慈氏菩薩のヨーガ行法と真言誦持の品第三
もし弥勒菩薩の速やかな悉地成就を願い、変わることのない肉身のまま、弥勒の御顔を拝し、摩頂授記を受けて無生法忍を悟り、普現色身三昧に入りたいならば、昧怛唎(二合)也菩薩の法界印をもって、本尊と自身の五体を加持すれば、直ちに悲氏(弥勒)の真の姿となる。
法界手印の作法は次の通りです。 両手の地指(人差し指)と水指(中指)を掌中で交差させ、両手の風指(薬指)をそれぞれ火指(親指)の背に置き、その先端を火指の爪の下につけます。 両手の空指(親指)を立てて、二つの火指の第一関節を挟み、二つの火指は約一寸半(約4.5cm)離します。 そして、二つの空指を開閉させて動かせば完成です。
また、弥勒菩薩の法身印と真言をもって本尊と病める者を加持し、その五体を加持すれば、清浄な法身となります。
弥勒菩薩の法身印の作法は次の通りです。 両手の地指と水指を交差させて掌中に曲げ込み、二つの火指を開きます。 二つの風指を立てて背中合わせにし、二つの空指を曲げて、それぞれ火指の第一関節と第二関節の間に押し当てます。 火指は約一寸半開き、風指を開閉させて動かせば、これが弥勒菩薩の法身印です。
慈氏菩薩の根本真言は次のように説かれます。
ナモー タトゥヤーター ナマー アーリヤ ロキテーシュヴァラーヤ ナマー ボーディ サットヴァーヤ ナマー マハー サットヴァーヤ ナマー マハー カルナ ルーパーヤ タトゥニャーター オーム メートリ メートリ メートラー マナ シン メートラー サンヴァーハ メートル ダルパーハ マハー サンマーヤ スヴァーハ
この真言と二つの印を合わせて用いる。真言と印で本尊の五つの部位とヨーガ行者自身の五つの箇所を加持すれば、そのまま法身となる。その後、大慈生心三昧耶に入り、真言と印がすなわち本尊の本体となる。
次に、本尊である弥勒菩薩が、広くすべての衆生に大いなる慈悲の心を起こす三昧耶(誓願)に住している姿を観想します。真言は次のとおりです。
ナモ・ラトナ・サンパンナ・タターガターヤ(一)・アルハテ(二)・サンミャク・サンボダヤ(三)・タンニャター(四)
その心手印の相は、智と定の二手で虚心合掌し、二つの風指を二つの火指の下に曲げ、他は従来の通りとする。この印で五箇所を加持すれば、即ち慈氏菩薩の真身となる。印で本尊と修法者の五箇所に印を押し、その後、数珠を執り合掌して頂戴し、両手を胸に当てて珠を執り念誦し、本尊を観想する。心の上の円明の中に本尊の真言の字を布列し、一つ一つ分明に皆火光を放ち、日々に従ってこれを転ずる。下図の如し。
観想して「遏」の字が法界の塔に変じ、円明の中にあるのを観じ、さらに塔が転変して慈氏本尊の身となる。即ちこの尊身は修法者の身である。故に三密が転じて三身となり、故に心を以て心に置き、心を以て心を観じ、如実に自心を知る。即ちこれ母地の心であり、初発心の時に便ち正覚を成ず。この心が発する時、便ち普現色身三昧耶の身となる。このように心を安住させて字輪を布し、輪を転じて字輪を了了分明とし、修法者の口から一一の真言の字が出て、本尊の心月輪の中に安布する。本尊の心円明の中から真言の字が流れ出て、修法者の頂上に入り、諸々の毛孔に遍く甘露の乳光三昧耶が流出する。即ちこの三昧耶が大円明に変ずる。修法者はその中心におり、このように観想することを限りとする。
まず円明の中心に「遏」の字を観想し、これを種子と名づけ、即ち本尊の身とする。その後、真言を誦する。あるいは己れの身が即ち本尊であり、大円明の中に坐し、自心の上にさらに円明を置き、上記のように真言輪を安布し、転じて漸く広大となり、法界に遍く周って一体性となるのを観想する。修法者の心円明の中から「遏」の字が流れ出て、本尊の心円明の上に入る。本尊の心円明の上から「遏」の字が流れ出て、修法者の心中に入る。このように漸く澄み濾されて即ち同一体となり、一一の字が皆、諸々の戒・定・慧・解脱・三昧耶の形像となる。また、本尊の心円明の上の「遏」の字が本尊の身に変じ、修法者の頂上に観想する。また、修法者の心円明の上の「遏」の字が修法者の身に変じ、本尊の頂上に観想する。このように展転して法界に周遍し、尽きることなき法界普現色身三昧耶の身となる。
真言輪を安布し輪転して疲極に至るまで、常にこのように観想する。念誦を終えようとする時は、漸く少なくする。再び本来の身に還り、真言印で五箇所を加持し、その後、再び初めから供養・香花・遏囉伽(二合)等の真言手印を、一一法に如く次第に広く行い、弘誓願を発し、罪を出し、廻向等を行う。一に初めの方便の如く広く発露懺悔等を行い、力を尽くして終えた後、意のままとする。
本尊は前に依り、七宝の階道を運想し、道場から出でて都史陀天宮善法堂珊瑚殿の上に至り、車輅を以て慈氏菩薩并びに諸眷属・無量の天衆を囲繞して奉送し、去っていく。
本尊にお供えする真言は次の通りです。
ウドゥラ(二合)ダラ(二合)トラ(二合)クシャ(二合)アラ(二合)
結界を解き、本尊を送る印の作法は次の通りです。智慧と禅定を表す両手で金剛拳を組み、頭上に向けて解き放ちます。これが能所結界を解く印であり、同時に本尊を奉送する働きも成し遂げます。
本尊を随意に送った後、改めて道場と自身を守護する印を結びます。また、自らを本尊の姿と観じ、大円明の中に安坐していると観想します。さらに自心の円明の中に「ア」の字を観じ、無生の義を思惟します。
疲労を感じた後は、自由に道場を出て諸々の用事を行います。木印、塔印、砂印、水印を用いたり、像を洗い清めたり、人々を受け入れたりする十の事柄、あるいは三乗のタントラ経典や『慈氏本願経』、『大プラジュニャー経』、さらに本尊法などを読誦します。
毎日三時に、念誦・作法・観行などの行を行います。三時とは、後夜から朝食時まで、正午から未の刻まで、初夜から三更までのことです。常にこのように行い、中断してはなりません。中断すれば障礙が生じるからです。
真言には八種の意義があります。
第一は真如の性、一体の義です。つまり、生も滅もなく、来も去もなく、言葉も形も離れ、言語の道は断たれ、心の働きは寂滅し、本来清浄であるということです。
第二は、思いに随って流出し、相を成す義です。なぜなら、性が清浄であるがゆえに、応化と相応するからです。
第三は、加被護念の義です。なぜなら、四種の不可思議な力、すなわち業力・仏力・真言力・薬力などによって護念され、成熟するからです。
第四は、衆生の求めに随って異なる義です。なぜなら、本願は神薬のようなもので、服するに随って思いのままに成就するからです。
第五は、慈悲の義です。なぜなら、慈悲によってこの法が証されるからです。
第六は、仏の願いによって有情を度す義です。なぜなら、心に随って相に応じるからです。
第七は、諸菩薩によって有情を度す義です。
第八は、一切諸仏の不思議の義です。なぜなら、真言の不思議な力によって、無上の不思議な果をも成就するからです。
常にこの八義を具え、真言の如意法に随順すれば、宝珠のように求めるところはすべて叶い、有相・無相の悉地もすべて成就します。それゆえに「真」と名付けられるのです。「真」には言葉がありません。言葉の如く、相の如きものが真言なのです。
手印の相は、誓いの教法を指します。それはあたかも国王の勅命と印璽の文証のようで、行くところで誰も敢えて背く者はありません。この如来の誓教法印もまた同様で、一切の凡夫・聖者、および諸天・龍・悪魔・鬼神たちも皆、違背することはできません。
また、勅命を奉じて一人の使者が行くとき、たとえ過失があっても、勅命を奉じているため、誰も敢えて逆らうことはできません。この如来の教勅もまた同様です。
諸仏の教えに等しい慈氏の甚深なる法印は、たとえ凡夫が知らず覚えず、法に少しでも背くところがあっても、この法力によって諸聖の加被を受け、次第に煩悩を離れ、この法印に随って行うところでは、諸仏や諸仏の金剛たちさえも敢えて違背することはなく、ましてや天人や諸鬼神などなおさらです。
さらに、この法は神薬の樹のようです。触れ、取るに随って諸々の病を離れ、身は虚空に騰り、思いのままに自在に飛び往くことができます。この法もまた同様で、法力の加被によって、聖なる本尊と同様の自在を証するのです。それゆえに法教印と名付けられるのです。
もし善男子・善女人がこの法印に依って行持供養するならば、この生から成仏に至るまで、永遠に下劣な道に生まれることなく、再び三悪道に堕ちることはありません。法印の加被によって常に護念され、煩悩を断ち、次第に彼岸を証するからです。
青龍寺山林院一切経
昧怛唎耶菩薩略修瑜伽入法界五大観門品異本 巻上
大中九年九月五日、長安城の右街にある龍興寺の浄土院・雲居禅知房にて、左街の青龍寺法全阿闍梨の本をお借りして、書き写し校正いたしました。日本国求法沙門円珍が記す。