直顯真源第三(佛了義實教)
直顕真源 第三(仏の了義実教)
五、一乘顯性教者,說一切有情皆有本覺真心,無始以來常住清淨,昭昭不昧了了常知,亦名佛性,亦名如來藏。從無始際,妄相翳之不自覺知,但認凡質故,耽著結業受生死苦。大覺愍之,說一切皆空,又開示靈覺真心清淨全同諸佛。故《華嚴經》云,佛子,無一眾生而不具有如來智慧,但以妄想執著而不證得。若離妄想,一切智、自然智、無礙智,即得現前。便舉一塵含大千經卷之喻,塵況眾生,經況佛智。次後又云,爾時如來普觀法界一切眾生,而作是言,奇哉!奇哉!此諸眾生,云何具有如來智慧迷惑不見?我當教以聖道,令其永離妄想,自於身中得見如來廣大智慧,與佛無異。
五、一乘顯性の教えとは、すべての生きとし生けるものが本来、覚りの真心を備えており、始まりのない昔から清らかで変わらず、明らかに輝き、常に知覚していることを説くものです。これは仏性とも呼ばれ、如来蔵とも呼ばれます。しかし、始まりのない昔から、誤った見方がこれを覆い隠し、自分では気づかず、ただ凡夫の姿だけを認めるため、執着や業に溺れ、生と死の苦しみを受けています。大いなる覚り者はこれを哀れみ、すべては空であると説き、さらに霊妙な覚りの真心は清らかで、すべての仏と同じであると示しました。そこで『華厳経』にはこう説かれています。「仏の子らよ、一つの衆生であっても如来の智慧を具えていない者はない。ただ妄想と執着のゆえに、それを証得できないのである。もし妄想を離れれば、一切智、自然智、無礙智がすぐに現れるであろう」と。そして、一つの塵の中に大千世界の経巻が納まっているという譬えを用いて、塵を衆生に、経巻を仏の智慧にたとえました。続けてまた、こう説かれています。「その時、如来は法界のすべての衆生を広く観察して、こう言われた。『なんと不思議なことだ、なんと不思議なことだ。これらの衆生は、どうして如来の智慧を具えているのに、迷いに覆われて見ることができないのか。私は彼らに聖なる道を教え、永遠に妄想を離れさせ、自らの身の中で如来の広大な智慧を、仏と変わらずに見ることができるようにしよう』」と。
評曰,我等多劫未遇真宗,不解返自原身,但執虛妄之相,甘認凡下,或畜或人。今約至教原之,方覺本來是佛,故須行依佛行,心契佛心。返本還源,斷除凡習,損之又損,以至無為,自然應用恒沙,名之曰佛。當知迷悟同一真心,大哉妙門,原人至此(然佛說前五教,或漸或頓,若有中下之機,則從淺至深,漸漸誘接。先說初教,令離惡住善;次說二三,令離染住淨;後說四五,破相顯性,會權歸實,依實教修乃至成佛。若上上根智,則從本至末,謂初便依第五頓指一真心體,心體既顯,自覺一切皆是虛妄,本來空寂,但以迷故,託真而起。須以悟真之智,斷惡修善,修善息妄歸真,妄盡真圓,是名法身佛)。
評していわく、われわれは多劫のあいだ真宗に遇わず、自らの原身に返ることを解せず、ただ虚妄の相に執着し、甘んじて凡下の身を認め、あるいは畜生となり、あるいは人となった。今、至教によってこれを窮めれば、はじめて本来仏であることを覚る。ゆえに、行は仏の行に依り、心は仏の心に契わしむべし。本源に返り、もとに還り、凡夫の習いを断ち除き、損しつつまた損して、無為に至る。自然に恒沙の用に応ずるを、名づけて仏という。知るべし、迷いと悟りとは同一の真心なり。大きなるかな、妙なる門よ。原人ここに至る。
(※ただし仏が前の五教を説きたもうたのは、あるいは漸、あるいは頓。もし中下の機根の者は、浅きより深きに至り、しだいに誘い接したもう。まず初教を説いて、悪を離れ善に住せしめ、次に二三教を説いて、染を離れ浄に住せしめ、後に四五教を説いて、相を破し性を顕わし、権を会して実に帰せしめ、実教によって修して、ついに成仏せしむ。もし上上根の智慧ある者は、本より末に至り、すなわち最初より第五教に依って、一真心の体を頓指す。心体すでに顕われれば、おのずから一切はみな虚妄にして、もとより空寂なるを覚る。ただ迷いの故をもって、真に託して起こるのみ。悟真の智をもって、悪を断じ善を修し、善を修して妄を息め真に帰すべし。妄尽き真円なれば、これを法身仏と名づく。)