略述法相義依釋卷上
法相の義を略述する釈・巻上
沙門 高範 撰次
沙門高範 撰次
◎八識大旨
○識謂了別為義。
識(しき)とは、「区別して認識する」という意味です。
瑜伽倫記第一曰毗若南此云識了別為義又曰心意識義自有通別別名心意識者頼耶是心以能集起三界生死色心法故末那名意以與六識為同時根生六識六識名識以對六境分別強故二通名心意識謂八識中一一皆有集起名心能生名意了別名識故今㨿通名云了別為義二十唯識䟽謂諸經論所說心意識及了別此四名其體無異但名差別心積集義意思量義識了別義論第二曰了謂了別即是行相識以了別為行相故乃至此了別用見分所攝(此釋第八識行相文也)問見分與了別其體為異為同耶答了別即是見分所攝見分未必了別謂見分之言通心心所了別之言局心王應非全同義燈第四了有二義一緣境名了通心及心所二行相了別非所但王而作意等亦言了者說緣境了非行相了或有單複單言了者即通王所言了別者非所唯王。
瑜伽論の『瑜伽師地論』第一巻には、「毘若南(びじゃなん)」は、ここでは「識」と訳され、対象を了別(りょうべつ)することがその意味である、と述べられている。また、「心」「意」「識」という言葉には、本来、通(広い意味)と別(狭い意味)の違いがあると説かれている。
別の意味として言えば、「心」とは阿頼耶識(あらやしき)を指し、これは三界の生死・物質的・精神的な一切の法(現象)を集め生み出すはたらきがあるからである。「意」とは末那識(まなしき)を指し、六つの識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)にとって同時に生じる基盤(根)となり、六識を生み出すからである。「識」とは、眼識などの六識を指し、六つの対象(色・声・香・味・触・法)を認識して、はっきりと分別する力が強いからである。
二つ目に、通(広い意味)で「心・意・識」と言う場合、八つの識(前五識・第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識)の一つひとつに、すべて、集め生み出すはたらきとしての『集起(しゅうき)』、生み出すはたらきとしての『能生(のうしょう)』、対象をはっきりと認識するはたらきとしての『了別』が備わっている。このため、ここでは通(広い意味)の立場に基づき、「了別することが意味である」と説いている。
『二十唯識論疏』(にじゅうゆいしきしょ)には、諸々の経典や論書で説かれる「心」「意」「識」、および「了別」というこの四つの名称は、その本体としては違いがなく、ただ名前の上での区別に過ぎないと述べられている。「心」は積集(現象を積み集める)の意味、「意」は思量(常に思いはかる)の意味、「識」は了別(対象をはっきりと認識する)の意味である。
『唯識論』第二巻には次のようにある。「了(りょう)とは対象を了別することであり、これが行相(行動の様相)である。識は、対象を了別することを行相とするからである。(中略)この了別のはたらきは『見分(けんぶん)』に含まれる」(これは第八識(阿頼耶識)の行相を説明した文である)
問う。『見分』と『了別』は、その本体が異なるのか、それとも同じなのか。
答える。『了別』は『見分』に含まれるものである。しかし、『見分』は必ずしも『了別』とは限らない。なぜなら、『見分』という言葉は心王(認識の主体)と心所(心のはたらき)の両方に通じて用いられるが、『了別』という言葉は心王だけに限られるからである。したがって、完全に同じとは言えない。
『義燈』(ぎとう)第四巻には、「了」には二つの意味があると説かれている。
第一に、対象に触れる(縁じる)ことを「了」と名づける場合があり、これは心王と心所の両方に通じる。 第二に、はっきりと認識する行相(行相の了別)を指す場合があり、これは心王に限られ、心所には及ばない。そのため、作意(注意)なども「了」と言われることがあるのは、対象に触れる(縁じる)という了(認識)のことであって、行相としての了(認識)ではない。
また、「了」という一字だけで用いられる場合には、心王と心所の両方に通じるが、「了別」と二字で用いられる場合には、心王だけに限られ、心所には及ばないのである。
○一眼識者。
○一眼識とは何か。
䟽曰眼是所依而體是識依眼識識名眼識從所依得名。
眼は、認識の拠り所となる器官です。その本体である識(認識する心の働き)が、この眼を拠り所として成り立っています。このような眼の識を「眼識」と呼びますが、これは拠り所(眼)の名前を取って名付けられたものです。
○乃至第六亦然。
そして、第六識に至るまで、そのとおりである。
㤗云大乘中如眼識於一念間取青黃等多色境界有青黃等多種行解取相各異互不相違廣說乃至意識亦爾備云婆沙第三師義當此論眼識取色有四師解如倫記第十三說。
大乗仏教では、例えば眼識が一瞬のうちに青や黄などの多くの色の対象を捉える際、青や黄など様々な行解(はたらき)があり、捉える相はそれぞれ異なるが互いに矛盾しないと説かれています。広く説けば、意識も同様です。
備(ふび)師は、『婆沙論』の第三の師の義がこの論に当たるとし、眼識が色を捉えることについて四師の解釈があると述べており、これは『倫記』第十三に詳しく説かれています。
○清淨色。
清らかな物質
瑜伽論曰諸色自相有三種一清淨色二清淨所取色三意取色謂四大種所造五識所依五清淨色眼等處攝名清淨色。
瑜伽論にこう説かれています。物質(色)の自相には三種類あります。 第一に「清浄色」(感覚器官そのもの)。 第二に「清浄が捉える色」(感覚器官が対象とする外界の物質)。 第三に「意識が捉える色」(心で思い描くイメージ)です。
つまり、四大元素から作られ、五つの認識(五識)がよりどころとする五つの清浄な器官(眼・耳・鼻・舌・身)を「清浄色」と言います。
○以果知因等。
○結果から原因を知る、など。
演秘二云𪵬明此知畧有四種一以因比果二以果比因三以體比用四以用比體以果知因果發識也是心法因根義是色法也是則異類因果果心法因色法故。
『演秘』(第二巻)にこのように説かれている。 この「比知(推測して知ること)」には、おおまかに四つの種類がある。
第一に、原因から結果を推し量ること。 第二に、結果から原因を推し量ること。 第三に、本体から働きを推し量ること。 第四に、働きから本体を推し量ること。
「結果から原因を知る」とは、例えば「識(心の働き)」を因として、果として「根(感覚器官・肉体)」が生じるという理解である。 これは、原因と結果の種類が異なる場合にあたる。つまり、心(識)が原因であり、色(物質・肉体)が結果であるということだ。
○由用比體者。
○「はたらき」によって「すがた」を明らかにするということは、
發識取境根用由發識用比知定應有根體也。
認識が生じるとき、その対象(境)を捉える基盤としての「根」の働きによって、認識は引き起こされます。認識の働きを比べ推察することで、必ず「根」という本体が存在すると確定すべきです。
○顯形表。
姿や形として現れたもの。
瑜伽論曰顯有十三謂青黃赤白影光明闇雲烟塵霧空一顯色形色有十種謂長短方圓麤細高下若正若不正表色八謂取捨屈申行住坐臥倫師云今依大乘唯有三句一顯非形青等十三二形非顯者長等十色三俱非句者無表色。
瑜伽論にはこう説かれています。「明らかに示される色には十三種ある。すなわち、青、黄、赤、白、影、光、明、闇、雲、煙、塵、霧、空(虚空の色)である。形の色には十種ある。すなわち、長、短、方、円、粗、細、高、下、正(整った形)、不正(整っていない形)である。表(動作)の色には八種ある。すなわち、取る、捨てる、伸ばす、曲げる、行く、止まる、座る、臥すである。」
倫師はこう述べています。「現代の大乗仏教の教えに従えば、この三つの句(分類)だけがある。第一に、『顕(見える色)であって形ではないもの』、すなわち青など十三種。第二に、『形であって顕ではないもの』、すなわち長など十種。第三に、『どちらでもないもの、すなわち無表色(外面に表れない色)』である。」
○影光。
影のように現れ、光のように消えゆく。
倫記曰影與闇別者真諦釋俱舍云如雲障日成陰餘色於中猶顯現可見說為影須彌障日成陰餘色於中隱不可見名闇灮與明別者如俱舍云日炎名灮星月火藥寚珠電炎稱明長短與高下別者長短據四邊高下據處中謂中凸名高中凹名下也。
『倫記』にこうある。 影と闇の違いについて、真諦(しんだい)が『倶舎論』を解釈して言うには、 「雲が太陽を遮ってできる陰を影という。この中では、他の色がまだはっきり見える。一方、須弥山が太陽を遮ってできる陰は闇である。この中では他の色が隠れて見えない」と。 灮(ひかり)と明(あかり)の違いについて、『倶舎論』にこうある。 「太陽の炎を灮(ひかり)といい、星・月・火・薬・宝珠・稲妻の炎を明(あかり)という」と。 長短と高下の違いについて、長短は周囲の高低によるもので、高下は中央の状態によるものである。つまり、中央が盛り上がっているのを高といい、中央がくぼんでいるのを下という。
○四顯色實餘色皆假。
四つの顕色(青・黄・赤・白)が実在し、その他の色はすべて仮の存在である。
畧纂云除青黃赤白外餘顯形表色皆是根本四色差別依四根本色立餘差別故皆是假立論五十四問長短等所說形色當言實有為假有耶答當言假有何以故積集而住故名形唯有眾色可得餘形色相不可得故又必相待相待法有自性者彼有雜亂過失如車等彼覺可壞故倫師解曰雖無細微積聚而有麤青等積集成形言襍亂過者以有一法亦長亦短過故又如車等彼覺可壞者如取輪軸時失彼車等以相待故同學云積短為長失本短相下長為短亦失本長既長短無定相假境義炳然也。
<要約>「青・黄・赤・白以外の残りの顕色(見える色)や形色(形)は、すべて根本の四色(青・黄・赤・白)の違いによって立てられたものである。四つの根本色に基づいて他の色の違いが成立するため、これらはすべて仮に立てられたもの(仮有)である。
論(『倶舎論』)第五十四問:長さや短さなどと言われる形色は、実際に実在するのか、それとも仮に存在するのか。 答え:仮に存在すると言うべきである。なぜなら、(形は)積み集まって存在するから「形」と呼ばれるのであって、ただ多くの色(青などの顕色)が認識されるだけで、それとは別に形色という実体は得られないからである。また、必ず互いに対比して(長短などが)存在する。対比される法に自性(固有の実体)があるとすれば、混乱の過失が生じる。例えば「車」などの認識は、その部分(車輪や車軸など)を取れば壊れてしまうからである。
倫師の解説:微細な積聚(積み重なり)はないけれども、粗い青などの顕色が積み集まって形を成すのである。「混乱の過失」とは、一つの法が長くもあり短くもあるという過失が生じるからである。また「車などの認識が壊れる」とは、車輪や車軸を取れば、それらを「車」という認識は失われる。互いに対比に依存するからである。
『同学』の言:短いものを積み重ねて長さを作れば、もとの短いという性質は失われる。下が長ければ、短いものもその長さを失う。長短に定まった相(姿)がない以上、仮の境(認識対象)であることは明らかである。」
○眼識所緣唯是實境。
眼識が認識する対象は、あくまで現実の実体あるものだけです。
同學曰未轉依五識必緣實境䟽曰唯取五識一向緣實問假境何識緣之耶答三重轉五俱意緣之。
問う。『未轉依の五識は必ず実境を縁ず』とあるが、仮の境はどの識が縁ずるのか。 答う。三つの重ねで言えば、五識と共に働く意識がそれを縁ずる。
○響聲。
(響きわたる声)
倫記曰今此論及對法所列聲中皆無響聲唯顯揚說彼云或依託崖谷所發響聲此中據法師云因受等三是有體聲餘竝假有是差別故。
倫記によれば、この論や対法に挙げられている「声」の中には、「響き」は含まれていない。ただ、顕揚においては「あるいは崖や谷に依って発する響きの声」と説かれている。このことについて、基法師の説では、「因・受・等の三つは実体のある声であり、その他は仮のものとして存在する声である。これは、その違いによるものである。」とある。
○平等香。
平等の香り。
倫曰此有二解一云依四諦論解正量部香有三種香臰平等平等者無臰香也一云長養根大名為好香損害名惡無前二用名平等香。
倫が述べるには、これには二つの解釈がある。一つは、『四諦論』に基づけば、正量部では香には三種類あると解される。香り、臭い、そして平等である。平等とは、臭くも香りもないことである。もう一つは、根(鼻)を長養し大いなるものとするのを「好香」と名づけ、損ない害するのを「悪香」と名づけ、前の二つの働きがないものを「平等香」と名づける、というものである。
○味謂苦酢。
苦味や酸味のことである。
又曰味中苦酢等六是實餘可意味等假。
また、味には苦みや酸っぱさなどの六つの味が実在すると言うが、その他は仮のものに過ぎないと意味づけることができる。
○空行風中無俱生香等者。
風の中には、それ自体として生まれつき備わった香りというものは存在しません。
倫曰辨空行風無根本俱生之香但有假名如風過華香逐風來。
倫が問うた。「空を行く風には根がなく、生まれつきの香りもありません。ただ仮の名前があるだけです。風が花の香りを運ぶように、香りは風に従ってやって来るのです。」
○身者積聚及依止義。
身体とは、「積み重ね」や「よりどころ」という意味です。
䟽云身者諸大造等合聚名身或依止名身即一形之總稱。
「身」とは、様々な大きな構成要素が集まってできたものを「身」と呼びます。また、よりどころとなるものを「身」といい、これは一つの形の総称です。
○諸根大造等者。
諸々の五根と四大・極微などについては(略)。
已下通伏難此五根章文諸字上有雖字意云若以積聚依止義名身眼根等亦可名身有積聚依止義故通云雖眼根等有積聚依止義彼為少分法依止積聚故不名身獨身名身。
さて、以上の難問に答える。 この「五根」の章の文において、諸々の字の上に「雖(いえども)」の字が置かれている意味は次の通りである。 もし「積聚」と「依止」の義をもって「身」と名付けるならば、眼根などもまた「身」と名付けることができる。なぜなら、それらにも積聚と依止の義があるからである。 これに通じて答えて言う。「眼根などにも積聚と依止の義があるけれども、それらは少分の法だけを依止とする積聚である。そのため「身」とは名付けない。ただ「身」だけが「身」と名付けられるのである。」
○謂滑性等。
滑らかさなどの性質のことです。
瑜伽五十四云若觸處中所說造色滑乃至勇當知即於大種分位假施設有謂於大種清淨性假立滑性於大種堅實性假立重性於大種不清淨不堅實性假立歰性及輕性於大種不清淨慢緩性假立輭性由水與風和合生故假立有泠由闕任持不平等故假立飢渴及弱力由無所闕無不平等故假立強力及飽由由不平等變異錯亂不平等故假立病由時分變異不平等故假立老由命根變異不平等故假立死由血有過患不平等假立癢由惡飲食不平等故假立悶絕由地與水和令生故假立黏由徃來勞倦不平等故假立疲極若遠離彼由平等故假立憩息由除垢等離萎顇故假立勇銳如是一切說諸大種總有六位謂淨不淨位堅不堅位慢緩位和合位不平等位平等位景師云二十種觸竝於四大分位假立基云此中解觸有十九種如對法有二十二種無急緩劣三何以無者畧也不立生為觸所以如四相中病老是一今此何故分二耶今此非四相不例也其死觸者從果為名即身上有末摩死近之時今身即死此觸從果為名老觸亦然此觸能生老等名老觸。
『瑜伽論』巻五十四には次のように説かれている。もし触処において説かれるところの「造色」、すなわち滑らかさから力強さに至るまでのものは、これらはすべて、四大種(地・水・火・風)のあり方の区分に基づいて、仮に施設されたものであると知るべきである。すなわち、大種の清らかな性質によって仮に滑らかさを立て、大種の堅固な性質によって仮に重さを立て、大種の清らかでも堅固でもない性質によって仮に粗さと軽さを立て、大種の清らかでなく緩やかな性質によって仮に柔らかさを立てる。水と風とが和合して生じるから、仮に冷たさがあると立てる。支えとなるものが欠け、平等でないことによって、仮に飢え・渇き・弱さがあると立てる。欠けるところなく、平等でないこともないことによって、仮に力強さと満腹があると立てる。不平等によって変化が起こり、乱れて平等でないことによって、仮に病があると立てる。時の区切りの変化によって平等でないことによって、仮に老いがあると立てる。命根の変化によって平等でないことによって、仮に死があると立てる。血に過患があり平等でないことによって、仮にかゆみがあると立てる。悪い飲食によって平等でないことによって、仮に気絶があると立てる。地と水とが和合して生じさせることによって、仮にねばりがあると立てる。行き来の疲れによって平等でないことによって、仮に疲れ果てがあると立てる。もしそれから遠ざかり、平等であることによって、仮に休息があると立てる。汚れを除くなどして、萎れや衰えを離れることによって、仮に勇ましさ・鋭さがあると立てる。
このように、すべての諸大種には、総じて六つの位があると説かれる。すなわち、清らかな位と清らかでない位、堅い位と堅くない位、緩やかな位、和合した位、平等でない位、平等な位である。
景師(唐代の僧・神泰)は次のように言う。「二十種の触は、いずれも四大種の分位に基づいて仮に立てられたものである。」
基師(唐代の僧・窺基)は次のように言う。「ここでの触の解説は十九種である。『対法論』(『阿毘達磨雑集論』)には二十二種あり、急・緩・劣の三つがない。なぜないのか。略したからである。生が触として立てられない理由は、四相において病と老が同一であるのと同じである。では、今ここでなぜ病と老を分けるのか。ここでの(触の)老は四相の老とは同列ではないからである。末摩触は、その結果に基づいて名づけられる。すなわち、身体に末摩(急所)があり、死が近づくとき、この身体はまさに死ぬ。この触はその結果(死)に基づいて名づけられる。老触もまた同じである。この触は老いなどを生じさせるから、老触と名づけられる。」
○心法。
心法について
四分義私記曰問其以心法為相分義如何答如後念意識緣前念心又他心智證他人心也故。
四分義私記に曰く、問う、心法を相分とするその意義は如何。答う、後の念の意識が前の念の心を縁ずるが如く、また他心智が他人の心を証するが故なり。
䟽云或別人心或前後心。
注釈書には、「他人の心」や「前後の心」という説があります。
○定位意識唯是現量。
さとりに向かう心は、ただ直接的な気づきそのものである。
因明大䟽曰然有二類一定位二散心定心徵湛境皆明證隨緣何法皆名現量一切散心若親於境冥得自體亦皆現量。
『因明大疏』にこうある。しかし、二つの種類がある。一つは定心(静まった心)、二つ目は散心(散乱した心)だ。定心が澄みきった境地をさとるとき、すべてが明らかに証される。縁にしたがってどんな法であっても、すべて現量(直接的な認識)と名づけられる。散乱した心であっても、もし対象に直接触れてその自らのすがたを得るならば、それもまたすべて現量である。
○與五俱意或唯現量。
○五つの心と俱にある意は、あるいは現量のみである。
今謂集量論說五識同時意識是現量故同學抄云且約五同緣邊而已(云云)。
今、集量論に説くところによれば、五識と同時に生じる意識は現量であるとされています。そのため、同学抄には「ひとまず、五識と同一の対象を認識する場合についてだけ述べている」とあります。
○或通現比等。
あるいは、これらの世界が現れ出ることもある。
此約五俱意同時緣十八界也望與五識同緣五塵通現量或約緣五根邊通比或約緣不相應法邊通非不相應法其體色心二法而不緣色心緣得等是則於境異轉也五俱意通三量為一念耶為前後耶有兩諍也笠置上人以一念通三義為正松室上人以前後通三義為正同學八云於五俱意頓緣十八界質相見各有十八許一念類境許一念三量者蓋此謂也。
五つの意識と同時に生じる心が、十八界を同時に認識する場合について述べる。 五つの感官意識と同じ対象(五つの感覚対象)を認識する場合は、現量(直接知覚)に該当する。 また、五つの感官に基づく認識の場合は比量(推論)に通じる。さらに、心と関係しない法(不相応法)を対象とする場合には、非心・非色の「得」などの法を認識するため、対象によって心の働きが異なってくる。
この五つの意識と共に生じる心の認識は、一瞬のうちに三つの認識様式(現量・比量・非量)を兼ね備えるのか、それとも時間的前後をもって三つの認識様式を備えるのか、二つの見解がある。
笠置上人は、一念の中に三つの認識様式が備わるとの立場を正しいとし、松室上人は、前後して三つの認識様式を備えるとの立場を正しいとしている。
学匠の八は次のように述べている。五つの意識と共に生じる心が、瞬時に十八界を認識する場合、認識する主体の「質(しつ)」と認識される対象の「相(そう)」には、それぞれ十八の種類がある。一瞬のうちに多くの対象を認識すること、および一瞬のうちに三量(三つの認識様式)を備えることとは、おそらくこのことを指すのであろう。
○七末那識。
七番目は、末那識です。
䟽曰於聖教中別名末那總名識故末那是意故蕳後心前識但立意名恒審思故。
疏に曰く、聖教において別に末那と名づけ、総じて識と名づく。末那はすなわち意であるが故に、後の心・前の識を簡別して、ただ意の名を立てる。恒に審らかに思うが故に。
○此翻云意思量為義。
この翻訳では、「思量」を意味と解釈することを義としています。
䟽云意有二義一思量義二依止義常恒緣第八見分思慮量度自內我。
疏には、その意味に二つの働きがあると説かれています。第一に、思い計る働き。第二に、よりどころとなる働きです。常に第八識の見分に寄り添い、思い計り推し量って、自己の内なる「我」とするのです。
○緣於種子有根身器界。
種子があれば、そこから根(感覚器官)や身体、そして外界の世界が生じます。
倫記云唯識說第八識緣執受處即諸種子及有根身器世間等對法論說緣五色根四塵一分除聲五十五說緣五色根五外分理實亦緣聲然對法論且說恒相續境故不取聲。
『倫記』では、唯識の説として、第八識(阿頼耶識)が認識する対象は、執受と処であると述べています。すなわち、すべての種子、諸々の五根(感覚器官)を備えた身体、そして器世間(物質的な世界)などです。
一方、『対法論』では、第八識が認識する対象は五色根(五つの感覚器官)と、四塵(色・味・香・触)の一部であり、声を除くと説かれています。また、五十五の箇所では、五色根と五つの外境(色・声・香・味・触)すべてを認識するとされています。
理からすれば、実際には声も認識の対象に含まれるはずです。しかし、『対法論』では、あくまでも常に連続して存在する境(認識対象)に焦点を当てて説明しているため、声を除いて述べているのです。
○何為種子。
種子とは何か。
成唯識論云諸種子者謂諸相名分別習氣䟽云即是一切有漏善等諸法種子下解五位中此三唯有漏論說非無漏無漏種子此識既不緣但為彼依故非執受等相名分別者唯識論曰有漏心心所變似所詮名為相似能詮現施設為名能變心等立為分別其體則是名相分別習氣也由彼彼緣此習氣生現行果譬如草木種生其芽也。
『成唯識論』にこう説かれています。「いわゆる諸々の種子とは、諸々の相、名、分別の習気(潜在的な影響力)のことである。」
疏(注釈書)にはこうあります。「これはすなわち、一切の有漏(煩悩に染まった)善など諸々の法の種子のことである。下に述べる五つの位の中において、これら三つは有漏のみである。論では、『無漏(煩悩を離れた清らかな)種子にはあたらない。この識は無漏種子を直接の対象としないが、ただそれらのよりどころとなるのであって、執受(対象として把握すること)などの性質を持つわけではない』と説かれている。」
「相」「名」「分別」とは、『唯識論』にこうあります。「有漏の心と心所が変化して、そこに示される対象(所詮)に似せて表すものを『相』(形象)と名づける。また、それを示す働き(能詮)を仮に『名』(名称)と設定する。そして、それらを変化させる心などを『分別』(区別する心の働き)と立てる。その本体こそが、『相』『名』『分別』の習気(潜在力)なのである。」
さまざまな縁(条件)によって、この習気から現在の結果(現象)が生じるのは、ちょうど草木の種から芽が生じるようなものである。
○謂本識中親生自果㓛能差別。
いわゆる根本識(阿頼耶識)の中には、直接そのものの結果を生み出す独自のはたらき(機能)の違いが存在する。
䟽述曰此出體言本識者顯種所在蕳經部師色心等持種親生自果蕳異𤏅因望所生果非種子故要望自品能親生故㓛能差別蕳現行七轉識等望所生種雖是因緣亦親生果是現法故非名㓛能故以㓛能顯種子相今謂㓛能言蕳現行七轉識何故不蕳第八現行耶答於為因緣者蕳之故不蕳第八現行第八非能熏故於親生自果義中蕳非㓛能故。
疏が述べる。「これは本識の体を示す。『本識』という言葉は種子の所在を示し、経量部の説くような色心などが種子を保持するという見解を簡別する。種子とは、それ自身の結果を直接生み出すものである。これは、異熟因が生み出す結果に対して、種子とは呼ばれないことからも明らかである。種子は必ず自らの同類の法に対して、直接生み出す能力を持つ機能の差別である。これは、現在の七転識などが、生み出す種子に対して因縁であり、直接結果を生み出すものであっても、それが現在の法であるため機能とは呼ばれないことからも分かる。ゆえに、『機能』という言葉で種子の相を明らかにするのである。
問う:『機能』という言葉は、なぜ現在の七転識を簡別するのに、第八識の現在の働きを簡別しないのか。
答える:因縁となるものに対して簡別するからである。第八識の現在の働きは、能熏ではないため、『自らの結果を直接生み出す』という意味において、機能ではないことが簡別されるのである。」
○此與本識及所生果不一不異。
これは根本となる識と、そこから生じる結果とのあいだで、同じものでもなければ、別のものでもない。
第二一異分別門述曰種望所依及所生果為不一異此即立宗何所以然。
第二一「異分別門」の章において述べるには、種がその依り所(所依)と、それが生み出す果(所生果)との関係において、一でもなく異でもない、と主張する。これが立宗である。なぜそうなのか。
○體用因果理應爾故。
○ 体と用、原因と結果の理は、本来そうあるべきものだからです。
述曰本識是體種子是用種子是因所生是果此之二法理應如是不一不異。
解説:根本となる識(阿頼耶識)は体(本体)であり、種子(潜在的な力)はその働きです。種子は原因として働き、そこから生じるものが結果です。この二つの法(真理の要素)は、本来、一つでもなく、別々でもないという性質を持つべきなのです。
○雖非一異。
○一と異、二つの見方は共に否定される。
第三問答辨假實門如生望法非一異即說生為假種望於法非是一異種子應非實泉抄生起問云今大乘意種子與本識不一異者種子如生住等四相望法非一異說其體假種望本識非一異故假應非實今為答此云雖非一異等䟽云生等假法如龜毛等體是無法非因緣故種子望法即是因緣故云體實有。
第三の問答は、仮と実を弁別する門である。
例えば、「生」という法(現象)を「法」という全体から見ると、「一」でも「異」でもない。そのため、「生」は仮のものであると説かれる。では、種子(潜在的な原因)を「法」(本識)という全体から見ると、これも「一」でも「異」でもない。それならば、種子もまた仮のものであって、実在ではないことになるのではないか。
『泉抄』には、この問いが次のように記されている。「今、大乗の意では、種子と本識とは一でもなく異でもないとされる。では、種子が生・住・異・滅の四相のように、法に対して一でも異でもないことから、その体は仮のものであると説かれるのと同じように、種子も本識に対して一でも異でもないのだから、仮であって実ではないのではないか。」
これに対して、今ここで答えよう。「たとえ一でも異でもないとしても、必ずしも仮とは限らない」と。
『疏』には次のようにある。「生などの仮の法は、亀の毛や兎の角のようなもので、その体は無であり、因縁によるものではない。しかし種子は、法に対して因縁である。だから、その体は実有であると説かれる。」
○漏無漏種各有二類。
○漏と無漏の種子には、それぞれ二つの種類があります。
論第二有三義一者唯本有種護月云種子本有由新熏發方生故名為新二者唯新熏種難陀云本識親種無始新熏不能自得異熟果要由淨業新熏招集方乃能生故名為新勝軍亦同三者新古合成護法云名言及業種各具法爾新熏然其名言種子雖復法爾舊成無有支熏不能得果新舊合用其果方生望業招果與其新名各有二類下舉護法正義倫記云測述西國三釋一依護法云以本有法爾無漏種子能生一切無漏現行是故初地已上無漏現行皆有因緣或有地前新熏種子是有漏故但是增上緣初地已上新熏無漏種子望彼現行無漏亦得作因緣以是無漏故二護月云唯有法爾種子即用此種子為因緣生現行無漏三勝軍云唯有新熏今此論又就可生義說為種子。
論の第二には、三つの意味がある。
一、ただ本有の種子のみとする立場。 護月は言う。「種子は本有であり、新たな熏習によって発現し生じるから、『新』と名付ける。」
二、ただ新熏の種子のみとする立場。 難陀は言う。「本識の親しい種子は、無始より新たに熏習されたものである。自ら異熟の果を得ることはできず、清らかな業による新たな熏習によって招集されて初めて生じる。ゆえに『新』と名付ける。」勝軍も同じ見解である。
三、新と古を合成する立場。 護法は言う。「名言の種子と業の種子は、それぞれ法爾(自然)のものと新熏のものを備えている。しかし、名言の種子は法爾として古くから存在していても、有支(業)の熏習がなければ果を得ることができない。新と古が合わさって初めてその果が生じる。業が果を招くことに関しては、『新』という名を与える。」それぞれに二つの種類がある。以下に護法の正しい義を挙げる。
『倫記』に云わく。「測りに、西域の三つの解釈を述べる。 一、護法に依れば、本有の法爾としての無漏の種子が、一切の無漏の現行を生じさせる。ゆえに初地以上における無漏の現行には、すべて因縁がある。あるいは地前における新熏の種子は有漏であるため、単に増上縁となる。初地以上における新熏の無漏の種子は、その現行の無漏に対して因縁となり得る。なぜなら無漏だからである。 二、護月に依れば、ただ法爾の種子のみが存在する。すなわち、この種子を因縁として、無漏の現行を生じさせる。 三、勝軍に依れば、ただ新熏のみが存在する。」
今この論では、さらに「生ずる能い」という意味に基づいて、「種子」と説いているのである。
○諸有情無始時來等。
すべての生きとし生けるものは、はるか遠い昔から同じように迷いの中に生きてきたのです。
䟽云自下第三申其正義應信本有無漏種子至解脫分善根已厺名勝進位但熏增長。
以下第三節では、その正しい意味を述べる。本来、生まれながらにして煩悩を離れた清らかな種子が備わっていることを信じるべきである。解脱に向かう善の根に至った後は、これを「勝進位」と呼び、ただその種子を熏習し成長させるのである。
○熏今增長。
○心に染みついたものは、今さらに強まっていく。
䟽云種解脫分善根已厺聞正法時由現行有漏及自因緣所熏有漏種為增上緣令其本有無漏種子亦得增長展轉增勝即以所增無漏勝種後時正生出世之心亦說無漏所增長種名聞熏習。
疏に曰く、「解脱分の善根を種と為すは、既に正法を聞く時、現行の有漏及び自らの因縁によって熏ぜられた有漏の種を増上縁として、その本有の無漏の種子をも成長させ、展転して勝れるを増す。すなわち、その増した無漏の勝れた種をもって、後時、正しく世を出づる心を生ず。また、無漏の成長した種を聞熏習と名づく、と説く。」
○復熏成種。
再び熏習されて種子を形成する。
謂入見道且如無漏既有本有及與新熏有漏法種子類此可悉問有漏無漏相違法云何有漏聞熏令增長無漏種子耶答流轉位分別俱生二障覆伏無漏種子不令得自在然初發心住位發深固大菩提心以來修有漏六波羅密善根及如實尋思觀依之無漏種子少得自在是名增長雖有漏聞熏及有漏觀其體善法故令無漏種子與力自在也。
見道に入るについて考えてみると、例えば無漏の法には、本来備わっているもの(本有)と新たに熏習されたもの(新熏)の両方が存在します。有漏の法の種子についても、これと同様に理解することができます。
問う:有漏と無漏は性質が相反するものなのに、どうして有漏の聞熏によって無漏の種子を増長させることができるのでしょうか。
答える:輪廻している間は、分別によって生じる煩悩と俱生の煩悩の二つが覆い隠し、無漏の種子が自在に働くことを妨げています。しかし、最初に発心して住位に達した時から、深く固い大菩提心を起こして以来、有漏の六波羅蜜の善根を修め、また如実に真理を観察する(如実尋思観)によって、無漏の種子は次第に自在さを得るようになります。これを増長と言います。たとえ有漏の聞熏や有漏の観行であっても、その本体は善法であるため、無漏の種子に力を与え、自在に働かせることができるのです。
○有根身。
ある身体がある。
䟽云總身之中有別根故名有根身等。
疏に言う、総身の中に別根あり。故に有根身と名づく等。
○扶塵根。
扶塵根(触覚の器官)とは、私たちが物理的な感覚を受け取る身体の器官のことです。
倫云扶根是眼之處世俗呼之為眼故即扶五根色香味觸之四境也。
眼根とは、いわゆる眼球の部分を指し、世間一般ではこれを「眼」と呼んでいます。同じように、五根(眼・耳・鼻・舌・身)に付随している四つの境、すなわち色・香・味・触(身体で感じるもの)のことです。
○器界。
○器の世界(環境世界)について
謂如世器領納諸物山河大地能納有情故名器界者差別義欲界等界種種差別故。
例えば、世の中の器が様々な物を受け入れるように、山河や大地もまた多くの命を包み込んでいます。このことから「器界」と呼ばれます。「界」という言葉には、違いを表す意味があります。欲界などの異なる世界には、それぞれ様々な違いがあるからです。
○具有能藏所藏執藏義故。
「能蔵・所蔵・執蔵」という三つの意味を備えているからです。
䟽曰能藏所藏執藏義故為襍染法互為緣故我見緣故此文襍染能所藏中唯有能藏令襍染等法不失故我愛緣之為執藏義即識為所藏。
疏に曰く、「能蔵・所蔵・執蔵の義故に、雑染法の互いに縁となる故、我見の縁となる故なり。この文において、雑染の能蔵・所蔵の中には、ただ能蔵のみが雑染などの法を失わしめざる故に、我愛のこれを縁として執蔵の義となる。すなわち識の所蔵と為す。」
○為雜染互為緣故。
雑染(煩悩や汚れ)は互いが互いの原因となって生じるのです。
䟽云解能所藏諸有漏法皆名襍染非唯染法梵云僧吉𮀉此名襍染若不云僧即唯染也有云就互為緣秘有三釋一者第八現所持種相望互為緣也謂第八持種時種為所藏現第八為能藏也此義現第八因種果也亦此種生第八現種為能藏現第八為所藏也此義種因現第八果也如是互為緣也今謂秘三釋中初釋為勝此論文下䟽無互為緣釋能持染種至此識為所藏文釋與襍染互為緣故論文文依此釋文解互為緣故云襍染通有漏三性法現行種子第八為雜染種子為緣能持襍染現行法為第八為緣能熏種子故云互為緣故初能藏義次所藏義也。
疏に云く、「能所」を解す。諸々の有漏法を全て「雑染」と名づく。染法のみに非ず。梵語に「僧吉𮀉」と云うは、これを「雑染」と名づく。「僧」を云わざれば、即ち唯だ染法のみなり。
ある説に云く、互いのために縁と為すことを就いて、秘に三釈あり。一者、第八現が持する所の種と相望めて、互い為に縁と為す。謂わく、第八が種を持する時、種は所蔵、現第八は能蔵と為す。此の義は、現第八は因、種は果なり。また此の種、第八現を生ずる時、種は能蔵、現第八は所蔵と為す。此の義は、種は因、現第八は果なり。是くの如く互いに縁と為す。
今謂わく、秘の三釈の中、初めの釈を勝と為す。此の論文の下の疏には、互いに縁と為す釈無し。「能持染種、至此識為所蔵」の文に於いて、「と雑染と互いに縁と為す」故に、論文の文、此の釈に依りて文を解き、互いに縁と為す。故に「雑染」と云うは、有漏の三性の法に通ず。現行・種子、第八が雑染の種子の為に縁と為し、能く雑染の現行法を持す。第八が為に縁と為し、能く種子を薫ず。故に「互いに縁と為す」と云う。故に初めは能蔵の義、次は所蔵の義なり。
○有情執為自內我故。
○生きとし生けるものは、それを自分の内なる「私」と捉えるからです。
䟽曰解執藏義唯煩惱障義非所知障義不爾無學應有此名此不別執為其我所及與他我名自內我。
疏に言う。「執蔵」の義を解するに、これは煩悩障の義であって、所知障の義ではない。もしそうでなければ、無学(阿羅漢)もこの名を持つべきことになる。この「我」は、別して「我がもの」と執着されるわけではなく、また「他我」と執着されるわけでもなく、「自身の内なる我」と名づけられるのである。
○內緣相續。
内なる縁は、断絶することなく続いていく。
解云唯內緣局第七第八一分通外緣器界故。
説明しますと、「内縁」だけに限られるのは第七識と第八識の一部です。第八識の一部は外の縁、つまり器界(物質的な世界)にも通じているからです。
○第七非量。
第七は、「非量(誤った認識)」です。
解云唯見分非量轉自證分現量也。
解説:ただ見分だけが非量として働き、自証分は現量である。