---
title: "楞嚴經講錄"
description: "楞嚴經講錄又名乘旹講錄，是明代高僧乘旹對《大佛頂首楞嚴經》的權威註解。該講錄成書於明代佛教義學興盛時期，以天台宗思想為基礎，系統闡釋了楞嚴經的心性論、修行次第與禪觀法要，重點剖析“常住真心”與“二十五圓通”等核心教義。作為漢傳佛教重要註疏之一，此講錄以精闢的科判和淺白的語言深化了經文奧義，被歷代學僧視為研習楞嚴經的關鍵指南，對明清佛教思想發展具有深遠影響。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmex2b5mo0kkajp0403qklmyh"
---

大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經。

明柴紫山、釋　乘旹　述

凡經題目，有世尊親安者，有結集人約義而安者，此經乃世尊親自安名。佛說五十五位菩提已，有文殊菩薩在大眾中，即從座起，頂禮佛足，而白佛言：當何名此經？我及眾生云何奉持？佛告文殊：是經名大佛頂悉怛多般怛囉無上寶印十方如來清淨海眼，亦名救護親因度脫阿難及此會中性比丘尼得菩提心入徧知海，亦名如來密因修證了義，亦名大方廣妙蓮華王十方佛母陀羅尼呪，亦名灌頂章句諸菩薩萬行首楞嚴，共有五名。而後譯者將謂語雖不一，義可互陳，是故存三隱二，合成一題，曰大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經。夫大佛頂者，指諸佛三十二相中最尊最上無見頂相而言。其相不唯凡愚小乘莫能見，即地上菩薩亦未能覩其邊表，唯佛與佛乃可見之。何以故？以有見者不能見，以無見者亦不能見，以非有非無見者不能見，以即有即無見者亦不能見，唯離心意識出凡聖路途者，無能見亦無所見，方許親見頂相。然依最尊上頂顯最上乘法，就有相以形無相，寄幻相以徵實相故耳。蓋實相者，即佛生本具常住真心性淨明體，但為凡愚執有二乘墮空所不能知，乃至地上菩薩亦尚未窺其涯際。唯佛世尊三德圓通，萬行具足，據無作妙智，了不思議境，親證常住真心全體大用，而亦具大佛頂相，亦能闡最上乘法。是故尊者被魔所攝，佛自頂門放光，化佛說呪救脫。尊者因而慇懃啟請十方如來得成菩提，妙奢摩他、三摩、禪那最初方便，佛即全提正令直指人心，曰：有三摩提名大佛頂，首楞嚴王具足萬行，十方如來一門超出妙莊嚴路。及至文殊請立經名，復以大佛頂三字弁之經首。可見非入楞嚴大定者不證最上乘果，非證最上乘果者不見大佛頂相，見大佛頂相者是名如來。夫如者指其真體，來者表其大用，體具威音那畔，用展今世門頭。然正在威音那畔不妨今世門頭，正在今世門頭不妨威音那畔。若謂寂然不動則感而遂通，若謂感而遂通則寂然不動，無所從來亦無所去，故名如來。夫如來者果德之稱也，非有密因莫能證果。然人但知密非是顯、因非是果，而殊不知如來修因曾未離見色聞聲處，即此六根六塵六識便是成佛根本，一切現成無不明了，特為眾生逐境迷心、聚緣內搖、趣外奔逸、日用不知，故謂之密。是密乃對眾生言，豈如來之因有密者哉？是知淪生死、證妙常皆不出此根塵識法，除此一法更無別法，了此一義更無別義，斯乃一修一切修、一證一切證、一了一切了、無了無不了。豈唯如來，凡諸菩薩所修萬行，靡不在茲。菩薩半梵語，具云菩提薩埵，此翻發大道心眾生。謂發起初心，必成佛度生而後已。其利己利他，必假六度及四無量心，為十種根本大行。復以十資百，以百資千，以千資萬。然萬乃隨世之極數，豈行有一定之數乎。擴充之或有多種，總括之不出一楞嚴大定耳。梵語首楞嚴，此云一切事究竟堅固。所謂一切事者，不離六種根塵識法。究其體性，唯是常住真心。如法華云：是法住法位，世間相常住。亦如肇論云：聖遠乎哉，擬之即神。道遠乎哉，觸事而真。且曰大佛頂，又曰首楞嚴王者，簡非二乘之枯禪滅定。亦若大經云：男子身中入正定，女子身中從定起。乃至眼根入正定，耳根從定起。舌根入正定，身根從定起。亦若祖家云：行亦禪，坐亦禪，語默動靜體安然。凡得此定者，自然六根返源，諸法寂滅，復還元覺。還元覺者，即同如來。然如來是能證之人，首楞嚴王是所證之法。若大佛頂相，又乃人法之標準也。是茲十九字，脉絡貫徹，而義攝餘題。如悉怛多般怛囉無上寶印十方如來清淨海眼者，詮顯佛生本具之真理也。梵語悉怛多般怛囉，此云大白傘盖。謂此理體括十虗，用周沙界，徧覆一切，不染纖塵。世出世間，盡無有貴重若此者，亦無有高上若此者。以此印心，無非真心。以此印境，無非真境。如印印泥，毫無差爽。第為凡愚，於見色聞聲處，妄認緣影，是為肉眼凡夫。十方如來，親證乎此。而盡十方界，乃清淨妙境。義可攝入大佛頂三字中。如云救護親因，度脫阿難，及此會中，性比丘尼，得菩提心，入徧知海者，是明當機等，於此一會，聞法證果之謂也。義可攝入諸菩薩萬行五字中。大方廣者，言一理而具體相用。妙蓮華王者，喻斯理即萬法，而不染一物。猶蓮處汙泥，脫體香潔。義可攝入大佛頂三字中，亦可攝入首楞嚴三字中。如云十方佛母陀羅尼呪者，梵語陀羅尼，此云總持。呪有革凡成聖義，謂斯乃出生三世一切諸佛之妙門，亦能總一切法，持無量義。凡一念契茲，則入聖胎。義可攝入如來密因四字中，亦可攝入首楞嚴三字中。如灌頂章句者，言斯經亦在灌頂部中攝，乃灌頂部中之章句也。是故斯十九字，豈獨義攝餘題，亦可攝十卷文言。如自首卷中，因阿難誤墮淫室，世尊自頂門放光，光中出生蓮華，華中化佛說呪。勑命文殊持去，提獎阿難，歸來佛所。阿難請一心三觀，佛便審最初發心。纔答見相發心，已知生滅窠舊。即為立真立妄，教以直言直心。更與判內外之境，定前後之見。七處徵心，一無定見。阿難重請真際所詣，佛於面門，再放寶光，令十方界，合成一界。更於一身心中，指出二種根本。要知真妄兩門，不離聖凡一道。斯皆單提向上，不立階級。要使直下承當，立成正覺，得與大佛頂，敵體相應。柰何阿難，惘然無措。是以世尊，只得向第二門，開方便路。故曰，諸有智者，要以譬喻，而得開悟。遂以拳類見，漸引漸入。使阿難自陳二障所纏，命陳那曉他客塵二字。再以屈指飛光，引彼了真息妄。柰何分動分靜，認境認心。至於二卷，執生與不生，論實與不實。觀河不變，垂手莫遺。更諭之以色心諸緣，併晦昧為空，為兩段要旨，立一心軌則。使彼知其從真起妄，了妄即真之綱領。是故下文辨八，還擇諸物。以至三卷中，三科七大，皆歸如來藏心，完結色心諸緣一段公案。乃息妄歸真，顯真諦理，見般若德之要訣也。至於四卷，富樓那不達，循業發現，執俗難真。問及清淨本然，忽生山河大地。佛詰之以性覺妙明，本覺明妙。隨立雙關，任他去取。柰彼認明墮所，作既妄立。無同異中，熾然成異。只因一念不覺，頓成三種相續。以此闡明晦昧為空一段公案，無乃依真起妄，顯俗諦理，見解脫德也。以至即真即俗，非即非離，非因緣，亦非自然。一多無礙，小大相容。如我按指，海印發光。汝暫舉心，塵勞先起。此又會歸中道了義，顯第一義諦，見法身德也。三德既圓，萬行當修。示妄無因，真不離妄。狂性自歇，歇即菩提。因緣自然，俱不可得。斯雖屬見道，而諸佛圓修圓證之密因，盡在茲矣。至四卷後，佛責多聞無益，勸修無漏。阿難謂已得華屋，要因門入。佛示二種決定，五種渾濁，六根優劣，擊鐘驗常。以至五卷，六解一忘，令二十四聖，自陳宿因，各各悟入。六卷，觀音陳白耳根，文殊揀選圓通三決定義，四種律儀。至於七卷，再宣神呪，倍顯功德。阿難問四十四心，佛答二種顛倒，及因生十二類。八卷，明漸次之助因，開菩提之正路。此又修證了義，及諸菩薩萬行之標指也。向後二卷，復開七趣輪迴，廣前三種相續，及設十種禪那，以明五陰根本，無乃助成楞嚴大定耳。若尋常將此一經，配合三觀，恐非本經要旨。世尊說法，唯在直指人心，見性成佛。誠一言之下，心地開通。則聞一句，乃至一偈，未甞不入楞嚴大定，證圓通三觀矣。豈待循行數墨，首尾一貫，而後可入三觀哉。矧尊者雖請三觀方便，世尊唯答曰，有三摩提，名大佛頂首楞嚴王云云。是毫𨤲有差，天地懸隔矣。斯又予之深信者也。經者，常法也。謂一切諸佛所傳者，乃萬古不磨之法也。亦謂徑也。為諸修行人，從凡入聖之徑路也。

> 経典の題名には、世尊が自ら付けられたものと、結集者が内容に合わせて付けたものがあります。この経典は世尊が自ら名づけられたものです。仏が五十五位の菩提について説かれた後、文殊菩薩が大衆の中から立ち上がり、座を離れて仏足を礼拝し、こう申し上げました。「この経典を何と名づけるべきでしょうか。私と衆生はどのように奉持すべきでしょうか。」仏は文殊に告げられました。「この経は『大仏頂悉怛多般怛囉無上宝印十方如来清浄海眼』と名づけ、また『救護親因度脱阿難及此会中性比丘尼得菩提心入遍知海』とも名づけ、また『如来密因修証了義』とも名づけ、また『大方広妙蓮華王十方仏母陀羅尼呪』とも名づけ、また『灌頂章句諸菩薩万行首楞厳』とも名づけ、合わせて五つの名があります。」その後、訳者は言葉は異なっても意味は互いに通じると考え、三つを残して二つを隠し、一つの題名にまとめました。それが『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』です。 「大仏頂」とは、諸仏の三十二相の中で最も尊く最も上であり、見ることのできない頂相を指します。この相は凡夫や小乗の者には見えず、地上の菩薩でさえその全体を見ることはできません。ただ仏と仏のみがこれを見ることができます。なぜなら、見ようとする者には見えず、見ようとしない者にも見えず、有るでもなく無いでもない見方をする者にも見えず、有るとも無いとも見る者にも見えないからです。ただ心意識を離れ、凡聖の道を超えた者だけが、見ることもなく見られることもなく、初めて頂相を直に見ることが許されるのです。しかし、最も尊い頂相によって最も優れた教えを顕わし、有相によって無相を表し、幻の相によって実相を示すためです。 実相とは、仏と衆生が本来具えている常住の真心、清浄で明らかな本体のことです。しかし凡夫は執着し、二乗は空に陥ってこれを知ることができず、地上の菩薩でさえまだその涯を見極めることはできません。ただ仏世尊のみが三徳を円満に通じ、万行を具え、無作の妙智によって不思議の境を悟り、常住の真心の全体大用を自ら証し、大仏頂相をも具え、最も優れた教えを説くことができるのです。それゆえ阿難尊者が魔に捕らえられたとき、仏は自らの頂門から光を放ち、化仏に呪を説かせて救い出されました。尊者はそれによって十方如来が菩提を成ずるための妙奢摩他・三摩・禅那の最初の方便を熱心に請い求めました。仏はすぐに正しい教えをすべて示し、直指人心して言われました。「三摩提というものがあり、大仏頂首楞厳王と名づけ、万行を具え、十方如来が一門を超えて出る妙なる荘厳の路である。」そして文殊が経の名を立てるよう請うたとき、再び「大仏頂」の三字を経の冒頭に置かれました。これを見れば、楞厳の大定に入らなければ最上乗の果を証することはできず、最上乗の果を証さなければ大仏頂相を見ることはできず、大仏頂相を見る者が如来と呼ばれることがわかります。 「如」とはその真実の本体を指し、「来」とはその大いなる働きを表します。本体は威音王仏の昔から具わっており、働きは今この世に現れています。しかし、威音王仏の昔にありながら今この世に現れることを妨げず、今この世に現れながら威音王仏の昔にあることを妨げません。寂然として動かず、感応して通ずると言い、感応して通じながら寂然として動かないと言います。どこからも来たのでもなく、どこへも去るのでもない、それゆえ如来と呼ばれるのです。 如来とは果徳の呼び名です。密因がなければ果を証することはできません。しかし人々はただ密は顕ではなく、因は果ではないと知るだけで、如来が因を修するとき、色を見ることも声を聞くことも離れなかったことを知りません。この六根・六塵・六識こそが成仏の根本であり、すべてが現成で明らかでないことはありません。ただ衆生が境に逐われて心を迷わせ、縁を内に集めて揺らぎ、外に趣いて奔走し、日用に知らないだけです。それゆえ密と呼ばれるのです。この密は衆生に対して言うのであり、如来の因に密があるわけではありません。これによって生死に沈むことも妙常を証することも、この根塵識の法を出ないことがわかります。この一法を除いてほかに法はなく、この一義を悟ってほかに義はありません。これこそ一を修すればすべてを修し、一を証すればすべてを証し、一を悟ればすべてを悟り、悟ることもなく悟らないこともないのです。ただ如来だけでなく、すべての菩薩の修する万行も、ここにあります。 菩薩は梵語の半分で、完全には菩提薩埵といい、ここでは大道心を発した衆生と訳します。初心を発起し、必ず仏となって衆生を度すまでやめないことを言います。自利利他には、必ず六度と四無量心を借りて、十種の根本大行とします。さらに十をもって百を助け、百をもって千を助け、千をもって万を助けます。しかし万は世の極数の随であり、行いに一定の数があるわけではありません。拡大すればもっと多くの種類があるかもしれませんが、総括すれば一つの楞厳の大定を出ません。 梵語の首楞厳は、ここでは一切事究竟堅固といいます。一切事とは、六種の根塵識の法を離れません。その体性を究めれば、ただ常住の真心です。法華経に「是の法は法位に住し、世間の相は常住なり」とあるように、また肇論に「聖遠からんや、これを擬すれば即ち神なり。道遠からんや、事に触れて即ち真なり」とあるようにです。また大仏頂といい、また首楞厳王というのは、二乗の枯れた禅や滅定ではないことを簡別するためです。また大経に「男子の身中に入って正定し、女子の身中より定より起つ」とあるように、さらに「眼根に入って正定し、耳根より定より起つ。舌根に入って正定し、身根より定より起つ」とあるようにです。また祖師方は「行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静体安然」といいます。この定を得た者は、自然に六根が源に返り、諸法が寂滅し、元の覚に還ります。元の覚に還る者は、如来と同じです。しかし如来は能証の人であり、首楞厳王は所証の法です。大仏頂相は、また人と法の標準です。 この十九字は脈絡が貫徹し、意味はほかの題名を摂めます。例えば「悉怛多般怛囉無上宝印十方如来清浄海眼」は、仏と衆生が本来具える真理を顕わします。梵語の悉怛多般怛囉は、ここでは大白傘蓋といいます。この理体は十方の虚空を包括し、働きは沙界に周遍し、一切を覆い、微塵も染めません。世間も出世間も、これほど貴重なものはなく、これほど高上のものはありません。これをもって心を印すれば、すべて真心であり、これをもって境を印すれば、すべて真境です。印を泥に押すように、少しの違いもありません。ただ凡夫は、色を見る声を聞くところで、縁影を妄りに認めて肉眼の凡夫となるのです。十方如来は、これを自ら証します。そして十方世界は清浄なる妙境です。意味は「大仏頂」の三字に摂められます。 例えば「救護親因、度脱阿難、及此会中、性比丘尼、得菩提心、入遍知海」は、当機の者たちがこの一会で法を聞いて果を証することを明らかにします。意味は「諸菩薩万行」の五字に摂められます。 「大方広」は、一つの理が体・相・用を具えることを言います。「妙蓮華王」は、この理が万法でありながら一物も染めないことを譬えます。蓮が汚泥の中にあっても、体を離れて香り高く清らかなようにです。意味は「大仏頂」の三字に摂められ、また「首楞厳」の三字にも摂められます。 例えば「十方仏母陀羅尼呪」は、梵語の陀羅尼はここでは総持といいます。呪には凡夫を革めて聖とする意味があり、これは三世一切の諸仏を生み出す妙門であり、また一切の法を総べ、無量の義を持ちます。ただ一念これに契えば、聖胎に入ります。意味は「如来密因」の四字に摂められ、また「首楞厳」の三字にも摂められます。 「灌頂章句」は、この経もまた灌頂部の中に摂められ、灌頂部の中の章句であることを言います。それゆえこの十九字は、ただほかの題名の意味を摂めるだけでなく、十巻の文言も摂めることができます。 例えば第一卷では、阿難が誤って淫室に堕ちたため、世尊が頂門から光を放ち、光の中から蓮華が生じ、華の中から化仏が現れて呪を説きました。文殊に命じて持って行かせ、阿難を引き上げて仏のもとに帰らせました。阿難が一心三観を請うと、仏はすぐに最初の発心を尋ねられました。ただ見相によって発心したと答えると、すでに生滅の古巣であることを知られました。すぐに真を立て妄を立て、直言直心を教えられました。さらに内外の境を判じ、前後の見を定められました。七か所で心を徴しても、一つとして定見はありませんでした。阿難が再び真実の境地を請うと、仏は面門から再び宝光を放ち、十方世界を一つの世界に合成されました。さらに一身心中から二種の根本を指し示されました。真妄の二門は、聖凡の一道を離れないことを知るべきです。これらはすべて向上を単提し、階級を立てません。直下に承当させ、立派に正覚を得て、大仏頂と対等に相応させるためです。しかし阿難は茫然としてどうしてよいかわかりませんでした。それゆえ世尊は、第二の門に向かって方便の路を開かざるを得ませんでした。それゆえ「諸の智者ある者は、譬喩をもってして開悟を得るべし」と言われたのです。そこで拳をもって見に類させ、次第に導き入れられました。阿難に自ら二障に纏われていることを述べさせ、陳那に彼に客塵の二字を悟らせました。さらに指を屈め光を飛ばして、彼に真を悟り妄を息めることを導かれました。しかし動と静を分け、境と心を認めることになってしまいました。 第二巻では、生と不生を執し、実と不実を論じました。河を見て変わらず、手を垂れて失わず。さらに色心の諸縁と、晦昧をもって空となすことについて諭し、二段の要旨として一心の軌則を立てられました。彼に真から妄を起こし、妄を悟れば即ち真であるという綱領を知らせました。それゆえ下文で八還を弁じ、諸物を択びました。第三巻では、三科七大がすべて如来蔵心に帰し、色心の諸縁一段の公案を完結しました。これは妄を息めて真に帰し、真諦の理を顕わし、般若徳を見る要訣です。 第四巻では、富楼那が循業発現を悟らず、俗を執して真を難じました。清浄本然であるのに、どうして忽然と山河大地が生じたのかと問いました。仏は性覚妙明、本覚明妙をもって詰問され、双関を立てて彼に任せて取らせました。しかし彼は明を認めて所に堕ち、作が既に妄りに立てば、同異無き中に熾然として異を成します。ただ一念の不覚によって、頓に三種の相続を成すのです。これによって晦昧をもって空となす一段の公案を闡明し、真に依って妄を起こし、俗諦の理を顕わし、解脱徳を見るのです。 さらに即真即俗、非即非離、非因縁、亦非自然。一多無礙、小大相容。我が指を按ずれば海印光を発し、汝が暫く心を挙ぐれば塵労先ず起つ。これはまた中道了義に会帰し、第一義諦を顕わし、法身徳を見るのです。三徳が既に円満すれば、万行を修すべきです。妄には因無く、真は妄を離れず。狂性自ら歇み、歇めば即ち菩提。因縁自然、倶に得べからず。これは見道に属するとはいえ、諸仏の円修円証する密因は、すべてここにあります。 第四巻の後、仏は多聞無益を責め、無漏を修するよう勧められました。阿難は既に華屋を得たが、門によって入る必要があると言いました。仏は二種の決定、五種の渾濁、六根の優劣を示し、鐘を撃って常を験されました。第五巻では、六解一忘、二十四聖に自らの宿因を述べさせ、各々悟入させました。第六巻では、観音が耳根を陳白し、文殊が円通を揀選し、三決定義、四種律儀を示しました。第七巻では、再び神呪を宣べ、功徳を倍に顕わされました。阿難が四十四心を問うと、仏は二種の顛倒と、それによって生じる十二類を答えられました。第八巻では、漸次の助因を明らかにし、菩提の正路を開かれました。これはまた修証了義と、諸菩薩万行の標指です。後の二巻では、さらに七趣輪廻を開き、前三種の相続を広め、十種の禅那を設けて五陰の根本を明らかにし、楞厳の大定を助成するのです。 もし普通にこの一経を三観に配合すれば、本経の要旨ではないかもしれません。世尊の説法は、ただ直指人心、見性成仏にあります。誠に一言の下に心地が開通すれば、一句、乃至一偈を聞いても、楞厳の大定に入らず、円通の三観を証さないことはありません。どうして行を循り墨を数え、首尾一貫してからでなければ三観に入れないでしょうか。まして尊者は三観の方便を請うたが、世尊はただ「三摩提あり、名づけて大仏頂首楞厳王と曰う」と答えられただけです。これは毫厘の差が天地の懸隔となるのです。これもまた私が深く信じるところです。 経とは、常法です。一切の諸仏が伝えるものは、万古磨かれることのない法です。また径とも言います。すべての修行人が凡から聖に入る径路です。

題目已竟。

> 題目はこれで終わりました。

凡經大旨，准常科為三分：一、序分，二、正宗分，三、流通分。序分有通、有別。通者，諸經通用故。別者，亦名發起序，謂凡經各有發起，由緒不同故。

> 経典の大まかな趣旨は、通常の形式に従って三つの部分に分けられます： 一、序分（じょぶん） 二、正宗分（しょうしゅうぶん） 三、流通分（つうりゅうぶん） 序分には、通序（つうじょ）と別序（べつじょ）があります。 通序とは、すべての経典に共通する序文のことです。 別序は、発起序（ほっきじょ）とも呼ばれ、それぞれの経典ごとに説法が始まるきっかけや背景が異なることを指します。