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楞厳経截流 (楞嚴經截流)


七卷

第七巻

廣明菩薩行相,令持四種律儀,皎如氷霜,自不能生一切枝葉者,葢萬行雖多,此為根本。今人果能不緣色香味觸,魔事自銷。奈何宿習所牽,朝則心齊於諸佛,莫則行歉乎下凡。聞見愈多,惑業愈熾,非假神呪之功,畢竟無由解脫。今明建壇誦呪能克聖果者,化佛為不思議佛,呪為不思議法,壇為不思議境,淨戒諸侶為不思議人。同如是人,發如是心,入如是境,行如是法,獲如是果,決定無疑。呪有勝益,故天龍八部、一切鬼神發願擁護,受持之者得無魔事。末世捨呪心而談楞嚴者,徒益多聞耳。行者勉之。以上理行既備,若不開聖位,其何以顯證果之相?初卷云:心言直故,如是乃至終始地位,中間永無諸委曲相。今須詳明,是故請云:云何名為乾慧之地?四十四心至何漸次得修行目?詣何方所名入地中?云何名為等覺菩薩?然問辭列漸次於諸位之中,葢先令知三漸次,以通含諸位故也。佛將示諸聖位,次先示眾生世界二顛倒因者,性顛倒故,轉菩提為煩惱,則成十二類生;性不顛倒,轉生死為涅槃,則成六十聖位。此為迷悟之源,不可不辯。指要而言,性明元心瞥起,妄明能覆所覆,皆為無住。本此無住,建立世界及諸眾生。若了無住,則知妄本無依,真亦不有。一欲復真,斯為顛倒之本,而十二類生肇焉。是故世界因動有聲至六亂妄想,成業性故。十二區分,由此輪轉者。此明依正妄織,為十二類生生起之本也。是故世間聲香味觸,窮十二變,為一旋復者。重結依報之中,三世四方,和合相涉,能變有情,成十二之數也。色聲香味為能變,即世界之本。世界宛轉相涉,為十二數。旋復即宛轉義。下云乘是輪轉,顛倒相故,是有世間卵生等。如是則不可以窮十二變之能變為所變耳。十二類生,各各具十二顛倒者。以同一理性,彼彼互具也。天台所明現起之一,名事造。餘冥伏者,為理具。具無所具,全一覺體。若以六即收之,所謂理即事也。由生類即佛,故可進修。一聞理即,便為名字。今三漸次中,自除其助因,刳其正性,此屬觀行相似二即。文自父母肉身,不須天眼,自然觀見十方至宿命清淨,得無艱險,此屬相似,即第三違其現業。是又躡前觀行、相似二位,進明分證耳。文云反流全一,六用不行者,即圓伏五住,同前觀行位也。十方國土皎然清淨,至一切如來密圓淨妙皆現其中者,此見思先斷,同前相似位也。是人即獲無生法忍者,此從十信超入初住,無明初破,為分證位也。從是漸修,安立聖位,指分證位中當位昇進之相,非直接乾慧之位也。以乾慧之文合前者,欲愛乾枯,根境不偶,同前反流全一,六用不行之義;執心虗明,純是智慧,慧性圓明,瑩十方界,同前十方國土皎然清淨等義。若作未破見思,即屬觀行將成之相;若作見思已破,即同十信位中相似之相。今乾慧既居十信之前,當直作觀行位釋。然十卷有云從互用中能入菩薩金剛乾慧,乃至云如是乃超十信、十住等者,斯是經文錯綜,非謂六根互用,始入信前乾慧耳。此後信、住、行、向,乃至等覺諸位,無不屬此金剛觀察之觀。故後文云至等覺已,是覺始獲金剛心中初乾慧地。不言妙覺之中獲者,圓滿菩提,歸無所得故也。今自乾慧至妙覺,重以六即定之者,乾慧以前,凡夫本具聖位是理即,從此得聞為名字即,乾慧為觀行即,十信為相似即,十信至等覺為分證即,妙覺為究竟即也。經始自乾慧,終至妙覺,為單複十二者,逐位別開為單,每位具十曰複,故十信、十住、十行、十向、十地為五複,乾慧、煖、頂、忍、世第一、等、妙為七單,以單七複五,數為十二。解如長水經云:是種種地,皆以金剛觀察十種深喻。奢摩他中,用諸毗婆舍那清淨修證,漸次深入觀察,乃心之異名也。更詳皆以二字,亦應曰至等覺已,是覺始獲金剛心中初信、二信,乃至十地。今云是覺始獲金剛心中初乾慧地者,猶云發心、究竟二不別,非等覺心中別有一乾慧也。華嚴明善財童子始謁文殊,終會文殊者,旨不異此。又云漸次深入,則知漸次通貫諸位,不可以三漸次直接乾慧地也。如是皆以三增進故,善能成就五十五位真菩提路者,以諸位之中,𮞏𮞏增進,由觀行之相似,由相似之分證,由分證之究竟,又非截三漸次居乾慧之前耳。單七複五,共五十七位。今云五十位真菩提路者,乾慧非真,妙覺非路,止五十五。解如吳興

広く菩薩の行相を明らかにし、四種の律儀を保持することを示し、氷霜のように清く、一切の枝葉を自ら生じないものとしている。これは、万行が多くあれども、これが根本であるからだ。今、人々がもし色・香・味・触に縁取らず、魔事は自ずから消え去る。しかしながら、宿習に引きずられ、朝には心を諸仏に揃え、夕には行いが凡夫に劣る。聞き見るほどに、惑業はますます激しく、神呪の功徳を借りなければ、結局は解脱の道がない。今、壇を設けて呪を誦することが聖果を成就できると明かすのは、化仏は不可思議な仏であり、呪は不可思議な法であり、壇は不可思議な境であり、清浄な戒律を保つ仲間は不可思議な人であるからだ。このような人と共に、このような心を発し、このような境に入り、このような法を行じ、このような果を得ることは、決して疑いない。呪には勝れた利益があるため、天龍八部や一切の鬼神が擁護を誓い、受持する者は魔事に遭わない。末世に呪心を捨てて楞厳を論じる者は、ただ多聞を増すだけである。行者よ、努めよ。

以上の理と行が既に備わっているが、もし聖位を明かさなければ、どうして証果の相を顕わすことができようか。初巻に云う:「心と言葉が直であるから、このように終始の地位に至るまで、中間に一切の曲がった相がない」。今、詳しく明かす必要がある。故に請うて云う:「どうして乾慧の地と名づけるのか?四十四心はどの漸次に至って修行の目を得るのか?どの方所に至って地の中に入ると名づけるのか?どうして等覚菩薩と名づけるのか?」しかし、問いの言葉が諸位の中に漸次を列挙するのは、まず三漸次を知らせ、諸位を通じて含むためである。仏が諸聖位を示そうとするとき、先に衆生と世界の二つの顛倒の因を示す。性が顛倒する故に、菩提を煩悩に転じ、十二類の衆生となる。性が顛倒しなければ、生死を涅槃に転じ、六十の聖位となる。これは迷悟の源であり、弁えざるを得ない。要点を指摘すれば、性明の元心が一瞥して起こり、妄明が能覆と所覆となり、皆が無住となる。この無住を本として、世界と諸衆生を建立する。もし無住を了得すれば、妄が本来依る所なく、真もまた存在しないことを知る。一たび真に戻ろうとすれば、これが顛倒の本となり、十二類の衆生が始まる。故に、世界は動きによって声があり、六乱の妄想に至り、業性を成す故に、十二の区別が生じ、これによって輪転する。これは依正が妄に織り成され、十二類の衆生生起の本であることを明かす。故に、世間の声・香・味・触は、十二変を窮めて一つの旋復となる。これは依報の中において、三世と四方が和合し相い関わり、有情を変じて十二の数となることを重ねて結ぶ。色・声・香・味が能変であり、即ち世界の本である。世界が宛転と相い関わり、十二の数となる。旋復は即ち宛転の意味である。下に云う:「この輪転に乗じ、顛倒の相である故に、世間に卵生などがある」。このように、十二変を窮める能変を所変とすることはできない。十二類の衆生は、各々十二の顛倒を具えている。同一の理性によって、互いに具え合うからである。天台が明かす現起の一つを事造と名づけ、残りが冥伏しているものを理具とする。具えるところなく、全く一つの覚体である。もし六即で収めれば、所謂理即が事である。衆生類が即ち仏である故に、進んで修することができる。一たび理即を聞けば、直ちに名字となる。今、三漸次の中、自らその助因を除き、その正性を刳り出す。これは観行相似の二即に属する。文は自らの父母の肉身から、天眼を必要とせず、自然に十方を観見し、宿命清浄に至り、艱険なく得る。これは相似に属し、即ち第三にその現業に違う。これはまた前の観行・相似の二位を踏まえ、進んで分証を明かすものである。文に云う:「反流全一、六用不行」。即ち円満に五住を伏せ、前の観行位と同じである。「十方国土皎然清浄、一切如来密円浄妙皆現其中」。これは見思が先に断たれ、前の相似位と同じである。「是人即獲無生法忍」。これは十信から超えて初住に入り、無明が初めて破られ、分証位となる。「従是漸修、安立聖位」。分証位の中において、当位が昇進する相を指し、直接に乾慧の位を指すのではない。乾慧の文を前者に合わせれば、欲愛が乾枯し、根と境が対にならず、前の反流全一、六用不行の意味と同じである。執心が虚明で、純粋に智慧であり、慧性が円明で、十方界を照らす。前十方国土皎然清浄などの意味と同じである。もし見思が未だ破られていないとすれば、観行が将に成る相に属する。もし見思が既に破られたとすれば、十信位の中の相似の相と同じである。今、乾慧が十信の前にあるので、直ちに観行位として解釈すべきである。しかし、十巻に云う:「互用中より能く菩薩金剛乾慧に入り、乃至云う、かくの如くにして乃ち十信・十住などを超える」。これは経文の錯綜であり、六根互用して始めて信前の乾慧に入るというのではない。この後の信・住・行・向、乃至等覚の諸位は、全てこの金剛観察の観に属する。故に後文に云う:「等覚に至り已りて、是の覚始めて金剛心中の初乾慧地を獲る」。妙覚の中に獲ると言わないのは、円満菩提は無所得に帰するからである。今、乾慧から妙覚まで、重ねて六即で定める。乾慧以前は、凡夫が本具する聖位は理即であり、ここから聞いて得るのは名字即であり、乾慧は観行即であり、十信は相似即であり、十信から等覚は分証即であり、妙覚は究竟即である。経は始め乾慧から終わり妙覚まで、単複十二とする。逐位別に開くことを単とし、每位が十を具えることを複とする。故に十信・十住・十行・十向・十地は五複であり、乾慧・煖・頂・忍・世第一・等・妙は七単である。単七と複五を以て、数は十二となる。解釈は長水経の如く云う:「是の種々の地は、皆以て金剛観察十種の深き喩えを為す。奢摩他の中に、諸の毘婆舎那を用いて清浄に修証し、漸次深く入りて観察す」。これは心の異名である。更に詳しく「皆以」の二字を見れば、また応に曰う:「等覚に至り已りて、是の覚始めて金剛心中の初信・二信、乃至十地を獲る」。今、「是の覚始めて金剛心中の初乾慧地を獲る」と云うのは、猶云う「発心・究竟二つ別ならず」であり、等覚心中に別に一つの乾慧があるのではない。華厳は善財童子が始めて文殊に謁し、終に文殊に会うことを明かすが、その旨はこれと異ならない。また云う:「漸次深く入る」。則ち漸次が諸位を通貫することを知り、三漸次を直接に乾慧地に当てはめることはできない。「かくの如くにして皆以て三増進の故に、善く五十五位の真の菩提路を成就す」。諸位の中において、絶えず増進し、観行から相似へ、相似から分証へ、分証から究竟へと進む。また、三漸次を截って乾慧の前に置くのではない。単七と複五を合わせて五十七位である。今、五十位の真の菩提路と云うのは、乾慧は真でなく、妙覚は路でないため、五十五に止まる。解釈は呉興の如し。


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