◎現等三量
◎現等三量
○現量謂無分別。
現量とは、分別を離れた直接的な認識のことである。
已下三十字入正理論文離名言分別種類分別等故云無分別非全無緣慮用是則明了無分別也。
次の三十字は、正理の論文に入る。名言による分別や種類による分別などを離れているから「無分別」というのであって、全くはたらきがないわけではない。これこそが明らかな無分別である。
○於色等境。
色などの対象について。
境字論為義。
「境という字は、意味を指し示すものです。」
大䟽曰言色等者等取香等義謂境義乃至於色等境上雖無映障若有名種等諸門分別亦非現量故然離分別畧有四類一五識身二五俱意三諸自證分四修定者前記云且如意識與五識同時起亦緣其境不生分別故名現量自證者自證分緣見分之時亦名現量即此見分為自證分境也諸定心者在定之時亦緣其境雖緣境體已其定內亦名現量故皆後之三種亦離分別然理門中唯取五識䟽曰言於色等義是五識故(云云)此四類心唯五識現體非一名為現現各各附自境體離貫通緣名為別轉由此現現各各別緣故名現量又曰現量行離動搖明證眾境親自體故名現量能緣行相不動不搖因循照境不籌不度離分別心照符前境明局自體故名現量。
大疏に言う。「色等」と言うのは、香などをも含む意味であり、「境」ともいう意味である。たとえ色などの境に映る障りがなくても、名・種などの諸々の門による分別があれば、これも現量ではない。さて、分別を離れたものは、おおまかに四類ある。第一に五識身、第二に五俱意、第三に諸自證分、第四に修定者である。先の記に言う。例えば意識が五識と同時に起こり、その境を縁(とら)えても分別を生じないから、現量と名づける。自證分とは、自證分が見分を縁じる時、これも現量と名づける。すなわちこの見分が自證分の境となる。諸定心とは、定にある時、その境を縁じる。境の体を縁じることは已經(すでにおわ)っているが、その定内も現量と名づける。故にすべて後の三種もまた分別を離れている。しかし理門の中では、ただ五識のみを取る。疏に言う。「色などの義に於いては、これは五識だからである」と。(云云)この四類の心のうち、ただ五識のみが現れる体が一つではないことから、「現現」と名づける。各々が自らの境の体に附(つ)き、貫通して縁じることを離れるから、「別轉(別に転ずる)」と名づける。これによって現現が各々別々に縁じるので、現量と名づける。また言う。現量の行は動揺を離れ、明らかに諸々の境を証し、親しく自ら体を照らすので、現量と名づける。能緣の行相は動かず揺るがず、因循して境を照らし、籌(はか)らず度(はか)らず、分別の心を離れて、境に照応し、明らかに自らの体に局限されるので、現量と名づける。
○謂患翳目。
※いわゆる「目を患うこと」である。
二十唯識䟽曰翳是障眼病為緣意見髮等瑜伽論云翳眩者於一月處見多月像景釋眼根識同取多月以是錯亂故非現量是故五根五識有量非量不得皆是現量所攝今解眼識及同緣意識俱取一月而不明了故後尋求意識錯亂取多月眼識等雖不明了而實緣一是故五識但是現量。
『二十唯識疏』にこうある。「翳(もやもやとした目の病気)は視力を妨げる眼病であり、それが縁となって、毛髪などのように見える。『瑜伽論』にはこうある。『翳や眩暈(めまい)がある者は、一つの月のある場所に、多くの月の像を見る。』 これを解釈すると、眼根と眼識が同時に生じて多くの月をとらえるが、これは錯乱しているため、現量(直接的な知覚)ではない。したがって、五つの感官(五根)と五つの認識(五識)には、正しい認識(量)と誤った認識(非量)があり、すべてが現量に含まれるわけではない。
さて、ここでの私の解釈はこうである。眼識と、それに伴う意識(同時に生じる意識)は、一つの月をとらえているが、その認識は明瞭ではない。そのため、後に続く尋求の意識(対象を探し求める意識)が錯乱して、多くの月をとらえてしまうのである。眼識などは明瞭ではないものの、実際にはただ一つの対象をとらえている。それゆえに、五識はすべて現量である。」
○比量謂於所比義有正智生。
比量とは、比較対象となる事柄について、正しい知識が生じることを言う。
真界云比量者謂比擬度量如見烟度火論曰謂藉眾相觀於義相有三種由彼為因於所比義有正智生了知有火或無常等是名比量。
真の世界において、比量とは、比べ推し量ることです。例えば、煙を見て火があると判断するようなものです。論にはこうあります。「比量とは、様々な特徴を拠り所として、その本質を観察することである。その特徴には三種類がある。その特徴を原因として、推し量るべき対象について、正しい知識が生まれ、火があることや無常であることなどを理解する。これを比量という。」
○是近及遠等。
○これらは近くから遠くへと及んでいく。
問云現量比量及念俱非比量體云何名比量答此三能為比量之智以近遠生因故因從果名。
問う:現量・比量、およびその両方ではない「念」について、比量の体とは何をもって比量と名付けるのか。 答え:これら三つは比量の智慧を生じさせるものである。なぜなら、近因と遠因によって生じるからであり、因は果の名によって呼ばれるからである。
○有分別智於境異轉。
分別の智慧は、対象に対して異なった働きをします。
此二句正理論文也境字為義大疏云分別智謂有如前帯名種等諸分別起之智不稱實境別𡚶解生名於義異轉名似現量。
この二句は、正に論の文である。「境」の字は「義」の意味である。『大疏』に云く「分別智とは、前述のように、名や種などの様々な分別によって生じる智のことである。実の境にかなわず、別に誤った解釈を生じることを、『義において異に転ず』と言い、似非現量と名づける」。
○謂見杌為人等。
○木の切り株を人と見間違えることなど、そのようなものです。
已下大䟽釋文見為人至及瓶衣等釋異轉不以本自相至謂為實有釋分別智及瓶衣等大䟽云問如第七識緣第八執我可名非量凡緣瓶衣既非執心何名非量答應知非量不要執心但不稱境別作餘解即名非量以緣瓶心雖不必執但惑亂故謂為實瓶故是非量不以本自相等疏云諸有了瓶衣等智不稱實境𡚶分別生名分別智。
以下は大疏の釈文です。
「人」に至るまで、及び「瓶・衣」などの解釈において、「異転」を説くが、「本自相」に基づかないことから、これを「実有」と為すことについての解説。
分別智及び瓶・衣などについて、大疏に曰く。
問う、例えば第七識が第八識を縁じて「我」と執することを「非量」と名付けることができる。しかし瓶や衣を縁ずる心は執心ではないのに、なぜ「非量」と名付けるのか。
答える、知るべきである。非量は執心を要するものではない。ただ境に相称せず、別に他の解釈を作すことを、すなわち「非量」と名付ける。瓶を縁ずる心は、必ずしも執するわけではないが、惑乱によって実の瓶として為すがゆえに、これ非量である。本自の相などに基づかないのである。
疏に曰く、諸の瓶・衣などの智ありて、実境に相称せず、妄分別を生ずることを、分別智と名付く。
○由彼瓶衣等。
○その壺や衣服などによって(自性が作られることはない)。
以下釋似現量前記云此似現量有兩解第一云但意識緣共相至名似現量者此意但由意識分別作瓶衣解謂自眼見若據實論眼但見望境不見瓶衣即由意識分別作瓶衣解即是第一解但約意識解為非盡理第二解云從又但分別執為實有至名似現量此釋盡理者此意即約執心謂自識現得亦名似現亦者亦上意識。
以下、似現量についての説明である。先に記したように、この「似現量」には二つの解釈がある。
第一の解釈は、「ただし意識が共相を縁じて、これを似現量と名づける」というものである。その意図は、意識が分別を起こして「瓶だ」「衣だ」と解することを指す。実際には、眼はただ対象の形や色を見るのみで、瓶や衣そのものを見るわけではない。つまり、瓶や衣という認識は、意識が分別して作り出したものにすぎない。この第一の解釈は、意識の分別作用にのみ焦点を当てているため、十分に道理を尽くしているとは言えない。
第二の解釈は、「さらに、ただ分別して実有と執する心に至るまでを、似現量と名づける」というものである。この解釈は、道理を徹底したものである。その意図は、執着する心(執心)に基づいて、「自らの識が今まさに得ているもの」もまた似現量とする点にある。ここでの「もまた」とは、先の意識の分別をも含む意味である。
○諸似現量等。
およそ様々な直接知覚なども、同じように理解すべきです。
自下大䟽文也問何名非量耶答迷亂心於現不現前境錯亂分別取不實事心也於此有二類謂執心非量非執心非量也執心非量者緣非我法如執我也乃至非執心非量謂或於非黃生黃解或緣龜毛空華等也。
以下は大疏の文である。問う、何をもって非量と名づけるのか。答える、迷い乱れた心が、現前する境と現前しない境において、錯乱して分別し、不実の事を捉える心である。これには二種類がある。すなわち、執着する心の非量と、執着しない心の非量である。執着する心の非量とは、我ならざる法を縁じて我と執するなどである。さらには、執着しない心の非量とは、あるいは黄ならざるものに黄という解を生じ、あるいは亀の毛や空華などを縁じることである。
○以據決定。
○確かな根拠に基づいている。
此通伏難若似現量在有分別無分別二心何故論文偏約有分別耶通曰論偏云有分別約決定似現量若無分別通現量故約決定者偏云有分別也。
この隠れた難問に対する回答は、あたかも現量のように見える現象についてです。それには、分別を伴う心と分別を伴わない心の二種類があります。それにもかかわらず、論書ではどうして分別を伴う心についてだけ述べているのでしょうか。
答えていえば、論書が分別を伴う心に限定して述べているのは、確実な似現量について言及しているからです。分別を伴わない心は、現量一般に通じるものです。そのため、確実なものを対象とする場合には、特に分別を伴う心についてのみ述べているのです。
○若似因智至似比量。
似たような因(根拠)により、似たような比量(推論)に至る場合について。
入正理文大䟽云似因及緣似因之智為先生後了似宗智名似比量。
似因と似縁についての智慧がまず生じ、その後に似た宗を了解する智慧が生じる。これを似比量と名づける。
○如於霧等𡚶謂為烟邪證有火。
霧の中で、誤って煙と邪(よこしま)なものを見て、そこに火があると証拠だてるようなもの。
解云釋論於似所比諸有智生不能正解名似比量文具文云如於霧等𡚶謂為烟言於似所比邪證有火於中智起言有智生。
解説によれば、論書において「似た推論」とは、推論の対象について、正しい理解が生まれずに、誤った認識が生じることを言う。資料にはこう書かれている。「例えば、霧などを煙と誤って見て、火があると誤って証明し、そのような認識が生じることを、『似た推論によって知が生じる』という」。つまり、似ている対象をあたかも本物のように誤って証拠とし、そこから知が生じることを言うのである。
○是真之流而非真故名似比量。
これは真実の流れではなく、真実に似ているだけなので、「似比量」と呼ばれます。
真指正比量也謂似比量具遠因近因智果三真比量類本邪智故非真比量故云非真。
真の比量(正しい推論)とは、似而非なる比量(似比量)のことである。遠因・近因・智慧・結果という三つの要素を備えた真の比量は、根本となる誤った智慧(本邪智)と同類であるため、真の比量ではない。ゆえに「真ならず」と説かれるのである。