世間の暦では一年を四季に分けますが、仏法では一年を三時に分けます。秋の時を除くのです。これには二つの理由があります。
第一に、仏陀が弟子たちの「常なるもの」への執着を破るためです。秋は収穫の季節で、万物が実りを結びます。人々はこれを「不変の喜び」と考えがちです。その執着を破るために、あえて秋を説かないのです。
第二に、仏陀が「安居」の期間を後に延ばすため、「迦提月」を設けたからです。後に安居を行う者たちにも、修行を完成させる機会を与え、依然として「夏安居」と呼び、秋安居とは言わないのです。この理由から、秋の時を除くのです。
ここで「春分四月」と言うのは、臘月(12月)の16日から4月15日までを春分とし、4月16日から8月15日までを夏分、8月16日から臘月15日までを冬分とします。まず春分を挙げ、後の二分は時期に応じて改めるべきです(迦提とは昴星(すばる)のことです。昴星がこの月に当たるため、7月16日から8月15日までを指します)。
半月が過ぎました。
あと一夜。残りは一夜と三ヶ月半。
老いと死はすぐそこに迫っている。仏法は滅びようとしている。諸大徳、優婆塞、優婆夷よ、道を得るために、一心に勤め精進せよ。なぜなら、諸仏は一心に勤め精進したゆえに、阿耨多羅三藐三菩提を得たからである。ましてや、その他の善き道の法においてはなおさらである。それぞれが、まだ健やかな時に聞き、努力して善を修めよ。どうして道を求めずにいられようか。どうして老いを待つことができようか。何を楽しみとしているのか。
春分からここまで。これは説一切有部の戒本の本文を述べたものです。今ここに在家の二衆を加えます。もし二衆がいなければ、必ずしもこの文を誦する必要はありません。もし沙弥や菩薩などがいるならば、「諸大徳等」と言うべきです。菩薩戒本に準じるならば、「諸大士」と称します。「老死が近い」と言うのは、上では「幾月日が過ぎ、残り幾月日がある」と述べています。まさに日月の移り変わりを自覚させ、老死が迫っていることを知らせるためです。いわゆる「日が往き月が来て、あっという間に白髪となる。無常の老死は、人に期せずして訪れる」というものです。
仏法が滅びようとしているとは、もし戒に依って進んで修めなければ、正法はすぐに滅びてしまうということです。正法が滅んでしまえば、さらにどこに向かって修行すればよいのでしょうか。したがって律には、「羯磨を執り行い戒を説くことがあれば、正法はまだ世間に滅びていない。毘尼蔵は仏法の寿命である。毘尼蔵が住すれば、仏法もまた住する」とあります。すべての善法、勝れた定、妙なる慧は、皆戒によって生じるからです。
阿耨多羅三藐三菩提(下三字の上に、「訖」の字が二つあるべきです)。阿耨は、これ「無上」と訳します。三藐は、これ「正」と訳します。三菩提は、これ「等覚」と訳します。すなわち無上の仏道です。
その他の善道法とは、根・力・覚・道・禅定・三昧、さらには声聞・縁覚・人天の道法を指します。したがって、かの戒本には、「放逸に陥らなければ、必ずや如来応正等覚を証得するであろう。ましてや、その他の覚品の善法においてはなおさらである」とあります。
「各々強健の時に聞く」とは、今各々がこの戒法を聞き誦することを得たならば、この身心の強健な時に乗じて、努力して勤しく衆善を修めるべきだ、ということです。
「如何」は、反問の言葉です。すでに戒法を聞くことを得たならば、どうして進んで道業を修めようと求めないのか。どうして安らかにただ年が残り衰え老いるのを待ち、修進もできず、死の日が迫ってから、さらにどんな楽しみを求めようとするのか。だから「どんな楽しみを求めようとするのか」と言うのです。
今日もまた過ぎ去り、命はそれに従って減っていく。水の少ない池の魚のように、何の楽しみがあろうか。
上二句は直接に示し、下二句は譬えを設けています。この頌は『出曜経』に出ています。時に南海が突然に波を湧き起こし、驚濤が浸灌し、三匹の大きな魚が流されて浅瀬に入りました。互いに言い合いました。「我々はここで難儀している。まだ水が減っていないうちに、逆流に上って大海に帰ろう」。また小舟が邪魔で越えられませんでした。第一の魚は全力で舟を跳び越えて渡りました。次の魚は草に寄りかかって通り過ぎました。第三の魚は気力が尽き、水も次第に干上がり、死が近づいていることに気づかず、まだのんびりと泳いでいました。仏はこの因縁で頌を説き、世の人々を戒められました。この日、つまり今日の限界はすでに定まっており、どうして増えることを望めましょう。今日一日が過ぎれば、それは後の寿命が一日減ることになります。故に「随減」と言うのです。日がこのようであれば、年月もまた知れます。どうして老いるのを待って、天寿を無駄にすることができましょうか。魚は水が少ない上に、風が吹き日が照りつけ、愚かな魚は無知のまま悠々と泳いでいます。老いと死が近づけば、地水火風の四大が侵し迫り、日夜交々に追い詰められます。それは水の少ない魚よりもひどいのです。故に「斯有何楽」と言うのです。もし勇猛心を発して、二辺に執着せず、中道に依り、事理無礙に円修円証し、頓に無生に契い、二死の浅瀬を超えて、本来の真源に帰ることができれば、魚が全力で舟を跳び越えて通り過ぎるようなものです。もし根器が及ばなければ、直ちに教えに依って修行し、真空の理を証し、諸々の階位を経て生死の流れを出るべきです。それは魚が舟の頭や尾の草の辺りに寄りかかって通り過ぎるようなものです。もし懈怠して昇進を求めず、ただ人天のわずかな欲楽に貪り、無常が近づいていることに気づかなければ、まさに水の少ない愚かな魚のようなものです。