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華厳経義海百門 (華嚴經義海百門)

「華嚴經義海百門」について

唐 · 法藏述 著

1.3 万字 · 約 43 分

唐代の高僧・法蔵によって著された『華厳経義海百門』は、華厳宗の重要な論釈典籍です。本書は『華厳経』を根本とし、法界縁起、事事無礙、十玄六相といった核心的な教義を体系的に解き明かし、円融して尽きることのない宇宙観を展開しています。華厳宗の事実上の開祖である法蔵は、この書を通じて華厳哲学の理論的枠組みを構築し、中国仏教思想に深遠な影響を与えました。この著作は、華厳宗の教義を研究する上での鍵となる文献であるばかりでなく、中国仏教哲学の頂点をなす作品とも称され、華厳の教義の大海へと通じる扉を開く鍵と讃えられています。


緣生會寂門第一

縁生会寂門 第一

夫緣起萬有。有必顯於多門。無性一宗。宗蓋彰於眾德。分其力用。則卷舒之趣易明。覽其玄綱。則理事之門方曉。今就體用而言。略分十義。

縁起によってすべてのものは存在します。存在するものは必ず様々な側面に現れます。無自性という一つの教えは、さまざまな徳を明らかにするものです。その働きを分けて見れば、広げたり縮めたりする趣旨がわかりやすくなります。その深遠な要綱を眺めれば、理と事の関係が明らかになるでしょう。さて、ここでは体と用について述べるにあたり、大まかに十の意味に分けて説明します。

一明緣起 二入法界 三達無生四觀無相 五了成壞 六示隱顯七發菩提 八開涅槃 九推去來十鑑動靜

一、縁起を明らかにする 二、法界に入る 三、無生を達する 四、無相を観ずる 五、成壊を了する 六、隠顕を示す 七、菩提を発する 八、涅槃を開く 九、去来を推す 十、動静を鑑みる

初明緣起者。如見塵時。此塵是自心現。由自心現。即與自心為緣。由緣現前。心法方起。故名塵為緣起法也。經云。諸法從緣起。無緣即不起。沈淪因緣。皆非外有。終無心外法。能與心為緣。縱分別於塵。亦非攀緣。然此一塵圓小之相。依法上起。假立似有。竟無實體。取不可得。捨不可得。以不可取捨。則知。塵體空無所有。今悟緣非緣。起無不妙。但緣起體寂。起恒不起。達體隨緣。不起恒起。如是見者。名實知見也。

まず、縁起について説明します。例えば、私たちが「塵(物質的な対象)」を見るとき、この塵は心が自ら現したものです。心が自ら現したものであるからこそ、心自身と縁(関係)を結びます。その縁が目の前に現れることによって、心の働きが生じます。だからこそ、塵を「縁起の法」と呼ぶのです。

経典にはこうあります。「すべての現象は縁(原因と条件)によって生じる。縁がなければ生じない。」私たちの迷いや苦しみの原因も、すべて外側にあるのではありません。心の外に存在する法が、心と縁を結ぶことなど決してないのです。たとえ塵に対して分別(区別する心)を起こしても、それは本当の「攀縁(対象に執着して捉えること)」ではありません。

しかし、この一つの塵という、丸くて小さな姿は、縁に依存して現れたものです。仮に名前を立てて「存在する」ように見えますが、実際には実体はありません。つかもうとしてもつかめず、捨てようとしても捨てられません。つかむことも捨てることもできないことから、塵の本体は空(くう)であり、何もないと知るべきです。

今、悟れば、「縁」といっても本来は縁ではなく、「起こる」といってもすべては妙(不思議)であると理解できます。縁起の本体は静寂そのものであり、起こっているようでいて、実は常に起こっていないのです。この本体が縁に従って動くことを理解すれば、起こらないようでいて、常に起こっていると知ることができます。このように見ることを、「真実の智慧による見方」というのです。

二入法界者。即一小塵。緣起是法。法隨智顯。用有差別。是界此法。以無性故則無分齊。融無二相。同於真際。與虛空界等遍通一切。隨處顯現無不明了。然此一塵。與一切法各不相知。亦不相見。何以故。由各各全是圓滿法界。普攝一切更無別法界。是故不復更相知相見。縱說知見。莫非法界知見。終無別法界可知見也。經云。即法界無法界。法界不知法界。若性相不存。則為理法界。不礙事相宛然。是事法界。合理事無礙。二而無二。無二即二。是為法界也。

「法界に入るとは」とは、例えば一つの微細な塵(ちり)にも、すでに縁起の道理が備わっている。この縁起こそが「法」であり、心の働きに応じて智慧が顕われ、そのはたらきには様々な違いがある。これを「界」と名づける。この「法」は、本来実体がないため、区切りや限界を持たない。融け合って二つの相がなく、真実の際(きわみ)と等しく、虚空界のようにすべてに平等に満ち渡る。どこにでも現れ、明らかに照らし出されないところはない。

しかしながら、この一粒の塵は、あらゆる法と互いに知り合うことも、見合うこともない。なぜか。それぞれが完全に円満な法界そのものであり、すべてを包括して他に別の法界がないからである。したがって、あらためて互いに知ったり見たりすることはない。仮に「知る」「見る」と言っても、それはすべて法界の知覚であり、法界を超えた別の知覚の対象は存在しない。

経典にはこう説かれている。「すなわち法界であって、法界というものはない。法界は法界を知らない。」と。もし性質や形相への執着がなければ、それが理法界である。しかし、現象のありさまを妨げず、そのまま明白に存在するのが事法界である。理と事が妨げ合わず、しかも二つでありながら二つでなく、二つでないことがそのまま二つであること、これを法界というのである。

三達無生者。謂塵是心緣。心為塵因。因緣和合。幻相方生。由從緣生。必無自性。何以故。今塵不自緣。必待於心。心不自心。亦待於緣。由相待故。則無定屬緣生。以無定屬緣生。則名無生。非去緣生說無生也。論云。因不自生。緣生故。生緣不自生。因生故。生今由緣生。方得名生。了生無性。乃是無生。然生與無生。互成互奪。奪則無生。成則緣生。由即成即奪。是故生時無生。如是了者。名達無生也。
四觀無相者。如一小塵圓小之相。是自心變起假立無實。今取不得。則知。塵相虛無。從心所生。了無自性。名為無相。經云。諸法本性空。無有毫末相。然相雖取不得。詮無之義非絕。以相無體性法即立。以法為無相之佐由不失法相故。相即非相。非相即相。相與無相。實無差別也。此無相義。如繩上蛇。全言無蛇。當知。繩是無蛇之依。今法是無相之法。全以法為無相之相也。
五了成壞者。如塵從緣起立是成。即體不作於塵是壞。今由了緣非緣。乃名緣成。了壞非壞。乃名緣壞。以壞不妨始成於法。是故壞時正是成時。以成無所有。是故成時。正是壞時。皆同時成立。無先無後。若無壞即成。是自性有。若無成即壞。是斷滅空。成壞一際。相由顯現也。
六示隱顯者。若觀塵相不可得時。即相盡而空現。由見相時不即於理。是故事顯而理隱。又此塵與諸法。互相資相攝。存亡不同。若塵能攝彼。即彼隱而此顯。若彼能攝塵。即塵隱而彼顯。隱顯一際。今但顯時。已成隱也。何以故。由顯時全隱而成顯。隱時全顯而成隱。相由成立。是故隱時。正顯顯時正隱也。
七發菩提者。謂此塵即寂滅涅槃無性乃是佛菩提。智所現故。今由了達一切眾生及塵毛等無性之理。以成佛菩提智故。所以於佛菩提身中。見一切眾生成正覺轉法輪也。又眾生及塵毛等。全以佛菩提之理成眾生故。所以於眾生菩提身中。見佛發菩提心修菩薩行。當知。佛菩提更無異見。今佛教化塵內眾生。眾生復受塵內佛教化。是故佛即眾生之佛。眾生即佛之眾生。縱有開合。終無差別。如是見者。名發菩提心。起同體大悲。教化眾生也。
八開涅槃者。謂不了塵顯迷顯為生。復見塵隱迷隱為滅。即依流動生滅之相。緣於塵上。迷心變起。謂是真實。今求生滅之相。竟無起處。亦無可得。動念自亡。妄想皆滅。隨其滅處。名大涅槃。故經云。流轉是生死。不動名涅槃。
九推去來者。謂塵隨風東去時。求去相不可得。隨風西來時。求來相亦不可得。皆唯塵法。竟無來去之相。以無實故。來時無所從來。去時亦無所去。經云。法無去來。常不住故。良以了塵去來無體。所以去來即無去來。無去來而恒來去。一際成立。無有彼此之差別。是故經云。菩薩不來相而來。不去相而去。所以不移塵處。而詣十方。恒不離十方。而入塵處。恒不來去。而來去之量。等於法界也。
十鑒動靜者。謂塵隨風飄颻。是動寂然不起是靜。今靜時由動不滅。即全以動成靜也。今動時由靜不滅。即全以靜成動也。由全體相成。是故動時正靜。靜時正動。亦如風本不動能動諸物。若先有動。則失自體。不復更動思之。
然上諸義緣生既立。理不合孤窮萬有以為同括。無盡而成總。若尋其奧。雖處狹而常寬。欲究其淵。縱居深而逾淺。緣起之義其大矣哉。

華嚴經義海百門序
2 實際斂跡門

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