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title: "淨土隨學 · 讀圓覺經深信念佛序"
description: "淨土隨學由清代僧人古崑編撰，成書於晚清淨土宗復興時期。該書系統彙編了淨土宗歷代祖師的修行要義與往生案例，強調持名念佛、求生西方極樂世界的實踐法門。內容涵蓋教理闡釋、修行儀軌及信心勸導，體現了淨土他力易行道的特色。作為淨土宗重要典籍，它推動了淨土教義的普及與傳承，在佛教史上具有承先啟後的地位，尤其對民間淨土信仰影響深遠。"
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### 讀圓覺經深信念佛序

> 『円覚経を読み、深く念仏を信ずる序』

大方廣圓覺經者。乃如來入大光明藏。於不二境。現諸淨土而說。三世如來之所守護。十方菩薩之所皈依。十二部經清淨眼目。豈不甚深微妙廣大圓融也哉。圓覺者何。現前一念無明業識之心是也經云。無上法王。有大陀羅尼門。名為圓覺。流出一切。清淨真如菩提涅槃。悟此故也。又云。一切眾生。種種幻化。皆生如來圓覺妙心。迷此故也。故裴公云。離圓覺無六道。捨圓覺無三乘。非圓覺無如來。泯圓覺無真法。三世諸佛之所證。蓋證此也。如來為一大事出現。蓋為此也。三藏十二部。一切修多羅。蓋詮此也。是經名為頓教大乘頓機眾生。從此開悟。亦攝漸修一切羣品。譬如大海。不讓小流。乃至蚊䖟。及阿修羅。飲其水者。皆得充滿。是故古崑。雖生末世。惡業深重。猶可得聞如斯妙經。獲益甚深。佛恩難報。倘不知現前一念無明業識。即是如來圓覺妙心。那能決志。專念彌陀。若不專念彌陀。定隨無明。造生死業輪迴六道。永無出期。經中得益之處頗多。不能全舉。唯將念佛起信之言。略引之耳。經云。一切眾生。若佛住世。若佛滅後。若法末時。有諸眾生。具大乘性。信佛秘密大圓覺心。欲修行者。當立期限。稽首十方諸佛名字。又云。若諸眾生。修三摩鉢提。先當憶想十方如來。夫圓覺經者。本直指人心見性成佛最要之典。尚云欲修行者。先當憶想十方如來。及諸佛名字。故堅密大師云。參禪必不可無淨土。為防退墮甯不寒心。此言禪淨兼修為益最大。永明所謂。有禪有淨土。猶如帶角虎現世為人師。當來作佛祖。又何故偏云。淨土必不可入禪機。意見稍乘。二門俱破。蓋言事有顯理之功。不必外加夾雜。永明所謂。無禪有淨土。萬修萬人去。但得見彌陀。何愁不開悟。可知圓覺妙經。乃禪淨圓融賢愚普攝之大法門也。永明之角虎。亦不外乎此矣。經云。假使有人。純以七寶。積滿三千大千世界。以用布施。不如有人。聞此經名。及一句義。假使有人。教百恒河沙眾生。得阿羅漢果。不如有人。宣說此經。分則半偈。圭峯云。實由法無不持。機無不被者也。戀西學人古崑。敬然臂香十二炷。供養圓覺妙經。唯願承此功德。早見彌陀世尊。誓度法界眾生。同歸大圓覺海。

> 大方広円覚経とは、如来が大光明蔵に入り、不二の境地において、諸々の浄土を現して説かれたものである。三世の如来が守護し、十方の菩薩が帰依するところ、十二部経の清らかな眼目である。なんと甚深微妙で、広大円融であることよ。 円覚とは何か。まさに現在の一念の無明業識の心である。経にいう、「無上の法王に、大陀羅尼門あり。名づけて円覚となす。一切の清浄なる真如・菩提・涅槃を流出す」と。これはこれを悟るからである。またいう、「一切の衆生の種々の幻化は、みな如来の円覚妙心より生ず」と。これはこれに迷うからである。ゆえに裴公はいう、「円覚を離れて六道なし。円覚を捨てて三乗なし。円覚にあらずんば如来なし。円覚を泯せずんば真法なし」と。三世の諸仏の証するところは、すなわちこれを証するのである。如来が一大事の因縁をもって出現したもうは、すなわちこのためである。三蔵十二部の一切の修多羅は、すなわちこれを説き明かすものである。 この経は頓教大乗と名づけられ、頓機の衆生はここより開悟する。また漸修のすべての群類をも摂する。たとえば大海が小流をも拒まないように、蚊や虻、さらには阿修羅にいたるまで、その水を飲むものはみな満たされるのである。 ゆえに古崑は、末世に生まれ、悪業深重でありながら、なおこのような妙経を聞くことを得て、利益を受けること甚だ深い。仏恩は報じがたい。もし現在一念の無明業識が、すなわち如来の円覚妙心であることを知らなければ、どうして決心して専ら弥陀を念ずることができようか。もし専ら弥陀を念じなければ、必ず無明に随って生死の業を造り、六道に輪廻して、永遠に出離の期がなくなるであろう。 経中の利益を得るところは頗る多いが、すべてを挙げることはできない。ただ念仏の信心を起こす言葉のみを、略して引用するのみである。経にいう、「一切の衆生、あるいは仏の住世においていい、あるいは仏の滅後においていい、あるいは法末の時において、諸の衆生ありて大乗の性を具え、仏の秘密の大円覚心を信じ、修行せんと欲する者は、まさに期限を立て、十方の諸仏の名字を稽首すべし」と。またいう、「若し諸の衆生、三摩鉢提を修せんと欲せば、まず当に十方の如来を憶想すべし」と。 そもそも円覚経は、本来、直指人心・見性成仏の最も重要な経典である。しかもなお「修行せんと欲する者は、まず当に十方の如来および諸仏の名字を憶想すべし」というのである。ゆえに堅密大師はいう、「参禅には必ず浄土を欠くべからず。退堕を防がんとすれば、なんぞ寒心せざるを得ようか」と。これは禅浄兼修の利益最も大なるをいうのである。永明がいうところの「禅あり浄土あり、なお角を帯びた虎の如し。現世には人の師となり、当来には仏祖を作す」とは、このことである。 また、なぜ偏に「浄土は必ずしも禅機を入れるべからず」というのか。意見が少しでも相違すれば、二つの法門ともに破られるのである。これは事には理を顕す功があり、必ずしも外に夾雑を加える必要がないことをいうのである。永明がいう「禅なく浄土あれば、万人の修して万人の往く。ただ弥陀に逢うことを得れば、なんぞ開悟を憂えんや」とは、このことである。 知るべし、円覚妙経は、禅浄円融、賢愚普く摂する大法門であることを。永明の角虎も、またこれ以外にはないのである。 経にいう、「仮使人ありて、純ら七宝をもって、三千大千世界に積満して、もって布施せんに、人ありてこの経の名および一句の義を聞く者に如かず。仮使人ありて、百恒河沙の衆生を教えて、阿羅漢果を得しめんに、人ありてこの経を宣説して、半偈を分かつのに如かず」と。圭峰はいう、「実に法の持たざるなく、機の被らざるなしによる」と。 恋西学人の古崑は、敬って臂の香十二炷を焼き、円覚妙経に供養す。ただ願わくはこの功徳を承けて、早く弥陀世尊にまみえんことを。誓って法界の衆生を度し、ともに大円覚海に帰せんことを。