華嚴一乘教義分齊章卷第一
華厳一乗教義分斉章 巻第一
唐大薦福寺沙門法藏述
唐の大薦福寺の僧、法蔵が述べる
今將開釋如來海印三昧一乘教義略作十門。
今、如来の海印三昧一乗の教えを開き、その意味を明らかにするにあたり、十の項目に分けて概説します。
建立一乘第一教義攝益第二古今立教第三 分教開宗第四乘教開合第五起教前後第六決擇其意第七 施設異相第八所詮差別第九義理分齊第十
一つの教えを立てる第一、教義をまとめ利益を収める第二、古今の教えを立てる第三、教えを分けて宗を開く第四、乗と教えを開き合わせる第五、教えを起こす前後第六、その意味を決め選ぶ第七、異なる相を設ける第八、説かれる内容の違い第九、道理の分け隔て第十
初明建立一乘者。然此一乘教義分齊。開為二門。一別教。二同教。初中二。一性海果分。是不可說義。何以故。不與教相應故。則十佛自境界也。故地論云。因分可說果分不可說者是也。二緣起因分。則普賢境界也。此二無二全體遍收。其猶波水。思之可見。就普賢門復作二門。一分相門。二該攝門。分相門者。此則別教一乘別於三乘。如法華中宅內所指門外三車誘引諸子令得出者。是三乘教也。界外露地所授牛車是一乘教也。然此一乘三乘差別。諸聖教中略有十說。一權實差別。以三中牛車亦同羊鹿。權引諸子務令得出。是故臨門三車。俱是開方便門。四衢道中別授大白牛車。方為示真實相。若彼三中牛車。亦是實者。長者宅內引諸子時。指彼牛車秪在門外。此應亦出即得見車。如何出竟至本所指車所住處而不得故。後更索耶。亦不可說界外索車但是二乘。以經不說彼求牛車人。出門即得彼牛車故。又不說彼索先許車唯二乘故。是故經中諸子得出至露地已。各白父言。父先所許玩好之具。羊車鹿車牛車願時賜與。以此得知三車同索。此中三車約彼三乘所求果說。以是元意所標趣故。問二乘各得小果。何以界外更索耶。答依小乘。云有教有行果。今依大乘。云昔日但有言教無實行果故。故云三車空無。若望自宗並皆得果。若不得者如何出世。今言俱不得者。以望一乘故。是故以實映權則方便相盡。故皆無得也。為欲迴彼三乘人入一乘故。是故大乘亦說迴也。若不爾者。彼求牛車人既出界外不同凡夫。非求羊鹿不同二乘。未得露地大白牛車不同一乘。若非彼三中大乘。更是何色人也。以至自位究竟處故。後皆進入別教一乘。問臨門三車為實不實耶。答實不實。何以故。是方便故。由是方便引子得出非不實。由是方便引故非是實。此二無二唯一相也。二教義差別。以臨門牛車亦同羊鹿。但有其名。以望一乘俱是教故。是故經云。以佛教門出三界苦。亦不可說以佛教言但約二乘。以經不揀故。彼求牛車人尋教至義。亦同二乘俱不得故。三所明差別。以彼一乘非是界內先許三車。是故界外四衢道中授諸子時。皆云非本所望。是故經云。是時諸子各乘大車得未曾有非本所望。亦不可說非本所望言但約二乘。以經不揀故。聖言無失故。良以。門內所許今皆無得。露地牛車本非悕冀故。今得之言非本所望也。四德量差別。謂宅內指外。但云牛車不言餘德。而露地所授七寶大車。謂寶網寶鈴等無量眾寶而莊嚴等。此即體具德也。又彼但云牛不言餘相。此云白牛肥壯多力其疾如風等。用殊勝也。又云。多諸儐從而侍衛等。行眷屬也。此等異相並約同教一乘。以明異耳。又彼三中牛車唯一。以彼宗明一相方便無主伴故。此則不爾。主伴具足攝德無量。是故經云。我有如是七寶大車。其數無量。無量寶車非適一也。此顯一乘無盡教義。此義廣說如華嚴中。此約別教一乘以明異耳。五約寄位差別。如本業經仁王經及地論梁攝論等皆以初二三地寄在世間。四地至七地寄出世間。八地已上寄出出世間。於出世間中。四地五地寄聲聞法。六地寄緣覺法。七地寄菩薩法。八地已上寄一乘法。若大乘即是一乘者。七地即應是出出世。又不應一乘在於八地。是故當知法華中三乘之人。為求三車出至門外者。則三乘俱是出世。自位究竟也。即是此中四地以去。至七地者是也。四衢別授大白牛車者。此在出世之上故。是出出世一乘法。即是此中八地已上一乘法也。問若爾何故梁攝論云二乘善名出世。從八地已上乃至佛地名出出世。既不言三乘是出世。如何作如說耶。答既四五二地為聲聞。第六地為緣覺。八地已去為出出世。彼第七地是何人耶。是故當知彼云二乘善名出世。即大小二乘也。以聲聞緣覺俱名為小故二乘名通。具如下說。六付囑差別。如法華經云。於未來世若有善男子善女人。信如來智慧者。當為演說此法華經使得聞知。為令其人得佛智慧故。若有眾生不信受者。當於如來餘深法中示教利喜。汝等若能如是。則為報佛之恩。解云。餘深法者即是大乘。非一乘故稱之為餘。然非小乘是以稱深。亦不可說以彼小乘為餘深法。以法華中正破小乘。豈可歎其深耶。是故當知法華別意。正在一乘故。作此付囑也。七根緣受者差別。如此經性起品云。佛子。菩薩摩訶薩無量億那由他劫。行六波羅蜜。修習道品善根。未聞此經。雖聞不信受持隨順。是等猶為假名菩薩。解云。此明三乘菩薩根未熟故。雖如是經爾許劫修行。不信不聞此一乘經者是人當知是前法華經內餘深法中。示教利喜者是也。以望一乘究竟法。是故說彼以為假名。若望自宗亦真實也。此文意明華嚴是別教一乘不同彼也。八難信易信差別。如此經賢首品云。一切世界群生類。尠有欲求聲聞乘。求緣覺者轉復少。求大乘者甚希有。求大乘者猶為易。能信此法甚為難。解云。以此品中正明信位終心即攝一切位及成佛等事既超三乘。恐難信受故。舉三乘對比決之。九約機顯理差別。如此經第九地初偈云。若眾生下劣。其心厭沒者。示以聲聞道。令出于眾苦。若復有眾生。諸根小明利。樂於因緣法。為說辟支佛。若人根明利。有大慈悲心。饒益諸眾生。為說菩薩道。若有無上心。決定樂大事。為示於佛身。說無盡佛法。解云。此明一乘法門主伴具足故云無盡佛法。不同三乘一相一寂等法。以此地中作大法師。明說法儀軌。是故開示一乘三乘。文義差別也。十本末開合差別。如大乘同性經云。所有聲聞法辟支佛法菩薩法諸佛法。如是一切諸法。皆悉流入毘盧遮那智藏大海。此文約本末分異。仍會末歸本。明一乘三乘差別顯耳。此上十證足為龜鏡。其別教一乘所明行位因果等相。與彼三乘教施設分齊全別不同。廣在經文略如下辨。縱無教證依彼義異尚須分宗。況聖教雲披煥然溢目矣。二該攝門者。一切三乘等。本來悉是彼一乘法。何以故。以三乘望一乘有二門故。謂不異不一也。初不異亦二。一以三即一故不異。二以一即三故不異。問若據初門三即一者。未知彼三為存為壞。若存如何唯一。若壞彼三乘機。更依何法而得進修。答有四句。一由即一故不待壞。二由即一故不礙存。三由即一故無不壞。四由即一故無可存。由初二義三乘機得有所依。由後二義三乘機得入一乘。由四句俱即一故。是故唯有一乘更無餘也。二以一乘即三明不異者。隱顯四句。反上思之。是故唯有三乘。更無一也。此如下同教中辨。二不一者。此即一之三。與上即三之一。是非一門也。是則不壞不一而明不異。又此中不一是上分相門。此中不異是此該攝門也。二同教者於中二。初分諸乘後融本末。初中有六重。一明一乘於中有七。初約法相交參以明一乘。謂如三乘中亦有說因陀羅網及微細等事而主伴不具。或亦說華藏世界。而不說十等。或一乘中亦有三乘法相等。謂如十眼中亦有五眼。十通中亦有六通等。而義理皆別。此則一乘垂於三乘。三乘參于一乘。是則兩宗交接連綴引攝成根欲性。令入別教一乘故也。二約攝方便。謂彼三乘等法。總為一乘方便故。皆名一乘。所以經云。諸有所作皆為一大事故等也。三約所流辨。謂三乘等。悉從一乘流故。故經云。汝等所行是菩薩道等。又經云。毘尼者即大乘也。四約殊勝門。即以三中大乘為一乘。以望別教雖權實有異同是菩薩所乘故。故經云。唯此一事實。餘二則非真。又云。止息故說二等。此文有二意。一若望上別教。餘二者則大小二乘也。以聲聞等利鈍雖殊同期小果故。開一異三故。若望同教即聲聞等為二也。又融大同一故。五約教事深細。如經云。我常在靈山等。六約八義意趣。依攝論。如問答中辨。七約十義方便。如孔目中說。依上諸義即三乘等並名一乘。皆隨本宗定故。主伴不具故。是同非別也。二明二乘有三種。一者一乘三乘名為二乘。謂如經中四衢所授并臨門三車。此中合愚法同迴心。俱是小乘。故有二耳。二者大乘小乘為二乘。此則合一同三。開愚法異迴心。三者聲聞緣覺為二乘。此通愚法及迴心。又初約一乘。次約三乘。後約小乘。準可知之。三明三乘亦有三種。一者一乘三乘小乘名為三乘。此為顯法本末故。上開一乘下開愚法。故有三也。以經中愚法二乘並在所引諸子中。故。知三乘外別有小乘。三車引諸子。故知小乘外別有三乘。三人俱出至露地已。更別授大白牛車。故知三乘外別有一乘。問何以得知愚法二乘在所引中耶。答以彼愚法約大乘終教已去並不名究竟出三界故。何以故。以人執煩惱未永斷故。但能折伏而已。故彌勒所問經論云。一切聲聞辟支佛人。不能如實修四無量。不能究竟斷諸煩惱。但能折伏一切煩惱故也。又經云。汝等所得涅槃非真滅度。又經云。若不信此法得阿羅漢果。無有是處。又大品云。故得阿羅漢等果。當學般若波羅蜜。是故當知。羅漢實義在大乘中。是故大乘必具三也。故普超三昧經云。如此大乘中亦有三乘。則為三藏。謂聲聞藏緣覺藏菩薩藏。唯大乘中得有三藏。餘二乘中則無此也。入大乘論中。亦同此說。是故當知。門外三車不通愚法。以法華非小乘故。其瑜伽聲聞決擇及雜集等論。辨聲聞等教行位果及斷惑分齊。與婆沙俱舍等不同者。是其事也。是故當知。一乘三乘小乘分齊別也。由此義故。大智度論云。般若波羅蜜有二種。一共二不共。言共者。謂此摩訶衍經。及餘方等經。共諸聲聞眾集共說故。不共者。如不思議經不與聲聞共說故。解云。不思議經者。彼論自指華嚴是也。以其唯說別教一乘。故名不共。義準知之。如四阿含經。名不共。以唯說愚法二乘教故。如大品等經。共集三乘眾。通說三乘法。具獲三乘益。故云共也。此中通大之小非愚法。通小之大非一乘。依此三義故。梁攝論云。善成立有三種。一小乘。二三乘。三一乘。其第三最居上故。名善成立。即其事也。若言說大品等時一音異解得小果故有三乘者。說華嚴時何不異解得小果耶。又說增一等時。何不異解得大果耶。是故當知。三宗各別。理不疑也。二者大乘中乘小乘為三乘。此有三義。一則融一乘同大乘。合愚法同小乘故唯三也。教理可知。此約一乘辨。二則大乘中自有三乘。如上所說。三則小乘中亦有三。如小論中自有聲聞法緣覺法及佛法。此中佛法但慈悲愛行等。異於二乘故也。四者戒為四乘。亦有三種。一謂一乘三乘為四。此則開一異三。合二聲聞故也。二謂一乘三乘小乘人天為四。此總開意也。三謂三乘人天為四。準上可知。五者或為五乘亦有三種。一謂一乘三乘小乘為五。二謂三乘人天為五。三謂佛與二乘天及梵亦為五。並準釋可知。六者或無量乘。謂一切法門也。故此經云。於一世界中。聞說一乘者。或二三四五。乃至無量乘。此之謂也。上來分乘竟。二融本末者。此同文說諸乘等會融無二同一法界。有其二門。一泯權歸實門。即一乘教也。二攬實成權門。則三乘教等也。初則不壞權而即泯故。三乘即一乘而不礙三。後則不異實而即權故。一乘即三乘而不礙一。是故一三融攝體無二也。問若爾二門俱齊。如何復說有權實耶。答義門異故權實恒存。理遍通故全體無二。何者謂權起必一向賴於實。是故攬實實不失。實現。未必一向藉於權。故泯權權不立。是故三乘即一雖具存壞竟必有盡。一乘即三雖具隱顯竟恒無盡。由此鎔融有其四句。一或唯一乘。謂如別教。二或唯三乘。如三乘等教。以不知一故。或亦一亦三。如同教。四或非一非三。如上果海。此四義中。隨於一門皆全收法體。是故諸乘或存或壞。而不相礙也。準思可解。餘釋乘明體等。並如別說。上來明建立一乘竟。
まず、一乗を立てる理由を明らかにします。しかし、この一乗の教えの内容と範囲は、二つの門に分けて説かれます。一つは別教、もう一つは同教です。
別教の中には、さらに二つあります。 一、性海果分(じょうかいかぶん)。これは言葉で説くことのできない境地です。なぜなら、教えの形に当てはまらないからです。つまり、十仏(じゅうぶつ)の自らの境界です。ですから『十地経論』に「因分(いんぶん)は説くことができるが、果分(かぶん)は説くことができない」とあるのです。 二、縁起因分(えんきいんぶん)。これは普賢(ふげん)菩薩の境界です。 この二つは別々のものではなく、全体として互いを含み合っています。波と水の関係のようなものです。考えてみればわかるでしょう。
普賢の門についても、さらに二つの門に分けられます。 一、分相門(ぶんそうもん) 二、該摂門(がいしょうもん)
分相門とは、別教の一乗が三乗とは別物であることを明らかにするものです。『法華経』の譬喩で、家の中から門の外にある三つの車(羊車・鹿車・牛車)を指し示し、子供たちを誘い出した話があります。これは三乗の教えです。家の外の露地で授けられた大白牛車(だいびゃくごしゃ)が一乗の教えです。
この一乗と三乗の違いについて、諸経典にはおおよそ十の説き方があります。
一、権実(ごんじつ)の差別 三乗の中の牛車も、羊車や鹿車と同じく、子供たちを導き出すための方便(仮の手段)です。ですから門のところで示された三つの車は、すべて方便の門を開いたものです。四つ辻で別に大白牛車を授けた時、初めて真実の姿を示したのです。もし三乗の中の牛車も真実であったなら、長者が家の中で子供たちに指し示した時、その牛車は門の外にあったのですから、子供たちが外に出ればすぐにそれを見られたはずです。どうして外に出て、もともと指し示された車のあった場所に行っても得られず、後になってまた求めなければならなかったのでしょうか。また、家の外で車を求めたのが二乗(声聞・縁覚)だけだとも言えません。経文に、牛車を求める人が門を出てすぐにその牛車を得たとは書かれていないからです。また、先に約束された車を求めたのが二乗だけだとも書かれていません。ですから経文では、子供たちが外に出て露地に至った後、それぞれ父に「父さんが前に約束してくれたおもちゃ、羊の車、鹿の車、牛の車を今すぐください」と言っています。これによって、三つの車を同時に求めていることがわかります。ここでの三つの車は、三乗が求める果報について説いているのです。それがもともとの意図だったからです。 問:二乗はそれぞれ小さな結果(阿羅漢果など)を得ているのに、なぜ家の外でさらに車を求めるのですか。 答:小乗の立場では「教えもあり、修行もあり、結果もある」と言います。しかし大乗の立場から見れば、「昔はただ言葉の教えだけで、真実の修行と結果はなかった」と言うのです。だから「三つの車は空しく存在しない」と言われるのです。それぞれの宗派の立場から見れば、皆結果を得ています。得ていないなら、どうして世を超えることができましょうか。今、皆得ていないと言うのは、一乗の立場から見るからです。ですから真実を以て方便を照らせば、方便の相は尽きて、すべて得たものはないのです。三乗の人々を一乗に引き入れるために、大乗もまた「回向」を説くのです。そうでなければ、牛車を求める人は家の外に出た以上、凡夫とは違い、羊車や鹿車を求める二乗とも違い、まだ露地の大白牛車を得ていないので一乗とも違い、三乗の中の大乗でもないとしたら、いったい何者なのでしょうか。それぞれの立場の究極に至ったからこそ、後になって皆、別教の一乗に入っていくのです。 問:門のところで示された三つの車は、真実ですか、真実ではありませんか。 答:真実でもあり、真実でもありません。なぜなら、方便だからです。この方便によって子供たちは導き出されたので、真実でないわけではありません。しかし、この方便によって導かれたので、真実そのものではありません。この二つは別々ではなく、ただ一つの相なのです。
二、教えとその意味(教義)の差別 門のところの牛車も羊車や鹿車と同じで、ただ名があるだけです。一乗から見れば、どれも「教え」に過ぎないからです。ですから経文に「仏の教えの門によって三界の苦を出る」とあるのです。また、「仏の教え」という言葉が二乗だけを指すとも言えません。経文が区別していないからです。牛車を求める人は教えに従ってその意味を求めますが、二乗と同じく、どちらも得られないのです。
三、説かれている内容の差別 あの一乗は、家の中であらかじめ約束された三つの車ではないからです。ですから家の外の四つ辻で子供たちに授ける時、皆「もともと望んでいたものではない」と言うのです。経文に「その時、子供たちはそれぞれ大きな車に乗り、これまでになかったものを得た。もともと望んでいたものではなかった」とある通りです。また、「もともと望んでいたものではない」という言葉が二乗だけを指すとも言えません。経文が区別していないからです。聖なる言葉に誤りはありません。まさに、門の中で約束されたものは今や何も得られず、露地の牛車はもともと望んでいなかったものだからです。ですから今「得た」と言っても、「もともと望んでいたものではない」のです。
四、徳と量の差別 家の中で外を指して「牛車」と言っただけで、他の徳については言いませんでした。しかし露地で授けられた七宝の大車は、宝の網や宝の鈴など無量の宝で飾られています。これが「体に徳を備えている」ということです。また、あちらではただ「牛」と言っただけで、他の特徴については言いませんでした。こちらでは「白い牛で、たくましく力強く、風のように速い」などと、作用が優れていることを説きます。また、「多くの従者を従えている」などと、行いの眷属についても説きます。これらの異なる相は、すべて同教の一乗に基づいて、違いを明らかにしているのです。 また、あの三乗の中の牛車は一つだけです。あの宗派は一つの相の方便を説き、主(中心)と伴(周囲)の関係がないからです。しかしこちらはそうではありません。主伴が具足し、無量の徳を含んでいます。ですから経文に「私はこのような七宝の大車を持っている。その数は無量である」とあるのです。無量の宝の車は、一つだけではないということです。これは一乗の尽きることのない教えの意味を示しています。この意味は『華厳経』で広く説かれています。これは別教の一乗に基づいて違いを明らかにしているのです。
五、位に仮託しての差別(寄位差別) 『本業経』『仁王経』『十地経論』『摂大乗論(梁訳)』などでは、初地から三地までは世間に、四地から七地までは出世間に、八地以上は出出世間に仮託されています。出世間の中では、四地・五地は声聞の法に、六地は縁覚の法に、七地は菩薩の法に、八地以上は一乗の法に仮託されています。 もし大乗がそのまま一乗であるなら、七地は出出世であるはずです。また、一乗が八地にあるはずがありません。ですから、『法華経』で三乗の人々が三つの車を求めて門の外に出たというのは、三乗がすべて出世であり、それぞれの立場の究極に達したことを意味します。つまり、ここで言う四地以上、七地までのことです。四つ辻で別に大白牛車を授けたというのは、出世の上にあるからです。つまり出出世の一乗の法です。これはここで言う八地以上の一乗の法です。 問:それならば、なぜ『摂大乗論(梁訳)』に「二乗の善は出世と名づけ、八地以上から仏地までは出出世と名づける」とあるのですか。三乗が出世だとは言っていません。どうしてこのように説くのですか。 答:四地・五地が声聞に、第六地が縁覚に、八地以上が出出世にあてはめられるなら、その第七地は誰にあたるのでしょうか。ですから、あの「二乗の善は出世と名づける」というのは、大乗と小乗の二乗を指すのです。声聞と縁覚はともに小乗と呼ばれるので、「二乗」という名称が通用するのです。詳しくは後で説きます。
六、付嘱の差別 『法華経』に「未来の世において、もし善男子・善女人が如来の智慧を信じるならば、この『法華経』を説き聞かせて知らしめなさい。その人が仏の智慧を得るためにである。もし衆生が信じ受け入れないならば、如来のその他の深い法の中で教え示し、利益と喜びを与えなさい。あなたがたがこのようにするならば、それが仏の恩に報いることである」とあります。 解釈:「その他の深い法」とは大乗のことです。一乗ではないので「その他」と言い、小乗ではないので「深い」と言うのです。また、あの小乗を「その他の深い法」だとも言えません。『法華経』は正しく小乗を破っているのですから、どうしてその深さを称賛できましょうか。ですから、『法華経』の特別な意図は、まさに一乗にあるからこそ、このような付嘱をするのだと知るべきです。
七、根機と受け手の差別 この経(『華厳経』)の「性起品」に「仏子よ、菩薩摩訶薩は無量億那由他劫の間、六波羅蜜を行い、道品の善根を修習するが、この経を聞かず、聞いても信じ受け入れず、従順しないならば、このような者はなお仮名の菩薩である」とあります。 解釈:これは三乗の菩薩は根機が熟していないので、これほどの長い期間修行しても、この一乗の経を信じ聞かない者は、前に『法華経』で言った「その他の深い法の中で教え示し、利益と喜びを与える」対象であることを明らかにしています。一乗の究極の法から見れば、彼らは仮名であると言われるのです。それぞれの宗派の立場から見れば、彼らも真実です。この文の意味は、『華厳経』が別教の一乗であって、それ(三乗)とは異なることを明らかにしているのです。
八、信じ難いことと信じ易いことの差別 この経の「賢首品」に「一切世界の群生類、声聞乗を求めようとする者は少なく、縁覚を求める者はさらに少なく、大乗を求める者は甚だ稀有である。大乗を求めることはまだ易しいが、この法を信じることは甚だ難しい」とあります。 解釈:この品では正しく信の位の終わりに一切の位と成仏などを含むことが説かれ、三乗を超えているので、信じ受け入れ難いことを恐れて、三乗と比較して決断を示しているのです。
九、機根によって道理を顕わす差別 この経の第九地の初めの偈に「もし衆生が下劣で、その心が厭い沈んでいるならば、声聞の道を示して、衆苦を出さしめる。もしまた衆生があり、諸根が小さく明利で、因縁の法を喜ぶならば、辟支仏(縁覚)を説く。もし人の根が明利で、大いなる慈悲心があり、諸々の衆生に利益を与えるならば、菩薩の道を説く。もし無上の心があり、決して大事を喜ぶならば、仏身を示して、尽きることのない仏法を説く」とあります。 解釈:これは一乗の法門は主伴が具足しているので「尽きることのない仏法」と言い、三乗の一つの相、一つの寂滅などの法とは異なることを明らかにしています。この地(第九地)では大法師となって説法の儀軌を明らかにするので、一乗と三乗の開示、文と義の差別を説くのです。
十、根本と枝末、開くことと合わすことの差別 『大乗同性経』に「すべての声聞法、辟支仏法、菩薩法、諸仏法、このように一切の諸法は、ことごとく毘盧遮那(びるしゃな)の智蔵の大海に流入する」とあります。 この文は根本と枝末の違いに基づき、なお枝末を根本に帰せしめて、一乗と三乗の差別を明らかにしているのです。
以上の十の証拠は、十分な手本となります。別教の一乗で説かれる行・位・因・果などの相は、あの三乗の教えで施設される範囲とはまったく異なります。詳しくは経文にあり、略説は以下の通りです。仮に教えの証拠がなくても、その意味の違いによって宗派を分ける必要があります。ましてや聖なる教えが雲のように広がり、目に溢れるほど明らかなのです。
二、該摂門(がいしょうもん) 一切の三乗などは、もともとすべてあの一乗の法です。なぜなら、三乗を一乗と比べるに二つの門があるからです。つまり「異ならず」と「一ならず」です。
まず「異ならず」にも二つあります。 一、三が即ち一であるから異ならない。 二、一が即ち三であるから異ならない。 問:最初の門「三が即ち一である」に基づくなら、あの三乗は存続するのか、壊れるのか。もし存続するなら、どうして唯一つなのか。もし壊れるなら、三乗の機根はさらに何の法によって進んで修行できるのか。 答:四つの句があります。 一、即ち一であるから、壊れるのを待たない。 二、即ち一であるから、存続を妨げない。 三、即ち一であるから、壊れないものはない。 四、即ち一であるから、存続すべきものはない。 前の二つの意味によって、三乗の機根は依るべきものがあり、後の二つの意味によって、三乗の機根は一乗に入ることができます。四つの句がすべて即ち一であるから、ただ一乗のみがあって、他にはないのです。 二、一乗が即ち三であることを明らかにして「異ならない」とする場合、隠れることと顕われることの四句は、上記と反対に考えればよいです。ですからただ三乗のみがあって、一乗はないのです。これは以下の同教の中で明らかにします。
二、「一ならず」 これは「一であるものの三」であり、上の「三であるものの一」とは、「一ならず」という門です。こうして「一ならず」を壊さずに「異ならず」を明らかにするのです。また、この中の「一ならず」は上の分相門であり、この中の「異ならず」はこの該摂門です。
二、同教(どうきょう) これには二つあります。初めに諸乗を分け、後に根本と枝末を融和します。
初めの「諸乗を分ける」には六つの段階があります。 一、一乗を明らかにする。これには七つあります。 1. 法と相が互いに関わり合うことによって一乗を明らかにする。 たとえば三乗の中にも因陀羅網や微細などの事を説くことがありますが、主伴は具足しません。あるいは華蔵世界を説くこともありますが、十などの数は説きません。あるいは一乗の中にも三乗の法の相があることもあります。たとえば十種の眼中にも五眼があり、十種の神通の中にも六神通などがあるように。しかし、その義理はすべて異なります。これは一乗が三乗に垂れ、三乗が一乗に関わるということです。つまり両方の宗派が交わり連なり、導き引き寄せて根・欲・性を成し、別教の一乗に入らしめるのです。 2. 方便を摂取することによって。 あの三乗などの法は、すべて一乗の方便であるから、皆一乗と名づけられます。だから経文に「諸々のなすところのことは、すべて一つの大事のためである」などとあるのです。 3. 流れ出たものによって弁えることによって。 三乗などは、すべて一乗から流れ出たものです。だから経文に「あなたがたの行っているところは菩薩の道である」などとあり、また経文に「毘尼(戒律)とはすなわち大乗である」とあるのです。 4. 殊勝な門によって。 すなわち三乗の中の大乗をもって一乗とします。別教と比べれば権実の違いはありますが、同じく菩薩の乗るものであるからです。だから経文に「ただこの一事のみが真実であり、他の二つは真実ではない」とあり、また「止息するために二つを説く」などとあるのです。この文には二つの意味があります。一つは、上の別教から見れば、「他の二つ」とは大乗と小乗の二乗です。声聞などの利鈍は違いがあっても、同じく小さな結果
第二教義攝益者。此門有二。先辨教義分齊。後明攝益分齊。初中又二。先示相。後開合。初中有三義。一者如露地牛車自有教義。謂十十無盡主伴具足。如華嚴說。此當別教一乘。二者如臨門三車自有教義。謂界內示為教得出為義。仍教義即無分。此當三乘教。如餘經及瑜伽等說。三者以臨門三車為開方便教。界外別授大白牛車。方為示真實義。此當同教一乘。如法華經說。二開合者有二。先別。後總。別中一乘三乘各有三句。三乘三句者或具教義。約三乘自宗說。或唯教非義。約同教一乘說。或俱非教義。約別教一乘說。為彼所目故也。一乘三句者。或具教義。約自別教說。或唯義非教。約同教說。或俱非教義。唯約三乘教說。隱彼無盡教義故。後總者。或教義俱教。以三乘望一乘故。或教義俱義。以一乘望三乘故。或具此三句約同教說。或皆具教義。各隨自宗差別說矣。二明攝益分齊者。於中有三。一或唯攝界內機令得出世益。即以為究竟。此約三乘當宗說。亦如瑜伽等辨。二或攝界外機。令得出出世益方為究竟。此有二種。若先以三乘令其得出。後乃方便得一乘者。此即一乘三乘和合說故屬同教攝。亦名迴三入一教。此如法華經說。若先於一乘已成解行。後於出世身上證彼法者。即屬別教一乘攝。此如小相品說。三或通攝二機令得二益。此亦有二。若先以三乘引出。後令得一乘。亦是三一和合攝機成二益。故屬同教。此如法華經說。若界內見聞。出世得法。出出世證成。或界內通見聞解行。出世唯解行。出出世唯證入。此等屬別教一乘。此如華嚴說。第三敘今古立教者。謂古今諸賢所立教門差別非一。且略敘十家以為龜鏡。一依菩提流支。依維摩經等。立一音教。謂一切聖教皆是一音一味一雨等霔。但以眾生根行不同。隨機異解遂有多種。如克其本。唯是如來一圓音教。故經云。佛以一音演說法眾生隨類各得解等是也。二依護法師等。依楞伽等經。立漸頓二教。謂以先習小乘後趣大乘。大由小起故名為漸。亦大小俱陳故。即涅槃等教是也。如直往菩薩等。大不由小故名為頓。亦以無小故。即華嚴是也。遠法師等後代諸德多同此說。三依光統律師立三種教。謂漸頓圓。光師釋意。以根未熟先說無常後說常。先說空後說不空。深妙之義。如是漸次而說故名漸教。為根熟者。於一法門具足演說一切佛法。常與無常。空與不空。同時俱說更無漸次。故名頓教。為於上達分階佛境者。說於如來無礙解脫究竟果海圓極祕密自在法門。即此經是也。後光統門下。遵統師等諸德。並亦宗承大同此說。四依大衍法師等一時諸德立四宗教。以通收一代聖教。一因緣宗。謂小乘薩婆多等部。二假名宗。謂成實經部等。三不真宗。謂諸部般若說即空理明一切法不真實等。四真實宗。涅槃華嚴等。明佛性法界真理等。五依護身法師立五種教。三種同前衍師等。第四名真實宗教。謂涅槃等經。明佛性真理等。第五明法界宗。謂華嚴明法界自在無礙法門等。六依耆闍法師立六宗教。初二同衍師。第三名不真宗。明諸大乘通說諸法如幻化等。第四名真宗明諸法真宗理等。第五名常宗。明說真理恒沙功德常恒等義。第六名圓宗。明法界自在緣起無礙德用圓備。亦華嚴法門等是也。七依南岳思禪師及天台智者禪師立四種教。統攝東流一代聖教。一名三藏教。謂是小乘。故彼自引法華經云不得親近小乘三藏學者。又智論中說小乘為三藏教。大乘為摩訶衍藏。二名通教。謂諸大乘經中。說法通益三乘人等。及大品中乾慧等十地。通大小乘者是也。三名別教。謂諸大乘經中所明道理。不通小乘等者是也。四名圓教。為法界自在具足一切無盡法門一即一切一切即一等。即華嚴等經是也。八依江南慜法師立二教。一釋迦經。謂屈曲教。以逐物機隨計破著故。如涅槃等。二盧舍那經。謂平等道教。以逐法性自在說故。即華嚴是也。九依梁朝光宅寺雲法師立四乘教。謂臨門三車為三乘。四衢所授大白牛車方為第四。以彼臨門牛車亦同羊鹿俱不得故。餘義同上辯。信行禪師依此宗立二教。謂一乘三乘。三乘者。則別解別行及三乘差別。并先習小乘後趣大乘是也。一乘者。謂普解普行唯是一乘。亦華嚴法門及直進等是也。十依大唐三藏玄奘法師。依解深密經金光明經及瑜伽論。立三種教。即三法輪是也。一轉法輪。謂於初時鹿野園中。轉四諦法輪。即小乘法。二名照法輪。謂中時於大乘內密意說言諸法空等。三名持法輪。謂於後時於大乘中顯了意說三性及真如不空理等。此三法輪中。但說小乘及三乘中始終二教。不攝別教一乘。何以故。以華嚴經在初時說。非是小乘故。彼持法輪在後時說。非是華嚴故。是故不攝華嚴法門也。此上十家立教諸德並是當時法將英悟絕倫。歷代明模階位叵測。秪如思禪師及智者禪師。神異感通迹參登位。靈山聽法憶在於今。諸餘神應廣如僧傳。又如雲法師。依此開宗。講法華經感天雨花等。神迹如僧傳。其餘諸法師行解超倫。亦如僧傳。此等諸德豈夫好異。但以備窮三藏覿斯異軫。不得已而分之。遂各依教開宗務存通會。使堅疑碩滯氷釋朗然。聖說差異其宜各契耳。
第二に、教義とその利益摂取について。この門には二つある。まず教義の範囲を明らかにし、次に利益摂取の範囲を明らかにする。
初めに教義の範囲を明らかにするには、さらに二つに分かれる。まず相を示し、次に開合を説く。
初めに相を示すには三つの意味がある。 第一に、露地の牛車のように、独自の教義がある。これは十十無尽、主伴具足と説かれ、『華厳経』に説かれる通りである。これは別教一乗に当たる。 第二に、門前の三車のように、独自の教義がある。これは界内において教を示し、そこから出ることを義とする。しかし教と義には区別がない。これは三乗の教に当たり、その他の経典や『瑜伽論』などに説かれる通りである。 第三に、門前の三車を方便の教として開き、界外において別に大白牛車を授けることを、真実の義を示すとする。これは同教一乗に当たり、『法華経』に説かれる通りである。
次に開合を説くには二つある。まず別に説き、後に総括する。 別に説く場合、一乗と三乗にはそれぞれ三つの句がある。 三乗の三句とは、ある場合は教義を具える(三乗の自宗による説き方)、ある場合は教のみで義ではない(同教一乗による説き方)、ある場合は教義のどちらでもない(別教一乗による説き方、それが目指すところであるため)。 一乗の三句とは、ある場合は教義を具える(自らの別教による説き方)、ある場合は義のみで教ではない(同教による説き方)、ある場合は教義のどちらでもない(三乗の教による説き方、その無尽の教義を隠すため)。
後に総括する場合、ある場合は教義ともに教である(三乗から一乗を見るため)、ある場合は教義ともに義である(一乗から三乗を見るため)、ある場合はこの三句を具える(同教による説き方)、ある場合はすべて教義を具える(それぞれの自宗の差別に従って説かれる)。
第二に、利益摂取の範囲を明らかにする。これには三つある。 第一に、界内の機根のみを摂取し、出世の利益を得させてこれを究竟とする(三乗の自宗による説き方。『瑜伽論』などにも同様の説き方がある)。 第二に、界外の機根を摂取し、出出世の利益を得させて初めて究竟とする。これには二種類ある。まず三乗によって出離させ、後に方便として一乗を得させる場合は、一乗と三乗を和合させて説くため同教に属する(これを「回三入一の教」ともいう。『法華経』に説かれる通り)。また、初めから一乗において解行を成し、後に出世の身においてその法を証する場合は、別教一乗に属する(『華厳経』「小相品」に説かれる通り)。 第三に、二種の機根を通じて摂取し、二種の利益を得させる。これにも二種類ある。まず三乗によって引き出し、後に一乗を得させる場合は、三乗と一乗の和合によって機根を摂取し二種の利益を成すため同教に属する(『法華経』に説かれる通り)。また、界内において見聞し、出世において法を得、出出世において証成する場合、あるいは界内において見聞解行を通じ、出世においては解行のみ、出出世においては証入のみとする場合は、別教一乗に属する(『華厳経』に説かれる通り)。
第三に、古今の教判を述べる。古今の賢者たちが立てた教門の差別は一つではなく、ここでは略して十家を挙げて手本とする。
一、菩提流支に依る。『維摩経』などに依って一音教を立てる。一切の聖教は一音一味一雨のように注がれるが、衆生の根機と行いが異なるため、それぞれに異なる解釈が生じる。その根本を究めれば、ただ如来の一円音教である。経に「仏は一音をもって説法し、衆生は類に随って各々解する」とある通り。
二、護法師などに依る。『楞伽経』などに依って漸頓二教を立てる。まず小乗を習い、後に大乗に向かうことを漸といい(大乗は小乗から起こるため)、大小ともに説かれる(『涅槃経』などの教え)。直往の菩薩など、小乗を経ずに大乗に入ることを頓といい(小乗がないため)、『華厳経』がこれに当たる。遠法師など後代の諸徳も多くこの説に同じる。
三、光統律師に依る。三種の教(漸・頓・円)を立てる。光師の解釈によれば、根機が未熟な者にはまず無常を説き後に常を説き、まず空を説き後に不空を説くなど、深妙な義を漸次に説くのを漸教とする。根機が熟した者には、一つの法門において一切の仏法を具足して説き、常と無常、空と不空を同時に説いて漸次がないのを頓教とする。さらに仏境に達する者には、如来の無礙解脱究竟果海円極秘密自在の法門を説くのを円教とし、この経(『華厳経』)がこれに当たる。後、光統の門下である遵統師などの諸徳もこれを宗承する。
四、大衍法師など一時の諸徳に依る。四宗教を立てて一代の聖教を通収する。一、因縁宗(小乗の薩婆多部など)。二、仮名宗(『成実論』や経部など)。三、不真宗(諸部の般若経で即空の理を説き一切法が不真実であると明かす)。四、真実宗(『涅槃経』『華厳経』などで仏性・法界・真理などを明かす)。
五、護身法師に依る。五種の教を立てる。前三種は衍師と同じ。第四を真実宗教(『涅槃経』などで仏性真理を明かす)。第五を法界宗(『華厳経』で法界自在無礙の法門を明かす)とする。
六、耆闍法師に依る。六宗教を立てる。初めの二つは衍師と同じ。第三を不真宗(諸大乗で諸法が如幻化であると通説する)。第四を真宗(諸法の真実の理を明かす)。第五を常宗(真理と恒沙の功徳が常恒であると説く)。第六を円宗(法界自在・縁起無礙の徳用が円備していると明かす。これも『華厳経』の法門など)とする。
七、南岳思禅師および天台智者禅師に依る。四種の教を立てて、東流した一代の聖教を統摂する。一、三蔵教(小乗。『法華経』に「小乗三蔵の学者に親近せず」とあるように、『智度論』でも小乗を三蔵教、大乗を摩訶衍蔵と説く)。二、通教(諸大乗経で三乗の人々を通じて利益する説き方。『大品般若経』の乾慧などの十地が大小乗を通じる)。三、別教(諸大乗経で説かれる道理が小乗に通じないもの)。四、円教(法界自在で一切の無尽法門を具足し、一即一切・一切即一であるもの。『華厳経』など)。
八、江南慜法師に依る。二教を立てる。一、釈迦経(屈曲教。衆生の機根に随って計執を破るため。『涅槃経』など)。二、盧舎那経(平等道教。法性に随って自在に説くため。『華厳経』)。
九、梁朝光宅寺雲法師に依る。四乗教を立てる。門前の三車を三乗とし、四衢で授けられる大白牛車を第四乗とする(門前の牛車も羊車・鹿車と同じく得られないため)。その他の義は上述と同じ。信行禅師はこの宗に依って二教(一乗・三乗)を立てる。三乗とは別解別行および三乗の差別、また先に小乗を習い後に大乗に向かうもの。一乗とは普解普行でただ一乗のみであり、『華厳経』の法門や直進などがこれに当たる。
十、大唐三蔵玄奘法師に依る。『解深密経』『金光明経』および『瑜伽論』に依って三種の教(三法輪)を立てる。一、転法輪(初時、鹿野園で四諦の法輪を転じる小乗の法)。二、照法輪(中時、大乗の中で密意をもって諸法空などを説く)。三、持法輪(後時、大乗の中で顕了な意をもって三性および真如不空の理などを説く)。この三法輪の中には、小乗および三乗の始終二教のみが説かれ、別教一乗は含まれない。なぜなら、『華厳経』は初時に説かれて小乗ではなく、持法輪は後時に説かれて『華厳経』ではないため、『華厳経』の法門は含まれないからである。
以上の十家の教判を立てた諸徳は、みな当代の法将であり、英悟絶倫で歴代の模範となり、その階位は測りがたい。ただ思禅師や智者禅師のように、神異感通し、その跡は登位に参じ、霊山で聴法したことが今に憶われる。その他の神応は広く僧伝に見られる。また雲法師のように、これに依って宗を開き、『法華経』を講じて天華が降るなどの感得があり、その神迹は僧伝にある。その他の諸法師も行解超倫であり、僧伝に見られる通りである。これらの諸徳は好んで異説を立てたのではなく、三蔵を究め尽くしてこれらの異なる教えを見たため、やむを得ず分けたのである。それぞれ教に依って宗を開き、通会を務め、堅い疑いや大きな滞りを氷解させて朗らかにした。聖説の差異は、それぞれに相応しいのである。
第四分教開宗者。於中有二。初就法分教。教類有五。後以理開宗。宗乃有十。初門者。聖教萬差要唯有五。一小乘教。二大乘始教。三終教。四頓教。五圓教。初一即愚法二乘教。後一即別教一乘。以經本中下文內為善伏太子所說名為圓滿修多羅故。立此名也。中間三者有其三義。一或總為一。謂一三乘教也。以此皆為三人所得故。如上所引說。二或分為二。所謂漸頓。以始終二教所有解行並在言說。階位次第因果相承從微至著。通名為漸。故楞伽云。漸者如菴摩勒果漸熟非頓。此之謂也。頓者。言說頓絕理性頓顯解行頓成一念不生。即是佛等。故楞伽云。頓者如鏡中像頓現非漸。此之謂也。以一切法本來自正不待言說不待觀智。如淨名以默顯不二等。又寶積經中。亦有說頓教修多羅故。依此立名。三或開為三。謂於漸中開出始終二教。即如上說深密經等三法輪中後二是也。依是義故。法鼓經中以空門為始。以不空門為終。故彼經云。迦葉白佛言。諸摩訶衍經多說空義。佛告迦葉。一切空經是有餘說。唯有此經是無上說。非有餘說。復次迦葉如波斯匿王常十一月設大施會先飯餓鬼孤貧乞者。次施沙門及婆羅門。甘饍眾味隨其所欲。諸佛世尊亦復如是。隨諸眾生種種欲樂。而為演說種種經法。若有眾生懈怠犯戒不勤隨順。捨如來藏常住妙典。好樂修學種種空經。乃至廣說。解云。此則約空理有餘。名為始教。約如來藏常住妙典。名為終教。又起信論中。約頓教門顯絕言真如。約漸教門說依言真如。就依言中。約始終二教。說空不空二真如也。此約法以分教耳。若就法義如下別辨。二以理開宗。宗乃有十。一我法俱有宗。此有二。一人天乘。二小乘。小乘中犢子部等。彼立三聚法。一有為聚法。二無為聚法。三非二聚法初二是法。後一是我。又立五法藏。一過去。二未來。三現在。四無為。五不可說。此即是我。不可說是有為無為故。二法有我無宗。謂薩婆多等。彼說諸法二種所攝。一名。二色。或四所攝。謂三世及無為。或五。謂一心。二心所。三色。四不相應。五無為。故一切法皆悉實有也。三法。無去來宗。謂大眾部等。說有現在及無為法。以過未體用無故。四現通假實宗。謂法假部等。彼說無去來。現在世中諸法。在蘊可實在界處假。隨應諸法假實不定。成實論等經部別師亦即此類。五俗妄真實宗。謂說出世部等。世俗皆假。以虛妄故。出世法皆實。非虛妄故。六諸法但名宗。謂說一部等。一切我法唯有假名。都無體故。此通初教之始準知。七一切法皆空宗。謂大乘始教。說一切諸法皆悉真空。然出情外無分別故。如般若等。八真德不空宗。謂如終教。諸經說一切法唯是真如。如來藏實德故。有自體故。具性德故。九相想俱絕宗。如頓教中顯絕言之理等。如淨名默顯等。準知。十圓明具德宗。如別教一乘主伴具足無盡自在所顯法門是也。
第四分では、教えを開き宗を立てる。その中に二つある。まず法によって教えを分ける。教えの類は五つある。後に理によって宗を開く。宗は十ある。初めの門では、聖なる教えは万差だが、要するに五つだけである。一、小乗教。二、大乗始教。三、終教。四、頓教。五、円教。最初の一つは愚かな法の二乗教である。最後の一つは別教一乗である。経典の本文中の下の文の中で、善伏太子に説かれたものを「円満修多羅」と名づけているから、この名を立てたのである。中間の三つには三つの意味がある。一、あるいは総じて一つとする。すなわち一つの三乗教である。これらはすべて三人が得るものだからである。前に引いた説の通りである。二、あるいは二つに分ける。すなわち漸と頓である。始教と終教の二つの教えのすべての解と行は、ともに言葉の説にあり、階位の次第、因果が相承し、微から著に至る。これを通じて漸と名づける。だから『楞伽経』に、「漸なるものは、菴摩勒果のごとく、漸く熟して頓ならず」とある。これがそれである。頓とは、言葉の説が頓に絶え、理性が頓に顕れ、解と行が頓に成り、一念も生ぜず、すなわち仏などである。だから『楞伽経』に、「頓なるものは、鏡中の像のごとく、頓に現じて漸ならず」とある。これがそれである。一切の法はもとより自ら正しく、言葉の説を待たず、観智を待たない。『維摩経』が黙して不二を顕すなどである。また『宝積経』の中にも、頓教の修多羅を説くものがあるから、これに依って名を立てる。三、あるいは三つに開く。すなわち漸の中から始教と終教の二つを開く。前に説いた『深密経』などの三法輪の中の後二つがこれである。この義に依るから、『法鼓経』では空門を始とし、不空門を終とする。だからその経に、「迦葉が仏に白して言う、諸の摩訶衍経は多く空義を説く、と。仏、迦葉に告げて言う、一切の空経は有余の説あり。ただこの経のみは無上の説にして、有余の説にあらず、と。また迦葉よ、波斯匿王が常に十一月に大施会を設け、まず餓鬼・孤貧・乞者に飯を施し、次に沙門及び婆羅門に施し、甘き饍・衆味、その欲する所に随うがごとし。諸仏世尊もまたかくのごとし。諸の衆生の種種の欲楽に随って、種種の経法を演説したもう。もし衆生に懈怠・犯戒ありて勤めず随順せず、如来蔵常住の妙典を捨てて、種々の空経を修学するを好楽するものあれば、広く説くがごとし」とある。解釈すれば、これは空理の有余に約して、始教と名づけ、如来蔵常住の妙典に約して、終教と名づけるのである。また『起信論』の中では、頓教門に約して絶言の真如を顕し、漸教門に約して依言の真如を説く。依言の中に就いて、始教と終教の二教に約して、空と不空の二真如を説くのである。これは法に約して教えを分けただけである。もし法義に就いては、下に別に弁ずる。二、理によって宗を開く。宗は十ある。一、我法倶有宗。これに二つある。一、人天乗。二、小乗。小乗の中の犢子部など。彼らは三聚法を立てる。一、有為聚法。二、無為聚法。三、非二聚法。初めの二つは法であり、後の一つは我である。また五法蔵を立てる。一、過去。二、未来。三、現在。四、無為。五、不可説。これがすなわち我である。不可説は有為でも無為でもないからである。二、法有我無宗。すなわち薩婆多など。彼らは諸法を二種に摂すると説く。一、名。二、色。あるいは四種に摂する。すなわち三世及び無為。あるいは五種。すなわち一、心。二、心所。三、色。四、不相応。五、無為。だから一切の法はすべて実有である。三、法無去来宗。すなわち大衆部など。現在及び無為法があると説く。過去・未来の体用がないからである。四、現通仮実宗。すなわち法仮部など。彼らは去来なく、現在世の中の諸法は、蘊においては実在し、界・処においては仮であると説く。随応して諸法の仮実は定まらない。『成実論』などの経部の別師もまたこの類である。五、俗妄真実宗。すなわち説出世部など。世俗はすべて仮である。虚妄だからである。出世法はすべて実である。虚妄でないからである。六、諸法但名宗。すなわち説一部など。一切の我法はただ仮名のみで、すべて体がないからである。これは初教の始めに通ずるものと知るべきである。七、一切法皆空宗。すなわち大乗始教。一切の諸法はすべて真空であると説く。しかし情を出でて外に分別がないからである。『般若経』などがそうである。八、真徳不空宗。すなわち終教の諸経のように、一切の法はただ真如のみであると説く。如来蔵の実徳であるから、自体があり、性徳を具えるからである。九、相想倶絶宗。頓教の中で絶言の理を顕すなどである。『維摩経』の黙して顕すなどと知るべきである。十、円明具徳宗。別教一乗のように、主伴具足し、無尽自在にして顕わされた法門がこれである。
第五乘教開合者。於中有三。初約教開合。二以教攝乘。三諸教相收。初約教者。然此五教相攝融通有其五義。一或總為一。謂本末鎔融唯一大善巧法。二或開為二。一本教。謂別教一乘為諸教本故。二末教。謂小乘三乘。從彼所流故。又名究竟及方便。以三乘小乘望一乘悉為方便故。三或開為三。謂一乘三乘小乘教。以方便中開出愚法二乘故。四或分為四。謂小乘漸頓圓。以始終二教俱在言等故。五或散為五。謂如上說。二以教攝乘者有二。先一乘隨教有五。一別教一乘云云。二同教一乘云云。三絕想一乘。如楞伽。此頓教。四約佛性平等為一乘等。此終教云云。五密義意一乘。如八意等。此約始教云云。二明三乘亦有五。一小乘中三。謂始別終同。以俱羅漢故。二始教中三。始終俱別。以有入寂故。三終教中三。始終俱同並成佛故。四頓教中三。始終俱離云云。五圓教中三。始終俱同。汝等所行是菩薩道等故云云。三諸教相收者有二門。一以本收末門。二以末歸本門。初中於圓內。或唯一圓教。以餘相皆盡故。或具五教。以攝方便故。頓教中惑唯一頓教亦以餘相盡故。或具四教。以攝方便故。熟教中或一或三。初教中或一或二。小乘中唯一。皆準上知之。二以末歸本。小乘內或一。以據自宗故。或五。謂於後四教。皆有為方便故。初教中或一。是自宗故。或四。謂於後三教。皆有作方便故。熟教中或一或三。頓教中或一或二。圓教中唯一。皆準上知之。是諸教下所明義理交絡分齊。準此思之。是則諸教本末句數結成教網。大聖善巧長養機緣無不周盡。故此經云。張大教網置生死海。漉人天魚置涅槃岸。此之謂也。
第五の乗教の開合について。ここに三つがある。第一は教えに基づく開合。第二は教えによって乗を収めること。第三は諸教が互いに収め合うこと。
第一、教えに基づく開合について。この五つの教えは互いに融通し合い、五つの意味がある。 一、ある時は総じて一つとする。根本と末節が溶け合い、ただ一つの大善巧の法であるから。 二、ある時は二つに開く。一つは本教。別教一乗が諸教の根本であるから。二つは末教。小乗と三乗は、そこから流れ出たものだから。また究竟と方便ともいう。三乗と小乗を一乗から見れば、すべて方便となるから。 三、ある時は三つに開く。一乗、三乗、小乗の教え。方便の中から愚法の二乗を開き出すから。 四、ある時は四つに分ける。小乗、漸教、頓教、円教。始教と終教の二つはともに言葉の次元にあるから。 五、ある時は五つに散じる。上に述べた通り。
第二、教えによって乗を収めることには二つある。 まず、一乗は教えに従って五つがある。 一、別教一乗(云々)。 二、同教一乗(云々)。 三、絶想一乗。『楞伽経』の如し。これは頓教。 四、仏性の平等に基づいて一乗とするなど。これは終教(云々)。 五、密義意の一乗。八意などの如し。これは始教について(云々)。 次に、三乗にもまた五つがある。 一、小乗の中の三乗。始めは別、終わりは同。ともに阿羅漢となるから。 二、始教の中の三乗。始めも終わりも別。寂滅に入るものがあるから。 三、終教の中の三乗。始めも終わりも同。ともに仏となるから。 四、頓教の中の三乗。始めも終わりも離れる(云々)。 五、円教の中の三乗。始めも終わりも同。「汝等の行うところは是れ菩薩道なり」などというから(云々)。
第三、諸教が互いに収め合うことには二つの門がある。 一、本をもって末を収める門。 二、末をもって本に帰する門。 第一の門において、円教の中には、 ある時はただ一つの円教のみ。他の相はことごとく尽きるから。 ある時は五つの教えを具える。方便を収めるから。 頓教の中には、ある時はただ一つの頓教のみ。これも他の相が尽きるから。 ある時は四つの教えを具える。方便を収めるから。 熟教の中には、ある時は一つ、ある時は三つ。 初教の中には、ある時は一つ、ある時は二つ。 小乗の中にはただ一つ。すべて上記の通りに理解せよ。 第二の門、末をもって本に帰するにおいて、 小乗の中には、ある時は一つ。自宗に拠るから。 ある時は五つ。後の四教に対して、すべて方便として為すから。 初教の中には、ある時は一つ。自宗であるから。 ある時は四つ。後の三教に対して、すべて方便として作るから。 熟教の中には、ある時は一つ、ある時は三つ。 頓教の中には、ある時は一つ、ある時は二つ。 円教の中にはただ一つ。すべて上記の通りに理解せよ。
これら諸教の下に明かされる義理は、互いに交絡し分斉をなす。この基準に照らして考えよ。 かくして諸教の本末の句数は教えの網を結び成し、大聖の善巧は機縁を長養して周到に尽くさざるはない。 ゆえにこの経に云う、「大いなる教えの網を張りて生死の海に置き、人天の魚を漉して涅槃の岸に置く」と。これこれを謂うのである。
第六教起前後者。於中有二。初明稱法本教。二明逐機末教。初者謂別教一乘。即佛初成道第二七日。在菩提樹下。猶如日出先照高山。於海印定中同時演說十十法門。主伴具足圓通自在。該於九世十世盡因陀羅微細境界。即於此時一切因果理事等一切前後法門。乃至末代流通舍利見聞等事。並同時顯現。何以故。卷舒自在故。舒則該於九世。卷則在於一時。此卷即舒舒又即卷。何以故。同一緣起故。無二相故。經本云。於一塵中。建立三世一切佛事等。又云。於一念中。即八相成道。乃至涅槃流通舍利等。廣如經說。是故依此普聞。一切佛法並於第二七日。一時前後說。前後一時說。如世間印法。讀文則句義前後。印之則同時顯現。同時前後理不相違。當知此中道理亦爾。準以思之。二逐機末教者。謂三乘等有二義。一與一乘同時異處說。二異時異處說。初義者是同教故。末不離本故。依本而成故。後義者本末相分故。與本非一故。此二各有二義。一三乘。二小乘。初者密迹力士經說。佛初成道竟。七日思惟已。即於鹿園中以眾寶等莊嚴法座。廣集三乘眾。梵王請佛為轉法輪。廣益三乘眾。得大小等果。乃至廣說如彼經中。又大品經云。佛初在鹿野轉四諦法輪。無量眾生發聲聞心。無量眾生發獨覺心。無量眾生發阿耨多羅三藐三菩提心行六波羅蜜。無量菩薩得無生忍。住初地二地乃至十地。無量一生補處菩薩一時成佛。解云。以此教證。當知最初第二七日。即說三乘法。與一乘同時說也。二小乘者。如彌沙塞律說。佛初成道竟入三昧。七日後乃於鹿野苑而轉法輪。故知小乘亦與一乘同時說也。又普曜經云。第二七日。提謂等五百賈人。施佛麨蜜。佛與授記當得作佛等。此經所說雖通三乘等教有義亦攝人天等法。亦與一乘同時說也。問說時既同。何故說處別耶。答為約時處寄顯法故。須同異也。故地論云。時處等校量顯示勝故。同時者。顯是同教故。異處者。示非別教故。如別教一乘在菩提樹下說者。欲明此是得菩提處即顯如來自所得法稱本而說故。不移處說也。餘三乘等法。欲明逐機改異故。移處就機鹿園而說。顯非本也。第二時處俱異者。由與一乘不即義故。時處俱別也。或三七日後說。如法華經。或六七日後說。如四分律及薩婆多論說。或七七日乃說。如興起行經。或八七日乃說。如十誦律說。或五十七日後說。如大智論說。或一年不說法。經十二年方度五人。如十二遊經說。有人解云。智論五十七日者。即五十箇七日。與十二遊經一年同也。以此等教證當知。三乘小乘教。並非第二七日說。由與一乘教差別故。隨機宜故。餘可準知。
第六に、教えが起こる前後のことについて。これには二つある。初めに、法に相応する根本の教えを明かす。次に、機根に随う枝末の教えを明かす。
初めの「法に相応する根本の教え」とは、別教一乗のことである。すなわち、仏が成道した初めの第二七日、菩提樹の下において、まるで太陽が昇ってまず高い山を照らすように、海印定の中において、同時に十十法門を説かれた。主と伴が具足し、円満通達して自在である。九世・十世に及び、因陀羅網の微細な境界にまで及ぶ。この時に、一切の因果・理・事など、すべての前後の法門、さらには末代における流通や舎利の見聞などの事柄までも、すべて同時に顕現した。なぜか。巻き舒き自在であるからである。舒べば九世に及び、巻けば一時の中にある。この巻くことが即ち舒べることであり、舒べることが即ち巻くことである。なぜか。同じ一つの縁起であるからであり、二つの相がないからである。経典には、「一塵の中に、三世一切の仏事を建立する」とあり、また「一念の中に、即ち八相成道し、乃至涅槃し、流通し、舎利を安置するなど」と説かれている。広く経典に説かれる通りである。それゆえ、この普賢に依って、一切の仏法はすべて第二七日において、一時に前後を説き、前後を一時に説くのである。世間の印章の法のように、文を読めば句義に前後があるが、印を押せば同時に顕現する。同時であり前後であるという理は互いに矛盾しない。この中の道理もまた同じであると知るべきである。これを基準として考えよ。
第二の「機根に随う枝末の教え」とは、三乗などのことであり、二つの意味がある。一には一乗と同時に異なる場所で説くこと、二には異なる時に異なる場所で説くことである。
初めの意味は、同教であるからであり、末が本から離れないからであり、本に依って成るからである。後の意味は、本と末が分かれるからであり、本と同一ではないからである。
この二つにはそれぞれ二つの意味がある。一は三乗、二は小乗である。
初めの三乗については、『密迹力士経』に説かれている。仏が成道を遂げて、七日間思惟した後、すぐに鹿園において、さまざまな宝などで法座を荘厳し、広く三乗の衆を集められた。梵王が仏に請うて法輪を転じ、広く三乗の衆を益し、大小さまざまな果を得させた。詳しくはその経典に説かれている通りである。また『大品経』には、「仏が初めに鹿野苑で四諦の法輪を転じ、無量の衆生が声聞の心を発し、無量の衆生が独覚の心を発し、無量の衆生が阿耨多羅三藐三菩提心を発して六波羅蜜を行じ、無量の菩薩が無生忍を得、初地・二地乃至十地に住し、無量の一生補処菩薩が一時に仏となった」とある。解釈すると、この教えの証拠によって、最初の第二七日において、すなわち三乗の法を説き、一乗と同時に説かれたと知るべきである。
二の小乗については、『弥沙塞律』に説かれている。仏が成道を遂げて三昧に入り、七日後に初めて鹿野苑において法輪を転じられた。それゆえ、小乗もまた一乗と同時に説かれたと知るべきである。また『普曜経』には、「第二七日に、提謂など五百人の商人が仏に麨蜜を施し、仏が授記を与えて将来仏となるであろうと説かれた」とある。この経典の説くところは、三乗などの教えに通じる意味を含み、人天などの法をも摂するが、これもまた一乗と同時に説かれたのである。
問う:説く時が同じであるならば、なぜ説く場所が別なのか。 答える:時と場所によって法を顕わすためであり、同じであることと異なることが必要であるからである。それゆえ『地論』には、「時・処などを校量して勝れたことを顕示する」とある。同時であることは、同教であることを顕わすためである。異なる場所であることは、別教ではないことを示すためである。別教一乗が菩提樹の下で説かれたのは、これが菩提を得た場所であることを明らかにし、すなわち如来が自ら得られた法に相応して本に従って説かれたことを顕わすためであり、場所を移さずに説かれたのである。その他の三乗などの法は、機根に随って改異することを明らかにするため、場所を移し、機根に就いて鹿園で説かれ、本ではないことを顕わしたのである。
第二の「時と場所がともに異なる」とは、一乗と即していないという意味によるものであり、時と場所がともに別であるからである。あるいは三七日後に説かれた(『法華経』の如く)、あるいは六七日後に説かれた(『四分律』及び『薩婆多論』の説く如く)、あるいは七七日後に初めて説かれた(『興起行経』の如く)、あるいは八七日後に説かれた(『十誦律』の説く如く)、あるいは五十七日後に説かれた(『大智論』の説く如く)、あるいは一年間説法せず、十二年を経て初めて五人を度した(『十二遊経』の説く如く)などである。ある解釈では、『智論』の五十七日とは、すなわち五十の七日であり、『十二遊経』の一年と同じであるという。これらの教えの証拠によって、三乗・小乗の教えは、いずれも第二七日に説かれたのではなく、一乗の教えと差別があるからであり、機根の宜しきに随うからであると知るべきである。その他のことは、これに準じて知ることができる。
第七決擇前後意者。然諸教前後差別難知。略以十門分別其意。一或有眾生。於此世中小乘根性始終定者。即見如來從初得道乃至涅槃唯說小乘。未曾見轉大乘法輪。如小乘諸部執不信大乘者是。二或有眾生。於此世中小乘根不定故。堪進入大乘初教。即便定者。即見如來初時轉於小乘法輪翻諸外道。後時見轉大乘初教即空法輪迴諸小乘。如中論初說者是。三或有眾生。於此世中於小乘及初教根不定故堪入終教即便定者。即初時見轉小乘法輪。中時見轉空教法輪。後時見轉不空法輪。如解深密經等說者是。四或有眾生。於此漸教中。根不定故堪入頓教。即便定者。即見初示言說之教猶非究竟。後顯絕言之教方為究竟。如維摩經中初三十二菩薩及文殊等所說不二並在言說中。後維摩所顯絕言之教。以為究竟者是。五或有眾生。於此世中頓悟機熟即便定者。即見佛從初得道乃至涅槃不說一字。如楞伽說。又涅槃經云。若知如來常不說法。是名菩薩具足多聞等。六或有眾生。於此世中三乘根性定者。見佛從初即說三乘教法。乃至涅槃更無餘說。如上密迹力士經及大品經說者是。七或有眾生。於此世中三乘根不定故。堪進入同教一乘者。即見自所得三乘之法皆依一乘無盡教起。是彼方便阿含施設。是故諸有所修。皆迴向一乘。如會三歸一等。又如上所引三乘與一乘同時說者等。八或有眾生。於此世中三乘根不定故。堪可進入別教一乘者。即知彼三乘等法。本來不異別教一乘。何以故。為彼所目故。更無異事故。如法華經同教說者是。九或有眾生。於此世中具有普賢機者。即見如來從初成道乃至涅槃一切佛法普於初時第二七日海印定中。自在演說無盡具足主伴無窮因陀羅網微細境界。本末不見說三乘小乘等法。如華嚴經別教中說者是。此約普賢教分見聞及解行處說。十或有眾生。於一乘別教。解行滿足已證入果海者即見上來諸教並是無盡性海隨緣所成更無異事。是故諸教即是圓明無盡果海具德難思不可說不可說也。此約一乘入證分齊處說。餘可準知。
第七に、前後の意図を決めることについて。
しかし、諸々の教えの前後の違いは、理解しにくいものです。ここでは、十の観点からその意味を分けて説明します。
一、ある衆生は、この世において小乗の根性が初めから終わりまで定まっている場合、如来が初めに悟りを得てから涅槃に至るまで、ただ小乗のみを説き、大乗の法輪を転じたことは一度もなかったと見るのです。小乗の諸部派が大乗を信じない者たちがこれにあたります。
二、ある衆生は、この世において小乗の根性が定まっていないため、大乗の初めの教えに入ることができる場合、如来が初めに小乗の法輪を転じて外道を覆し、後に大乗の初めの教え、つまり空の法輪を転じて小乗を覆したと見るのです。『中論』の初めに説かれている通りです。
三、ある衆生は、この世において小乗及び初めの教えの根性が定まっていないため、終わりの教えに入ることができる場合、初めに小乗の法輪が転じられ、中ほどに空の教えの法輪が転じられ、後に不空の法輪が転じられたと見るのです。『解深密経』などに説かれている通りです。
四、ある衆生は、この漸教の中で根性が定まっていないため、頓教に入ることができる場合、初めに示された言葉による教えはまだ究竟ではなく、後に顕わされた言葉を絶した教えこそが究竟であると見るのです。『維摩経』の中で、初めの三十二菩薩や文殊菩薩などが説いた不二の法門はすべて言葉の中にあり、後に維摩居士が顕わした言葉を絶した教えが究竟であるとされる通りです。
五、ある衆生は、この世において頓悟の機根が熟している場合、仏が初めに悟りを得てから涅槃に至るまで、一字も説かなかったと見るのです。『楞伽経』に説かれており、また『涅槃経』にも、「もし如来が常に説法しないことを知るならば、これを菩薩が多聞を具足するという」などとあります。
六、ある衆生は、この世において三乗の根性が定まっている場合、仏が初めから三乗の教えを説き、涅槃に至るまで他に説くことがなかったと見るのです。上に引用した『密迹力士経』や『大品経』に説かれている通りです。
七、ある衆生は、この世において三乗の根性が定まっていないため、同教一乗に入ることができる場合、自ら得た三乗の法はすべて一乗の無尽の教えに依って起こり、それは方便としての阿含の施設であると知るのです。それゆえ、すべての修行は一乗に回向されます。三乗を会して一に帰するなど、また上に引用した三乗と一乗が同時に説かれるなどがこれにあたります。
八、ある衆生は、この世において三乗の根性が定まっていないため、別教一乗に入ることができる場合、それらの三乗などの法は、もともと別教一乗と異ならないことを知るのです。なぜなら、それらが目指すところが同じであり、異なる事柄がないからです。『法華経』の同教に説かれている通りです。
九、ある衆生は、この世において普賢の機根を具えている場合、如来が初めに成道してから涅槃に至るまでの一切の佛法が、すべて初めの第二七日、海印定の中において自在に演説され、無尽に具足し、主伴無窮の因陀羅網の微細な境界であり、初めから終わりまで三乗や小乗などの法を説くことは見えないと知るのです。『華厳経』の別教に説かれている通りです。これは普賢の教えに基づいて、見聞及び解行の立場から説いたものです。
十、ある衆生は、一乗別教において解行が満足し、すでに果海に証入した場合、これまで上げてきた諸々の教えはすべて無尽の性海が縁に随って成ったものであり、他に異なる事柄はないと見るのです。それゆえ、諸々の教えはそのまま円明無尽の果海であり、具えた徳は思いはかられず、説くことも説くこともできないのです。これは一乗に入って証する分際の立場から説いたものです。その他の場合も、これに準じて理解することができます。
第八施設異相者。然此異相繁多。略約十門以顯無盡。何者十異。一者時異。謂此一乘要在初時第二七日說。猶如日出先照高山等。故論云。此示法勝故。在初時及勝處說也。若爾何故不初七日說。思惟因緣行等如論釋。又此即是時因陀羅網等故。即攝一切時。若前若後各不可說劫。通前際後際。並攝在此一時中也。三乘等不爾。以隨逐機宜時不定故。或前或後亦不一時收一切劫等。二者處異。謂此一乘要在蓮華藏世界海中眾寶莊嚴菩提樹下。則攝七處八會等及餘不可說不可說世界海並在此中。以一處攝一切處故。是故不動道樹。遍昇六天等者。是此義也。又此華藏世界。通因陀羅網故周測諸塵。於此稱法界處。說彼一乘稱法界法門也。三乘等則不爾。在娑婆界木樹等處。亦無一處即一切處等。問若爾何故佛地經等。亦在淨土中說耶。答彼經但云在光曜宮殿等具十八種圓滿。亦不別指摩竭提國等。以彼為地上菩薩說佛地功德故。在三界外受用土中。此三乘終教及一乘同教說。若此華嚴。皆云在華嚴界內摩竭國等。不云娑婆內。亦不云三界外。故知別也。餘義準知。三者主異。謂此一乘。要是盧舍那十身佛。及無盡三世間說。如普賢行品云。佛說菩薩說剎說眾生說三世一切說等。不同三乘等是化身及受用身等說。餘義準知。四者眾異。謂此一乘經首唯列普賢等菩薩及佛境界中諸神王眾。不同三乘等。或唯聲聞眾或大小二眾等。問若爾何故第九會中有聲聞眾耶。答彼中列聲聞意者有二種。一寄對顯法故。為示如聾如盲顯法深勝也。二文殊出會外所攝六千比丘。非是前所引眾。此等皆是已在三乘中。令迴向一乘故。作是說也。五者所依異。謂此一乘教起要依佛海印三昧中出。不同三乘等依佛後得智出。六者說異。謂此一乘。此一方說一事一義一品一會等時。必結通十方一切世界皆同此說。主伴共成一部。是故此經隨一文一句皆遍十方。多文多句亦皆遍十方。三乘等則不爾。但隨一方一相說。無此主伴該通等也。七者位異。謂此一乘所有位相上下皆齊。仍一一位中攝一切位。是故乃至佛等諸位。在信等位中。餘位亦然。三乘中則不爾。但隨當位上下階降。皆不相雜也。餘如下說。八者行異。謂隨一菩薩則具信等六位。一一位中。所有定散等差別行相並一時修。如東方一切世界中常入定等。西方世界中。常供養佛等。如是十方世界中。盡窮法界行。亦不分身。一時皆遍滿。一念皆遍修。一一念中亦如此。信位滿心已去。一一位皆如是修。更無優劣。又一行即一切行等通因陀羅網等。三乘則不爾。地上菩薩猶各有分齊。況地前者乎。餘如下說。九者法門異。謂略舉十種以明之。一彼有三佛此有十佛。二彼有六通此有十通。三彼有三明此有十明。四彼有八解脫此有十解脫。五彼有四無畏此有十無畏。六彼有五眼此有十眼。七彼說三世此說十世。八彼有四諦此有十諦。九彼有四辯此有十辯。十彼百十八不共法此有十不共法。餘門無量。廣如經說。十者事異。謂隨有舍林池地山等事。皆是法門。或是行或是位或教義等。而不壞其事。仍一一塵中。皆具足法界一切差別事。因陀羅微細成就。隨一事起皆悉如是。三乘等則不爾。但可說即空即真如等故。不同此也。又若以神通不思議力。容得暫現。非是彼法自恒如是。餘可準知。第八門竟。後有所詮義理二門。成中下二卷。畢十門矣。
華嚴一乘教義分齊章卷第一