大方廣圓覺脩多羅了義經近釋卷一
大方広円覚修多羅了義経近釈巻一
明二楞庵釋通潤 述
二楞庵 釈通潤 述
體無不徧曰大,法無不備曰方,用無不具曰廣。故清涼云:大以曠兼無際,方以正法自持,用則稱體而周。具此三義,故名圓覺。脩多羅,此云契經,謂契理契機。故契經中有了義不了義。如來為人天二乘說不了義教,以器小不能擔荷大法,故說唯佛一人獨得覺性。為菩薩乘說了義教,以根大能擔荷大法,故說一切眾生皆得作佛。然對機說教,雖各不同,而契理契機,實無有二。此經直顯一切眾生本來成佛,名為圓覺。直截分明,毫無隱覆。此則契經中了義契經,非不了義契經也。然圓覺二字,義匪一途。故下文約十二義以發明,而義始備。如文殊章云:有大陀羅尼,名曰圓覺。又云:彼知覺者,猶如虗空。此則直指眾生心體如如不動,了了常知者,為圓覺也。普賢章云:一切眾生種種幻化,皆生如來圓覺妙心。此指根身器界,及界內界外二種無明,併種種幻智,皆從圓覺妙心流出。此約出生凡聖染淨二法,名圓覺也。普眼章中,顯四大六根六塵六識,乃至十力四無所畏,悉皆清淨,徧滿不動,始知眾生本來成佛者。此約凡聖染淨悉皆具足,如來平等圓滿覺性,根根塵塵周徧法界,名圓覺也。金剛藏章,一切如來,妙圓覺性,本無菩提,及與涅槃,亦無成佛,及不成佛,無妄輪迴,及非輪迴者,此約染淨聖凡,纖塵不立,名圓覺也。彌勒章中,由本貪欲,發揮無明,顯出五性,差別不等,依二種障,而現深淺者,此約眾生,皆證圓覺,本無差別,由隨染緣,而有二障,故有六凡,由隨淨緣,而證二空,故有四聖,於無差別處,而現差別,以顯不變隨緣,如摩尼之現五色,為圓覺也。清淨慧章,若遇善友,教令開悟,淨圓覺性,發明起滅,即知此生,性自勞慮,勞慮永斷,得法界淨,此名凡夫,隨順覺性等者,此約五性,差別不等,實無差別,以顯隨緣不變,名圓覺也。威德章,若諸菩薩,悟淨圓覺,以淨覺心,取靜為行,名奢摩他,起變化行,名三摩提,隨順寂滅,名為禪那,乃至辯音章中,單複圓修等者,此約一心三觀,即空即假即中,名圓覺也。淨諸業障章,直顯眾生,覺性本淨,皆由耽著我人眾生壽者四相,生愛生憎,為障為礙,不能入清淨覺,必須斷盡四相,一切寂滅,覺性始圓,名圓覺也。普覺章,所問求何等人,依何等法,行何等行,除去何病,云
「体は遍くないものなく、これを大と名づけ、法は備わらないものなく、これを方と名づけ、用は具わらないものなく、これを広と名づける。それゆえ清凉大師は『大は広く兼ねて際なく、方は正法を自ら保ち、用は体に称いて周く行きわたる』と説かれた。この三つの義を具えるから、円覚と名づけるのである。
修多羅とは、ここでは契経と訳す。理に契い、機に契うことをいう。それゆえ契経の中には、了義と不了義とがある。如来は人天や二乗のために不了義の教えを説かれた。その器が小さく、大法を担うことができないからである。それで『ただ仏のみが独り覚性を得る』と説かれたのである。菩薩乗のためには了義の教えを説かれた。その根が大きく、大法を担うことができるから、『一切の衆生はみな仏となることを得る』と説かれたのである。しかし機に応じて教えを説くことは、それぞれ異なっているとはいえ、理に契い機に契うことにおいては、実に二つあることはない。この経は、一切の衆生が本来成仏していることを直接に示して、円覚と名づけるのである。まっすぐで明らかであり、少しも隠し立てがない。これは契経の中の了義の契経であって、不了義の契経ではないのである。
しかし円覚という二字の意味は、一つの道筋だけではない。それで後の文で十二の義によって明らかにして、はじめてその義が備わるのである。文殊章に『大陀羅尼あり、名づけて円覚という』とあり、また『彼の知覚する者は、虚空の如し』とある。これは衆生の心体が如如として動かず、了了として常に知るものを、まさに指して円覚とするのである。普賢章に『一切衆生の種々の幻化は、みな如来の円覚妙心より生ず』とある。これは根身・器界、および界内界外の二種の無明、ならびに種々の幻智が、みな円覚妙心より流れ出ずることを指す。これは凡聖・染浄の二法を出生するということをもって、円覚と名づけるのである。
普眼章には、四大・六根・六塵・六識より、十力・四無所畏に至るまで、ことごとく清浄で、徧満して動かず、はじめて衆生が本来成仏していることを知る、と示される。これは凡聖・染浄がことごとく具わり、如来の平等なる円満覚性が、根々塵々、法界に周徧することをもって、円覚と名づけるのである。金剛蔵章には、一切の如来の妙円覚性は、もとより菩提もなく、涅槃もなく、成仏もなく、不成仏もなく、虚妄の輪迴もなく、非輪迴もない、という。これは染浄・聖凡について、微塵の立てることもないことをもって、円覚と名づけるのである。
弥勒章には、もとよりの貪欲によって無明を発揮し、五性の差別が等しくないことを顕わし、二種の障によって深浅を現ずるという。これは衆生がみな円覚を証することをもって、もと差別がないが、染縁に随うことによって二障があるから六凡があり、浄縁に随って二空を証するから四聖がある。差別のないところに差別を現じて、不変随縁の義を顕わす。摩尼宝が五色を現ずるようなもので、これを円覚とするのである。
清淨慧章に、もし善友に遇って、開悟を教えられ、浄円覚性を明らかにし、起滅を発明すれば、すなわちこの生が、性来労慮なることを知り、労慮が永く断たれて、法界の浄を得るのである。これを凡夫が覚性に随順するという、などと説く。これは五性の差別が等しくないが、実に差別がないことをもって、随縁不変を顕わし、円覚と名づけるのである。
威徳章には、もし諸の菩薩が浄円覚を覚り、浄覚心をもって、静を取りて行となすを奢摩他と名づけ、変化の行を起こすを三摩提と名づけ、寂滅に随順するを禅那と名づける。乃至弁音章には、単修・複修・円修などと説く。これは一心三観、すなわち即空・即仮・即中をもって円覚と名づけるのである。
淨諸業障章には、衆生の覚性がもと清浄なることを直接に顕わすが、みな我相・人相・衆生相・寿者相の四相に耽着して、愛を生じ憎を生じ、障となり礙となって、清浄覚に入ることができない。必ず四相を断じ尽くし、一切が寂滅して、覚性がはじめて円満することをもって、円覚と名づけるのである。
普覚章には、問うところは、何なる人を求め、何なる法に依り、何なる行を行じ、何なる病を除くべきか、と。……』」
發心者,要須事事明了,毫無錯謬,名圓覺也。圓覺章,以大圓覺為我伽藍,身心安居平等性智者,謂具如上種種深義,方得渾身安住圓覺伽藍,故名圓覺。賢善首章,具上眾義,證此五名,方稱無上法王為賢善首,故名圓覺。故知十二菩薩,綸貫一經,圓覺二字,通該眾義,豈可以一知一見,便謂盡圓覺哉。故題中既標圓覺,又稱了義,正顯性相雙陳,理惑並闡,圓融行布,兩不相妨,始是如來稱性至極之深談耳。
発心する者は、すべての事柄を明らかにし、少しの誤りもないようにすることが必要である。これを円覚と名づける。円覚章では、大円覚を我が伽藍とし、身心を安居させて平等性智とするとは、上に述べたような様々な深い意味を具えて、初めて全身を円覚の伽藍に安住させることができるので、円覚と名づけるのである。賢善首章では、上記の多くの義を具えて、この五つの名を証得して、初めて無上の法王を賢善首と称することができるので、円覚と名づけるのである。それゆえ、十二菩薩が一経を通して貫き、円覚という二字が多くの義を総括していることが分かる。どうして一つの知識や一つの見解をもって、円覚のすべてを尽くしたと言えるだろうか。ゆえに題中にすでに円覚と標示し、さらに了義と称しているのは、まさに性と相を併せて示し、理と惑をともに明らかにし、円融と行布が互いに妨げ合わないことを顕しているのであり、これによって初めて如来の性に応じた究極の深い教えとなるのである。