ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 優婆塞戒経 (優婆塞戒經)
  2. 第一 (第一)
  3. 1 集会品 (1 集會品)
←と→
矢印キーでページをめくれます

優婆塞戒経 (優婆塞戒經)

「優婆塞戒經」について

北涼 · 底本の訳者:曇無讖

6.0 万字 · 約 199 分

『優婆塞戒経』は、北涼時代に天竺の三蔵法師である曇無讖によって漢訳されました。この経典は大乗仏教の重要な教典であり、特に在家の信者(優婆塞、優婆夷)に向けて説かれたものです。その内容の核心は、在家の菩薩がどのように戒律を実践するかを明らかにしており、三帰五戒から六波羅蜜・四摂法に至る広大な行いと願いを網羅しています。世俗の生活の中でいかに仏法を実践し、自らを利し他を利するかを詳細に指南しています。この経典は、在家信者が菩提心を発し、菩薩戒を受持することの可能性と重要性を明確にし、大乗の在家仏教の確固たる理論的基盤を築きました。漢伝仏教において崇高な地位を占め、在家の信者が菩薩の道を学び修めるための根本的な依り所となる経典です。


優婆塞戒經卷第一

優婆塞戒経 巻第一

北涼中印度三藏曇無讖譯

北涼・中インド三蔵・曇無讖訳

集會品第一

集会品第一

如是我聞:

このように私はお聞きしました。

一時,佛在舍衛國祇樹林中阿那邠坻精舍,與大比丘僧千二百五十人,五百比丘尼,千優婆塞,五百乞兒。

ある時、お釈迦様は舎衛国の祇園精舎におられました。そこには千二百五十人の比丘僧、五百人の比丘尼、千人の在家信者、そして五百人の乞食の修行者が集まっていました。

爾時,會中有長者子名曰善生,白佛言:「世尊!外道六師常演說法,教眾生言:『若能晨朝敬禮六方,則得增長命之與財。何以故?東方之土屬于帝釋,有供養者,釋提桓因則為護助。南方之土屬閻羅王,有供養者,彼閻羅王則為護助。西方之土屬婆樓那天,有供養者,彼婆樓那則為護助。北方之土屬拘毘羅天,有供養者,彼拘毘羅則為護助。下方之土屬于火天,有供養者,火天則為護助。上方之土屬于風天,有供養者,彼亦為護。』世尊!佛法之中,頗有如是六方不耶?」

その時、会の中に善生という長者の子がいて、仏にこう申し上げました。「世尊よ、外道の六師はいつも説法し、衆生に教えています。『もし晨朝に六方に向かって敬礼すれば、寿命と財物が増えるであろう。なぜなら、東方の土は帝釈に属し、供養する者があれば、釈提桓因が護り助ける。南方の土は閻羅王に属し、供養する者があれば、その閻羅王が護り助ける。西方の土は婆楼那天に属し、供養する者があれば、その婆楼那が護り助ける。北方の土は拘毘羅天に属し、供養する者があれば、その拘毘羅が護り助ける。下方の土は火天に属し、供養する者があれば、火天が護り助ける。上方の土は風天に属し、供養する者があれば、それも護り助ける』と。世尊よ、仏法の中にも、このような六方というものがあるのでしょうか?」

「善男子!我佛法中亦有六方,所謂六波羅蜜。東方則是檀波羅蜜。何以故?始初出者,為出智慧光因緣故。彼東方者屬眾生心,若有眾生能供養彼檀波羅蜜,則為增長壽命與財。南方即是尸波羅蜜。何以故?尸波羅蜜名之為右,若人供養,亦得增長壽命與財。西方即是羼提波羅蜜。何以故?彼西方者名之為後,一切惡法棄於後故,若有供養,則得增長壽命與財。北方即是毘離耶波羅蜜。何以故?北方名號勝諸惡法,若人供養,則得增長壽命與財。下方則是禪波羅蜜。何以故?能正觀察三惡道故,若人供養,亦得增長命之與財。上方即是般若波羅蜜。何以故?上方者即是無上無上故,若有供養,則得增長命之與財。善男子!是六方者,屬眾生心,非如外道六師所說。」

「善男子よ。私の仏法にもまた六方があります。すなわち、六波羅蜜(ろくはらみつ)です。東の方角は檀波羅蜜(だんはらみつ、布施)です。なぜなら、最初に現れるものは、智慧の光をもたらす因縁だからです。この東は衆生の心に属します。もし衆生がその檀波羅蜜を供養すれば、寿命と財産が増えます。南の方角は尸波羅蜜(しはらみつ、持戒)です。なぜなら、尸波羅蜜は「右」と呼ばれ、人がこれを供養すれば、やはり寿命と財産が増えるからです。西の方角は羼提波羅蜜(せんだいはらみつ、忍辱)です。なぜなら、この西は「後」と呼ばれ、あらゆる悪い行いを後に捨てるからです。供養すれば、寿命と財産が増えます。北の方角は毘離耶波羅蜜(びりやはらみつ、精進)です。なぜなら、北はあらゆる悪い行いに勝る名を持つからです。人がこれを供養すれば、寿命と財産が増えます。下の方角は禅波羅蜜(ぜんはらみつ、禅定)です。なぜなら、三悪道(さんあくどう)を正しく観察できるからです。供養すれば、やはり寿命と財産が増えます。上の方角は般若波羅蜜(はんにゃはらみつ、智慧)です。なぜなら、上とは無上(むじょう)のさらに上だからです。供養すれば、寿命と財産が増えます。善男子よ、この六方は衆生の心に属するものであり、外道の六師が説くようなものではありません。」

「如是六方,誰能供養?」

このように六方がありますが、いったい誰がこれらを供養できるのでしょうか。

「善男子!唯有菩薩乃能供養。」

「善き人よ、菩薩のみが本当の供養をすることができるのです。」

「世尊!以何義故名為菩薩?」

「世尊、どういう意味で『菩薩』というのですか?」

佛言:「得菩提故名為菩薩;菩提性故名為菩薩。」

仏は言われた。「菩提を得るからこそ菩薩というのである。菩提の性質そのものが菩薩なのである。」

「世尊!若言得菩提已名為菩薩者,若未供養彼六方時,云何得名為菩薩耶?若以性故名菩薩者,誰有此性?有此性者則能供養,若無性者,則不能供養!是故如來不應說言:彼六方者,屬眾生心。」

世尊、もし「菩提を得たから菩薩というのだ」とおっしゃるなら、まだ六方を供養していない者は、どうして菩薩と呼ばれるのでしょうか? もし「性質(本性)があるから菩薩なのだ」とするなら、その性質を持つ者とは誰でしょうか? 性質を持つ者こそ供養ができ、性質を持たない者は供養できません。 ですから、如来は「六方は衆生の心に属するものだ」とおっしゃるべきではないのです。

「善男子!非得菩提故名菩薩。何以故?得菩提者,名之為佛,未得菩提乃名菩薩;亦非性故名菩薩也。

「善男子よ。悟りを得たから菩薩と呼ばれるのではありません。なぜなら、悟りを得た者は仏と呼ばれ、まだ悟りを得ていない者を菩薩と言うからです。また、本性(本来の性質)によって菩薩と呼ばれるのでもありません。」

「善男子!一切眾生無菩提性,如諸眾生無人、天性,師子、虎、狼、狗犬等性;現在世中和合眾善業因緣故,得人、天身,和合不善業因緣故,得師子等畜生之身。菩薩亦爾,和合眾善業因緣故,發菩提心,故名菩薩。若有說言一切眾生有菩薩性者,是義不然。何以故?若有性者,則不應修善業因緣供養六方。善男子!若有性者,則無初心及退轉心;以無量善業因緣故,發菩提心名菩薩性。

「善男子よ。一切の衆生に、もともと菩提の性質(ぼだいの本性)はありません。ちょうど、人間や天人の性質、獅子や虎、狼や犬などの性質があらかじめ備わっているわけではないのと同じです。現在の世において、善い行いの因縁が和合して、人間や天人の身を得、不善の業の因縁が和合して、獅子などの畜生の身を得るのです。 菩薩もまた同じく、多くの善い行いの因縁が和合して菩提心を起こすから、菩薩と名づけられます。 もし「一切の衆生にはもともと菩薩の性質がある」と言う人がいれば、その道理は成り立ちません。なぜなら、もしあらかじめ性質があるならば、善い行いの因縁を修して六方を供養する必要がないからです。 善男子よ。もしあらかじめ性質があるならば、最初に心を起こすことも、退転することもありません。無量の善い行いの因縁によって菩提心を起こすこと、それが菩薩の性質と呼ばれるのです。」

「善男子!有諸眾生受行外道,不樂外典顛倒說故,發菩提心;或有眾生住寂靜處,內善因緣,發菩提心;或有眾生觀生死過,發菩提心;或有眾生見惡、聞惡,發菩提心;或有眾生深知自身貪欲、瞋恚、愚癡、慳嫉,為呵責故,發菩提心;或有眾生見諸外道五通神仙,發菩提心;或有眾生欲知世間有邊無邊故,發菩提心;或有眾生見聞如來不思議故,發菩提心;或有眾生生憐愍故,發菩提心;或有眾生愛眾生故,發菩提心。

「善男子よ、ある衆生は外道の教えを受け行じても、その誤った教えを好まないがゆえに菩提心を起こす。またある衆生は静かな場所に住み、内なる善い因縁によって菩提心を起こす。またある衆生は生死の苦しみを見て菩提心を起こす。またある衆生は悪しきものを見たり聞いたりして菩提心を起こす。またある衆生は自らの貪欲・瞋恚・愚痴・慳吝・嫉妬を深く知り、それらを呵責するがゆえに菩提心を起こす。またある衆生は外道の五通の神仙を見て菩提心を起こす。またある衆生は世間に辺があるのか、ないのかを知ろうとして菩提心を起こす。またある衆生は如来の不可思議なはたらきを見聞きして菩提心を起こす。またある衆生は憐れみの心が生じて菩提心を起こす。またある衆生は衆生を愛するがゆえに菩提心を起こす。」

「善男子!菩提之心,凡有三種,謂下、中、上。若言眾生定有性者,云何說言有三種耶?眾生下心能作中心,中心作上,上心作中,中心作下。眾生勤修無量善法,故能增上;不勤修故,便退為下。若善修進則名不退,若不修進名之為退。一切時中常為一切無邊眾生修集善故,名不退轉;若不如是,是名退轉,如是菩薩則有退心及怖畏心。若一切時中為一切眾生修集善法,得不退轉,是故我記是大喜地,不久當得阿耨多羅三藐三菩提。

「善き男子よ、菩提心には三つの種類がある。すなわち、下・中・上である。もし衆生に本来の性質が定まっているというなら、どうして三種類があると言えようか。衆生は下の心で中の心を起こし、中の心で上の心を起こし、上の心で中となり、中の心で下となる。衆生は無数の善法を精進して修行するからこそ、向上できるのである。精進しなければ、退いて下となる。もしよく修行し進めば、これを不退転といい、もし修行し進まなければ、これを退転という。常に、一切の限りない衆生のために善を修め積むことを、不退転という。もしそうでなければ、これを退転という。このような菩薩には退く心と恐れる心がある。もし常に一切の衆生のために善法を修め積んで不退転を得るならば、それゆえに私はこの菩薩を大喜悦地と記し、まもなく無上正等覚を得るであろうと予言するのである。」

「善男子!三種菩提無有定性;若有定性,已發聲聞、緣覺心者,則不能發菩提之心。善男子!譬如眾僧無有定性,是三種性亦復如是。若有說言定有性者,是名外道。何以故?諸外道等無因果故,如自在天非因非果。

「善男子よ。三つの菩提(悟り)には、決まった性質というものはありません。もし決まった性質があるならば、すでに声聞や縁覚の心を起こした者は、菩提心を発することができなくなってしまいます。善男子よ。たとえば僧侶の集まりに固定した性質がないように、この三つの性質もまた同じです。もし『決まった性質がある』と言う者は、これを外道と呼びます。なぜなら、諸々の外道には因果の道理がないからです。例えば、自在天(イーシュヴァラ)が原因でも結果でもないのと同じです。」

「善男子!或有人說菩薩之性,譬如石中定有金性,以巧方便因緣發故,得為金用;菩薩之性亦如是者,是梵志說。何以故?梵志等常言尼拘陀子有尼拘陀樹,眼有火、石,是故梵志無因無果,因即是果,果即是因。尼拘陀子具足而有尼拘陀樹,當知即是梵志因果。是義不然。何以故?因細果麁故。若言眼中定有火者,眼則被燒;眼若被燒,云何能見?眼中有石,石則遮眼;眼若有遮,復云何見?善男子!如梵志說:有即是有,無即是無;無則不生,有不應滅。若言石中有金性者,金不說性,性不說金。善男子!因緣故則有和合,緣和合故本無後有,如梵志言無即永無。是義云何?金合水銀,金則滅壞,若言有,不應滅。是義云何?若說眾生有菩薩性,是名外道,不名佛道。善男子!譬如和合石因緣故而有金用,菩薩之性,亦復如是。眾生有思,名為欲心,以如是欲,善業因緣發菩提心,是則名為菩薩性也。善男子!譬如眾生先無菩提後乃方有,性亦如是先無後有,是故不可說言定有。

「善男子。ある人が『菩薩の性質というものは、あたかも石の中に必ず金の性質があり、巧みな方便の縁によって発せられて金として使われるようになるのと同じように、菩薩の性質もまたそうである』と説くならば、それは梵志(バラモン)の説である。なぜなら、梵志たちは常に『尼拘陀(ニグロダ)の種子には尼拘陀の木がある』『目には火がある』『石には金』があると言い、ゆえに梵志には因も果もなく、因がすなわち果であり、果がすなわち因であるからだ。『尼拘陀の種子には、完全に尼拘陀の木が備わっている』というのが、まさに梵志の因果論である。しかし、この考えは正しくない。なぜなら、因は微細で果は粗大だからである。もし『目の中に必ず火がある』というなら、目は焼かれてしまう。目が焼かれてしまえば、どうして見えるだろうか。また、目の中に石があれば、石が目を遮る。目が遮られれば、どうして見えるだろうか。善男子。梵志の説くように『有るものは有り、無いものは無い。無いものは生じず、有るものは滅すべきではない』というのは誤りである。もし石の中に金の性質があると言うなら、金は性質ではなく、性質も金ではない。善男子。因縁によって和合があり、縁が和合するからこそ、元は無かったものが後から生じるのである。梵志の言うように『無いものは永遠に無い』というのは、どういう意味か。金と水銀が合わされば、金は壊れてしまう。もし『有るものは滅すべきではない』と言うなら、これはどういうことか。もし衆生に菩薩の性質があると説くならば、それは外道の説であり、仏道ではない。善男子。例えば、石と様々な因縁の和合によって、後から金として使われるようになるように、菩薩の性質もまた同じである。衆生に思惟があり、それを欲心と名づける。このような欲と善業の因縁によって菩提心を発する。これを菩薩の性質と名づけるのである。善男子。例えば、衆生には初め菩提(悟り)は無いが、後になってから初めて有るように、性質もまた、初めは無く後から有るのである。ゆえに『必ず有る』とは説くことができないのである。」

「善男子!求大智慧,故名菩薩;欲知一切法真實故、大莊嚴故、心堅固故、多度眾生故、不惜身命故,是名菩薩修行大乘。

「善き者よ。大いなる智慧を求めるからこそ、菩薩というのです。すべてのものごとの真実を知ろうと願い、大いなる覚悟を固め、心を堅固に保ち、多くの人々を救おうとし、自らの命さえ惜しまない——これこそが、菩薩が大乗の道を歩むということなのです。」

「善男子!菩薩有二種:一者、退轉,二者、不退。已修三十二相業者,名不退轉;若未能修,是名為退。復有二種:一者、出家,二者、在家。出家菩薩奉持八重,具足清淨,是名不退;在家菩薩奉持六重,具足清淨,亦名不退。

「善き男子よ、菩薩には二つの種類がある。第一は退転する菩薩、第二は退転しない菩薩である。すでに三十二相を成就する修行を積んだ菩薩は退転しない者と名づけ、まだその修行ができていない場合は退転する者と名づける。また、出家した菩薩と在家の菩薩という二つもある。出家の菩薩が八つの重戒を守り、清らかに具足すれば、これを退転しない者と名づける。在家の菩薩が六つの重戒を守り、清らかに具足すれば、これも退転しない者と名づける。」

「善男子!外道斷欲所得福德,勝於欲界一切眾生所有福德;須陀洹人勝於一切外道異見;斯陀含人勝於一切須陀洹果;阿那含人勝於一切斯陀含果;阿羅漢人勝於一切阿那含果;辟支佛人勝於一切阿羅漢果;在家之人發菩提心,勝於一切辟支佛果。出家之人發菩提心,此不為難,在家之人發菩提心,是乃名為不可思議。何以故?在家之人多惡因緣所纏遶故。在家之人發菩提心時,從四天王乃至阿迦膩吒諸天,皆大驚喜,作如是言:『我今已得人天之師。』」

2 發菩提心品

CBETA コード: T1488

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません