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title: "大唐西域求法高僧傳 · 新羅慧輪法師"
description: "大唐西域求法高僧传由唐代高僧义净撰著。本书成于武则天时期，记录了唐代僧人前往印度求法的历史。书中详述了义净本人及数十位僧人的西行经历，包括旅途见闻、印度佛教状况及各地风土人情。作为研究唐代中西交通、佛教史和南亚历史的重要文献，它与法显的佛国记、玄奘的大唐西域记并称为中国古代三大求法行记，是了解早期佛教传播与文化交流的权威史料。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmd08wluf013gjt042jbzu5ai"
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慧輪師者。新羅人也。梵名般若跋摩唐云慧甲自本國出家翹心聖迹。汎舶而陵閩越。涉步而屆長安。奉勅隨玄照師西行以充侍者。既之西國遍禮聖蹤。居菴摩羅跛國在信者寺住經十載。近住次東邊北方覩貨羅僧寺。元是覩貨羅人為本國僧所造。其寺巨富貲產豐饒供養飡設餘莫加也。寺名健陀羅山荼。慧輪住此。既善梵言薄閑俱舍。來日尚在年向四十矣。其北方僧來者。皆住此寺為主人耳。大覺寺西有迦畢試國寺。寺亦巨富多諸碩德。普學小乘。北方僧來亦住此寺。名窶挐折里多唐云德行大覺東北兩驛許有寺名屈錄迦。即是南方屈錄迦國王昔所造也。寺雖貧素而戒行清嚴。近者日軍王復於故寺之側更造一寺。今始新成。南國僧來多住於此。諸方皆悉有寺。所以本國通流。神州獨無一處。致令往還艱苦耳。那爛陀寺東四十驛許。尋弶伽河而下至蜜栗伽悉他鉢娜寺唐云鹿園寺也去此寺不遠有一故寺。但有塼基。厥號支那寺。古老相傳云。是昔室利笈多大王為支那國僧所造支那即廣州也。莫訶支那即京師也。亦云提婆弗呾羅。唐云天子也于時有唐僧二十許人。從蜀川䍧牫道而出蜀川去此寺有五百餘驛向莫訶菩提禮拜。王見敬重。遂施此地以充停息。給大村封二十四所。於後唐僧亡沒。村乃割屬餘人。現有三村入鹿園寺矣。准量支那寺。至今可五百餘年矣。現今地屬東印度王。其王名提婆跋摩。每言曰。若有大唐天子處數僧來者。我為重興此寺。還其村封令不絕也。誠可歎。曰雖有鵲巢之易。而樂福者難逢。必若心存濟益。奏請弘此誠非小事也。金剛座大覺寺即僧訶羅國王所造。師子洲僧舊住於此。大覺寺東北行七驛許至那爛陀寺。乃是古王室利鑠羯羅昳底。為北天苾芻曷羅社槃所造。此寺初基纔餘方堵。其後代國王苗裔相承造製宏壯。則贍部洲中當今無以加也。軌模不可具述。但且略敘區寰耳。然其寺形畟方如城。四面直簷長廊遍匝。皆是塼室。重疊三層層高丈餘。橫梁板闐本無椽瓦。用塼平覆。寺背正直隨意旋往。其房後壁即為外面也。壘塼峻峭高三四丈。上作人頭高共人等。其僧房也面有九焉。一一房中可方丈許。後面通窓戶向簷矣。其門既高唯安一扇。皆相瞻望不許安簾。出外平觀四面皆覩。互相檢察寧容片私。於一角頭作。閣道還往。寺上四角各為塼堂。多聞大德而住於此。寺門西向飛閣凌虛。雕刻奇形妙盡工飾。其門乃與房相連。元不別作。但前出兩步齊安四柱。其門雖非過大實乃裝架彌堅。每至食時重關返閉。既是聖教意在防私。寺內之地方三十步許。皆以塼砌。小者或七步或五步耳。凡所覆屋脊上簷前房內之地。並用塼屑如桃棗大。和雜粘泥以杵平築。用疆石灰。雜以麻䈥并油及麻滓爛皮之屬。浸漬多日泥於塼地之上。覆以青草經三數日。看其欲乾重以滑石揩。拭拂赤土汁或丹朱之類。後以油塗鮮澄若鏡。其堂殿階陛悉皆如此。一作已後縱人踐蹋。動經一二十載曾不圮磔。不同石灰水沾便脫。如斯等類乃有八寺。上皆平通規矩相似。於寺東面西取房。或一或三。用安尊像。或可即於此面前出多少。別起臺觀為佛殿矣。此寺西南大院之外。方列大窣覩波舊云塔者訛略及諸制底舊云支提者訛數乃盈百。聖跡相連不可稱記。金寶瑩飾實成希有。其間僧徒綱軌出納之儀。具如中方錄及寄歸傳所述。寺內但以最老上座而為尊主。不論其德。諸有門鑰每宵封印。將付上座。更無別置寺主維那。但造寺之人名為寺主。梵云毘訶羅莎弭。若作番直典掌寺門及和僧白事者。名毘訶羅波羅。譯為護寺。若鳴健稚及監食者。名為羯磨陀那。譯為授事。言維那者略也。眾僧有事集眾平章令其護寺。巡行告白一一人前。皆須合掌各伸其事。若一人不許則事不得成。全無眾前打槌秉白之法。若見不許以理喻之。未有挾強便加壓伏。其守庫當莊之流。雖三二人亦遣典庫家人合掌為白。若和方可費用誠無獨任之咎不白而獨用者。下至半升之粟。即交被驅擯。若一人稱豪獨用僧物處斷綱務不白大眾者。名為俱攞鉢底。譯為家主。斯乃佛法之大疣人神所共怨。雖復於寺有益。而終獲罪彌深。智者必不為也。又諸外道先有九十六部。今但十餘。若有齋會聚集。各各自居一處。並與僧尼無競先後。既其法別理不同行。各習所宗坐無交雜。此之寺制理極嚴峻。每半月令典事佐史巡房讀制。眾僧名字不貫王籍。其有犯者眾自治罰。為此僧徒咸相敬懼。其寺受用雖迮而益利彌寬。曾憶在京見人畫出祇洹寺樣。咸是憑虛。為廣異聞略陳梗概云爾。

> 慧輪師は新羅の人である。梵名は般若跋摩〈唐では慧甲という〉と訳す。本国で出家し、聖迹を慕う心が高く、船で閩越を渡り、歩いて長安に至った。勅命により玄照師に従って西方へ行き、侍者を務めた。西方に到ってからは、すべての聖迹を巡礼した。菴摩羅跛国に滞在し、信者寺に十年住んだ。その近く、東の北の方に覩貨羅僧寺がある。もともと覩貨羅人が本国の僧のために建てたものである。この寺は非常に富裕で、財産は豊かであり、供養や食事の施しは他に並ぶものがない。寺の名は健陀羅山荼という。慧輪はここに住んでいた。彼は梵語に堪能で、俱舎論にも少し通じていた。来た当時はまだ四十歳ほどであった。北方から来た僧たちは皆、この寺に客人として滞在する。 大覚寺の西には迦畢試国寺がある。この寺もまた非常に富裕で、多くの碩学の僧がいる。皆、小乗を学んでいる。北方の僧もここに来て滞在する。寺の名は窶挐折里多〈唐では徳行という〉という。大覚寺から東北に二駅ほどのところに、屈録迦という寺がある。これは南方の屈録迦国王が昔建てたものである。寺は貧しいが、戒律を守ることは清らかで厳しい。最近、日軍王がまた元の寺の隣に別の寺を建てた。今、新しくできたばかりである。南方の僧は多くここに滞在する。どこにでも寺はあるので、故国から僧が交流することはできるが、神州（中国）にはただの一か所もない。そのため往還には辛苦があるのだ。 那爛陀寺から東に四十駅ほどのところで、殑伽河に沿って下ると、蜜栗伽悉他鉢娜寺〈唐では鹿園寺という〉がある。この寺から遠くないところに古い寺がある。塼の基だけが残っている。その名は支那寺という。古老の伝えによると、昔、室利笈多大王が支那国の僧のために建てたものである〈支那とは広州のこと。莫訶支那が京師のこと。また提婆弗呪羅ともいう。唐では天子と訳す〉。その時、唐の僧二十人ほどが蜀川の䍧牫道を通って〈蜀川からこの寺までは五百駅ほどある〉、莫訶菩提に礼拝に行った。王は彼らを見て敬い重んじ、この地を施して休息の場所とさせた。二十四の大きな村を与えた。その後、唐の僧たちが亡くなり、村々は他の者たちに分割されてしまった。今は三つの村が鹿園寺に属している。支那寺は今から五百年ほど昔のものと推測される。現在、土地は東インドの王の所有で、その王の名は提婆跋摩という。彼は次のように語るという。「もし大唐の天子の命を受けた僧が何人か来るなら、私はこの寺を再興し、村を元に戻し、絶えることなく続けさせよう。」とはいえ、まことに嘆かわしい。鳩が巣を作るほどの容易さであっても、福を喜ぶ人に出会うのは難しい。もし心に済度利益を思い、奏請するならば、これを広めることは決して小さなことではないのだ。 金剛座大覚寺は、僧訶羅国王が建てたものである。師子洲の僧が昔からここに住んでいた。大覚寺から東北に七駅ほど行くと、那爛陀寺に至る。これは古の王室利鑠羯羅昳底が、北天の苾芻曷羅社槃のために建てたものである。この寺は当初、基礎がわずかにあっただけであった。その後、代々の国王が受け継ぎ、壮大に造営した。今や贍部洲の中で、これに勝るものはない。詳細な構造は述べることはできないが、ほんのあらましだけを記そう。 寺の形は四角く、城のようである。四方に長い廊下が巡らされ、すべて塼造りの室である。三層に重なり、各層は一丈（約3メートル）以上の高さがある。梁と板扉があり、垂木や瓦は使わず、塼で平らに覆っている。寺の背面は一直線で、好きなように行き来できる。各房の後壁は外面となっている。塼を高く積み上げ、高さは三、四丈。上部には人間の頭の形をしたものが人の背丈ほどに並んでいる。僧房は各面に九つある。一つの房は一辺一丈四方ほどで、後ろには窓があり、軒に向かって開いている。門は高く、一枚の扉だけが設けられている。互いに見渡せるようにして、簾は許されていない。外に出て平らに見渡すと、四面すべてが見渡せる。互いに監視し合い、私事の入る余地はない。一つの隅に廊下の階段が設けられ、昇り降りする。寺の四隅にはそれぞれ塼造りの堂があり、多聞の大徳がここに住む。寺の門は西向きで、高楼は虚空に聳え立ち、珍しい形が彫刻され、見事な装飾が施されている。門は房と続いていて、別に作られてはいない。ただ前方に二歩ほど出て、四本の柱が立てられている。門は特に大きいわけではないが、その構造は非常に堅固である。食事の時になると、重い扉が閉ざされる。これも聖教の教えにより、私欲を防ぐためである。寺の境内は三十歩四方ほどで、すべて塼で敷き詰められている。小さなものは七歩か五歩ばかりである。屋根の上や軒先、室内の地面はすべて、桃や棗ほどの大きさの塼のかけらを、粘土で練り、杵で平らに固めている。強力な石灰を使い、麻の筋や油、麻の滓、腐った皮などを混ぜ、何日も浸して、塼の上に塗る。その上に青草を敷き、二、三日して乾きかけのを見計らい、滑石で磨く。赤土の汁や丹朱の類を塗り、最後に油を塗ると、鏡のように鮮やかになる。堂や殿、階段もすべて同じ方法である。一度作ってしまえば、人が踏んでも二十年前後は壊れない。石灰のように水がかかると剥がれることはない。このような寺が八つある。上部はすべて平らに通じており、規格は同じである。寺の東側で西向きの房を取り、一室か三室を使って尊像を安置する。あるいはその前方に別に台や楼閣を建てて、仏殿とすることもある。この寺の南西の大きな院の外には、大きな窣覩波〈昔は塔と訳すが誤り〉や多くの制底〈昔は支提と訳すが誤り〉が百も並んでいる。聖跡が連なり、数えきれない。金や宝石で飾られ、まことに希有である。その間の僧徒の規律や出納の作法は、中方録や寄帰伝に詳しく述べられている通りである。 寺内では、最も年長の上座のみが尊い主人とされ、その徳は問題とされない。すべての門の鍵は毎晩封印され、上座に渡される。別に寺主や維那は置かない。ただ、寺を建てた人が寺主と呼ばれる。梵語では毘訶羅莎弭という。もし番をして寺門を管理し、僧をまとめ、事柄を告げる者は、毘訶羅波羅という。護寺と訳す。もし健稚（木魚）を打ち、食事を見守る者は、羯磨陀那という。授事と訳す。維那というのは省略形である。僧たちに用事がある時は集まって相談し、護寺に命じて巡り歩いて告知させる。一人ひとりの前に立ち、合掌してそれぞれの事柄を述べる。もし一人でも反対すれば、事は成らない。集会の前で槌を打って一方的に決定するような方法は全くない。反対者がいれば、道理を以て説得する。力を恃んで押さえつけることはない。倉庫や荘園の管理を任された者たちであっても、二、三人であっても、家人に命じて合掌し、報告させる。同意が得られたならば費用を使う。独断の罪はない。しかし、報告せずに独断で使えば、半升の粟に至るまで、即座に追放される。もし一人で威張り、僧の物を独断で使い、綱務を取り仕切り、大衆に報告しない者を、倶攞鉢底という。家主と訳す。これはまさに仏法の大いなる腫れ物であり、人も神も共に怨むところである。たとえ寺にとって利益があっても、終には罪はより深くなる。賢者は決してしない。 また、もと外道には九十六部あったが、今は十余部しかない。もし斎会があれば、集まってそれぞれ自分たちの場所に座る。僧尼たちと先後を争うことはない。法が異なり、理も同じではなく、各々が自らの宗を学び、座も交じらない。この寺の規則は極めて厳しい。毎月の半ばに、典事と佐史が房を巡り、規則を読み上げる。僧たちの名は王の戸籍には載っていない。規則を犯す者がいれば、僧たち自身で罰する。そのため僧たちは互いに敬い恐れ合う。この寺の受け入れは狭いが、利益は広く、恩恵は大きい。かつて都で人がそらで描いた祇洹寺の図面を見たことがあるが、全て想像に過ぎなかった。異聞を広く伝えるために、大まかなあらましを述べた次第である。

又五天之地但是大寺。君王悉皆令置漏水。為此晝夜。期候不難。准如律教。夜分三分。初後制令禪誦。中間隨意消息。其漏水法廣如寄歸傳中所述。雖復言陳寺樣。終恐在事還迷為此畫出其圖。冀令目擊無滯。如能奏請依樣造之。即王舍支那理成無別耳。此下宜畫寺樣也。

> また、五天竺の地では、大きな寺がある限り、王は必ず漏刻（水時計）を設置させました。これによって昼夜の時間を知ることが容易になりました。律の教えに従えば、夜を三分し、初めと終わりには禅定と誦経を命じ、中間は随意に休むとされています。この漏刻の方法は、『寄帰伝』に詳しく述べられています。あらためて寺の様式を言葉で述べても、実際には迷うことがあるかもしれません。そこで、その図を描いて、一目でわかるようにしました。もし奏上して、この様式に従って造っていただければ、王舎城と支那（中国）とは、理の上で別物ではなくなるでしょう。以下に、寺の様式を描くべきです。

此是室利那爛陀莫訶毘訶羅樣唐譯云吉祥神龍大住處也。西國凡喚君王及大官屬并大寺舍。皆先云室利。意取吉祥尊貴之義那爛陀乃是龍名。近此有龍名那伽爛陀。故以為號。毘訶羅是住處義。比云寺者不是正翻。如觀一寺餘七同然背上平直通人還往。凡觀寺樣者須南面看之。欲使西出其門方得直勢。於門南畔可二十步有窣覩波。高百尺許。是世尊昔日夏三月安居處。梵名慕攞健陀俱胝。唐云根本香殿矣。門北畔五十步許。復有大窣覩波。更高於此。是幼日王所造。皆並塼作。裝飾精妙。金床寶地。供養希有。中有如來轉法輪像。次此西南有小制底。高一丈餘。是婆羅門執雀請問處。唐云雀離浮圖。此即是也。根本殿西有佛齒木樹非是楊柳。其次西畔有戒壇。方可大尺一丈餘。即於平地周壘塼牆子。高二尺許。牆內坐基可高五寸。中有小制底。壇東殿角有佛經行之基。壘塼為之。寬可二肘。長十四五肘。高可二肘餘。上乃石灰塐作蓮華開勢。高可二寸。闊一尺許。有十四五表佛足跡。此寺則南望王城。纔三十里。鷲峯竹苑皆在城傍。西南向大覺。正南尊足山。並可七驛。北向薜舍離。乃二十五驛。西瞻鹿苑。二十餘驛東。向耽摩立底國。有六七十驛。即是海口昇舶歸唐之處。此寺內僧眾有三千五百人。屬寺村莊二百一所。並是積代君王給其人戶永充供養言驛者即當一踰繕那也重曰。龍池龜洛地隔天津。途遙去馬道絕來人。致令傳說罕得其真。模形別匠軌製殊陳依俙。畫古髣髴驚新。庶觀者之虔想。若佛在而翹神。

> これは、ナーランダー大僧院の図である。漢語では「吉祥神龍大住處」と訳す。西方の国では、王や高位の官人、大きな寺院を呼ぶとき、まず「室利（吉祥）」と冠する。これは吉祥で尊いという意味を取ったものである。「那爛陀」は龍の名であり、この近くにナーガランダという龍がいることから、その名を号とした。「毘訶羅」は住処という意味であり、漢語で「寺」と訳すのは正確な翻訳ではない。一つの寺の構造を見れば、他の七つの寺も同じである。背の上は平らでまっすぐに通り、人が往き来できる。寺の構造を見るには、南面して眺めるべきである。門は西に向かって出るようにする。そうして初めて真っすぐな構えとなる。門の南側、約二十歩のところにストゥーパがある。高さは百尺ほどで、これは世尊がかつて夏の三ヶ月を安居された場所である。梵語で「ムーラガンダクティ」といい、漢語では「根本香殿」と訳す。門の北側、五十歩ほどのところに、さらに大きなストゥーパがある。高さはこれより高い。これは幼日王が造ったものである。すべて煉瓦で作り、装飾は精妙である。金の床に宝の地、供養は希有である。中には如来が法輪を転じる像がある。次に、その西南に小さなストゥーパがある。高さ一丈余りで、これはバラモンが雀を捕まえて質問した場所である。漢語で「雀離浮図」というのが、これである。根本殿の西には、仏の歯木の木がある。柳ではない。その西側に戒壇がある。大きさは大尺で一丈余りである。平地に煉瓦の壁を巡らせて積み、高さは二尺ほどである。壁の中の座る基壇は、高さ五寸ほどである。中には小さなストゥーパがある。壇の東、殿の角には、仏が経行した基がある。煉瓦を積んで作ってある。幅は二肘ほど、長さは十四、五肘、高さは二肘余りである。その上に石灰で蓮華の開く様子を模してあり、高さは二寸ほど、幅は一尺ほどである。十四、五の仏足跡がある。この寺は、南に王城を望んで、わずか三十里である。霊鷲山や竹林精舎は、すべて城のそばにある。西南には大覚寺を望み、真南には尊足山がある。いずれも七駅である。北にはヴァイシャーリーがあり、二十五駅である。西には鹿野苑を望み、二十駅余りである。東にはタムラリプティ国があり、六、七十駅である。ここが海路で船に乗って唐に帰る場所である。この寺の僧衆は三千五百人。寺に属する村荘は二百一か所である。これらはすべて、代々の王が人戸を与えて、永く供養させるものである。 <note>駅は、一由旬に当たる。</note> 重ねて曰く。龍池亀洛、地は天の津を隔つ。路は遥かに馬を去り、道は来人を絶つ。故に伝説をして、その真を得ること希なり。形を模するに別の匠あり、軌製あらたに陳ぶ。古きを描きて、新しきを驚かすに髣たり。願わくば観る者の虔想、仏在して神を挙ぐるがごとくあれ。

## 大唐西域求法高僧傳卷上

> 大唐西域求法高僧伝 巻上