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  1. 半月誦菩薩戒儀式註 (半月誦菩薩戒儀式註)
  2. 二䇿修 (二䇿修)
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半月誦菩薩戒儀式註 (半月誦菩薩戒儀式注)


○二䇿修
諸大德。春分四月日為一時。
俗法一歲四時。佛法一歲三時。除去秋時。此有二義。一佛為諸弟子破保常心故。以秋是收成時。物皆結實。人計為常為樂。為破此著。故不言秋也。二佛為開後安居。立迦提月。令後安居人。續結得成。還名坐夏。不名坐秋。為此義故。故去秋時也。今言春分四月者。從臘月十六日。至四月十五日。名為春分。從四月十六日。至八月十五日。名為夏分。從八月十六日。至臘月十五日。名為冬分。今先標春分。後二分。應隨時改之(迦提。此云昴星。昴星直此月故。即七月十六日。至八月十五月是)。

世間の暦では一年を四季に分けますが、仏法では一年を三時に分けます。秋の時を除くのです。これには二つの理由があります。

第一に、仏陀が弟子たちの「常なるもの」への執着を破るためです。秋は収穫の季節で、万物が実りを結びます。人々はこれを「不変の喜び」と考えがちです。その執着を破るために、あえて秋を説かないのです。

第二に、仏陀が「安居」の期間を後に延ばすため、「迦提月」を設けたからです。後に安居を行う者たちにも、修行を完成させる機会を与え、依然として「夏安居」と呼び、秋安居とは言わないのです。この理由から、秋の時を除くのです。

ここで「春分四月」と言うのは、臘月(12月)の16日から4月15日までを春分とし、4月16日から8月15日までを夏分、8月16日から臘月15日までを冬分とします。まず春分を挙げ、後の二分は時期に応じて改めるべきです(迦提とは昴星(すばる)のことです。昴星がこの月に当たるため、7月16日から8月15日までを指します)。

半月日已過。

半月が過ぎました。

臘月盡為半月。正月十五為一月。正月盡為一月半。二月十五為兩月。二月盡為兩月半。三月十五為三月。三月盡為三月半。四月十五為四月。餘夏冬二時。準此改之。
少一夜。餘有一夜三月半在。

あと一夜。残りは一夜と三ヶ月半。

少一夜者。謂臘月盡。日間布薩。以今夜猶屬今日。夜分未滿。故云少也。餘有一夜者。以未滿故。尚餘有一夜也。若於初夜。中夜。布薩。應云少半夜。餘有半夜也。佛不聽後夜布薩。恐布薩未竟。明相已出。則是二日共一布薩。便成非法也。若正月十五日布薩。應云。少一夜。餘有一夜三月日在。自餘半月半月。但改下句。如正月盡布薩。改云。兩月半在。二月十五日。應云。兩月日在。二月盡。應云。一月半在。三月十五日。應云。一月日在。三月盡。應云。半月日在。或有不知佛制。教者。謂遇月小布薩。可云少一夜。如月大。則不必言。若爾。何獨少一夜。而亦少一日。即應直言少一日。上句當云十四日已過。下句方言少一夜。然諸國所制律法不同。月之大小亦非一定。但隨月稱。無分大小。以亂常則。如遇閏月。還依正月稱之。若不依正。則時有五月矣。
老死至近。佛法欲滅。諸大德。優婆塞。優婆夷。為得道故。一心勤求精進。所以者何。諸佛一心勤求精進。故得阿耨多羅三藐三菩提。何況餘善道法。各聞強健時。努力勤修善。如何不求道。安可須待老。欲何樂乎。

老いと死はすぐそこに迫っている。仏法は滅びようとしている。諸大徳、優婆塞、優婆夷よ、道を得るために、一心に勤め精進せよ。なぜなら、諸仏は一心に勤め精進したゆえに、阿耨多羅三藐三菩提を得たからである。ましてや、その他の善き道の法においてはなおさらである。それぞれが、まだ健やかな時に聞き、努力して善を修めよ。どうして道を求めずにいられようか。どうして老いを待つことができようか。何を楽しみとしているのか。

從春分至此。是述說一切有部戒本文。今此加在家二眾。若無二眾。則不必誦文。如有沙彌菩薩等。當云諸大德等。準菩薩戒本。則稱諸大士。言老死至近者。上謂幾月日已過。餘有幾月日在。正為令覺日月時遷。老死逼近。所謂日往月來。颯然白首。無常老死。不與人期。是也。佛法欲滅者。若不依戒進修。正法便滅。正法既滅。更向何處修行。故律云。有秉羯磨說戒。則正法未滅世間。毗尼藏者。是佛法壽命。毗尼藏住。佛法亦住。以諸善法。勝定妙慧。皆藉戒而生也。阿耨多羅三藐三菩提(下三字上。應有訖字二合)。阿耨。此云無上。三藐。此云正。三菩提。此云等覺。即無上佛道也。餘善道法者。謂根力覺道禪定三昧。乃至聲聞緣覺人天道法。故彼戒本云。由不放逸。必當證得如來應正等覺。何況所餘覺品善法。各聞強健時者。謂今各各得聞誦此戒法。當趂此身心強健之時。努力勤修眾善。如何。是反徵之詞。謂既已得聞戒法。如何不求進修道業。豈可安然直待年殘衰老。修進不能。死日逼近。更欲求何等樂。故云欲何樂乎。

春分からここまで。これは説一切有部の戒本の本文を述べたものです。今ここに在家の二衆を加えます。もし二衆がいなければ、必ずしもこの文を誦する必要はありません。もし沙弥や菩薩などがいるならば、「諸大徳等」と言うべきです。菩薩戒本に準じるならば、「諸大士」と称します。「老死が近い」と言うのは、上では「幾月日が過ぎ、残り幾月日がある」と述べています。まさに日月の移り変わりを自覚させ、老死が迫っていることを知らせるためです。いわゆる「日が往き月が来て、あっという間に白髪となる。無常の老死は、人に期せずして訪れる」というものです。

仏法が滅びようとしているとは、もし戒に依って進んで修めなければ、正法はすぐに滅びてしまうということです。正法が滅んでしまえば、さらにどこに向かって修行すればよいのでしょうか。したがって律には、「羯磨を執り行い戒を説くことがあれば、正法はまだ世間に滅びていない。毘尼蔵は仏法の寿命である。毘尼蔵が住すれば、仏法もまた住する」とあります。すべての善法、勝れた定、妙なる慧は、皆戒によって生じるからです。

阿耨多羅三藐三菩提(下三字の上に、「訖」の字が二つあるべきです)。阿耨は、これ「無上」と訳します。三藐は、これ「正」と訳します。三菩提は、これ「等覚」と訳します。すなわち無上の仏道です。

その他の善道法とは、根・力・覚・道・禅定・三昧、さらには声聞・縁覚・人天の道法を指します。したがって、かの戒本には、「放逸に陥らなければ、必ずや如来応正等覚を証得するであろう。ましてや、その他の覚品の善法においてはなおさらである」とあります。

「各々強健の時に聞く」とは、今各々がこの戒法を聞き誦することを得たならば、この身心の強健な時に乗じて、努力して勤しく衆善を修めるべきだ、ということです。

「如何」は、反問の言葉です。すでに戒法を聞くことを得たならば、どうして進んで道業を修めようと求めないのか。どうして安らかにただ年が残り衰え老いるのを待ち、修進もできず、死の日が迫ってから、さらにどんな楽しみを求めようとするのか。だから「どんな楽しみを求めようとするのか」と言うのです。

是日已過。命亦隨減。如少水魚。斯有何樂。

今日もまた過ぎ去り、命はそれに従って減っていく。水の少ない池の魚のように、何の楽しみがあろうか。

上二句直示。下二句設喻。此頌出出曜經。時南海卒涌驚濤浸灌。有三大魚。流入淺涇。共相謂言。我等厄此。及漫水未減。宜可逆上。還歸大海。復礙小舟。不得越過。第一魚。盡力跳舟得渡。次魚。復憑草獲過。第三魚。氣力消竭。水亦漸涸。不知死至。尚自優游。佛因說頌。以警世人。是日。即今日分限既定。寧容希增。今過一日。即是減少後之壽命一日。故云隨減。日既如是。年月可知。奚可待老。坐喪天年哉。魚既水少。加以風吹日暴。癡魚無知。游洋自若。老死將至。地水火風。四大侵陵。日夜交逼。甚於少水之魚。故云斯有何樂。若能發勇猛心。不著二邊。依於中道。事理無礙。圓修圓證。頓契無生。超二死涇。復本真源。如魚盡力。跳舟得過。如或根器不能。即當依教修行。證真空理。歷諸階位。出生死流。如魚憑舟頭尾草邊得過。設若懈怠。不求昇進。苟貪人天之少欲樂。不覺無常將至。誠如少水癡魚也。

上二句は直接に示し、下二句は譬えを設けています。この頌は『出曜経』に出ています。時に南海が突然に波を湧き起こし、驚濤が浸灌し、三匹の大きな魚が流されて浅瀬に入りました。互いに言い合いました。「我々はここで難儀している。まだ水が減っていないうちに、逆流に上って大海に帰ろう」。また小舟が邪魔で越えられませんでした。第一の魚は全力で舟を跳び越えて渡りました。次の魚は草に寄りかかって通り過ぎました。第三の魚は気力が尽き、水も次第に干上がり、死が近づいていることに気づかず、まだのんびりと泳いでいました。仏はこの因縁で頌を説き、世の人々を戒められました。この日、つまり今日の限界はすでに定まっており、どうして増えることを望めましょう。今日一日が過ぎれば、それは後の寿命が一日減ることになります。故に「随減」と言うのです。日がこのようであれば、年月もまた知れます。どうして老いるのを待って、天寿を無駄にすることができましょうか。魚は水が少ない上に、風が吹き日が照りつけ、愚かな魚は無知のまま悠々と泳いでいます。老いと死が近づけば、地水火風の四大が侵し迫り、日夜交々に追い詰められます。それは水の少ない魚よりもひどいのです。故に「斯有何楽」と言うのです。もし勇猛心を発して、二辺に執着せず、中道に依り、事理無礙に円修円証し、頓に無生に契い、二死の浅瀬を超えて、本来の真源に帰ることができれば、魚が全力で舟を跳び越えて通り過ぎるようなものです。もし根器が及ばなければ、直ちに教えに依って修行し、真空の理を証し、諸々の階位を経て生死の流れを出るべきです。それは魚が舟の頭や尾の草の辺りに寄りかかって通り過ぎるようなものです。もし懈怠して昇進を求めず、ただ人天のわずかな欲楽に貪り、無常が近づいていることに気づかなければ、まさに水の少ない愚かな魚のようなものです。


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