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title: "洛陽伽藍記 · 靈應寺"
description: "洛阳伽蓝记是北魏时期杨衒之撰写的一部佛教地理志著作，成书于东魏武定五年（547年）。该书以洛阳佛寺兴衰为线索，详细记载了北魏都城洛阳的佛教寺院布局、建筑规模及历史变迁，反映了北魏佛教鼎盛时期的宗教文化面貌。作者杨衒之通过实地考察，记录了四十余座著名伽蓝的沿革、形制与典故，兼具史料价值和文学价值。作为中国现存最早的寺院志专书，它不仅为研究北朝佛教史、建筑史和社会史提供了珍贵资料，更成为后世了解中原佛教艺术与都市规划的重要文献，在佛教典籍中具有独特地位。"
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建陽里東有綏民里。里內有洛陽縣臨渠水縣。門外有洛陽令楊機清德碑。綏民里東崇義里。里內有京兆人杜子休宅。地形顯敞。門臨御道。時有隱士。趙逸云。是晉武時人。晉朝舊事。多所記錄。正光初來至京師。見子休宅。歎息曰。此宅中朝時太康寺也。時人未信。遂問寺之由緒。逸云。龍驤將軍王𤀹。平吳之後始立此寺。本有三層浮圖。用塼為之。指子休園中曰。此是故處。子休掘而驗之。果得塼數十萬。兼有石銘云。晉太康六年歲次乙巳九月甲戌朔八日辛巳儀同三司襄陽侯王𤀹敬造。時園中果菜豐蔚林木扶疎。乃服逸言。號為聖人。子休遂捨宅為靈應寺。所得之磚。還為三層浮圖。好事者尋逐之。問。晉朝京師。何如今日。逸曰。晉時民少於今日。王侯第宅與今日相似。又云。自永嘉已來二百餘年。建國稱王者十有六君。皆遊其都邑。目見其事。國滅之後。觀其史書。皆非實錄。莫不推過。於人引善自向符生。雖好勇嗜酒。亦仁而不殺。觀其治典未為凶暴。及詳其史。天下之惡皆歸焉。符堅自是賢主。賊君取位妄書生惡。凡諸史官皆是類也。人皆貴遠賤近。以為信然。當今之人。亦生愚死智。惑已甚矣。人問其故。逸曰。生時中庸之人耳。及其死也。碑文墓志莫不窮天地之大德盡生民之能事。為君共堯舜連衡。為臣與伊皐等跡。牧民之官浮虎。慕其清塵。執法之吏埋輪。謝其梗直。所謂生為盜跖死為夷齊。妄言傷正華辭損實。當時構文之士。慚逸此言。步兵校尉李澄問曰。太尉府前塼浮圖。形製甚古。猶未崩毀。未知早晚造。逸云晉義熙十二年劉裕伐姚泓軍人所作。汝南王聞而異之。拜為義父。因而問。何所服餌。以致長年。逸云。吾不閑養生。自然長壽。郭璞常為吾筮云。壽年五百歲。今始餘半。帝給步挽車一乘。遊於市里。所經之處。多記舊跡。三年以後遁去。莫知所在。崇儀里東有七里橋以石為之。中朝杜預之荊州出頓之所也。七里橋東一里郭門開三道。時人號為三門。離別者多云相送。三門外。京師士子送去迎歸常在此處。

> 建陽里の東に綏民里がある。その里の中に洛陽県があり、県の門前を臨渠水が流れている。門の外に洛陽県令の楊機の清徳碑が立っている。綏民里の東は崇義里である。里の中に京兆の人である杜子休の屋敷がある。地形は広く見晴らしがよく、門は御道に面している。 その頃、趙逸という隠士がいた。彼は自分は晋の武帝の時代の人だと言い、晋朝の古い出来事を多く記録していた。正光の初めに都にやって来て、子休の屋敷を見て嘆息して言った。「この屋敷は、かつて中朝の時代には太康寺があった場所だ」。当時の人々は信じなかったので、寺の由来を尋ねた。逸が言うには、「龍驤将軍の王濬が呉を平定した後に、初めてこの寺を建てたのです。もともとは三層の仏塔があり、煉瓦で造られていました」。そして子休の庭を指して言った、「ここがその跡です」。子休が掘って確かめてみると、果たして煉瓦が数十万枚も出てきた。さらに石の銘文があり、そこには「晋の太康六年、歳は乙巳、九月甲戌朔の八日辛巳に、儀同三司の襄陽侯・王濬が敬んで造る」とあった。その時、庭には果物や野菜が豊かに茂り、林木も生い茂っていた。人々は逸の言葉を敬服して、彼を「聖人」と呼んだ。子休はついに自分の屋敷を捨てて霊応寺とした。得た煉瓦で、また三層の仏塔を建てた。 好事家たちが彼を尋ね追いかけて、問うた。「晋朝の都は、今の世と比べてどうでしたか」。逸が言うには、「晋の時代は民の数が今より少なかった。王侯の邸宅は、今の世と似たようなものだった」。また言った。「永嘉の乱以来、二百余年、国を建てて王と称した者は十六人の君主がいた。皆その都邑を巡り、その出来事をこの目で見た。国が滅びた後に、その史書を観ると、どれも実録ではなく、みな過ちを他人に押し付けて、善い行いは自分に引き寄せている。符生は、勇猛で酒好きではあったが、仁愛の心があり殺生を好まなかった。その治政の法典を見ても、それほど凶暴ではなかった。しかし、その史書を詳しく見ると、天下の悪事がすべて彼のせいにされている。符堅は元来賢い君主であったが、君主を害して位を奪った者たちが、勝手に悪いことだと書きなしたのだ。およそ史官というものは皆このような類である。人々は皆、遠い昔のことは尊び、近い現代のことは軽んじて、それを本当に信じてしまっている。今の人々も、生きている間は愚かでも、死んでしまえば賢者にされてしまう。惑わされること甚だしい」 人がその理由を問うと、逸は言った。「生きている間はただの普通人に過ぎない。しかし、死んでしまうと、碑文や墓誌には、天地の大きな徳を窮め、人民の能力を尽くして書かれる。君主となれば堯・舜と肩を並べ、臣下となれば伊尹・皐陶と行いを等しくされる。民を治める官は、虎さえもその清廉な風に敬服し、法を執行する吏は、その剛直さのために車輪を埋めることを謝する。いわゆる、生きては盗跖のようであっても、死んでしまえば伯夷・叔斉のようにされるのである。虚偽の言葉は正しさを傷つけ、華美な文章は真実を損なう」。当時、文章を作る者たちは、この逸の言葉を恥じた。 歩兵校尉の李澄が問うた。「太尉府の前の煉瓦の仏塔は、形も製も非常に古く、まだ崩れていない。いつの時代に造られたものか分からない」。逸は言った。「晋の義熙十二年、劉裕が姚泓を討伐した際に、軍人が造ったものです」。 汝南王はこれを聞いて異材だと感じ、彼を義父と拝した。そして問うた。「どのような物を服用して、このように長寿を保たれているのか」。逸は言った。「私は養生の術には通じていない。自然に長寿なのです。郭璞がかつて私のために占ってくれた時、『寿命は五百歳』と言いました。今やっとその半分を過ぎたところです」。 皇帝は彼に歩挽車一台を賜い、市中を巡らせた。その通った所々で、古い跡を多く記録した。三年の後、忽然と姿を消し、どこに行ったのか誰も知らなかった。 崇儀里の東に七里橋があり、石で造られている。中朝の時代、杜預が荊州に赴く際、ここに出発のために立ち寄った場所である。七里橋から東に一里のところに、城門が三道に開いている。当時の人々は「三門」と呼んだ。別離の人々は、よく「三門まで見送ろう」と言った。京師の士人たちが送り迎えをするのは、常にこの場所だった。