---
title: "大日經劫心義章 · 兩種外道義第八"
description: "大日經劫心義章是日本江戶時代真言宗學僧釋運敞對密教根本經典大日經的注釋之作。該書撰寫於日本佛教學術繁榮期旨在闡發大日經深奧的密義。釋運敞聚焦於經中時劫與心性哲理系統解說密教教義與實修體系深入探討眾生本具的菩提心與如來智慧。此作被視為日本真言宗重要文獻對理解密教思想東傳與本土化演進具有關鍵學術價值為研究大日經及日本密教傳承提供了權威注疏。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmglztkxg07u4l204fj41krxu"
---

### 兩種外道義第八

> 二種の外道の教義第八

疏云經云一切外道所不能知者此宗中說有兩種外道外外道猶如覩見清潭逆生怖畏不敢習近內外道雖能游泳其中適熱除垢得清凉樂然不覺是中有無量󳢁王一則不入而不識二則入而不識故云一切外道不能知也此中外外道凡夫外道本源有三一迦毗羅此翻為黃頭二漚樓僧伽此云鵂𪅳三勒沙婆此云苦行此等流類九十六種及一切外道也內外道謂聲聞緣覺故疏上釋經心續生之相諸佛大祕密外道不能識文云凡夫二乘兩種外道非但不識無生滅心亦復不識生滅心故云諸佛大祕密外道不能識此中游泳其中等者謂二乘之人入佛法中滅煩惱熱而得涅槃清凉之樂也無量󳢁王者喻菩薩成佛所得所謂具足大慈大悲十力四無畏十八不共法四無礙智一切功德也二乘不知之故稱內外道然先達或立內外道中兼有大乘菩薩義成其義謂無量󳢁王者無盡莊嚴祕藏表德也顯教佛菩薩不知之故此昧文鈎鏁今此釋湛寂湛寂寂然三乘所證何此中論密乘菩薩所證功德乎上文既釋諸佛大祕密外道不能識文尚云凡夫二乘兩種外道況今三乘相望明二乘不知菩薩所得功德何以佛菩薩屬不知外道哉是為雜問答𡚶說所欺誑作此說也雜問答書流衍于上世誤稱大師撰先達不察尊敬大師故力贊翼此義熟思問答主愚癡褊狹昏闇於大道疎拙於文義故至罵詈顯教大乘喚為外道厥益安在乎既知問答非大師製高明之士幸莫偏黨矣然不移之輩偏執依憑疏十二文云說法無等比此無比中諸外道所說皆是有上之法故云有比凡一切不了內證祕密法者皆是外道也由佛說此無可等比況喻法故說法亦無比也固執之徒迷謬此文謂顯乘菩薩乃至顯極究竟如來不了內證祕密法者故可屬外道不大過乎二乘之人雖行佛法而實不知是方便門不具菩提心不知緣起理是乃所謂不了內證祕密法者偏邪見心行理外道故名為外道也諸佛道同雖云顯密三身有殊只是隨機與自證別也豈可得言不了內證祕密法者哉下第三劫經歎初地德云出過一切聲聞辟支佛地而不云出過一切菩薩佛地彼僻執之徒見之心痒否如大師意者傳法菩薩尚不非之故一處云傳法聖者非不知祕而傳顯知而相讓良有以也況復如來乎故又云他受用身祕內證而不說其境也可得言不了內證哉又云應化如來祕而不談傳法菩薩置而不論不知而祕耶知而不論耶畱心思之高判昭然指僻執者之膏肓者哉又疏十九云此法乃是一切如來祕密中之祕密於諸祕藏最在其上共所守護不𡚶與人第一希有難得之法也今此諸佛之祕一切外道所不能知然外道有二種一者世間種種外道二謂佛法內有諸外道也以雖入佛法中而未能知如來祕密猶是邪見心行理外之道故亦名外道也此法乃二種外道所不能知此佛法中外道即二乘中人也若如雜問答者於祕密中之祕密出不知人合舉顯極佛而云二乘中人與上疏云凡夫二乘兩種外道首尾符合無復可疑焉而贔屓於問答說者尚彊勵曰疏主學台教故往往有違大師高判破曰雜問答一據疏釋叨立大乘屬外道𡚶見奚為粗卒乎。

> 疏には、経に「一切の外道、知ること能わず」とあることについて、この宗では二種類の外道があると説いている。外外道とは、ちょうど澄み切った深淵を見て恐怖を生じ、近づこうとしないような者である。内外道とは、その中で泳ぐことができ、煩悩の熱を除き、清涼の楽を得るが、しかしそこに無量の宝王があることに気づかない者をいう。一は入らずして知らず、二は入りながら知らない。だから「一切の外道、知ること能わず」というのである。ここでいう外外道とは、凡夫の外道であり、その本源は三つある。一つは迦毘羅、これは黄頭と訳す。二つは漚樓僧伽、これは鵂𪅳という。三つは勒沙婆、これは苦行という。これらの流類は九十六種および一切の外道である。内外道とは声聞・縁覚をいう。だから疏の上で、経の「心が相続して生ずる相、諸仏の大秘密、外道は識ること能わず」という文を解釈して、凡夫・二乗の二種の外道は、無生滅の心を識らないだけでなく、生滅の心もまた識らない、とある。だから「諸仏の大秘密、外道は識ること能わず」というのである。ここで「その中で泳ぐ」などとは、二乗の人が仏法の中に入り、煩悩の熱を滅して涅槃の清涼の楽を得ることをいう。無量の宝王とは、菩薩が仏となって得るもの、すなわち大慈大悲・十力・四無畏・十八不共法・四無碍智など一切の功徳を具足することを譬えている。二乗はこれを知らないので、内外道と称するのである。 しかし先達の中には、内外道の中に大乗の菩薩をも兼ねるとして、その義を成す者がある。すなわち、無量の宝王とは無尽荘厳の秘蔵を表す顕徳であり、顕教の仏菩薩はこれを知らない、というのである。この文の連鎖を味わうと、今この釈では「湛寂湛寂寂然」は三乗の証する所であるのに、どうしてここで密乗の菩薩の証する功徳を論じるのか。上文ではすでに「諸仏の大秘密、外道は識ること能わず」という文を解釈して、なお「凡夫・二乗の二種の外道」と言っている。まして今、三乗を相対して明かすのに、二乗が菩薩の得る功徳を知らないことを論じるのであって、どうして仏菩薩を不知の外道に属させることができようか。これは雑問答の妄説に欺かれてこのような説をなすのである。雑問答の書は上世に流布し、誤って大師の撰述と称された。先達はよく考察せず、大師を尊敬するあまり、この義を力強く賛助した。よく考えてみよ。問答の主は愚痴で偏狭、大道に暗く、文義に疎拙であるから、ついには顕教の大乗を罵詈して外道と呼ぶに至った。その益はどこにあるのか。すでに問答が大師の制作でないことを知ったなら、高明の士は幸いに偏った党派心をもつことなかれ。 しかし改めない輩は偏執して依憑し、疏の十二に「説法に比ぶるものなし、この無比の中に諸の外道の説く所は皆な有上の法なるが故に比有りと云う。凡べて内証の秘密法を了せざる者は皆是れ外道なり」とある文を引き、仏がこの比類すべからざる法を説くゆえに説法もまた無比であるという。固執の徒はこの文に迷謬し、顕乗の菩薩はもとより、顕極究竟の如来に至るまで内証の秘密法を了せざる者は、故に外道に属すべしとし、大過ではないかという。二乗の人は、仏法を行じながら、実はこれが方便の門であることを知らず、菩提心を具えず、縁起の理を知らない。これこそいわゆる内証の秘密法を了せざる者であり、偏邪の見をもって理の外道を行ずるゆえに外道と名づけるのである。諸仏の道は同じであり、顕密・三身に違いがあるとはいえ、ただ機に随い自証を別にするだけである。どうして内証の秘密法を了せざる者と言えようか。下の第三劫の経に初地の徳を讃えて「一切の声聞・辟支仏の地を出過す」といい、一切の菩薩・仏の地を出過すとは言わない。その僻執の徒はこれを見て心痒くはないか。 大師の意に照らせば、伝法の菩薩ですらなおこれを非としない。だから一箇所に「伝法の聖者は、秘密を知らずして顕を伝えるのではない。知りながら相譲るには、まことに由あり」と言い、まして如来においておや。だからまた「他受用身は内証を秘してその境を説かず」と言う。内証を了せざるといえようか。また「応化如来は秘して談ぜず、伝法菩薩は置いて論ぜず」と言う。知らずして秘するのか、知りながら論じないのか。思いを留めて高判を仰げば、昭然として僻執者の膏肓を指しているのがわかる。 また疏の十九に「この法は一切如来の秘密中の秘密、諸の秘蔵の中に最もその上に在り、共に守護して妄りに人に与えず、第一希有難得の法なり。今この諸仏の秘密は一切の外道の知ること能わざる所なり。然るに外道に二種あり。一には世間の種種の外道、二には仏法内に諸の外道あるなり。仏法の中に入りながら、なお如来の秘密を知ること能わざるをもって、なお是れ邪見の心をもって理の外道を行ずるが故に、また外道と名づく。この法は二種の外道の知ること能わざる所なり。この仏法中の外道はすなわち二乗の中の人なり」とある。もし雑問答のようにするならば、秘密中の秘密について不知の人を挙げるのに、顕極の仏を挙げて二乗の中の人と言うのは、上の疏の「凡夫・二乗の二種の外道」という文と首尾符合し、もはや疑う余地はない。しかるに問答の説に贔屓する者は、なお強いて「疏主は台教を学んだので、往々にして大師の高判に違うことがある」と言って破る。雑問答は一に疏釈に拠って、みだりに大乗を外道に属するとして妄見を立てた。なんと粗卒なことか。