No. 253-A
光嚴住持,是謂眾生清淨覺地。這一叚話,直指後學路頭,十分徑捷。蓋不入大光明藏,不得清淨覺地。未到清淨覺地,不為大圓滿。此圓則明,明則覺之本旨也。矧大疏略疏,大鈔少鈔,總而計之,奚翅數萬言。橫說竪說,總在圓覺圈裏,要人各自識破。或者字字鑽刺,不尋的當,隨前人脚後跟,已落第二誼。是終日圓覺,而未甞圓覺久,況依幻而說覺者乎。琪夙耽是經,遍閱諸疏,偶因糟粕,忽悟醇醲。敬以 孝宗皇帝御註,及眾大知識講義頌偈,章分類附,用鋟諸梓,願與 諸高德共之。如大海水,隨意斟酌,無不清涼。如恒河沙,隨意取捨,無不具足。讀卷未終,便即感悟,固自有頓機者。若曰捨筌而得魚,則是猶幻翳,妄見空華。必欲刻舟而求劒,則有照有覺,俱名障碍。今日對面說破,輪轉生死,故曰無明。若無輪轉,方始是覺。休將螢火燒須彌,要得針芒湊芥子。
光厳住持とは、これすなわち衆生の清らかな悟りの境地を指す。この一節は、後学の修行者に道筋を直接示すものであり、非常に手っ取り早い。なぜなら、大光明蔵に入らなければ、清らかな悟りの境地を得ることはできず、清らかな悟りの境地に至らなければ、大いなる円満とはならないからである。この円満が明らかとなり、明らかとなることが悟りの本質である。ましてや、大疏や略疏、大鈔や小鈔をすべて合わせれば、数万の言葉にものぼる。縦に論じ横に説いても、すべては円覚の圏内にあり、各自が自ら見抜くことを求めている。ある者は、言葉の一字一句をしつこく追いかけ、真意を探ろうとせず、ただ先人の後ろに従うだけでは、すでに二義的な解釈に落ちている。それでは、終日円覚を説きながら、一度も本当の円覚を経験したことがないのと同じであり、ましてや幻に依って覚りを語るなど、なおさらである。
私はかねてよりこの経典を愛好し、諸々の注釈書を広く読んできた。偶然にも糟粕(かす)を通じて、かえって醇醲(純粋な味わい)を悟ることができた。謹んで孝宗皇帝の御註、ならびに多くの高僧方の講義や偈頌を、章ごとに分類し付して、版木に彫り、諸々の高徳の方々と共にしたいと思う。大海の水のように、思いのままに汲めば、清涼でないものはない。ガンジス河の砂のように、思いのままに取捨すれば、満ち足りないものはない。巻を読み終える前に、すぐに感悟する者もおり、それはもともと頓悟の機根を持つ者である。もし、仕掛け(筌)を捨てて魚を得ると言うならば、それはなおも幻の翳(かげ)のようなものであり、空花を虚しく見るに等しい。必ずや刻舟求剣(舟に刻みをつけて剣を探す)のようにするならば、照らし、覚るということが、すべて障碍となる。今日、面と向かって言い切ろう。輪廻して生死を繰り返すこと、これを無明という。もし輪廻がなければ、それこそが覚りである。蛍の火で須弥山を焼こうとするな。針の先で芥子粒に合わせることを要するのだ。
旹淳祐六秊丙午﨟月辛丑旦日丙戌覺如周琪序
ここに淳祐六年(丙午)晩秋の月、辛丑の日、丙戌の日にあたり、覚如、周琪が序文をしたためる。