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観無量寿仏経図頌 (觀無量壽佛經圖頌)

「觀無量壽佛經圖頌」について

明 · 傳燈述 著

6,033 字 · 約 20 分

明代の高僧・伝灯大師が著した『観無量寿仏経図頌』は、図像と頌文を組み合わせて浄土経典を解説する仏教著作です。本書は『観無量寿経』を核心とし、図と文を併用する形式で、十六観の法門と西方極楽世界の荘厳な景観を体系的に説き明かしています。天台宗の高僧である伝灯大師の叙述は、教理と実践指導を融合させ、修行者に明確な観想の次第を提供しています。この作品は浄土法門において重要な位置を占め、実修の手引きであると同時に、浄土思想を広める上で重要な文献であり、明清時代以降の浄土信仰の普及に深い影響を与えました。


No. 412-B敘

第412号乙 序

釋迦如來為一大事因緣出現於世。大事者何?生死大事也。故始於說法,終於拈華,不過欲諸眾生各證成等正覺而已。然歸元無二路,方便有多門。求其速了生死最捷徑者,莫過於參禪了道。而捷中之捷,徑中之徑,為異方便者,尤莫尚於念佛往生。乃世有聰明才智之士,往往鄙之為愚夫愚婦之所為者。夫口誦彌陀而心存塵垢,志希安養而念繫娑婆,誠可鄙矣。至於真能念佛之人,則淵寂通微,冥心入妙,能所兩忘,事理一致,如此而亦鄙之。真天如禪師所謂非鄙愚夫愚婦,乃鄙文殊、普賢及馬鳴、龍樹耳。此佛說觀無量壽佛經不可以不誦也。經中雖具有十六觀法,尤以觀佛為一經宗要。善觀者,觀一切相為非相,則能見彌陀之全體;觀一切法如幻法,則能入淨土之真境;觀我身之無我,則能具如來之正見。是以從一如來而見無量如來,入一境土而周無量淨土,悟一法身而融無量法身,無念而念,無修而修,無證而證,豈非善了大事因緣者哉?天台無盡法師,教中義虎,精通三觀,搆圖精工,攝頌爾雅。惜年久湮蕪,傳布甚少,故特重梓流通,復為麤釋一二典故,以便初機。俾見聞者,因相以寓目,因文而動懷,歡喜讚歎,發無上心,同結淨土勝緣。即有疑者謗者,亦植善因不淺。譬之城東老母,誓不見佛,以手障面,終莫能逃。況乎一歷識田,永為道種耶?是知此事,不問親疎,無分利鈍,各有自性彌陀,自現惟心淨土。所以十惡五逆,尚且十念往生;散心持名,亦可同登樂國。獨彼疑謗之人,籠鳥鼎魚,翻稱快樂;隙駒泡影,妄計久長。但恐一旦色力痿羸,神識迷亂,文章無靈,錢神莫挽,去路茫茫,無本可據。是使聰明才智之士,反見笑於愚夫愚婦也。敢請直下承當,共入彌陀願海。

釈迦如来は、一つの大事の因縁のためにこの世に出現された。その大事とは何か。生死の大事である。それゆえ、説法に始まり、拈華に終わるまで、ただ衆生がそれぞれ等正覚を証得することを願われたにすぎない。しかし、本源に帰することに二つの道はなく、方便には多くの門がある。速やかに生死を究める最も捷い道を求めるならば、参禅して道を悟ることに勝るものはない。そして、その捷い中の捷い道、直截の中の直截の道として、異なる方便とされるものには、念佛往生に勝るものは何もない。ところが世の中には、聰明な才知を持つ人士がいて、しばしばこれを愚夫愚婦のすることだと軽んじる。口では弥陀を唱えながら心は塵垢に留まり、志は安養浄土にありながら念は娑婆世界に繋がれているのなら、確かに軽んじるべきであろう。しかし、真に念佛できる人は、深く寂静で微細な真理に通じ、心を潜めて妙境に入り、能所の二見を忘れ、事と理が一体となっている。このような人まで軽んじるのは、まさに天如禅師が言われるように、「愚夫愚婦を軽んじているのではなく、文殊・普賢や馬鳴・龍樹を軽んじているのだ」。これこそ、仏説観無量寿仏経を誦せざるべきではない理由である。経中には十六の観法があるが、特に仏を観ることが一経の宗旨であり要である。よく観ずる者は、一切の相を非相と観じて、弥陀の全体を見ることができる。一切の法を幻の法と観じて、浄土の真の境地に入ることができる。我が身に我なしと観じて、如来の正しい見解を具えることができる。このようにして、一つの如来から無量の如来を見、一つの境土に入って無量の浄土に周り、一つの法身を悟って無量の法身を融会し、念に念ならず、修に修せず、証に証せず、これこそが善く大事の因縁を究めた者といえよう。天台の無尽法師は、教義に通暁した虎のような人物で、三観を深く究め、図を精巧に描き、頌を優雅にまとめられた。惜しむらくは、長い年月で荒廃し、伝わるものが少なかった。そこで特に再版して流通させ、さらに初学の者のために、いくつかの典故を粗く解釈した。見聞する者たちが、図によって目を留め、文によって心を動かし、歓喜し讚歎して、無上の心を発し、共に浄土の勝縁を結ぶことを願ってのことである。たとえ疑いを抱く者や誹謗する者がいても、善い因縁を深く植え付けることになる。例えば、城東の老母は、仏に会うことを誓って拒み、手で顔を覆ったが、結局は逃れられなかった。ましてや、一度識田(心の畑)に刻まれれば、永遠に道の種となるのだ。この事を知るべきである。親しみや疎遠を問わず、利根か鈍根かの区別もなく、誰もが自らの本性に弥陀を有し、自ら唯心の浄土を現じるのだと。だからこそ、十悪五逆の者でさえ、十念の念佛で往生できる。散乱の心で名号を唱える者も、また共に楽国に登ることができる。ただ、あの疑い誹謗する者たちは、籠の中の鳥や鼎の中の魚のようなものでありながら、かえって楽しみと称し、隙間から覗く馬や泡影のような儚い命を、長く続くものと誤って考えている。ただ恐れるのは、いつか色身が衰え、精神が乱れ、文章の力も効かず、金銭の力も引き留められず、行く末は茫漠として、拠り所となるものが何もないことである。これによって、聰明才知の人士が、かえって愚夫愚婦に笑われることになるのだ。どうか直接にこの事を受け止め、共に弥陀の誓願の海に入っていただきたい。

歲次乙未秋日武林菩薩戒弟子張文嘉仲嘉甫薰沐拜述

No. 412-A 序
觀無量壽佛經圖頌

CBETA コード: X0412

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