第五 不可思議蓮華分
その時、祇陀林の中にあった無量億千那由多の大衆の中から、宝の蓮華が地より湧き出でました。その高さは七多羅樹に及び、その花には八十万ものガンジス河の砂の数ほどの層がありました。その層の一つ一つの中には一人の仏がおられ、無量の大衆に前後を囲まれながら、陀羅尼の意味を説いておられました。このようにして、次々と八十万ものガンジス河の砂の数ほどの諸仏が、それぞれ陀羅尼の意味を説かれました。そして、この花の中からは大いなる光が放たれ、三千大千世界にまで届きました。
その時、大衆はこの瑞相を見て、かつてないことと感じ、何の縁があってこのような姿が忽然と現れたのか知ることができませんでした。その時、大衆は皆、疑問を抱きました。「如来は何の縁によってこのような妙なる宝の蓮華を示し、その中の諸仏は妙なる法の宝庫を説いておられるのか。」互いに語り合って、「今、誰に問うべきか」と言いました。
その時、文殊師利は大衆の心に疑いがあるのを知り、即座に座を立ち、右肩をあらわにし、右膝を地につけて仏に申し上げました。「世尊よ、五百の大弟子および一切の大衆は心に疑惑を抱き、私もまた納得しておりません。この花の名は何といいますか。何の縁あって忽然とここに来たのですか。この花は不可思議であり、さらに諸仏がその中にいて、無量の大衆と共に妙なる法の宝庫を説いておられます。この事もまた不可思議であります。さらに、光明が十方の微塵の世界を普く照らしております。この事もまた不可思議であります。この花にはまた三十二種の微妙な荘厳があり、これもまた不可思議であります。この花にはこの四つの不可思議な事があります。この花の名は何といいますか。その中の諸仏の光明の重なりや数は、どちらの方角から忽然とここに来たのですか。何の因縁によってこの相を現しているのですか。」
その時、仏は文殊師利に告げられました。「善き男子よ、この花の名は優曇鉢羅羅闍という。その中の諸仏は皆、釈迦牟尼と名乗り、同じ一字である。これらの諸仏を、私は遠い昔から常に供養してきた。諸仏の所において法性に深く入ったのである。あなたがた大衆もまた供養すべきである。」
その時、無量の大衆は即座に座を立ち、各々花を捧げて諸仏を供養しました。そこに至り、頭を面して足に礼し、花の供養を終えた後は、諸仏を仰ぎ見て、瞬きさえもせずに見つめました。
その時、舎利弗は、「これらの諸仏を供養しよう」と思い立ち、神通力を発揮してこの華の王の周りを巡ろうとした。しかし八十七日が経っても、その百千万分の一すらも巡り尽くせなかった。そこで彼は大声で泣き叫びながら、道を戻って来た。大衆の中に到り、仏に申し上げた。「私は確かに神通力を失ったに違いありません。どうしてでしょう?先ほど無量大衆と共に仏の御許に参り、これらの諸仏を供養しようと思い、神通力を修してこの華を全て見渡そうとしました。八十七日を費やしましたが、その百千万分の一すらも巡り尽くせませんでした。この理由により、私は今、確かに神通力を失ったと断定せざるを得ません。」
その時、仏は舎利弗に告げられた。「たとえ鳥の飛ぶ速さが電光の百千万倍であっても、その速さを更に百千万倍上回る阿羅漢がいて、更にその億倍の菩薩がいて、更にその万万倍の菩薩がいたとしても、百千万億劫の時間をかけても、なおこの華の周りを巡り尽くせないのである。ましてや八十七日で、お前に巡り尽くせるはずがあるだろうか。よく聞きなさい、善き男子よ。お前は神通力を失ってなどいない。譬えば、微塵のように小さな塩の粒があるとしよう。この塩は、『世の中で自分より塩辛いものはない』と自負している。しかし世の中の賢い者がそれを手に取り、大海に投げ込めば、その塩は無駄に消え去り、その塩辛さはどこに存在するだろうか。お前たち声聞もまた同じである。神通力の大きさはその塩の粒のようなものであり、法の味わいの多寡はその塩辛さのようなものである。どうしてこの華の果てを知ろうなどと思うのか。」
その時、世尊は座を立ち、華のところへ行き、その華で諸仏たちを供養された。華の供養を終えると、陀羅尼を説かれた。
バラハテイ バテイラ ビルライタイ タカハタイサ ハハハリ ハアトウホシイ サクホエア アヒホエハ ウツカヤシイ フカヤシイ ポカヤシイ カシャヤシイ アヌカヤシイ アヌカヤシイカヤ フカヤシイカヤ ポカヤシイカヤ フカヤシイカヤ フカシャ フカシャ ポカヤシイカヤ トウホソワカ
その時、全ての仏が陀羅尼を説き終えられました。すると、世尊が座を立ち、諸仏にこう問われました。「今この大いなる方等陀羅尼経は、誰に託すべきであろうか。」その時、会衆の中に八十万のガンジス河の砂の数ほどの法身の大菩薩たちがいました。彼らは立ち上がり、敬って合掌し、仏に申し上げました。「世尊よ、我々は今日より、仏が在世の時も、また入滅された後も、善男子・善女がこの経を修行し、その義を解するならば、たとえ城や村の清らかな場所、あるいは山林の木の下、神仙の住まう所であっても、この経を修行しその義を解する者に対し、我々八十万のガンジス河の砂のごとき菩薩たちは、必ずその人のもとへ参り、その人を守護し、不意の災難に遭わせず、疲れさせることなく、常に容色・体力・名誉などの利益を得させましょう。この人の赴くところ、我々菩薩たちはそのもとへ参り、様々な宮殿や飲食や寝具を、意のままに供養し、不足なく与えましょう。この陀羅尼の力によって、このように供養し、その人の尊い心を失わせないように致しましょう。」
その時、諸仏は菩薩たちを讃えて言われた。 「善い哉、善い哉。もとより娑婆世界に住む者たちよ。よく陀羅尼の教えを受け持ち、修行し、またこの経典を持つ者を供養することは、すなわち十方の諸仏を供養することとなる。あなたたちはまもなく阿耨多羅三藐三菩提(最高の悟り)を得るであろう。なぜなら、この経には無量の威神力があるからだ。あなたたちがこの経を受け持つならば、無量の方便があり、無量の慈悲があり、無量の神通がある。この経の力はこのように偉大である。どうして阿耨多羅三藐三菩提を得られないことがあろうか。」
その時、諸仏は菩薩たちに告げられた。 「善き男子たちよ。諸仏が世に在す時も、また世を去った後も、もしも众生があなたたち一人ひとりの菩薩のもとに来て、『誰が最初に阿耨多羅三藐三菩提を得るのでしょうか』と確かに問うならば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が先に総持陀羅尼の門に入るのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が十方世界の荘厳の事柄を知ることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が清らかな世界に生まれるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が来世に転輪聖王となるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が来世に広く众生を教化し、しっかりと阿耨多羅三藐三菩提の心に安住させるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が来世に諸仏から讚えられるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が十方世界に限りがあるか、限りがないかを知ることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が六つの賊(六根の欲望)から遠ざかることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が様々な煩悩という賊から離れることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が十二の食(十二因縁の食物)から離れることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が十の纏(十の束縛)から離れることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が三種の甘いもの(三つの快楽への執着)から離れることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が毒の害から離れることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が四つの毒(四つの根本的な煩悩)から離れることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が一つの偽りの親しい者(偽りの善知識)から離れることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が世の中の悪い知識(悪友)から離れることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が三つの愛(三界への愛着)に引かれないのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が今世も後世も方等経を謗らないのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が十方世界の中で、どれだけの众生が三菩提心を発し、どれだけの众生が声聞・縁覚の心を発したかを知ることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が、十方の諸仏の説法の声、縁覚の声、声聞の声、具住菩薩の声、不具住菩薩の声、転輪王の声、諸天の声、婆羅門の声、大臣の声、富める者の声、貧しい者の声、楽しみの声、苦しみの声、夜叉の声、餓鬼の声、地獄の声、畜生の声、劫の数の苦しみの報いの声、劫の数によらない苦しみの報いの声を、区別して知ることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。 あるいは『誰が、世の中の様々な香り、海の島々の岸の香り、多摩羅伽香、頻婆伽羅婆香、婆首伽羅香、薰陸香、蘇漫陀香、婆師伽香、塗香、抹香、鷄舌香、沈水香、常に世にある香り、常には世にない香り、仏の菩提の香り、菩薩の究竟の香り、声聞の分段の香り、縁覚の限際の香り、初果の人(預流果)の香り、初果でない人の香り、究竟涅槃の香り、究竟涅槃でない香り、分際の香り(限定された香り)、分際でない香り、転輪王の香り、粟散王の香り、大臣の香り、婆羅門の香り、居士の香り、童男・童女の香り、童男・童女でない香り、地獄・餓鬼・畜生の香り、十方世界の香り、十方世界でない香りを、区別して知ることができるのでしょうか』と問う者があれば、あなたたちは『よく修行してその義を解する者です』と示すべきである。」
また、善き者よ。仏陀が在世の時であれ、入滅の後であれ、この陀羅尼に出会う者があれば、その人は仏陀から遠くないと知るべきである。例えるなら、巧みな木工が林や山に入り、先に小さな木を見つければ、「私は今、材木を得た」と疑いなく悟るようなものだ。
たとえ仏陀が入滅した後であっても、この陀羅尼に出会う者があれば、その人は仏陀から遠くないと知るべきである。それは、人が川に向かって遠くから水の音を聞けば、「私は今、水を得た」と疑いなく悟るようなものだ。
たとえ仏陀が入滅した後であっても、この経典に出会う者があれば、その人は仏陀から遠くないと知るべきである。それは、道に迷った人が正しい道に戻れば、「家は遠くない」と疑いなく悟るようなものだ。
もし仏陀が入滅した後、この経典に出会う者があれば、その人は仏陀から遠くないと疑いなく知るべきである。それは、井戸を掘る人が次第に湿った土を見れば、「水は遠くない」と疑いなく悟るようなものだ。
たとえ仏陀が入滅した後であっても、この経典に出会う者があれば、その人は仏陀から遠くないと知るべきである。
その時、諸仏は菩薩たちに告げられた。
「未来に『妙音声』という名の劫(こう)が訪れる。あなたがた菩薩は、この劫に生まれることとなる。その劫には『妙童幢花(みょうどうどうげ)』という国があり、その世界には『無染行(むぜんぎょう)』という都がある。都には『厳身(ごんしん)』という名の王がいる。この厳身王は、常に十善によって人々を教え導いている。あなたがた菩薩は、この王の家に生まれ、出家して修行し、順に仏となり、皆同じく『釈迦牟尼』と名乗るであろう。」
その時、この花が地より現れ、虚空にあって大いなる光明を放った。その光の中から、様々な妙なる声が菩薩たちを称えた。
「善きかな、善きかな、菩薩たちよ! あなたがたは、まもなくまさに、正しい目覚め(阿耨多羅三藐三菩提)を成就するであろう。諸仏の言葉の通り、疑うことはない。あなたがたは必ずや、この正しい目覚めを固く保ち、常・楽・我・浄の境地を得るであろう。」
すると、この花は虚空の中で、忽然と姿を消した。
その時、五百人の大弟子たちは心に疑問を抱き、こう唱えた。
「ああ、なんと不思議なことか! どのような因縁でこのようなことが起きたのか? この大蓮華は限りなく広がり、虚空にあったのに、突然消えてしまった。今、どこにあるのか、その行方もわからない。この花の中に無量の諸仏がおられたが、今はその方々も共に消えてしまわれた。」
爾時に仏は、会衆の心の中の念いを知り、大衆に告げられた。「私が説いた陀羅尼の経典も、今はもう存在しない。あの花のように、一切の諸法は幻や化け物のようなものであり、虚空の雲のようなものである。一切の諸法もまたまったく同じである。仮にこの花を超える法があったとしても、それも幻や化け物のようなものであり、一定の姿はない。善き男子よ、驚き疑うことはない。このようなことは、あなたがた声聞の思い計り及ぶものではない。先ほど出た花は陀羅尼の力であり、今、消え去ったのもまた陀羅尼の力である。陀羅尼を説こうとしたから、この花は地から涌き出たのである。今や説き終えたので、この花は消え去った。これはあなたがた声聞の議するところではない。諸法が興るときには姿もまた興り、諸法が衰えるときには姿もまた衰える。陀羅尼が興るときに諸々の花も興り、陀羅尼を説き終えると諸々の花は衰え消える。善き男子よ、あなたは見ていないのか? 私がかつて初めて法の輪を転じたとき、無量無辺の大衆、天、人、阿修羅などが前後に囲んだ。これを法が興ると言う。私が説き終えたとき、これを諸法が衰えると言う。天、人、阿修羅は思いのままに去ってゆく。知るがよい、諸法は幻や化け物のようなものである。例えば、人が五十歳に達すれば、常に衰えの道に向かうようなものだ。私が説いた法もまた同じである。説き始めたときから、すでに尽きる性質を有しているのであって、説き終えた後に初めてこの尽きる性質が生じたのではない。この花も初めて出たときから、必ず去る性質があった。疑いの余地はない。法の性質は常にこのようなものである。何を疑うことがあろうか。」
その時、仏は阿難に告げられた。「汝はこの陀羅尼経を受持せよ。私はこの世に出現して、この陀羅尼経をすでに三度転じた。初めて説いた時は、汝に付嘱し、衆生の病苦の厄を救い摂った。第二に説いた時は、我が法を救護し、諸々の悪魔がこれを壊し乱すことを得させなかった。今、第三に説くのは、すべて衆生を救い摂って涅槃に置くためである。ゆえに一つの法を、方便として三度説き、衆生を度するのである。この三つの法を汝に付嘱する。
譬えば、長者に三つの方便があり、常に身を用いて行うことがある。心の方便は念じ、眼の方便は見、手の方便は作す。この三つの事が和合して一つとなる。この陀羅尼経もまた同じである。初めの説は心に譬え、第二の説は眼に譬え、第三の説は手に譬える。三つの名があるが、その実は一つである。一つの仏菩提である。
あたかもかの居士が、まさに終わろうとする時、ただ一人の子があり、この三つの事をその子に付嘱した。子はすでに教えを受け、その後修行して常に高い位を得た。善男子よ!私はすなわち汝の父であり、汝は我が子である。我がこの三つの大方便の因を修めるならば、その後、天中の尊王となることを得るであろう。
居士の子が父の教えに従って後に高貴となるように、もし父の教えに従わなければ、どうして高貴となれようか?汝がもし我がこの教えに従わなければ、どうして天中の尊王を得ることができようか?」
「また、善き男子よ。たとえば大河が大きな谷の中にあるようなものだ。あなたはどう思うか。谷が大きいか、川が大きいか。」 阿難が答えた。「世尊よ、谷は川を収めることができても、川は谷を収めることはできません。したがって、谷の方が大きいのです。」 仏は言われた。「善きかな、善きかな。善き男子よ、よくその言葉を述べた。谷は私を譬え、川はあなたを譬える。谷は大水を抱え、流れ伝わって大海に至る。もしも水がありながら谷に従わず、あちこちに漏れ出て塩地に落ち、塩に侵されてその身を失うことがある。 善き男子よ。また、一つの水が谷の中にありながら、出ようとしないものがある。 善き男子よ。谷は大海を譬え、用は私を譬え、水は菩薩を譬え、留まることは声聞を譬え、塩地は縁覚を譬える。たとえ塩地に入っても、流れ伝わって大海に入る。たとえ谷に留まっても、流れに押されて大海に入る。 善き男子よ。この三つの事は、すべて大海に帰する。 私が今説く陀羅尼の意義は、初めに病を癒すことを説き、次に法を護ることを説き、三番目に身を護ることを説く。三つの名で説かれても、その実は一つなのである。」
「また、善男子よ。譬えば大きな木が地によりて生じ、その頭に二つの枝があるようなものだ。あなたの考えではどうか。木は地によりて生じるのか、地は木によりて生じるのか。」阿難が言った。「世尊よ。木は地によりて生じ、地が木によりて生じるのではありません。」「善きかな、善きかな。善男子よ、よくその言葉を言った。地は私を譬え、木は菩薩を譬え、その枝分かれは声聞と縁覚を譬えている。善男子よ。この三つのものは、種類が違うと言えるだろうか。」阿難が言った。「同じ種類から生まれたものであり、異なるものとは言えません。なぜなら、一つの大地から生まれ、一つの根から伸びるからであり、種類が異なると言うことはできません。」仏が言われた。「善きかな、善男子よ。私の説く陀羅尼の意味もまた、これと同じであり、異なるところはない。なぜなら、一つの金剛身によるからであり、一つの意から生じるからであり、一つの口によって説かれるからであり、この因縁によって混ざり合うことがないのである。私は今、すでに三度陀羅尼を説き、それをあなたに託し付属した。一仏の菩提乗もまたあなたに付属する。あなたは今よく聞き、受け持ち、決してこの陀羅尼を忘れ失ってはならない。もし私がこの世を去ったなら、あなたはこの陀羅尼を流布させなさい。」また阿難に告げられた。「譬えば国王が、髻の中の明珠を非常に大切に愛し、もし臨終の時に最愛の子に授けるようなものだ。私は今、諸々の法の王である。この経はまさに髻の中の明珠のごときものであり、あなたは私の子のようなものである。私は今、この大方等陀羅尼経をあなたに授ける。譬えばこの王が髻の中の明珠をその子に授けるようなものである。」また阿難に告げられた。「譬えば大王が一切の国を統べ治め、臨終に臨んで国政のことを子に託すようなものだ。私もまた今、これと同じである。一切の諸法の中の王として自在を得ており、大小の乗の典籍をあなたに託す。譬えばこの王が善いこと悪いことの一切を子に託すようなものである。阿難よ。私は今、この大方等陀羅尼経をあなたに託す。もし衆生があってあなたのところに来てこの経を求めようとするなら、先の十二の夢の王のように、あなたはその事相をよく説きなさい。その人に対しては、境界の事を説くことができるが、一度の会座で多くを説いてはならない。譬えば、商人が四方を回り歩き、もしある国に到着して宝を売る時には、全てを人に見せないようなものだ。あなたもまた今、これと同じように、少しずつ説きなさい。」また阿難に告げられた。「また譬えば、女が一人の子を持ち、様々な飲食を作って家の中に置いても、全てを子供に示さないようなものだ。これらの飲食は全てその子のためのものであるが、一度に全てを与えて尽きさせてしまうことはしない。あなたもまた今、これと同じように、一度の会座で全ての衆生に境界の事を尽く説いてはならない。」
「また、阿難よ。この陀羅尼は、呪術を用いて病気を治したり、乾陀の鬼の病、狂乱の鬼の病、言葉を話せなくする鬼の病、目を開けさせない鬼の病、人の精気を吸い取る鬼の病、人に唾をかける鬼の病、人を睨みつける鬼の病、膿や血を食べる鬼の病、米や火を捨てさせる鬼の病、魑魅の病、人を惑わす鬼の病、髪の毛を食べる鬼の病、人の心や意識を奪う鬼の病、人の心を食べる鬼の病、大疫病の鬼の病などには、使ってはならない。もしこのような病があっても、決して用いてはならない。ただし、自ら『大方等陀羅尼経』を心に思い浮かべることは別である。なぜか?それは、それらの病には対応していないからである。善男子よ!あなたはどう思うか。もし善男子や善女人が、大地の土をすりつぶして食べ物とし、四大からなるこの身を養い、毎日それを食べ続けたならば、その身は保たれるだろうか?」
阿難は仏に答えた。「いいえ、世尊よ。そのような土は、本来食べ物ではありません。どうして身を保つことができましょうか?」
仏は阿難に告げた。「善いかな、善いかな。善男子よ、その言葉は真実で偽りがない。土は確かに食べ物として適さない。私が今説くこの教えも、末世の病を治すのには適さない。なぜか?この陀羅尼は、それらの病には対応していないからである。阿難よ、私は今すでに『大方等陀羅尼』を説いた。受持すべき者はすでに受持し、教化すべき者はすでに教化し、説くべきことは私がすでに説き終えた。保持すべきことを菩薩は保持し終えたが、声聞が保持すべきことはまだ成就していない。阿難よ!あなたはどう思うか。この章句を受持するか?」
阿難は仏に申し上げた。「世尊よ、私はこの章句を受持いたします。もし仏が世を去られた後、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、バラモンやその子、在家信者やその子、天、龍、夜叉、摩睺羅伽などが、私のもとに来て陀羅尼の意味を問うならば、私は世尊がお説きになった通りに説きましょう。どうか、私にそのお許しを賜れませんでしょうか?」
仏が阿難に告げられた。「よく言った、よく言った。まことによく我が教えを理解し、我が法を用いて三界の苦しみから解脱しようとしている。阿難よ、実に素晴らしい。しかし、人々はこのような経典を受け持ち、守ることができない。重い戒めを破り、正しい教えを誹謗し、聖者に逆らって害を加えるのだ。阿難よ、そのような理由によって、私は今、重ねてこの経をあなたに託す。人々の重い罪を取り除いてあげなさい。」
その時、阿難尊者と五百人の大弟子たち、文殊師利菩薩と菩薩たち、波斯匿王と五百人の比丘たち、優婆塞・優婆夷(在家の信者たち)、居士・居士子たち、そして十方の天子たち、婆蓃大士たち、および様々な罪人たち、さらに八十万億のガンジスの砂の数のごとき菩薩たち、九十二億の天・人・阿修羅たち、限りない大衆は皆、喜びをもってこの教えを受け入れました。それぞれ仏の足に礼拝し、深く敬って心から信受しました。
大方等陀羅尼経 巻第四
婆訶羅帝 婆帝羅毘留頼多 祇呵帝 莎呵 呵呵梨呵 㕧 阿醯 蒲醯呵 鬱呵蛇醯 蒲醯蛇醯 槃蛇醯 阿㝹蛇醯 阿㝹蛇醯 醯蛇 復蛇醯 醯蛇 蒲蛇醯 醯蛇 復蛇醯 醯蛇 蒲蛇醯 醯蛇 復蛇槃 復蛇槃 㕧 莎訶