成唯識論卷第一
成唯識論 第一巻
護法等菩薩造
護法ら菩薩による造論
三藏法師玄奘奉 詔譯壹、宗前敬序分(壹) 以頌彰釋論之因一、歸敬福田
三蔵法師玄奘奉 詔訳
稽首唯識性、滿、分清淨者,二、敘釋論意我今釋彼說,利樂諸有情。(貳) 以長行明本論主造論之意
今、この唯識の教えを明らかにする論を解き明かします。 それは、すべての存在が心の現れであるという真理を説き、 迷いを離れた清らかな境地を、その全体と部分にわたって示すもの。 この注釈を記すのは、あらゆる生きとし生けるものが 利益と安楽を得られるようにとの願いからです。
一、安慧等悟斷得果解今造此論,為於二空有迷謬者生正解故。生解為斷二重障故,由我、法執二障具生,若證二空,彼障隨斷。斷障為得二勝果故,由斷續生煩惱障故,證真解脫;由斷礙解所知障故,得大菩提。二、火辨等達空悟性義
一、安慧らは、悟りを開き、煩悩を断じて果を得るという理解に至りました。今、この論を著すのは、二つの空(人空・法空)について誤った理解を持つ人々に、正しい理解を生じさせるためです。正しい理解を生じさせるのは、二つの重い障りを断じるためです。我への執着と法への執着という二つの障りが共に生じるからです。もし二つの空を悟ることができれば、それらの障りは自然に断たれます。障りを断ずるのは、二つの優れた果報を得るためです。生死を繰り返す煩悩の障りを断ずることによって、真実の解脱を証します。理解を妨げる所知の障りを断ずることによって、大いなる菩提を得るのです。
二、火弁らは、
又為開示謬執我、法,迷唯識者,令達二空,於唯識理如實知故。三、護法等破執顯理解
また、誤って我や法に執着し、唯識を迷う者に対して、二つの空を悟らせ、唯識の道理をありのままに知るために示すためである。三、護法らは執着を破り、真理を明らかにして理解させる。
復有迷、謬唯識理者,或執外境如識非無;或執內識如境非有;或執諸識用別體同;或執離心無別心所。為遮此等種種異執,令於唯識深妙理中得如實解,故作斯論。貳、依教廣成分
また、唯識の道理に迷い誤る者もいます。ある者は外界の対象が、識のように存在しないわけではないと執着し、ある者は内なる識が、外界の対象のように実在するわけではないと執着します。ある者は、諸々の識は作用は別だが本体は同じだと執着し、ある者は心(こころ)を離れて別に心所(心の働き)はないと執着します。これらのさまざまな異なる執着を除き、唯識の深遠で微妙な道理に対して、ありのままの理解を得させるために、この論を著したのです。
(壹) 明唯識相一、略釋難標宗(一) 將發論端寄問徵起若唯有識,云何世間及諸聖教說有我、法?(二) 舉頌依義正答
(一)明らかに唯識の相を述べる一、簡潔に難題を解き、宗義を示す(一)論を始めるにあたり、問いを立てて問題を提起するもし識のみがあるならば、どうして世間や諸々の聖教において、我や法があると言うのか?(二)頌を挙げてその意味に基づき正しく答える
頌曰:
偈に曰く:
1由假說我、法, 有種種相轉。
彼依識所變, 此能變唯三:
仮に我や法を説くことにより、様々な相が現れます。 それらは識の変現に依り、この能変はただ三つに限られます。
2謂異熟、思量, 及了別境識。
論曰:世間、聖教說有我、法,但由假立,非實有性。我謂主宰,法謂軌持。
論じますに、世間や聖典では「我」と「法」があると説かれますが、それらは仮に立てられたものであり、実体として存在するものではありません。「我」とは主宰するもの、「法」とは軌範としての性質を保つものを指します。
彼二俱有種種相轉:「我種種相」謂有情、命者等,預流、一來等。「法種種相」謂實、德、業等;蘊、處、界等。「轉」謂隨緣施設有異。
彼らは共に様々な相を転じます。「私の様々な相」とは、有情、命ある者など、預流、一来などを指します。「法の様々な相」とは、実体、性質、作用など、蘊、処、界などを指します。「転じる」とは、縁に従って仮に設けられるものが異なることを意味します。
如是諸相若由假說,依何得成?
このような様々な相は、仮に説かれるものだとして、何に依って成立するのでしょうか。
彼相皆依識所轉變而假施設。
それらの現象はすべて、認識によって変化し、仮に設けられたものです。
「識」謂了別,此中識言亦攝心所,定相應故。
「識」とは、はっきりと見分けることを意味します。ここで「識」という言葉には、心の働き(心所)も含まれます。なぜなら、それらは必ず互いに対応して起こるからです。
「變」謂識體轉似二分,相、見俱依自證起故,依斯二分施設我、法,彼二離此無所依故。
「変」とは、認識の本体が二つの側面、すなわち「見られるもの(相)」と「見るはたらき(見)」へと転じることを指します。この二つは、ともに自らの本質である「自証」から生じるからです。そして、この二つの側面を基盤として、「私」や「もの」という概念が仮に設定されるのです。それら「私」と「もの」の概念は、この二つの側面を離れては、よりどころとするものがありません。
或復內識轉似外境。
あるいはまた、内なる識が転じて、あたかも外なる境のように見えることがあります。
我、法分別熏習力故,諸識生時變似我、法,此我、法相雖在內識,而由分別似外境現,諸有情類無始時來緣此執為實我、實法,如患夢者,患夢力故,心似種種外境相現,緣此執為實有外境。
我が法を分別し、習い育てる力によって、諸々の識が生じる時、我や法のように変化して現れます。この我や法の相は、内なる識の中にあるものですが、分別によって、あたかも外の境のように現れるのです。すべての有情の類は、はるか昔から、これを縁として実在する我や実在する法と執着してきました。それはあたかも、夢を見ている人が、夢の力によって、心の中にさまざまな外の境の相が現れ、それを縁として実在する外の境があると執着するようなものです。
愚夫所計實我、實法都無所有,但隨妄情而施設故,說之為假。內識所變似我、似法雖有,而非實我、法性,然似彼現,故說為假。
愚かな者が考えている実在の自我や実在の事物は、すべて存在しません。ただ、誤った思いに従って仮に設定されているだけなので、それを「仮」と言います。内なる識によって変現された自我や事物に似たものは存在しますが、それは真実の自我や事物の本性ではなく、あたかもそれらが現れているように見えるだけです。ですから、これも「仮」と言います。
外境隨情而施設故,非有如識;內識必依因緣生故,非無如境,由此便遮增、減二執。
外界の事物は、人の思いによって仮に設定されたものだから、認識のように確固として存在するわけではありません。しかし、内なる認識は必ず因縁によって生じるものだから、外界の事物のようにまったく無いわけでもありません。こうして、存在を増やしすぎる見方と減らしすぎる見方、その両方の偏った執着が退けられるのです。
境依內識而假立故,唯世俗有;識是假境所依事故,亦勝義有。2 廣釋頌
境は内識に依って仮に立てられるものであるから、ただ世俗的に存在する。識は仮の境が依る事柄であるから、勝義的にも存在する。
云何應知實無外境,唯有內識似外境生?
どのようにして、外に実在する対象はなく、ただ内なる識だけが外の対象のように現れていると理解すべきでしょうか。
實我、實法不可得故。
真実の我も、真実の法も得られないからです。
如何實我不可得耶?
どのようにして「私」という実体が得られないと言えるのでしょうか?
諸所執我,略有三種:一者執我體常、周遍,量同虛空,隨處造業受苦、樂故;二者執我,其體雖常,而量不定,隨身大小有卷、舒故;三者執我體常、至細,如一極微,潛轉身中作事業故。
我というものへの執着は、大きく三つに分けられます。
第一は、自分というものは永遠で、広く虚空のように遍く存在し、どこにおいても自ら業を造り、苦楽を受けると考える執着です。
第二は、自分というものは永遠であるが、その大きさは一定ではなく、身体の大小に応じて縮んだり広がったりすると考える執着です。
第三は、自分というものは永遠で、極微のように非常に小さく、身体の中に潜んで様々な働きをすると考える執着です。
初且非理,所以者何?執我常、遍,量同虛空,應不隨身受苦、樂等;又常、遍故,應無動轉,如何隨身能造諸業?又所執我,一切有情為同為異?若言同者,一作業時一切應作,一受果時一切應受,一得解脫時一切應解脫,便成大過;若言異者,諸有情我更相遍故,體應相雜,又一作業、一受果時,與一切我處無別故,應名一切所作、所受。若謂作、受各有所屬無斯過者,理亦不然,業、果及身,與諸我合,屬此非彼不應理故;一解脫時一切應解脫,所修、證法一切我合故。
まず、このような考え方は道理に合いません。なぜでしょうか?もし「我」が永遠で、あまねく存在し、その大きさが虚空と同じであるならば、身体に伴って苦しみや楽しみなどを受けるはずがありません。また、永遠で遍在するならば、動いたり転じたりすることもないはずで、どうして身体に伴ってさまざまな行為を起こすことができるでしょうか。
さらに、あなたが主張する「我」は、すべての生きとし生けるものにとって、同じものなのでしょうか、それとも異なるものなのでしょうか?
もし同じだと言うならば、一つの「我」が行為を起こせば、すべての「我」が行為を起こすはずです。一つの「我」が結果を受けるときは、すべての「我」が結果を受けるはずです。一つの「我」が解脱を得る時には、すべての「我」が解脱を得るはずであり、これは大きな矛盾です。
もし異なると言うならば、諸々の生きとし生けるものの「我」は互いに遍在しているので、その本体は互いに混ざり合うはずです。また、一つの「我」が行為を起こし、結果を受けるとき、その場所はすべての「我」の場所と異ならないので、それは「すべての『我』が行い、受けた」と言うべきことになります。
もし、行為と受ける結果はそれぞれに属するので、このような過ちはない、と言うならば、それも道理に合いません。行為、結果、そして身体は、諸々の「我」と結びついているので、これに属し、あれに属さない、ということはありえないからです。
また、一つの「我」が解脱する時、すべての「我」が解脱すべきです。なぜなら、修行し、悟りを得る法は、すべての
中亦非理,所以者何?我體常住,不應隨身而有舒、卷,既有舒、卷如槖籥風,應非常住,又我隨身應可分析,如何可執我體一耶?故彼所言如童竪戲。
また、それは理にかなっていません。なぜなら、私の本体は常住であるはずなのに、身体に従って伸び縮みするはずがないからです。もし伸び縮みするなら、ふいごの風のように、常住ではないはずです。さらに、私が身体に従うなら、分析できるはずです。どうして私の本体が一つであると主張できるでしょうか?ですから、彼らの言うことは子供の遊びのようなものです。
後亦非理,所以者何?我量至小如一極微,如何能令大身遍動?若謂雖小而速巡身,如旋火輪,似遍動者,則所執我非一、非常,諸有往來,非常、一故。
後にまた道理に合いません。なぜなら、私というものは極微のように極めて小さいものなのに、どうして大きな身体全体を動かすことができるでしょうか。もし、小さいけれども素早く身体を巡るから、火の輪を回すように、あたかも全体が動いているように見えるのだ、と言うならば、その想定している「私」は、一つでもなく、常なるものでもありません。なぜなら、行き来するものはすべて、常なるものでも、一つでもないからです。
又所執我,復有三種:一者即蘊;二者離蘊;三者與蘊非即非離。
また、執着される「我」には、さらに三つの種類があります。一つは、五蘊そのものと同一であるとするもの。二つは、五蘊から離れた別の存在であるとするもの。三つは、五蘊と同一でもなく、離れてもいないとするものです。
初即蘊我,理且不然,我應如蘊非常、一故;又內諸色定非實我,如外諸色有質礙故;心、心所法亦非實我,不恒相續,待眾緣故;餘行、餘色亦非實我,如虛空等,非覺性故。
まず、五蘊を「我」と考えることには、道理として無理があります。なぜなら、もしそうなら「我」は五蘊と同じく、常ならず、一つでもないはずだからです。
また、身体を構成する物質(内色)は、決して真実の「我」ではありません。外界の物質(外色)と同じく、形があり、他のものとぶつかる性質があるからです。
心や心の働き(心所)も、真実の「我」ではありません。それらは絶えず続くものではなく、さまざまな条件(縁)によって生じるものだからです。
その他の現象(行)や物質(色)も、真実の「我」ではありません。それらは虚空などと同じく、自らを知覚する性質(覚性)を持たないからです。
中離蘊我,理亦不然,應如虛空,無作、受故。
中離蘊我、この理もまた然らず。虚空のように、作ることなく、受けることなきがゆえに。
後俱非我,理亦不然,許依蘊立,非即、離蘊,應如瓶等,非實我故。又既不可說有為、無為,亦應不可說是我、非我。
この「私」が後になって「私ではない」と言うのも、理屈に合いません。 「五蘊に基づいて仮に立てられたもの」と認めるならば、それは五蘊そのものでもなければ、五蘊から離れたものでもありません。 ちょうど瓶などと同じように、実体のある「私」ではないからです。 また、有為とも無為とも言えないのであれば、「私である」「私でない」とも言えないはずです。
故彼所執實我不成。
それゆえ、彼らが執着する実在の「我」は成立しない。
又諸所執實有我體,為有思慮?為無思慮?若有思慮,應是無常,非一切時有思慮故;若無思慮,應如虛空,不能作業,亦不受果。故所執我,理俱不成。
また、さまざまな主張において執着されている実在の我というものは、思慮があるのか、それとも思慮がないのか。もし思慮があるならば、それは無常であるはずです。なぜなら、すべての時に思慮があるわけではないからです。もし思慮がないならば、それは虚空のようであり、行為を起こすこともできず、果報を受けることもできません。したがって、執着されている我というものは、どちらの理屈から見ても成り立たないのです。
又諸所執實有我體,為有作用?為無作用?若有作用,如手足等,應是無常。若無作用,如兔角等,應非實我,故所執我,二俱不成。
また、様々な説で主張される実在する「我」というものは、作用があるのでしょうか、それとも作用がないのでしょうか。もし作用があるなら、手足などのように、それは無常であるはずです。もし作用がないなら、兎の角のように、それは実在する「我」とは言えません。したがって、主張される「我」は、どちらの場合も成立しないのです。
又諸所執實有我體,為是我見所緣境不?若非我見所緣境者,汝等云何知實有我?若是我見所緣境者,應有我見非顛倒攝,如實知故。若爾,如何執有我者所信至教皆毀我見,稱讚無我,言無我見能證涅槃;執著我見,沈淪生死。豈有邪見能證涅槃,正見翻令沈淪生死?
また、様々な立場で執着される実在の我というものは、我見の対象となるでしょうか?もし我見の対象とならないのであれば、あなた方はどうして実在の我があると知ることができるでしょうか?もし我見の対象となるのであれば、我見は誤った見解には含まれないはずです。なぜなら、ありのままに知るからです。もしそうなら、どうして我を執着する者たちが信じる正しい教えは、すべて我見を否定し、無我を称賛し、無我の見解が涅槃を証し得ると言い、我見に執着する者は生死に沈むと言うのでしょうか。誤った見解が涅槃を証し得るはずがなく、正しい見解がかえって生死に沈むことなどありえません。
又諸我見不緣實我,有所緣故,如緣餘心;我見所緣定非實我,是所緣故,如所餘法。是故我見不緣實我,但緣內識變現諸蘊,隨自妄情,種種計度。
また、あらゆる「我」という見解は、実在する「我」を対象としているわけではありません。何らかの対象を縁としているからです。それは、他の心を縁とするのと同じです。「我」という見解の対象は、決して実在する「我」ではありません。それは対象とされているものだからです。他のすべての現象がそうであるように。したがって、「我」という見解は実在する「我」を対象とせず、ただ内なる識が変現させた五蘊を対象とし、自らの妄った思いに従って、さまざまに推し量り、執着しているだけなのです。
然諸我執略有二種:
さて、我への執着には、大きく分けて二種類あります。
一者俱生;二者分別。
一つは生まれつきのもの、もう一つは分別によるもの。
俱生我執無始時來虛妄熏習,內因力故,恒與身俱;不待邪教及邪分別,任運而轉,故名俱生。
俱生我執は、はるか無始の昔から続く誤った習慣の影響によって、内なる因の力により、常に私たちの心身と共にあるものです。それは誤った教えや間違った考えに頼ることなく、自然と働き続けるため、「俱生」と呼ばれます。
此復二種:一、常相續,在第七識,緣第八識,起自心相,執為實我;二、有間斷,在第六識,緣識所變五取蘊相,或總、或別,起自心相,執為實我。
これにはさらに二種類があります。 第一は、常に続くもので、第七識にあり、第八識を対象として、自心の像を起こし、それを実在の自我と執着すること。 第二は、間欠的に起こるもので、第六識にあり、識が変じた五取蘊の相を対象として、全体として、あるいは個別に、自心の像を起こし、それを実在の自我と執着することです。
此二我執,細故難斷,後修道中,數數修習勝生空觀,方能除滅。
この二つの我への執着は微細であるため断ち難く、後の修道の段階で、優れた人無我の観想を繰り返し繰り返し修習することによって、初めて除き滅ぼすことができます。
分別我執亦由現在外緣力故,非與身俱,要待邪教及邪分別然後方起,故名分別,唯在第六意識中有。
分別我執もまた、現在の外的な縁の力によって生じるものであり、生まれながらに備わっているものではありません。それは誤った教えや誤った考え方に触れた後に初めて起こるため、「分別」と呼ばれ、第六意識の中にのみ存在します。
此亦二種:一、緣邪教所說蘊相,起自心相,分別、計度,執為實我;二、緣邪教所說我相,起自心相,分別、計度,執為實我。
これもまた二種類ある。一つは、誤った教えで説かれる五蘊のありさまを縁として、自心に生じたイメージを分別し、あれこれ考えめぐらし、それを実在の「我」と執着すること。二つは、誤った教えで説かれる「我」のありさまを縁として、自心に生じたイメージを分別し、あれこれ考えめぐらし、それを実在の「我」と執着すること。
此二我執麁故易斷,初見道時,觀一切法生空真如,即能除滅。
この二つの我への執着は、性質が粗いため断ち切りやすく、初めて悟りの道を見た時に、すべての存在が空であるという真実の姿を観じれば、ただちに消滅させることができます。
如是所說一切我執,自心外蘊,或有、或無;自心內蘊,一切皆有。是故我執皆緣無常五取蘊相,妄執為我。
このように説かれる一切の我執は、自心の外にある五蘊については、ある場合もあれば、ない場合もある。しかし、自心の内にある五蘊については、一切が存在する。それゆえ、我執はすべて、無常なる五取蘊の相を縁として、誤ってそれを「我」であると執着するのである。
然諸蘊相,從緣生故,是如幻有;妄所執我,橫計度故,決定非有。故契經說:苾芻當知,世間沙門、婆羅門等所有我見,一切皆緣五取蘊起。
しかし、これらの五蘊のありさまは、縁によって生じるがゆえに、幻のような存在である。一方、妄執によって執着される「我」は、誤った思い込みによるものであり、確かに実在しない。したがって、経典にはこう説かれている。「比丘たちよ、知るがよい。世の沙門や婆羅門たちが抱くすべての我見は、ことごとく五つの執着の対象となる蘊(五取蘊)に縁って起こるものである」と。
實我若無,云何得有憶、識、誦、習、恩、怨等事?所執實我既常無變,後應如前,是事非有;前應如後,是事非無。以後與前,體無別故。若謂我用,前後變易,非我體者,理亦不然。用不離體,應常有故;體不離用,應非常故。然諸有情,各有本識,一類相續,任持種子,與一切法更互為因,熏習力故,得有如是憶、識等事。故所設難,於汝有失,非於我宗。
もし本当の「私」というものが存在しないなら、どうして記憶や認識、暗唱や学習、恩や怨みといった事柄があり得ようか。あなたの主張する実在の「私」は永遠に変化しないというなら、後の状態は前の状態と同じはずで、そのような事はあり得ない。前の状態は後の状態と同じはずで、そのような事が無いわけがない。なぜなら、後と前は本質的に別物ではないからです。もし、私の作用が前後で変化するだけで、私の本体は変わらないと言うなら、その理屈も正しくありません。作用は本体から離れず、したがって常に存在すべきです。本体も作用から離れず、したがって不変であるはずがありません。しかし、すべての生きとし生けるものには、それぞれ阿頼耶識があり、一貫して連続し、種子を保持して、あらゆる現象と互いに原因となり合い、熏習の力によって、このような記憶や認識などの事柄が生じるのです。ですから、あなたの設けた難問は、あなた自身の説にこそ当てはまるのであって、私の宗義には当たりません。
若無實我,誰能造業?誰受果耶?所執實我,既無變易,猶如虛空,如何可能造業、受果?若有變易,應是無常。然諸有情心、心所法因緣力故,相續無斷,造業、受果,於理無違。
もし実在する「我」がなければ、誰が業を造り、誰がその果報を受けるのでしょうか。あなたが想定する実在の「我」は、変化することもなく、まるで虚空のようであるなら、どうして業を造り、果報を受けることができましょうか。もし変化があるなら、それは無常であるはずです。しかし、すべての有情の心と心の作用は、因と縁の力によって絶えることなく相続し、業を造り、果報を受けています。これは道理に何ら背くものではありません。
我若實無,誰於生死輪迴諸趣?誰復厭苦求趣涅槃?所執實我,既無生滅,如何可說生死輪迴?常如虛空,非苦所惱,何為厭捨求趣涅槃?故彼所言常為自害。然有情類,身、心相續,煩惱、業力輪迴諸趣,厭患苦故,求趣涅槃。
もし私が本当に存在しないならば、いったい誰が生死の輪廻をさまようのでしょうか。誰がまた苦しみを厭い離れて涅槃を求めるのでしょうか。あなたがたの主張する実在する「我」には生滅がなく、どうして生死輪廻があると言えるでしょうか。虚空のように常に変わらず、苦しみに悩まされることもないのに、なぜ苦を厭い捨てて涅槃を求める必要があるのでしょうか。ですから、彼らの言うことは自らの主張を害するものなのです。しかし、生きとし生けるものは、身体と心が相続し、煩悩と業の力によって諸々の世界を輪廻し、苦しみを患い厭うがゆえに、涅槃を求めて向かうのです。
由此故知定無實我,但有諸識無始時來前滅後生,因果相續,由妄熏習,似我相現,愚者於中妄執為我。
このことから、実在する「我」というものは存在せず、ただ様々な識(はたらき)が始まりなき昔から絶えず生滅を繰り返し、因果の連鎖を続けているだけだとわかります。迷いの力が影響を及ぼすことで、あたかも「私」という姿があるかのように見えているのです。それなのに、無知な人々はその中に実在する「私」があると誤って執着してしまうのです。
如何識外實有諸法不可得耶?
外に実在する諸々の法があると、どうして認識できないのでしょうか。
外道、餘乘所執外法,理非有故。
外道や他の教えが固執する外面的な法則は、道理上、存在しえないからです。
外道所執云何非有?
外道が固執するものは、なぜ存在しないのか?
且數論者執我是思,受用薩埵、剌闍、答摩所成大等二十三法,然大等法三事合成,是實非假,現量所得。
数論学派の人々は、「我」が思考するものであり、サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(闇質)という三つの要素から成る大(プラクリティ)など二十三の要素を享受し、用いると主張します。しかし、大などの諸要素は三つの要素から合成されたものであり、それは実在し仮構ではない、と。そしてそれは現量(直接知覚)によって得られるとするのです。
彼執非理,所以者何?
彼は道理に合わない考えに執着している。なぜでしょうか?
大等諸法,多事成故,如軍、林等,應假非實,如何可說現量得耶?又大等法,若是實有,應如本事,非三合成。
大なるものなどの諸々の存在は、多くの要素が集まって成り立っているからです。軍隊や森などと同じように、仮に成立したものであって実体があるわけではありません。どうして直接知覚によって捉えられるといえるでしょうか。また、大なるものなどの存在がもし実体を持つならば、それを作る根本要素のように、三つのものが合成したものではないはずです。
薩埵等三,即大等故,應如大等,亦三合成,轉變非常,為例亦爾。又三本事,各多功能,體亦應多,能、體一故。三體既遍,一處變時,餘亦應爾,體無別故。許此三事體、相各別,如何和合共成一相?不應合時變為一相,與未合時,體無別故。若謂三事體異相同,便違己宗體、相是一,體應如相,冥然是一,相應如體,顯然有三,故不應言三合成一。
又三是別,大等是總,總、別一故,應非一、三。此三變時,若不和合成一相者,應如未變,如何現見是一色等?若三和合成一相者,應失本別相,體亦應隨失。不可說三各有二相:一、總;二、別。總即別故,總亦應三,如何見一?若謂三體各有三相,和雜難知,故見一者,既有三相,寧見為一?復如何知三事有異?若彼一一皆具三相,應一一事能成色等,何所𨵗少,待三和合,體亦應各三,以體即相故,又大等法皆三合成,展轉相望,應無差別,是則因、果、唯量、諸大、諸根差別皆不得成。若爾,一根應得一切境,或應一境一切根所得,世間現見情與非情、淨穢等物,現、比量等,皆應無異,便為大失。
故彼所執實法不成,但是妄情計度為有。
勝論所執實等句義,多實有性,現量所得。
彼執非理。
所以者何?
諸句義中且常住者,若能生果,應是無常,有作用故,如所生果;若不生果,應非離識實有自性,如兔角等。諸無常者,若有質礙,便有方分,應可分析,如軍、林等,非實有性;若無質礙,如心、心所,應非離此有實自性。
又彼所執地、水、火、風應非有礙,實句義攝,身根所觸故,如堅、濕、煖、動。即彼所執堅、濕、煖等,應非無礙,德句義攝,身根所觸故,如地、水、火、風,地、水、火三,對青色等,俱眼所見,准此應責。故知無實地、水、火、風與堅、濕等各別有性,亦非眼見實地、水、火。
又彼所執實句義中,有礙、常者,皆有礙故,如麁地等,應是無常。諸句義中,色根所取,無質礙法,應皆有礙,許色根取故,如地、水、火、風。又彼所執非實德等,應非離識有別自性,非實攝故,如石女兒,非有實等,應非離識有別自性,非有攝故,如空花等。
彼所執有,應離實等無別自性,許非無故,如實、德等。若離實等,應非有性,許異實等故,如畢竟無等。如有非無,無別有性,如何實等有別有性?若離有法,有別有性,應離無法,有別無性,彼既不然,此云何爾?故彼有性唯妄計度。
又彼所執實、德、業性,異實、德、業,理定不然,勿此亦非實、德、業性,異實等故,如德、業等。又應實等非實等攝,異實等性故,如德、業、實等。地等諸性對地等體,更相徵詰,准此應知。如實性等,無別實等性,實等亦應無別實性等。若離實等有實等性,應離非實等,有非實等性。彼既不爾,此云何然?故同異性唯假施設。
又彼所執和合句義定非實有,非有、實等諸法攝故,如畢竟無。彼許實等現量所得,以理推徵尚非實有,況彼自許和合句義非現量得,而可實有?設執和合是現量境,由前理故,亦非實有。
然彼實等,非緣離識實有自體現量所得,許所知故,如龜毛等。又緣實智,非緣離識實句自體現量智攝,假合生故,如德智等。廣說乃至緣和合智,非緣離識和合自體現量智攝,假合生故,如實智等。
故勝論者實等句義,亦是隨情妄所施設。
有執有一大自在天,體實、遍、常,能生諸法。
彼執非理,所以者何?
若法能生,必非常故;諸非常者,必不遍故;諸不遍者,非真實故。體既常、遍,具諸功能,應一切處、時,頓生一切法。待欲或緣方能生者,違一因論。或欲及緣亦應頓起,因常有故。
餘執有一大梵、時、方、本際、自然、虛空、我等,常住、實有,具諸功能,生一切法,皆同此破。
有餘偏執,明論聲常,能為定量,表詮諸法;有執一切聲皆是常,待緣顯發,方有詮表。
彼俱非理,所以者何?
且明論聲,許能詮故,應非常住,如所餘聲。
餘聲亦應非常聲體,如瓶、衣等,待眾緣故。
有外道執地、水、火、風、極微實、常,能生麁色,所生麁色不越因量,雖是無常,而體實有。
彼亦非理,所以者何?
所執極微,若有方分,如蟻行等,體應非實。若無方分,如心、心所應不共聚生麁果色,既能生果,如彼所生,如何可說極微常住?
又所生果不越因量,應如極微,不名麁色,則此果色應非眼等色根所取,便違自執。若謂果色,量德合故,非麁似麁,色根能取。所執果色,既同因量,應如極微,無麁德合;或應極微亦麁德合;如麁果色,處無別故。若謂果色遍在自因,因非一故,可名麁者,則此果色體應非一,如所在因,處各別故。既爾,此果還不成麁,由此亦非色根所取。若果多分合故成麁,多因極微合應非細,足成根境,何用果為?既多分成,應非實有,則汝所執,前後相違。
又果與因俱有質礙,應不同處,如二極微。若謂果、因體相受入,如沙受水,藥入鎔銅。誰許沙、銅體受水、藥?或應離、變,非一、非常,又麁色果體若是一,得一分時應得一切,彼、此一故,彼應如此,不許違理,許便違事,故彼所執進、退不成,但是隨情虛妄計度。
然諸外道品類雖多,所執有法不過四種:
一、執有法與有等性其體定一,如數論等。彼執非理,所以者何?勿一切法即有性故,皆如有性,體無差別,便違三德、我等體異,亦違世間諸法差別。又若色等即色等性,色等應無青、黃等異。
二、執有法與有等性其體定異,如勝論等。彼執非理,所以者何?勿一切法非有性故,如已滅無,體不可得,便違實等自體非無,亦違世間現見有物。又若色等非色等性,應如聲等非眼等境。
三、執有法與有等性亦一、亦異,如無慚等,彼執非理,所以者何?一、異同前一、異過故;二相相違,體應別故,一、異體同俱不成故。勿一切法皆同一體,或應一、異是假非實,而執為實理定不成。
四、執有法與有等性非一、非異,如邪命等。彼執非理,所以者何?非一、異執同異、一故。非一、異言為遮為表?若唯是表,應不雙非;若但是遮,應無所執;亦遮、亦表應互相違;非表、非遮應成戲論。又非一、異,違世共知有一、異物,亦違自宗色等有法決定實有。
是故彼言唯矯避過,諸有智者勿謬許之。
餘乘所執,離識實有色等諸法,如何非有?
彼所執色、不相應行及諸無為,理非有故。
且所執色總有二種:一者有對,極微所成;二者無對,非極微成。
彼有對色定非實有,能成極微非實有故。
謂諸極微,若有質礙,應如瓶等,是假非實。
若無質礙,應如非色,如何可集成瓶、衣等?
又諸極微,若有方分,必可分析,便非實有。
若無方分,則如非色,云何和合承光、發影?日輪纔舉照柱等時,東、西兩邊光影各現,承光、發影處既不同,所執極微定有方分。又,若見、觸壁等物時,唯得此邊不得彼分。既和合物即諸極微,故此極微必有方分。又諸極微隨所住處,必有上、下、四方差別,不爾便無共和、集義。或相涉入應不成麁,由此極微定有方分。執有對色即諸極微,若無方分,應無障隔。若爾,便非障礙有對。
是故汝等所執極微必有方分,有方分故,便可分析,定非實有。
故有對色實有不成。
五識豈無所依、緣色?
雖非無色,而是識變。謂識生時。內因緣力,變似眼等、色等相現,即以此相為所依、緣。
然眼等根非現量得,以能發識,比知是有,此但功能,非外所造。外有對色理既不成,故應但是內識變現,發眼等識,名眼等根,此為所依,生眼等識。
此眼等識外所緣緣,理非有故,決定應許自識所變為所緣緣,謂能引生似自識者,汝執彼是此所緣緣。
非但能生,勿因緣等亦名此識所緣緣故。
眼等五識了色等時,但緣和合,似彼相故,非和合相異諸極微有實自體。分析彼時,似彼相識定不生故,彼和合相既非實有,故不可說是五識緣,勿第二月等能生五識故。
非諸極微共和合位可與五識各作所緣,此識上無極微相故,非諸極微有和合相,不和合時無此相故。非和合位與不合時,此諸極微體相有異,故和合位如不合時,色等極微非五識境。
有執色等一一極微不和集時,非五識境,共和集位,展轉相資,有麁相生,為此識境,彼相實有,為此所緣。彼執不然,共和集位與未集時,體相一故。瓶、甌等物極微等者,緣彼相識應無別故;共和集位一一極微,各各應捨微、圓相故;非麁相識緣細相境,勿餘境識緣餘境故;一識應緣一切境故。
許有極微,尚致此失,況無識外真實極微。
由此定知,自識所變似色等相為所緣緣,見託彼生,帶彼相故。然識變時,隨量大、小,頓現一相,非別變作眾多極微合成一物。為執麁色有實體者,佛說極微,令其除析,非謂諸色實有極微。諸瑜伽師以假想慧,於麁色相漸次除析,至不可析,假說極微,雖此極微猶有方分,而不可析,若更析之便似空現,不名為色,故說極微是色邊際。
由此應知,諸有對色,皆識變現,非極微成。
餘無對色是此類故,亦非實有,或無對故,如心、心所,定非實色。諸有對色現有色相,以理推究,離識尚無,況無對色現無色相,而可說為真實色法?
表、無表色豈非實有?
此非實有,所以者何?
且身表色若是實有,以何為性?
若言是形,便非實有,可分析故;長等極微不可得故。若言是動,亦非實有,纔生即滅無動義故;有為法滅不待因故;滅若待因應非滅故。若言有色非顯、非形,心所引生,能動手等,名身表業,理亦不然。此若是動,義如前破;若是動因,應即風界,風無表示,不應名表;又觸不應通善、惡性,非顯、香、味,類觸應知。
故身表業定非實有。
然心為因,令識所變手等色相,生滅相續,轉趣餘方,似有動作。表示心故,假名身表。
語表亦非實有聲性,一剎那聲無詮表故,多念相續便非實故,外有對色,前已破故。
然因心故,識變似聲,生滅相續,似有表示,假名語表,於理無違。
表既實無,無表寧實?然依思願善惡分限,假立無表,理亦無違。謂此或依發勝身、語善惡思種增長位立;或依定中止身、語惡現行思立,故是假有。
世尊經中說有三業,撥身、語業豈不違經?
不撥為無,但言非色。
能動身思說名身業,能發語思說名語業。審、決二思,意相應故,作動意故,說名意業。
起身、語思,有所造作,說名為業,是審、決思所遊履故;通生苦、樂異熟果故,亦名為道。故前七業道,亦思為自性,或身、語表由思發故,假說為業,思所履故,說名業道。
由此應知實無外色,唯有內識變似色生。
不相應行亦非實有,所以者何?
得、非得等,非如色、心及諸心所體相可得;非異色、心及諸心所作用可得,由此故知定非實有,但依色等分位假立。
此定非異色、心、心所,有實體用,如色、心等,許蘊攝故。
或心、心所及色、無為所不攝故,如畢竟無,定非實有。或餘實法所不攝故,如餘假法,非實有體。
且彼如何知得、非得,異色、心等,有實體用?
契經說故。如說:如是補特伽羅成就善、惡,聖者成就十無學法。又說:異生不成就聖法,諸阿羅漢不成就煩惱,成、不成言,顯得、非得。
經不說此異色、心等有實體用,為證不成。
亦說:輪王成就七寶。豈即成就他身、非情?
若謂於寶有自在力,假說成就,於善、惡法,何不許然,而執實得?
若謂七寶在現在,故可假說成,寧知所成善、惡等法離現在有?離現實法,理非有故。
現在必有善種等故。
又得於法有何勝用?
若言能起,應起無為,一切非情應永不起,未得、已失應永不生。
若俱生得為因起者,所執二生便為無用。又具善、惡、無記得者,善、惡、無記應頓現前,若待餘因,得便無用。
若得於法是不失因,有情由此成就彼故,諸可成法不離有情,若離有情實不可得,故得於法俱為無用。
得實無故,非得亦無。
然依有情可成諸法分位,假立三種成就:一、種子成就;二、自在成就;三、現行成就。翻此假立不成就名,此類雖多,而於三界見所斷種未永害位,假立非得,名異生性,於諸聖法未成就故。
復如何知異色、心等有實同分?
契經說故。如契經說:此天同分、此人同分,乃至廣說。
此經不說異色、心等有實同分,為證不成。
若同智、言,因斯起故,知實有者,則草、木等應有同分。
又,於同分起同智、言,同分復應有別同分,彼既不爾,此云何然?
若謂為因起同事、欲,知實有者,理亦不然。宿習為因,起同事、欲,何要別執有實同分?
然依有情身、心相似,分位差別,假立同分。
復如何知異色、心等,有實命根?
契經說故。如契經說:壽、煖、識三,應知命根說名為壽。
此經不說異色、心等有實壽體,為證不成。
又,先已成色不離識,應此離識無別命根。
又,若命根異識實有,應如受等,非實命根。
若爾,如何經說三法?義別說三,如四正斷。住無心位,壽、煖應無。豈不經說識不離身。既爾,如何名無心位?彼滅轉識,非阿賴耶。有此識因,後當廣說。此識足為界、趣、生體,是遍、恒、續。異熟果故,無勞別執有實命根。
然依親生此識種子,由業所引功能差別,住時決定,假立命根。
復如何知二無心定、無想異熟,異色、心等有實自性?
若無實性,應不能遮心、心所法,令不現起。
若無心位,有別實法,異色、心等,能遮於心,名無心定。
應無色時,有別實法,異色、心等,能礙於色,名無色定。彼既不爾,此云何然?
又,遮礙心何須實法,如堤塘等,假亦能遮。
謂修定時,於定加行,厭患麁動心、心所故,發勝期願,遮心、心所。令心、心所漸細漸微,微微心時,熏異熟識,成極增上厭心等種。由此損伏心等種故,麁動心等暫不現行,依此分位,假立二定。此種善故,定亦名善。
無想定前,求無想果,故所熏成種,招彼異熟識。依定麁動想等不行,於此分位,假立無想。依異熟立,得異熟名,故此三法,亦非實有。
成唯識論卷第一