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仏説文殊師利現宝蔵経 (佛說文殊師利現寶藏經)

「佛說文殊師利現寶藏經」について

西晋 · 底本の訳者:竺法護

2.0 万字 · 約 65 分

仏説文殊師利現宝蔵経は、西晋の訳経家である竺法護によって漢訳され、初期大乗仏教の経典に属します。本経は、文殊師利菩薩が神通力をもって宝蔵を現じ、すべてのものの本質が空であり、得るべきものもないという中道の真実の姿を明らかにし、修行における般若智慧の核心的な地位を強調しています。経典の中では、対話と譬えを通して、菩薩がどのように智慧をもって世間を観察し、衆生を利益すべきかが説かれています。この経典は、文殊法門の理論体系を豊かにしただけでなく、漢伝仏教における般若思想と菩薩道の実践に重要な根拠を提供し、後世の禅宗などの宗派に深遠な影響を与えました。


佛說文殊師利現寶藏經卷上

仏説文殊師利現宝蔵経 巻上

西晉月氏三藏竺法護譯

西晋・月氏三蔵竺法護訳

聞如是:

このように私は聞きました:

一時,佛遊舍衛祇樹給孤獨精舍,與大比丘眾俱,比丘千二百五十,菩薩萬人。

ある時、仏様はシャーラバティ国(舎衛)の、ギータ林にある孤独な人々を助ける長者の精舎(祇樹給孤独園)におられました。そこには大勢の修行僧たちが共にいて、比丘は千二百五十人、菩薩は一万人もいました。

爾時,佛於迦利羅講堂上坐,與無央數百千之眾周匝圍繞而為說經。於是,文殊師利與五百菩薩,及諸天釋梵、四天王眷屬,俱詣佛所,稽首佛足,遶佛三匝,却坐一面。

その時、仏はカーリーラの講堂に座り、数えきれないほどの大勢の者たちに囲まれ、彼らのために教えを説いておられた。そこへ文殊師利が五百の菩薩や、多くの天の神々、梵天、四天王とその従者たちを連れて、仏のもとへやって来た。彼らは仏の足に額を付け、三度右に回ってから、一方に座った。

文殊師利白佛言:「向者世尊,為說何法?願天中天,尊崇所講。」
賢者須菩提承佛威神,白文殊師利:「向者世尊說弟子事,願今上人說菩薩行。」

賢者スブーティ(須菩提)は仏の威神力を受けて、文殊師利(もんじゅしり)にこう言った。

「先ほど、世尊は弟子の修行についてお説きになりました。どうか、あなた様から菩薩の行いについてお話しいただけないでしょうか。」

文殊師利答須菩提:「一切弟子、緣覺所行,非菩薩器,焉用問為?」

文殊師利が須菩提に答えました。「すべての弟子や縁覚の行いは、菩薩の器にはふさわしくありません。なぜそれを尋ねる必要がありましょうか。」

曰:「願解說,審是器者,當聽受之。」

「どうか、お教えください。もしこれがふさわしい器であるならば、謹んでお聞きいたします。」

文殊師利答曰:「尊者須菩提!為知何者是器?云何非器?」

文殊師利は答えました。「尊い須菩提よ、どのような者が器(教えを受け入れるにふさわしい者)であるかを知っていますか。また、どのような者が器ではないのでしょうか。」

須菩提曰:「其諸弟子每以聲音而得解脫,我等豈知是器非器?今請問之,願樂欲聞。」

須菩提が申し上げました。「あの多くの弟子たちは、皆それぞれ声や音によって解脱を得てまいりました。私たちには、どの人が器であり、どの人が器でないのか、どうして見分けられましょう。どうか今、このことについてお尋ねいたします。ぜひともお聞かせいただきたく存じます。」

文殊師利答曰:「唯,須菩提!其有出於冥者,皆非佛法器;假使於冥為現照明亦不墮冥,救護眾生不與冥合,一切所有造佛法器。

文殊師利が答えました。「そうです、須菩提よ。暗闇から出てきた者は、みな仏法の器ではありません。しかし、暗闇の中にあって光明を現し、暗闇に堕ちることなく、衆生を救い護りながらも暗闇と一つにならない者こそが、一切の仏法の器となるのです。」

「又,須菩提!得限而學學法已成,視一切人,見不與取,其意恐懼心厭穢之,畏諸三界不以喜樂,則為非是諸佛法器。設御當來未行數千劫,周旋三界而無恐畏,於三垢而無心,欲樂於生死,譬如遊觀園囿、講堂歡悅一切,所有往來無有六事,是謂為佛法器。

また、須菩提よ。限られた範囲で学び、学びの法が成就した者が、全ての人々を見て、盗みを働かない者であっても、その心に恐れや嫌悪の念を抱き、三界(欲界・色界・無色界)を畏れて喜びを感じないならば、それは仏法の器(教えを受け入れる人)ではない。

もし未来の数千劫(非常に長い時間)にわたって、三界を巡りながらも恐れや畏れがなく、三つの煩悩(貪・瞋・癡)に心を惑わされず、生死の世界を楽しむこと、あたかも庭園や講堂を巡り歩いて喜び楽しむかのように、すべての往来に六つの障り(煩悩による障害)がないならば、それが仏法の器である。

「又,須菩提!菩薩現在愛欲而無欲樂,示現瞋怒而無恚害,示現愚癡而無闇冥,示現𣧑弊剛強屠魁而無塵垢。現在三界諸無御者為之正導,於憒亂中順而不荒,於貢高者謙卑為禮,為諸群生除其重擔,教授一切令三寶不絕,得三達智而普示現,此謂為是諸佛法器。」

また、須菩提よ。菩薩は欲望の中にありながら、欲望の楽しみを持たず、怒りを示しながらも害する心がなく、無知を示しながらも暗く愚かではなく、凶悪で粗暴な殺戮者を装いながらも、汚れをまといません。三界(この世界)にありながら、導く者のいない者たちのために正しい道を示し、混乱の中にあっても、それに流されずに秩序を保ちます。高ぶった者には謙虚に礼を尽くし、すべての生きとし生けるものの重荷を取り除き、すべてを教え導いて、仏・法・僧の三宝が絶えることなく続くようにし、三つの完全な智慧を得て、それを広く示します。これこそが、諸仏の教えを受け継ぐ器と言えるのです。」

於是,須菩提問文殊師利:「諸法等耳,俱共同舉本際一也。是器非器,何得知乎?」

そこで、須菩提が文殊師利に問いました。 「諸々の法は平等であり、すべてが根本の真理(本際)という一つに帰します。それならば、器となるものと器とならざるものの違いは、どのようにして知ることができるのでしょうか?」

文殊師利答曰:「譬如陶家,泥土一等,作種種器,皆共一處合而燒之,或受醍醐、或受麻油、或受甘露蜜、或受於不淨,其泥一等無若干也;如是,須菩提!諸法同等俱共一也,其本際一,從緣起行則有差特,彼醍醐油器喻弟子、緣覺,甘露蜜器謂諸菩薩,不淨器者方如下賤凡夫之士也。」

文殊師利が答えて言われた。「例えば、陶芸家が同じ土を使って、様々な器を作るとしましょう。それらを同じ窯で一緒に焼き上げます。ある器には醍醐(だいご)を入れ、ある器には胡麻油を、またある器には甘露蜜(かんろみつ)を、そして別の器には汚れたものを入れます。しかし、土自体は一つであり、何ら違いはありません。それと同じです、須菩提よ。すべての法(ものごと)は同じであり、全ては一つなのです。その本源(ほんげん)は一つですが、縁(えん)に従って生じる営みによって、違いが現れるのです。あの醍醐や油の器は、声聞(しょうもん)や縁覚(えんがく)の修行者を喩え、甘露蜜の器は菩薩(ぼさつ)を喩え、汚れた器は、いまだ迷いの中にある凡夫(ぼんぶ)の人々を喩えているのです。」

又問文殊師利:「可令諸有器為非器不?」

また文殊師利に問う。「器であるものを、器でないものとすることはできるか?」

答曰:「可使非器耳。」

答え:「器でない者には教えても仕方ない。」

須菩提曰:「以何因緣?」

須菩提が尋ねました。「どのような理由によるのでしょうか?」

答曰:「唯,須菩提!其受一切欲塵之器住在有中,若復有能斷諸欲塵,是悉非為佛法之器。」
又問:「文殊師利!器者有何高下?」

また問う:「文殊師利よ。器に高低があるとはどのようなことか?」

答曰:「唯,須菩提!器者無高無下。」

答えましょう。「その通りです、須菩提よ。器とは、高さも低さもないものです。」

又問:「云何?文殊師利!器無高下?」

また問う。「文殊師利よ、どのようなことを『器に高低なし』と言うのですか?」

答曰:「實無高無下,用法所住無高下故,則為牢堅之器。假使有高下行,則知是為破壞之器。唯,須菩提!譬如虛空,非是一切藥草樹木萬物之器;如是,須菩提!菩薩為一切佛法器,亦無有餘器。譬如地上生樹,虛空能受令長大器;如是,須菩提!菩薩發清淨等意,承智慧度無極而得長育。」

答えましょう。「実に高いも低いもありません。法の用いられるところには高低がないからです。それゆえに、堅固な器となるのです。もし高低のある行いがあれば、それは破壊される器だと知るべきです。須菩提よ、例えば虚空は、一切の薬草や樹木、万物の器ではありません。そのように、須菩提よ、菩薩は一切の仏法の器であり、他の余計な器はありません。例えば、地に木が生えれば、虚空がそれを受け止め、成長させる器となるように、そのように、須菩提よ、菩薩が清らかで平等な心を発し、智慧の波羅蜜を支えとして、成長し育まれるのです。」

又問:「文殊師利!云何菩薩而得長育?」

また問う。「文殊師利よ、どうすれば菩薩は成長できるのでしょうか?」

答曰:「譬如虛空之所長育,菩薩亦然;虛空及菩薩,終無增益亦無損耗。」

答えよう。「たとえば虚空によって育てられるもののように、菩薩もまた同じである。虚空も菩薩も、結局のところ増えることもなく減ることもない。」

又問:「文殊師利!是語何謂?」

また問う。「文殊師利よ、その言葉はどういう意味なのか?」

答曰:「不增塵垢、不損佛法。」

答えこう言われました。「塵や垢が増えることもなく、仏法が損なわれることもありません。」

又問:「文殊師利!塵與佛法有何異乎?」

また問う、「文殊師利よ。塵と仏法に、何か違いがあるのか?」

答曰:「譬如近須彌山者,光明同照令現一貌皆為金色,菩薩如是,以智慧光明消諸塵垢,使同其貌為佛法色。唯,須菩提!是故諸塵皆是佛法,智慧明者當作是觀等無有異,一切諸法是謂佛法。」

答えよう。「例えば、須弥山の近くにあるものは、その光に照らされてすべてが金色の同じ姿に見えるように、菩薩もまた智慧の光によって、あらゆる塵や汚れを消し去り、それらを同じ姿、すなわち仏法の色へと変えるのだ。須菩提よ、それゆえに、あらゆる塵もまた仏法なのである。智慧明らかな者は、このように観じて、すべてに違いがあると見てはならない。あらゆる諸法こそ、これが仏法なのである。」

又問:「曷云一切諸法皆為佛法?」

また問う。「なぜ一切の諸法がすべて仏法であると言うのか?」

答曰:「所作如諸佛所為。」

答えはこうだ。「その行いは、全ての仏陀(ほとけ)のなさる行いと同じである。」

又問:「云何,文殊師利!如佛所為?」

また問う。「どのようなものですか、文殊師利よ。如来のなされる行いとは?」

答曰:「如本末亦然,其如不增不減,是謂為如。」

答えていう。「本末もまた同じであり、その真実(如)は増えも減りもしない。これを『如(あるがまま)』という。」

又問:「文殊師利!何謂為本?云何為末?」

さらに問う。「文殊師利よ。何が根本であり、何が末端であるのか。」

答曰:「本者空、末者寂,是謂本末。」

答えよう。「根本は空であり、末梢は静寂である。これを本末という。」

又問:「文殊師利!空之與寂有何異乎?」

また問う。「文殊師利よ、『空』と『静寂』にはどのような違いがあるのでしょうか。」

答曰:「譬如金之與寶,寧有異無?」

問いに答えて言う。「それはちょうど、金(きん)と宝(たから)の違いのようなものだ。両者の間に、果たして違いがあるだろうか、ないだろうか?」

須菩提曰:「其物一等,但名異耳。」

須菩提が言った。「そのものは一つであり、ただ名前が異なるだけです。」

答曰:「如是,空以寂寞但名異耳,智者不著於字數也。」

答えて曰く、「その通りです。『空』と『寂寞』は名前が違うだけのことであり、賢者は文字や言葉に執着しません。」

又問:「文殊師利!何謂癡相?云何黠相?」

また問う。「文殊師利よ、愚かさの特徴とは何でしょうか。智慧の特徴とは何でしょうか。」

答曰:「如佛所教,因緣為癡相,法義為黠相。」

答えよう。「仏が説かれたように、因縁が迷いの相であり、法の教えが智慧の相である。」

又問:「文殊師利!何所為因緣相?」

また問う、「文殊師利よ。何をもって因縁とする相(ありさま)なのか。」

答曰:「十二因緣相;則,須菩提!為因緣相也;彼若有念造便有想知,假使無念造無想則不現知;彼癡者有念起,是等即有言說知;黠者無念造,則無言說知;彼若無所住便普遍至,是賢聖行於行有行,無行者非是賢聖行。」

答えよう。「十二因緣のありさま、それが、須菩提よ、<ruby>因縁<rt>いんねん</rt></ruby>のありさまなのだ。そこに<ruby>念<rt>おも</rt></ruby>いを<ruby>造<rt>つく</rt></ruby>れば<ruby>想<rt>そう</rt></ruby>が生まれ<ruby>知<rt>し</rt></ruby>ることがあり、<ruby>念<rt>おも</rt></ruby>いを<ruby>造<rt>つく</rt></ruby>らなければ<ruby>想<rt>そう</rt></ruby>も<ruby>知<rt>し</rt></ruby>ることもない。その中で、<ruby>愚<rt>おろ

須菩提又問:「文殊師利!何謂為賢聖?」

須菩提がさらに問うた。「文殊師利よ、何をもって賢聖というのですか?」

答曰:「賢聖者,謂御空而無跡。」

お答えします。「賢聖とは、空を自在に操り、その跡を残さない者のことです。」

又問:「文殊師利!一切法,寧復是無垢空等御不?」

また問う。「文殊師利よ、すべての法は、さらにまた、無垢なる空や、それと同等のものとなるだろうか?」

答曰:「然。」

答え:「そうです。」

須菩提又問:「何緣爾乎?」

須菩提がまた尋ねました。「それはなぜでしょうか?」

文殊師利曰:「譬如眾水歸于大海合為一味;如是,須菩提!無垢空等以御諸法,皆作一味,用脫眾生。」

文殊師利が言いました。「例えば、あらゆる川の水が海に流れ込んで、一つの味わいになるように、 それと同じく、須菩提よ。汚れのない空(くう)の智慧によって、すべての教えは一つの味わいとなり、それで人々を救い出すのです。」

又問:「文殊師利!何說解脫?」

また問う。「文殊師利よ、何が解脱であると言うのですか?」

曰:「云何須菩提!何緣有礙?」

須菩提に問う。「何ゆえに障碍があるのか。」

曰:「用無智故而有礙。」

曰く、「智慧がないから妨げがあるのです。」

答曰:「如是,須菩提!用度無智故說解脫。」

答え:「その通りだ、須菩提よ。無知を超えるために、解脱について説くのだ。」

又問:「文殊師利!一切諸法而無有異,何從得是有智無智之說?」

さらに問う。「文殊師利よ、すべての諸法には何の違いもないのに、どうして智慧があるとかないとかいう教えがあるのですか。」

答曰:「譬如夏月熱時說水,冬日寒冷亦復說水,其水無異;如是,須菩提!用想不清白而有塵垢,以有塵垢便有無智說,作淨想者便無有著,以故有智說彼諸正士,而無中間有智無智之說。」

答え:例えば夏の暑い時に「水」と言い、冬の寒い時にも「水」と言うが、その水自体に違いはない。同様に、須菩提よ、心の思いが清らかでなく塵(ちり)の汚れがあるならば、その塵の汚れゆえに無知な説き方がある。しかし清らかな思いをする者は、執着することがない。それゆえ、智慧ある人々(正士)は、智慧のあるなしの中間的な説き方をしないのである。

須菩提又問:「文殊師利!其義遠行?」

文殊師利よ、その意味は遠くまで及ぶのですか?

答曰:「用有二行故。」

お答えします。「それには二つの行いがあるからです。」

須菩提曰:「文殊師利!義者難見?」

須菩提が言った。「文殊師利よ、『義』というものは見ることが難しいのでしょうか?」

答曰:「為離智慧眼。」

答え:「智慧の眼(智慧眼)を失うためです。」

須菩提曰:「義者難受持?」

舎利子が問いかけました。 「その意味を、受け止め、保つことは難しいのでしょうか?」

文殊師利答曰:「不可得取。」

文殊師利が答えられました。「それは捉えることができません。」

須菩提曰:「其義難知?」

須菩提が言いました。「その意味は難しいものなのでしょうか?」

答曰:「用不解故。」

答え:理解していないからです。

須菩提曰:「義者難了?」

須菩提が言った。「その意味は、理解するのが難しいのでしょうか?」

答曰:「已離諸覺意故。」

答えていう。「すでにあらゆる分別の心を離れているからです。」

須菩提曰:「義者難說?」

須菩提が言いました。「教えの意味を説くのは、難しいものなのでしょうか?」

答曰:「為空等故。」須菩提曰:「義者無思?」答曰:「用無想行。」

答えて言う。「空などのためにです。」 須菩提が言う。「その意味には思いを巡らさないのですか?」 答えて言う。「無想の行を用いるからです。」

須菩提曰:「義者無念?」答曰:「是故無言說。」須菩提曰:「義者無賢聖?」答曰:「是故離想願。」須菩提曰:「黠者現智義?」答曰:「是故不自見。」

須菩提が尋ねました。「義とは、何も思わないことでしょうか?」 答え。「だからこそ、言葉にできないのです。」 須菩提が尋ねました。「義には、聖者も賢者もないのでしょうか?」 答え。「だからこそ、観念や願いを離れているのです。」 須菩提が尋ねました。「智慧ある者は、義を智慧で見るのでしょうか?」 答え。「だからこそ、自己を見ることがないのです。」

須菩提又問:「文殊師利!若如來曰:『求利義而不得義,不求利義而得義。』為誰說是章句?」

文殊師利は答えた。 「須菩提よ、もしも如来が 『利益を求めようとしても、義(真実)は得られない。 利益を求めなければ、義(真実)が得られるのだ』 とおっしゃったなら、その言葉は、 まさに煩悩のない清らかな修行者に向けて説かれたものなのです。」

文殊師利答曰:「唯,須菩提!其利義無有得。彼若有求欲得義,於義則無利義,其義者為寂義;彼若身意念欲求得利義,是為於義不得利義,如佛言曰:『不求義而得義,求義者反不得義。』」

文殊師利が答えました。「そうですね、須菩提よ。その利益という義は、捉えられるものではありません。もし人が義を求め、得ようと欲するならば、その義においては、利益という義はありません。その義とは、静けさの義なのです。もし人が身や心によって利益という義を得ようと欲するならば、それは義において利益の義を得られないことになります。如来がおっしゃった通りです。『義を求めない者が義を得る。義を求める者は、かえって義を得られない。』と。」

須菩提又問:「文殊師利!奚為佛言一切法悉非法?」

須菩提がまた尋ねました。「文殊師利よ、なぜ仏は『すべての法は法にあらず』と説かれたのですか?」

文殊師利答曰:「唯然,須菩提!世尊說譬喻經言:『當除斷所欲法,況於非法耶!假使斷者,其法即為不非法之謂也。』」

文殊師利が答えました。「そうです、須菩提よ。世尊は譬喩経の中でこう説かれました。『望みを断ち切るべきであり、ましてや非望(よくないこと)においてはなおさらである。たとえ断ち切るとしても、その行為そのものは、もはや非望とは呼ばれない。』と。」

須菩提又問:「云何文殊師利!佛法寧復是非法耶?」

須菩提がさらに尋ねました。「なぜでしょうか、文殊師利よ。仏法とは、もしかすると非法なのでしょうか?」

答曰:「不也。佛法者無興盛,其不興盛是謂為法。如佛言曰:『一切諸法,皆為非法。』」

答えていう。「いいえ、そうではありません。仏法に興盛はありません。その興盛しないことこそが、法と呼ばれるものです。仏がおっしゃる通り、『すべての諸法は、みな非法である』と。」

須菩提曰:「未曾有也,甚難及。文殊師利!新學菩薩聞是說,而不恐畏。」

須菩提が言いました。「これはまことに未曾有のことです。とても難しいことです。文殊師利よ、新たに学び始めた菩薩たちがこの教えを聞いても、恐れたりしないのですね。」

文殊師利曰:「唯,須菩提!有四事,師子之子聞師子吼,而不怖懼衣毛不竪。何等為四?一者、其種姓真;二者,為師子所生;三者、蒙尊者所育;四者、不著諸有。是為四。如是行者,為如來種誠諦菩薩也,如來所生為法所進,過於弟子、緣覺之上,則非其類。彼聞說一切法終不恐懼,在所講說一切所語,而無畏懅衣毛不竪,心不懈怠亦無疑怯。又,須菩提!鳥子飛行在於虛空,寧有恐耶?」

文殊師利が言った。「須菩提よ、次の四つのことがある。獅子の子は獅子の吼え声を聞いても、恐れたり毛を逆立てたりしない。四つとは何か。第一に、その種が真実であること。第二に、獅子から生まれたこと。第三に、尊い者に育てられたこと。第四に、あらゆる存在に執着しないこと。この四つである。

このように修行する者は、如来の真実の種を受け継ぐ菩薩である。如来から生まれ、法によって育てられ、声聞や縁覚を超えているため、彼らとは同類ではない。そのような者は、あらゆる法について説かれても決して恐れず、語られるすべてのことに対して怖れたり毛を逆立てたりすることがない。心は怠けず、疑いや怯えもない。

また、須菩提よ。鳥の子が虚空を飛ぶとき、そこに恐れがあるだろうか。」

答曰:「無也。」

答えました。「ありません。」

文殊師利曰:「如是,須菩提!菩薩住於空界,彼聞諸法而不恐懼,於一切法亦無畏懅無所疑難,用了諸法故,聞諸所說,不恐不懅而無畏怖。」

文殊師利が言いました。「その通りです、須菩提よ。菩薩が空の境地に安住しているならば、あらゆる教えを聞いても恐れることはありません。すべての現象に対しておそれやためらい、疑惑も生じません。なぜなら、諸法をありのままに理解しているからです。そのため、どんな教えを聞いても、怖れず、おののかず、惑わされることもないのです。」

文殊師利謂須菩提:「從何致畏?」

文殊師利が須菩提に問うた。「何から畏れが生じるのか?」

答曰:「用貪見身故,而有恐畏。」

答え:「執着して自分の身を見るからこそ、恐れがあるのです。」

文殊師利曰:「菩薩以知貪身,於一切法所說不畏,亦無怖懅。」

文殊師利(もんじゅしり)が言いました。 「菩薩は、自らの欲望の本体を正しく知っているため、すべての教えを語る際にも恐れたり、おののいたりすることがありません。」

須菩提問:「文殊師利!假使菩薩了寂,不貪身云何得道?」

須菩提が質問しました。「文殊師利よ、もし菩薩が寂静を悟り、自分の体に執着しないならば、どのようにして悟りを得ることができるのでしょうか?」

文殊師利答曰:「唯,須菩提!菩薩不見得道知貪身,設使菩薩見得道知貪身者,是故不得道。」

文殊師利が答えました。「そうです、須菩提よ。菩薩は『道を得ること』や『身に執着すること』を悟る、ということはありません。もし菩薩が、道を得ることや身に執着することを悟るという見方をするならば、そのために道を得ることができないのです。」

須菩提曰:「唯,文殊師利!菩薩為行大善權用,菩薩見貪身不得道?」

須菩提が言った。「そうですか、文殊師利よ。菩薩は大きな善き方便を用いて修行するのですね。では、菩薩が貪りのある身を見て、悟りを得ることができないとされるのはなぜですか?」

文殊師利曰:「唯,須菩提!菩薩蒙智慧善權,為是菩薩聖性,以故菩薩知貪身不得道。譬如取大利斧斷截大樹,段段解之還著故處,續復如故終不躄地,如是菩薩有智慧善權為聖性,以故菩薩知貪身不得道。或時天大雨樹生茂盛故,有莖節枝葉華實,有益一切;如是菩薩,行大悲慈知貪身者,現生三界種種形類,隨其色貌以益眾生。又,須菩提!或作暴雨疾風吹墮其樹,菩薩以大智慧,放柔軟大雨,在佛樹下便復現墮。」

文殊師利(もんじゅしり)が言いました。 「須菩提(しゅぼだい)よ。菩薩(ぼさつ)が智慧(ちえ)と善巧方便(ぜんぎょうほうべん)を備えていることこそ、菩薩の聖なる本性なのです。 ですから菩薩は、身に執着しても道を得ることはできないと知っています。 たとえば、大きな斧で大木を切り倒し、それを細かく切って元の場所へ戻しても、再び元のように立ち、決して地面に倒れることはありません。 同じように、菩薩が智慧と善巧方便という聖なる本性を持つなら、身に執着しても道を得ることはできないと、よく知っているのです。

あるいは、大雨が降って木々が生い茂り、その結果、茎や節、枝や葉、花や実が生まれ、すべてのものに利益をもたらします。 同じように、菩薩が大いなる慈悲(じひ)を実践し、身に執着することを知っているなら、三界(さんがい)にさまざまな姿で現れ、その姿や色に応じて衆生(しゅじょう)を益するのです。

また、須菩提よ。あるいは激しい暴風雨がその木を吹き倒すように、菩薩は大いなる智慧をもって柔らかな大雨を降らせ、仏の木の下で再び姿を現すのです。」

爾時,世尊讚文殊師利曰:「善哉,善哉!文殊師利!快說諸菩薩智慧善權而為聖性,乃如是乎為說大慈大悲法行。今,文殊師利!且復聽我所言。譬如有國既強且大,雲霧四起,放大熱石欲焚其國,所有草木皆當被燒,復雨洪水渧如車軸,令諸草木普得生長;如是,文殊師利!菩薩雨於智慧善權,方便示現入一切愚癡凡夫之士,教授諸冥現賢聖行,為生死奉律人示義令悅。

その時、世尊は文殊師利を称えて言われた。 「善いかな、善いかな。文殊師利よ。あなたは諸々の菩薩の智慧と巧みな方便が、いかにして聖なる本質となるかを、見事に説いた。まさにそのように大いなる慈悲と哀れみの法の実践を説いたのである。 さあ、文殊師利よ、さらに私の言葉を聞きなさい。 たとえば、ある国が非常に強く大きく、そこに雲と霧が四方から立ち込め、大きな熱い石を降らせてその国を焼き尽くそうとし、そこにある全ての草木が焼かれてしまおうとしたとする。しかし、その後、車の轍ほどの太さの大雨が降り注ぎ、それらの草木を再び生い茂らせたとする。 そのように、文殊師利よ、菩薩は智慧と巧みな方便の雨を降らせ、全ての愚かで迷いのある凡夫の世界に巧みに姿を現し、彼らを教え導き、聖者の行いを明らかに示す。そして、生死に縛られた人々には、法の義を示して彼らを喜ばせるのである。」

「譬如有香樹,其根香、莖香、枝香、葉香、華香、實香,各各別異;如是菩薩以智慧事自然之性,隨一切人之所欲,從其本行而為說法,各令歡喜其心開解,不捨大悲之本。

例えば、ある香りのよい木があります。その根も香り、茎も香り、枝も香り、葉も香り、花も香り、実も香り、それぞれに異なる香りを持っています。このように、菩薩は智慧という自然の性質によって、すべての人々の望みに従い、その人の本来の行いに基づいて教えを説き、一人ひとりの心を喜びで開かせ、大悲の根本を失うことはありません。

「譬如大摩尼珍寶,名曰釋迦惟羅迦,天帝釋著此寶時,照其被服、婇女、舍宅、講堂、宮殿,一切皆見清淨光明,大明月寶亦無念也;如是菩薩明慧之果,清淨解脫如明月寶,普現諸義永無想念。」

例えば、大きな摩尼宝(まにほう)という宝石があります。その名を「釈迦惟羅迦(しゃかいらか)」と言います。 天帝釈(たいていしゃく)がこの宝を身に着けると、その衣や侍女たち、住まい、講堂、宮殿のすべてが清らかな光に照らされて見えます。この大明月宝(だいめいげつほう)にも、決して“これらを照らそう”という意識はありません。 同じように、菩薩の智慧の成果も、この明月宝のように清らかな解脱を示しながら、様々な真理をあまねく現しつつも、一切の“こう現そう”という想念は永遠にないのです。

佛言:「文殊師利!譬如有大明月寶,名曰施一切願,隨眾所欲,皆令具足而得所饒,施諸願寶亦無念也;如是菩薩清淨如寶,具足眾生諸所欲願,其菩薩者亦無想念。

仏は言われた。「文殊師利よ。例えば、大きな明月の宝がある。その名を『一切の願いを施す宝』といい、人々の望みに応じて、すべてを満たし、豊かにする。しかし、その宝自身には何の思いもない。そのように、菩薩も清らかで宝のごとく、人々の様々な願いを叶えつつも、菩薩自身には何の思いもないのだ。」

「譬如虛空之中,有大火起復放大雨,其於虛空不寒不熱;如是菩薩處三界火中,若在寂寞無為之界無寒無熱。

例えて言えば、虚空の中に大火が起こり、また大雨が降っても、虚空自体は寒くも暑くもありません。そのように、菩薩は三界の火の中にありながら、寂静・無為の境地にあれば、寒さも暑さもないのです。

「譬如彼虛空中,令生毒樹,復生藥樹,其毒樹者不害虛空,其藥樹香無所除淨;如是菩薩,以善權方便,入諸毒樹令得成就,以藥樹莖節護諸根本,眾垢塵勞不著菩薩,除淨諸根亦無所淨,俱入二事無所沾污。

例えば、その虚空の中に毒の木が生え、また薬の木が生えたとしても、毒の木は虚空を害さず、薬の木の香りも何かを清めるわけではありません。そのように、菩薩は巧みな方便をもって、諸々の毒の木の中に入りながらも、それらを成就させることができます。薬の木の幹や節で諸々の根本を守るように、あらゆる汚れや煩悩は菩薩にまとわりつかず、諸々の感官を清めながらも、清めるという行為そのものもなく、その両方の働きに入りながらも、一切に汚されることがないのです。

「譬如穿漏之器,但補一處令不得漏,捨餘不補而皆穿漏;如是菩薩,所住常定具大神通無有異漏,有所住者便現別異之漏,示現出生隨一切本而為說法。

譬えば、水漏れする器があるとしよう。一箇所だけ穴を塞いでも、他の穴をそのままにしていれば、結局は水は漏れ続ける。これと同じように、菩薩が大きな神通力を備えた確かな境地に留まっているときには、別の漏れは生じない。しかし、何かに執着して留まるならば、そこから異なる漏れが現れるのだ。 菩薩は、そのように現れ出たものを通じて、あらゆる人々の本来の性質に応じて教えを説いていくのである。

「譬如騏驥高足強而有勢,守護馬畜不貪衛己;如是菩薩,立大慈悲強而有勢,超越諸力救護眾人,不自念身。

例えば、優れた駿馬が強い足と勢いを持ち、自分の安全を顧みずに他の馬たちを守るように、菩薩もまた大いなる慈悲の心をしっかりと持ち、強い力を持って、あらゆる力を超えて人々を救い護り、自分のことには執着しません。

「譬如猛師子者,百獸之王無所懼也,唯畏大火;如是菩薩,亦無所畏,畏墮弟子、緣覺之地。

たとえば、獅子は百獣の王であり、何ものも恐れないが、ただ大火だけは恐れる。同様に、菩薩もまた何ものも恐れないが、声聞や縁覚の境地に落ちることを恐れる。

「譬如伊羅漫龍王,雖為畜獸皆能示現清淨變化,悉是帝釋本德所致;如是菩薩,假使墮於畜獸之中,則能現說諸清淨法,隨其本行而開導之。

たとえば、イーラヴァン竜王は畜生でありながら、清らかな変化を示すことができるが、それはすべて帝釈天の本来の徳の力によるものである。同様に、菩薩もたとえ畜生の中に堕ちても、その身をもって様々な清らかな教えを説き示し、それぞれの本来の行いに従って導くことができるのである。

「譬如鑽木出火明珠放光,其於二者俱有所益;如是,文殊師利!其有初發意及坐佛樹下後當發意,此二菩薩,俱除一切眾垢之塵燒諸勤苦。

例えば、木を擦って火を起こし、宝玉が光を放つように、その二つはどちらも益をもたらします。それと同じように、文殊師利よ、初めて菩薩の誓いを立てた者と、仏の樹の下に坐して後に誓いを立てる者、この二種の菩薩は、共に一切の煩悩という塵を取り除き、あらゆる苦しみを焼き尽くすのです。

「譬如諸樹種種各各有名,其色不同、枝葉各異、華實不相類,此諸樹者,皆因四大而得滋茂;如是菩薩,奉若干行積眾德本,皆用成道意,悉勸助一切智而得成就。

たとえば、様々な木々にはそれぞれ名前があり、色も違い、枝や葉も異なり、花や実も同じではありません。しかし、これらの木々はすべて、四大(地・水・火・風)によって育ち、茂っています。

これと同じように、菩薩は様々な行いを実践し、多くの徳を積み重ねます。それらはすべて、悟りを求める心によって行われ、すべての智慧の完成へと向かって進められるのです。

「譬如轉輪聖王在所至奏,七寶、四種兵皆悉從之;如是菩薩,得善權方便智慧度無極,無所不入,一切諸道品之法皆悉隨從。

たとえば、転輪聖王がお出ましになるところには、七宝と四種の兵がすべてしたがうように、菩薩が善巧方便と智慧波羅蜜を成就すると、あらゆる場所に入り、すべての道の教え(法)がみな自然とその者に従うのです。

「譬如羯隨之鳥王,假使墮於羅網之中,續出哀音;如是,文殊師利!設使菩薩而墮樔窟,未了佛法不壞貪身、不出三界,續作師子覺吼,說空、無想、不願之法,講無造起滅之事。

例えて言うなら、それは鳥の王ガルーダが、たとえ網に落ちてもなお、哀しい声を続けて出すようなものです。そのように、文殊師利よ、たとえ菩薩が煩悩の巣窟に落ちても、仏法を究めず、貪りのある身を壊さず、三界を出離しなくても、なお獅子吼の覚りの声を響かせて、空・無想・無願の法を説き、造化や生滅のないことを語るのです。

「譬如羯隨鳥王在山頂住而不肯鳴,得其輩類乃闡鸞音;如是,文殊師利!若有菩薩入諸弟子中,不講不可思議佛音,在諸菩薩中乃說菩薩事,講佛不可思議之音。

例えば、羯隨鳥の王が山の頂に留まって鳴こうとせず、仲間に出会って初めて美しい声を響かせるように、文殊師利よ、それと同じである。もし菩薩が弟子たちの中に入っても、不可思議な仏の声を説かず、菩薩たちの中にいる時にのみ菩薩の教えを語り、仏の不可思議な声を説くのである。

「譬如隨藍之風,不能持地固閻浮利及樹木講堂舍宅;如是,文殊師利!一切弟子、緣覺,不能堪忍無思議佛法名字,及佛神通清淨變化,有信而無疑者,非自功德所致。皆佛威神而令得信。

たとえば、大嵐の風が大地や閻浮提の樹木、講堂、家屋をしっかりと支えることができないように、文殊師利よ、すべての弟子や縁覚は、思いもよらぬ仏法の名や、仏の神通による清らかな変化に耐えることができない。しかし、信じて疑わない者があるとすれば、それは自らの功徳によるものではない。すべて仏の威神力によって、その信を得させられるのである。

「譬如日之光明照淨不淨,亦無喜悅、亦無憎惡,日月殿舍無冥沒時;如是菩薩,放智慧善權光明,與弟子、緣覺、諸凡夫士共周旋從事,不用在弟子中而歡喜,不以在凡夫之士而為愁悒,亦不失菩薩權慧之場也。

例えて言うなら、太陽の光は清らかなものも清らかでないものも等しく照らし、喜びも憎しみも持たない。また、太陽や月の宮殿は決して闇に包まれることがない。そのように、菩薩は智慧と方便の光明を放ち、声聞(弟子)や縁覚、あるいは凡夫たちと共に行動し、関わりを持ちながらも、声聞の間にいるからといって喜ぶこともなく、凡夫の間にいるからといって憂えることもない。そして、菩薩としての方便と智慧の境地を失うこともないのである。

「譬如忉利天上晝度樹初生葉時,諸天見之皆悉歡喜,心念言:『晝度樹不久當有華實,而得成就。』如是,文殊師利!假使菩薩一切所有施而不惜,諸佛世尊歎是菩薩,不久當得佛法華實施諸群生。

たとえば、忉利天の昼度樹が初めて葉を芽吹かせた時、天人たちはそれを見て皆喜び、「この木ほどなく花を咲かせ、実を結び、成就するだろう」と心に思います。それと同じように、文殊師利よ。もし菩薩があらゆる所有するものを惜しみなく施すならば、諸仏世尊はその菩薩を讚嘆して、「この菩薩はまもなく仏法の花と実を得て、それを生きとし生けるものに与えるであろう」と仰せになります。

「譬如其樹柔軟根株深固,雖現曲棭終不恐墮;如是,文殊師利!若有菩薩恭敬禮事於一切人,終不恐墮弟子、緣覺之地。

例えば、ある木が柔軟でありながら根が深くしっかりと張っているならば、たとえ一時的に曲がっても決して倒れることはありません。それと同じように、文殊師利よ、もし菩薩がすべての人に対して敬いと礼儀をもって接するならば、決して声聞や縁覚の境地に堕ちることはありません。

「譬如水墮地流;菩薩如是無有憍慢,從一切智稽首自歸。

例えば、水が地面に流れ落ちるように、菩薩もまた傲慢さがなく、一切智(すべてを知る智慧)に頭を下げ、自らを帰依します。

「譬如大海立於地中最為始成,皆含受一切江河諸流;如是菩薩用無慢故,得立一切佛法之頂。

たとえば大海が地の上にあり、最もはじめに成り、すべての大河や川の流れを受け入れるように、菩薩はおごりがないゆえに、すべての仏法の頂点に立つのである。

「譬如大明月珠,名曰照明,諸所欲得皆從中出,眾明月珠無與等者,悉皆照諸明月珠寶其明不減;如是菩薩,教授諸弟子、緣覺,令得入律不墮彼行。

たとえば、大いなる明月の宝玉があり、その名を「照明」といいます。求めるものはすべてこの宝玉から生じ、他のどの明月の宝玉もこれに及ぶものはありません。そして、すべての明月の宝玉を照らしても、その光は減ることがありません。それと同じように、菩薩は弟子や縁覚を教え導き、教えの道に入らせても、その行いに執着することはありません。

「譬如曼陀勒華柔軟妙好,其香周匝聞四十里;菩薩如是,以聖賢智發大慈悲,普遍眾生令得安隱。

例えば、曼陀羅華のように柔らかく、この上なく美しく、その香りは周囲四十里にわたって漂います。菩薩もまた、このように聖なる智慧をもって大いなる慈悲を起こし、すべての生きとし生けるものに安らぎをもたらします。

「譬如曼陀勒華,若有病者聞此華香其病即愈;菩薩如是,以大慈大悲香行,遍至除解一切塵勞之病。

たとえばマンダラの花の香りを病人が嗅げば、その病がすぐに治るように。菩薩もまた、大いなる慈しみと悲しみの香りの行いによって、あまねくすべての煩悩という病を除き解くのである。

「譬如無有佛時,優曇鉢樹無華有實;未有菩薩不出佛法之華。

例えば、仏のいない時には、優曇鉢樹(うどんげじゅ)は花を咲かせず実だけをつけるように、菩薩が存在しなければ、仏法の花が開くことはありません。

「譬如阿耨達龍王,假令雨時遍閻浮利;如是菩薩,若放法雨皆遍一切人民蠕動。

例えば、阿耨達竜王が雨を降らせるとき、閻浮提の全世界に広く行き渡るように、菩薩が法の雨を降らせるときも、すべての人々や生きとし生けるものに広く行き渡るのです。

「譬如阿耨達大淵流出四江,悉歸于海常而得滿;如是菩薩,流四恩行以具足滿大智慧海。

例えば、阿耨達(アノクタ)という大きな淵から四本の大河が流れ出て、すべて海に注ぎ込み、常に満たされているかのようです。このように菩薩も、四つの恩の行いを流れ出させて、大いなる智慧の海を完全に満たすのです。

「譬如未有大海時,閻浮利人得自然小摩尼珠;如是,文殊師利!未發菩薩意時,皆承用弟子、緣覺法寶。

例えば、まだ大海が存在しなかった時代、閻浮提の人々は自然に生じる小さな摩尼宝珠を得ていました。そのように、文殊師利よ、菩薩の志をまだ起こしていなかった時は、皆、声聞や縁覚の法宝を受け継ぎ用いていたのです。

「譬如其有色像者,皆有四大;菩薩如是,諸所說法皆欲度脫一切令入法門故。

たとえば、形あるものはすべて、地・水・火・風の四大元素から成るように、菩薩の説く教えもまた、すべての人々を救い、悟りの道へ導くためのものです。

「譬如樹木生於山澤之中無益眾人;弟子如是,畏生死難無益一切。譬如大城中央而生藥樹,多所療治於一切人;菩薩如是,入大慈悲發一切智,其以寶意多所饒益一切群生。

例えば、山や沢に生える木々は、多くの人々の役に立たないようなものです。弟子たちも同じで、生死の苦しみを恐れるばかりで、すべての人を助けることはありません。しかし、大きな都の中央に生える薬の木は、多くの人々の病を癒やすように、菩薩もまた大きな慈悲の心をもって、一切の智慧を起こし、その宝のような心で、あらゆる生きとし生けるものを広く利益するのです。

「譬如天雨之水不能久在;弟子如是,教授說法而不久立。譬如春月大流水無減盡時;菩薩如是,教授說法而得久立。

たとえば、天から降る雨は長く留まることができません。弟子たちもこれと同じで、教えを受け説法しても、長く(その心に)留め置くことはできません。一方、春の月の大きな川の流れが尽きることがないように、菩薩たちは教えを受け説法して、長く(その教えを)保つことができるのです。

「譬如冬生山中樹,若有斷截者,應時疾生;如是,文殊師利!佛之所現作,如來雖般涅槃,三寶之教猶不斷絕。」

例えて言うならば、冬の山の中で育つ木は、たとえ切り倒されても、すぐに新しい芽を出すものです。それと同じように、文殊師利よ、仏が示された教えは、如来が涅槃に入られた後でも、仏・法・僧の三つの宝の教えが絶えることがないのです。

於是,賢者須菩提白佛言:「未曾有也,世尊!是諸菩薩名德之行,巍巍無量莫能稱焉。向者如來講說誠諦功德,是亦難及。假使菩薩聞如是德義,而不歡喜亦不愁悒,是為甚善!」

そこで、賢者スブーティは仏陀に申し上げた。 「稀有なことです、世尊よ。この菩薩たちの名高い徳行は、あまりにも盛大で計り知れず、言葉に尽くせません。先ほど如来がお説きになった真実の功徳も、また並ぶものがないものです。もし菩薩がこのような功徳の意味を聞いて、喜びもせず、憂えもせずにいることができるなら、それは非常に良いことです。」

佛言:「菩薩本清淨所致,是故聞說一切德義不善,不愁。」

仏陀は言われた。「菩薩は本来、清らかな心によって徳を積む。だからこそ、あらゆる善い教えを聞いても、不善を聞いても、憂えることはない。」

須菩提問佛言:「何謂為本淨?」

須菩提が仏に問うた。「『本来清らか』とは、どのような意味ですか?」

世尊曰:「無我之本、無壽命本、無貪身本、而無愚癡恩愛之本,是我所非我所本,如是菩薩,於此諸本而行清淨。」

世尊はおっしゃった。 「無我、すなわち自己は実在しないということが根本であり、 寿命(生命)には根本がない。 執着する身体には根本がなく、 愚かさや愛執(愛欲)にも根本がない。 これが、私であるとか、私のものであるとかいう思いの根本がないということである。 このように、菩薩はこれらの諸々の根本について、清らかさをもって実践するのである。」

須菩提又問:「世尊!何謂為淨?」

須菩提がさらに尋ねました。「世尊(せそん)、『清らか』とはどういうことでしょうか?」

佛言:「無取、無捨是謂為淨;不起、不滅是謂為淨;無思、無想、無穢、無潔是謂為淨;無高、無下是謂為淨;不作非不作、不冥亦不明、無塵垢亦無諍亂、不脫亦不縛是謂為淨。」

仏は言われた。「執着せず、捨て去らないことを清らかさという。生じず、滅しないことを清らかさという。思わず、想わず、汚れもなく、清めもしないことを清らかさという。高くもなく、低くもないことを清らかさという。作ることもなく、作らないこともなく、暗くもなく、明るくもない。塵や汚れもなく、争いも混乱もない。解脱することもなく、束縛されることもない。これを清らかさという。」

須菩提白佛言:「無生死亦無泥洹,彼何謂為淨?」

須菩提が仏に申し上げた。「生死もなく、また涅槃もないのであれば、何を『清らか』と呼ぶのでしょうか。」

佛告須菩提:「如是為淨,不念泥洹、不遠生死,爾乃為淨。譬如虛空為淨,無有淨虛空者,如是行者為清淨;彼無有為作清淨者,若聞此不恐畏是謂為淨。」

仏は須菩提に告げられた。「そのように清らかであるとは、涅槃を思わず、生死を遠ざけないこと、そのときこそ清らかである。例えば虚空が清らかであるが、虚空を清らかにする者はいない。そのように修行する者は清らかである。そこには清らかにしようとする者はない。もしこのことを聞いても恐れおののかないならば、これを清らかという。」

佛言:「於須菩提意云何?有淨法者耶?」

仏が言われた。「須菩提(すぼだい)よ、あなたの考えでは、清らかな法(教え)というものは存在するだろうか?」

須菩提白佛言:「從本已淨。」

須菩提が仏に申し上げました。 「もともと清らかなのです。」

佛言:「聞諸所說不著言說是謂為淨,著於無審者,豈可謂淨乎?」

仏は言われた。「様々な教えを聞いても、その言葉に執着しないこと、これを清らかという。もし、よくよく考えもせずに執着するならば、どうして清らかと言えようか。」

須菩提白佛言:「法界為自然淨,而有等知。」

須菩提が仏に申し上げました。「真理の領域(法界)は本来、自ずから清らかなものですが、それにもかかわらず、悟りの境地について平等に知ることがあるのです。」

佛言:「云何?須菩提!可知法界耶?」

仏は言われた。「どう思うか。須菩提よ、法界を知ることができるであろうか。」

須菩提言:「可知。」

須菩提が申し上げました。「(如来の心は)知ることができるのでしょうか?」

佛言:「假令法有知便生,即為異法,彼為求法界,其法界亦不了知法。」

仏はおっしゃった。「もしも“法”というものに知覚(意識)があると考えれば、それはすでに本来の法とは異なるものになってしまう。そうした考えで法の本質(法界)を求めようとしても、その法界(真実の在り方)は、決して「これが法だ」と知らせるようなものではないのだ。」

佛言:「設使,須菩提!無有知餘法界解脫,其知法界者不得解脫,如是云何了知法界?」

仏は言われた。「須菩提よ、たとえ法の世界を超えた別の解脱を知ることがなく、法の世界を知る者も解脱を得ないとしても、ではどのようにして法の世界を了知するのだろうか。」

爾時,賢者須菩提默然不答;於是,文殊師利謂須菩提:「云何,賢者!世尊有教默而不答?」

その時、賢者須菩提は沈黙して答えなかった。そこで文殊師利が須菩提に尋ねた。「賢者よ、なぜ世尊のお教えに対して黙ってお答えにならないのですか?」

須菩提曰:「所以默者,用本不發無上正真道意故。所以者何?弟子之辯有限有礙,菩薩辯才無限無礙。」

須菩提は言った。「私が黙っていた理由は、そもそも無上正等覚(最高の完全な悟り)への心を起こしていなかったからです。なぜなら、弟子たちの弁才には限りと障りがありますが、菩薩の弁才には限りも障りもないからです。」

文殊師利又問:「云何,須菩提!法界寧有限礙不乎?」

文殊師利がまた尋ねた。「どう思いますか、須菩提よ。法の世界(法界)には、本当に限界や障りがあるのでしょうか?」

答曰:「法界無限無礙。」

答え:「法の世界は限りがなく、妨げもありません。」

文殊師利曰:「假使法界無限無礙,賢者曷為言默而礙?」

文殊師利が言った。 「もしも法界に限りがなく、障りがなければ、どうしてあなたは言葉と沈黙にこだわるのですか?」

須菩提答曰:「其欲知盡法界者,便以言說而為罣礙;若有了知法界無量不可盡者,聞其所言則不為礙。」

須菩提が答えて言いました。「法界の全てを尽くそうとするならば、言葉によって妨げられてしまうでしょう。しかし、法界には限りがなく、尽きることはないと知る者は、どんな言葉を聞いても妨げられることはありません。」

又問:「於須菩提意云何?至於法界為有盡不?」

また問われる。「須菩提(しゅぼだい)よ、どのように思うか。法界には、果てがあるだろうか?」

答曰:「不可盡,法者普門,以故法不可盡。」

答え:尽きることはありません。法は普遍の門であるから、法は尽きることがないのです。

文殊師利曰:「設使法不可盡,云何賢者說法而礙?」

文殊師利がおっしゃいました。「もしも法が尽きることのないものであるならば、どうして賢者が説法をするときに妨げがあるというのでしょうか?」

答曰:「我限弟子所講說法而有盡礙,觀於佛界而無有量,講說法界而無盡時。」

答えました。「私が弟子たちに説く教えには限りや障害がありますが、仏の世界を観じると限りがなく、法の世界を説き明かすことも尽きることがありません。」

文殊師利又問:「云何?須菩提!法寧復有境界說乎?其有於法作境界者,說法則有分數。」

文殊師利がさらに尋ねました。「須菩提よ、どのようにお考えですか。法(真理)に、境界や区分というものがあるのでしょうか。もし法に境界を設ける者がいれば、法を説くことにも区分が生まれることになります。」

答曰:「吾不說法有境界、法無境界。」

答えて曰く、「私は法に境界があるとは説かない。法に境界はない。」

文殊師利曰:「曷為,賢者!說若干境界?」

文殊師利が言いました。「尊者よ、なぜさまざまな境界について説かれるのですか?」

須菩提答曰:「向者本說弟子之辯有限有礙,菩薩辯才無限無礙。」

須菩提は答えて言った。「先ほど申しましたように、弟子たちの弁才には限りと障りがありますが、菩薩の弁才には限りも障りもありません。」

文殊師利曰:「云何,賢者!得明慧耶?」

文殊師利が言いました。「尊者よ、あなたは明らかな智慧を得たのですか?」

須菩提答曰:「如是得明慧。」

須菩提がお答えになりました。「そのようにして、明らかな智慧を得ます。」

文殊師利又問:「賢者,云何言默而礙?」

文殊師利がまた尋ねました。「賢者よ、どのようにして言葉を発することも沈黙することも妨げとなるのでしょうか?」

答曰:「用弟子不能了知一切人根故,用言說而作礙耳。菩薩辯慧曉眾生本,是故不以言說而為罣礙。」

答えよう。弟子たちは全ての人々の根機(性質や能力)を見極めることができないため、言葉によって妨げが生じるのだ。菩薩は弁才と智慧をもって、衆生の本来のあり方を明らかにしている。ゆえに言葉によって妨げられることがないのである。

文殊師利曰:「世尊辯才之慧無有往來,其智慧想寧有限乎?」答曰:「不也!其智慧者,無罣礙相、無所住相。」

文殊師利が申し上げました。「世尊の弁才の智慧には往き来がなく、その智慧の想いに限りがあるでしょうか?」 お答えになりました。「いいえ。智慧というものには、妨げられる相もなく、とどまる相もないのです。」

文殊師利曰:「假使智慧無罣礙相、無所住相,何故賢者而默作礙?」須菩提曰:「尊者舍利弗,佛所稱歎智慧為最,當問此賢為仁解說。」

文殊師利が言いました。「もし智慧にさまたげの相もなく、とどまる相もないのなら、どうして賢者のあなたが黙ってさまたげとなるのでしょうか?」 須菩提が言いました。「尊者舎利弗よ、仏が最も優れていると称賛された智慧について、この賢者があなたのために説き明かすはずです。」

舍利弗謂須菩提:「欲聞我說文殊師利所講法乎?今欲宣之。所以者何?吾曾聞智,昔者文殊師利,於無央數百千佛前說法,令諸大弟子默而無言。又憶往時,吾與文殊師利共出東遊諸佛國,度無央數百千佛土,有世界名喜信淨,其佛號光英如來、無所著、等正覺,今現在說法。有大弟子名曰聖智燈明,智慧最尊。適見如來閑居宴坐,其聖智燈明弟子,即踊身往第七梵天,其聲遍告三千大千世界,為一切說法。吾與文殊師利俱至彼國,及諸無數百千菩薩十萬天皆俱,侍從文殊師利,欲聞法故。

舎利弗が須菩提に言いました。「私が文殊師利の説かれた法について話すのを聞きたいか。今からそれを述べよう。なぜかと言えば、私はかつて智について聞いたのだ。昔、文殊師利は無数の仏のもとで法を説き、大いなる弟子たちを沈黙させたのだ。また、かつて私と文殊師利が共に東の諸仏国へ遊行したことを思い出す。無数の仏の国土を超えていくと、喜信浄という世界があった。その仏は光英如来、無所著、等正覚と名づけられ、今も説法している。そこに聖智燈明という大いなる弟子がおり、智慧は最も優れていた。ちょうど如来が静かに坐しておられるのを見ると、その聖智燈明の弟子は身を躍らせて第七梵天に昇り、その声は三千大千世界に響き渡り、すべての者に説法した。私と文殊師利は共にその国に至り、無数の菩薩や十万の諸天も皆、文殊師利に従い、法を聞こうとしたのだ。」

「爾時文殊師利,便往光音天上謦揚大聲,其音普遍三千大千世界,動魔宮殿滅諸惡道令得悅信。於是聖智燈明大弟子,聞彼洪音即大恐怖,尋便躄地不能自制,譬如隨藍大風起時,有所崩墮莫能自固。聖智燈明於時恐怖,衣毛為竪得未曾有,往詣光英如來所,白世尊言:『唯天中天!誰為比丘色像出大音聲?我聞其音怖不自制,即便躄地,如隨藍風起靡不摧落。』其佛告言:『有菩薩名文殊師利,得不退轉,以神通聖樂明慧之力來至此國,欲見如來稽首作禮講問諸義。向者曜形於光音天,舉大洪音,普聞三千大千世界,震動魔宮除滅惡道,皆令喜悅。』其弟子白佛言:『願欲見文殊師利。唯,天中天!得覩正士如是之等,則為幸甚。』

その時、文殊師利は光音天に赴き、大声を張り上げられた。その声は三千大千世界に遍く響き渡り、魔王の宮殿を揺るがし、あらゆる悪しき道を滅して、一切の者に喜びと信を抱かせた。

すると、聖なる智慧の灯明と仰がれる大いなる弟子が、その壮大な音を聞いて、たちまち大きな恐怖に襲われ、その場に崩れ落ちてしまい、自分を制することができなかった。それはちょうど、大風が吹き荒れる時、崩れ落ちずにいられるものが何一つないのと同じであった。

聖なる智慧の灯明は、その時、恐怖のあまり身の毛をよだて、かつてないほどの驚きを覚え、光英如来の許に参って、こう申し上げた。

「天中の天よ!いったい誰が、比丘のような姿をして、このような大音声を発したのでしょうか。私はその音を聞いて、恐怖のあまり自分を制することができず、まるで大風が吹けば何もかもが吹き倒されてしまうように、その場に崩れ落ちてしまいました。」

すると、その仏はお答えになった。「不退転の位を得た、文殊師利という菩薩がおられる。その方は神通力と聖なる智慧の力をもって、この国に来られたのだ。私に会って礼拝し、様々な教えを問いただそうとしておられる。先ほど、光音天に姿を現し、大音声を挙げて、三千大千世界に遍く響き渡らせ、魔王の宮殿を震わせ、悪しき道を滅して、一切の者を喜ばせたのは、その方である。」

その弟子は仏に申し上げた。「どうか、文殊師利にお目にかかりたいと願います。天中の天よ、そのような優れた方にお会いできるならば、これに勝る幸いはございません。」

「時,光英佛即作感應,請文殊師利;於是文殊師利與諸菩薩及諸天,從虛空中忽然來下,往詣光英如來佛所,稽首佛足遶佛三匝,各以神力化作法座而坐。

そのとき、光英仏は即座に感じ応じて、文殊師利を請じました。すると文殊師利は、諸々の菩薩や天部の者たちと共に、虚空の中から忽然として降り立ち、光英如来の御許へと赴きました。仏の足に額ずき、三度周りを巡り、それぞれ神通力をもって法座を化現させて座りました。

「爾時,光英佛問文殊師利:『仁者何興到此世界?欲何觀採?』文殊師利白佛:『欲見世尊,稽首致敬啟問法事,故來至此。』又問:『文殊師利!云何觀如來而為淨見?云何禮如來?云何問訊如來?云何講問?云何聽受如來所說?』

そのとき、光英仏が文殊師利に問いました。「あなたはなぜこの世界に来られたのですか。何を見ようとしておられるのですか。」

文殊師利は仏に答えました。「世尊にお目にかかり、頭を下げて敬意を表し、法についての事柄をお尋ねしようと思い、ここに参りました。」

さらに光英仏は問いました。「文殊師利よ。如来をどのように観じて、清らかな見方とするのですか。どのように如来を礼拝するのですか。どのように如来に安否を問うのですか。どのように教えを尋ねるのですか。どのように如来の説法をお聴きし、受持するのですか。」

「文殊師利曰:『觀諸法寂為清淨見如來。為清淨觀,亦無身無意無心、無禮無敬、無卒無暴、無壞無住,不常得、從空生、無心行、常寂寞,如是為觀如來。而無我,不作等色,亦不以等為等,不以邪為邪,而一平等。諸佛世尊法身俱為己身,亦見入法身所見、亦無見無所見、亦無遠無所近,如是為禮如來。而作寂寞問,無有想念、亦無見有法、亦不見無寂寞法,我者已寂,於一切法便默,作平等問、不迷惑問。其有欲問及問者,彼無有二,求度無極,所問淨三道場,如是為問訊如來。如無去問無沈浮,所言柔順可如來意,悅諸眾會不著他心,以是所問,令無數人立於道義,不捨德鎧至坐佛樹,如是聽講為問如來。』

文殊師利が言いました。

「諸々の現象が静寂であると観じることが、清らかに如来を見ることです。清らかな観察とは、身体も、こころも、意識もなく、敬うこともなく、慌てることもなく、壊すこともとどまることもなく、常に捉えられることもなく、空から生じ、心の動きもなく、常に静かであること。これが如来を観るということです。

そこには我(自己)はなく、色(かたち)を等しくすることもなく、等しいものを等しいとせず、邪なるものを邪とせず、全ては一つに等しいのです。諸仏・世尊の法身はすべて我が身であり、法身に入って見ることができる、ということも、見ることも見られることもなく、遠いことも近いこともない。これが如来を礼拝するということです。

静寂の問いかけを行い、想いや考えはなく、法の存在を見ることもなく、静寂の法がないと見ることもありません。私はすでに静寂であり、すべての法に対して沈黙し、平等の問いかけを行い、迷いのない問いかけをします。もし問おうとする者と問われる者がいるなら、その二つに区別はありません。悟りを求めて極みに至り、その問いによって三道(三つの迷いの領域)の修行の場を清めるのです。これが如来に問いかけるということです。

如来に問いかけることは、行き来も浮き沈みもなく、言葉は柔らかく如来の意にかなっており、多くの人々を喜ばせ、他者の心にしがみつくことはありません。この問いによって、無数の人々を悟りの道に立たせ、悟りを開くその時まで仏道の鎧を捨てず、このように説法を聞くことが如来に問いかけるということです。」

「於是光英如來、正覺讚文殊師利童子曰:『善哉,善哉!仁者如是,為見如來稽首作禮講問法義。』於是,文殊師利問聖智燈明大弟子:『尊者,云何見如來稽首作禮?云何問法義?』答曰:『唯,文殊師利!我不及此亦非其類,弟子以音而得解脫,不了是事。』又問:『云何賢者,意而證時,言是信證而解脫耶?』答曰:『文殊師利!我麁說耳未講深義。』

そこで、光英如来(正覚者)は文殊師利童子にこう告げられました。「善きかな、善きかな。仁者よ、あなたはこのように如来を拝見し、礼拝し、法の意味をお尋ねになったのですね。」

そこで、文殊師利は聖智灯明の大弟子に尋ねました。「尊者よ、あなたはどのように如来を拝見し、礼拝するのですか。また、どのように法の意味を問うのですか。」

弟子は答えました。「唯々、文殊師利よ。私はこの境地には及ばず、またその類でもありません。弟子は音声によって解脱を得るものであり、この事柄を理解することはできません。」

さらに文殊師利が問いました。「賢者よ、あなたが心で真理を証得する時、それを信じ証として解脱と言うのですか。」

答えました。「文殊師利よ、私は粗い説明をしているに過ぎず、深い意味をお話ししてはいないのです。」

「又問:『何謂講暢深義之平等乎?』答曰:『不御平等、不導深義。』又曰:『何說起滅空義無深,而得空義無平等想?如是為一審諦,則是深入誠實之義。』曰:『新學菩薩,聞此言者得無恐懼?』文殊師利答曰:『仁者今已恐懼,況於新學。』聖智曰:『無能恐我者。』答曰:『向者何為恐懼?賢者未厭解脫乎?』曰:『非不恐、非無厭而得解脫也。』

また問う:「深い意味を説く平等とは何か?」 答え:「平等に執着せず、深い意味に導かれないことである。」 さらに言う:「どのようにして『起こりと消えは空であり、深い意味はない』と説きながら、空の意味に平等の考えがないというのか? このように一つに究めれば、それは誠実な意味に深く入ることである。」 問う:「修行を始めたばかりの菩薩は、この言葉を聞いて恐れないだろうか?」 文殊師利が答える:「尊者よ、あなたがすでに恐れている、ましてや初心者たちはなおさらだ。」 聖智が言う:「私を恐れさせるものは何もない。」 答え:「先ほど、なぜ恐れたのか? 賢者は解脱に飽き足らないのか?」 言う:「恐れるのでもなく、飽き足らないのでもないが、それでも解脱を得るのである。」

「文殊師利曰:『用賢者本恐懼俱合,以故說仁今已恐懼,況新學耶!』問文殊師利曰:『菩薩何因而得解脫?』曰:『致無恐懼而不穢厭。』又問:『文殊師利!此言何謂?』答曰:『不畏億百千魔及官屬,為一切說法而無疲厭,不畏積功累無量德,植無數慧所行不倦。』

文殊師利がおっしゃいました。「賢者であっても、もともと恐れと共にあるものです。それゆえに、私は『仁』について説きました。今や私自身も恐れを抱いています。ましてや、新しく学び始めた者であればなおさらです。」

そこで、ある人が文殊師利に尋ねました。「菩薩は何によって解脱を得るのですか?」

文殊師利がお答えになりました。「恐れることなく、また汚れや嫌悪を抱かないことによってです。」

さらに尋ねました。「文殊師利よ、その言葉はどういう意味ですか?」

お答えになりました。「数えきれないほどの百千もの悪魔やその眷属を恐れず、一切衆生のために法を説き、疲れ嫌になることがありません。また、限りない功徳を積み重ねることや、無数の智慧を培うことを厭わず、その行いに倦むことがないのです。」

「時,彼會中有諸天,各持種種奇異之華,用散文殊師利上,悉俱言曰:『文殊師利所止頓處,則當等觀,是則如來為正威神,文殊師利所在擁護,以一切德救濟眾人為講說法。』

その時、その集いの諸天たちは、それぞれ様々な珍しい花を手に取り、文殊師利の上にまき散らして、皆で言いました。 「文殊師利がおられる場所こそ、まさに等しく観るべきところです。それは如来のまことの威神力によるものです。文殊師利はあらゆる場所で守護され、すべての徳をもって人々を救い、法を説き明かしてくださいます。」

「於是,文殊師利謂聖智燈明弟子:『世尊歎詠耆年智慧,云何智慧有為無為乎?假使有為則為起分,設使無為彼亦造相。』答文殊師利曰:『諸聖賢所念,但講無為。』又問:『無為寧有念說耶?』答曰:『無也!』

そこで文殊師利は聖智燈明の弟子に問いかけました。

「世尊は年長者の智慧を称賛されましたが、その智慧とは、何かを行為を伴うもの(有為)と見るべきでしょうか、それとも行為を超えたもの(無為)と見るべきでしょうか?もし有為であれば、それは形成されたもの(起分)に過ぎません。また無為と見なせば、それもまた一つの概念(相)を作り出していることになります。」

弟子は答えて言いました。「聖なる賢者たちが心に念じるのは、ただ無為についてのみ語ることです。」

文殊師利がさらに問いました。「では、無為に語るべき念(思い)などがあるのでしょうか?」

弟子は答えました。「いいえ、ありません。」

「文殊師利又問:『諸聖賢何為講說無為之行乎?』爾時,聖智燈明弟子,默然無以加報。於是光英如來、無所著、等正覺告文殊師利:『為是眾會講說法門,令諸天聞受其法,眾菩薩聞立不退轉,逮無上正真道。』文殊師利曰:『其正法門者行寂寞,於寂門無言說,以恬然為清淨。』

文殊師利が尋ねました。 「諸々の聖者や賢者は、なぜ無為の行いを説かれるのですか?」

その時、聖なる智慧の灯明である弟子たちは、沈黙し、答える言葉がありませんでした。

そこで、光英如来(とらわれることなく、正しく悟りを開いた方)は、文殊師利に告げられました。 「この集まりの者たちのために、法の門を説きなさい。天の人々がその法を聞いて受け入れ、菩薩たちが聞いて不退転の位に立ち、無上の正しい覚りを得るために。」

文殊師利は答えました。 「その正しい法の門とは、静寂の中で行われます。静寂の門には言葉による説明はなく、ただ穏やかであること、それが清らかさなのです。」

「時彼眾中,有菩薩號曰法意,在於會坐,問文殊師利:『設使如來說婬怒癡事時,豈是寂寞法乎?其恬然門寧為靜泊清淨法耶?』文殊師利答曰:『仁意云何?婬怒癡焉在?從何起乎?』曰:『從念起想而有。』

その時、会衆の中に「法意」という名の菩薩がいて、席に着いたまま文殊師利に問うた。

「もし如来が、婬・怒・痴について説かれるならば、それは寂滅の法なのでしょうか? その静かな教えは、清らかで穏やかな清浄の法なのでしょうか?」

文殊師利が答えた。

「あなたはどう思いますか?婬・怒・痴とは、いったいどこにあり、どこから起こるのですか?」

法意が言った。

「(心に)想いを起こし、それに執着することで生じます。」

「又問:『想念從何起?』答曰:『從習起。』又問:『習者從何有?』答曰:『從我所非我所而有。』又問:『是我所非我所從何起?』答曰:『從貪身有。』又問:『貪身復從何起?』答曰:『用住吾我故。』又問:『吾我從何起?』答曰:『文殊師利!吾我者,不見所住,亦無有處亦非無處。所以者何?普至十方求於吾我不可得也。』
「文殊師利曰:『如是,族姓子!其有詣十方欲索法處,亦不可得亦不可見。所以者何,彼法寧有門不?』答曰:『有無門之門。』文殊師利曰:『我以是故,言諸法門悉寂寞,一切所說而淡泊門,靜然而致清淨。』

文殊師利が言った。 「そのとおりです、善き家の方々。もし誰かが十方の世界に赴き、教えを求める場所を探そうとしても、それは得ることができず、見ることもできません。なぜなら、その教えに門があるでしょうか?」 答えて言った。 「門なき門がございます。」 文殊師利が言った。 「それゆえに私は言うのです。すべての教えの門は静寂であり、一切の言葉は淡々として門であり、静かにして清らかさに至るのだと。」

「說是語時,八千菩薩得不起法忍。爾時,文殊師利,廣為眾會說法,便從坐起而去。用是故,須菩提!當了知此,無有弟子及菩薩者,吾等莫能當其辯才,豈敢堪任與文殊師利講法談乎!」

この言葉が説かれた時、八千の菩薩が無生法忍(すべての現象が生じも滅しもしないと悟る境地)を得ました。その時、文殊師利菩薩は大勢の集まりのために広く法を説き、その後、座を立って去って行かれました。

ですから、須菩提よ、このことをよく知らねばなりません。ここには「弟子」も「菩薩」も固定的な実体としては存在しません。私たちは、文殊師利菩薩の弁才にはとても敵いません。どうしてよくもまあ、文殊師利菩薩と法について議論し語り合おうなどと、その任に堪えられると思えたものでしょうか。

爾時,賢者須菩提問舍利弗:「仁者復見文殊師利,有何異神通變化,往來遊諸佛土?」

その時、賢者である須菩提が舎利弗に尋ねました。「あなたは文殊師利が、仏の国々を訪ね歩く際に、他にどのような特別な神通力や変化を見ましたか?」

舍利弗答須菩提曰:「我憶念昔者曾與文殊師利共遊諸國,有佛土火起而燒剎,便有自然蓮華遍布具足,文殊師利蹈上而行,或有滿火其火柔軟;譬如細靡之衣、好食美味香,如栴檀塗身及衣臥具,從其佛國於虛空中,自然化作梵之宮殿立之嚴飾。時諸菩薩入坐其中定意正受,或有佛國而現興盛,發一切信得致佛道,行無蔽匿之慈普救眾生。何謂為佛道行無蔽匿之慈?以一切人有婬怒癡塵勞之火,若得無上正真道最正覺者,三垢以斷為眾說法,以慈哀心定意正受,是謂佛道行無蔽匿慈。

舎利弗が須菩提に答えて言った。「私はかつて文殊師利と共に諸国を遊行したことを覚えています。ある仏の国で火が起こり、寺の塔(しょう)が燃えていた時、自然に遍く完全な蓮華が現れ、文殊師利はその上を歩いておられました。あるいは、その火で満ちている場所でも、火は柔らかく、まるで細やかな綿の衣、美味しい食べ物、良い香りのようなものでした。それは栴檀(せんだん)を身に塗り、衣や寝具にも塗ったかのようであり、その仏の国から虚空の中で、自然に梵天の宮殿が化作し、立ち現れ、厳かに飾られました。その時、多くの菩薩たちはその中に入って坐し、定において正しく心を統一していました。また、ある仏の国では、その盛んな様子が現れ、一切の信仰を起こして仏道に至り、隠し立てのない慈悲を行って衆生を広く救っていました。では、何をもって仏道における隠し立てのない慈悲とするのでしょうか?それは、すべての人々が婬・怒り・痴という塵の火を持っているが、もし無上正真道の最も正しい覚者を得たならば、三つの煩悩の垢を断ち切って、衆生のために法を説き、慈悲の心をもって定に正しく心を統一することです。これを仏道における隠し立てのない慈悲といいます。」

「唯,須菩提!吾時獨處心自念言:『我為住是三千大千世界,以神足力與文殊師利等矣。』於是文殊師利知吾所念,來謂我言:『當用賢者舍利弗神足共過此世界。』吾盡現神力越度大火,晝夜精進行積七日,與文殊師利越彼佛國,然後到第二三千大千世界,其剎亦燒火炎甚廣,周遍佛土,文殊師利便住於彼,謂我言:『唯,舍利弗!當承誰神足度彼世界?』吾答:『當以仁者文殊師利神足度是佛土。』於是文殊師利發意之頃,令其世界滿布蓮華,便即度去,謂我言:『唯,舍利弗!神力孰踰?』吾答曰:『雀以蠹蟲,比金翅鳥鳳凰王,至於二者不可相方,金翅鳥王一舉無數我身,譬如蠹蟲雀耳,神力相超其猶如是。』文殊師利謂我言:『曷云仁者舍利弗獨處心念:「文殊師利神足及我神足等焉。」』文殊師利曰:『效之於今,何者為智?』吾答曰:『弟子止處其限未斷無所比,自見止處限斷而遂平等。』文殊師利讚曰:『善哉,善哉!唯,舍利弗!如若所言,昔者住世有兩仙人,止頓海邊,一人名曰好妙法,一人名曰施信安,其好妙法,得仙五通以用自娛;施信安,以言說神呪飛行虛空。時兩仙人俱從海邊,欲共飛度巨海周旋彼岸。彼施信安心念言:「其好妙法神足與我等矣。」然後復共飛度大海到女鬼界。

「ただ、須菩提よ。私はひとりで静かに座って、心の中でこう考えました。『私はこの三千大千世界にとどまり、神通力によって文殊師利と同等である』と。すると文殊師利が私の思いを察し、来て私に言いました。『賢者・舎利弗よ、あなたの神通力によって、ともにこの世界を越えよう』と。

私は全力で神通力を発揮し、大火を越えようと精進して七日間昼夜を徹しました。文殊師利と共にその仏国を越え、その後、第二の三千大千世界に到着しました。その世界の仏土もまた大火に包まれ、炎が広がっていました。文殊師利はそこに留まり、私に言いました。『舎利弗よ、誰の神通力によって、その世界を越えるつもりか?』と。私は答えました。『あなた、文殊師利の神通力によってこの仏土を越えましょう』と。

すると文殊師利は一念の間に、その世界を蓮華で満たし、即座に渡り終え、私に言いました。『舎利弗よ、神通力においてどちらが優れているか?』と。私は答えました。『雀と虫を、金翅鳥や鳳凰の王と比べるようなものです。両者は比べることができません。金翅鳥の王は一度羽ばたくだけで無数の私の身を運びますが、私はちょうど虫や雀のようなものです。神通力の差は、このようなものです』と。

文殊師利は私に言いました。『どうして賢者・舎利弗は独り心の中で、「文殊師利の神通力と私の神通力は等しい」と思ったのか?』と。そして文殊師利は言いました。『今この場で比べてみよう。どちらが智慧があるか?』と。私は答えました。『弟子はとどまる所に限りがあり、その限りを断ち切っていないため、比べることはできません。自分がとどまる所に限りがあり、それを断ち切った者と、ついには平等になると見ます』と。

文殊師利は賛嘆して言いました。『善いかな、善いかな。舎利弗よ、あなたが言う通りだ。昔、この世に二人の仙人が住んでいた。海辺に滞在していた。一人の名は好妙法、もう一人は施信安といった。好妙法は仙人として五通を得て、それを自らの楽しみとしていた。施信安は言葉の力で神呪を唱え、虚空を飛行した。その時、二人の仙人は共に海辺から大海を飛び越え、その彼岸を巡ろうとした。施信安は心の中で思った。「あの好妙法の神通力は私と等しい」と。その後、再び共に大海を飛び越え、女鬼の世界に至った。』」

「『爾時羅剎鼓人妓樂,施信安仙人聞其樂音及見女鬼,即便恐怖從虛空墮地,不能復識海邊居處;於是好妙法時愍傷之,右手舉之還故所止。』文殊師利謂舍利弗:『爾時,好妙法仙人者,則吾身是;施信安仙人者,舍利弗是也。彼時耆年誠非其類自謂為等,今亦如之。』」

「そのとき、羅刹(鬼)たちが楽器を奏でて歌い踊りました。施信安という仙人はその音楽と女鬼たちの姿を見て、たちまち恐怖に襲われ、虚空から地に落ちてしまい、もはや海辺の住処(すみか)を見分けることもできなくなりました。そこで、すぐれた教えをもつ仙人(好妙法仙人)はこれを哀れみ、右手で彼を持ち上げて、もとの住処に戻してやりました。」 文殊師利は舎利弗に言いました。「そのとき、好妙法仙人と呼ばれたのは、このわたし(文殊)であり、施信仙人は、あなた(舎利弗)だったのです。あのとき、年長者であるあなたは、実は我々とは異なる境地だったのに、自らを同等と見なしましたが、今も同じです。」

舍利弗謂須菩提:「我復憶念,曾與文殊師利南遊諸佛國,越無央數百千佛土,有世界名諸好莊飾,佛號德寶尊如來,詣彼佛土,欲見世尊稽首作禮。文殊師利謂我言:『唯,舍利弗!寧見此諸所共度佛國不乎?』我答曰:『已見矣。』文殊師利問吾:『舍利弗!如何見此諸佛土?』我答曰:『或見滿火者,或不具足者,或自然如虛空者,或以神足而立。』又問我言:『唯,舍利弗!當何以觀是佛國?』吾答曰:『其滿火者當觀滿火,其不具足者視之為不具足。其如虛空者當覩如虛空,其以神足立者當瞻以神足立。』

舎利弗が須菩提に語った。「私はかつて、文殊師利と共に南方の多くの仏の国々を巡ったことを覚えています。数えきれないほどの百千の仏の国土を越えた先に、『諸好荘飾』という名の世界がありました。そこには『徳宝尊如来』という尊い仏がおられました。私たちはその仏の国へ赴き、その世尊に会って頭を地につけて礼拝しようとしました。その時、文殊師利が私に言いました。

『舎利弗よ、この私たちが共に通り過ぎてきた仏の国々をご覧になりましたか。』

私は答えました。『はい、見ました。』

文殊師利がさらに尋ねました。『舎利弗よ、これらの仏の国土を、どのようにご覧になりましたか。』

私は答えました。『あるものは炎で満ちているように見え、あるものは不完全に見え、あるものは自然に虚空のように見え、またあるものは神通力によって成り立っているように見えました。』

文殊師利がまた私に言いました。『舎利弗よ、では、この仏の国を、どのように観るべきでしょうか。』

私は答えました。『炎で満ちているものは炎で満ちていると観じ、不完全なものは不完全だと観じ、虚空のようなものは虚空の如く観じ、神通力によって成り立っているものは神通力によって成り立っていると観るべきです。』」

「文殊師利曰:『如舍利弗境界,所講說亦然。』我即問文殊師利:『仁者如何觀諸佛國?』文殊師利曰:『唯,舍利弗!一切佛界皆為虛空之土。所以者何?悉如幻化。所現滿火而不具足,如虛空自然以神足立耳。曷云來起此之因緣起分之行?虛空無緣常自然住,如是諸塵勞污著意心不立淨。

文殊師利が言われた。「舎利弗よ、あなたの境地がそのまま、あなたの説くところもまた同じである。」 そこで私は文殊師利に尋ねた。「尊者よ、どのように仏の国々を見ておられますか?」 文殊師利は答えられた。「おお、舎利弗よ、すべての仏の世界は、みな虚空のような土なのだ。なぜなら、すべて幻のように現れるものだからである。そこに火が満ちていようと、それは実在ではない。虚空が自然に神通力によって立てられているようなものだ。どうしてこの因縁や行いの区分が起こり立つと言えようか?虚空には縁(よ)るものはなく、常に自然に存在している。同じように、これらすべての煩悩の汚れは心に固執しなければ、清らかさは成り立たないのである。」

「『譬如恒沙佛國悉皆被火不燒虛空;如是,舍利弗!一一人犯恒沙諸不善本積眾殃惡,其意終已不立清淨。若男子、女人能入淨法界者,無有所住及諸覆蓋亦不作想,無能令其意有所受住,是謂無所受住法門。以一門了御諸法皆受諸法,不生眾蓋而蔽法意亦無善惡。』如是,仁者須菩提!文殊師利神足變化,所在說法吾目所覩矣。」

舎利弗よ、例えるならば、あらゆる仏の国土がすべて火に覆われても、虚空が焼かれることはないようなものだ。それと同じく、たとえ一人の人間が、ガンジスの砂の数ほどの無数の不善の根本を積み、多くの罪悪を積み重ねても、その心がついに清浄を立てないことはない。

もし男子や女子が清らかな法の界に入ることができるならば、とどまることもなく、さまざまな覆いもなく、さらに思いを巡らすこともない。その心を何かにとどまらせたり、受け取らせたりすることはできない。これを「受け取るところなくとどまる法の門」という。一つの門をもってすべての法を理解し受け入れ、多くの覆いが生じて法の心を蔽うこともなく、善悪もないのである。

このように、尊い須菩提よ、文殊師利の神通変化と、その説法される様を、私はこの目で見たのである。

爾時,賢者阿難謂舍利弗:「唯,仁者!我亦更見文殊師利於祇樹園所現變化。吾憶念昔佛遊舍衛給飯孤獨精舍,與大比丘眾千二百五十菩薩萬二千俱。時,大淋雨雲霧黤黮至于七日七夜,其有比丘得大神通,普行一心解脫之門,定意正受雖不得食,以三昧三摩越而以自立,其未定意及正受者,晝夜五日斷不得供,身體羸劣而無氣力不任見佛。吾心念言:『是諸比丘或不存命。』我時詣佛所而白言:『諸比丘眾斷不得食,餓來五日,羸頓虛劣不能自起。』佛告我言:『阿難!汝往語文殊師利,為說是事,用比丘僧故。』

時に、尊者アーナンダはシャーリプトラに告げた。

「尊者よ。私もまた、ギータ林園で文殊師利が示した変化を目にしました。

かつて、世尊が舎衛国の給孤独園に滞在されていた時のことです。そこには大比丘衆千二百五十人、菩薩一万二千人が共にありました。その時、大雨が降り、雲や霧が立ち込めて、七日七晩続きました。大いなる神通力を得た比丘たちは、一心に解脱の門を実践し、定意(じょうい)や正受(しょうじゅ)に安住し、食べ物を得られなくとも禅定の力によって自らを支えていました。しかし、まだ定意や正受を得ていない者たちは、昼夜五日間、食を得る機会がなく、身体は弱り果て、力なく、世尊のもとへ参じることもできませんでした。

私は心にこう思いました。『この比丘たちは、もしかすると命を落としてしまうかもしれない。』そうして私は世尊のもとへ参り、申し上げました。『比丘たちは食事を得られず、飢えが五日も続き、弱り果てて、自ら起き上がることもできません。』

すると世尊は私に告げられました。『アーナンダよ、あなたは文殊師利のもとへ行き、このことを伝えなさい。比丘僧(そう)のためである。』」

「我時受教,往詣文殊師利之室。時,文殊師利為釋梵四天王說法,吾將是事告文殊師利:『佛遣我來令仁立檀。』文殊師利謂我言:『阿難!並設座具,時至撾揵搥。』我即受其教,出敷床座訖,還至其室,欲知文殊師利出精舍不?文殊師利故在室住更作化,為釋梵四天王說法,有三昧名行入諸身定意正受,出其精舍,入舍衛城分衛。

私はその教えを受けて、文殊師利の部屋へ向かいました。その時、文殊師利は帝釈天、梵天、四天王のために説法をされていました。私はこのことを文殊師利に伝えました。「仏様が私を遣わして、あなたに托鉢の支度をするようにおっしゃいました。」文殊師利は私に言われました。「阿難よ、座具を用意しなさい。時間になったら槌(つい)を打ちなさい。」私はその教えを受け、外に出て敷物と座を用意し終え、再び文殊師利の部屋に戻りました。文殊師利が精舎から出て行かれたかどうかを確かめるためです。ところが文殊師利はあえて部屋に留まり、別の姿を現して、帝釈天、梵天、四天王のために説法を続けていました。そして、「行入諸身定意三昧」という禅定に入り、精舎を出て、舎衛城へ托鉢に出かけました。

「時,魔波旬即心念言:『今文殊師利為師子吼入城分衛,我寧可亂文殊師利所立功德。』魔即化令舍衛城中長者、眾人、無迎逆文殊師利者,亦不與分衛;於是文殊師利所之家居,皆見門閉無出迎者。時,文殊師利即知魔嬈固,化梵志諸長者,即作誠信之願:『假我一一之毛,所有功德智慧所現具足;恒沙世界滿其中魔,不及吾身一毛之德,審諦如是而不虛者,魔之所化即當消滅,使魔自往告諸街里及四徼道,令長者梵志施文殊師利分衛之具,惠此人者其福最大,若有供養三千、大千世界諸有著人百千歲,不如施文殊師利福第一多。』

時に、悪魔波旬は心の中でこう思った。「今、文殊師利が獅子吼のごとく説法し、城に入って托鉢をしている。この文殊師利が積み上げている功徳を、私が妨害してやろう。」そこで悪魔は神通力で変じ、舎衛城の長者や人々が文殊師利を迎え入れず、食べ物の施しも与えないようにした。そこで文殊師利は、訪れる家々の門がすべて閉ざされ、誰も出迎えないのを見た。この時、文殊師利は悪魔が執拗に妨害し、バラモンや長者たちを変じていることを見抜き、誠実なる誓願を立てた。

「もし、私の一本の毛に宿るすべての功徳と智慧が完全に具わり、その徳が、ガンジス河の砂の数ほどの世界に満ちるすべての悪魔を凌ぐものであり、この言葉が真実で虚偽でないならば、悪魔の作り出した幻は即座に消え去り、悪魔自らが街角や四辻に行き、『長者やバラモンたちよ、文殊師利に施しの食べ物を与えなさい。この人に施す者は、計り知れない福徳を得るだろう。もし三千大千世界に住む執着ある者たちに百年もの間、供養を続けるよりも、文殊師利に施しを与えることの方が、その福徳においてはるかに勝るのだ』と告げよ。」

「文殊師利適發是願,尋如所念,一切門戶皆為之開,人悉自往迎文殊師利,弊魔入諸街里家家唱令,及四徼道使諸凡民長者梵志,施與文殊師利供具者其福最大。若供三千大千世界諸著之人百千歲中,施以諸安隨其所欲,不及善與文殊師利分衛其福德最厚。於是,文殊師利化所得食盈滿應器,種種甘美其味各異,味味殊別不相錯入,過踰足請千二百五十比丘、萬二千菩薩,鉢中所變其如是也。

文殊師利がこの願いを発すると、その思いのままに、たちまちすべての門戸が開かれた。人々は皆、自ら進んで文殊師利を迎えに出向いた。ところが、悪魔が街中や路地に入って「すべての平民、長者、バラモンたちに告ぐ。文殊師利に供養を施す者は、その福が最も大きい。もし三千大千世界の全ての執着ある人々に対して、百千年の間、さまざまな安楽を施し、その望みに従って与えたとしても、文殊師利に托鉢の施しをすることほどには福徳が厚くない」と触れ回ったのである。

そこで文殊師利は、托鉢で得た食物を鉢いっぱいに変化させた。それらはさまざまな美味でそれぞれ味が異なり、味わいごとに違っていて混ざり合うことはなかった。千二百五十人の比丘と一万二千人の菩薩を十分に満たすのに余りあるほどであり、鉢の中に現れた変化はこのようなものであった。

「爾時,文殊師利分衛周已,出舍衛大城,魔即侍隨。是時,文殊師利於中道住持鉢著地,謂魔波旬:『汝且舉鉢在於前行。』於是波旬從地舉鉢而不能稱,白文殊師利:『我實不能舉搖此鉢。』文殊師利告波旬曰:『卿有力勢神通無極,以大神足擎舉此鉢。』於是波旬盡現神力了不能稱,變化舉鉢不能令鉢離地如髮。

爾時、文殊師利は托鉢を終えて、舎衛大城を出られました。すると魔(悪魔)がついてきました。その時、文殊師利は道の途中で立ち止まり、鉢を地に置いて、魔王の波旬に言われました。「あなたがこの鉢を前に持って行きなさい。」 そこで波旬は地から鉢を持ち上げようとしましたが、重くて持ち上げられません。波旬は文殊師利に申し上げました。「私は本当にこの鉢を揺り動かすことすらできません。」 文殊師利は波旬に言われました。「あなたには力と勢いがあり、神通力は限りがありません。その大きな神通力でこの鉢を掲げなさい。」 そこで波旬は全力で神通力を現しましたが、全く持ち上げられませんでした。変化の力で鉢を上げようとしましたが、鉢を地から髪の毛一本分も動かすことができませんでした。

「彼時波旬得未曾有,謂文殊師利:『有山名曰伊沙陀,發意之頃,我能以掌跳置虛空,今此小鉢而不能稱。』文殊師利謂魔波旬:『所以不能舉稱鉢者,卿每自以比諸菩薩大人,力著此鉢,故不能舉。』文殊師利於是從地舉鉢,授魔曰:『波旬!汝執此鉢且於前行。』

その時、悪魔の波旬はかつてない驚きを覚えて文殊師利に言った。 「イシャ陀という名の山があるが、私は思い立った瞬間に、その山を手のひらに载せて空中に放り投げることができる。しかし、今この小さな鉢は、持ち上げることさえできない。」 文殊師利は悪魔の波旬に答えた。 「あなたがその鉢を持ち上げられないのは、あなたが常に自分を菩薩や大人たちと比べて、その力でこの鉢に執着しているからだ。」 そこで文殊師利は地面から鉢を取り上げ、悪魔に手渡して言った。 「波旬よ、あなたはこの鉢を持って、しばらく先を行きなさい。」

「爾時,波旬甚自厭苦,舉鉢纔勝,魔為自在諸天中尊,與萬二千天俱,眷屬圍繞在前持鉢,稽首文殊師利足。諸天謂魔波旬:『仁者曷為持鉢在文殊師利前,譬如侍者?』波旬答諸天曰:『不當與強者共爭。』又問波旬:『仁者亦有大神通無極之力,何故不堪?』

その時、魔王は大いに苦しみ、やっとの思いで鉢を持ち上げた。魔王は諸天の中でも自在の主であり、一万二千の天部とともに、眷属に囲まれて前に進み出て鉢を捧げ持ち、文殊師利の足元に額づいた。天部たちは魔王に言った。「尊者よ、なぜ文殊師利の前に侍者のようにして鉢を持っておられるのですか。」魔王は天部たちに答えた。「強者と争ってはならないのだ。」さらに天部たちが尋ねた。「尊者は広大な神通力と無限の力を持つお方。それなのにどうして耐えられないのでしょうか。」

「於是波旬承文殊師利聖旨,雖為尊天由無所堪,波旬答諸天曰:『魔力者為癡,菩薩力者為智慧,魔力者受諸見而住立,菩薩力者曉解大空;魔力者欺詐,菩薩力者誠實;魔力者是我所非我所,菩薩力者大慈大悲;魔力者婬怒癡門,菩薩力者三脫門;魔力者終始往來生死,菩薩力者不生不滅不起法忍。』天魔波旬說是語時,諸天眾中五百天發無上正真道意,三百菩薩得不起法忍。

そこで波旬は文殊師利の聖旨を受け、天の尊位にあっても何をなすこともかなわず、諸天に答えて言った。 「魔力とは愚痴であり、菩薩の力とは智慧である。 魔力とはさまざまな執着を受け入れ、それに立っているが、菩薩の力とは大いなる空を悟る。 魔力とは欺きであり、菩薩の力とは誠実である。 魔力とは我と我がものとすることであり、菩薩の力とは大慈大悲である。 魔力とは貪り・怒り・迷いの門であり、菩薩の力とは三つの解脱の門である。 魔力とは終わりなく生死を往来することであり、菩薩の力とは生まれず滅せず、生じもせず滅びもせぬという真実のことわりを得るのである。」 天魔波旬がこの言葉を語ったとき、天の諸衆のうち五百の天が無上の正しい悟りの心を起こし、三百の菩薩は生じもせず滅びもせぬ真実のことわりを得た。

「爾時,文殊師利及魔波旬,持鉢置講堂上。賢者阿難亦不察之,飯時已到,亦不見文殊師利從室出,時心念言:『文殊師利得無欺諸比丘僧?我宜孚往白世尊言:「時今已到,文殊師利不出其室。」』阿難即往白佛:『不見文殊師利出其室。』時,佛告阿難:『汝寧察講堂上不乎?』阿難白佛:『唯然,世尊!已見滿鉢之食在講堂上。』佛告阿難:『汝撾揵椎聚比丘眾。』我白佛言:『唯然,世尊!大比丘眾其數甚多,一鉢飯食何所足乎?』佛言阿難:『且止,默然而行。假使滿三千大千世界中人,百千歲共食此飯終不耗減。所以者何?文殊師利聖旨神化,令此鉢食無有盡時,文殊師利智慧具足神通所立,興造布施以度無極。』

そのとき、文殊師利と悪魔の波旬は、鉢を講堂の上に置きました。賢者アーナンダもそれに気づかず、食事の時間になっても文殊師利が部屋から出てくるのを見ませんでした。そこでアーナンダは考えました。「文殊師利は、まさか比丘たちをだましたりはしないだろうか?私はすぐに世尊のもとへ行って申し上げよう。『食事の時間になりましたが、文殊師利は部屋から出てきません。』」アーナンダはすぐに仏のもとへ行き、申し上げました。「文殊師利が部屋から出てくるのが見えません。」すると仏はアーナンダに告げられました。「あなたは講堂の上を見てみましたか?」アーナンダは仏に答えました。「はい、世尊。講堂の上に、鉢いっぱいの食事があるのを見ました。」仏はアーナンダに告げられました。「それでは、あなたは犍椎(合図の板)を打ち鳴らして、比丘たちを集めなさい。」アーナンダは仏に申し上げました。「はい、世尊。しかし大比丘たちの数は非常に多く、たった一鉢の食事でどうして足りるのでしょうか?」仏はアーナンダに言われました。「その言葉をやめなさい。黙って行動しなさい。たとえ三千大千世界の人々が百千年もの間、この食事を共に食べようとも、決して減ることはありません。なぜなら、文殊師利の聖なる意志と神通力によって、この鉢の食べ物は尽きることがないからです。文殊師利は智慧と神通力を完全に具え、施しを行うことで、限りのない悟りの境地に達しているのです。」

「阿難受教即撾揵椎,會眾比丘,一鉢飯出種種滋味,餚饍甚美甘醲無量,譬如眾器各盛殊異若干之味,皆以供養諸比丘眾及諸菩薩,悉得充滿,其鉢之饌如故不盡。
文殊師利現寶藏經卷上

文殊師利現宝蔵経 巻上


第二

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