御製逍遙詠序 輕
御製逍遙詠序 軽
玄元大道理包深遠。
玄元の大道は、その理が深遠を包み込んでいる。
(玄元者虛極之妙本天地之元精淳湛一真凝然本寂所以伯陽宗其至道教演五千囊括虛無可謂深遠矣)。
逍遙至論義貫精微。
逍遥の論は、義理を貫き精微に至る。
(逍遙者懸解之名冲虛曠達之義大鵬翔乎寥廓至人遊於無為放意於自得之場別物物任其性乃可妙契三無化周六合使澆漓之俗復淳朴之風精微之𣅀其在於斯)。
逍遙とは、束縛から解き放たれた境地を指し、心が広く自由で、何ものにもとらわれないという意味です。大鵬が広大な空を翔け、悟りを開いた者は無為の世界に遊びます。自らが得た境地に心を解き放ち、あらゆる物事をその本性のままに任せることができてこそ、三つの無(無為・無心・無我)を深く理解し、天地四方を包み込むような境地に至ることができます。これによって、薄れた風俗を再び素朴で純粋なものとし、精妙で深遠な真理は、まさにここにあるのです。
朕聽覽之餘留心緗帙。
私は書物を読みながら、心を込めて学びを深めています。
(万機之餘不倦披覽雖漢武乙夜觀書無以過也)。
政務の合間にも飽くことなく書物を読みふけられました。漢の武帝が深夜に書物を読んだとしても、これには及ばないほどです。
三墳五典頗識指歸。
三墳五典の大意は、おおよそ理解している。
(三墳者三皇之書二皇之道大於五帝五典者五帝之書五帝之道可以常行是以聖人皆達指歸妙盡其要者也)。
三墳とは三皇の書であり、二皇の道は五帝よりも偉大である。五典とは五帝の書であり、五帝の道は常に実践できるものである。そのため聖人たちは皆、その真意を理解し、その要諦を極めたのである。
金匱玉凾亦探玄奧。
金匱玉函もまた玄奥を探る。
(金匱玉凾者太公黃石公所菩秘法也皆論六韜三略富國安民養生鍊神機權要妙雖其淵契盡皆探賾矣)。
金匱玉凾とは、太公望や黄石公が秘蔵した奥義の書です。そこには六韜や三略が論じられ、国を豊かにし民を安んじ、心身を養い精神を鍛え、機微に通じた要諦が記されています。その深遠な智恵は、あらゆる奥義を探り尽くしたものと言えるでしょう。
嘗念寡昧於道不達罔測津涯故發此詠題庶幾明白坦然矣。
私は、道についての理解が浅く、その深遠な境地を測り知ることができないことを常に感じてきました。そこで、この詩を詠むことで、少しでも道が明らかになり、心が平らかで穏やかになることを願っています。
(夫欲明至道之極故著逍遙歌詠以暢宸襟而猶道成不宰謙卑益光遂發以罔測之辤尚假以庶幾之語故老子云江海能為百谷王宥以其善下故也)。
至高の道の極みを明らかにしようとすれば、自由自在な歌を詠んで心をのびのびと解き放つ。それでもなお、道が成就しても支配せず、謙虚で低くあれば光はますます輝く。そこで測り知れない言葉を発し、なお庶民にも分かるような言葉を借りる。老子も言う、「江海は百谷の王たり得るのは、その善く下るを以ての故なり」と。
夫道之妙也五行能之運化。
道の妙なるものは、五行がそれを行い運化する。
(道本冲寂應用無方妙在卷舒成乎變化故在天曰五星在物曰五行經緯彝倫招蘓品彚也)。
道は本来、静かで深遠なものですが、その働きは無限に広がり、自在に伸び縮みし、変化を生み出します。天にあっては五星となり、物にあっては五行となり、秩序を整え、あらゆるものを生み出します。
三才可以變通。
(三才著象皆從其道道變無窮乃道乎天地人也)。
三才の象は、すべてその道に従って現れます。道は無限に変化します。これこそが、天と地と人における道なのです。
虎嘯龍吟陽唱陰和。
虎は咆哮し、龍は吟じ、陽は歌い、陰は和す。
(此明至道自然之理且龍者水畜雲者水氣虎者陰物風者陰精以類相召自相符契故易云同聲相應同氣相求此其義也)。
これは、至極の道が自然の理に従うことを明らかにするものです。龍は水に棲む生き物であり、雲は水の気です。虎は陰の性質を持つ生き物であり、風は陰の精です。同じ種類のものは互いに引き合い、自然に調和し合うのです。ですから『易経』にも「同じ声は互いに響き合い、同じ気は互いに求め合う」とあります。これがその意味するところです。
窮其秘也神明可辯於情狀。
その奥義を極めれば、心の動きは明らかに見えてくる。
(道之秘也神全形具體與物𡨋原始要終窮理盡性推其情狀何深奧之不達哉)。
究其精也剛柔自符於易簡。
その本質を究めれば、剛と柔は自然と易簡に調和する。
(廓然無間妙極太虛晝夜以之晦明寒暑因而來往所以𠃵剛坤柔自合易簡俾不為而善始不勞而善成苟非道之至微孰能詳放此乎)。
広大にして隙間なく、妙なる極みは大空の如し。昼と夜はこれによって明暗をなし、寒さと暑さはこれに従って往来する。それゆえ、剛健なる天と柔順なる地は、自ずと易簡の理に合い、無為にして善く始まり、労せずして善く成し遂げる。もし道の極めて微妙なるものでなければ、誰がこの理を詳らかに説き明かすことができようか。
而惑者昧於修己攻乎異端俟駕鶴而𩥵鸞猶繫風而捕影。
しかし、迷いの者は自らの修養を疎かにし、異端の説に心を奪われ、鶴に乗り鸞を追うことを待ち望みながら、まるで風を縛り影を捕らえようとするかのようです。
(蒙昧之人不達至道謂神仙之可學顧囂塵而欲棄或置盤承露或築臺通天求𲌂駕鸞鶴亦猶繫風捕影不可得而及也)。
蒙昧な人は、真実の道を理解せず、仙人になれると信じて、世俗を捨てようとします。ある者は盤を置いて露を集め、ある者は天に届く台を築き、龍や鳳凰に乗ろうとしますが、それはまるで風を縛り、影を捕まえるようなもので、到底叶わぬことです。
老氏五千之旨尚不述於神仙。
老子の五千言の教えでさえ、神仙の道については語られていません。
(老子所著五千言且不述神仙之事但欲顯道之玄極歸乎真源者矣)。
老子が著した五千の言葉は、神仙のことを述べず、ただ道の玄妙な極みを明らかにし、真実の源に帰ろうとするものである。
莊周九萬之談理更超於言象。
荘子が語る九万里の大鵬の話は、言葉や形を超えた深い真理を説いています。
(南華云北溟有鵾化而為鵬九萬一程六月一息盖舉其至大以類至散皆齊物理也是知事契精微理超言象誠哉莊生所諭實至道之樞要逍遙之妙旨也)。
先賢穎脫皆知道而不言。
先人たちは皆、道を知りながらも語らなかった。
(自昔達道之士既知道在於我所以不言老子云知者不言斯不誣矣)。
古より道を極めた人々は、すでに道が自分自身の中にあることを知っていた。だからこそ言葉にしなかったのだ。老子が「真に知る者は語らない」と言うのは、まさにその通りである。
庸愚困蒙豈希顏而議學。
愚かで無知な者が、どうして顔を上げて学問を論じられようか。
(庸昧之者妄學神仙有類希顏欲齊亞聖不亦遠乎)。
凡庸で愚かな者が、むやみに仙人の術を学ぶのは、顔回のような聖人に並ぼうとするのに似て、聖人に匹敵しようとするのは、あまりにも遠く離れているのではないでしょうか。
昔秦始皇邪見所惑徒望蓬萊。
昔、秦の始皇帝は邪な見解に惑わされ、ただ蓬莱を望んだだけだった。
(始皇帝為邪所惑道德不修妄學神仙欲求度世遂遣徐福往彼蓬萊採其靈藥徐福以無驗而不返始皇猶未悟而懸望矣)。
漢武帝民力是輕莫尋員嶠。
(漢武神智獨穎英武無倫尤好方士禱祈山岳後感王母降於帝宮授以六甲辰生之訣自謂必登仙品芥視黎甿崇峻臺館坈戮降服既失上仙之誡莫尋貪嶓之靈矣)。
斯皆不修仁德求利好貪。
(守位曰仁好生曰德既殫民力復慕仙遊比轅適越良可悲矣)。
事蓋不經良足太息。
(事不師古動越典經百世之後斯過不泯誠堪太息者哉)。
今之所述其殆庶乎。
(殆近也庶幾道也今茲所製或象陰陽則𠃵坤而演妙或明金水法离坎以談玄追莊老清淨之遐蹤継藏軒淳元之絕䡄近乎至道樂矣大方且非慕彼神仙之術也)。
或近取諸身。
(或內養純和之氣靜修真一之心動合靈源咸歸妙本也)。
或遠取諸物。
(或以日精月華鈆水金液託其象而成其言也)。
其詣理也不可以一途執。
(窮其理也則必有所詣詣其理者乃能成天下之務也至若適時知變在乎幾也又焉可以一途而執哉)。
其筌意也不可以一理求。
(徵其意也則必因於筌筌其意者乃能通天下之志也至若窮神極化在乎深也又焉可以一理而求哉)。
探𧷤幽微。
(探𧷤之妙通幽洞微)。
㕘詳法度。
(極思㕘詳規矩法度)。
智者見之謂之智仁者見之謂之仁。
(俾夫智者覽逍遙之旨則動而無窮也仁者得逍遙之道則澹乎無為也)。
玄覽而可以照三清。
(上清玉清太清謂之三清也玄覽心照也混尓真心朗然玄照越彼三天之上也)。
旁行而可以通萬有。
(不疾而速未兆而萌仁智之所莫拘動靜之所一致既周行無礙又何萬有而不通哉)。
夫詩頌歌辭華而不實。
(汎而論之不務其實則或傷於華也)。
上不足以補時政之闕失。
(時政之本務求其實必尚華言終無所補也)。
次不足以救蒼生之弊病。
(欲彼黎元咸躋富壽者義存道本也必尚彼浮詞誠不足以救蒼生之弊病矣)。
假有獨擅其名弗精於用。
(辭也者所以通萬物之情也假有專其述作之名昧彼述作之用所謂華而不實也)。
義同畫餅棄不足珍。
(文彩燦然形容儼若但堪恱目何可充膓就不足珍也)。
爭如立至當之言以濟於時世者哉。
(夫聖人之意其不可得而見也故觀之於象而形之於言應時之所求合世之所望義存精當妙在長生也)。
所以姑務契理不取於文。
(且務契彼真一之理故不取於藻麗之文)。
貽尓方來悟夫懸解者矣。
(庶幾貽厥將來好古博雅之上悟夫逍遙懸解之旨也)。
御製逍遙詠卷第一(五言)