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title: "大唐西域求法高僧傳 · 荊州道琳法師"
description: "大唐西域求法高僧传由唐代高僧义净撰著。本书成于武则天时期，记录了唐代僧人前往印度求法的历史。书中详述了义净本人及数十位僧人的西行经历，包括旅途见闻、印度佛教状况及各地风土人情。作为研究唐代中西交通、佛教史和南亚历史的重要文献，它与法显的佛国记、玄奘的大唐西域记并称为中国古代三大求法行记，是了解早期佛教传播与文化交流的权威史料。"
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## 大唐西域求法高僧傳卷下并重歸南海傳

> 大唐西域求法高僧傳 巻下（南海伝も併録）

三藏法師義淨撰

> 三蔵法師義浄撰

道琳法師者。荊州江陵人也。梵名尸羅鉢頗唐云戒光弱冠之年披緇離俗。成人之歲訪友尋真。搜律藏而戒珠瑩啟。禪門而定水清。稟性虛潔雅操廉貞。濯青溪以恬志漱玉泉而養靈。既常坐不臥一食全誠。後復慨大教東流時經多載。定門鮮入律典頗虧。遂欲尋流討源遠遊西國。乃杖錫遐逝鼓舶南溟。越銅柱而屆郎迦。歷訶陵而經裸國。所在國王禮待極致殷厚。經乎數載到東印度耽摩立底國。住經三年學梵語。於是捨戒重受。學習一切有部。律非唯學兼定慧。蓋亦情耽呪藏。後乃觀化中天頂禮金剛御座菩提聖儀。復至那爛陀寺。搜覽大乘經論。注情俱舍。經於數年。至於鷲嶺杖林山園鵠樹。備盡翹仰並展精誠。乃遊南天竺國搜訪玄謨。向西印度於羅荼國住經年稔。更立靈壇重稟明呪。嘗試論之曰。夫明呪者梵云毘睇陀羅必棏丁澤反家。毘睇譯為明呪。陀羅是持。必棏家是藏。應云持明呪藏。然相承云此呪藏。梵本有十萬頌。唐譯可成三百卷。現今求覓多失少全。而大聖沒後阿離野那伽曷樹那。即龍樹菩薩。特精斯要。時彼弟子厥號難陀。聰明博識漬意斯典。在西印度經十二年。專心持呪遂便感應。每至食時食從空下。又誦呪求如意瓶。不久便獲。乃於瓶中得經歡喜。不以呪結其瓶遂去。於是難陀法師恐呪明散失。遂便撮集可十二千頌。成一家之言。每於一頌之內。離合呪印之文。雖復言同字同實乃義別用別。自非口相傳授而實解悟無因。後陳那論師見其製作巧殊人智思極情端。撫經歎曰。嚮使此賢致意因明者。我復何顏之有乎。是知智士識己之度量。愚者闇他之淺深矣斯之呪藏東夏未流。所以道琳意存斯妙。故呪藏云。升天乘龍役使百神。利生之道唯呪是親。淨於那爛陀。亦屢入壇場希心此要。而為功不並就。遂泯斯懷為廣異聽。粗題綱目云爾。道琳遂從西境轉向北天。觀化羯濕彌羅。便入烏長那國。詢訪定門搜求般若。次往迦畢試國禮烏率膩沙佛頂骨也自爾之後不委何託。淨迴至南海羯荼國。有北方胡至云。有兩僧胡國逢見。說其狀跡應是其人。與智弘相隨擬歸故國。聞為途賊斯擁還乃覆向北天。年應五十餘矣。

> 道琳法師は、荊州江陵の出身です。梵名を尸羅鉢頗といい、<note>唐でいう戒光のこと</note>二十歳の頃に出家し、世俗を離れました。成年してからは友人を訪ね、真理を求めました。律蔵を学び、戒の珠を磨き清め、禅門に入り、定の水を澄ませました。その性質は虚ろで清らか、行いは廉く貞らかであり、清らかな小川に心をなごませ、玉のような泉で魂を養いました。いつも座ったままで横にならず、一食だけで身心を清く保ちました。 その後、仏法が東方に広まって以来、長い年月が経ったが、禅定の門に入る者は少なく、律典も欠けていることに慨嘆し、源流を求めて西方の国へ遠く旅立とうと決意しました。そこで杖を携えて远方へ赴き、船を南の海へ進めました。銅柱を越えて郎迦に至り、訶陵を経て裸国を歴訪しました。訪れた国の王たちは、極めて手厚く彼をもてなしました。数年を経て、東インドの耽摩立底国に到着しました。そこに三年間滞在し、サンスクリット語を学びました。そして戒を捨て、再び受戒しました。一切有部の律を学びましたが、ただ律を学ぶだけでなく、定や慧も兼ね備え、さらには陀羅尼の蔵にも深く心を寄せました。 その後、中インドへ赴き、金剛御座や菩提聖儀を礼拝しました。さらに那爛陀寺に至り、大乗の経論を広く求めました。特に俱舎論に心を注ぎ、数年を費やしました。霊鷲山、杖林、山園、鵠樹に至っては、すべて心から敬い、精進の誠を尽くしました。そして南インドを巡って玄理を探し求め、西インドの羅荼国には一年以上滞在しました。さらに霊場を設け、改めて真言の教えを授かりました。 試みにこれについて論じましょう。真言とは、サンスクリット語で毘睇陀羅必棏<note>丁澤反</note>家といいます。毘睇は「明呪」と訳し、陀羅は「持つ」、必棏家は「蔵」です。つまり「持明呪蔵」とすべきです。伝承によれば、この呪蔵のサンスクリット原典は十万頌あり、唐で訳せば三百巻になります。現在探し求めると、多くは失われて一部しか残っていません。しかし、大聖が入滅された後、阿離野那伽曷樹那、すなわち龍樹菩薩が、この法要を特に極めました。その弟子で難陀と名乗る者がいました。聡明で博識、この経典に深く心を注ぎました。西インドで十二年もの間、一心に真言を唱え、ついに感応を得ました。食事の時になると、食べ物が空から降りてきました。また、如意瓶を求めて真言を唱え、間もなく手に入れました。瓶から経典を取り出して喜びましたが、呪文で瓶を封印しなかったため、瓶は去ってしまいました。 そこで難陀法師は、真言が散逸することを恐れ、約一万二千頌を編集して一家の学問を成しました。一つの偈頌の中に、真言と印の文を離合集散させています。言葉や文字は同じでも、その意味や用途は異なります。口伝によらなければ、実際に悟ることはできません。後に陳那論師がその著作を見て、技巧は人の知恵を極め、情理の極みであると賞賛し、経典を撫でて嘆きました。「もしこの賢者が因明に心を注いだならば、私など面目も立つまい」と。ここから、智者は自らの器量を知り、愚者は他者の深浅を理解しないことが分かります。 この呪蔵は、東方の国にはまだ伝わっていません。道琳がこの妙法に関心を抱いた所以です。呪蔵にこうあります。「天に昇り龍に乗り、百神を自在に操る。衆生を利益する道は、ただ真言に親しむことにある」と。浄は那爛陀寺でも、たびたび壇場に入り、この法要に心を寄せました。しかし、功績を共に成し遂げることができず、ついにこの志は絶えました。広く異なる説を聞くために、大まかに綱目を記した次第です。 道琳は、西インドから北インドへ転じ、羯濕彌羅を巡り観察し、烏長那国に入りました。禅定の門を尋ね、般若を求めました。次に迦畢試国に行き、烏率膩沙<note>仏の頂骨</note>を礼拝しました。その後、彼がどこへ赴いたのかは分かりません。浄が南海の羯荼国に至った時、北方の胡人が来て言いました。「二人の僧が胡国で会った。」その姿形から、道琳であろうということです。智弘と一緒に故国に帰ろうとしましたが、道中で賊に遭い、北インドへ引き返したと聞きます。年は五十歳を超えていたでしょう。