そもそも『首楞厳経』という経典は、文章は十巻にわたりますが、その教えは三つの柱に集約されます。すなわち「理」、「行」、「証」です。私たちの心の奥深い真実を指し示すものを「理」といい、その理を三つの観点から融和させ、本来の性質に立ち返る実践を「行」といい、理の世界の境地を直接に体得することを「証」といいます。この経典全体の始めから終わりまでの究極の内容は、この三つの意義によって余すところなく収められているのです。
そこで、釈尊はまず阿難が発心し、現象を見たところから、その根源を直ちに究明されました。すると、感覚器官(根)、対象(塵)、認識作用(識)の三つが、そのまま無上の悟りへと転じ、どこに真実と虚妄があるというのでしょうか。真妄という名さえ、もはや余計な言葉になってしまいます。ですから、私たちの心こそが「空如来蔵」であり、空如来蔵こそが私たちの心に本来そなわった妙なる性質であって、どうして「有」を離れて「空」を語ることができましょうか。したがって、山河大地などの一切の現象は、そのままが如来蔵の清浄で本来の姿、すなわち中道の真理なのです。これが「理」を明らかにした部分です。
次に、この中道理に基づいて真の修行を行い、一瞬の念の中に円通を会得します。妙なる耳の門を開き、六つの束縛が解けて一つも残らず、三つの観点が融け合って一心は静寂となり、微細な煩悩の塵が消えて一切種智が円満となる。これが「行」と「証」の二つの柱を、言葉を尽くして説いた部分です。
もともと経典の教えは直截なのですが、解釈する者がかえって迂遠にしてしまう。これは経典そのものが難しいのではなく、伝え記すことが難しいからです。安法師は『首楞厳経』の三昧をよく体得され、要点を押さえ、深く切実に明らかにされました。わずかな言葉で経典全体を貫き、読む者をあたかも三昧の中に置くかのようです。正しい眼目を持ち、妙なる悟りを得た者でなければ、このようなことはできません。
そこで、学ぶ人々が師に直接その意味を解き明かすことを請うと、安法師は承諾され、五年の歳月を経て草稿が完成しました。この解説は、名相にこだわらず、直ちに玄妙な微細な点を分析し、一字一字が真実にかない、一言一言が真理を表しています。私は雲棲の庵室で偶然これを見つけ、至宝を得たように思い、乞い求めて禦児の溪上に持ち帰りました。同道の者たちがその評判を聞いて集まり、それぞれ資金を出し合って出版に至りました。
ああ、今の世は末法の時代です。にせ物が真実を乱しています。しかしこの解説は、他の多くの解釈とはまったく異なり、まさに閻浮提の金、荊山の璧のようなものです。世に識者があれば、にせ物と同日に論じることはないでしょう。
このたび、私が端緒を開き、その功績は皆に帰することを喜びます。私は不肖ではありますが、大道には言葉がなく、最上の善は功績を誇らないことを知っています。そこで、あえて拙い言葉で、おおよその経緯を述べ、併せてその年月を記すことにいたします。