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  1. 洛陽伽藍記校注 (洛陽伽藍記校注)
  2. 第一 (第一)
  3. 序
  4. 二 北魏建都平城時期的仏教 (二 北魏建都平城時期的佛教)
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洛陽伽藍記校注 (洛陽伽藍記校注)


二 北魏建都平城時期的佛教

二 北魏平城遷都期の仏教

北魏王朝遷都洛陽以前對於佛教是怎樣的情形呢?

北魏が都を洛陽に遷す以前、仏教はどのような状況だったのでしょうか。

北魏崛起於極北鮮卑游牧民族,到太祖道武帝拓跋珪天興元年,(東晉安帝司馬德隆安二年,公元三九八年)定國號為魏,遷都平城,開始營宮室,建宗廟,立社稷,纔算具有國家規模,初步完成了向漢族社會轉化的過程,同時也開始了修建佛寺。釋老志載著拓跋珪的詔書說:
夫佛法之興,其來遠矣。濟益之功,冥及存歿。神蹤遺軌,信可依憑。其敕有司於京城建飾容範,修整官舍,令信向之徒,有所居止。

仏法の興りは、その来たる所遠く、人々を救い助ける功徳は、生きている者にも亡き者にも深く及びます。神々の足跡や先人の教えは、確かに拠り所とすべきものです。そこで、役人に命じて都に仏像を整え、寺院を修繕し、信仰を抱く人々が安心して集える場所を設けさせます。

廣弘明集還載拓跋珪的與朗法師書,遣使者送太山朗和尚「素二十端,白氊五十領,銀鉢二枚」。表示敬意。可以想見他對佛教的態度了。
經過太宗明元帝拓跋嗣到世祖太武帝拓跋燾太平真君七年,(宋文帝劉義隆元嘉二十三年,公元四四六年)三月,下滅佛法詔說:

北魏の第二代皇帝・太宗明元帝(拓跋嗣)から、第三代皇帝・世祖太武帝(拓跋燾)の時代の太平真君七年(宋の文帝・劉義隆の元嘉二十三年、西暦四四六年)三月、仏法を滅ぼす詔が下り、次のように述べられた。

昔後漢荒君,信惑邪偽,妄假睡夢,事胡妖鬼,以亂天常,自古九州之中無此也。夸誕大言,不本人情。叔季之世,闇君亂主,莫不眩焉。由是政教不行,禮義大壞,鬼道熾盛,視王者之法蔑如也。自此已來,代經亂禍,天罰亟行,生民死盡。五服之內,鞠為丘墟。千里蕭條,不見人迹,皆由於此。朕承天緒,屬當窮運之敝,欲除偽定真,復羲農之治。其一切盪除胡神,滅其蹤跡,庶無謝于風氏矣。自今以後,敢有事胡神,及造形象泥人銅人者,門誅。雖言胡神,問今胡人,共云無有。皆是前世漢人無賴子弟劉元真、呂伯彊之徒,乞胡之誕言,用老莊之虛假,附而益之,皆非真實。至使王法廢而不行,蓋大姦之魁也。有非常之人,然後能行非常之事,非朕孰能去此歷代之偽物?有司宣告征鎮諸軍刺史:諸有佛圖形像及胡經,盡皆擊破焚燒;沙門無少長悉坑之。

昔、後漢の暗君は、邪な偽りの教えに惑わされ、夢のお告げをでたらめに信じ、胡(外国)の妖しい鬼を崇拝し、天道の秩序を乱しました。古来、九州(中国)の中にこのようなことはありませんでした。彼らの言葉は誇大ででたらめ、人の情に基づいていません。末世の暗君や乱れた主君は、皆これに惑わされました。そのために政治や教化は行われず、礼儀や義は大いに損なわれ、異教の道が盛んになり、王者の法を軽んじるようになりました。それ以来、代々戦乱と災祸を経て、天罰がたびたび下り、民は死に絶えました。五服の地域はすべて荒野と化し、千里にわたり荒れ果て、人の姿も見えなくなりました。全てはこれが原因です。

朕は天の継承者として、まさに窮まり衰えた運命の時を迎えています。偽りを除き、真実を定め、羲農(伏羲・神農)のような治世を復活させたいと願います。一切の胡神を打ち払い、その痕跡を絶やし、風氏(伏羲氏)に恥じないようにせねばなりません。

今後、敢えて胡神を祀り、その像や泥人形・銅人形を作る者があれば、その家は一族ごと誅殺します。胡神について言われていますが、今の胡人に問えば、皆そんなものはないと言います。全ては前世の漢人の無頼の若者、劉元真や呂伯彊などの輩が、胡人のでたらめな言葉を乞い、老荘の虚偽をもちいて、それに付け加えて飾り立てたもので、真実ではありません。それが王法を廃し行われなくするに至ったのは、まさに大悪の元凶です。並みならぬ者だけが、並みならぬことを行えるのです。朕でなければ、誰が歴代のこの偽のものどもを除くことができるでしょうか?

役人は諸軍や刺史に告げ知らせよ:すべての仏教の塔や像、そして胡経は、ことごとく打ち壊し焼き捨てよ。僧侶は年長者も幼き者も問わず、すべて穴に埋めよ。

這是在太平真君五年正月下了禁容匿沙門師巫詔之後,又下的一道嚴詔。「詔諸州坑沙門,毀諸佛像。」這是中國宗教史上的一件大事。這和後來北周武帝、唐武宗的滅佛法相類似,佛家稱為「三武之厄。」先是拓跋燾太延四年(公元四三八年)三月,詔「罷沙門年五十已下」。通鑑採用了這條史實,胡三省注:「以其彊壯,罷使為民,以從征役。」明年改元為太平真君。又二年而「親至道壇,受符籙。備法駕,旗幟盡青」。這當是由於他篤信道教天師寇謙之的緣故。釋老志說:
世祖即位,富於春秋,既而銳志武功,每以平定禍亂為先。雖歸宗佛法敬重沙門,而未存覽經教,深求緣報之意。及得寇謙之道,帝以清淨無為,有仙化之證,遂信行其術。時司徒崔浩博學多聞,帝每訪以大事。浩奉謙之道,尤不信佛,與帝言,數加非毀。常謂虛誕為世費害,帝以其辯博,頗信之。會蓋吳反杏城,關中搔動,帝乃西伐至於長安。先是長安沙門種麥寺內,御騶牧馬於麥中。帝入觀馬,沙門飲從官酒。從官入其便室,見藏有弓矢矛楯,出以奏聞。帝怒曰:「此非沙門所用,當與蓋吳通謀,規害人耳」。命有司案誅一寺。閱其財產,大得釀酒具,及州郡牧守富人所寄藏物,蓋以萬計。又為屈(窟)室,與貴室女私行淫亂。帝既忿沙門非法,浩時從行,因進其說。詔誅長安沙門,焚破佛像。勑留臺下四方,令一依長安行事。
這是記拓跋燾下滅佛法詔之前的事,促成了他下詔的動機和決心。由此可見這一歷史事件的複雜,不僅是由於道教佛教間的衝突。同時也由於當時佞佛招致了政治經濟和軍事上的許多不利。比如說,僧徒不事生產,不從「征役」,「虛誕為世費害」。佛寺暗藏兵器,有陰謀反抗嫌疑。並有收寄贓賄,敗壞風化,以及「妄生妖孽」種種「非法」行為,「至使王法廢而不行」。拓跋燾毀滅佛法,想要「除偽定真,復羲農之治」,儼然「具有張中華王道正統之義」。我們懂得了當時在宗教上或說在佛教上這件大事的現實根據、歷史意義,纔會了解到這也有了可能影響到楊衒之寫作洛陽伽藍記的動機和態度。
拓跋燾死,其孫濬立,是為高宗文成帝,興安元年,(宋文帝劉義隆元嘉二十九年,公元四五二年)即下修復佛法詔說:
夫為帝王者,必祇奉明靈,顯彰仁道。其能惠著生民,濟益羣品者,雖在古昔,猶序其風烈。是以春秋嘉崇明之禮,祭典載功施之族。況釋迦如來功濟大千,惠流塵境。等生死者歎其達觀,覽文義者貴其妙明。助王政之禁律,益仁智之善性,排斥羣邪,開演正覺。故前代已來,莫不崇尚,亦我國家常所尊事也。世祖太武皇帝開廣邊荒,德澤遐及。沙門道士,善行純誠。惠始之倫,無遠不至。風義相感,往往如林。夫山海之深,恠物多有。姦淫之徒,得容假託。講寺之中,致有凶黨。是以先朝因其瑕釁,戮其有罪。有司失旨,一切禁斷。景穆皇帝,(拓跋晃,文成帝父)每為慨然,值軍國多事,未遑修復。朕承洪緒,君臨萬邦,思述先志,以隆斯道。今制諸州郡縣,於眾居之所,各聽建佛圖一區,任其財用,不制會限。其好樂道法,欲為沙門,不問長幼,出於良家,性行素篤,無諸嫌穢,鄉里所明者,聽其出家。率大州五十,小州四十人,其郡遙遠臺者十人,各當局分,皆足以化惡就善,播揚道教也。
拓跋燾毀滅佛法,只看到了佛教「至使王法廢而不行」,對國家有害的一面。拓跋濬修復佛教,只看到了佛教「助王政之禁律,益仁智之善性」,於人民起了安慰作用,對統治有利的一面。和平初(公元四六〇年),沙門統「曇曜,白帝於京城西武州塞,鑿山石壁,開窟五所,鐫建佛像各一,高者七十尺,次六十尺,彫飾奇偉,冠於一世。」這就是世界聞名的大同雲崗石窟造像的開始了。
拓跋濬既於「興光元年(公元四五四年)秋,敕有司於五緞(級)大寺內為太祖已下五帝鑄釋迦立像五,各長一丈六尺,都用赤金二萬五千斤」。其子弘,即獻文帝,又於天安元年,(宋明帝劉彧泰始二年,公元四六六年)「起永寧寺,構七級佛圖,高三百餘尺,基架博敞,為天下第一。又於天宮寺造釋迦立像,高四十三尺,用赤金十萬斤,黃金六百斤。皇興中,又構三級石佛圖,榱棟楣楹,上下重結,大小皆石,高十丈,鎮固巧密,為京華壯觀。」這可以想見當初北魏都平城時,建築寺塔,鑄造佛像,規模已經很大了,耗費已經很多了。
拓跋弘死,其子宏立,是為高祖孝文帝。太和元年,(宋順帝劉準昇明元年,公元四七七年)「京城內寺,新舊且百所,僧尼二千餘人。四方諸寺,六千四百七十八,僧尼七萬七千二百五十八人。」這可以想見北魏王朝建都平城百年間(公元三九八~四九五)佛教驟興的盛況。

一 洛陽伽藍記與北魏佛教
三 北魏遷都洛陽時期的佛教

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