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華厳経明法品内立三宝章 (華嚴經明法品內立三寶章)


圓音章

円音の章

圓音義略作四門分別。一舉義。二決擇。三會違。四辨釋。初中有二。一謂如來能以一音。演說一切差別之法。所謂貪欲多者。即聞如來說不淨觀。如是等乃至一切故名圓音。是故華嚴云。如來於一語言中。演說無邊契經海。二謂如來一音。能同一切差別言音。謂諸眾生各聞如來唯己語故。華嚴經云。一切眾生語言法。一言演說盡無餘。

円満の音の義を、略して四つの門に分けて説明する。第一に義を挙げる、第二に選択する、第三に違う点を調和する、第四に解釈する。

初めの二つについて。第一に、如来は一つの音で、あらゆる差別のある法を説き示すことができる。例えば、貪欲の多い者には如来が不浄観を説くのを聞く、といった具合である。このようにして全てに及ぶので、円満の音と名づける。ゆえに『華厳経』には「如来は一つの言葉の中に、限りない経典の海を説き示す」とある。

第二に、如来の一つの音は、全ての異なる言語音声と同一となることができる。なぜなら、全ての衆生が、それぞれ如来が自分だけの言葉で語っていると聞くからである。『華厳経』には「一切の衆生の言語の法を、一つの言葉で説き尽くして余すことがない」とある。

第二決擇者。或有說言。如來於一語業之中。演出一切眾生言音。是故令彼眾生各聞己語。非謂如來唯發一音。但以語業同故名曰一音。所發多故名曰圓音。或有說言。如來唯發一梵言音。名為一音。能為眾生作增上緣。令其所作感解不同。故名圓音。非謂如來有若干音。或有說言。如來唯一寂滅解脫離相言音。名為一音。而諸眾生機感力故。自聞如來種種言音。故名圓音。非謂如來音有一有多。問此上三說何得何失。答若別偏取。三俱有失。何者。初說但多無一音故。次唯一語無多音故。後唯無惟非音義故。如實義者。三說合為一圓音義。何者。若彼多音不即一音。此但多音非是圓義。以彼多音即一音故。鎔融無礙名作圓音。若彼一音不即一切。但是一音非是梵音。以彼一音即多音故。融通無礙名一梵音。若此等音。不即無性同真際者。是所執故非如來音。以彼音等離作故。無性故如響故。所以法螺恒震妙音常寂故也。

第二の決択について。ある人はこう言う。「如来は一つの言葉の働きの中から、あらゆる衆生の言葉や音声を出現させる。それによって、それぞれの衆生は自分の言葉を聞くことができる。決して如来がただ一つの音だけを発しているわけではない。しかし、その言葉の働きが同一であるから『一音』と呼び、発せられる音声が多いから『円音』と呼ぶのである」。

また別の人はこう言う。「如来はただ一つの梵音(清らかな声)だけを発し、それを『一音』と呼ぶ。それが衆生にとっての縁となり、それぞれの修行や理解に応じて異なって受け取られる。そのため『円音』と呼ぶのであって、如来に多くの異なる音声があるわけではない」。

また別の人はこう言う。「如来は唯一の、寂滅・解脱・相を離れた言葉の音声を発し、それを『一音』と呼ぶ。衆生がそれぞれの機根や感応の力によって、如来のさまざまな言葉の音声を自ら聞くのであり、それを『円音』と呼ぶ。如来の音声に一つや多いという区別があるわけではない」。

問う。これら三つの説の、どこが正しくどこが誤りか。

答える。それぞれを別々に偏って取れば、三つとも誤りがある。なぜか。最初の説は、音声が多いばかりで「一音」の意味が欠けている。次の説は、ただ一つの言葉だけで、多くの音声が欠けている。最後の説は、音声を無しとだけ見て、その意味を失っているからである。

真実の意味としては、三つの説を合わせて一つの「円音」の意味とする。なぜか。もし多くの音声が一つの音声と同一でなければ、それは単なる多音であり、円融の意味ではない。多くの音声がまさに一つの音声であるからこそ、融け合い妨げなく、これを「円音」と名づけるのである。もし一つの音声がすべての音声と同一でなければ、それはただ一つの音声に過ぎず、梵音ではない。一つの音声がまさに多くの音声であるからこそ、融通して妨げなく、これを「一梵音」と名づけるのである。もしこれらの音声が、無自性・真如の際(きわみ)と同一でなければ、それは執着に過ぎず、如来の音声ではない。なぜなら、これらの音声は作為を離れ、無自性であり、響きの如くであるからだ。それゆえに、法の法螺(ほら)は常に響き、妙音は常に静かであるのである。

第三會違者。如婆沙論中七十九卷說。世尊有時為四天王。先以聖語說四諦。二王領解二不能解。世尊憐愍故饒益故。以南印度邊國俗語說四諦。二天王中一解一不解。世尊憐愍。復一一種蔑戾車語說四聖諦時。四天王皆得領解。問若以一音異類解。後二天王何不同解。答彼論釋云。彼四天王意樂不同。為滿彼意故佛異說。復次世尊欲顯於諸言音皆能善解。斷彼疑故。復次有所化者。依佛不變形言而得受化。又所化者依佛轉變形言而得受化。依佛不變形言而受化者。若轉變形言而為說法。彼不能解。如說佛在摩竭陀國。為度池堅步行十二由旬。七萬眾生皆得見諦云云。依佛轉變形言而受化者。若不變形言而為說法。彼不能解。是故世尊作三種語為四王說法。准上三釋義理可通。並由眾生宜聞有異。故不相違。

第三の会(違う点について)。例えば『婆沙論』第七十九巻に説かれている。世尊が時に四天王のために、まず聖語(サンスクリット語)で四諦を説かれた。すると二人の天王は理解したが、残りの二人は理解できなかった。世尊は憐れみと利益の心から、南インドの辺境の国の俗語で四諦を説かれた。すると二人の天王のうち、一人は理解し、一人は理解しなかった。世尊はさらに憐れみ、別の蔑戾車(ミレッチャ、未開語)で四聖諦を説かれたところ、四天王全員が理解できた。

問う:もし一つの音声で異なる類の者が理解するのなら、後の二人の天王はなぜ同じように理解しなかったのか。 答える:その論の解釈によれば、四天王の好み(意楽)が異なっていたためである。彼らの意に沿うために、仏は異なる説き方をされたのである。また、世尊はあらゆる言語を巧みに理解できることを示し、彼らの疑惑を断つためである。さらに、仏の変わらぬ言葉の形によって教化される者もいれば、仏が言葉の形を変えて教化される者もいる。仏の変わらぬ言葉の形によって教化される者は、もし言葉の形を変えて説法されると、理解できない。例えば、仏が摩竭陀国で、池堅を度するために十二由旬を歩いて行かれたところ、七万の衆生が皆、真理を見た(見諦)という。一方、仏が言葉の形を変えて教化される者は、もし言葉の形を変えずに説法されると、理解できない。そのため、世尊は三種類の言葉で四天王のために説法されたのである。以上の三つの解釈に照らせば、道理は通じる。すべて衆生の聞くにふさわしいものが異なるからであり、矛盾することはない。

第四辨釋者有二。一明分齊。二顯利益。初中佛一言音普遍一切。謂一切處一切時一切法等。根熟之者無遠不聞。根未熟者近而不聞。言遍一切處者。如智論目連尋聲極遠如近故。二遍一切時謂此圓音盡未來際。未曾休息。三遍一切法。無有一法非圓音所宣說者。四遍一切眾生。謂此圓音無有根器而不開覺。若爾何故。鶖子在座如聾不聞。釋非謂圓音能至所聞。亦能至此不聞之處。故名遍至。問此若普遍。何成語音屈曲詮表。設爾何失。二俱有過。何者。此若等遍失音曲故。如其存屈曲非等遍故。今釋若由等遍失其音曲。是圓非音。若由屈曲乖其等遍。是音非圓。今則不壞曲而等遍。不動遍而差韻是謂如來圓音。非是心識思量境界。二利益者。若依小乘如來言音未必一切皆有利益。如佛問阿難天雨等。非是法輪音聲所攝。若大乘等中。如來所發世俗言音。無不皆成大利益故。如佛入城唱乞食聲。令城同聞俱獲利益故。經云。諸佛音聲語言威儀進止無非佛事。

第四に、解釈を述べる。初めに二つある。一つは範囲を明らかにすること、二つ目は利益を示すことである。 初めに、仏の一つの音声はすべてに普遍するとは、一切の場所、一切の時、一切の法などにおいてである。根機が熟した者には遠くても聞こえずということはなく、根機が未熟な者には近くても聞こえないということである。「一切の場所に遍する」とは、例えば『大智度論』にあるように、目連が音声を尋ねて極めて遠くに至っても近くの如くであるということである。 二つ目に、「一切の時に遍する」とは、この円かなる音声は未来際を尽くして、休むことがないということである。 三つ目に、「一切の法に遍する」とは、一つの法として、この円かなる音声によって説かれないものはないということである。 四つ目に、「一切の衆生に遍する」とは、この円かなる音声によって、根器のある者で開悟しない者はいないということである。 では、なぜ鶖子(シャーリプトラ)は座にいても聾の如く聞こえなかったのか。 答えは、円かなる音声が聞こえるところに及ぶだけでなく、聞こえないところにも及ぶからである。それゆえに「遍く至る」と名付けるのである。 問う:もしこれが普遍ならば、どうして言葉の音声が曲がりくねって、物事を表し示すのに適するのか。もし仮にそうだとすれば、どのような過失があるのか。二つとも過失がある。 何故なら、もしこれが等しく遍するならば、音声の曲がりくねりを失う。もし曲がりくねりを保つならば、等しく遍することに反するからである。 今ここで説くのは、もし等しく遍することによって音声の曲がりくねりを失うならば、それは円かなれども音声ではない。もし曲がりくねりによって等しく遍することに背くならば、それは音声であれども円かではない。 今は、曲がりくねりを壊さずに等しく遍し、遍することを動かさずに韻律が異なる。これこそが如来の円かなる音声であり、心識や思量の及ぶ境界ではないのである。

二つ目の利益について。もし小乗に依れば、如来の言葉の音声は必ずしもすべてに利益があるとは限らない。例えば、仏が阿難に天の雨について問うたことなどは、法輪の音声には含まれない。 しかし、大乗などにおいては、如来が発する世俗の言葉の音声も、すべて大いなる利益を成すのである。例えば、仏が城に入って乞食の音声を唱えると、城中の者が共に聞いて皆利益を得る。 それゆえ、経典に「諸仏の音声や言葉、威儀、進むことも止まることも、仏の事業にあらざるはなし」と説かれているのである。


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法身章

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