大乘寶要義論卷第七
大乗宝要義論 巻第七
譯經三藏朝散大夫試鴻臚少卿光梵大師賜紫沙門臣惟淨等奉 詔譯
如《華嚴經》云,大毘盧遮那解脫吉祥世界中普遍智焰功德幢王如來,建立無量有情住聲聞地、無量有情成熟緣覺菩提、無量有情成熟迅疾辯才出生菩提、無量有情成熟無垢精進幢出生菩提、無量有情成熟法辯才出生菩提、無量有情成熟根清淨辯才出生菩提、無量有情成熟十力諸行圓滿出生菩提、無量有情安住法城現前境界一乘出生菩提、無量有情於一切處隨現種種神通一乘理法出生菩提、無量有情建立諸行普攝無量方便出生菩提、無量有情安住三摩地分位理法出生菩提、無量有情安住一切所緣境界清淨道場理法出生菩提、無量有情發菩薩菩提心、無量有情住菩薩道、無量有情安住清淨波羅蜜多道、無量有情住菩薩初地乃至住於菩薩十地。
例えば『華厳経』にこう説かれています。大毘盧遮那解脱吉祥世界における普遍智焰功徳幢王如来は、無量の有情を声聞の境地に安住させ、無量の有情を縁覚の菩提に成熟させ、無量の有情を速やかな弁才が生まれる菩提に成熟させ、無量の有情を汚れなき精進の幢が生まれる菩提に成熟させ、無量の有情を法の弁才が生まれる菩提に成熟させ、無量の有情を清らかな根の弁才が生まれる菩提に成熟させ、無量の有情を十力の諸行が円満に生まれる菩提に成熟させ、無量の有情を法城に安住し現前の境界における一乗の菩提が生まれるように成熟させ、無量の有情をあらゆる場所に様々な神通を現わし一乗の理法が生まれる菩提に成熟させ、無量の有情を諸行を建立し無量の方便を広く収める菩提が生まれるように成熟させ、無量の有情を三摩地の位分の理法に安住させて菩提が生まれるように成熟させ、無量の有情をすべての所縁の境界における清らかな道場の理法に安住させて菩提が生まれるように成熟させ、無量の有情に菩薩の菩提心を発起させ、無量の有情を菩薩の道に安住させ、無量の有情を清らかな波羅蜜多の道に安住させ、無量の有情を菩薩の初地から第十地に至るまで安住させたのです。
此中應知,菩薩常以正法攝受一切。何等是正法攝受?如《信力入印法門經》云,佛言:妙吉祥!正法攝受故即菩薩攝受,菩薩攝受故即正法攝受。正法攝受故一切有情攝受,一切有情攝受故即佛種不斷、所作成就。又若欲令佛種不斷、欲破一切有情諸業煩惱、欲閉一切惡趣之門、欲受無量無數轉輪聖王上妙快樂及梵王帝釋護世等樂、欲斷一切惡魔羂索,乃至欲成阿耨多羅三藐三菩提果者,悉當以其正法攝受。此中應問:初發心菩薩以少善根,彼當云何攝受正法?如《菩薩藏經》云,菩薩若具四種法者,彼即不減菩提,轉生當作轉輪聖王,如其願力即得一切善根隨轉,得如大力堅固那羅延身,彼得轉輪聖王已修四梵行,生於梵世為梵天主。何等為四?一者菩薩若見如來塔廟故壞,發勤勇心而為治飾,乃至以一泥團作其供獻。二者於四衢道或闤闠之所,建立如來高顯妙塔、或塚廟像、或隨立幢相、或但竪剎竿、或安如來形像,或別別安布如來諸相,所謂轉法輪相、或復踰城出家之相、或菩提樹下成正覺相、或現大神通降魔軍相、或示現入大涅槃相、或忉利天下降之相。三者若見聲聞弟子眾中有離間者,為作和合。四者於如來教中,若見正法欲減滅時,乃至一四句偈勇力護持,使彼流通令不忘失。又於正法或說法師皆為攝受,乃至損棄身命終不捨法。《寶雲經》云,佛言:善男子!菩薩若具十種法者,即能攝受正法。何等為十?一者於後末世後五百歲正法減時,如來教中起雜亂事,而諸有情多住邪道,息滅智燈無正師授,爾時應以廣大經典,具大威力攝廣大義,如一切法母者尊重供養受持讀誦宣說解釋;二者以甚深經為他演說,解釋開示使其解了;三者於修正道人所,發生歡喜清淨之心;四者得歡喜已為彼攝受;五者以無著心為他說法使其聽受;六者於說法人所起師尊想;七者於其正法起甘露想;八者又於正法如良藥想;九者不惜身命希求正法;十者以所得法如說修行。是為十法。《寂靜決定神變經》云,佛言:賢護!菩薩若具四種法者,即能攝受正法。何等為四?一者於自快樂而不愛著;二者施於他人上妙快樂;三者具大悲心;四者求法無厭。彼經又云,過去世時無垢威光王,於大高如來所,千歲之中種諸善根,以一切樂具供養彼佛,及以四事給施八萬四千諸苾芻眾。如是過千歲已,彼大高如來告無垢威光王言:大王如是滿足千歲於如來所行諸施法,若比勤行求法菩薩一出入息中所有善根,百分不及一,乃至烏波尼殺曇分亦不及一。何況於正法中乃至一四句偈勤行宣說解釋其義,彼福邊際我不能說。大王!且置是事。正使如是滿足千歲,盡諸所有布施供養,總以為聚施一遊方苾芻,如是或施諸苾芻眾。若於勤行宣說講授菩薩所,以樂法故於彼尊重,起於淨信持以飲食,生如是心:我為求正法故以此飲食而為獻施。以前布施之法比此善根,百分不及一,乃至烏波尼殺曇分亦不及一。《如來祕密經》云,所有菩薩福蘊,若比攝受正法福蘊,此復倍多。正使一切諸佛勤劬宣說經俱胝劫,尚不能得受持正法福蘊邊際。何等正法?如《勝鬘師子吼經》云,此正法者,即是大乘增語。何以故?大乘出生聲聞緣覺之乘,及世出世間一切善法故。《法集經》云,彼正法攝受者,所謂於一切如來諸說甚深甚深經典,宣說講授專注思惟,是為正法攝受。當知諸菩薩若依著有所得行,雖經無量時供養諸如來,於彼彼佛所然不得授記,況復成菩提。如《梵王問經》云,佛言:大梵!我於一劫若過一劫,宣說彼彼如來名字。若我供養是諸如來,或復於彼我修梵行及修六波羅蜜多,我於彼彼佛所未得授記。何以故?我於有所得行而依著故。若我爾時於然燈如來所,纔見彼佛即得無生法忍,彼佛世尊與我授記。我於爾時超過一切有所得行,而復圓滿六波羅蜜多,於甚深法中能生信解,所有諸菩薩自利利他最勝諸行悉得周畢。《大集經.月藏品》云,佛言:月藏!彼勝義諦即能成就阿耨多羅三藐三菩提,不共一切聲聞緣覺所有,是故世俗諦不能成就阿耨多羅三藐三菩提最上善根及辦諸勝行。月藏!如人持以爝火,不能枯涸甚深大海。彼世俗諦亦復如是,尚不能涸自煩惱海,況復為他諸有情類。此中何能信解甚深之法?如《菩薩藏經》云,菩薩有二種慧,一者從他聲聞、二者自心深固作意。此中何等是從他聲聞?若有菩薩雖復樂修諸相應行,然於菩薩藏正法不樂聽受,又不樂聞諸聖法律,於定中少味而為喜足,慢心熾盛故墮增上慢。而彼菩薩不能解脫生老病死憂悲苦惱,亦不解脫六趣輪迴,又復不能解脫苦蘊。以彼緣故,如來說言從他聲聞。而此所聞不能解脫老死等法。何等是為深固作意?所謂菩薩自作是學,無所有法而可和合非不和合是深固行,此深固行即是非行增語。彼如是聲,若前際若後際,如實伺察,從何所生?復從何滅?又若言說若義理、若斷若證、若已說若當說,彼等一切如實伺察,無過去相、無未來相、無現在相可得,即一切法自性寂滅。自性寂靜自性圓滿,畢竟無生無起無實,應觀諸法畢竟涅槃。若如是觀,即無所觀亦非無觀,此名正觀。況復一切法如實可觀邪?是即無所觀,此無所觀亦即無生增語。若一切法無生即不越正理,若一切法平等即佛法平等。如是所說,是為不越正理,此說名為深固作意,如是乃能解入最上甚深正法。《父子合集經》云,佛告淨飯王言:大王!若或空劫時中,或有梵天樓閣出現於前,七寶所成彼堅實性。若生起時從何所來?如是欲界他化自在天、化樂天、兜率天、夜摩天、忉利天、四大王天,是等諸天樓閣悉現七寶所成。又鐵圍山、大鐵圍山,堅實一聚金剛所成,是等諸山彼堅實性從何所來?又須彌山、儞民達囉山、持雙山、持軸山、持金剛山、朅那里酤山、尾那怛酤山、馬耳山、善見山、大善見山、烏𭨚誐盧山、香醉山、雪山,及餘黑山,悉現於前,乃至一切三千大千世界而悉出現。且彼須彌山王去地八萬由旬,其堅實性悉集現前,從何所來?大王!若此世界成後,大地火然、大水漂流、大風鼓擊,其火亘空所有煙燼悉無所現,如酥或油投火中燒亦無煙燼。其水漂時無餘可得,如鹽投水而悉混融亦無有餘。其風鼓擊無少物可現,如毘嵐風當吹鼓時,何有飛鳥而可得現?此三千大千世界亦復如是,火然、水漂、風鼓之時,無餘可見。彼堅實性如是壞滅,從何所去?此說外地界?內地界亦然?及餘諸界若內若外亦復如是。是故一切法生時無所從來?滅時亦無所去。彼等有生決定皆空?生已亦復自性皆空。《阿闍世王經》云,爾時阿闍世王於其宮中飯佛世尊及諸菩薩聲聞大眾。盥手滌器已,於妙吉祥菩薩之前肅恭而坐聽受正法。王言:菩薩!願今為我解除惡作。妙吉祥言:大王!假使殑伽沙數等諸佛世尊,亦復不能為汝解除惡作。阿闍世王聞是語已,驚怖無救悶絕躄地。是時尊者大迦葉即告王言:止止。大王!勿生驚怖。此妙吉祥菩薩善能為汝說自因緣,應作是問:以何緣故菩薩作如是說?時阿闍世王從地徐起,白妙吉祥菩薩言:以何緣故菩薩作如是說?妙吉祥言:大王!於汝意云何?汝心有所緣觀佛世尊邪?王言:不也。妙吉祥言:汝今云何,觀心生邪?王言:不也。妙吉祥言:觀心滅邪?王言:不也。妙吉祥言:觀有為法邪?王言:不也。妙吉祥言:觀佛世尊於有為法有表示邪?王言:不也。妙吉祥言:大王!於汝意云何?若諸法中無法可觀者。而容有法可解除邪?王言:不也。妙吉祥言:大王!以此緣故我作是說,假使殑伽沙數等諸佛世尊亦不能為汝解除惡作。復次大王!若此空中或煙或塵欲染虛空,於汝意云何?是彼煙塵能染空不?王言:不也。妙吉祥言:大王!又或有人作如是言:我欲清淨虛空。而彼虛空其能淨不?王言:不也。妙吉祥言:大王!如來亦復如是與虛空等。說一切法本來相續自性無染,彼無有法若染若淨而實可觀,是中復何有所解除?大王!我於是義如實正觀故作是說。假使殑伽沙數等諸佛世尊,亦不能為汝解除惡作。復次大王!諸佛世尊內心非有所得、非有所起,外亦非所得、非所起。何以故?一切法自性無所起。若法自性無所起故,即無處容受有所起性。何以故?一切法自性無所起故即無所成,一切法無所成故即無所集,一切法無集故即無出生,一切法無出生故即法離性,一切法離性故即無能作行,一切法無能作行故即無有生,一切法無有生故即無異熟法,一切法無異熟故即無起作,一切法無起作故即無所染,一切法無染故即自性明亮,一切法自性明亮故即法清淨,一切法清淨故即虛空等,一切法虛空等故即無對治,一切法無對治故即離於二,一切法離二故即離二邊,一切法離二邊故即法無邊,一切法無邊故即無涯際,一切法無涯際故即無究竟,一切法無究竟故即無所緣,一切法無所緣故即於一切處無顛倒住,一切法於一切處無顛倒住故即常樂我淨悉不可得。一切法常故即無動轉相應,一切法淨故即自性明亮所成,一切法樂故即無分別相應,一切法我自性故即無我表示相應,一切法無惡作故即內心寂止,一切法無實故即勝義諦無所安立,一切法寂靜故即遍寂相,一切法無我故即我我所相離,一切法無味故即解脫相,一切法離名故即名差別不可得,一切法無分別故即種種性離,一切法一味故即解脫普攝,一切法離相故即無相際,一切法無相故即無解了所緣清淨,一切法空故即一切見作皆離,一切法無願故即超越三世,一切法三世斷故即過去未來現在皆不可得,一切法涅槃普攝故即畢竟無生。大王!於汝意云何?若法無生復無積集,是中還能有所染不?王言:不也。妙吉祥言:又復有法可解除邪?王言:不也。妙吉祥言:大王!由如是故,如來知一切法與涅槃等,乃於是中無有惡作而能解除。是故大王!彼深固相應,當如是行,以無顛倒心應當如實作其伺察。如伺察已隨伺察時,無有少法可取可捨,亦無有法而可共住。若一切法不共住故,此說是為輕安。若法輕安即法寂靜,若法寂靜是即法自性,若法自性即無自性,一切法無自性故即無主宰。大王!於中應作忍法,即此亦復無法可作。何以故?大王!所作寂靜故。如是了者當證涅槃,此中亦復無法可作亦非無作。若作若非作,此說皆歸涅槃寂靜。
この中で知っておくべきことは、菩薩は常に正法によってすべてを摂受することです。では何が正法の摂受でしょうか。『信力入印法門経』に説かれているとおりです。仏が言われました。「妙吉祥よ、正法を摂受するがゆえに、すなわち菩薩を摂受することになり、菩薩を摂受するがゆえに、すなわち正法を摂受することになります。正法を摂受するがゆえに、すべての有情を摂受することになり、すべての有情を摂受するがゆえに、すなわち仏種が断たれることなく、なすべきことが成就します。」また、もし仏種を断たせまいと願い、すべての有情の業と煩悩を破り、すべての悪趣の門を閉ざし、無量無数の転輪聖王のすぐれた楽しみ、および梵王・帝釈・護世などの楽しみを受けようと願い、すべての悪魔の羂索を断ち、さらには阿耨多羅三藐三菩提の果を成就しようと願うならば、そのすべてはこの正法の摂受によるべきです。ここで問うべきことがあります。初めて発心した菩薩は少ない善根をもってしますが、どうやって正法を摂受するのでしょうか。『菩薩蔵経』に説かれているとおりです。菩薩がもし四つの法を具えるならば、その者は菩提から退くことなく、生を変えて転輪聖王となり、その願力のとおりにすべての善根を得て従い転じ、大力堅固の那羅延の身を得ます。そして転輪聖王となった後、四梵行を修めて梵世に生まれ、梵天主となります。では四つとは何でしょうか。第一に、菩薩が如来の塔廟が壊れているのを見て、勤勇の心を起こしてそれを修理し飾り、さらには一つの泥団をもって供養を捧げることです。第二に、四つ辻やにぎやかな場所に、如来の高く顕れた妙塔を建て、あるいは塚廟や像を建て、あるいは幢相を立て、あるいはただ刹竿を立て、あるいは如来の形像を安置し、あるいは如来のさまざまな相を別々に配置することです。いわゆる転法輪の相、あるいは城を越えて出家する相、あるいは菩提樹の下で正覚を成じる相、あるいは大神通を現して魔軍を降伏する相、あるいは大涅槃に入ることを示す相、あるいは忉利天から降りる相です。第三に、声聞の弟子衆の中で離間する者があれば、和合させることです。第四に、如来の教えの中で、正法が滅びようとするのを見たとき、わずか一四句偈であっても勇気と力をもって護持し、それを流通させて忘れさせないことです。また正法や説法者をすべて摂受し、さらには身命を損じ捨ててもついに法を捨てないことです。『宝雲経』に説かれています。仏が言われました。「善男子よ、菩薩がもし十種の法を具えるならば、すなわち正法を摂受することができます。では十とは何でしょうか。第一に、後の末世、後の五百歳に正法が滅びる時、如来の教えの中に混乱が起こり、多くの有情が邪道に住み、智慧の灯が消えて正しい師の授けがなくなったとき、その時に広大な経典で、大きな威力を具えた広大な義を摂め、一切法の母のような者を尊重し供養し受持し読誦し宣説し解釈することです。第二に、甚深な経を他人のために演説し、解釈し開示して理解させることです。第三に、正道を修める人のもとで、歓喜と清浄の心を起こすことです。第四に、歓喜を得た後、その者のために摂受することです。第五に、無著の心で他人のために説法し、聞き受けさせることです。第六に、説法者のもとで師尊という想いを起こすことです。第七に、その正法に対して甘露という想いを起こすことです。第八に、また正法に対して良薬という想いを起こすことです。第九に、身命を惜しまず正法を希求することです。第十に、得た法のとおりに修行することです。これが十法です。」『寂静決定神変経』に説かれています。仏が言われました。「賢護よ、菩薩がもし四種の法を具えるならば、すなわち正法を摂受することができます。では四つとは何でしょうか。第一に、自分の楽しみを愛着しないことです。第二に、他人にすぐれた楽しみを施すことです。第三に、大悲心を具えることです。第四に、法を求めて飽きないことです。」その経にはまた説かれています。過去世のとき、無垢威光王が大高如来のもとで、千年の間にさまざまな善根を植え、すべての楽しみの道具をもってその仏を供養し、また四事をもって八万四千の苾芻衆に施しました。こうして千年が過ぎた後、大高如来が無垢威光王に告げられました。「大王よ、このように千年を満たして如来のもとで行ったさまざまな施しの法は、もし勤行して法を求める菩薩の一出入息の中の善根と比べるならば、百分の一にも及びません。乃至烏波尼殺曇分も及びません。まして正法の中でわずか一四句偈を勤行して宣説し解釈するならば、その福の辺際を私は説くことができません。大王よ、しばらくこのことは置きましょう。たとえこのように千年を満たし、すべての布施供養を尽くして、総じて一つに集めて一人の遊方の苾芻に施し、あるいは苾芻衆に施したとしても、もし勤行して宣説講授する菩薩のもとで、法を楽しむがゆえにその者を尊重し、浄信を起こして飲食を捧げ、こういう心を生じるならば——私は正法を求めるがゆえにこの飲食を捧げる——先の布施の法をこの善根と比べるならば、百分の一にも及びません。乃至烏波尼殺曇分も及びません。」『如来秘密経』に説かれています。すべての菩薩の福蘊を、もし正法を摂受する福蘊と比べるならば、これはさらに倍多くあります。たとえすべての仏が勤労して倶胝劫の間経を宣説しても、なお正法を受持する福蘊の辺際を得ることができません。では何が正法でしょうか。『勝鬘師子吼経』に説かれているとおりです。この正法とは、すなわち大乗の別の言い方です。なぜでしょうか。大乗は声聞・縁覚の乗、および世間・出世間のすべての善法を出生するからです。『法集経』に説かれています。その正法の摂受とは、すべての如来の説かれた甚深甚深の経典を宣説し講授し専注して思惟すること、これが正法の摂受です。知っておくべきことは、菩薩がもし有所得の行に依り執着するならば、たとえ無量の時を経てすべての如来を供養しても、そのそれぞれの仏のもとで授記を得ることができず、まして菩提を成就することはありません。『梵王問経』に説かれているとおりです。仏が言われました。「大梵よ、私は一劫あるいは一劫を過ぎる間、そのそれぞれの如来の名前を宣説しましょう。もし私がこれらの如来を供養し、あるいはそのもとで梵行を修め六波羅蜜多を修めたとしても、私はそのそれぞれの仏のもとで授記を得ませんでした。なぜでしょうか。私は有所得の行に依り執着したからです。もし私がその時、然灯如来のもとで、ただその仏を見るやいなや無生法忍を得て、その仏世尊が私に授記を与えました。私はその時、すべての有所得の行を超え、また六波羅蜜多を円満し、甚深の法の中で信解を生じることができ、すべての菩薩の自利利他の最勝のさまざまな行がすべて周満しました。」『大集経・月藏品』に説かれています。仏が言われました。「月蔵よ、その勝義諦はすなわち阿耨多羅三藐三菩提を成就することができ、一切の声聞・縁覚と共通しないものです。それゆえ世俗諦は阿耨多羅三藐三菩提の最上の善根を成就し、またさまざまな勝行を成し遂げることができません。月蔵よ、人が小さな火を持ってしても深い大海を涸らすことができないように、その世俗諦もまた同じです。自分の煩悩の海すら涸らすことができず、まして他の有情のためにできるでしょうか。」ここでどうして甚深の法を信解することができるでしょうか。『菩薩蔵経』に説かれているとおりです。菩薩には二種の慧があります。一つは他から聞くことであり、一つは自心の深固な作意です。ここで何が他から聞くことでしょうか。もし菩薩がさまざまな相応の行を修めることを楽しみながら、菩薩蔵の正法を聞き受けることを楽しまず、また聖なる法律を聞くことを楽しまず、定の中で少しの味のみで満足し、慢心が盛んであるために増上慢に堕ちるならば、その菩薩は生老病死の憂悲苦悩から解脱できず、また六趣の輪廻からも解脱できず、また苦蘊からも解脱できません。そのゆえに如来は他から聞くと説かれます。そしてこの聞くことでは老死などの法から解脱できません。何が深固な作意でしょうか。菩薩が自らこう学ぶことです。無所有の法は和合できるのであり、不和合ではない、これが深固な行であり、この深固な行はすなわち非行の別の言い方です。そのような声を、前際であれ後際であれ、如実に伺察するとき、何から生じたのか、また何から滅するのか。また言説であれ義理であれ、断であれ証であれ、すでに説かれたものであれ当に説かれるものであれ、それらすべてを如実に伺察するとき、過去の相も未来の相も現在の相も可得ではありません。すなわち一切法は自性寂滅です。自性は寂静であり、自性は円満であり、畢竟じて無生・無起・無実であり、諸法は畢竟涅槃であると観るべきです。もしこのように観るならば、すなわち所観もなく、また無観でもありません。これを正観と名づけます。まして一切法が如実に観られることがありましょうか。すなわちこれが無所観であり、この無所観もまた無生の別の言い方です。もし一切法が無生ならば正理を越えず、もし一切法が平等ならば仏法も平等です。このように説かれたものが正理を越えないのであり、この説を深固な作意と名づけ、このようにはじめて最上の甚深の正法を解し入ることができます。『父子合集経』に説かれています。仏が浄飯王に告げられました。「大王よ、もし空劫の時に、あるいは梵天の楼閣が目の前に出現し、七宝でできていて堅実な性があるとしましょう。それが生じるとき、どこから来るのでしょうか。同じように欲界の他化自在天、化楽天、兜率天、夜摩天、忉利天、四大王天、これらの諸天の楼閣がすべて七宝でできて現れるとしましょう。また鉄囲山、大鉄囲山が、堅実な一つの集まりとして金剛でできているとしましょう。これらの山の堅実な性はどこから来るのでしょうか。また須弥山、儞民達囉山、持双山、持軸山、持金剛山、朅那里酤山、尾那怛酤山、馬耳山、善見山、大善見山、烏𭨚誐盧山、香酔山、雪山、およびその他の黒山が、すべて目の前に現れ、さらには一切の三千大千世界がすべて出現するとしましょう。そしてその須弥山王は地から八万由旬にあり、その堅実な性がすべて集まり現前するとして、どこから来るのでしょうか。大王よ、もしこの世界が成立した後、大地が火で燃え、大水が漂流し、大風が鼓撃するとき、その火が空に亘りすべての煙燼が現れることはなく、酥や油を火に投じて焼いても煙燼がないようなものです。その水が漂うときには何も残らず、塩を水に投じるとすべて混融して残りがないようなものです。その風が鼓撃するときには少しの物も現れることができず、毘嵐風が吹き鼓撃するとき、飛ぶ鳥が現れることがありましょうか。この三千大千世界もまた同じです。火が燃え、水が漂い、風が鼓撃するとき、何も見ることはできません。その堅実な性がこのように壊滅するとして、どこへ去るのでしょうか。これは外地界を説いています。内地界もまた同じでしょうか。およびその他の諸界も内であれ外であれ同じです。それゆえ一切法は生じるときも来る所なく、滅するときも去る所がありません。それらは生があると決定されるならば皆空であり、生じた後もまた自性は皆空です。」『阿闍世王経』に説かれています。そのとき阿闍世王は宮中で仏世尊および諸菩薩・声聞の大衆に飯食を供養しました。手を洗い器を洗った後、妙吉祥菩薩の前に粛恭して座り正法を聴受しました。王が言いました。「菩薩よ、どうか今私のために悪作を解除してください。」妙吉祥が言いました。「大王よ、たとえ殑伽沙数等の諸仏世尊であっても、あなたのために悪作を解除することはできません。」阿闍世王はこの言葉を聞いて、驚怖し救いがないと悶絶して地に倒れました。そのとき尊者大迦葉がすぐに王に告げました。「止みなさい、止みなさい。大王よ、驚怖を生じてはいけません。この妙吉祥菩薩はよくあなたのために自らの因縁を説くことができます。こう問うべきです。何のゆえに菩薩はこのように説かれたのかと。」そのとき阿闍世王は地から徐々に起き上がり、妙吉祥菩薩に白しました。「何のゆえに菩薩はこのように説かれたのですか。」妙吉祥が言いました。「大王よ、あなたはどう思いますか。あなたの心に縁じて仏世尊を観ることがありますか。」王が言いました。「いいえ。」妙吉祥が言いました。「あなたは今どうやって、心が生じるのを観ますか。」王が言いました。「いいえ。」妙吉祥が言いました。「心が滅するのを観ますか。」王が言いました。「いいえ。」妙吉祥が言いました。「有為法を観ますか。」王が言いました。「いいえ。」妙吉祥が言いました。「仏世尊が有為法に表示があると観ますか。」王が言いました。「いいえ。」妙吉祥が言いました。「大王よ、あなたはどう思いますか。もし諸法の中で観るべき法がないならば、解除できる法があるでしょうか。」王が言いました。「いいえ。」妙吉祥が言いました。「大王よ、このゆえに私はこのように説きました。たとえ殑伽沙数等の諸仏世尊であっても、あなたのために悪作を解除することはできません。さらに大王よ、もしこの空中に煙や塵が虚空を汚そうとするならば、あなたはどう思いますか。その煙塵は空を汚すことができますか。」王が言いました。「いいえ。」妙吉祥が言いました。「大王よ、またある人がこう言うとしましょう。私は虚空を清浄にしたいと。その虚空は清浄にできるでしょうか。」王が言いました。「いいえ。」妙吉祥が言いました。「大王よ、如来もまた同じく虚空と等しいのです。一切法は本来相続し自性は無染であると説かれ、そこには染も浄も実に観るべき法がありません。この中で何の解除がありましょうか。大王よ、私はこの義を如実に正観するゆえにこのように説きました。たとえ殑伽沙数等の諸仏世尊であっても、あなたのために悪作を解除することはできません。さらに大王よ、諸仏世尊は内心に有所得なく、有所起なく、外にもまた所得なく、所起ありません。なぜでしょうか。一切法は自性に所起がないからです。もし法が自性に所起がないならば、所起の性を受容する場所がありません。なぜでしょうか。一切法は自性に所起がないゆえに所成がなく、一切法は所成がないゆえに所集がなく、一切法は集がないゆえに出生がなく、一切法は出生がないゆえに法は離性であり、一切法は離性であるゆえに能作行がなく、一切法は能作行がないゆえに生がなく、一切法は生がないゆえに異熟法がなく、一切法は異熟がないゆえに起作がなく、一切法は起作がないゆえに所染がなく、一切法は染がないゆえに自性は明亮であり、一切法は自性明亮であるゆえに法は清浄であり、一切法は清浄であるゆえに虚空等であり、一切法は虚空等であるゆえに対治がなく、一切法は対治がないゆえに二を離れ、一切法は二を離れるゆえに二辺を離れ、一切法は二辺を離れるゆえに法は無辺であり、一切法は無辺であるゆえに涯際がなく、一切法は涯際がないゆえに究竟がなく、一切法は究竟がないゆえに所縁がなく、一切法は所縁がないゆえに一切処に無顛倒に住し、一切法は一切処に無顛倒に住するゆえに常楽我浄はすべて可得ではありません。一切法は常であるゆえに動転の相応がなく、一切法は浄であるゆえに自性明亮に所成され、一切法は楽であるゆえに分別の相応がなく、一切法は我の自性であるゆえに無我の表示と相応し、一切法は悪作がないゆえに内心は寂止し、一切法は実がないゆえに勝義諦は安立されず、一切法は寂静であるゆえに遍寂の相であり、一切法は無我であるゆえに我・我所の相を離れ、一切法は味がないゆえに解脱の相であり、一切法は名を離れるゆえに名の差別は可得でなく、一切法は分別がないゆえに種々の性を離れ、一切法は一味であるゆえに解脱を普く摂し、一切法は相を離れるゆえに無相際であり、一切法は無相であるゆえに解了の所縁は清浄であり、一切法は空であるゆえに一切の見作を皆離れ、一切法は無願であるゆえに三世を超越し、一切法は三世が断たれるゆえに過去・未来・現在は皆可得でなく、一切法は涅槃を普く摂するゆえに畢竟じて無生です。大王よ、あなたはどう思いますか。もし法が無生でありまた積集がなければ、この中にまだ染があるでしょうか。」王が言いました。「いいえ。」妙吉祥が言いました。「また法が解除できるでしょうか。」王が言いました。「いいえ。」妙吉祥が言いました。「大王よ、このようなゆえに、如来は一切法が涅槃と等しいと知り、そこで悪作がなく解除できるのです。それゆえ大王よ、その深固の相応は、このように行じるべきであり、無顛倒の心をもって如実に伺察すべきです。伺察したとおりに伺察するとき、少しの法も取るべきものも捨てるべきものもなく、また共に住むべき法もありません。もし一切法が共住しないならば、この説は軽安です。もし法が軽安ならば法は寂静であり、もし法が寂静ならばこれが法の自性であり、もし法が自性ならば無自性です。一切法は無自性であるゆえに主宰がありません。大王よ、この中で忍法を作すべきであり、これもまた作すべき法がありません。なぜでしょうか。大王よ、所作が寂静であるからです。このように了する者は当に涅槃を証し、この中にもまた作すべき法がなく、また無作でもありません。作であれ非作であれ、この説は皆涅槃寂静に帰します。」
大乘寶要義論卷第七
大乗宝要義論 巻第七