**弥勒菩薩略修瑜伽念誦法 巻下**
青龍寺山林院一切経
大興善寺訳経三蔵・善無畏、勅命により翻訳
第四品 本尊真言の受持と読誦
さらに、この法の不思議な力は如意宝珠のようなものである。如意宝珠は何も語らないが、願うところに従って必ずその願いを叶える。この如来の法の印もまた同じであり、言葉も形もないけれど、あらゆる法を成し遂げることを必ず成就させる。これこそ、法の力が思いはかることのできないものであるからである。
また、この法を奉持する者は、たとえ煩悩を断ち切れていない凡夫であっても、その法の力によって、行うところは聖者の力と同じになります。そのため、諸々の聖者や天龍八部、すべての鬼神さえも、その言葉に背くことができません。これは、法の印の力が不可思議であるからです。
さらに、この法は行うところに随って、自身に印してその本尊の身となり、あるいは他者に印して、その人の身に随って成就する。例えば、拙い者が手に諸仏菩薩の印を持ち、泥沙や王などに印すれば、全て諸仏菩薩の像となり、印に随って様々な形像を成す。この法印の力もまた同じく、未だ悉地を得ずとも、諸仏の法印の力を持つことで、教えに従って行えば、ただちに本法となる。もし法界の印を己の身に印せば、直ちに本尊慈氏の真言体となる。もし毘盧遮那の法印を己の身に印せば、毘盧遮那の身ともなる。さらには、諸菩薩の摩訶薩埵、諸天龍八部、人非人などの身を生ずることも、印に随ってその本の身となる。己に印し他に印しても、皆本体の三昧耶の身となる。凡夫・愚者は見えずとも、一切の聖賢、天龍八部、諸鬼神及び毘那夜迦は、皆本尊の真身を見る。諸護法明王等はこれにより親しく近づき、共に助け合って悉地を成就させ、速やかに成就する。もし真言を持つ者、あるいは見聞覚知する者、さらには供養し親しく近づき仕え伴う者などは、即ち一切の諸仏及び諸賢聖を供養するのと同じである。このような真言や契印等の法は、全てを述べ尽くすことはできず、一劫、二劫、さらには無量劫を経ても説き尽くせない。もし修行をなすならば、この法印に従って供養し持誦し、香華飲食を随って供養するところ、諸仏の浄刹、諸天龍鬼神等の諸有情類は、その心に随い、また印法に従って必ず悉地を得る。この供養に準じて心に随い印に順えば、その事を成す。かくの如く知るべきである。一切の行は、六度万行、四無量心、七覚分、八聖道分、及び諸々の八万四千恒河沙の法門と同じである。行うところに随って、その印に順えば、即ちその法を成す。ゆえに、この法印の義は信じ難く解し難く、仏菩薩のみが知るところである。例えば不動明王の刀印を論じるに、左手は女相とし、三昧・慈悲の相の義に応じ、右手は男相とし、智慧・簡択・善悪・雄猛の想いの義に応じる。右手の智慧の刀を、左手の三昧の門の鞘に入れて印と成し、印するところに随って法事や諸度門等を成す。このような真言印契は、劫を尽くしても説き尽くせず、ただ仏と仏のみがこれを説くことができる。秘密主菩薩といえども、これを知ることはできないのである。