この経典は、如来が自らの口で直接説かれたものであり、インドに秘匿されていました。唐の神龍年間(705年~707年)に至って、初めて中国にもたらされました。
天台大師智顗(ちぎ)は、梁の時代に生まれ、陳・隋の時代に悟りを得て教えを説きました。彼が西天(インド)に『楞厳経』が存在し、円融周正な教えであると聞いたのは、その頃のことです。それから18年にわたり西方を仰ぎましたが、ついに経典を目にすることはありませんでした。しかし、彼が確立した止観の法門は、この経典と多くが暗合しています。
例えば、「三止」は奢摩他(しゃまた)などの三法と合致し、「性具」の法門は七つの大・性・色・真空などと合致します。地位の明示は五十五位の真菩提路と合い、十境・三障・四魔は五十重の陰境と合います。
さらに、『央掘摩羅経』の引用に至っては、「かの眼根は、諸々の如来において常に、明らかに分明に見えており、欠けることなく完全に修められている」と説かれ、六根すべてがこのように説明されています。これは、円融に「大定」を修め、仏の知見を得るという、照らす本性が一つであり、修行によって作られるものではないという教えを明らかにしています。これは、指を曲げ光を飛ばすなどの「見性十義」と合致します。
ゆえに、古来の諸師は、みな天台の教えに基づいて『楞厳経』を解釈してきました。孤山、呉興、栢庭、桐江などの諸師は、まさに天台の正統な継承者です。一方、長水(長水子璿)は元々は賢首宗であり、温陵(温陵戒環)は元々は禅宗でしたが、彼らもまた天台の教えを敬い、それを用いないことはありませんでした。なぜなら、止観の法門は、先仏世尊が説いた契経の要義だからです。
『天如会解』に至っては、その拠り所はさらに多くなっています。
ただ、近世の義学(教学)は非常に浅薄になりました。新奇を好み、同じものを排斥し、異なるもの同士が徒党を組む傾向があります。ある者は、「阿難は三法を請うたが、如来はただ一心を答えただけだ」と主張し、これによって「三止」を排斥し、まったく用いません。これは、機と応が一致し、金敷と槌が互いに作用し合う関係を理解していないからです。問うところでは「三止」の名を円満に示し、答えるところでは密かに「三止」の義を説いているのです。もし予め天台の「三止」を学び、さらに『円覚経』の「三観」に通じていれば、これらを用いてこの経を読めば、「首楞厳」の三法は手のひらを見るように明らかになるでしょう。
このような師たちは、稲や麻、竹や葦のように大勢いて、その過ちを一つ一つ数え上げることはできません。ただ、近頃の一、二の師が、すでに筆に表し、さらに木版に彫って広めています。もしこれを打ち破らなければ、道を妨げることがあまりに多いのです。しかし、その過ちを一つ一つ究明することはできません。ただ敵陣の先頭を破れば、残りは風を見て従うでしょう。
雪謗が言った、「船を進めるのに、釘で固定する杭(くい)を使うことができないのは当然だが、櫂(かい)がないのもまた困る。この櫂というのは、三つの止(し)を指している。大切なのは、櫂を漕ぐ者がどんな状態かということだ。もし平和な世の中の話なら、金剛王の宝剣も倉庫にしまっておくべきだろう。しかし今は、王が賊に侵略されているようなものであり、五つの欲望を討ち祓うために兵を起こし、この剣をもって暴逆を誅するのだ。さあ、問いかけてみよう。『触れれば“有”は壊れ、想えば“空”も敗れる。そのとき、残るものは何か?』と。
私はこの老師のやり方を、盗みがうまくない、まさに耳を覆って鈴を盗むようなものだと思う。知っておくべきだ。すべてを消し去って冷然としているのが真空であり、群れなむ迷いを照らして独り輝くのが奢摩(シャマタ)であり、万象を立てながらも痕跡を残さないのが妙有であり、あらゆる煩わしさを捨てて円かに応じるのが三摩(サマーディ)であり、有と無を統べながら絶妙に超えているのが中道であり、寂滅の境にありながらすべてを知り尽くすのが禅那(ディヤーナ)である。
これらは常に一つでありながら三つであり、空と見てもよく、仮と見てもよく、中と見てもよい。また常に三つでありながら一つである。そうなると、私はもう、どれが空で、どれが仮で、どれが中なのか、わからなくなる。このようにして修行することを、妙蓮華、金剛王宝覚、如幻三摩提、仏母真三昧という。仏の知見とは、海印のごとく光を放つものであり、これを如来が先に説き、智者(智顗)が後に明らかにし、さらに現れる智者が今に示し、二つの経典が古来からこれを証している。一仏・一祖が、心をもって心を伝えてきた。この教えに従うことが、仏の慧命を継ぐことであり、これを誹謗することが、人間世界における仏の種を断つことである。どうして慎重にしないことがあろうか、どうして慎重にしないことがあろうか。」