No. 1434-A壽昌見如大師語錄序
寿昌见如大师语录 序
古德睦州尊宿。于其兒孫傳燈一派若寥寥也。而豫識臨濟以遮陰。激發雲門以轢鑽。雖濟嗣黃檗。門嗣雪峰。然其當機手眼。開先一著。實出睦州。竟成兩宗之兒孫咸其法派矣。而睦州不受其名也。如此作用。奚啻馬駒踏殺氣宇如王哉。余甞妄憶吾夫子。開源千古。包孕三才。而每於人不知處。不患不慍。一部論語重叠言之。其義何居。葢驗之智愚賢不肖。纔動口間。聞一不字。便為色變。而理學事功名儒碩。輔一爭異。同祖分左右。動成仇敵。可見求知一念。從俱生無明同來。縱使諸緣漸却。而此念慍患難以頓忘。古云。老莊未免于有。故每以無訓人。可見夫子未免于知。故屢以不患不慍訓人也。至於無言莫知之嘆。末後一語。輙歸之天。而一見老子。服為龍。遯世不悔歸之唯聖。屢空之旨獨許顏回。兩端之竭偕之鄙夫。此又莫知之歸宿處也。夫子果于知處立根否耶。壽昌之下。有見公者。親授證據。乃于沒踪跡處藏身。不立一字。不發一語。數十年矣。因與海岸居士。一言投契。露其本色。方知有見公也。及浪公歸掃壽昌之墖。欣然以法席相推。故余竊以睦州擬之。令公不遇海岸。則將口挂壁上。不值浪公。則終為古廟香爐去乎。救世婆心。殆不其然。海岸居士所至如博山。如瀛山。如天童。如徑山。何地不為宗門建幟。而壽昌一席。有浪公以為重。新法音所遍。總見公一人之力也。余讀公指據錄。無一字一句。不具殺刀活劒。令人進步無門。轉身有地。全機大用。具此錄中。而公夷然不屑也。龍德而隱。夫子服膺。世尊見之。必為默識矣。陳尊宿之擬。余自以為知言。不知海岸浪公作何證據也。干戈剝及床膚。不日當趨侍兩師。其以蒲鞋為行脚錢乎。貽公以博一咲。
古の徳ある睦州尊宿は、その法系において伝灯の流れがかろうじて絶えずに続いていた。しかし彼は、臨済が後に大きな庇護を受けることを予見し、雲門が厳しい修行を経て悟りを得るきっかけを作った。臨済は黄檗の法を継ぎ、雲門は雪峰の法を継いだが、その機転の利いた指導法や、最初の一歩を切り開く力は、実に睦州に由来する。結果として、二人の宗派の後継者たちは皆、睦州の法系に連なることとなった。それでいて睦州はその名声を欲しがらなかった。このような働きは、馬の子が勢いよく大地を駆け、気宇が王のように壮大であった故事に何と劣ろうか。
私はかつて、我が師である孔子を思った。彼は千古にわたり源泉を開き、天地人を包み込んだ。それでいて、人が自分を理解しないことを心配せず、また恨まないという教えを、『論語』の中で繰り返し述べている。その意味はどこにあるのだろうか。およそ、賢愚・善悪・優劣を問わず、人間は「わからない」という一言を聞いただけで、顔色を変えてしまう。理学や実学に優れた名儒たちでさえ、少しでも意見が異なれば、本来同じ祖を仰ぎながら派閥に分かれ、容易に敵意を抱く。これを見れば、「理解されたい」という一念が、生まれつきの無明(根本的な迷い)と共にあることが分かる。様々な因縁を徐々に手放せても、この「理解されたい」という思いと「恨む」心は、なかなか消え去るものではない。
昔の人は言う。「老子や荘子でさえ、『有』の立場を免れなかった。だから常に『無』を説いて人を教えたのだ。」これにならえば、孔子も「知」の立場を免れなかった。だから繰り返し「理解されなくとも恨まない」と教えたのだ。さらに、言葉を尽くしてもなお「我を知る者なし」と嘆き、最後には天に帰している。しかし、老子に会えば「龍のようだ」と敬服し、世を避けて悔いないことを聖人のみに帰し、「屡空(しばしば空になる境地)」の奥義をただ顔回だけに認め、両端を尽くすことを鄙夫(無学な者)と共に行うと言った。これこそが、誰にも理解されない境地の帰着点なのである。果たして孔子は「知」の根本に立っていたのだろうか。
寿昌派のもとに、見和尚という方がいた。彼は師から直接証明を受け、何の痕跡もないところに身を隠し、一字も立てず、一言も発せずに数十年を過ごした。ところが海岸居士と意気投合し、自らの本色を露わにしたことで、初めて見和尚の存在が知られるようになった。やがて浪和尚が寿昌の塔を掃塔に帰り、喜んで法席を譲ろうとした。そこで私は密かに彼を睦州にたとえたのである。もし見和尚が海岸と出会わなければ、言葉を壁に掛けたままだっただろう。浪和尚に出会わなければ、結局は古びた祠の香炉のような存在に終わったのではないか。世を救う慈悲深い心は、おそらくそうではあるまい。
海岸居士が訪れた先々、例えば博山、瀛山、天童、径山など、どこであれ宗門の旗を掲げた。そして寿昌の一席には浪和尚が重んじられ、新たな法の響きが広まったのは、すべて見和尚一人の力によるものである。私は見和尚の『指拠録』を読んだが、一字一句に殺刀と活剣が備わり、人が進むべき道を塞ぎ、身を転じる余地を与える。全機大用はこの録の中にありながら、見和尚はそれを恬淡として顧みなかった。「龍の徳を持ちながら隠れる」、これを孔子は心に刻んだ。もし釈尊がご覧になれば、きっと黙して認められたことであろう。この陳尊宿(睦州)の比喩は、私は自分自身の的確な言葉だと思う。しかし海岸居士や浪和尚がどのような証明を与えるだろうか。戦乱が身の危険に及んでいる今、近いうちに両師の許に参じ、その蒲鞋(わらじ)を行脚の旅費としようか。この書を贈り、一笑に付していただきたい。
崇禎十一年戊寅中秋日。北京吏部尚書楚黃居士李長庚拜撰。