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大乗集菩薩学論 (大乘集菩薩學論)


大乘集菩薩學論卷第二

大乗集菩薩学論 巻第二

法稱菩薩造

法称菩薩造

西天譯經三藏銀青光祿大夫試光祿卿普明慈覺傳梵大師賜紫沙門臣法護等奉 詔譯

西天譯経三蔵・銀青光禄大夫・試光禄卿・普明慈覚伝梵大師・賜紫沙門臣法護らが詔を奉じて訳したものです。

集布施學品第一之二

集布施学品 第一の二

論曰:故知自力所集,隨其行相於一善道亦應守護。如《地藏十輪經》云:「如是十善業道佛所證果,若不真實守護一善業道,乃至臨命終時而自稱言:『我是真實行大乘者,我求阿耨多羅三藐三菩提者。』當知是人是極虛詐、是大妄語,對十方界佛世尊前誑惑世間,說空斷見誘誑愚癡,身壞命終墮諸惡趣。」

論じて曰く、それゆえ自力によって集めたものは、その行相にしたがって一つの善道においても守護すべきであると知るべきです。『地蔵十輪経』に云うには、「このように十善業道は仏の証果されたものであるのに、もし真実に一つの善業道を守護せず、さらには臨命終の時に至って自ら『私は真実に大乗を修行する者であり、私は阿耨多羅三藐三菩提を求める者である』と称するならば、この人は極めて虚詐であり、大妄語を行う者であると知るべきです。十方界の仏世尊の前において世間を誑惑し、空や断見を説いて愚痴なる者を誘い誑かすのであり、身を壊し命終われば諸々の悪趣に堕ちるのです」と。

論曰:乃至臨命終時,能須臾說集諸善品,亦應修作。如《藥師琉璃光經》說:「若見大心眾生,如聞菩薩難行苦行及妙勝智,乃至入解、發大勇猛荷負重擔、捄護眾生盡諸苦本,禮拜供養、說罪及隨喜福、勸請諸佛住世說法,乃至迴向菩提,為善知識勸請說法或樂自說,當知是名為示道者。」如《文殊師利莊嚴佛剎功德經》云:「世尊!是妙吉祥往昔生時,本行因緣發菩提心,亦如是發,如彼所說。乃至最初遠離輪迴邊際,利益眾生行如是行。我於尊所發菩提心,現前勸請令諸世間脫貧窮報忿心恨心慳貪嫉妬,我得菩提時悉不現起,乃至常修梵行脫諸罪欲。於佛隨學清淨尸羅,愛樂尊重於大菩提,不疾取證,我處後際,於諸眾生一相無異。時十方界未聞我名無量不思議剎土悉皆嚴淨,由身語意業清淨故,於諸所作悉亦清淨。又一切時堅持淨戒,盡生死際無諸過惡。」又《阿閦如來本願授決經》云:「彼阿閦如來往昔為菩薩時,作如是說:『若我生生世世不出家者,是則虛誑一切諸佛如來。』舍利子!如是菩薩於阿閦如來亦應隨學。又舍利子!諸菩薩摩訶薩生生出家,或諸如來出世或不出世畢竟捨家出家,亦如是學。所以者何?舍利子!若謂菩薩捨家出家是為最上,乃至男女眷屬不生愛著,如我生時無諸過失。」

論に曰く、臨命終の時に至るまで、よく須臾の間に諸の善品を集めることを説くべきであり、また修め作すべきです。『薬師瑠璃光経』に説かれるとおりです。「もし大心の衆生を見て、菩薩の難行苦行および妙勝の智を聞くように、さらに入解し、大勇猛を発して重担を荷負い、衆生を救護して諸の苦本を尽くし、礼拝供養し、罪を説きおよび随喜の福を説き、諸仏に勧請して世に住して法を説くよう願い、さらには菩提に迴向するならば、善知識が勧請して法を説くか、あるいは自ら喜んで説くならば、まさにこれを見道者と名づけると知るべきです。」『文殊師利荘厳仏刹功徳経』に云く、「世尊よ、この妙吉祥は往昔生の時に、本行の因縁により菩提心を発し、またこのように発し、かの説かれたとおりです。さらには最初に輪廻の辺際を遠離し、衆生を利益し、このような行を行じました。私は尊のもとで菩提心を発し、現前に勧請して、もろもろの世間を貧窮の報い、忿の心、恨の心、慳貪嫉妬から脱せしめ、私が菩提を得た時には、これらのことすべてを現起させず、さらには常に梵行を修めて諸の罪欲を脱します。仏に随学して清浄の尸羅を保ち、大菩提を愛楽尊重し、速やかに証を取らず、私は後際に処して、もろもろの衆生に対して一相にして異なることなく、時に十方界に我が名を未だ聞かず、無量不思議の刹土すべてことごとく厳浄ならんことを。身語意の業清浄なるがゆえに、もろもろの所作においてもまたことごとく清浄です。また一切の時において浄戒を堅持し、生死の際を尽くして諸の過悪ありません。」また『阿閦如来本願授決経』に云く、「かの阿閦如来は往昔菩薩たりし時、このように説かれました。『もし私が生生世世に出家家をしないならば、これはすなわち一切の諸仏如来を虚誑することになります。』舎利子よ、このように菩薩は阿閦如来に対してもまた随学すべきです。また舎利子よ、諸の菩薩摩訶薩は生生出家し、あるいは諸の如来が世に出るか出ないかに関わらず、畢竟じて捨家出家し、またこのように学びます。なぜでしょうか。舎利子よ、もし菩薩が捨家出家することを最上とし、さらには男女眷属に愛着を生じず、我が生の時に諸の過失なきがごとくです。」

論曰:如上所說,且止斯事。若說施戒罪相同等,及於罪相相應等事,應自棄捨。若別別行相亦非無罪,於別行相然不攝故。而菩薩於諸眾生所有未來一切苦惱令得解脫、一切妙樂令其增長,若身語意不勤精進方便純熟,於緣合集不樂勸化,或散滅處亦不尋求,多分煩惱少分煩惱不起對治,於大義利及少義利或非義利不生損益,剎那俱捨,此說是罪。略說無罪,謂自力能於境界事都無果報。或執如是於學表相體性是罪。若自力能境界相應罪處無有,同說罪等於相解脫。是菩薩學於平等身廣太無量劫後際說。復次略說菩薩此二種罪,如其成辦相應非相應、可作不可作都無揀擇,捨故是罪。謂言畢竟超出尋伺,如旃陀羅奴等謬解義故是罪。彼復云何?《深心教誡經》說:「如慈氏因中四種辯才即諸佛語。何等為四?一者擇有義利揀非義利、二者擇此正法揀彼非法、三者破遣煩惱非增長煩惱、四者樂見涅盤功德不樂見輪迴功德,是名四種。以要言之,若爾云何慈氏因中說是四種辯才?謂信善男子善女人生諸佛想、作議論想,聞善法故。所以者何?謂若慈氏有諸善說即諸佛語故。若於此慈氏辯才而生誹謗,非諸佛語起不尊重,是惡人輩即是誹謗諸佛所說辯才,由毀減善法招罪業報墮諸惡趣。」

論に曰く、以上に説いたとおりです。しばらくこの事は置いておきましょう。もし施と戒の罪相が同じであること、および罪相に相応する事柄などを説くならば、自ら捨て去るべきです。もし個々の行相についてもまた罪がないのではないとしても、個別の行相には摂められないからです。しかし菩薩は、すべての衆生の未来における一切の苦悩を解脱させ、一切の妙楽を増長させようとします。もし身・語・意において精進に努め方便を純熟させず、縁の合集に対して勧化を好まず、あるいは散滅する所をも尋求せず、多くの煩悩や少分の煩悩に対して対治を起こさず、大きな義利や小さな義利、あるいは非義利に対して損益を生じず、刹那に共に捨てるならば、これが罪であると説かれます。略して無罪とは、自力が境界の事においてまったく果報がないことをいいます。あるいは、このように学の表相の体性は罪であると執着することです。もし自力が境界に相応して罪の処がないならば、同じく罪等は相において解脱すると説かれます。これは菩薩の学が平等身において広大無量劫の後際に説かれるものです。次に略して菩薩のこの二種の罪を説くならば、それが成辦することに相応するか相応しないか、作すべきか作すべきでないかをまったく揀択せずに捨てるからです。つまり、究竟して尋伺を超出していると言い、旃陀羅の奴等が義を誤解するがゆえに罪となるのです。それはまたどういうことでしょうか。《深心教誡経》に説かれています。「慈氏の因中における四種の弁才はすなわち諸仏の語である。何が四つか。一つには義利あるものを択び非義利を揀ぶこと、二つにはこの正法を択びかの非法を揀ぶこと、三つには煩悩を破遣し煩悩を増長しないこと、四つには涅槃の功徳を見ることを楽しみ輪廻の功徳を見ることを楽しまないこと、これが四種である。要約して言えば、それではどうして慈氏の因中にこの四種の弁才が説かれるのか。それは、信ある善男子・善女人が諸仏の想いを生じ、議論の想いを作し、善法を聞くからです。なぜでしょうか。もし慈氏に諸々の善説があれば、すなわちそれが諸仏の語であるからです。もしこの慈氏の弁才に対して誹謗を生じ、諸仏の語ではないとして不尊重を起こすならば、この悪人たちはすなわち諸仏の説かれた弁才を誹謗し、善法を毀減することによって罪業の報いを招き、諸々の悪趣に堕ちるのです。」

論曰:復次修習善巧發起愛樂,此行門中集學最勝作用,應當修學,希大果故。如《寂靜決定神變經》云:「復次文殊師利!若菩薩於殑伽沙數等諸佛,是諸佛所有殑伽沙數佛剎,復於如是殑伽沙數劫,以自在王摩尼寶滿中持用布施。若諸菩薩於如是法相聞已,一心思惟我當修學。文殊師利!比前無學所有福報,未若施此樂欲學地菩薩,其福甚多。」

論に曰く、さらに善巧を修習し、愛楽を発起することは、この行門の中で集学の最も勝れた作用です。大きな果報を願うがゆえに、修学すべきです。『寂静決定神変経』に説かれています。「さらに文殊師利よ、もし菩薩が、殑伽沙の数に等しい諸仏に対し、それら諸仏の所有する殑伽沙の数の仏刹において、さらにこのように殑伽沙の数の劫の間、自在王摩尼宝をもって満たして布施に用いたとします。もし菩薩が、このような法相を聞いて、一心思惟し、私は修学しようと考えたならば、文殊師利よ、先の無学の者の福報と比べても、この楽欲学地の菩薩に施す福のほうがはるかに多いのです。」

論曰:是菩薩雖見此功德,未言如其修習等。復如彼說:「文殊師利!假使教化三千大千世界微塵等眾生,一一眾生得閻浮王。若以諸音聲讚歎受持讀誦如說修行大乘經者,於一日夜斷割身肉指爪,乃至命終一心奉行。文殊師利!緣是菩薩布施心無怯弱、不驚不怖不畏,畢竟一心發親近想,無悔無疑亦無分別,於此最上正法攝受相應,意樂讀誦如說修行。文殊師利!是菩薩心勇猛故,則布施勇猛、持戒勇猛、精進勇猛、禪定勇猛、智慧勇猛、一切三摩地勇猛。文殊師利!是菩薩設使於惡人輩,亦復不生瞋心厭心及餘過失。文殊師利!是菩薩如釋梵王等無所動。」

論に曰く、この菩薩はこれらの功徳を見るといっても、まだその修習などについては述べていません。またあの経に次のように説かれています。

「文殊師利よ、仮に三千大千世界の微塵ほどの数の衆生を教化して、その一人ひとりの衆生が閻浮王になったとします。そのような者たちが、さまざまな音声でもって、大乗経典を受持し読誦し如説に修行する人を讃嘆したとします。その人は一日一夜のうちに身の肉や指や爪を断ち割き、さらに命終に至るまで一心に奉行します。文殊師利よ、このような縁によって、この菩薩の布施の心は怯弱になることがなく、驚かず怖れず畏れず、畢竟して一心に親近の思いを発し、悔いることなく疑うことなく、また分別もなく、この最上の正法を摂受することに相応し、意楽をもって読誦し如説に修行します。文殊師利よ、この菩薩の心が勇猛であるからこそ、布施も勇猛であり、持戒も勇猛であり、精進も勇猛であり、禅定も勇猛であり、智慧も勇猛であり、すべての三摩地も勇猛です。文殊師利よ、この菩薩はたとえ悪人の輩に対してであっても、瞋りの心や厭う心、その他の過失を生じることがありません。文殊師利よ、この菩薩は帝釈や梵王などのように、何ものにも動かされることがありません。」

論曰:今正是時,當一心學,希大果報。《月燈三昧經》所說偈云:「若於河沙多億劫,供養百億那由佛,清淨信心施餚饍,亦施燈鬘及幡蓋。若於正法衰末世,如是佛法欲滅時,於一日夜學是行,比前福報勝於彼。」

論に曰く、今まさにその時です。一心に学び、大きな果報を願い求めるべきです。

『月燈三昧経』に説かれる偈には、こうあります。

「たとえ河の砂の数ほどの多億劫の間、 百億那由の仏を供養し、 清らかな信心をもって食を施し、 また灯や花鬘、幡や蓋を施したとしても、 もし正法が衰え滅びようとする末世において、 このように仏法が滅びようとする時に、 一日一夜の間、この行を学ぶならば、 その福報は先の供養よりも勝れている」と。

論曰:是故一心勤修,如佛經中所說菩薩學義。如《寶雲經》說:「善男子!菩薩於菩薩學堅持淨戒,如是尋伺:『若不於菩薩別解脫戒中,我云何能得成證阿耨多羅三藐三菩提耶?又何不於如來大乘諸經法中所詮菩薩行所集菩薩學?我當如是廣大修習。』」

論述します。それゆえ、一心に勤めて修めるべきです。仏経に説かれる菩薩の学びの意味のとおりです。『宝雲経』に説かれているとおりです。「善男子よ、菩薩は菩薩の学びにおいて清らかな戒を堅く守り、次のように尋ね思います。『もし菩薩の別解脱戒においてでなければ、どうして私は阿耨多羅三藐三菩提を成就し証得することができるでしょうか。また、どうして如来の大乗の諸経典の法において説かれる菩薩の行と、そこで集められた菩薩の学びによらなければならないでしょうか。私はこのように広大に修習すべきです。』」

論曰:我等無知,於此廣說菩薩制止容起惡覺,何非此理,於修習處了無過失。云何修習處?謂若於身所有三世受用行清淨捨,護諸眾生令淨增長,受是菩薩戒已,若此菩薩住修習處說是罪相。如《菩薩別解脫經》云:「於菩薩道攝受一切眾生令盡苦趣。彼菩薩道攝受安住過俱胝劫,唯一發起安隱之心及親近心。菩薩發是心者,應知於諸眾生一向攝受多種住處。」如《文殊清淨律》云:「時文殊師利語寂音天子言:『菩薩具足此五無間,速得阿耨多羅三藐三菩提果。何等為五?菩薩深固作意求無上道,發心不墮聲聞緣覺之地,是初無間發心。自捨一切所有,於慳悋心而不共住,是二無間。我應救度一切眾生,於中不起懈退之心,是三無間。了一切法非空非有無生無滅,於中不墮諸見,是四無間。於諸法智和合一相,如是發心中無所住,由無所住於一切智悉無所得,是五無間。』」

論に曰く、私たちは無知であるため、ここで広く説かれた菩薩の制止について、悪しき覚りを起こす余地があるとしても、どうしてこの道理に反するといえるでしょうか。修習の処においては、まったく過失はありません。修習の処とは何でしょうか。それは、身における三世の受用と行を清浄に捨て、もろもろの衆生を護り、浄らかさを増長させることをいいます。この菩薩戒を受けたのち、この菩薩が修習の処に住むならば、これが罪の相であると説かれます。

『菩薩別解脱経』に云く、「菩薩の道において一切の衆生を摂受し、苦しみの趣を尽くさせる。かの菩薩の道を摂受して安住すること俱胝劫を経て、ただ一度だけ安隠の心と親近の心を発す。菩薩がこの心を発すならば、もろもろの衆生に対して一向に摂受し、多くの住処があることを知るべきである」と。

『文殊清浄律』に云く、「時に文殊師利が寂音天子に語って言った。『菩薩がこの五無間を具足すれば、速やかに阿耨多羅三藐三菩提の果を得る。何を五とするか。菩薩が深固な作意をもって無上道を求め、発心して声聞・縁覚の地に堕ちない、これが初めの無間の発心である。自ら一切の所有を捨て、慳悋の心と共に住まない、これが二番目の無間である。私は一切の衆生を救度すべきであるとし、その中で懈怠退転の心を起こさない、これが三番目の無間である。一切の法は空でも有でもなく、生も滅もないと了知し、その中で諸見に堕ちない、これが四番目の無間である。諸法の智と和合して一相となり、このように発心する中で住するところがない。住するところがないことによって、一切智においてすべて得るところがない、これが五番目の無間である。』」と。

論曰:謂身所受用福報不斷者,於捨護事令淨增長。如《瑜伽觀想》中說:「彼所捨義攝受過失,觀想門中起離貪想,觀捨功德故。」如《月燈三昧經》所說偈云:「如是不堅身,愚者心所樂。何常壽命中,剎那如幻夢。造諸惡業故,罪報常隨逐。由是無明因,死多墮惡道。」又如《無量門陀羅尼經》說:「云何眾生得鬪諍因?謂計執財利而為根本。應當棄捨,若離貪愛即得是陀羅尼。」又《菩薩別解脫經》云:「復次舍利子!菩薩於一切法極微細分不生他想。所以者何?怖取著故。」《最上授所問經》云:「謂若布施者無諸慳悋,執著者而常守護。又布施者為盡貪愛,執著者增長貪愛。布施者無諸遍計,執著者有諸遍計。布施者無有恐怖,執著者彼多恐怖。布施者住菩提道,執著者住魔境界。布施者作無盡想,執著者作有盡想。又布施者得諸妙樂,執著者而常逼迫。布施者捨離煩惱,執著者增長煩惱。又布施者得大富饒,執著者得大貧乏。布施者善人事業,執著者惡人情計。布施者諸佛稱讚,執著者愚夫稱讚。乃至布施者自所生子不起樂著,非如於餘眾生起憐愍故。應知自心說有三種。何等為三?一者菩薩於菩提道正等相應,非邪謬相應。二者菩薩於菩提道起平等心,非高下心。三者菩薩於菩提道無種種行,非有種種行。是名三種自心所說。」

論に曰く、身体が受け用いる福報が絶えないというのは、捨て護る事において清らかに増長させることです。『瑜伽観想』の中に説かれるとおりです。「かの捨てるべき義に摂受の過失があり、観想の門において貪りを離れる想いを起こし、捨てる功徳を観じるからです。」『月灯三昧経』に説かれる偈にこうあります。「このように堅固でない身体を、愚かな者は心で楽しみとします。どうして常なる寿命の中で、刹那が幻や夢のようでありましょうか。さまざまな悪業を造るため、罪の報いが常に付き従います。この無明の因によって、死して多くは悪道に堕ちます。」また『無量門陀羅尼経』に説かれています。「どのようにして衆生は闘諍の因を得るのでしょうか。それは財利を計り執着することを根本とします。これを捨て去るべきであり、貪愛を離れればすなわちこの陀羅尼を得ます。」また『菩薩別解脱経』にこうあります。「さらに舎利子よ、菩薩は一切の法の極微細な部分にも他の想いを生じません。なぜでしょうか。取著を恐れるからです。」『最上授所問経』にこうあります。「もし布施する者は慳悋の心がなく、執着する者は常に守護します。また布施する者は貪愛を尽くし、執着する者は貪愛を増長します。布施する者は遍計がなく、執着する者は遍計があります。布施する者は恐怖がなく、執着する者は多くの恐怖があります。布施する者は菩提道に住し、執着する者は魔の境界に住します。布施する者は無尽の想いをなし、執着する者は有尽の想いをなします。また布施する者はもろもろの妙楽を得、執着する者は常に逼迫されます。布施する者は煩悩を捨離し、執着する者は煩悩を増長します。また布施する者は大いなる富饒を得、執着する者は大いなる貧乏を得ます。布施する者は善人の事業であり、執着する者は悪人の情計です。布施する者は諸仏に称賛され、執着する者は愚夫に称賛されます。さらには布施する者は自ら生んだ子に対しても楽しみ執着する心を起こさず、他の衆生に対するのとは異なり、憐愍の心を起こすからです。自心に三種があると知るべきです。どのようなものが三種でしょうか。第一に、菩薩は菩提道において正等に相応し、邪謬に相応しません。第二に、菩薩は菩提道において平等心を起こし、高下の心ではありません。第三に、菩薩は菩提道において種々の行がなく、種々の行があるのではありません。これが三種の自心に説かれるものです。」

論曰:謂於自所生子起非善友想,既非善友故非我友。若為利益隨佛教勅學負重擔故,於自所生子不生樂著,非如於餘眾生起憐愍故。應知發是心已,如於我子發生慈愛,則我於一切眾生亦復隨順發生慈愛。如是深心觀察悟解,我子既無異於一切眾生,則一切眾生皆是我子。所有眾生若自若他,乃至居士在家菩薩,於其財利或非攝受眾生,勿應耽著非出離法。又復不應愛樂隨順染欲。復次在家菩薩或有行來乞丐,隨何所須發勇悍心而為給與。又作是念:「我此財利若捨不捨畢竟散滅。」云何於捨受時而得無欲?謂我我所得畢竟忍,於所捨物離胎藏苦,心住正念歡喜愛樂不生隨轉。復次如是能捨,謂於所捨物及乞丐者應知有四種想。何等為四?謂怯弱故,不能純熟善根先所造業;於大乘中心不自在,見取捨故。又若我及我所住安忍力,自與善人不起悔惱。如是修作、如是踊躍、如是精進,圓滿一切眾生所希求故。如是在家菩薩於彼乞丐者應作是想。或乞丐者返增過失,是菩薩應當善言慰諭。又乞丐者而不知恩,是菩薩亦復不起慳嫉。是為無罪。此世尊為下種諸菩薩,如《菩薩別解脫》中說:「舍利子!菩薩無有四法。何等為四?一者菩薩無不信心;二者菩薩無有慳貪;三者菩薩無有兩舌嫉妬;四者菩薩無懈怠心,謂言我不能成證阿耨多羅三藐三菩提果。舍利子!若我有是四法,彼有智者於此了知,便謂邪命諂求非法染法重世財利,是為第一偷食信施。復次舍利子!菩薩如是心勇猛故,乃至頭目手足身體支分、男女眷屬心所愛樂極妙樂事、舍宅國邑一切所有,悉能棄捨。」又如《那羅延所問經》云:「若於財寶發是捨心,應知財利不生取著。然捨未起智故,若於攝受不起捨心,則於非攝受亦常執著。若隨乞丐者意,於攝受發生智故,則於眷屬亦無取著,最上崇貴亦無取著、受用珍寶亦無取著。而菩薩若於財利不起捨心,乃至極微細分,應知取著。復次善男子!而菩薩摩訶薩應當發如是心,謂我此身分於諸眾生尚能棄捨,何況所有外財資具!又若於眾生所,如其所須悉能施與,謂有來乞丐須手以手須足以足須眼以眼,乃至脂髓血肉及餘身分,隨各施與。云何復名外財資具?謂若庫藏孳生之物、金銀珍寶勝妙莊嚴、象馬車乘國土宮殿、城邑聚落吏民僮僕、作業士夫男女眷屬。若諸眾生於所有事,彼彼眾生如其所有,我當給與,不生悔惱亦無退屈,不希果報及餘諂詐。復次我此施者,隨順一切眾生故、悲愍一切眾生故、饒益一切眾生故、攝受一切眾生故。如我攝受眾生,知如是法得菩提故。以要言之,善男子!譬如藥樹根莖枝葉花果皮核,若全若分,隨其取者不生分別。又復脫諸眾生病苦難時,亦不分別上中下性。善男子!是菩薩摩訶薩亦復如是,應知於四大種身生藥樹想,於彼眾生可作饒益,須手以手須足以足,隨其取者如前藥樹不生分別。」

論に曰く、自分の産んだ子に対して善友ではないという想いを起こします。善友でなければ我が友ではないのです。もし利益のために仏の教えに従って重い荷を学び担うならば、自分の産んだ子に対しても喜び執着することはなく、他の衆生に対して憐れみを起こすようにはならないのです。この心を起こした後には、わが子に対して慈愛を起こすように、私は一切の衆生に対してもまた同じく慈愛を起こすべきだと知るのです。このように深く心で観察し悟り理解するならば、わが子はすべての衆生と何ら異ならないので、すべての衆生はみなわが子なのです。すべての衆生が自分であれ他人であれ、さらには居士や在家の菩薩であっても、その財利や衆生を摂受しないことに対して、出離の法でないものに耽ってはなりません。また、汚れた欲望に従って愛楽してはなりません。さらに、在家の菩薩には、やって来て物乞いをする者がいるかもしれません。何であれ必要とするものに応じて、勇悍な心を起こして与えるのです。また、このように思いなさい。「私のこの財利は、捨てても捨てなくても、最後には散り滅びてしまうものだ」と。どうして捨てて受け取る時に無欲を得られるのでしょうか。それは、私と私の所有物を究極的に耐え忍び、捨てる物に対して胎蔵の苦しみを離れ、心が正念に住して歓喜し愛楽し、随転を生じないことです。さらに、このように能く捨てるとは、捨てる物と物乞いの者に対して四つの想いがあると知るべきです。何が四つでしょうか。怯弱であるために、善根を純熟させることができず、先に造った業があることです。大乗において心が自在でなく、取捨を見るためです。また、我と我所に安忍の力が住し、自ら善人とともに悔悩を起こさないことです。このように修め作り、このように踊躍し、このように精進し、一切の衆生の希求するところを円満するためです。このように在家の菩薩は、かの物乞いの者に対してこの想いを作すべきです。あるいは物乞いの者がかえって過失を増すならば、この菩薩はよく言葉を尽くして慰め諭すべきです。また物乞いの者が恩を知らないならば、この菩薩もまた慳嫉を起こしません。これが無罪なのです。ここで世尊は、下種の諸菩薩のために、『菩薩別解脱』にあるように説かれました。「舎利子よ、菩薩には四つの法がありません。何が四つでしょうか。一つには、菩薩に不信心はありません。二つには、菩薩に慳貪はありません。三つには、菩薩に両舌・嫉妬はありません。四つには、菩薩に懈怠の心はなく、『私は阿耨多羅三藐三菩提の果を成証することができない』と言うこともありません。舎利子よ、もし私にこれらの四つの法があるならば、そこに智者があってこれを知ったならば、邪命をもって諂い求め、非法・染法をもって世の財利を重んじる者であると言うでしょう。これが第一の、信施を盗み食いすることです。さらに舎利子よ、菩薩はこのように心が勇猛であるため、頭目手足・身体の支分、男女の眷属、心に愛楽する極妙の楽事、舎宅・国邑の一切の所有物に至るまで、すべて捨てることができるのです。」また『那羅延所問経』に云く、「もし財宝に対してこの捨てる心を起こすならば、財利に対して取著を生じないと知るべきです。しかし捨てる智慧がまだ起こっていないため、もし摂受に対して捨てる心を起こさなければ、非摂受に対しても常に執着するのです。もし物乞いの者の意に従い、摂受に対して智慧を生じるならば、眷属に対しても取著がなく、最も崇貴なものに対しても取著がなく、珍宝を受用することにも取著がありません。しかし菩薩がもし財利に対して捨てる心を起こさず、わずか極微細の分に至るまで執着するならば、取著があると知るべきです。さらに善男子よ、菩薩摩訶薩はこのような心を起こすべきです。わが身分でさえ諸衆生のために捨てることができるのだから、まして外財資具においてはなおさらです。また、もし衆生に対して、その必要に応じてすべて施し与えるならば、やって来て物乞いする者が手を欲すれば手を与え、足を欲すれば足を与え、眼を欲すれば眼を与え、さらには脂髄血肉やその他の身分に至るまで、それぞれに応じて施し与えるのです。どうしてまた外財資具と言うのでしょうか。それは、庫蔵に蓄えられた生み出す物、金銀珍宝・勝妙の荘厳、象馬車乗・国土宮殿、城邑聚落・吏民僮僕、作業の士夫・男女の眷属などです。もし諸衆生が所有する事柄において、それら衆生がそれぞれ所有するものに応じて、私は与えるべきであり、悔悩を生じず、また退屈もなく、果報を希求せず、その他の諂詐もありません。さらに、私のこの施しは、一切の衆生に随順するためであり、一切の衆生を悲愍するためであり、一切の衆生を饒益するためであり、一切の衆生を摂受するためです。私が衆生を摂受するように、このような法を知って菩提を得るためです。要約すれば、善男子よ、たとえば薬樹の根・茎・枝・葉・花・果・皮・核は、全体であれ一部であれ、取る者に応じて分別を生じません。また、諸衆生の病苦の難を脱する時も、上中下の性を分別しません。善男子よ、この菩薩摩訶薩もまた同じです。四大種の身に対して薬樹の想いを生じ、かの衆生に対して饒益を作すべきであり、手を欲すれば手を与え、足を欲すれば足を与え、取る者に応じて前の薬樹のように分別を生じないと知るべきです。」

大乘集菩薩學論卷第二

大乗集菩薩学論 巻第二


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