劫が短く命が長いなど。

初禪初天壽二十中劫，二天壽四十中劫，三天壽六十中劫，此則名為劫命等也。二禪初天壽二大劫，二天壽四大劫，三天壽八大劫，此則名為劫短命長。三禪已去，準說可知。命是不相應行法

> 初禅の初天の寿命は二十中劫、二天の寿命は四十中劫、三天の寿命は六十中劫、これは「劫命等」と呼ばれます。二禅の初天の寿命は二大劫、二天の寿命は四大劫、三天の寿命は八大劫、これは「劫短命長」と呼ばれます。三禅以降は、これに準じて理解できます。寿命は不相応行法です。

百法疏云：行即行蘊。行蘊有二：一、相應行，即心所法；二、不相應行，亦言心不相應行，不與心相應故，非心法故，簡相應行也。亦言非色不相應行。準百法論，不相應行有二十四：一、得，二、命，三、眾同分，四、異生性，五、無想定，六、滅盡定，七、無想報，八、名，九、句，十、文，十一、生，十二、老，十三、住，十四、無常，十五、流轉，十六、定異，十七、相應，十八、勢速，十九、次第，二十、時，二十一、方，二十二、數，二十三、和合性，二十四、不和合性。若準俱舍，頌云：心不相應行，得非得同分，無想二定命，相名身等類。論云：如是諸法，心不相應，非色等性，行蘊所收。俱舍中明五道壽別

> 『百法明門論』の注釈にはこうあります。「行」とは行蘊のことです。行蘊には二種類あります。一つは「相応行」、これは心所法のことです。もう一つは「不相応行」、これは心不相応行とも言い、心と相応しないからです。心法ではないため、相応行と区別されます。また、非色不相応行とも言われます。 『百法明門論』によれば、不相応行には二十四種類あります。一、得。二、命。三、衆同分。四、異生性。五、無想定。六、滅尽定。七、無想報。八、名。九、句。十、文。十一、生。十二、老。十三、住。十四、無常。十五、流転。十六、定異。十七、相応。十八、勢速。十九、次第。二十、時。二十一、方。二十二、数。二十三、和合性。二十四、不和合性。 『倶舎論』によれば、偈にこうあります。「心不相応行とは、得・非得・同分・無想・二つの定（無想定と滅尽定）・命・相・名身などの類である」。論にはこうあります。「これらの諸法は、心と相応せず、色などの性質でもなく、行蘊に含まれる」。『倶舎論』では、五つの生存領域（五道）における寿命の違いが説かれています。

等活等上六，如次以欲天，壽為一晝夜，壽量亦同彼。極熱半中劫，無間中劫全，鬼日月五百，傍生極中劫。人間五十年，下天一晝夜，乘斯壽五百，上五增倍倍，唯無雲減三。什法師云：將來世劫盡時，刀兵起，人壽十歲。婆須蜜從忉利天下，生王家作太子，教眾人言：我等祖父壽命極長，今人嗔恚，無慈心故，其壽乃短，是故汝等應行慈心。眾人從命，惡心漸薄，其後生子，壽二十歲，如其轉續，至于八萬四千歲也。因文句中辨大小劫，故引此云。當以此文用通諸說。如阿閦國亦有女人，而無邪欲

> 等活から始まる六つの地獄では、寿命は欲界天の一日一夜を一単位とし、その寿命もそれに等しい。極熱地獄では半中劫、無間地獄では中劫全体に及ぶ。餓鬼道では一日が人間の五百年に相当し、畜生道では寿命が極めて長い。人間界の五十年は、下層の天界の一日一夜に相当し、これを基準に寿命は五百倍となり、上層の天界ではさらに倍々に増加するが、無雲天だけは三つ減少する。 鳩摩羅什法師は言われた：未来世の劫が尽きる時、刀兵劫が起こり、人間の寿命は十歳となる。婆須蜜が忉利天から降り、王家に生まれて太子となり、人々に教えて言う：我々の先祖の寿命は極めて長かったが、今の人は瞋恚に満ち、慈しみの心がないため、寿命が短くなった。だから、あなたたちは慈しみの心を行うべきである。人々はその教えに従い、悪しき心は次第に薄れ、その後生まれる子の寿命は二十歳となり、このように転々と続いて、ついに八万四千歳に至るのである。 文句の中で大小の劫を弁じたので、この話を引き合いに出した。この文をもって諸説を通じさせるべきである。阿閦仏の国にも女人はいるが、邪な欲望はない。

悲華經云：阿閦菩薩願云：所有女人成就一切諸妙功德，猶如兜術天上天女，無有婦女諸不淨事。若諸男子發婬欲心，至女人所以愛心視，須臾之間便得離欲。如是女人若見男子有愛欲心，便得妊身，亦得離於婬欲之想。禪波羅蜜明三種瞋：一、非理瞋；二、順理瞋；三、諍論瞋。無事生怒是非理瞋，名為邪瞋；因人來惱而生怒者名順理瞋，即正瞋也。乃引摩訶衍論說清淨佛土中雖無邪三毒而有正三毒為例。今言順理正瞋者，即其人也。博地之言無教可準，餘國之義出自他人

> 『悲華経』に説かれています。阿閦菩薩はこのように願われました。 「すべての女性が、あらゆる優れた功徳を成就し、兜率天の天女のごとく、女性に伴う不浄なことがないように。もし男性が婬欲の心を起こし、女性のもとに来て愛欲の目で見ても、たちまちのうちに離欲を得られるように。また、そのような女性が、もし男性に愛欲の心を見ても、身ごもることができ、同時に婬欲の想いから離れることができるように。」 『禅波羅蜜』には、三種類の瞋りが明かされています。 一、非理瞋（道理に合わない怒り） 二、順理瞋（道理にかなった怒り） 三、諍論瞋（論争による怒り） 事もないのに怒りを生じるのは非理瞋であり、邪な瞋りと呼ばれます。 人が来て悩ませるために生じる怒りは順理瞋であり、正しい瞋りです。 これは『摩訶衍論』を引き、清浄な仏土には邪な三毒はないが、正しい三毒はあると説く例とされています。 今、順理の正しい瞋りと言うのは、まさにこのことです。 広い大地の言葉には教えとしての根拠はなく、他の国の教義は他人から出たものです。

此文未知斥何人也。或恐斥瑤師，如下文中是也。慈恩亦云：於我有緣，以神通力接引，於彼遇我，得聞是經，或是凡夫。若是無學，求有餘無餘涅槃，將此涅槃謂實滅度之想，求入證此二種涅槃，修二乘行，種性所排，慈悲所引，生彼遇我，求佛智慧。或雖於餘佛有緣，生彼平等意趣，故亦說是我也。授記品記云：但以滅想作凡夫釋，曲會經文，令成己義。若準此說，驗知今斥乃慈恩耳。學不師安，義不中難

> この文章は、誰を非難しているのかはっきりしない。あるいは瑤師を非難しているのかもしれない。以下の文中にあるようにである。慈恩大師もまた言われている。私との縁によって、神通力をもって導き迎え入れ、その地で私に出会い、この経典を聞くことができたのは、あるいは凡夫であろう。もし無学果の者が、有余涅槃や無余涅槃を求め、この涅槃を真実の滅度と思い込み、この二種の涅槃に入り証を得ようと求め、二乗の行を修め、その種性に導かれ、慈悲に引き寄せられて、その地に生まれ私に出会い、仏の智慧を求めるのである。あるいは、他の仏との縁があっても、平等の意趣によって、やはり私であると言うのである。授記品の記述に、ただ滅の想いを抱いて凡夫と解釈する、とあるのは、経文を無理に自説に合わせている。もしこの説に従うなら、今の非難が慈恩大師を指していることがわかる。学ぶに師に安んぜず、義は難に中らず。

秦時藍田縣得一大鼎，容二十七斛，邊有篆銘，人莫能識。乃以此篆示道安法師，安師云：此古篆書，云魯襄公所鑄。乃寫為隸文。又有一人持一銅斛於市賣之，其形正圓，下向為斗，橫梁昂者為升，低者為合，梁一頭籥，籥同黃鐘，容半合，邊有篆銘。堅以問安師，安云：此王莽自言，出自帝舜，龍集戊辰，改正即位，以同律量，布之四方，欲小大器均，令天下取平焉。安公多聞廣識，為若此也。堅勅學士內外群臣，凡有疑滯，皆師於安。所以京兆為之語曰：學不師安，義不中難矣。而生五道之言

> 秦の時代、藍田県で大きな鼎が発見され、二十七斛を容れることができ、側面には篆書の銘文があり、誰も読むことができなかった。そこでこの篆書を道安法師に見せると、道安法師は言った。「これは古代の篆書で、魯の襄公が鋳造したものだ」と。そして、隷書に書き直した。またある人が、市場で一つの銅斛を売っていた。その形はまさに円形で、下に向かって斗となり、横梁が高いのが升、低いのが合となっている。梁の一端には籥があり、籥は黄鐘と同じで、半合を容れる。側面には篆書の銘文があった。苻堅は道安法師に尋ねると、道安は言った。「これは王莽が自ら言っていることで、帝舜に由来し、龍が戊辰に集まり、改正して即位し、律と度量を統一し、四方に布告し、大小の器を均一にし、天下に公平を求めるためだ」と。道安公は博識で広く知られており、このようなことにも通じていた。苻堅は学士や内外の群臣に命じ、疑問や不明な点があれば、皆道安に師事するようにした。そのため京兆ではこう言われた。「学問は道安に師事しなければ、その意義は難題に当たらない」と。そして、五道の言葉が生まれた。

維摩經云：而生五道，以現其身，為大醫王，善療眾病，應病與藥，令得服行。却入生死之說

> 『維摩経』にはこう説かれています。 「五つの世界に姿を現し、大いなる医王となって、あらゆる病を巧みに癒し、病に応じて薬を与え、人々がそれを服するように導く。そして、生死の世界に再び入って説法する」と。

寶積經云：文殊師利言：吾又恣心入諸塵勞生死之內。驚入火宅之喻

> 『宝積経』に次のように説かれています。 文殊師利は言いました。 「私はまた、心のままに諸々の煩悩と生死の世界に入り、驚きながら火宅の譬えの中に飛び込んでいったのです。」

此經云驚入火宅，方宜救濟。非涅槃一百之文

> この経典には、火宅に驚き入ってこそ、救済の道が開かれると説かれています。それは、涅槃の百の教えに記されたものではありません。

止觀云：釋論有二文，初以二乘為四百，後以二乘為一百，今通之。論明通意，通家以真諦為極，過三百已未破化城但入涅槃，即指涅槃為四百耳。而復以二乘為一百者，更明出假菩薩從空出假，非涅槃為一百，入三界為三百耳。小乘之中諸部不同，亦有信有十方佛

> 『止観』には、次のように説かれています。『釈論』には二つの解釈があり、初めは二乗を四百とし、後には二乗を一百としています。今、これを統一して説明します。 論では、通教の意味を明らかにしています。通教の立場では、真諦を究極の境地と見なします。三百を超えても、まだ化城を破らずに涅槃に入るだけであり、その涅槃を四百と指しているのです。それでまた、二乗を一百とするのは、さらに仮の世界から出た菩薩が空から仮に出て、涅槃ではなく一百であり、三界に入って三百となることを明らかにしているのです。 小乗の教えの中でも、諸部派によって見解が異なり、十方に仏がおられると信じる部派もあります。

薩婆多部云：無十方佛。僧祇部云：有十方佛。成實論云：一世界則無，多世界則有。又大論云：聲聞法中有十方佛，汝自不解。如雜阿含說：譬如大雨連注，渧渧無間，不可知數。是諸世界亦復如是。我見東方無量世界，有成有住，其數甚多，不可分別。如是乃至十方亦然。長阿含云：有鬼神王請佛偈云：大精進人我歸命，佛二足中最尊上。智慧眼人能知見，諸天不解此慧事。過去未來今諸佛，一切咸皆稽首禮。如是我今歸命佛，亦如恭敬三世尊。如是偈中有十方佛。若佛於聲聞法中言有十方佛者，眾生當言：佛易可遇，不勤脫苦。若不遇此佛，當遇彼佛。因此懈怠，不勤求度。以是故，於聲聞法中不言有十方佛，亦不言無十方佛也。凡夫有反復

> サルヴァースティヴァーダ部は言います：「十方に仏は存在しない」と。 マハーサンギカ部は言います：「十方に仏は存在する」と。 『成実論』にはこうあります：「一つの世界には存在しないが、多くの世界には存在する」と。 また『大智度論』にはこうあります：「声聞の教えの中にも十方の仏は説かれている。あなたが理解していないだけである。例えば『雑阿含経』にはこう説かれている：『まるで大雨が連続して降り注ぎ、滴と滴の間に隙間がなく、その数を知ることができないかのように、これらの世界もまた同様である。私は東方に無量の世界を見る。それらは成り、住し、その数は非常に多く、分別することができない』と。このように十方すべてにおいても同様である」と。 『長阿含経』にはこうあります：「鬼神の王が仏に偈を捧げて言った：『大いなる精進の人よ、私は帰依いたします。仏は二足の者の中で最も尊い方です。智慧の眼を持つ人は知り見ることができますが、諸天はこの智慧の事柄を理解できません。過去・未来・現在の諸仏は、すべて皆、礼拝いたします。このように私は今、仏に帰依いたします。三世の尊き方を敬うのと同じく』と。このような偈の中にも十方の仏が説かれている」と。 もし仏が声聞の教えの中で十方の仏が存在すると言ったならば、衆生はこう言うでしょう：「仏には容易に出会えるのだから、苦しみから解脱するために努力する必要はない」と。もしこの仏に出会えなくても、あの仏に出会えるだろう、と。それゆえに怠惰になり、解脱を求めて精進しなくなるでしょう。このような理由から、声聞の教えの中では十方の仏が存在するとも、存在しないとも言わないのです。 凡夫は反復するものなのです。

復應作覆。此直是異解等九字，恐須作白字書之

> また、覆を作るべきである。この「直是異解等」の九字は、恐らく白字で書くべきであろう。

或云：白字，即寫白也。古本文句，此之九字，注於文下。記主意謂此之九字，不可注于文下，須作大書，即是寫白也。今之文句，已依記文改定而示，乃令記文無用，後人更請詳之。文句云：今不頌順，但頌揀誡等

> ある説では、「白字」とは、つまり「写白」のことであるとされる。古い版本の文句では、この九文字は、本文の下に注記されていた。しかし、記主（注釈者）は、この九文字は本文の下に注記すべきではなく、大きな文字で書くべきであり、それがすなわち「写白」であると主張された。現在の文句は、すでに記主の文章に従って改訂され示されているため、記主の文章は用をなさず、後人はさらに詳しく検討するよう求められる。文句には、「今は順序を詠まず、ただ選別と戒めなどを詠む」とある。

此一段文恐是訛略。若對上文，此中應云今不頌順誡，但頌揀許。揀復為二：初三行半頌上五千退，次二句頌上眾已清淨，次一句頌許。又下釋中云舍利弗善聽，即頌上誡許。誡令善聽者，亦恐誤也，但是頌於揀許之許耳，非誡許也。故長行云汝今善聽當為汝說。又下文云諸佛所得下三十三行三句者，亦誤也，應云三十四行三句也。又云從未來世諸佛下者，亦誤也，應云從未來諸世尊下也。記云凡夫上慢有五不同等

> この一節の文章は、おそらく誤りや省略があると思われます。前の文章と照らし合わせると、ここでは「今は順序に従った戒めを説かず、ただ選び分けて許すことを説く」とあるべきです。選び分ける内容はさらに二つに分かれます：最初の三行半は、先の五千人の退去を説き、次の二句は、すでに清らかになった大衆を説き、次の一句は、許しを与えることを説いています。また、後の解釈の中で「舎利弗よ、よく聞きなさい」とあるのは、先の戒めと許しを説いた部分を指しています。よく聞くように戒めているのも、おそらく誤りで、ただ選び分けて許すことの中の「許し」を説いているだけで、戒めと許しを説いているわけではありません。ですから、長い文章では「汝今よく聞け、当に汝がために説かん」とあります。また、後の文章で「諸仏の得たるところより下、三十三行三句」とあるのも誤りで、「三十四行三句」とあるべきです。また「未来世の諸仏より下」とあるのも誤りで、「未来の諸世尊より下」とあるべきです。記述には「凡夫の慢心には五つの違いがある」などとあります。

大婆沙云：異生有五，謂有漏善及以四果。初果起四除第一，一來起三除前二，不還起二除前三，羅漢無慢。故知四善根但為一，四果為四，名五不同矣。委如論中辨之。各有其意，如釋籤

> 『大婆沙論』に説かれています。凡夫には五種類があり、それは有漏の善と四果です。初果（預流果）は四つのうち最初のものを除いて起こし、一來果は前の二つを除いて三つを起こし、不還果は前三つを除いて二つを起こし、阿羅漢には慢はありません。それゆえ、四善根はただ一つのためにあり、四果は四つのためにあり、五種類が異なることが分かります。詳細は論中で弁じられています。それぞれにその意味があり、『釋籤』の如くです。

大論十戒者：一、不缺，二、不破，三、不穿，四、不雜，五、隨道，六、無著，七、智所讚，八、自在，九、隨定，十、具足。不缺戒是性重四波羅夷也，不破戒是十三僧殘也，不穿戒是波逸等也，不雜戒是定共戒也，隨道戒是順理見真也，無著戒是於思惑無染也。智讚、自在，約俗諦辨；隨定、具足，就中道明。大經十戒者：一、禁戒，二、清淨戒，三、善戒，四、不缺戒，五、不析戒，六、大乘戒，七、不退戒，八、隨順戒，九、畢竟戒，十、具足諸波羅蜜戒。論中前四戒與大經前四次第對之，至其第四而不同者，論不雜戒即大經不缺戒，與論不缺名同義別。論取缺壞不任，故對四重；經取微有缺損，故對不雜也。論隨道、無著戒即大經不析戒，論智所讚戒即大經大乘戒，論自在戒即大經不退戒、隨順戒，論隨定戒即大經畢竟戒，論具足戒即大經具足諸波羅蜜戒。但依此對，不須改也。今且依大經，以不缺等三

> 大論の十戒とは、一に欠けない戒、二に破れない戒、三に貫かれない戒、四に混ざらない戒、五に道に随う戒、六に執着のない戒、七に智慧が称賛する戒、八に自在な戒、九に定に随う戒、十に具足した戒である。 欠けない戒とは、性罪の四波羅夷である。 破れない戒とは、十三僧残である。 貫かれない戒とは、波逸提などである。 混ざらない戒とは、定共戒である。 道に随う戒とは、理に順って真実を見ることである。 執着のない戒とは、思惑に染まらないことである。 智慧の称賛する戒と自在な戒は、俗諦に基づいて説明される。 定に随う戒と具足した戒は、中道について明らかにされる。 大経の十戒とは、一に禁戒、二に清浄戒、三に善戒、四に欠けない戒、五に壊れない戒、六に大乗戒、七に不退戒、八に随順戒、九に畢竟戒、十に諸波羅蜜を具足した戒である。 論中の前四戒と大経の前四戒を順に対応させると、第四までで異なる点がある。論の「混ざらない戒」は大経の「欠けない戒」に当たり、論の「欠けない戒」と名前は同じだが意味は異なる。論では欠けて壊れて役に立たないことを取り上げるため、四重に対応する。経ではわずかに欠損があることを取り上げるため、混ざらない戒に対応するのである。 論の「道に随う戒」と「執着のない戒」は、大経の「壊れない戒」に当たる。 論の「智慧が称賛する戒」は、大経の「大乗戒」に当たる。 論の「自在な戒」は、大経の「不退戒」と「随順戒」に当たる。 論の「定に随う戒」は、大経の「畢竟戒」に当たる。 論の「具足した戒」は、大経の「諸波羅蜜を具足した戒」に当たる。 ただし、この対応に従えば、改める必要はない。 今は大経に依って、欠けない戒などの三つを用いる。

上文云：若依大論，即不缺第三；若依大經，則不缺居首。此恐誤矣。大論、大經十戒列名，如向已示。妙玄又將不破戒首列，請以向列為準。并定共、道共即六戒

> 上記の文に「もし『大論』に依拠すれば、第三番目が欠けない。もし『大経』に依拠すれば、先頭に欠けない」とありますが、これは誤りである恐れがあります。『大論』と『大経』における十戒の列挙は、先に示した通りです。『妙玄』ではさらに、不破戒を先頭に掲げていますが、先に列挙したものを基準とされるようお願いします。また、定共戒と道共戒は、すなわち六戒に含まれます。

須并無著戒，方成六戒也。又云道共定共，判在三藏四果者，亦是誤也。隨自意中，通途善惡

夫善惡無定，如諸蔽為惡，事度為善；人天報盡，還墮三途，已復是惡。二乘出苦，名之為善；二乘雖善，但是自度，當知生死、涅槃俱復是惡。六度菩薩慈悲兼濟，此乃為善；雖能兼濟，如毒器貯食，食則殺人，已復是惡。三乘同斷，此乃稱妙，而不見別理，已復是惡；別教為善，猶帶方便，豈非是惡？唯圓名善，善順實相。如此善惡，其義則通。文句云：九部、十二部，如玄義說

> 善と悪は固定的なものではありません。例えば、煩悩に覆われている状態は悪であり、それを克服して修行に励むことは善です。しかし、人間界や天界の果報が尽きれば、再び三悪道に堕ちてしまうので、それもまた悪と言えます。 声聞・縁覚の二乗は苦しみから脱するので、それは善です。けれども、二乗の善は自分だけを救うものであり、生死の世界も涅槃の境地も、やはり悪であると知るべきです。 六波羅蜜を実践する菩薩は慈悲をもって他者を救うので、これは善です。しかし、毒の器に食べ物を盛れば、食べた者は死んでしまうように、それもまた悪と言えます。 三乗（声聞・縁覚・菩薩）が共に煩悩を断つことは妙と称されますが、別の真理を見ることができなければ、それも悪です。別教は善ではありますが、方便を伴っているので、やはり悪と言えるでしょう。 ただ円教だけが真の善であり、実相に順じています。このように、善悪の意味は通じ合っているのです。『文句』には、九部経や十二部経について、『玄義』で説かれているとあります。

小乘九部，以小乘中灰斷無如意珠身，故無方廣部。又無天皷自鳴，故無無問自說部。雖有授記，以其少故，復無授記部。此且從別作如是說。若乃通途大小兩乘，皆論十二部也。一修多羅，此云法本。二祇夜，此云重頌。三和伽羅那，此云授記。四伽陀，此云不重頌。五優陀那，此云無問自說。六尼陀那，此云因緣。七阿波陀那，此云譬喻。八伊帝曰多伽，此云本事。九闍陀伽，此云本生。十毗佛略，此云方廣。十一阿浮陀達磨，此云未曾有。十二優波提舍，此云論議。部者，別也，類也。以此十二，其類別也。新譯恐濫部袟，故乃謂之十二分教也。經云：無二亦無三

> 小乗の九部は、小乗の教えの中には如意宝珠のような身がなく、また天の太鼓が自ら鳴ることもないため、方広部と無問自説部がありません。授記はあるものの少ないため、授記部も含まれません。これは一つの見方に基づく説明です。 一般的には、大乗と小乗の両方で十二部を論じます。 一、修多羅（法本） 二、祇夜（重頌） 三、和伽羅那（授記） 四、伽陀（不重頌） 五、優陀那（無問自説） 六、尼陀那（因縁） 七、阿波陀那（譬喩） 八、伊帝曰多伽（本事） 九、闍陀伽（本生） 十、毗仏略（方広） 十一、阿浮陀達磨（未曾有） 十二、優波提舎（論議） 「部」とは区別や分類を意味し、これら十二の教えを種類別に分けたものです。新しい訳では混乱を避けるため、十二分教と呼びます。 経には「二もなく三もない」と説かれています。

余於京國見慈恩宗人云：三藏奘師準梵本中，應云無其第二及以第三。以是之故，但會二乘，不會菩薩。乃引下文密遣二人，無有二乘說二涅槃等文作證。當知他宗如斯釋經，與夫天台大義相違。所以記中斥云：此是極聖誠說，而不肯信也。具如上下辨之可知。文句云：本誓既普，今眾生等

> 私はかつて都で慈恩宗の人々から、こう聞いたことがあります。 玄奘三蔵が梵本に基づいて訳すならば、「第二もなく、第三もない」とすべきところを、 そのため、二乗のみを集め、菩薩は集めない、と解釈している。 そして、後に「密かに二人を遣わす」という文や、 「二乗は二種の涅槃を説く」などの文を引用して証拠としている。 こうした他宗の経典解釈は、天台宗の大義に明らかに反しています。 だからこそ『法華文句』の中で、「これは仏の真実の教えであるのに、信じようとしない」と批判されているのです。 詳しくは前後の文を読めば分かるでしょう。 『法華文句』にはこうあります。 「本願が広く衆生を救うものであるならば、今、衆生は皆平等である」と。

越州新板今字誤作令字。又下文約三義釋眾生者，眾字去呼，故漢書中亦作去呼。然則常讀多依平呼，解義乃是去呼耳。兇

> 越州の新版では、今字を誤って令字としている。また、下の文で三つの意味を挙げて衆生を解釈しているところでは、衆の字は去声で読む。それゆえ、漢書の中でも去声で読まれている。しかし、通常の読みは多く平声に従っており、意味を解釈する際には去声で読むのである。兇

許容切。惡也。欒

> 許容は切る。これは悪である。欒。

此字是木名也。正作圞，圓也。從癡有愛，則我病生

> この字は木の名前です。正しくは「圞」と書き、丸いという意味です。迷いから愛着が生じると、私の苦しみが生まれます。

下句相帶來耳。坏

> 下の句が自然に導いてくるのです。

此字是未燒瓦也。若作衃，即凝血也。若作肧，即懷胎一月也。恐正作肧。疱

> この字は、まだ焼かれていない瓦のことです。 もし「衃」と書けば、凝固した血のことです。 もし「肧」と書けば、懐妊して一ヶ月の胎児のことです。 おそらく正しくは「肧」と書くのでしょう。疱。

薄教切。膊

> 薄教切。膊

普各切。字應作髆。補各切。肩胛也。腕

> 普各切。字は髆と作るべきなり。補各切。肩胛なり。腕。

烏貫切。荕

> ウー・グァン・チェー。ジン

字應從竹。記云：聲嘶忽急

> 字は竹に従うべきなり。記に云う：声がしわがれて急に激しくなる

嘶，先奚切，聲散也，亦悲聲也。略如止觀第四記，引入胎經，及三十八七日，并俱舍五位等

> 嘶（し）は、まず奚（けい）の反切で、声が散る意味であり、また悲しみの声でもあります。大まかに言えば、『止観』第四の注記で引用されている『入胎経』や、三十八週目、および『倶舎論』の五位などの説明に近いものです。

佛為難陀廣說胎相六趣不同，兼辨六趣中陰等相，乃至父母精血不淨相等。初入如風雨入舍，或在母腹而命終者，又母有患而不入胎，若不壞者七日一變。初七如薄酪，二七如厚酪，三七如短小藥杵，四七如溫石，五七五皰開張，乃至第三十八七風力所轉，頭向產門申兩臂出，每於一七各有一風吹令變異，如經廣說也。俱舍五位即是五七之梵音耳，次第對之可以知矣。又復應知，羯剌藍亦言歌羅邏，又羯邏藍此翻和合，又云凝滑，父母不淨和合凝滑如薄酪也。頞部陀此翻皰結，於凝酪中生一皰結也。閇尸亦言閇手，又卑尸此翻肉團，結聚成團也。羯男亦言鍵南，又伽訶那此翻堅，肉團堅實也。鉢羅奢佉此云枝，五七之時有形相之枝故也。有人具立受胎章門，并世人云法華亦明三乘

> 仏は難陀のために広く胎児の相状と六道の違いを説き、さらに六道の中陰などの相を弁じ、父母の精血の不浄な相に至るまで詳しく述べられた。最初に母胎に入るのは、まるで風雨が家屋に入るようであり、あるいは母の胎内で命を終える者もいる。また、母に病気があって胎に入れない場合もあり、もし壊れなければ七日ごとに変化する。初めの七日は薄い乳粥のようであり、二七日は濃い乳粥のよう、三七日は小さな薬研のよう、四七日は温かい石のよう、五七日には五つの疱が開き広がる。三十八七日に至ると、風の力によって回転し、頭を産門に向けて両腕を伸ばして出てくる。毎七日ごとに一つの風が吹いて変化をもたらし、経典に詳しく説かれている通りである。『倶舎論』の五位とは、すなわち五七の梵語音写であり、順に対照すれば理解できる。また知るべきは、羯剌藍は歌羅邏とも言い、また羯邏藍は和合と訳され、凝滑とも言う。父母の不浄が和合して凝滑となり、薄い乳粥のようになる。頞部陀は疱結と訳され、凝った乳粥の中に一つの疱結が生じる。閇尸は閇手とも言い、また卑尸は肉団と訳され、結び集まって団となる。羯男は鍵南とも言い、また伽訶那は堅と訳され、肉団が堅固になる。鉢羅奢佉は枝と言い、五七の時に形相の枝が現れるからである。ある人は受胎の章門を詳しく立て、世間の人々が『法華経』もまた三乗を明かすと言う。

他宗章疏，率多如此。宋咸云：凡坦然明白之條，則五行俱下而詮釋；洎卓爾難明之意，則一辭不措而闕亡。其斯之謂歟？然受胎事，亦可知之。故婆沙云：若是男子，於母生愛，於父生恚。彼作是念：若無此男子者，我當與此女人而共交會。父母合會，所有精氣，見是已有，見已生喜。生喜之後，便乃迷悶。以迷悶故，中有轉重，更不移動。是時自見己身在母右脇，面向母背而坐。若是女人，反此可知。廣說中有及受胎相。請讀婆沙、慈恩宗說。法華明一佛乘，是頓教攝；說其三車，是漸教收；妙莊嚴王品八萬四千得法眼淨，是初果等；他人或以普門品後現三乘身，是說三乘等。若菩薩不開，何須引昔

> 他宗の章疏は、多くこのようなものです。宋の咸氏は言います：「凡そ坦然として明白な条項は、五行ともに下って詮釈するが、卓として難明な意味に至っては、一言も措かずに欠落させてしまう。これこそその謂いであろうか？」しかし、受胎の事もまた知ることができます。故に『婆沙論』に云う：「もし男子であれば、母に対して愛を生じ、父に対して瞋恚を生ずる。彼はこのように念う：『もしこの男子がいなければ、私はこの女人と共に交会するであろう』と。父母が合会し、すべての精気を見て、これがあることを見、見て喜びを生ず。喜びを生じた後、ついに迷悶する。迷悶するが故に、中有が転じて重くなり、さらに移動しない。この時、自ら己の身が母の右脇にあり、母の背に向かって坐しているのを見る。もし女人であれば、これと反対であることが知られる」。中有と受胎の相について詳しく説かれています。『婆沙論』や慈恩宗の説を読まれることをお勧めします。 『法華経』は一仏乗を明らかにし、これは頓教に摂せられ、その三車を説くのは漸教に収められます。妙荘厳王品で八万四千人が法眼浄を得たのは、初果などであり、他の人はあるいは普門品の後に三乗の身を現じたのは、三乗を説くなどとします。もし菩薩が開示しなければ、何のために昔を引く必要があるでしょうか。

此斥他宗云不開菩薩之失也。具如上辨。次文中云四衢者，爾雅云：四達謂之衢。注云：交道四出也。又云：碌碌者，多石皃也。支佛五級

> これは他宗を斥けて、菩薩の道を開かないことの過ちを述べたものです。詳しくは上に述べた通りです。次に文中の「四衢」についてですが、『爾雅』には「四つの方向に通じる道を衢という」とあり、注釈には「交差点が四方に出ていること」とあります。また「碌碌」とは、石が多い様子を指します。縁覚の五段階について。

五字誤也。經云：辟支佛塔應十一層。阿難問佛：何故爾等

> 五文字の誤りです。経典にはこうあります。「辟支仏の塔は十一層とすべし」。阿難が仏に尋ねました。「なぜそのように等しくあるのですか」

此文訛略。經云：阿難！一切四眾起佛舍利七寶塔已，應當更起三塔供養，所謂支佛、羅漢、輪王。阿難白佛：如來出世，悲憫眾生，滅後起塔，得大功德。其餘三塔，於諸眾生得何等利？佛言：支佛悟法因緣，入深法性，能為人天而作福田。羅漢生分已盡，能為世間福田。輪王以十善化物，以是應當起塔供養。如來塔高一十三層，辟支佛塔應十一層，羅漢四層，輪王無級。何以故？未脫三界諸有苦故。

> この文章は簡略化されています。経典にはこうあります。「阿難よ、すべての四衆が仏の舎利を納めた七宝の塔を建てたならば、さらに三つの塔を建てて供養すべきである。それは辟支仏、羅漢、転輪聖王の塔である」。阿難は仏に申し上げました。「如来が世に出られ、衆生を哀れみ、滅後に塔を建てるのは大いなる功徳を得られます。しかし、その他の三つの塔は、衆生にどのような利益をもたらすのでしょうか」。仏はお答えになりました。「辟支仏は法の因縁を悟り、深い法性に入り、人と天の福田となることができる。羅漢は生の分が尽き、世間の福田となることができる。転輪聖王は十善をもって人々を教化する。それゆえに塔を建てて供養すべきである」。如来の塔は十三層、辟支仏の塔は十一層、羅漢の塔は四層、転輪聖王の塔は層がない。なぜでしょうか。三界のあらゆる苦しみからまだ解脱していないからです。

## 天台三大部補注卷第六

> 天台三大部補注 巻第六