金剛般若波羅蜜經
金剛般若波羅蜜経
姚秦三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯
姚秦三蔵法師鳩摩羅什奉 詔訳
梁昭明太子加其分目
梁の昭明太子が章立てを加える
汝水香山無聞思聦 註解
水香山無聞思聦註解
金剛。
金剛。
(釋曰金剛寶也西天中印土靈鷲山如來寶座金剛所成深八萬四千由旬至金輪水際安立純以金剛也執金剛神寶杵尖三楞三寸之長是金剛餘皆不是堅固不壞能摧銅䥫玉石萬物萬物不可當其鋒也香水海中無邊𠀍界皆是金剛保持擎載國土如此之功力喻眾生本性修行成道見諦解脫超越色聲香味觸法明暗色空之外入息不拘隂界出息不攝萬緣心非境惑一真獨妙湛然常住號曰金剛上士為人天眼目入紅塵裏轉大法輪善能分別諸法相第一義諦而不動抜眾生之苦也堅固勇猛精進行道僧中那吒法門梁棟尓)。
釈しますと、これは金剛宝です。西天の中インドにある霊鷲山の如来の宝座は金剛でできており、深さ八万四千由旬に及び、金輪の水際までしっかりと立っています。すべて純粋な金剛です。金剛杵を持つ神の宝杵の先端は三つの稜があり、三寸の長さ、これが金剛です。それ以外はすべてそうではありません。堅固で壊れず、銅や鉄、玉石、万物を打ち砕くことができ、万物もその鋭さには敵いません。香水の海の中の無辺の世界はすべて金剛であり、国土を支え、持ち上げ、載せています。このような功徳を、衆生の本性が修行して道を成し、真理を見極め、解脱し、色・声・香・味・触・法、明暗、色空を超越し、入息は陰界に拘束されず、出息は万縁を摂せず、心は境に惑わされず、一真独妙で澄み渡り常住することを喩え、これを金剛上士と号します。人天の眼目となり、紅塵の中に入って大法輪を転じ、善く諸法の相を分別し、第一義諦に動じることなく、衆生の苦を抜き去ります。堅固で勇猛に精進し、道を行じ、僧中の那吒法門の梁棟なのです。
般若。
般若。
(釋曰梵語西竺鄉談此云智慧也𠀍間之火能燒萬有性空智火能燒自己無始劫來無明貪嗔癡黑暗凢愚習氣之心此煩惱若不歸依三寶發菩提心從無始來直至今日欲去一毫皆不可得惟除省悟發意勇猛修行日日礼拜佛前懺悔求生淨土孳孳在道念念息見業漸漸消福漸漸生道念純熟自然心慈口善貪嗔癡只見微薄戒定慧自然淳熟煉盡無餘為之智也慧性者了別諸法揀擇善惡能分妍醜捨惡從善行大仁慈𠀍間諸事善巧方便諸佛密意深得玄旨出為將入為相保護法忍真如覺地曰慧也智慧二法審詳觀察號為般若般若觀照三昧力故直至成佛也)。
釈します。サンスクリット語(西竺の言葉)で、これは智慧と言います。世間の火が万物を焼き尽くすように、性空の智慧の火は、自分自身の無始劫以来の無明・貪・瞋・癡という暗黒の凡愚の習気の心を焼き尽くします。この煩悩は、もし三宝に帰依し菩提心を発さず、無始以来今日に至るまで、わずか一毫でも取り除こうとしても、それは不可能です。ただ、悟りを省みて発意し、勇猛に修行し、日々仏前に礼拝し、懺悔して浄土を求め、道に精進し、念念に妄見を静め、業が次第に消え、福が次第に生じ、道念が純熟すれば、自然と心は慈しみ口は善くなり、貪・瞋・癡は微薄になるのみで、戒・定・慧は自然と淳熟し、練り尽くされて余すところがなくなります。これが智です。
慧性とは、諸法を了別し、善悪を選り分け、美醜を識別し、悪を捨て善に従い、大いなる仁慈を行い、世間の諸事に善巧方便を働かせ、諸仏の密意を深く得て玄旨に至り、外に出れば将となり、内にあれば相となって、法を護り忍び、真如の覚地に至ること。これを慧と言います。
智慧の二法を審らかに詳しく観察することを般若と号します。般若の観照と三昧の力によって、ついに成仏に至るのです。
波羅蜜。
波羅蜜。
(釋曰此是梵語此云究竟到彼岸成就本智塵勞永盡煩惱皆忘脫凢愚心㓕無明火入真如界同法性身心精通泯當處湛然清淨一色純清絕點和合歸源量等虛空以空合空猶如好蜜內外皆甜同一法味見性明曰更無一法到無為地執心虛明純一智慧為之彼岸此岸者具貪嗔癡未曾見諦不達聖義為之此岸)。
釈します。これは梵語で、ここでは「究竟到彼岸成就本智」と訳します。塵労は永遠に尽き、煩悩はすべて忘れ去られ、凡夫の愚かな心は滅び、無明の炎は消え、真如の世界に入り、法性と一体となります。身心は精妙に通じ、当処は湛然として清浄、一色純清、一点の濁りもなく、和合して本源に帰します。その量は虚空に等しく、空をもって空と合するがごとく、ちょうど良質の蜜が内外ともに甘いように、同じ法味を味わいます。本性を見て明らかになり、さらに一法もなく、無為の境地に至ります。執着の心は虚明となり、純一の智慧が彼岸となります。この岸とは、貪・瞋・癡を具え、未だ諦を見ず、聖なる義理に達しない状態を指します。
經。
経典。
(釋曰徑也途路之義引導之詞如𠀍之人欲徃他州先必問路欲行千里一步為初審詳遠近危嶮之事得到彼處佛法亦尓念三塗苦出𨵻羅界超凢入聖欲修行者先須閱教靈山說法四十九載三百餘會所集經文皆悉指示菩提之路雖言不越理因言顯道三𠀍諸佛尽假聞思修而入從戒定慧道攝心以六波羅蜜起行知此法義叅禪問道具擇法眼不𬒳外道魔師攝持落於魔界所說言句心有忖量合於佛義方可信學究竟生死辦自肯心立堅固志向空劫已前承當佛未出𠀍時會取如是叅究須是眼不觀色何為不觀色除染愛心觀一切法不作二相反觀觀的是誰之觀直下會得且非他物自己覺性竪窮三際橫徧十方元是一精明分為六和合在眼曰見在耳曰聞在鼻曰嗅在舌曰味在身曰觸在意曰思一處悟入五處自休如來三大劫方得成就離文字相㓕我我所了知此經者開口不在舌頭上)。
釈すれども、それは道筋なり。道の意味であり、導く言葉である。たとえば、人が他州へ行こうとすれば、まず必ず道を尋ね、千里を行こうとすれば、一歩が始まりである。遠近や危険なことを詳しく調べ、その地に到達する。仏法もまた同じである。三途の苦しみを思い、輪廻の世界を出て、凡夫を超え聖に入らんと修行しようとする者は、まず教えを学ばねばならない。霊山での説法は四十九年、三百余りの会座で集められた経文は、すべて菩提への道を示している。言葉は理を越えず、言葉によって道が顕れる。三世の諸仏も皆、聞き、考え、修することによって入り、戒・定・慧の道によって心を収め、六波羅蜜を行じて起こす。この法の意味を知り、禅に参じ道を問い、法を選ぶ眼を備え、外道や魔の師に捉えられず、魔界に落ちることなく、説かれる言葉は心に量りをはかり、仏の義に合うものであって初めて信じて学ぶことができる。生死を究め、自らの肯く心を弁じ、堅固な志を立て、空劫以前に承当し、仏が世に出ずる前に会得する。このように参究するには、眼で色を見ず、なぜ色を見ないのか、染愛の心を除くためである。一切の法を見て二相とせず、反って観るのは誰の観か。直下に会得すれば、それは他物ではなく、自己の覚性である。縦に三際を窮め、横に十方を遍くする。元は一精明であり、六和合に分かれる。眼にあっては見、耳にあっては聞き、鼻にあっては嗅ぎ、舌にあっては味わい、身にあっては触れ、意にあっては思う。一処に悟入すれば、五処自ずから休む。如来は三大劫を経て成就し、文字の相を離れ、我と我所を滅する。この経を知る者は、口を開いても舌の上に在らず。