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  1. 洛陽伽藍記校釈 (洛陽伽藍記校釋)
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洛陽伽藍記校釈 (洛陽伽藍記校釋)


序

序

洛陽伽藍記為北魏時流傳至今的一部名著,雖然以記洛陽的佛寺為題,可是實際上所著重記述的是當時的政治、人物、風俗、地理、以及傳聞的故事等等。因此這部書不僅使我們了解到北魏洛陽都城的建制、佛寺的建築和歷史的古跡,同時使我們知道了許多的歷史事實。如所述宣武帝以後朝廷的變亂,諸王的廢立,權臣的專橫,閹宦的恣肆,以及文人學者的事蹟,四方人物的往來,佛教在民間的影響,外國沙門的活動等,其中有些可以與魏書、北史相證,有些可以補正史之闕略。尤其是卷五所載宋雲、惠生使西域一節,與晉法顯行傳及唐玄奘大唐西域記同為研究古代中亞地理歷史及中外文化交流史的極寶貴的史料。所以這部書的價值很高。作者楊衒之不但熟悉當時的掌故,而且長於著述,敘事簡括,文筆雋秀,足與酈道元水經注媲美。既是地理書,又是一部史書,並且是一部極好的文學著作。

『洛陽伽藍記』は、北魏時代から現代に伝わる名著である。洛陽の仏寺を題材としているが、実際には当時の政治、人物、風俗、地理、そして伝承された物語などを重点的に記している。したがって、この書物は北魏時代の洛陽の都の構造、仏寺の建築様式や歴史的遺跡を理解させてくれるだけでなく、多くの歴史的事実も教えてくれる。例えば、宣武帝以降の朝廷の混乱、諸王の廃立、権力を持つ臣下の横暴、宦官の専横、そして文人学者の事績、各地から訪れる人々の往来、民間における仏教の影響、外国僧侶の活動などが記されており、その中には『魏書』や『北史』と照らし合わせて確認できるものもあれば、正史の不足を補うものもある。特に巻五に収録されている宋雲と恵生の西域派遣に関する記述は、晋代の法顕の『仏国記』や唐代の玄奘の『大唐西域記』と並び、古代中央アジアの地理・歴史や中外文化交流史を研究する上で極めて貴重な史料となっている。このため、この書物の価値は非常に高い。作者の楊衒之は当時の故事に詳しいだけでなく、著述にも長けており、叙述は簡潔で、文章は優れて美しく、酈道元の『水経注』と肩を並べるものがある。地理書であると同時に歴史書でもあり、さらに優れた文学作品でもある。

楊衒之,史書無傳,其事蹟略見於唐釋道宣廣弘明集卷六王臣滯惑篇。道宣稱衒之為北平人,元魏末為秘書監,「見寺宇壯麗,損費金碧,王公相競侵漁百姓,乃撰洛陽伽藍記,言不恤眾庶也」。這幾句話已經把作者著書的要旨指出來了。例如書中譏刺胡太后立永寧寺之營建過度;諷刺王公窮奢極欲,貪斂無已;官吏曲理枉法,劫奪民財,以造僧寺;以及揭舉沙門之講經造像,欲得他人之財物等;都充分地表現出作者對當時統治者與僧徒之所為深切不滿。北魏是佛法極盛行的時期,而僧尼佛寺之猥濫亦為前所未有。魏書釋老志說:在正光以後,僧尼有二百萬之多,佛寺有三萬餘所。其蕪雜冗濫可知。單以洛陽城內外而論,就有寺一千三百六十七所,侵佔民居達三分之一以上,而營建之時所耗的人力物力更是難以計算了。北魏政治的腐敗已達到極點。到孝靜帝為高歡所迫遷都於鄴以後,洛陽這些寺宇大半為兵火所毀。衒之於武定五年(公元五四七)重經洛陽時,不禁有黍離麥秀之感,因此藉記伽藍以陳述史實。其中除了一部分近似小說以寓其諷刺者外,大部分都是真實的記錄。所以前代的歷史家(如司馬光、胡三省)對這部書都很重視。

楊衒之は、史書には伝記がなく、その事績は唐の釈道宣の『広弘明集』巻六「王臣滞惑篇」にわずかに見える。道宣は、衒之を北平の人とし、元魏の末年に秘書監となり、「寺宇の壮麗を見て、金碧を損費し、王公が相競って百姓を侵漁するのを、乃ち『洛陽伽藍記』を撰し、衆庶を恤れみざるを言う」と記している。この数句はすでに作者の著書の要旨を指し示している。例えば、書中では胡太后が永寧寺を建立した際の過度な営建を風刺し、王公の極端な贅沢と飽くなき貪りを批判し、官吏が理を曲げ法を枉げて民財を奪い僧寺を造ることを暴き、また沙門が経を講じ像を造って他人の財物を得ようとすることを明らかにするなど、いずれも作者が当時の統治者と僧侶の行いに深く不満を抱いていたことを十分に表している。北魏は仏法が非常に盛んな時期であったが、僧尼と仏寺の乱立もまた前代未聞であった。『魏書』釈老志によれば、正光以後、僧尼の数は二百万人に達し、仏寺は三万余りあったという。その雑然とした冗濫ぶりがうかがえる。洛陽城内だけで見ても、寺は千三百六十七所あり、民家の三分の一以上を占め、その営建に費やされた人力と物力は計り知れないほどであった。北魏の政治の腐敗は極点に達していた。孝静帝が高歓に迫られて鄴に遷都した後、洛陽のこれらの寺宇の大半は兵火によって焼失した。衒之は武定五年(西暦547年)に再び洛陽を訪れた時、黍離麦秀の感を禁じ得ず、そこで伽藍を記すことを借りて史実を述べたのである。その中には、一部の小説に近い風刺的な部分もあるが、大部分は真実の記録である。そのため、前代の歴史家(司馬光、胡三省など)はこの書を非常に重視していた。

這部書傳流至今已經有一千四百多年了,但始終缺乏一個善本。現在流行的幾種刻本都有錯字脫文,必須參校各本才能讀得下來。根據劉知幾史通所說,我們知道原書本有正文、子注之分,現在的刻本都連寫在一起,不貫通全書文例,很不容易分辨。前人在校勘和分析正文與子注方面已經做了不少的工作,可是除利用法苑珠林、太平御覽、太平廣記幾種資料以外,還有許多極重要的材料未能利用。如歷代三寶記、續高僧傳、大唐內典錄、酉陽雜爼、紺珠集、類說、元河南志以及永樂大典等皆是。在分析正文子注一方面,前人又把正文分得過於簡略,與唐韋述兩京新記相似,恐怕也與原書體例不盡相合。因此寫成這一本校釋,除校勘和分析正文與子注的工作之外,又做了必要的注釋,這樣讀起來就方便得多了。
此書草創於一九四四年五月,最初只着重於校勘,後來因為卷五宋雲行記的材料不易讀得懂,才着手作注。授課之暇,時作時輟,直到現在方寫成全書,前前後後,將近十二年了。十二年不為不長,然成就之微薄如此,令人慚愧。在進行校勘注釋當中,還得到許多位先生的幫助,永樂大典的資料就是趙萬里先生告訴我的。稿中涉及梵文處又曾經得到季羨林先生和印度教授師覺月先生(Prof. P. C. Bagchi)的指教,有些一時找不到的參考書和難得的照片又蒙朋友們惠借。使作者於艱辛的歲月中所草創的一本書,得以最後寫成,這是作者所深深感謝的。這本書原稿已經增訂刪改過三次,其中遺闕不備的地方還很多,希望得到讀者的指正。

本書は一九四四年五月に草稿が作られ、最初は校勘に重点を置いていましたが、後に巻五の宋雲行記の資料が理解しにくいため、注釈を加えることに着手しました。授業の合間を縫って、時には進み、時には止まりながら、ようやく現在に至って全書を書き上げました。前後合わせて、ほぼ十二年が経過しています。十二年は短くはありませんが、このようなわずかな成果しか得られず、心苦しく思います。校勘と注釈の作業中には、多くの先生方のご助力をいただきました。永楽大典の資料は趙萬里先生から教えていただきました。原稿中の梵文に関わる部分は、季羨林先生とインドの師覚月先生(Prof. P. C. Bagchi)のご指導を賜りました。また、すぐには見つからない参考書や貴重な写真は、友人たちからお借りすることができました。困難な時代の中で草稿を始めた一冊の本が、最終的に完成に至ったのは、これらの方々のおかげであり、心から感謝しております。この本の原稿はすでに三度の増訂と削除・修正を経ていますが、なお不備や不足する点が多く残っています。読者の皆様からのご指摘をお待ちしております。

著 者(一九五六年一月)

敘例

CBETA コード: B0077

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